2021年6月24日木曜日

まちカドかがく

『まちカドかがく』を読んでいたら普通におもしろくて笑ってしまった。文庫の体裁で作ってもらって、いわゆる「普通の本」の顔をして本棚に収まっている。


編集者の介入がなく、それぞれの著者がそれぞれに書いたことがそのまま載っているだけ。文フリで出した同人誌のままである(ただし校正は入れていただいた。また、浅生鴨さんの前書きと後書き、対談を新たに載せてもらったので完全にイコールではない)。本としての完成度が低くなる部分があるとしたらそれは「編集の不在」によるものだよなと内心気を揉んでいたが、できあがったものを読んでみても違和は感じない。物語には物語の、論考には論考の、味わいと奥深さがきちんとそこにある。硬くなっていた肩をもみほぐす。


ぼくの書いた文章はボリュームでいうと10分の1くらいしかない。一番稚拙なぼくの小説が全体のクオリティを下げずに済んだ、と結論してもよい。ただ、ぼくは自分の書いたものを読みながら、いや、これは人に勧めても大丈夫だ、と途中から少し胸を張った。小説としてとりわけ優れた技巧があるわけでなく、市場との摺り合わせも一切行っていないが、ここには確かにぼくの精神世界が存在している。そんなものを自分が短くも書けたことに、なんというか、満足感というか達成感があるし、ぼくが普段使っている脳をそのままドライブさせて生まれた文章を世に出すことは、ツイートをしたり仕事相手と議論したりするのと同じように、これがぼくの回路だと世に話しかけるコミュニケーションの一環である。自分の回路、それはおそらくブラックボックスで中は見えない迷路なのだが、ここに何を流し込んだらどういうものが出力されるのかをさまざまな方法で見ることがひとつながりの人生になるのだと思う。


https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784991061462 (まちカドかがく 版元ドットコム)


版元ドットコムを貼っておいてあれだがKindle unlimitedに入っているとなんとこれ無料で読める。どういう仕組みなんだ。すごいな。




ぼくの書いた小説『FFPE』は、病理検査室で用いる専門用語であるFFPE (formalin fixed, paraffin embedded)、すなわち「ホルマリン固定+パラフィン包埋」に対する言葉遊びである。ホルマリンをフィクションに、パラフィンをプロットに入れ替えて、Fiction fixed, plot embedded。

ぼくらは日ごろ、外界からやってきた現象を五感で受け止めて脳に運び、各人が育てた虚構(フィクション)の中に浸漬して変性させて固定する。物理世界のそのものずばりを認識しているわけではなく、必ずお手持ちの物語をブレンドして変化させてから認識しているということだ。このことは、クオリアでもイデアでも物自体でも何でもいいが、科学と哲学がくり返し指摘してきた。

外部の刺激は変性させられるだけでなく、都合のいいように並べ替えられる。すり減るほどに日常遣いしている各人固有のプロットに沿って、ストーリーとして組み上げられる。アニメの絵コンテの順序を入れ替えるようなことが誰の脳でも起こっている。「もともとの配置」とは多少なりとも異なった物語が人それぞれに脳の中で完成する。矛盾など自覚できるはずもない。「言った言わないの議論」が進化の過程で解決できなかったのはなぜだろうと昔から不思議に思っていたが、なんとなく最近その理由がわかった気がする。一度理解したことがあるプロットに埋め込むことで、ぼくらは生(き)のストーリーにナレーション narrationを付けて読むことができる。それをナラティブ narrativeと言う。

Fiction fixed, plot embedded. 病理診断ではFFPEを遂行してしまえば検体の時は止まる。文字通り固定され、永久標本と呼ばれ、病院の倉庫で何年でも保管可能となる。では精神のFFPEを行わない、行えない人間がいたら、その人はいったい精神の倉庫をどのように整頓するだろう。じっさい、書いてみて、ははあぼくはこんなことを考えたかったのか、なるほどそういう回路を持っているよなあ、と我ながら感心したものである。『まちカドかがく』のFFPEでぼくは芥川賞を狙ったが、残念ながらノミネートには漏れた。一世一代の作品であり、せめて多くの人に読んでほしいなと願っている。



http://www.hanmoto.com/nekonosuf (まちカドかがく ネコノスの書店FAX用紙)