今年の正月は、少し気を抜いてゆっくりできた。年末にさまざまな仕事が一段落できたからである。
そして、年明けからは新しい「研究」をスタートさせた。
研究と言っても、マイクロピペットを持ってマイクロチューブの中に酵素を入れるような、いかにも「マッドサイエンティスト的」な実験は、ぼくはしない。
「答え」がはっきりわかっているような、クイズを解くのとも違う。
ある病気の、まだよくわかっていない部分に対し、「ぼく(病理医)がプレパラートを見てみることで、何か新しいことがわかったりしないかな……」という感じで取り組んでいく。
「この病気を病理医に見せたら、どんな意味を感じ取るだろうか?」という、臨床医のモチベーションに駆動された、「臨床研究」である。
研究と書いたが、イメージとしては開拓に近いかもしれない。
つまりぼくは未開の原野を開墾する屯田兵なのである。
比較的珍しい病気。年に数回くらいしか、診断の機会はない。これはぼくの勤める病院に限った話ではなくて、全国のどんな病理医も、これまでそれほど多く経験してきたわけではないはずだ。
有効な治療法があまりない。命にかかわるような病気ではないが、長年症状が続く。
この病気をさまざまな人が研究している。診断の精度をあげ、治療を開発し、治療の効果をどのように評価していけばいいかを検討する。
検討の過程で、とある臨床医が、ある「所見」に気がついた。この病気の患者にある検査をして、ある画像を取得すると、そこに特徴的な像が浮かび上がることがある。
病気がある「像」を結ぶとき、その像を形作っている要素を細かくひもといていけば、細胞に行き当たる。ミクロの世界のこまかな構造が、積もり積もって、マクロな「像」の形成に繋がっていくのだ。
そこで、臨床医は、ぼくに声をかける。
「こういう特徴的な病像を示すことがあるんですよ。この部位から細胞を取得しておきました。いかがでしょう、病理医から見ると、なにか、特別なものが見えますか?」
……もし、ぼくの目に「特殊な像」が見えれば、それは福音だ。今度から、この病気の患者さんに出会ったら、このような病像の部分から細胞を採取することで、病理医が何かを評価できる可能性がある。
一方で、もし、ぼくの目に「何も特殊な像が見えなくても」、それはひとつの結果なのである。この患者にとっては、細胞を採ってきて病理診断をしなくてもよい、という判断も大切なのだ。
さあ、どうだろうか。ぼくは、この珍しい病気の患者「2名」から採取された、複数のプレパラートを見て考えている。
……どうやら……今のところ……何も特殊な像はみえない。つまり病理医が役に立てる部分はないのかもしれない……。
しかしあるところで、ふと気づいた。あ、これは、H&E染色ではよくわからないけれど、あの「免疫染色」をする価値があるのではないか? ということに。
「免疫染色」という手段で、細胞を違うやり方で染めると、人の目に見えてくる情報がまるで変わる。この病気の患者から細胞を採取することで、ある興味深い結果を見出すことができるかもしれない。
こうして新しい臨床病理学的研究がはじまった。今年のうちに、学会報告を2回、論文での報告を1回できるのではないか、と考えている。さてそううまくいくものだろうか。がんばらなければならない。