頚椎症が治ってきた。よかった。やはり治るものなのだなあ、と思う。近頃はまた本を読む量を増やしている。まあ頚椎症があったからと言って、ぜんぜん本が読めないかというと、そうでもないのだけれど、つまりは首に優しい読書の角度というのをきちんと守っていれば問題ないのだけれど、読書中に無意識に体勢を変えてビリッとしびれる、みたいなことが頻繁に起こるとどうしても読書量が減る。
そう、ぼくはわりと読書中にゴロゴロじたばた動くタイプだった。頚椎症がなければわからなかったことだ。
感染症禍で、人は意外と自分の顔に手を当てることが話題となった。マスクをしているとそこに持っていった手に気づくことができる。あるいは、Zoomのように、似たような画角で異なるおっさんの顔を毎日眺めていると、どいつもこいつもべたべた顔を触っているなあということがわかる。人間ってこんなに顔を触っていたんだね、ということが、なんらかの制限、なんらかの痛み、なんらかの視野狭窄によって明らかになる。
人間はセンサーのカタマリなのだが、逆にいうと、そのセンサーが本能的にワークしていないときにはけっこうやらかしている。
最近思ったこと。ぼくは椅子から立ち上がって歩き始めるときに、わりと足の小指とかくるぶしなどを机や椅子の脚にゴンとぶつけることが多い。日常、高速で職場の中をスイスイ歩いていても別に手や足を機材や本棚にぶつけることはないのに(つまりセンサー自体はちゃんと稼働しているのに)、自宅の食卓でご飯を食べてからさあ歯を磨いてでかけようと気もそぞろに立ち上がったときによくゴツンとやる。こないだ目に涙を浮かべたのも早朝だったなあ、なんで同じタイミングで同じ所にゴンゴンぶつけるのかなあと考えて、そうか、ぼくは朝食後のタイミングでは椅子と自分との境界が曖昧なのかもなあ、なんてことを根拠もなく思った。
センサーがはたらく範囲でぼくらは世界を認識している。スポーツや映画をみて「しびれる展開だ」と言うとき、ぼくはセンサーを自分よりはるか遠い場所に飛ばしている。飛ばしたつもりになっている。つもりになれるものこそが真のエンターテインメントであろう。