脳のネットワークと社会に広がる情報とが似ているよね、という話、ほんとうにすごい量の書籍によって言及されていることがわかった。鴨や谷本さんがリプライで教えてくれた本を読みながら、それぞれの人々が違う立場でさまざまにネットワークのことを語っているなあ、と、今さらながら知る。
で、議論の先に必ず立ち上がってくるのが哲学者の言なのだ。これがおもしろい。
哲学の何が楽しいのか、今まで全くわかっていなかったが、今なら少しわかる。
何かを極めようと思って勉強していて、思考がこんがらがった先にはたいてい哲学者がいて、先にごっちゃごちゃに絡まってぐっちゃぐちゃに悩んでくれている。
哲学者ってのはそういう存在だった。哲学がいまだに世にある意味が多少わかった。
なお順番が大事だ。
「まず哲学者」に出会ってもだめ。
その哲学者がなぜぐっちゃぐちゃになっているのかが自分の身に迫ってこない。世にさまざまなカタチで存在する、複雑で解決しがたい問題をどれでもいいから一つ選んで、「自分のこと」として実感していない状態で哲学書を読んでも、ほとんど心に響いてこない。哲学者の用いている比喩表現の「元ネタ」みたいなものが思い浮かばない。哲学者がなぜ死にそうな顔をして悩んでいるのかぜんぜん共感できない。
「まず」ではなく、「いざというとき」に哲学者と出会うべきなのだろう。
まずは自分で、なんでもいいから問題にぶちあたるまで深々と突き進む。そのあとで哲学者。それから哲学者。ようやく哲学者だ。
小学生が何かに興味をもったときに最初にぶちあたる疑問には、すでに答えがある場合が多い。ググれば出てくるというか。
大学生くらいであってもだ。ググってレポートを書ける。
けれども中には、世のドコを探してもその答えにまだ誰もたどり着いていない、というパターンがある。
そういうとき、哲学者を探す。どこかに必ずといっていいほど、似たような構造の問題に対してぐちゃぐちゃねちゃねちゃ悩み続けている変人がいて、奇書を残しているのである。
ぼくはそこに合流する。
ある程度の交通整理をしてくれている。助かる。
そして答えは出ない。
「なぜ人はわかりあえないの」「どうして正しい医療情報は伝わらないの」「どうやったら情報伝達は進化できるの」
生命科学、脳科学の末に今は哲学を読んでいる。この記事はおおみそかより前に書いているが公開されるのは正月明け。たぶん、休みを使って、いっぱい本を読んだと思う、2020年初頭のぼくは。
どうせそれでもひとっつも進歩はしていないのだろうが、多少なりとも、すでに世にいた哲学者たちとうすいリンクでつながってはいるだろう。今よりもう少し。淡くとも。