2022年1月12日水曜日

病理の話(615) 細胞の号令

いつもどおりマニアックだが、今日はさらに深度もけっこう深い話をする。



がん細胞のまわりには、いろいろと、がん細胞以外の細胞が存在する。その一部は、いわゆる取り巻きであり、太鼓持ちだ。がん細胞の機嫌を伺うように周りに付き添い、あるいはがん細胞から「恩恵」を受け取り、もしくはがん細胞のために身を粉にして働いている。はたまた、がん細胞がいるからなんとなく集まって来た、という野次馬みたいなやつもいる。そして、がん細胞と戦う警備員や警察官のような細胞も混じっている。

味方も敵も、おおにぎわいなのである。


したがって、顕微鏡を見るとき、白い背景の中にがん細胞だけが「ポツン」といるわけではないのだ。そこには背景があり、地図でいうところの「地」がある。さまざまな環境、文脈があって、そこでがん細胞が思い思いに分布し、あるいはがん細胞どうしで構造をつくり、さらにはがん細胞と周囲の細胞とで関係をむすんでいるのである。


このことを利用すると、病理医は、がん細胞を探す前に、「ああいうタイプのがんかもな」と気づくことができるようになる。




たとえば「とあるT細胞性の悪性リンパ腫」という病気がある。この病気は、「B細胞性の悪性リンパ腫」よりも、がん細胞のまわりに、好酸球やマクロファージといった「野次馬」がたくさん出現していることが多い。また、血液検査をすると、とある特殊な検査の値がすごく高くなっていたりもする。これらはいずれも、がん細胞がのさばる過程で、さまざまな「号令」を周りにかけることによる。ホイッスルを吹くと言ってもいいだろう。ただひそかに数を増やして陣地を広げていくのではなく、ピイーピイー、ブカブカドンドンと大騒ぎをしながら増えていくのだ。それに誘われたほかの細胞たちが、がんのいる場所に出現してくるので、病理医は、検査データを見て、顕微鏡をぱっと覗いた瞬間から、


「あれ、これ、もしかして、T細胞性のリンパ腫か、あるいはホジキンリンパ腫みたいなやつかもな……」


と、あたりをつけることができる。



で、今日言いたいのはじつはこの先の話だ。


若い病理医や医学生などといっしょに顕微鏡を見ているときに、プレパラートを顕微鏡にパチンとセットして見た瞬間にぼくが「うーんT細胞かな、ホジキンかな」と言うと、そこで若い人たちはとても驚くのだ。

「ま、まだ、拡大してませんよね、もう見えるんですか」

と。そこでぼくの機嫌が良くてやさしいときには、上記のような説明をする。「いやいやそういうわけではないですよ。でも当てずっぽうでもないです。なぜなら、がん細胞を見る場合には、細胞そのものを拡大するのはいいとして、それ以前に、地の状況を把握しておいたほうがわかりやすいからです」とでも言って、種明かしをする。

しかし、ぼくの機嫌が悪い、もしくは単に疲れている、いそがしい、あるいは……「ちょっと驚かせてやろう」と思うときなどには、このように答える。



「そうですね。見えますよ。まあこれからもっと精密に見ますけれどね」



こうするとたいてい尊敬される。べんりである。でもあとでいたたまれなくなって種明かしをする。すかさず軽蔑されてバカにされてなめられて師匠としての格を失って、ツイッターで「ヤンデルって嘘ついてハッタリかますんですよ」とか言われてぼくは泣く。