今書こうとしたこと、それは「もうすぐ久しぶりの道外出張だなあ」ということ。この気持ちを書き残しておこうと思ったけれど、やめた。なぜやめたのかというと、おそらくぼくは、出張している最中に「今、久しぶりの道外出張中だなあ」という気持ちを書きたくなるだろうからだ。「もうすぐ出張」と「今、出張」だったら「今」のほうがいい記事になりそうである。だから先に書いてしまうともったいない。そう思って、将来の自分に記事を書く権利を譲渡した。
ところで。
たった今○○の最中、というときの気持ちよりも、もうすぐ○○だ、の気持ちのほうが強いということはないだろうか。
ものごとがはじまっていなければ、そこには大きな期待がある。勝手な期待と言ってもいい。あんなこともあるかもしれない、こんなことが起こるかもしれないと、基本的に自分に都合のいい妄想ばかりを積み上げていけば、期待はどんどん高まっていく。
でも実際にものごとがはじまると、そこには予期していなかったトラブルがあったり、お金や時間を消費して何かを成し遂げなければならなかったり、思ったより楽しくなかったり、あるいは特に心を動かされない瞬間があったりするものである。
よく考えたらなんだってそうだ。「修学旅行前夜」にしても、「幕末」にしても、「クリスマスイブ」にしても、当日・真っ最中より、直前・夜明け前のほうが人をわくわくさせるものではないか。
……と、ここまで考えてからふと、ぼくはおそらく何かが起こる前にああでもないこうでもないと楽しんでいる状態を、自分のために満喫するのはいいとして、他人と共有することにさほど魅力を感じていないのかもな、ということに気づく。そういえばぼくが好きなエッセイスト、それは沢木耕太郎だったり椎名誠だったり須賀敦子だったりするのだが、この人たちは「これからどうしたい」という内容をほとんど文章にはしなかったように思う。彼らはたとえ遺言について書くとしても、未来ではなく過去から現在について書いていた。旅の途中で、あるいは旅の後について書くものばかりをぼくは読んできて、それがよいと思って今ここにいる。ああそうか、なぜぼくが自己啓発本のたぐいがつまらないと思うかという理由の一端がここにはある、自己啓発本はたいてい「他人の未来の話」を書いている。他人の話を勝手に書くのも許せないし、未来の話でカネをとるのが許されるのはSFだけだとぼくは心の中で硬く強く信じ込んでいるのだろう。