ようやく自分の仕事まわりの知識が増えてきて、ある程度専門的な会話もできるようになってきたころ、たまたま「咳」についての本を読んだ。
咳の原因というと皆さんは何を思い出すだろうか? かぜ? 肺炎? マニアックなところでは「胃酸が食道に逆流する」なんてのがあるし、ほかにもびっくりするような原因で咳が出ていることはあるのだけれど、ま、そのあたりはいちおう、学校でも習ったし、ふだん患者を直接みていない病理医のぼくであっても、知ってはいた。
しかしそのとき読んでいた本には、当時のぼくが知らない概念が1つあった。後鼻漏(こうびろう)という。咳の原因としてはかなり多いと書いてあってぼくは愕然とした(だから今こうしてそのときのことを思い出せる)。
「ええ、そんなの、習ってないよ!!!」
後鼻漏というのは鼻水がノドに向かって流れ込んでいくことだ。大多数の人にとっては病気でもなんでもない。多かれ少なかれ、人間であれば誰でもそうなっている。ただしなんか量がちょっと多めだとかいろいろな理由があると咳の原因になりうる。放っておいても特に問題はないし、鼻水のほうをケアすると咳も自然と減っていく。咳があまり気になる場合には医者に相談するといい(耳鼻科か内科がいいと思う)。ちなみにぼくも後鼻漏もちである。ときどき咳き込んでいるのはそれだ。
説明するとじつに簡単。しかし、ぼくはこの後鼻漏を学生時代に習った記憶がない。寝ていたとかではなく、カリキュラムに入っていなかったと思う。
※余談: 業績がすごい医者がたまに「学生時代サボっていた」とか「寝ていた」とか「バイトしかしてなかった」などと公言して親近感を集めているケースがありますけれども、そういう人もまず間違いなく卒業後のある時点で死ぬほど勉強しているので学生のみなさんはあまり参考にしないほうがいいと思います。
当たり前といえば当たり前である。膨大な医学の知識をすみずみまで「授業」で教えるなんて無理に決まっているのだから。
ただ……これは、かなりショックだった。
たとえば、「免疫関連有害事象」を知らなかったとか、「カーニーの三徴」を知らなかったとか、「タスキーギ梅毒事件」を知らなかったとか、「ダーモスコピー所見のさなぎ構造」を知らなかったというならば、そこまで衝撃を受けなかったと思う。業界内では超絶有名だけれど、専門医以外はほとんど知らないオタク知識なんて、この世界には売るほどある。
でも「後鼻漏」だぜ……? 頻度めっちゃ多い……。
こんなことすらぼくは知らなかったのかよ……医学部で何習ってんだよ……とがっくり来てしまった。
振り返ってみると、病理診断の世界にもそういうことはやまほどあった。学生時代から何年も顕微鏡を見ていたぼくが、対物レンズの真下にある「なんか光のキレ味をよくするレンズ的なアレ」をコンデンサーと呼ぶと知ったのは医師免許をとったあとだ。組織球とマクロファージの呼び分けだって、学生のころはなんだかよくわからないままに用いていた。「そこを知らないでよく今までやってこれたな!」という知識は、ほんとうにいっぱいあった。
「後鼻漏事件」以来、専門的でマニアックな部分に落ち込んで楽しく自分の仕事をしている最中も、心のどこかで、「今この瞬間にも、あのときの後鼻漏のように、お前それすら知らないのかよ、っていう当たり前知識がそこら中に転がってるんだろうな」という気持ちに襲われるようになった。自戒すると同時に、「そんなことも知らないで○○やっているのかよ」という言葉は毒針みたいなものだな、という思いが、じわりと心の中に広がっていった。こういう現象はあるんだと知って「対策」をしなければいけない。そして対策というのはそう簡単ではない。ひとつ、おそらく有効だと思っているもの、それは、「自分だけで働かない」ということなのだが、この話はさまざまな方に拡散していくので、今日のところはこのへんで項を終える。