このとき、細胞をうまくガラスプレパラートに乗っけないと、ちゃんと見えない。だからいろいろ工夫がいる。
たとえば、プレパラートの上に、採ってきた臓器を「なすりつける」と、表面から細胞が数個ずつパラパラとはがれてくっつくので、それを見ることができる。これには用語があって、「捺印細胞診(なついんさいぼうしん)」という。捺印というのは印鑑を押すことだが、あんな感じでグイグイ押しつけると細胞がひっつくのだ。ただし、あんまり強く押したら細胞がこわれるので、ほどよく加減する必要があるけれど。
この捺印法には重大な弱点がある。くっつけてなすりつけて剥がしてくる、というやり方では、ほんらい、細胞がどのように配列していたかを見ることができないのだ。
病理診断は「細胞の顔つきを見る」検査であると例えられることがある。しかし、細胞1個を見てその性状を判断するケースはじつは少ない。より正確に言うと、「細胞同士の位置関係」や、「多数の細胞がつくる構造」を見て診断をすることが多いのだ。組み体操のパターンで細胞の性格を読み解く、と言えばよいかもしれない。
したがって、臓器をハンコのようにガラスにぐいぐい押しつける以外の方法を編み出さなければいけない。ここで開発されたのが、薄切(はくせつ)という技術だ。
木材にカンナをかけるように、あるいは、大根の皮をかつらむきにするように、臓器を薄く、向こうが透けて見えるくらいに薄く切る。その薄片をガラスプレパラートに乗せて、染色をして、下から光を当てて透過光で見れば、600倍くらいまでならふつうに光学顕微鏡で観察することができる。
さて、このとき、じつは意外な落とし穴がある。
病理診断の大切な仕事のひとつに、「臓器の中に発生した病気が、臓器のはしっこまで及んでいるかどうかを見る」というのがある。はしっことはすなわち、「病気の先進部」だ。病気という名前の敵軍が、どれくらいまで進軍しているかをチェックする=戦況のマッピングをするのは病理医である。
このマッピングをする際に、プレパラート上に、「臓器のはしっこ」がきちんと観察されるかどうかが、地味にむずかしい。
さきほど、カンナがけ、とか、かつらむき、などと言ったが、たとえば見た目も太さもほぼゴボウのような臓器があったとして(ないけど)。
ゴボウを切って、楕円形の割面を出す。この楕円の部分を、カンナでけずって薄くピラピラの1枚を手に入れるわけだが……。
ちょっと想像してもらいたい。カンナというのは、「はしからはしまで」けずるのが意外と難しい。
ゴボウの切り口の楕円が、ちゃんと全周、皮まで含めてけずれるのではなく、真ん中あたりでシャッと途切れてしまうことがある。これはよくある。
ここで、けずれてきた薄片をプレパラートに載せると、はたして検体が皮まで切れたのか、それとも楕円の中心部あたり(ゴボウの芯の辺り)で中途半端に削り終わってしまったのかが、なかなかわかりづらい。
すると、どうなるか? 病理医が顕微鏡でみるとき、「あっ、病気がはしっこまで及んでいる!」と思っても、じつはカンナがうまくはしまでかかっていなかっただけ、ということがあり得る。
「病気が切り口のはしっこまで及んでいるかどうか」というのは治療方針に直結する。手術で病気が「採り切れているかどうか」にかかわってくるからだ。「検体のはしっこにも病気がありましたので、この手術で病気は採り切れていません」となると、患者も主治医もみんながっくりするだろう。
しかし、その「はしっこ」というのが、カンナがけの失敗によるものだったらどうする? 誤診になってしまう。
そこで病理検査室の技師は工夫をする。ゴボウのたとえに戻ろう。皮の部分にあらかじめ、外側からインクを塗っておけばよいのだ。そして、カンナがけをしたあとの検体をみて、「ちゃんと全周にインクが見えるかどうか」を確認する。これによって、カンナで「断面すべてをうまく削り通せたか」がわかる。
なんだそりゃ、ずいぶん細かい話だなあ、と思われることだろう。でも、この細かい話は、日本の病理検査室の技師たちが優秀だから達成できることであって、けっして「当たり前」の技術ではない。
ぼくはけっこういろんな国のプレパラートをみるのだが、技師のレベルが低い国だと、細胞はすごく見づらい。検体の固定、染色などいろいろ問題はあるのだけれど、さきほどのゴボウでいうと、「皮まできちんと削れていることのほうが少ない」。
また、日本国内であっても、診断ではなく実験で細胞を観察する人たちの細胞写真(たまにツイッターで流れてくる)をみると、あきらかに、「ちゃんとした技師が作っていない標本」であるとわかる。ゴボウの皮の部分がボロボロになっていたりするからだ。
いやー技師さんは偉いなあという話で雑にしめくくるけれどマジで感謝してます。
(年内のブログ更新は今日までです。再開は1月4日から。来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。)