2020年2月3日月曜日

病理の話(410) 科学に対する信頼

自分にとってはかなり難しいことを書こうと思うので、みなさんは適当なところで今日の仕事に戻ってくれればと思う。


科学というのは時間と共にどんどん整備されていく。

かつて教わったのは、「真実」というものがどこかにあって、そこに漸近線のように少しずつ近づいていくのが科学なのだという話だ。時間経過とともに、科学はどんどん真実に近づいていくのだが、決して真実と交差することはない。ただし必ず真実に近づいていく、そういうイメージでいる、という科学者の話を聞いたことがある。

しかし最近はどうもそうではないんじゃないかな、と思うようになってきた。

「真実」というのがあるとしたらそれをコインに例えよう。世の中は、そのコインに、白い紙を一枚かぶせた状態である。ただ紙を眺めてもウラにあるコインが何円のコインなのか、そもそも日本のコインなのか、というかそもそもコインなのかどうかすらわからない。なので、紙のこちら側にいるぼくらは、紙を撫でて凹凸を感じたり、鉛筆を使って上からシャッシャとなぞることで「真実のレリーフ」を部分的に浮き上がらせたりする。

そうやって、紙の向こうにあるコインが本当はこんな模様をしているのだろうという推測を何度も何度も行って、論理学を使ってその推測が正しいんじゃないかなというのをみんなで確認しあう行為が科学なのではないか。

そして問題はこのコイン自体も時とともに変化していくということなのだ。コインが誰かによってときおり入れ替えられているのか、あるいはコインがその成分的にだんだん錆びていくものなのかは紙のこちらからは全く見えない。おまけにコインは1枚ではない。おそらく世の中にある貨幣すべてを足したよりも多い数のコインが紙の向こうに、こちらからは決して見えない形で、「宙に浮いている」。テーブルに置いてあるイメージでぼくの話を読んでいたかも知れないが、実はそのテーブルすらも当てにならない。

そんなことでは真実なんていつまでも捕まえることはできないし、実は、真実なんていうものは組み合わせとタイミングによって浮かび上がるもので、偶然の産物で、確定すること自体がナンセンスなのではないか、という気になってくる。

でも、ふとした瞬間に、紙のこちら側にいるぼくらが紙をぐっとコインの側に押し当てて、そこでなぞった模様、感じた模様は確かにコインのそれなのだ。科学というのはこの「紙を押し当てて向こうを探ろうとする行動」を、1秒間に18回ほどやる行為である。1秒間に18回というと、人間の目が、パラパラ漫画をあたかも動画に錯覚してしまうくらいの感覚だ(と、かなり古い本に書かれていた)。だからぼくらは真実探しが常にリアルタイムで行われていると感じる。けれどもほんとうは断片の積み重ねなのだ。その意味でも真実からはほど遠い。

ほど遠いけれど、でも、それで十分なところがこの世の中にはあって、実は、紙の向こう側にあるコインのだいたいの雰囲気がつかめていれば、ぼくらはばくぜんと、「今いくらくらいのお金を持っているんだな、ぼくらは」と、あんしんできる。

それが科学というものだったりしないだろうか、と、ちょっと呆然とした気分で眺めている。まあ、必ずしも紙があるとは限らないのだけれど。