2022年1月19日水曜日

科学はまだまだである

「文學界」の2022年2月号で、哲学者の千葉雅也さんが以下のようなことを言っていた。

”文学的という言葉を、今日の科学的趨勢に対して弱腰に使うのはよくないと思っています。むしろ文学的な心とか無意識は、より複雑な構造を持っているがゆえに現在の科学の分析力の低すぎる解像度ではとらえきれない、と考えるべきでしょう。だから、心や無意識はより進んだ科学でないとわからない。科学以上の科学が必要な領域なのであって、科学ではとらえられない、ぼんやりとしたものである、というぬるい話じゃない。もっと精緻なものであり、科学はそこに向かって邁進しなければいけないぐらいに考えてますよ。”

のけぞって感動した。すごいな。



科学の追いついていなさ。科学はこれからも継続的に発展していかないと「そもそも低解像度すぎて役にたたない」という感覚を、ぼくは最近忘れかけていた。現代の科学は行くところまで行っているなあ、あとは些事に対する微調整だけだなあ、くらいの感覚であった。科学がこれだけ育ち切った今、科学が担当できない部分についてはもはや、科学以外でなんとかするしかないよなあ、くらいのあきらめすらあった。

けれども、違うんだな。「科学はそこ(心や無意識の解明)に向かって邁進しなければいけない」という言葉は、なんというか、ぼくの暗闇だった部分に光を当てた。そうか、まだまだなんだ。

科学者の仕事は多いなあ。








最近、ぼくも家人もノドの調子がよくない。咳がとれない感じである。幸い、例の感染症ではない。冬の乾燥によるものだろう、そういえば毎年目にする症状だ。

日ごろ、窓が結露するのがいやで、冬期も寝ている間は暖房をとめて換気扇を回している。こうすると朝方になっても結露は抑えられる。しかし、厳冬期に結露が起こらないということはつまり極度に乾燥しているということだ。ノドには決してよくないだろう。

そこで、ここ数日は換気扇を回すのをやめた。するとノドにはだいぶいいのだが、窓にはテキメンである。毎朝、すべての部屋の窓に激しい結露が出る。結露なんてただ濡れるだけじゃん、というのは大間違いで、窓についた水滴はそのまま垂れ下がって窓のサッシを傷める。だから、毎朝窓の水滴を拭き取る。

これがもう、理屈では運用できない作業の最たるものだ。

いや、頭ではいろいろ考えるんだけど、結局、手を動かし続けるしかないので、理屈がだんだん溶けていく。

たとえばマイクロファイバーのようなタオルは意外と吸水性が悪い。拭いても細かな水滴が窓に残ってしまう。古いタオルのほうが吸いがよい。そういうのは少し考えれば、理屈でわかる。しかし、窓と水分の量が半端ないので、吸水性がよい悪いにかかわらず、普段使いしている雑巾系の布を、とにかく物量的に投入して次々拭いていかないと、出勤前の短い時間では窓拭きが終わらないのだ(いちいち絞っている場合ではない)。あちこちの窓を拭くのに数枚の雑巾・タオルを次々とりかえながら一気にやりとげる。理屈ではない。まず運用することだ。

窓を拭く動きにもコツのようなものがある。上から下に拭いてしまうと、上部の水滴が下部に落ちてくるので窓の下のほうがびしゃびしゃになるから、下から上に拭き上げるのがいい。しかし、こうやって言語化した動きばかりでなんとかなるわけでもない。体の角度、手の震幅の細かさなどは、拭いているうちに少しずつ「効率的な体勢」に更新されていく。朝一番の身体の動きよりも、拭き終わるときの動きのほうが毎日必ずいい感じになっている。

今朝も無心で窓を拭いていたのだが、一瞬だけ思考が復活した。「ああー現代の科学ってまだまだだなあー、窓の結露すら効率的になんとかできてないじゃん……」。しかしこの思考もまた終わりなき腕の反復運動に飲み込まれてとろけて消える。科学はまだまだである。科学は邁進しなければいけない。