本当は、音声コンテンツこそが性に合っている。でも収録の手間を考えると無理だ。ツイッターくらい断片的に取り組めるならいいのだが、音声はそういうわけにはいかない。
今回声をかけてくださったのは、けっこう有名な音声アプリである。最初はまあやってもいいかなと思った。しかし、Twitter Spacesのようなお気軽不定期音声モノですら最近時間がなくてなかなかやれていないことを思い出して踏みとどまる。なにより、自分のタイミングで不定期にやっていいとは言われたものの、ある種の「箱」というか看板を多少なりとも背負ってしゃべるというのは、義務や恩義が増えすぎてしんどいと感じた。全方位からお気楽に眺められているPodcast「いんよう!」ですら、収録はいつもスケジュールぎりぎりである、やはりこれ以上コンテンツを増やすことはできないと思った。
コンテンツ? 自分のやっているものはコンテンツという言葉を使って表現するべきなのだろうか? 自分がやりたくてやっているだけのこと、あるいは、他人から頼まれていいなと思ってやっている類いのものを、いちいち企業の手法的に「コンテンツ」と名付けるほどのことか? まあそりゃ定義から見直せば、むしろこちらが本来のコンテンツという言葉にふさわしいとかなんとか言えるだろうけれども。
どうも少しずつ「毒されている」なあと感じる。こういう言葉を使うとまた頭の中にすぐデトックスとかブレインストーミングみたいな言葉がやってきてわあわあと騒ぎ出す。
以前にも書いたことがあるが、かつて一瞬だけ「コーチング」をやってもらったことがある。あまり性に合わずやめてしまった、というか、ここで性に合わないと書いたところ当のコーチがその記事を読んでいて、そんな気分でやるならやめたほうがいいと言われてやめることになったのだけれど、その短い付き合いの中で、言われるがままに自分の思考様式を図式化したことがある。
「ぼくはどうやって物事を考えているんだろう?」ということを、自分の脳に聞きながら掘り下げていくと、そこにある風景が見えた。
ぼくのまわりに4体のぼくがいる。右前方・左前方のぼくは、それぞれ「中心のぼく」の腰にまいた綱を引っ張りながら、右にウインカーを出したり左にウインカーを出したり忙しくぼくを牽引している。これに対し、右後方・左後方のぼくも、同じく中心のぼくの腰に綱を巻いてつながっており、それをくいくいと引っ張ることで、中心のぼくを留め置こうとする。真ん中にいるぼくはオロオロしつつ、4人のぼくが前だ後ろだとうるさく議論してるところを、まるで車の屋根にのっかった状態で、前後左右2つずつのウインカーをぜんぶ見ているような気分で、さてこのあとぼくはどっちに行くのだろうな、なんてことを、どこか他人事のように考えているのだ。
このイメージはコーチングの最中に引き出されたもので、というか、こういうイメージでもなければコーチは納得しないのではないか、と半ば「接待」気味にむりやり脳内で召喚したイメージだったのだけれども、結果的にこの「綱4本にひっぱられる感覚」は、思った以上にぼくの根源的なものであったなと今になってあらためて思う。
そして今回の音声コン……音声アプリのおさそいは、前2人がわりと引っ張ろうとしていたのだけれど、後ろ2人も同じくらいの強さで止めた。「なぜ止めたか」は彼ら4名がワイワイと激論しているのでうまく聞こえない、ただ、なんとなく今回は前後が均衡してしまった、というのがお断りした本当の理由だったのだと思う。さっきは「多忙を理由に」と書いたし、おさそいのDMにも多忙をいいわけにしたのだけれど、実際、もし脳内の4名のぼくがみな「進め!」と言ったらぼくはいくら多忙でもこの話を引き受けていただろう。そうならなかった理由……右後ろにいるぼくが、「そろそろ乱反射するような活動のエネルギーを少し落としたらどうだ」と、確かにつぶやいた。ぼくはその声が、腰に結びつけられたとても太い綱のように思えて、それ以上どうしても前に出ることができなかった。