乳房(おっぱい)にできる「しこり」、あるいはちょっとした違和感みたいなもの、誰もが心配することだろう。非常に有名な病気があるからだ。それは「乳がん」である。
しかし、乳房にはほかにもさまざまなカタマリ(部分的・局所的な変化)が出うる。
何かしこりが触れたと思ったら必ず乳がんかというと、実はそうでもない。というか、けっこうな確率で、乳がん以外のナニモノカであることがある。
もし乳がんであれば、手術で取り除くとか、ホルモン治療を行うとか、あるいはそれらを組み合わせるとか、ときには抗がん剤を用いるなど、乳がんのタイプや広がりの程度によって、細かく「標準治療」を行う。
標準治療を拒否することもできる。けれどもそれはたいていの場合、患者にとっていい結果をもたらさない。
……ここまで、「けっこうな確率で」とか、「たいていの場合」とか、いかにも患者をルーレットの数字になぞらえて、統計で語るような言い草をしてしまったが……。
患者ひとりひとりにsolitudeな人生があり、患者は常にひとつの「絶対」なのであって、パーセントで語られても困る、というのが、多くの人間の共通した認識だろう。
誰もが「絶対」が欲しいのである。そんなものは哲学の世界にすら存在しないのだけれど。
だから患者も医者も、信頼できるひとつの指標に従うことを望む。それが病理診断である。
乳房にできたしこりに針を刺す。人間、誰しも、ピアス以外の穴など開けたことがないのがふつうだ(あとはせいぜい虫歯の治療くらいか)。だから針を刺すというとかなり驚かれる。申し訳ない。
しかし針を刺すことで、乳房のカタマリを構成している細胞をとってくることができる。
細胞ひとつひとつをバラにしてとってくるのではなく、できれば、細胞同士の配列がわかるように、ある程度つながった断片をとってくることが望ましい。
そこにある細胞の「ふるまいかた」によって、このしこりが、がんなのか、がんではないのかがわかるからだ。
細胞には核がある。この核にはDNAが詰めこまれている。がんは「異常に増殖する」し、「異常なはたらきをする」ので、プログラムエラーを多くもつ。プログラム、すなわち、DNAのエラーは、DNAの入れ物である核のカタチの異常として反映されることが多い。
だから、顕微鏡で細胞の核をみることで、そいつがチンピラとして道を踏み外してしまっているかどうか(がん化しているかどうか)が予測できる。
さらに、細胞の核だけではなく、細胞自体がどのように繋がり合っているか。
周りの組織に対して、おとなしく寄り添うように配列しているか、あるいは周りを破壊してしみ込んでいこうと(浸潤)しているかをていねいに見る。
このとき、HE染色というひとつの「染め方」で細胞を染めて見るわけだが、ほかにも様々な染め物を駆使することが多い。
「免疫染色」(正式名称は免疫組織化学)というケミカルな手法もよく使う。
とにかくさまざまな方法で細胞の振る舞い方を「予測」する……。
また出た! 「予測」だ。
あくまでこうなのだ。
確率、とか、たいていの場合、とか、予測、とか……。
患者は常に孤高の存在。世の中にただひとつ。だから「絶対」が知りたい。どう「すべき」なのかを知りたい。
でも人間は神ではないので、未来のことは誰にもわからない。
わからないからこそ、推測、予測をくり返していくのだけれど、とにかく少しでも精度が高くなるように、とにかく少しでも「将来」に近づけるようにと、手を尽くす。
最後に尽くされる手が病理診断である。乳房に針を刺してまで、「これがどういうふるまいをする細胞か」を、予測するのだ。
病理診断の前に、内科や外科の連中も、ある程度の予測はしている。
乳房のカタマリが、周りに対してしみ込んでいるかどうかは、超音波やMRIなどの検査でもかなりわかる。
乳房のカタマリが、体の血管からどれくらい血液を奪っているか、どれくらい激しく代謝しているかも、造影検査などでかなりわかる。
だから予測はそうとういいところまでいく。「たぶんがんだろう」「たぶん良性の、線維腺腫だろう」「たぶん良性の、乳腺症だろう」……。
これらの予測の先に、最後に細胞をみる病理医がくだすものが病理診断。
これも本当は「予測」である。でも人はときに、病理診断を「最後の審判」と呼び、病理医を「裁判長」と呼び、病理診断のことを「絶対」と呼ぶ。
ぼくはその気持ちがわかるから、乳房に刺して採られた3×1 mm程度の針生検検体を、多少自分の寿命を削りながらみて、考えて、絶対を書く、たとえそれが神様のいう「真の絶対」からはほど遠いものであろうとも、結局のところ最後は、病理医がいうことに全員が従うことになる。
その予測が正しいと信じて全員が同じ方向を向く。
病理診断をするというのはそういうことだ。