2020年2月6日木曜日

日本の夏

学会発表、学術講演、あるいはまれに呼ばれるイベント登壇などの際にいつも思う。

何度やっても緊張しないことはないし、事前にいっぱいいろいろ考えていても頭は真っ白になる。そしてあとで録画などを見直すとたいてい浮き足立っている。

リアルでぼくを目にする人々は、ぼくの「浮き足だったところ」しか見ない。ふだんのぼくを存分に感じていただくことはできない。必ず、緊張して頭が真っ白になったぼくと一期一会する。

なんとも申し訳ないなと思う。

本来のパフォーマンスではない、

ごめんなさい、ここまでしか出せなかった、いつもそうやって謝罪の気持ちでいっぱいだった。



……しかし、となると、一度呼ばれた人にもう一度呼ばれるときには、それは、「浮き足だったぼく」に価値を感じてくださったということになる。

このことに最近気づいた。

あれっ、と。




ということは緊張したぼくでいいのか?






同じ人に2回、3回と呼ばれて似たような機会でしゃべると、だんだん慣れてくる。緊張していることはしているが、初回ほどガチガチではない。事前にいっぱい考えていたことが本番にも反映されるようになる。

つまりようやく本来の力が出てくるのだ。

しかし。

その、慣れてきた、本来の自分に近いモノを出した会心の講演に対しては、聴衆のリアクションが初回よりも「微妙」なことがある。




なんとも味がある話じゃないか! なんでだよ!






たぶん、本来のぼくは他人とコミュニケーションを取るには過剰なのだ。選ぶ言葉の種類も、提示するイメージの数も。

それが緊張によって削減されることで、むしろユーザーフレンドリーになる。初期Androidのごちゃごちゃアプリまみれスマホよりも、iPhoneのシンプルUIのほうが圧倒的に人気だったことを思い出す。

ガチガチに緊張しているときのぼくの方が、ユーザーにとってはむしろスペックが高い……というか……単純に使いやすいのだ。なんというか脱力してしまう。





世にはさまざまな「講演の達人」がいる。

「大舞台に強い人」「リアルな駆け引きを重視して事前の打ち合わせをしない人」「ここぞというときにそれまで一度も使ったことがない名言を出す人」など。

ぼくは最近思うのである。彼らも、もしかすると、緊張を解いた自分のほうが評判が悪い……というか、緊張した自分のクオリティのほうが安定しているために、あえてそうやって、緊張を高めるような「準備」をしているだけなのではないか? と。

無手勝流でやっている、とうそぶいているひとは、すでに立ち居振る舞いがナチュラルボーン格闘姿勢なだけなのではないか? と。





いやー俺にはできねえなあ。緊張した方がいいのか緊張しない方がいいのか、よくわからなくなってきた。次回の講演でどのような精神状態でいればいいか決まらない。決められない。決められる気がしない。

緊張感が高まっていく。