2022年1月27日木曜日

顎ago

サザエさんが夜遅くに帰ってきたマスオさんに「疲れた疲れたと言いながら飲んで帰ってくるのね。わからないわ」と言うマンガがある。するとマスオさんは「痩せたい痩せたいと言いながら焼き芋食うのとおんなじさ」と返す。

それと話はまるで違うのだけれど、「わからないわからないと言いながら後生大事に持っている本」がある人はしあわせだなと思う。ロシア文学とか哲学とか、あるいは翻訳に成功していないパピルスとか(そんなシチュエーションにいる人がどれだけいるだろうか)。



今の短い二段落を書いていて思ったのだが、どうもぼくは子どものころに読んだマンガの言い回しを今でも引きずっている。ドラえもんの「ばかだねえ。じつにばかだね」を、そのまま使うことはないにしろ、たとえば電車に乗っていて橋を通過するときに「橋だねえ。じつに橋だね」とひとりごちて、こっそりクスクス笑っていたりする。当然その次の瞬間には、『ぼのぼの』のアライグマくんのセリフ、「どうしてみんな橋を見るとあっ橋だとか言うんだよ。バカみたいだぞ」というのを思い出すのである。

時代をいろどる名作は、絵がうまいとかストーリーがよいとかはもちろんのこと、節回しも図抜けているので、こうして何年経っても脳に残っており、ぼくのしゃべり方の構造の「梁」になっている。ところで、今「名作」と書いたが、思い返すと覚えているのは必ずしも超有名作ばかりではない。

ドラえもんを表紙にあてがいながらも実際には藤子不二雄が描いていない学習マンガ、というのがうちにあった。「ドラえもん 日本のなぞとふしぎ」(ドラえもんふしぎシリーズ)というのをよく読んでいた。しらべてみると1980年の刊行である。この中に、たしか『のんきくん』の片倉陽二っぽい絵柄の人(本人だったかもしれない)が書いたドラえもんの話があって、ドラえもんとのび太がピラミッドに潜入して進んでいき、奥底でみつけた配電盤的なコンソールのところで、なぜか見つけた説明書きにしたがって、

「左のレバーを右に、右のレバーを左に倒し、真ん中のスイッチを押すと」

としゃべりながら操作をすると、そのノリを引き継いで

「余がめざめる」

と声がしてミイラが棺から起き上がる。このシーン、じつに35年以上覚えているのだからちょっと引く。そして、覚えているだけではなくて、

「○○を○○に、○○を○○し、○○をすると、(別の人があとを引き継いで)○○が○○。」

の構造は、ぼくがかつて某所で書いていた小説などでときおり登場させた。なんか覚えがある。



物覚えがよい? いや、違うと思う。だれにもあるはずだ、子どものころに読んだ本だけは覚えているとか、本とは限らずたとえばテレビとか、親や先生や同級生などが言っていた口調とか。

なぜそんなものを覚えているのかと考える。

たぶん、あのころは、一度遭遇したものをいっきに飲み込んで消化してしまうのではなくて、まず何度も見て、周りを動き回って、手をあててなで回して、こいつはぼくの中に取り込めるものなのか、取り込むとしたらどこをどのようにかみ砕くべきものなのかと、今よりはるかにくり返しくり返し吟味していた。

鬼滅の刃も呪術廻戦も数回ずつしか読んでいないが、ドラえもんも三國志もドラゴンボールも10とか20というオーダーではない回数読んでいた。トイレにおいてあったサザエさんやコボちゃんやいじわるばあさんもそうだった。そうやって、「そっち側を解読するための回路」をどんどん作っていったから、いまや、脳からほかの機能を取り出そうと思っても、どのシナプスをどう発火させても過去のドラえもんルートやサザエさんルートがピカピカ光ってしまうのだろう。

思い起こせば息子も小さいころは、気に入ったフレーズを何度も何度も口にしていた。大人からすると「もういいんじゃない?」と言いたくなるくらいに何度も口にしていた。ああやって外界の手触りを確認していたのだろう。先日、夜更かしをしたという息子に何をしていたのかとたずねると、小説を読んでいたと答えた。ぼくはその小説を読んでいないのだが、これから読んだとしても、彼ほどにはかみ砕けないのだろう、大人になるとアゴが弱くなるというのは本当だなと思った。