病理医の仕事のひとつに、臨床検査技師とタッグを組んで、「細胞診(さいぼうしん)」をするというのがある。一般的に「病理診断」と言われるものは組織診(そしきしん)であり、細胞診(さいぼうしん)とは微妙に異なるスキルが要求される。
病理医の中には、組織診(そしきしん)だけをすれば自分の仕事は十分だ、細胞診(さいぼうしん)なんてやりたくない、と言って、細胞診用の資格(細胞診専門医)を取得しないまま働いている人もいる。そういう考え方をぼくは否定こそしないが、かなりもったいないことをしているなあ、という目でみている。魔法使いが、メラ系(炎系)の魔法を覚えているからヒャド系(氷系)の魔法は覚えるつもりがない、と公言しているようなものだからだ。両方覚えていればメドローア(極大消滅呪文)を使えるかもしれないのに。
まあ、細胞診をおろそかにする残念な病理医の話は置いておこう。
細胞診の中で比較的知名度が高いのは、子宮頸がん検診だ。子宮の入り口の部分をブラシ的なものでこすって、そのブラシをガラスプレパラートの上にこすりつけることで、子宮頚部の表面にある細胞をガラス上にばらまく。無数にある細胞を目でチェックする。その中に通常とは異なる細胞が見つかったら要注意だ。それは「異形成」と呼ばれる、がんになりかけている細胞かもしれない。
ガラスの上に大量にくっついている細胞の中から異常な細胞だけを的確に見つけ出すのは、「ウォーリーを探せ」に似た難しさがある。これを担当するのは臨床検査技師、それも、「細胞診検査士」という特別の資格をもった技師たちだ(この資格試験がマジで難しい)。卓越したスキルによって、渋谷のスクランブル交差点の中にまぎれた数人のチンピラをビシッと特定する(※イメージです)。
見つけ出したチンピラが「たしかにがんである」か、「がんになる前の異形成と呼ばれる病変である」か、「がんはがんだが扁平上皮癌ではなく腺癌である」のように、どの種類のワルモノなのかを判定するのも基本的には臨床検査技師の仕事。
ただし、この「ワルモノを分類する」ことについては、臨床検査技師だけではなく病理医も関与する。ひとりで判定することはない。ふたり以上で判断をくだすのだ。それだけ責任が重い行為だと言える。
病理医は「細胞診専門医」として「技師の指導」を行う……ということになっている。しかし、じっさいには、スクリーニングで無数の細胞を日々みている臨床検査技師のほうが、細胞診にかんする感覚・センスは圧倒的に優れている。病理医が横から口を挟むよりも、細胞診検査士の資格をもった技師がきちんと読み切ったほうが基本的な精度は高い。
そこで、現場では、技師が最初から最後まできっちり細胞を見たあと、最後に集合顕微鏡と呼ばれる複数名でいっしょにのぞき込める顕微鏡を用いて、技師と病理医がディスカッションをして診断をくだす。
集合顕微鏡
ここで技師は、自分が見たプレパラートの中にあらかじめ水性ペン(人によっては油性ペン)でマークを打っておき、顕微鏡を自ら動かして、横にいる病理医に「自分が気になった細胞」を見せてプレゼンを行う。
技師「ここですね。背景は比較的きれいなのですが、やや腫大した核と、koilocytosisを示す細胞。核縁にしわがよっており、クロマチンは軽度増えています。N/C比からは表層型の細胞と判断できます。こんな細胞がプレパラートの中にちらほら……」
病理医「はい、いいですね。では診断は」
技師「軽度異形成でよろしいかと思います」
病理医「OK, それで行きましょう」
病理医がやっているのは「はい」とか「OK」と背中を押す仕事だ。ほとんど技師の判断である。しかし、ここで病理医が技師に「応答する」ことには一定の意味がある。
たとえばこういうことがある。
技師「ほとんど……おかしい細胞はありませんでした。ただしこことここ、2箇所だけ。N/C比は高く、クロマチンも増えていて、核膜も不均一に肥厚している細胞が、重積している……ちょっとおかしく……重積している、ように、見えます」
病理医「なるほど」
技師「そしてこちらはもう少し異型が弱いのですが……まあ、似たような……」
病理医「はい。では診断は」
技師「はい。腺癌と診断します」
病理医「……ん???」
病理医は最後に引っかかってしまっている。
技師のプレゼンは、あまり自信がなさそうに聞こえた。細胞診断の過程で、どこがどうおかしいかを技師の言葉で言語化したところ、「ほとんどない」とか「ちょっと」とか「弱い」とか「まあ」といったように、言葉的には「これじゃあがんと決めきれないなあ」という雰囲気がにじんだ。
しかし、最後に病理医に診断を聞かれた技師は、いきなり自信を取り戻して「はい、腺癌です」と言い切ってしまっている。
ここで病理医が待ったをかけることはとても重要だ。
技師が無意識に、心の中で、「強い診断を出すことに躊躇している」のであれば、その躊躇の理由をきちんと言語化してもらわないといけない。
病理医「今の説明を聞いていると、少し自信がない部分もあるのですか?」
技師「そうですね……細胞は間違いなくがんでいいと思うんですけれど……採取されている量が少ないときにはやはり慎重になりますよね」
病理医「では、がんと診断を確定させるのではなく、『がん疑い』にして、もう一度細胞を採ってもらいましょうか?」
技師「いえ、でも、少ないにしても、これだけ様子のおかしい細胞が出現していたら、がんでいいと思うんですよ! 特にこの核小体は異常ですね。これは正常ではまずあり得ない」
会話の中で、技師はだんだん自信を取り戻している。根拠も、だんだん揃ってきている。
病理医「では我々の連帯責任でこれを腺癌と診断しましょう。じつはぼくもこれは腺癌で間違いないと思っています。ただ、あなたの今のプレゼンがやや不安そうだったので確認しました」
技師「はい、腺癌のレポートを書きます」
こういう「ゆらぎ」が起こることは、ままある。診断という強烈な線引き行為(ここからここまでが病気ですよ、と線を引くようなものだ)には、複数人の目と言葉による綱引きが必要だ。
究極的なことをいうと、「迷いを残したままのレポート」を書くこと自体は構わない。主治医や患者から見て、「ああ、これはプロが迷うほど難しいんだな」と感じられればそれは立派な報告用紙である。しかし、「内心迷ってたけどエイヤッって診断しちゃった」はめっちゃくちゃに危ない診断である。ここを見極めるのは病理医の大事な仕事であると思う。