2021年12月28日火曜日

実際どっちでもいいんだけどどっちかに決めたほうが盛り上がるからさ

人生において「選択を迫られる場面」というのはおもいのほか少ない。めったにないから、逆に希少価値として、テレビドラマや映画、小説などでは「選択」の場面が描かれる。ところがそのせいで、「選択」こそが人生であると勘違いしてしまい、いつか自分も「ここぞという場面で大事な選択をする」のだと信じ込んでしまう人がいる……いや、「人がいる」どころではないかもしれない。ほとんどの人がそう信じている。


たとえば、映像のプロが四六時中カメラを肌身離さず持ち歩いたところで、これぞという事件はそうめったに起こらない。リアクションがおもしろい一流どころの芸能人を同じ環境に詰めこんで何日待っても、目を見張るようなハプニングなど起こるはずもない。だからこそ、昔のテレビでは「ヤラセ」が横行した。そうとう仕込まないと、人は「選択」までたどり着けないから、台本として用意する必要があったのだ。そして、多くの視聴者たちは、「ヤラセ」をわかっていながらも、それはそういうフィクションとして楽しむ、くらいの気持ちで、半ばあきらめ、半ば共犯者になって、エンターテインメントをいっしょに作り上げていった。


「選択」がキモだという勘違いに一生おぼれたままであってもかまわない。


本来は波風の少ない人生に、「フィクション由来の選択」が与えられることで、我々は擬似的に強調されたアップダウンを満喫できるようになる。べつにいいじゃん、演出だよ演出、という話。



ただし、作られた「選択」の概念がうまくハマらない部分というのもじつはある。それが何かというと、たとえば、人体という精巧な機械の経年劣化にどう対応するか、という話だと思う。

日々暮らしていくと血管とか筋肉が弱っていくし、胃腸がしんどくなる人もいる。これは何かを選択することで解消できる類いのものではない。「トシのせいだから」、そういうものだと受け入れて対処していくしかない。しかし、「選択」という名の幻想にどっぷり浸かっていると、

「今日、この料理を食べたか/食べなかったかで、自分のこれからの健康が変わりかねない!」

みたいなことを心の底から信じ切ってしまう。そういう問題ではないのだけれど。


では、エンターテインメントに毒された我ら人間が、「選択」という幻想のせいで、健康や老化についていつも間違えて「選択」して、結果的に損をしているかというと……。じつはそうでもない。ここにはおもしろいメカニズムがもうひとつ隠れている。

たとえばとある日に、マメが健康にいいらしい、と聞いて、マメ料理ばかり「選択」すれば自分はよりすこやかに生きられるはずだ! と信じた人がいたとする。そういうのは栄養の偏りにつながるから、あまりやらないほうがいいのだが、人間はつい「選択」したほうがいいと感じがちだ。マメばかり食べようと「選択」してしまう人は現実にいっぱいいる。マメは一例だ。これが糖質制限であってもコエンザイムQ10であってもササミ&ブロッコリーであっても青汁であっても同じことである。

ところが、数日すると脳の奥がこのように言う。


「飽きた」


これ、ものすごい機能だ。人間が同じ事を続けられないというのは生存戦略だと思う。一度はこうと決めた「選択」を、「飽きた」の一言で一時的なブームに落とし込んでしまう。人間は、飽きることができるからこそ、多様な行動の中に埋もれるほうに進んでいくし、「選択肢をどれかひとつだけ選ぶ」というフィクションに本能で抵抗できている。


逆に、心の底から響いてくる「飽きた」の声に、中途半端な理性で対抗してしまって、毎日マメ料理しか食べない、みたいなことをすると、長い目で見たときに体の不調が出やすくなる。「選択」を無理強いするせいでかえって偏ってしまう。



「ヤラセ番組」に代表される、この世のどこかには波乱があり、人間は何かを「選択」していくものだという虚構においては、ここぞと言う場面の「選択肢」が人間にとって決定的な影響を与える。しかし、人間は「感動にも飽きる」生き物である。ひとつの選択だけで人生が変わったと信じることまではできるが、実際に変わることはまれなのだ。正確には、ほとんどの人びとが、ひとときの「選択」に感動しながらも、少し時間が経つとさっさと飽きて、次の選択を……いや「微調整」をくり返している。

アロエがいいと言った次の朝には納豆がいいと言われ、昨日はアロエを選択しました、今日は納豆を選択します、と、毎日違うところを選び続けていく。毎日の「ちっちぇえ選択」、さらに言えば、「選択してもすぐにそれを捨てられること」によって、多様な行動ができて、食事を例にあげるなら結果的にいろんな栄養をとってうまいこと健康になっている。



選択こそが人生だという嘘に、みんな心のどこかで気づいているのだと思う。あるときふと、緊張せずに選んだ道を、歩みながらぐいぐい修正し続けて、最初に選んだ方向とはいつの間にかすごくずれている、みたいなことのほうが多い。

結婚した場面でエンディングを迎える恋愛ドラマの「その先」を語ったほうがおもしろいのではないか、と昔の人も気づいていた。最近の恋愛ドラマを見ていると、「結婚する前と結婚したあとの話」を両方書いていたりする。ひとつの「選択」に向けて盛り上がるような番組の嘘っぽさが、古びて感じられる。「選んだってこだわらなくていいんだよ、選び直したっていいんだよ、なんなら選ばなくたっていいんだよ」というメッセージを感じることもある。少なくともぼくは、そういう今のテレビのほうが圧倒的におもしろいなと思っているタイプの人間である。この「タイプ」というのも選択をほうふつとさせ、なんというか、ぼくも立派にフィクションに影響されてここまでやってきたのだなあと感じて、また自分の心の感じ方を微調整する。