2022年1月4日火曜日

レーズンパンは見た目で損してると思う他者

目や耳、指先、鼻、舌。人間にはたくさんのセンサーがあって、これらで世界を感じ取っている。


感じて、考えて、「反応」を運動神経に流し込んで、筋肉を動かして世界に介入する。


すごい仕組みだが、おなじことはロボットでもできる。ルンバなんかセンサーを使って周りを認識してゴミを吸って動き回っているからな。


ぼくが、「高性能なロボットではない理由」を説明するのは難しい。



もっとも、ぼくの「センサー」は、ロボットが持つセンサーとまったく同じ働き方をしているかというと、たぶん、違うと思う。たとえば、目。光を取り入れるというのも難しい考え方だ。光を手でもって脳に運んでいるわけではない、光のほうから飛び込んで来る、しかし光って四方八方に飛び散っているだろうに、そのどれがうまいこと目に飛び込んでくるんだか、考え続けているとぼうっとしてくる。よく考えるとここですでにメカニズムがあいまいである。

ついでに考えると、センサーというのはどこからどこまでのことを言うのだ?

網膜の細胞が反応して、電気信号を出して、神経を伝って、脳に届いて、それがナンチャラ変換をされて……。このどこまでが感覚器とよぶべきものに相当するのだろう。



ぼくから見た空の青さと、ロボットが認識している「青」とはおそらく同じ意味ではない。それと同じで、ぼくとあなたが見た空の青さが同じであると信じる根拠もない。

このことを、「クオリア」みたいな雑な概念ひとつで知った気になって、遠い目をするのは、まあ雑学趣味としてはよいかもしれないが、思索をそこで終わらせるのはもったいない。



「世界はぼくによって、ぼくなりの意味を発見される」

「ぼくではない誰かは、ぼくとは違う、その人なりの意味を世界に見出す」

このあたりのことは、センサーのたとえではうまく説明できない。


もう少し具体的にかんがえてみる。

たとえば、ワクチンという言葉を、あるいはワクチンの現物を目にすると、ぼくは「人体の免疫の一部を強化して、特定の病原体に対する抵抗力を強める便利な道具」という意味をとりだす。

しかし、同じワクチンという言葉から、「権力に虐げられる民草の象徴」という意味をとりだす人もいる。得たいのしれないものを体に入れられて、何が起こったかもわからないし、「打てと命令されているような気分になるのが不快だ」と、怒り出す人もいる。

ぼくとその人の「センサー」にはほとんど違いがないはずだ。でも、なぜこうまで受け止め方が違うのかと考えるとき、「センサー」の理屈だけでは説明しきれるものではない。「世界の意味は受け止める人によって多様にひらく」、これを感覚器センサーと脳プロセッサのたとえで説明しきろうと思うと無理が生じる。



世界はそこに人がいてもいなくても、無数の意味をすでに内包しており、たまたまそこを通りかかった人、虫、犬、あるいはルンバが、「取り出せそうな意味」を勝手に取り出して自分の中にしまいこむ。あるいは、世界の中から自分にマッチした意味の部分だけを取り入れて自分を拡張する。視座が違えば世界の提示する意味がかわる。ぼく以外の誰かが、世界からどのような意味を受け取っているのかということを、しっかり考えると、とたんにその「誰か」がとほうもない「他者」に思えて、震えが来る。



そういう本を今、がんばって読んでいる(この記事が公開になる年明けには読み終わっているだろうか)。ぜんぜん意味がわからなくて笑える。とてもおもしろくて、何度も何度も同じ一行を読んでいる。「まるで意味を取り出せない世界」なのだ、となればぼくは、この本から意味を取り出せる自分になりたいものだなと思う。


http://www.rakuhoku-pub.jp/book/27028.html