2021年6月25日金曜日

病理の話(549) チールニールゼンとの戦い

超絶マニアックな話ですので肩の力を抜いて2,3回ジャンプして体をほぐしてから読んでください。



「肺がんの疑い」がある患者の話をする(架空の患者だ。しかし、今日の話に似た経過をたどる人はそれなりの頻度で存在する)。

肺に影があることがわかった。レントゲンだとわかりづらいが、CTだとはっきり見える。せいぜい、1 cmと言ったところか。小さい。

その影は、内部が空洞化している。穴のへりの部分に、何やら「できもの」が取り巻いているように見える。まるで小さなドーナツだ。

※実際にはドーナツの形ではなく、中が空洞になったピロシキやポットパイのような形状である。しかし、CTは輪切りにして断面を見る検査なので、ドーナツのように見える。

「ドーナツ」の周囲は毛羽立っており、なんらかの細胞が、周りの肺に向かって染み込んでいるところを想像させる。


もしかするとこの病変はがんではないかと考える。がんがマリモのように育ちながら周りに染み込んでいく過程で、マリモの中心部が荒廃して脱落し、内部がポットパイ的に空洞化することがある。


しかし、がん以外にも、このような形をとる病気はいくつかある。その代表が結核だ。

結核というと、咳をして、血を吐いて、沖田総司、みたいなイメージがある。しかし実際にはさまざまなスタイルをとる。必ずしもゲホゲホ咳き込んでいる人ばかりが結核なわけではない。無症状の結核というのも近年じわじわと増えてきている。


この小さな1 cmの病変が、がんなのか、結核なのか。

まるで治療法が違う。

1 cm程度のがんならば、肺をそれなりに大きく切り取り、肺の近くにあるリンパ節まで切り取る「手術治療」を選ぶことが多い(特に今回の、空洞をつくるようながんならば)。

しかし、結核だったとしたら、肺を切り取っても根治しない。抗生物質を投与しなければいけない。

大きな手術をするか? 抗生物質中心の治療をするか? がんか結核かでぜんぜん違う。じゃあ、どうやってこの二つを見極めるのか。


じつは、体に傷をつけないで行う検査では、この2つを厳密に見分けられないことがある。血液検査をしようとも、CTを丹念に見ようとも、「がんっぽい」「結核かも」まではたどり着くのだが、確定診断まではいかないのだ。


そこで……まず、手術をする。


ただし、激しく大きな手術をするのではない。1 cmのポットパイが含まれたところだけを、小さく切り取る。


そして、病理医にわたす。手術の真っ最中に。


病理医は小さく切り取られた肺を、ビニール袋で包んだまま、袋の口から手だけ入れて、ナイフでそっと切って、病変を目で見る。


空洞の中からとろりと、何かがとけて出た。そして……空洞の中に残る、ぼそぼその、チーズのような物質。


「あっ……結核の可能性が高いな」と判断する。結核の病変には乾酪壊死(かんらくえし)と呼ばれる、独特の変化が出るからだ。


手術室にそのことを伝える。外科医は病理医の見立てを信じて、この病変が「おそらく結核であろうと判断」し、それ以上傷をひろげることなく、肺の一部を切り取っただけで手術を終了とする。


もし、病理医の見立てが「がん」だったなら、外科医は手術をそのまま続行して、残りの肺をだいぶ大きく切除し、リンパ節もとった。


でも、病理医が「結核っぽい」と言ったから、肺を切る作業はそこまでにして、手術を終えた。





切り取ってきた肺の一部は、ホルマリンに漬けられる。しばらく置いておけば、結核菌の感染性はなくなり、安心して標本作製作業に入れる。


病理医は、プレパラートになった病気を、顕微鏡で、じっくり見る。まずは対物レンズを2倍にあわせ、4倍に拡大し、10倍、20倍、40倍、60倍まで観察。これとは別に、接眼レンズでも10倍の拡大がなされるから、最終的には60×10=600倍の視野での観察となる。


そこまで細かく観察して、いったい、何を見るのか? なんと、「結核菌」そのものだ。チール・ニールゼン染色という特殊な染色を使うと、結核菌は目で見られるようになる。


病理医がチール・ニールゼン染色で赤く染まる結核菌を見つけることができれば、手術中の見立ては正しかったということだ。ここまで、CTで空洞をみつけ、手術中に中を直接見て、チーズのような乾酪壊死まで確認したけれど、これらはいずれも、「犯人が引き起こした犯罪の痕」でしかない。犯人そのもの=菌体を直接観察したわけではない。


だから、病理医は最後に、結核菌を直接目で見て逮捕しなければいけない。




この作業は、相当しんどい。


目で見て明らかに病変がある1 cm大のカタマリ(内部は空洞化)。たった1 cmだが、600倍という高い倍率で観察すると、100視野か、200視野か、とにかく相当じっくり見ないと、全貌を見られない。


おまけに、この1 cmの範囲に、目でわかるような結核菌は……せいぜい、1個か2個、くらいしか見つからないのがザラだ。


体感でいうと、ウォーリーを探せの一番難しいやつでウォーリーを探し出すよりもちょっと難しいくらいの作業になる。しかも菌体はドチャクソに小さい。病理医になって10年未満の人だとほとんど見つけられないこともある。コツと根気と経験が必要な作業である。




病理医は、手術中に、「これは結核菌のしわざだ」と見抜いて、外科医に手術をそれ以上勧めなくていいよと進言している。だからその責任をとって、しっかりと犯人捜しをする。この作業はけっこうしんどい。ぼくはチール・ニールゼン染色を見る時間帯は午前中と決めている。疲労が溜まってきた夕方にチールを見るのは相当しんどくて、見逃すリスクが上がると考えているからだ。心を落ち着けて、体に元気がみなぎっていないと、結核菌探しははかどらない。そうやって、自分の判断に、責任をのっけてケリをつけるのである。