2021年6月18日金曜日

怒らないことだ

たとえばあなたが、「いわゆるニセ科学を信じている人」を見たとする。


そこで、

「ニセ科学は論理的に破綻しているのだから、ていねいに、やさしく、しっかりした論理の科学を語り続ければ、いつかそのアヤシサに気づいて、ニセ科学を捨ててくれるはずだ」

と考えること自体は、いいと思う。

でも、そのやりかたはたぶん、あまり通用しない。

そもそも、「丁寧に論理を追いかけていくやりかた」でニセ科学を捨てられるような人は、そもそも最初から、ニセ科学に自分の身を委ねない。


「論理が破綻していようがいまいが関係ない。ニセ科学のほうが自分に安心を与えてくれる」

という考え方は現実に存在するし、

「正しいほうの科学が別にあることなんて、とっくにわかっている。でも、正しさはこれまで自分を傷つけてきたから、正しさを基準にしてもいいことはない」

という考え方もある。





科学が人を救うとき、そのありがたみは、小さいころから「論理を積み重ねることで得をした経験」がある人ほど強く感じられるように思う。


「なるほど、理路整然としているとこんなに美しいんだ」

「そうか、論理が通っているとこんなにモヤモヤしないんだ」

「へえ、適切な科学によってぼくはこれだけいい気分になれるんだ」

「知らなかった、科学によってぼくはこんなに得をしているんだ」


でも、このようなうれしい体験がなかった人はいっぱいいる。

論理の正しさが自分にとって今やなんの意味ももたらしていないと発言する人たちがいる。





先日。あるウェブイベントを見た。

そこでは登壇者たちが、マスクをせず、近距離で、長時間にわたって、アルコールを摂取しながら自然とおしゃべりをしていた。

ひとりがこのように発言した。

「いつまでこの厳しい世の中が続くんでしょうねえ」

するとひとりがこのように返した。

「緊急事態宣言は伸びちゃったからねえ。宣言が終わればまた日常が帰ってくるんだけど」


科学的にぼくはつっこみたくなった。緊急事態宣言の有無が問題なのではない。宣言が終了したからといって、ワクチン接種が進むまでの間は、「かつての日常」を取り返してはだめなのだ。というか、そこで油断してかつての日常を取り戻してしまう人が多いから、リバウンドがやってきて、次の波が襲いかかってくる。

しかし、このつっこみは、脳の外に出ることはなかった。

登壇者はみな、いわゆる高学歴であった。整然とした理路を持ち合わせてもいた。少なくとも、「科学」を疑うようなタイプの人びとではなかった。

でも、今の彼らにとって、「論理的に正しい日常生活」には何の魅力もなく、対話とアルコールを前に「感染症理論」が何かの救いになることもない。

「ただ、緊急事態宣言でお店が閉まることがつらい」のであって、宣言が開けたらそれは酒を飲んでいいということなのだから、ウイルスがいようがいまいが飲み食いをする。これは彼らの中では筋が通っていることであり、限りなくニセ科学に相似した素敵な拠り所なのであった。






非科学的なことを目にして怒りをためこむ自分を俯瞰する。ぼくは何に怒っているのか。何をはがゆく感じているのか。

科学をはずれた人が結果的になんらかの損をすることを惜しむならば、心に湧き上がる感情は怒りではなく悲しみのはずだ。ぼくが怒っているのはなぜなのだろうか。

それは、「科学」という、自分が拠り所にしているものを、他人が踏みにじっていると感じたからなのではないか。

ぼくは価値観の相違に耐えきれずに、自分の過去を肯定するために怒りという感情を召喚しているだけなのではないか。

何を言えば科学の子は役割を果たせるのだろう。

少なくともこの怒りはあまり役に立たないのではないかと感じた。メタな視点から見た自分の体温がスッと下がっていくのを確認した。

ていねいに、科学を語ることは、これから情緒を積み上げていく子ども達のためにも必要だ。大人だって現在進行形で経験を上乗せしていくのだから、科学を語ることは続けていいだろう。

でも、「科学に寄っかかれなくなっている人たち」にそのアプローチはどうやら通用しない。

……スマホが一時の癒やしをくれたことに、いちいち感謝する人は少ないように、科学の恩恵は心の中で摩耗し、偉大な医療の歴史は偶発的な日常にかき消されて忘却される。




怒らないことだ。敵対しないことだ。拠り所になるために。

それしかないのだと思う。自分が怒りそうなとき、そこには、「論理の破綻」がある。