2021年6月29日火曜日

病理の話(550) どうしても自分で見たいという臨床医の話

たとえば消化器内科医、中でも胃腸内科の医者たちは、外来で患者と対話をし、病棟に入院した患者の診療計画を立て、ときには内視鏡室で患者に胃カメラや大腸カメラを施行する。

この、仕事のごく一部……。

最後の「胃カメラや大腸カメラを施行する」の続きとして、「カメラの先から伸ばしたマジックハンドで、粘膜をつまんで採ってきた場合」に、ようやく、病理が役に立つ。とってきた「細胞」を見て診断を下すのが、病理医の仕事だからだ。

逆に言えば、消化器内科医はそうそうしょっちゅう病理に用があるわけではない。

「細胞をとらなければ仕事にならないシーン」というのは、そんなに多くないのである。



たとえば患者が「胸焼けがする」と言ったら、まずやるべきことは詳細な聞き取りだ。事情聴取? いや、医療面接、と言おう。問診という言葉もあるとおり、話を聞くことは「診」である。診療の要。

どういうタイミングで胸焼けがするのか。朝目が覚めたときか。食前、空腹時か。食べ終わったあとか。毎日するのか、たまになのか。胸焼けと本人が表現しているのは、胸の違和感とは違うのか。どれくらい症状は持続するのか。どういうことをするとその胸焼けは良くなる・悪くなるのか。たとえば水を飲んだら落ち着くか。

最近の暮らしぶりはどうか。体重は増えたか。お酒はどれくらい飲むのか。タバコはどれくらい吸うのか。

これまでにどのような病気にかかったか。家族から何か体調について言われたか。

さまざまな情報から、患者が抱えているトラブルが総合的に浮かび上がってきて、医者は処方を考える。

「細胞をとって検査しましょう」という結論が毎回出てくるわけではない……というか、胸焼けのケースでは細胞をとる意味はあまりない。


同じようなことは、「便秘」にも言える。便秘で苦しんでいる患者の腸から細胞をとっても、わかることは(その時点では)あまりない。


もちろん、さまざまなシチュエーションの「あや」というものがあり、あっ、これは細胞とる案件だな、と主治医が判断したら、胸焼けだろうが便秘だろうが、即座に細胞が採取されるのだが、それは比較的まれだということだ。



胸焼け、胃もたれ、便秘、下痢。頻度が高いトラブルでは、一般的に、消化器内科医は病理に用がない。

となると、彼らにとって、「病理」というのはたまーに訪れる相談室みたいなイメージだと思う。



さて、そんな胃腸の医者たちが、いざ病理に何かを頼むとき、すなわち意を決して相談室を訪れるとき、ここにはある種の「文脈」が存在する。

「できものの正体を確定する」とか、「色変わりした粘膜の理由を知る」と言った感じで、病気がある程度目に見えているときに、その性状を判断してほしいという明確な目的がある。これは言ってみればシチュエーションが限定的だということだ。

すると、一部のドクターは、「いつもの自分のテリトリーと微妙に違うからさー、あとはそっちでやっといて」、てな気分になったりもする。ここから先は病理におまかせ、とばかりに。

病理診断報告書が書類でやってきたら、ささっと確認して、患者への対処を考えて、またいつもの「病理抜きの日常診療」に戻っていけばいい。

そう考える医者は、実際、多く存在する。



でも、一部の熱心な医者は、「せっかくだから病理にお願いした患者の一部も、自分で見ておこうかな」という気になるんだそうだ。

病理医に任せっぱなしにするのではなくて、自分でも顕微鏡を覗いて細胞のあれこれを知りたくなる医者。たまにいる。割合にすると、3割と言ったところかな。もう少し少ないかもしれない。2~1割くらいかも。ただし優秀な医者ほど、自分の患者に対する情報の評価を人任せにしない傾向があるように思う。ぼくは優秀な医者と付き合っているシーンしか記憶に残らないので、ほとんどの医者は自分の患者の細胞を自分の目で確認しにきているように錯覚しているけれど、ま、レアなほうかもしれない。



さて、病理に細胞を任せきりにしないタイプの医者は、病理医とわりと頻繁にコンタクトをとる。「こないだのあの人の細胞、見に行っていいですか?」というお決まりのフレーズをよく聞く。また、早朝や深夜に病理にいると、標本庫のほうの灯りがついて、誰か来たかなと思って見に行くと臨床医が自分の患者のプレパラートを探している、なんてこともある。そのあとは病理検査室にある共用の顕微鏡でじっくり細胞を見てなんだか感心して帰って行く。


ぼくはそういう臨床医たちと一緒に働くのが好きだ。一流の臨床医は、自分が扱う疾患の病理診断についてはある程度詳しくなっている。さすがに病理医のぼくより詳しくなれることは滅多にない(だから病理医という専門職が成り立つ)のだが、ぼくよりもはるかに身近に患者を見ている彼らの目線は、ぼくが細胞を見るのとはひと味違った光を発する。まして、横に病理医が一人ついて、軽く細胞の見方をレクチャーすれば、その臨床医はどんどん細胞が意図するところを読みとっていけるようになる。



臨床医にとって、「なぜ患者があのようになっているのか」を、自分で細胞を見ながら考えていく作業というのはとてもアトラクティブだと思う。そういう熱心な医者が、「なぜそう見えるか」を学ぶ際に参照すべき教科書というのは、最新のエビデンスに基づくガイドラインだけでは不十分である。細胞のことを知り尽くし、臨床の空気もよく知っている、ハイブリッドな著者が書いた「医療現場のナラティブ」を語った本でなければ通用しない。そういう本は探すのに骨が折れるが、全国津々浦々で臨床医とともに頑張っている病理医の本棚には、わりとこの特殊なタイプの医学書が多く並んでいる。


ぼくはこれまで様々な病理検査室で「病理医が選んだ本」を見て覚えてきた。病理医であれば必ず置くタイプの組織診教科書とは別に、ああ、これはおそらく、病理検査室を訪れる臨床医のために置いてくれている本なんだろうな、というのが見えてくることがある。そういう病理検査室の運営をしている病理医は、みな話がうまく、頭が良く、業績が豊富で(単にインパクトファクターが高いだけではなくカバーするジャンルが広かったりする)、何より人に好かれている。目指したいものだ。目指すしかないだろうと思う。