本を買うスピードを落として、かわりに本棚にある分厚い医学の成書を頭から読む時間にあてている。これまで辞書的に使っていた本たちを通読することで、時間がどんどん解けていく。掛け値無しに楽しい。
「ぜんぶ読む楽しみ」をわかってくれる人は多い。実際にやるかどうかはともかく、「ああ、それができたら楽しいかもね」と感じる人はいっぱいいる。ツイッターではどちらかというと「読まずに積んでおく楽しみ」を語る人が多い印象があるが、「隅々まで読む楽しみ」についてももっと語られていいと思う。
学生時代、ハリソン内科学やロビンス基礎病理学を通読するタイプの医学生が周りにいた。じつを言うと、かつてのぼくはそういうのを「うさんくせえなあ」という目で眺めていた。必要な部分を拾い読みすればいいのに、なんでわざわざ、小説でもない教科書を全部読むのだ? 隅々まで読んだというタイプのマウントをとるためだけに本が消費されている、と感じた。
この感覚が今も多少は残っていて、「読み終わるためだけに読む」ことについては自覚的に回避している。ひとつの本にまとまっている内容にいつまでもかかずらっていることは、「ある種の偏り」を産むように思う。本に没頭するとき、人は精神的にも肉体的にも前のめりになるが、それはつまり傾いているというだ。あれもこれもと読んだ方がバランスはとれるし、つんのめることもない。
それでも。
一冊読み通すというのはやはり気分がいい。ある種の背徳に似た快感がある。こんなにひとつの意志に身を委ねてよいなんて、という誘惑。古い記憶にためらいを覚えつつも、端から踏破する楽しみに心を浸す。
医学書をきちんと読み通そうと思ったことにはいくつかのきっかけがあるのだが、その一つはおそらく「編集者たちと知り合った」ことだ。
成書の多くは、章ごとに違う著者が筆を執る。執筆者たちはお互いの原稿すべてに目を通していないことが当たり前だ。しかし、担当編集者だけは、どんなにクソでかい医学書であっても、本の全体を読んでいる。
多くの編集者たちと知り合うに至って、ぼくは編集者たちのように「通読」をしてみたいなと思うようになった。内容の豊穣さはもちろんなのだが、章立ての妙、相異なる執筆者たちをまとめあげる語調、フォント、デザイン……。本を多角的に読めるようになるに連れて、本を隅々まで味わうという「通読の楽しみ」も増した。
医学生にはおすすめできない、彼らには本質的にそのような「本をだらだら楽しむ余裕」がないのだから、マウント目的以外ではなかなか通読なんてしている暇がないだろう。しかしぼくはもう、トウの立った中年だ。娯楽のためだけに医書を読む資格は身につけた。役に立つか立たないか、そんなことを度外視した部分で、何かがぼくの心を細かく振動させてくれる。