2020年2月19日水曜日

いきる担当ではなく

『「いき」の構造』は九鬼周造だが、「飽き」についての本もないかな、といろいろ検索してみた。

あまり検索では出てこない。

むかし、エリック・カンデルの本の中に「飽きの効用」みたいなものが出てきたかもしれないが、よく覚えていない。カンデルじゃなくてラマチャンドランかもしれないし、D.J.リンデンかもしれない。

言い古されていることではある(と思う)けれど、今のぼくら人類が持っている、一見不合理で、損をするタイプの行動……中でも、

・飽きる

・集中できない

・気が散る

といった、いずれも思考がひとつのところに落ち着いていないタイプの性格というか気質は、単に役立たずな特性というわけでもなく、人類が現代に生き残ってきた上で必要な「ぶれ」だったのだ、という考え方がある(たしか)。

誰かが飽きて違う事をやりはじめるからこそ、多様性が生まれる……みたいな。

つまんねぇ仮説だけど、言いたいことはすごく腑に落ちる。




以上のことは、たぶんどこかに書かれているのだけれど、ぼくがここで文献を引きながらひとつひとつ解説する気はおこらない。そういうのはまじめな医者にまかせる。

ぼくはふまじめで飽きっぽいタイプの科学者なので、うん、もう病理医のことは科学者と呼んでも差し支えなかろう、でもよく考えると世の中の大半の病理医はぼくよりもっとまじめに科学をやっているから、ぼくはやっぱりどちらかというと臨床家なのだろうな、話がそれたね、ぼくはふまじめで飽きっぽいタイプの臨床家なので、いちいち文献を引かないと厳密な話ができないタイプの学術だけやっていると疲れてしまう。

疲れてもやれよ、という人もいる。まあそういう人はがんばってほしい。ぼくも疲れるのは嫌いじゃない。そういうのは気が向いたときに気が向いた内容でやる。

たまには文献なんてうっちゃらかして、仮説に仮説を重ねるタイプの雑な文章を書きたい。こういう話は、だんだん、コンプライアンス的に厳しくなっていく……。





ぼくはあらゆることに飽きる世界で「飽きる担当」を引き受けながら、アクセス数の伸びないブログに好き勝手なことを書き続けているわけだが、最近、そういうのはみんなが見る可能性があるインターネットではなく同人誌でやればいいじゃないかと言われたことがある。インターネットが億兆の民衆にとって等しくつながるネットワークだと勘違いしがちな人が言いそうなことだ。ブロッコリーの8時方向にあるフサフサと11時方向にあるフサフサは決して交わることがない。ネットワークとは断絶と断絶を見かけ上つないだだけのなんちゃって曼荼羅だがそれは曼荼羅の本質でもある。曼荼羅はフクザツになればなるほど個人の知性で全貌を見渡すことが不可能になる。本来、インターネットこそは「同人誌即売スペース」なのだ。それを今さら、何を言っているんだこいつは、と思った。しかし、同時に、自分のそういう強めの主張にも飽きてしまって、そうだな、同人誌でも出すか、ネットワーク上には自分のパーソナリティの1/3くらい、表層の上澄みもしくは深部の不純物だけを置いておけばいい、という気分になった。

そうすれば飽きずにやっていける。

そうすれば飽きてもやっていける。

ぼくは同人誌を作ろうと思う。やるなら随筆しかない。随意に書いたものを置いておけない時代なのだ。いや、それは時代じゃなく、本質なのだが。