2022年1月13日木曜日

脳だけが旅をする

自分の中に、「すでにレーンが組み上がっているなあ」と思うことがある。新しい情報にアクセスし、それがスッと頭の中に、何の抵抗もなく入ってくるときなど、特に思う。


他者の情報が自分の中に入ってくるなんてのは、ほんらい、とても異常なことではないか。人体に異物が入って来たら、免疫が対抗する。それといっしょで、もともと自分の中になかったはずの情報が入ってきたら、違和感という名前の免疫が応答するはずなのだ。


「えっ、どういうこと?」という引っかかり。摩擦。自分の中にそれまでなかったものに対する一次反応。他者の思考に対してぼくの脳は、これまでの状態(ホメオスタシス)を保つために抵抗し、炎症が起こって、浮腫(むくみ)が周囲に波及し、熱を持って、痛みを伴い、腫れ上がって赤みが出る。細菌やウイルスに限らない、情報だってこのようなプロセスを辿るのが自然だ。


実際、4,5歳くらいの子どもをみていると、思考の自然免疫みたいなものがしっかり働いていることがよくわかる。「なんで?」「どうして?」の攻撃は、外界に対する脳の免疫反応だ。しばらくすると、強すぎる免疫はコミュニケーションを阻害するということに気づいて、成長とともに「なんで?」のサイトカインが目立たなくなるが、脳内ではあいかわらず、外界に対する驚きが火花としてスパークする時期が、長く続く。それはきっと、思春期以降まで延々と続いていく。


しかしそれも30代くらいまでだったのかもしれない。ぼくの場合、ここ数年、自分がまるで知らなかった情報に触れても、「えっどうして?」と思う前に、「まあそういうものもあるかなあ」と、スッと受け入れてしまう機会が増えた。

最初はこれを、「思考の免疫が弱まっているのかな」と考えていた。しかし、逆のパターンもある。違和を感じるまでもなく、「あっ、その考えはないわ」と、強力にはね返してしまって一切自分の中に取り入れない情報、みたいなものも年々増えている。

となるとこれは、「食えるものは食える、食えないものはそもそも口に入れない」みたいに、免疫以前に決まり事として、さいしょから仕分けしている状態に近い。


脳内にいろいろなレーンが組み上がってしまっている。自分なりの「常識」が凝り固まったと表現することもできる。レーンに乗せた情報に対しては、思考の免疫による精査を加えることなく、「まあそういうものだよ、ゴックン」と飲み込んでしまうし、レーンに乗らない情報については味見もしない。常識の範囲で接種できるものだけを食べて暮らしている、それで栄養価としてはまったく問題がないので、とくに困るわけでもない。


ある種の情報がまったく脳に侵入してこないならば、それは、この先のぼくの思考がほとんど、「過去のパターンどおり」に進んでいくということにつながる。


中年はよく、「旅をしろ、旅によって自分の知らない風景に触れろ」というのだが、そういう人たちの多くは、「旅をしていては触れられない情報」を最初から排除している傾向にあったりして難しい。一日中テレビを見たりマンガを読んだりせずに旅ばかりしているからそんなものの言い方になるんだよ、みたいな人もいる。


偏りに自覚的でありながら、かつ、免疫を取り戻す。ずいぶんと難しいバランス感覚で、考え込んでしまう。免疫は加齢とともに衰える。万能のワクチンがあればなあ、と思う。そんなものがあったらノーベル医学生理学賞である。……いや、平和賞か。