2020年2月5日水曜日

病理の話(411) 診断の哲学なんていらない

……と、患者はいいそうだ。

治療こそが医療だろうと。

治してナンボだろうと。病気の名前がついたからどうなのだ、と。



で、まあそういう気持ちは一部の医療者も持っていて、自分の手を動かして患者の状態がぐっとよくなること、たとえば外科手術であるとか、投薬であるとか、そういった行為で患者から「よくなりました光線」を浴びることで生き延びているタイプの医療者もいっぱいいる。

保険診療外にもいる。マッサージする人とかそうだ。自分の手の先でだれかの癒やしが得られたら気持ちいいだろう。

そういう人たちは、ときおり、診断という行為にどこか冷たい目線を浴びせている。

病名を決めるだけでは医療は進まないよだとか。

病気を決めると同時に治療を同時に進めないと、それは医術にはならないよとか。




でもここにはもうすこし奥深い話がある。





診断という行為は、病名を決めること「だけではない」。

その病気がどれくらい進行しているかを決めるものでもある……。

というか、もうすこしまじめに本質的なことを書くと、診断というのは、

「今後どうなるかを予測する行為」

に直結する。




1.診断とは病名を決めることです。

2.診断とは未来予測です。




1と2ではまるでニュアンスが違うではないか。単なる病名当てゲームではないのだ。





未来を予測することはある種のギャンブルで、診断というのもそれなりにギャンブル性をおびることがあるのだが、そこを科学、あるいはエビデンスというゴリゴリの数字でなんとか「いろんな人がトクできるようなギャンブル」にすり替えていく。これが医療における「診断」だ。

ある病気の診断と、進行度が決まることで、医療者は行動方針を決定する。世間一般的に言われている「ギャンブル」に従って行動を決めるというのは怖い。だから、怖くないように、「勝つか負けるか」ではなく、「トータルで勝つ感じで」ベットできるよう、サイエンス(科学)を投入する。この科学がどれだけ精度が高いかが勝負のポイントだ。というか科学がないと本当にギャンブルになる。科学があるからこそ医療がそれなりに納得できる話になるのだ。

なおこのギャンブルには胴元がいない。その意味で、理不尽なルールは存在しない。ルーレットは操作されていないし、ディーラーはウラでカードをいじっていない。科学を惜しみなく投入することで、一般的なギャンブルよりかなりいい確率で勝負ができる。

ギャンブルの例えがしっくりこない点がほかにもある。たとえば、勝負が一瞬では終わらない点は、普通のギャンブルとは少々違うかもしれない。

どちらかというと、「めちゃくちゃに上手な株式のやりくり」に近いかもしれない。

患者に薬を飲んでもらうこと。手術をしようと話し合うこと。放射線を当てようということ。そういった「処置」や「治療」が行われるたび、さらにその先どうなるかというのをあらためて予測するのが「診断」だ。診断は一瞬では終わらないのである。

だまって座ればぴたりと当たる方式の医療というのは例外的なのだ。まあたいていの人はその場で結果がわかるロトくじみたいなものが簡単で楽だと思っているだろうけれど……。医療でそれをやると損しかしない。だいたいロトくじで食ってる人が世の中にいるか?




ぼくの好きな将棋の例え話をひとつ。

将棋は、盤面にコマを並べた瞬間に予測して、それで終わるようなゲームではない。

刻一刻とうごめく盤面の状況をみながら推理を「重ねがけ」していくゲームだろう。診断もこれに近いものがある。まあゲームではないけれど。






というような「診断の哲学」は、実際に病気で悩んでいる人からするとどうでもいいことだ。そういう話はいいから治療をしてくれ、となる。

だから最後にもうひとつだけ言いたい。

人間は心をもつ。

人間以外は知らない。人間は心をもつ。

人間の心は、「先がわからない不安」を、まるで原罪のように宿し続けている。心のコアにある不安からくる症状は、決して「気のせい」などではなく、本質的なものだ。病気というのは具体的な痛みや苦しみも困ったものだけれど、それと同じくらい、「不安」をもたらすからやばいのだ。

診断にはこの「不安」をやわらげる治療的効果がある。……と、思う。

患者、そしてときには医療者も、「いったいこの苦しみはどこから来ているのだろうか」と不安を抱えながら医療に望む。

そこに「診断」という名の塗り薬をもっていってそっと塗る。病理診断にはそういう効果が間違いなくある。




強いて言うならばこれは哲学の話だ。