2021年5月21日金曜日

気持ち悪くない700

ブログのアクセス数は、はじめたときからほとんど変わらない。少ない日で1日700人(ユニークユーザー)、多めの日で1日900人。ぼく以外の誰かがツイッターでURLを載せてつぶやくとアクセス人数がパンと跳ねて2000とか3000とかになる。けれどだいたいそこまでだ。フォロワーが8万人だったころと、13万人を超えた今、ほとんど変わらないのがおもしろい。


これがnoteだと、どんな記事を書いてもアクセス数が一ケタ違うし、少しタイトルを工夫するだけで二ケタ変わる。でもこのブログとnoteとで中身の書き方を変えているわけではないし、よりSNS的な媒体を使えば見た目のアクセスが増えるというだけのことで本質的な差ではないのだろう。前にまてぃさんは「noteだと記事から記事へどんどんリンクが貼られるからアクセス数も伸びるのだ」と言っていた。そういうこともあるのだろう。


広告のことを考えている人にとってアクセス数やインプレッションほど興味を惹くものはないが、ぼくにとってnoteの「アクセス数の伸びやすさ」は、「往復書簡(文通)の相手のことをみんなに知ってほしい」という欲望をうまく満たす以外にはあまり役に立たない。自分ひとりで何かを書いてあれほどしっくりこない媒体も珍しい。本の紹介はOK(たくさんの人の目に触れて欲しい)、イベントのレポもOK(たくさんの人の目に触れて欲しい)、しかし自分の思考が交流電源状態となって行きつ戻りつするさまを、本質的な部分を超えるほどに多くの人の目に触れさせてもおもしろいことは起こらない。断片的な素材であるツイートならともかく、ある程度の長さの文章を構成まで考えて組み上げたとき、触れさせるなら他人の脳まで進達しないと意味が無いと思う。残念ながらぼくが一人で書いたnoteは脳に届かない。なぜなのかはよくわからない。だからnoteで一人の文章を書く気はしなくなった。二人だとコミュニケーションのニュアンスが出てくる分、これは脳まで届くかもな、という文章が出てくることはある。不思議な塩梅だなあと思う。


思い付いたままに書くけれど、noteはどこか信用しきれないところがある。「カイゼン」という片仮名を使う企業は個人的に最後の5%の部分を信じられない。もちろん反論はあるだろう、95%も信頼できれば上出来だ、という言い方は合っている。しかしnoteには本質がないんだと思う。もっとも、ぼくは元来、本質じゃない上澄みの部分を幅広く展開していくタイプのコミュニケーションが一番得意であり、世の大多数の人もきっとそうなので、だからこそ、noteやTwitterのような上っ面だけの交流媒体がこんなに活況を呈する。それをわかって使っている。便利であればよいのだ。


ブログのユニーク視聴者数のベースである「700」というのが、ぼくが情報を直接見てもらえる人数の上限なのだろうと思う。誤差はあるにしろ。YouTubeの視聴者数も、同時接続だと多くて700人くらいだし、学術講演をしてもいっぺんに聞いてもらえる数はせいぜい1000人が限界だ。こういう話をすると、「つまり君が有料版のツイッターを使ったりnoteでサロンを開いたりしたら700人くらいは人が集まるってことだよね、ひとりから月1000円とったら70万円だよ、税金をものすごいとられても40万円くらいは手元に残るじゃないか」みたいなことを言う人がいるがふたつの意味で間違っている。ひとつはサロンを開いたら契約してくれるのはたぶん7人だ。そしてもうひとつ、ぼくはnoteでも課金欄を真っ先に消去したし、Twitterに投げ銭機能がついたらその日のうちに設定で投げ銭をできないように設定する。これは理屈ではない。気持ち悪いのだ。20代のころから投げ銭に慣れているようなナチュラルボーンクラウドファンディング世代ならいざ知らず、立派な40代であるぼくが編集者もつかない場所でブレインストーミングをしている内容に金が飛んできたら、遠からず、金が思考を校正することになる。気持ち悪いのだ。もちろんぼくだって、学者、たとえば哲学者が「思案の練習台」みたいなツイートをするところを見ると投げ銭をして応援したいなと思うことはあるし、noteでも他人の努力に対して「たしかに見たぞ」とお金を置いてきたことは何度もあるが、自分があれをやられて平静でいられるとは思わない。気持ち悪いのだ。


自分があまり気持ち悪くならない程度に、気持ちを少しずつ変成させていくことを数年続けていて、ぼくはわりと自分がいいほういいほうに変わってきているような気はする。しかし、変わっても変わっても待っているのは700人なのだ。それが興味深いなと思うことはあるし、これについては気持ち悪くはない。