2020年2月13日木曜日

2倍にしよう

前にも書いたっけ、わからんけどいちおう書いておく。

最近「コーチング」を受けている。お試し期間だ。そしていろいろわかったことがある。とても雑なまとめなので「ばか、そんなんじゃねぇよ」と言いたい人もいるだろう。でも知ったことではない。

「コーチング」というのがなんなのか知らない人もいるだろうか?

いちおうWikipedia的なものを貼っておくので知らない人は各自読むといい。読まなくてもいい。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B0

コーチングは自己啓発本と似ている、というかコーチングの最中に「自己啓発的なものには興味があるか」とたずねられた。要はこちらがけっこうしゃべるタイプの自己啓発セミナー、だと思えばいいと思う。

コーチングの真髄みたいなものはよくわからない。なにせまだお試し期間だからだ。とりあえずここまでの間にやっていることは、自分を肯定し、自分のやれる範囲ぎりぎりまでやっている自分の仕事を肯定し、自分の行動にほこりをもってこれからやることがもっとよくなる、みたいなかんじ。

はなっからうさんくさく感じていた。

しかし知人がコーチングの資格を取ったというのでおもしろそうだからうけることにした。数万円のツボくらいまでなら買って社会勉強にしてツイッターのネタにして本を書いて売りさばいて印税にして儲けるのもいいかなと本気で思った

そしたらけっこういろいろなことがわかった。




まず、コーチングとは、ある程度のカネをかけて、色気とか性的な刺激のまったく存在しないクリーンな場所で、「嬢」的存在の人(男女問わない)に話しを聞いてもらうことで一気にストレスがとれてなにか明日からうまくいくような気がしてくるサービスであり、これはつまり、「無性的サービス」もしくは「クリーンなキャバクラもしくはホストクラブ」であるということがわかった。

何をしゃべってもいいよ、自分がありのままの感情を出していいよ、思ったことを躊躇しなくていいよと言われ、次第に「できないこと」ではなく「できそうなこと」に意識を向けられ、つっかえつっかえしゃべってもまったく問題なく、相手の会話を大して聞く必要がないまま自分ばかりがしゃべり続けることができる。

これはキャバクラだ。なお、ぼくはいわゆるキャバクラや高級クラブ、サロン的なものには一切行ったことがないので、ほんとうは行ったこともないキャバクラを例えに出すのはおかしいのかもしれない、しかし、このようなコーチングのやり方に対してとにかくずっと「これが楽しい人はいるだろうな」という感触を得た。

行ったことがないからわからないけれどいわゆる銀座の会員制の超高級クラブというのは、美しい女性が、性的なにおわせを多少なりともふくめつつ経営者などにコーチングを施す場所なのではないか、というよくわからない予感まで沸いてくるのだ。



その上でさらに踏み込んだことをいうと、コーチングというサービスはおそらく宗教と「同じ路線の対極」にあるのだと思う。

その人の中にあるネガティブな部分をどうやり過ごしていくか、究極的なことを言うと人間の根源に必ずあるはずの死や存在、時間への「恐怖」とどう折り合いをつけるかという点で一部の人に猛烈にぴったりはまるのが宗教だろうと思う。

そして、人間の根源にもしかしたらあるのではないかと思われる、夢や希望、打算、勝算、そういったものへの「恐怖」とどう折り合いをつけるかという点で一部の人に猛烈にぴったりはまるのがコーチングや自己啓発セミナーなのだ。後者はときに宗教的と言われるがなるほどと思う。




不幸にしてぼくはどうやらコーチング的なものはあまり向いていない、しかし、コーチングを受けることで、「コーチングを受けているであろう世の勝ち組の方々」の心が、わからずとも理解できるようにはなってきた。

また、これはおそらくコーチングの効果そのものだと思うのだけれども、自分に対してのことを恥ずかしげもなく人に語り続ける……自分の内面について他人に語る……オエッ……という作業をある程度決まった時間くり返していると、自分に対してのゲボみたいな感情がきちんと言語化され、ここは見てはいるけど見ていないふりをしていた、ここは語ったつもりできちんと独り言をいっていなかった、みたいな部分が次から次へと可視化・可聴化されてくる、その点はほんとうにおもしろい。




そしてぼくはつくづく思った、病や死に対する恐怖を語ることをやろうと心のどこかで思い続けているぼくとコーチングの相性は最悪であるが、しかし、かといって、宗教とだけ会話をしていても片手落ちである。宗教とコーチング双方のスピリチュアルな部分にある程度足を踏み入れ、熱に表皮を焦がされながら何かを持って帰ってきてはじめてぼくは、

bio-psyco-socio-spiritual

な医療の現場で何かを語ることができるようになる……かもしれない……それはすばらしいことだ……かもしれませんね……

などとまだけっこう迷っている。とりあえずそろそろコーチングをやめようかと思う。けっこうなカネを捨てた。ツボこそ買ってはいないが、同じ額を捨てるならば、プレステ4とニーア・オートマタを買ってやっていたほうがおそらくぼくの人生はもっと輝いていたはずである。まあニーアをやっても輝かないタイプの人のほうが世の中には多いのだろう。お互い違う持ち場でがんばっていこうぜ、としか言いようがないのである。