2021年12月3日金曜日

病理の話(603) 病理専門医試験

マンガ『フラジャイル 病理医岸京一郎の所見』の第89話が月刊アフタヌーン2022年1月号(2021年11月25日発売)に掲載された。これはもう涙なくしては読めない回でぼくは職場で読んでその日の仕事をする気が一切なくなったしでもこれを読んでこの仕事をする気がなくなるというのはちょっと変な話だなと思って、結局は普通に胸を張って仕事をした。2014年からずっと読み続けてきて良かったと思える回である(いつもだけど)


単行本になるまでネタバレしないでほしい人がいっぱいいるだろうから、最新話についてはこれ以上書かないことにするが、それはそれとして、今日は「病理専門医試験」の話をする。


病理医になるために必要なものは医師免許だけだ。じつは、ほかに何も持っていなくても病理医として働くことは可能である。とはいえ、たいていの場合、「死体解剖資格」という国家資格と、もうひとつ、「病理専門医」という日本専門医機構の資格がないと一人前の病理医としては見てもらえない。

このうち前者の死体解剖資格は、病理医の大事な業務のひとつ、「病理解剖」を主執刀者として行うために必須! である。当然のように国家資格だ。

すごく厳密に言うと、一部の検査センターとか、解剖がぜんぜん行われない独特な病院、あるいは近隣の大学から多数の応援病理医がやってきて代わりに解剖をやってくれる病院などで、一切解剖をしなくてもよい顕微鏡診断専門の病理医としてひっそりはたらく、みたいなレアな勤務形態は可能である。この場合は解剖をしないので資格も必要ない、でも、そんな病理医を雇おうという病院はあんまりない。

で、まあ国家資格は取るとして、その次の病理専門医。こちらは本当に必須ではない。正直な話、これがなくても病理医として病院に勤務して診断を行うことは十分可能である。より正確に言うと、この資格は「病院に勤務して継続的に病理診断を行ってきたことの証」だ。ポケモンのジムバッジみたいなものである。取らなくてもポケモンを集めて戦うことはできるけれど、レベルを普通に上げて、順当に戦えば取ることができるし、レベルが上がってるならジムリーダーに負けることもまずない。取らないことにメリットがほとんどないので(試験のお金を払わなくていい、とか、書類を書かなくていい、くらいか)、わざわざ取らないままでガマンするものでもない。

むしろこれを取らないと、「病理専門医なんて普通に病理医やってれば絶対に落ちない試験なのに、あえてこれを取らないってことは何かちょっと性格的に偏屈なところがあったりするのかしら?」と邪推されてしまうタイプの資格でもある。別にそこまで言うことはないんだけれど、印象としてそういうところがある。

ぼくは病理専門医を取得する際に試験勉強をしていない。書類を揃えた記憶もおぼろげだし、当日どこでどのように試験を受けたかもほとんど覚えていない。「絶対に受かる」と言われていたので対策をしなかったし、本当に受かった。それはぼくが病院の病理部に常勤して、毎日ふつうに病理診断をしていたからである。


では、病理専門医をとる人がみんなこういう状況で試験を受けるのかというと、そうでもない。


病理医には「診断ばかりする人」もいれば、「大学で研究をしっかりやるタイプの人」もいる。研究は病理医のだいじな仕事のひとつだ。専心してしっかりやらなければいけない。この診断と研究のバランスというのは、病理医ごとに異なる。一方で、病理専門医になるための試験はもっぱら「診断」の部分だけを問われるので、ぼくのように「診断だけやっている期間が4年ほど続いた」人間にとっては本当に楽な試験だったけれど、研究に軸足を置いている病理医にとっては、サブでやっている仕事に対してテストを課されるようなものですごくしんどいらしい。


逆に言えば、現在は研究者をやっているにもかかわらず、資格として病理専門医を持っている人というのは、キャリアのどこかで一度まじめに診断と向き合ったことがあるよ、と名刺に書いているようなものである。偉い。研究ばかりやっているのによく専門医取れたね、努力家なんだな、という感想が自然とわきあがる。病理研究者はほとんどの場合、脳腫瘍なら脳腫瘍だけ、食道がんなら食道がんだけ、肝臓がんなら肝臓がんだけ、子宮がんなら子宮がんだけ(それも例えば子宮頸がんだけ)を研究しており、それ以外の臓器についてはまるで触れる機会がないし病理診断もほとんどしない。でも、病理専門医試験では頭の頂点から足の指の先まで、あらゆる臓器の病気、細胞が出題される。これ、言うほど簡単ではないよ。病理専門医資格をもっている研究者たちはみんな(少なくとも受験当時は)勤勉だったのだ。そして、これがおもしろいところなのだけれど、たとえば食道がんしか扱っていない病理研究者も、たまに、「全身の勉強をしておいてよかったな……」と感じることがあるらしい。研究者というのは深く鋭く切り込むものではあるが、脳のどこかに手広く雑多にアイディアを集めておく資質も必要で、そういった「俯瞰するための力」を養う上では病理専門医という資格はそれなりに役に立つのかもしれない。




長くなったが最後にひとつ。病理専門医試験に落ちる人には2種類いるという。

・本当に研究ばかりしていて診断をあんまりやりたがらなかった人

・大学の上司や同僚などから適切に情報収集ができず(自分で何でもやろうとするタイプに多い)、書類に不備がありまくった人

・なめすぎていた人


3種類だった。すんません