2022年1月5日水曜日

病理の話(613) ケアとキュア

年始なのでフワッとした話をします。別に年始じゃなくてもよさそうだが。


ふだん、健康で暮らしている人たちは、病院で何が行われているかについてそこまで興味はないと思う。そうやって、病気のことを忘れている人を、むりやりとっつかまえてきて、「病院では何をやっていますか!?」と質問したら、たぶんその人はかなりの高確率で、


「びょ、病気を治す……」


と言うだろう。


病気を治す、「悪くなったところを良くする」。これが、病院のお仕事として一番わかりやすいことはまちがいない。英語では「キュア」という言葉をあてる。

ただし、病院の中で行われていることは「キュア」だけはない。「ケア」があるのだ。

バファリンは半分がやさしさでできているというが、ビョウインは半分がケアでできている。


ケアは、病気を「直接治す」行動ではない。病人をいたわり、サポートする行動全般をさす。

ケアは病魔を直接攻撃するものではないが、闘病生活を楽にして、患者が病気を乗り越えていくための体力と気力を補う。

病気をいかに克服していくかを、戦争にたとえると、キュアは、病気に向かってマシンガンやナパーム弾を撃ち込むことだ。これに対し、ケアは、兵士に食事を行き渡らせたり、野営地を整備して良質の睡眠を確保したり、物資の移動を行って軍隊の中に行き渡らせたり、お笑い芸人を呼んで慰問をする、などにあたる。ケアがなければ戦争そのものが成り立たなくなる。ケアがしっかりしていれば、もし万が一、キュアがいまいちだったとしても、軍隊が大崩れすることはあまりない。



「ケア」という言葉は、日本語ひとつで表すのがちょっとむずかしいので、一般的にそのまま「ケア」と呼ばれることが多いのだが、むりやり日本語にすると、いたわること、サポートすること、やさしさを行き渡らせること、という意味になるだろう。ぼくは「手当て」のイメージを持っている。手を当てるだけで病気は治らないけれど、手を当てるだけで大人も子どももみなほっとするだろう。ケアは「手当て」と同じ効果を、手を当てたり当てなかったりしながら成し遂げていく。キュアのことばかり考えて、患者に対して手も当てないような医療はどこか冷たく感じる。



病院の中で、「キュアの指揮を執る」のが医者だ。病院=医者がはたらくところ、みたいなイメージもあるけれど、実際には、病院の中には医者の10倍くらいの看護師がいるし、栄養士がいて、理学療法士や作業療法士、言語聴覚士などさまざまな資格者がひしめきあっている。事務職員や清掃職員などもふくめて、病院の中で「なんらかの仕事をしている人たち」の大半は「ケアの担い手」である。

そして、「優れた医師」もまたケアを担う。この「優れた医師」というのがポイントだ。普通の医師だと、キュアに忙しくて、キュアに目がくらんで(?)、ケアまで気が回らなかったりもする。



昔、『病理医ヤンデルのおおまじめなひとりごと』(大和書房)という本の中で、「患者は入院する前には名医を探すが、退院したあとには名看護師に感謝する」という格言を紹介したことがある。いい言葉だろう。ぼくが考えたんだけど。キュアを求めて病院に来て、良質なケアに支えられて、キュアもなんだかいつの間にか行われていて、気づいたら治っている、というのが、「病院で起こっていること」なのだ。みんなもキュアだけじゃなくてケアのことをもっと知って欲しい。プリキュアの新作でプリケアが出てくればいいのに。