2021年5月11日火曜日

トッピング

ふと、「なんにでも感情が乗る時代だなあ」、と思った。


この「ふと」は少々雑で粗い。自分の脳からスッと出てきた言葉ではあるが、そのまま咀嚼すると骨が多くて飲み込めない。わかっているけれどそのまま書き続ける。


きっかけはこのような短いセリフだった。「エビデンスだけ伝えられたって響いてこないんだよな」。


そうか? と思った。


情念をのっけないと情報は届かないんだ、とか、自分事にしてもらわないと大事な話は広まっていかない、とか、まあ言いたいことはわかるんだけど、「エビデンス」というのはほんらい、感情を乗せずに組み立てるからこそ信頼できるものである。


感情をたっぷり用いて解釈するものとは別に、感情と関係なく建っているものもあってよいと思う。それは当たり前のことだと思っていた。


でも、なんか、最近、そうではないようだ。


科学だろうが医学だろうが、とにかく「感情が乗っかっていないと」使えない。広まらないのが科学側の罪だとすら言われたりもする。





みすず書房『感情史の始まり』を読んでいた。かつて、ニューヨークのツインタワーに航空機が突っ込むという信じられないテロが起こったが、「その映像を伝えるメディアがあり、その感情を拡散するシステムがあったからこそ、テロリストもこういう手段を取ろうと思い付いたのだ」という意味のことが書いてあって、思わずあっと小さく声を上げてしまった。

感情を増幅するシステムが変われば、その感情にドライブされる人間の行動が変わり、感情を用いて人を動かそうという人たちの行動も変わる。


9.11から20年経ってさらに世界は変わっている。SNSによって個々人の感情が情報に乗っかるようになり、これまで公の場で共益していた情報すべてに、うっすらと感情が乗っかった状態が当たり前になっている。「公的情報」が存在しづらくなっている。「石板に書いてある絶対の事実」がなくなる。


そうか。と思った。

感情の乗っていないエビデンスが役に立たない時代がやってきた。学問というくくりも元の通りではあり得ないだろう。ぼくは今さらだが学者になりたい、と感じた。