2022年1月21日金曜日

ユニクロには中間色の服ばかりがならぶ

息子が頭痛っぽいというので枕を送った。そういうところ、似たのだろう。ぼくも中学・高校時代は「ストレートネック由来の頭痛」に悩まされていたから、わかる。

自分の頭痛を「解釈」できるようになったのは大人になってからだ。当時は、勉強をすれば肩が凝り頭が痛くなるものだ、それは因果関係だ、と認識していた。けれども、当時よりもはるかに机に向かっている今、ほぼ頭痛も肩こりもないわけで、「座学=頭痛」というのは間違いだったのである。

「解剖学的な知識をふまえて、体のパーツを使いこなす」ことはじつに効果的だ……と、自分の専門分野で不特定多数にマウントをとることもできるが、じっさいには、「なんか使っているうちになじんだ」みたいな側面が大きい。

中年というのはすなわち、体が手になじむ年齢なのだろう。もっとも、だいぶガタが来ていることもまた事実である。


体だけではない、言葉もたぶんそうだ。昔は棘のある言葉を今より多く使っていた。前のめりに本を読むことで首を痛めるがごとく、前傾姿勢で言葉を発することでかえって自分を傷つけるようなこともあった。でも、今は、自然にしゃべったり書いたりしているときにいつの間にか自傷的・自罰的な気持ちにおちいることはほとんどない。言葉の性質をふまえて、母語を使いこなせるようになった……というよりもやっぱり、じっさいには、「なんかしゃべりかたがなじんだ」という感じである。

体がなじむように言葉もなじんでいく。一方で、ガタが来るのはどこか? ノドか。指か。脳か。



「馴染む」という字を見ているとふしぎな気持ちになる。馴致(じゅんち)という言葉はじゃじゃ馬グルーミン☆UPで知ったのだったか。染まるという字も含んでいる。「なじんだわあ」なんて言うといかにも中動態なのに、字面は馴らして染めてしまうのだ。強い意志を感じる。だからだろうか、漢字のふんいきを知らず知らずのうちに嫌って、ひらいて、「なじむ」とひらがなで書いていた。ネチネチと字面をながめると、ひらがなで書いたほうがより「なじむ」気がする。

これは理屈ではない。時間経過とともに、自分のフィーリングに乗るか、乗らないか、みたいな微調整の結果が、体にしても言葉にしても、日ごろなんとなく使っているやりかたの中に反映される。



では、若い頃の、自分にも周りにも傷を付けながら動き回っていたころの体の使い方や言葉の使い方、あれがまるでだめだったのかというと、まあだめだった部分もあるだろうがゼロイチ思考でばっさり切り捨ててしまうのもどうかと思う。触れたり叩いたり切ったりしながら自他の境界を確認していく上で、ストレートネックの首をもたげて何かをにらみつけるような動きがぼくの何かをひらいたり閉じたりしたこともきっとあったのだ。それは評価だけしていればいいものではないし、かといって総括して糾弾すればいいというものでもない。取り戻せないものにも、おそらく色のようなものはあった。染まる前の、染める前の、ネイチャーカラーみたいなものがきっとそこにはひそんでいた。息子の首は早くよくなってほしい。しかしその首の調整がしっくりくるにはおそらくあと10年くらいかかる。そしてその10年は息子にとっても体を微調整し言葉を選ぶ10年になるはずなのだ。