タイトルを見て、「ディスカッション(議論)は『する』ものであって『書く』ものではないだろう」とツッコみたくなる人もいるかもしれないが。
これは学術論文の話である。もっとも、論文と言ってもいろいろあって、人文系の論文だと必ずしもディスカッション discussion という項目があるわけではないようだが、生命科学系の論文では後半部に必ずと言っていいほどディスカッションがある。
生命科学系の論文は、新発見・新知見をわかりやすくまとめて世の中に蓄積するために書かれるのだが、誰もが好き勝手に書くのではなくて、ある程度きまったお作法がある。論文を投稿する雑誌ごとにお作法は微妙に異なるけれども、だいたいの場合は、
1.「はじめに」的な部分に前置きを書く。この研究を思いついたきっかけだとか、この研究が世の中から必要とされてきた経緯などを語る
2.「材料と方法」を書く。どのようなターゲットに、どうやって研究をすすめたのかを丁寧に書く。
3.「結果」を書く。ここはできるだけシンプルに、かつ、図表なども用いてわかりやすく結論を書く。
4.「議論(ディスカッション)」。ここで思いの丈を爆発させる。
という形式になっている。ディスカッションは論文の最後にあって、研究の結果をもとに著者がいろいろと考える大事な項目なのだ。
考えるというのは、何を考えるか?
まず、「結果」として示された実験結果・研究成果・データ解析結果を分析する。「なぜそうなった?」「なにを意味している?」みたいな部分をきちんと考察するわけだ。「結果」の部分は誰が見ても同じ解釈ができるようにデータをきっちり客観的に書く。これに対し、「ディスカッション」の部分では多少なりとも著者の思いが含まれていることが望ましい。ただし、何を言ってもいいわけじゃなくて、「科学者として考えるべき道筋」に沿っていなければいけないけれど。
ある意味、「ディスカッション」というのは議論というよりは「考察」なのだ。でも、ひとりで沈思黙考して独善的に書けばいいというわけでもない。実際に「議論」する相手もいる。それは誰かというと、「その論文を読んだ人」なのである。「あなたが科学者で、この論文を読んだとしたら、きっとこういうところに疑問を持つだろう」という部分をしっかり予想して、「反論があるとしたらこうだろう、それに対する私の答えはこうだ」と、「ひとり議論」をする。だからディスカッションというのだ。
すぐれた論文というのは発行されてから実際に議論が巻き起こる。衝撃的な結果ならば全世界の人々がそれを元にモノを考えて、著者たちの結果が妥当なのか、考察の筋道が通っているのかどうかを検証し続ける。そして、本当にすぐれた一部の論文というのは、「全世界のどこかにいる人が考え付くかもしれない細かな疑問や懸念点」について、ディスカッションの項目ですでに取り上げているのだ。ジョジョの奇妙な冒険でと「次におまえは〇〇というッ!」いうのがあるが、論文のディスカッションでもこれと同じことをする。「次に読者はこの結果に不備があるというッ!」とばかりに、あらかじめ論文によって巻き起こるであろう議論を予測することで、ああ、この研究者はちゃんと科学をやっているのだなあ……と読者に思わせることが大事なのだ。
「ちゃんと科学をやる」というのはあいまいな言い方なので少し捕捉をしよう。「ちゃんと科学をやる」というのは、あるひとつの研究結果をもって「真実を見つけました!」とか「正解を当てました!」みたいな短絡的な思考をせずに、ある結果を現在進行形で「よりよい形」に向けて微調整をし続ける、その覚悟のことを言う。去年「解明」された科学的な現象が今年はさらにいいものに変わっている、というのが科学の本来の姿だ。そしてこの微調整は、科学が常に「議論をし続けている」ことで成し遂げられつづけているのである。