2022年1月6日木曜日

みかんシワシワ

ワクチン3回目を打ったが、副反応は注射部位周囲の軽い痛みのみ。翌朝は早い時間から雪かきをして出勤した。今、特に腰まわりがバキバキだが、これはあきらかに「雪かきの主反応」であってワクチンの副反応ではなさそうである。


職場の近い範囲を見回しても、2回目以上に強い副反応が出た人はいない。2回目と同じくらいの熱が出た人はいたが、さすがにみんな慣れていて、その人が休むことに理解は及んでいる。みんな粛々と、言われたタイミングで、言われたワクチンを打って、何事もないかのようにふるまっている。


ギャンギャンうるさいのはごく一部の、延々とSNSに張り付いている人たちだけだ。


ただし、個々人に話を聞くと、もちろんそれなりに「考えるところがある」というのは伝わってくる。

みんな、安心と不安の両方の気持ちをもったまま、それでもなお、「全体としてぼうっと眺めてみてみると」、粛々と、言われたようにワクチンを打っているのだなあ、ということが、個別に話を聞いてみるとよくわかる。





人間の脳はほんとうに不思議だ。ぼくらは、自分の脳のブラックボックス部分によって、たとえば「おいしいものをたべた!うれしい!わーい!」というように、一本道の連鎖反応、できごと→感情→行動の因果関係みたいなものを、当然のこととして味わわされている。世の中に、因果関係のすじみちが満ちている「かのように」、みずからの脳に錯覚させられている。しかし、たぶん、本当は違う。ぼくらの脳はきっともっとずっと複雑なことを、複雑なままに、放っておいている。そこに一本の通路はないのだ。因果は絡みあう蜘蛛の糸であって単一のベクトルではないのだ。


ぼくの手元に、みかんがある。朝の雪かきがひどくて、朝飯を食うヒマがなくて、出勤中に車の中で食べようかなと思って、冷蔵庫の中から取りだしてきた朝ご飯だ。でもこれを眺めているのは夕方。みかんおいしそう。食べたい、という気持ちは朝からあった。しかし、車の中でみかん食べたらお腹のあたりにみかんの白いヤツ(アルベド)の粉みたいなのがかかるだろうからいやだ、という気持ち、ついたからなんだってんだよ、そんなの車をそうっと降りてからほろって落とせばいいじゃないか、という気持ち、運転中にみかん食ってる中年ってどうなの、という気持ちなどがいろいろないまぜになって、それらを、脳は統合しようともせず、雑多なまま、ふわりと受け入れて、「とりあえずあとにしよう、あとでみかん食おう」と、選ぶ……というか、クルクルまわったルーレットの針が止まったところに向かってなんとなく一歩を踏み出した結果、夕方のぼくの手元にみかんがある。


ワクチンを打つというのもこれと似ているような気はするのだ。


さらに言えば、一定の確率でワクチンを打ちたくない人があらわれる「理由」も、必要以上に不安を煽る人が出てくる「理由」も、逆にワクチンを絶対打ちなさいと強い言葉で言いすぎてかえって嫌われてしまう医療者がいる「理由」も、一本の因果で説明できるものではなくて、みんな、複雑ななにかから「なんとなくはじき出された暫定的な結果として」ここにそうやって多様に存在しているんだろうな、という確信のようなものはある。