2021年12月6日月曜日

嫌いを毎日書く人にだけはなりたくない

内容は非常によいのだが日本語訳が「硬い」本を読んだ。


……と、かんたんに書いてしまったけれど、実際には原文(英語)がそもそも「硬い」のかもしれない。となれば、日本語翻訳は十分に本来のニュアンスを汲み取っていることになる。もしそうなのだとしたら、「悪い」のは翻訳ではない。


今、思わず「悪い」と書いたけれど、「硬い」文章の本は読みづらいが「悪い」わけではない。硬さが必要だと思って硬く書いている本はむしろ「良い」。






形容詞を使う度に、それはほんとうに適切なのだろうかというのをくり返し考える。形容詞こそは主観そのものだ。

「白い」も「熱い」も相対判断である。「広い」も「狡い」も感じ方次第だ。「細かい」ことを言えば、「あの人は努力している」のように、形容詞がなくても主観的な表現というのはいくらでも作れるが、ともあれ、形容詞が多い文章を書けるときは自分でも調子が「良い」と感じる。最後の「良い」は形容詞ではなかったかもしれない。



作家のイーユン・リーが『理由のない場所』で、副詞と形容詞に別様のこだわりを持つくだりを描いていた。本筋とは関係なく……いや、それこそが本筋だったのかもしれないけれど、本を読み終わってからもそのあたりがずっと気になっている。言葉で何かを修飾することについて、ぼくはこれまでさほど頓着してこなかった。


論文や教科書を書く際には形容詞を使うのが難しい。程度を表現するには比較対象を設定して根拠を述べなければいけないからだ。「俺がそう感じたのだからそう書いていい」が一切通用しない世界で、形容詞を用いる機会は減る。そうして少しずつ言葉との関係がぎくしゃくしはじめる。


論文のような特殊なケースはともかくとして、このブログのように思ったことを適当にちょちょいと書いていい場所でも、ぼくはこれまでさほど形容詞のことを気にしていなかった。そういうのを気にする人が作家として食っている、と言われればその通りなのかもしれない。ただ、そもそも形容詞が多い文章をぼくはあまり好んでいないのかもしれないなとは思う。読み手に、形容詞の奥に隠れた不定形を感じとれるような文章、形容詞の部分が余白になっている文章のほうが、今のぼくは好きなのだと思う。


「好き」というのは形容詞ではないが動詞なのだろうか? ググってみたら「好く」という動詞の連体形であると書いてあった。でもときには形容動詞のこともあるという。どうも読んでいてもしっくりくるようなこないような、煙に巻かれたような感覚はある。「好きな食べ物」「好きな音楽」として使うならまだしも、「フガジ? ……好き」とつぶやくときの「好き」の品詞が動詞とか形容動詞だというのは、体のどこかが納得しない。


「好き」の品詞はよくわからないままだけれど、それは置いておいて、主観をあらわす言葉に対する抵抗感が強いときにぼくが書く文章はあとで読み返すと「硬い」し「悪い」。「好き」をやわらかく書き続けることにはあこがれがある。「好き」をうまく書くために大量の文章を書いている。ひとつの文章だけで「好き」が書き切れることはなく、いくつもいくつも書いているうちに相対として「ああ、こいつはなんかこういうものが好きなのかもしれないな」と、読み手にローンを返すような感覚で少しずつ積み上げていってようやく「好き」が書ける、あるいはまだ書いている途中だなと思う。