2022年1月31日月曜日

1月21日の作業スペースの雑感

 先日このようなものをやった。


https://dryandel.blogspot.com/2022/01/blog-post_58.html?spref=tw


金曜日の朝に時間ができたので、ブログ書こうと思い、そういえば柞刈湯葉をはじめとする作家やマンガ家などがやってる作業スペースをやってみようかなと思い付いた。ブログの記事作成画面を開いて、タイトルに「作業スペース」とだけ入れ、本文を書き始める前にTwitter Spacesをはじめて、ツイートでSpacesの開始告知をしたら書き始める。Spacesは音声配信サービスだから、映像は一切うつらない。デスクに置いたスマホから、ぼくがキータッチする音だけが狭い世間に垂れ流されていった。


まずはいつものとおり、思った通りに書き進めて行く。この音声を誰かが聴いているということを意識すると、思考とぼくとの間に薄い雲がかかって視界が悪くなりそうで、「なるべくそちらを意識しないように書く」。もちろん、おわかりのとおり、そんなことをしたら、必要以上に意識することになる。自然と、直近の言葉に反応して連想で文章をつないでいくような、口語文に近い文章ができあがっていく。「無言で話す音」の配信。


「誰かの目線」に照らされることで心の表面が焼け、痛覚閾値が下がり、ちょっとした刺激にも敏感に反応してしまう。日焼けした肌が、ちょっと触っただけで痛みを感じやすくなるのに似ている。まあ、音声サービスだから目線ではないんだけど、たとえ話ではなく本当に「目」を感じた。


15分くらいで書き終わり、句読点をそろえて、語尾がダブっていないかなどの軽い調整を行って、記事を投稿する。さいしょは予約投稿にして1週間後くらいに公開しようかと思っていたのだが、これ、今すぐ公開したほうがおもしろいだろうなと思ってすぐに公開した。


その後、やはり音声アーカイブを残しておいて、音声を聞きながらブログを読めば、「打鍵している音がどの文字にあたるのかがわかった」かもしれない。無理かな。





書き終わって記事を公開したあとにすぐに思ったことは、

「推敲なしの文章」

を世に出す怖さみたいなものだ。ただし続きがある。「まだ推敲する前の文章」であっても、指の発する音だけ聴いていれば、なんだかそれっぽさを感じるものだなあ、ということをほとんどタイムラグなしに続けて思った。ものすごく、「書いたなー!」という気持ちになるのがおもしろかったし、危険だなとも思った。誰かが聴いているという事実だけで承認を得られた気分になり、ほんらい、自分の書いたものの出来によって喜んだり悔しがったりする部分が摩耗してしまって、どんな内容のものが書けたとしても「まあ、今回は公開執筆だったからこれでよし。」みたいな気分になってしまう。


昔から、生放送特番で大きな筆で習字をする人に聴いてみたかった。こんなテレビカメラのないところで、あなたがもっと本気で書道にだけ打ち込んで、何度も何度も書き直した作品と比べて、クオリティはどうなんですか? と。そこで返ってくる一言目をぼくは今予想している。「作品の出来うんぬんじゃなくて、こういう場で何かを書くことで、普段使わない脳の一部分が刺激されたような気持ちになるので、それが収穫だと思うんですよ」。こんな感じなんじゃないか。うさんくさいな、と思っていた。


ただ、実際に自分でやってみると、普段発火させていないシナプスに火を付けることが、脳の実質で「延焼」するのではないかという気持ちになる。Spacesにて作業音を配信した、ということとは直接関係の無い、それこそ生放送の習字のエピソードをふと思い出すような……はからずも今「ふと」と書いたが、この「ふと」の部分がなかなかAIで模倣できない脳の独特な部分ではある。連想と言うと繋がっている感覚があるが、それよりももっと、ジャンプするような、だだをこねていつもと違うものを引き抜いてくるような、恣意的にランダム化するような「ふと」の部分。脳に「ふと」を起こさせるための技術のひとつとして、作業配信みたいなものが存在するのかもな、ということを思った。


先日、文化放送「壇蜜の耳蜜」を聴いていたところ、中国で、エアロバイクをこぎながらハンバーガーを食べられるマクドナルドの店舗がオープンしたというニュースをやっていた。こいでから食えよの一言なのであるが、あれもまた、人間が「ふと」何かを思い付くための実験なのかもしれないな、という気分で今はいる。