2016年10月25日火曜日

病理の話(11) ディーパーシリアルセクションのすすめ

ひとつ切っては患者のため、ふたつ切っては医者のため、ヘイヘイホー。ディーパーカット。

Deeper cutという手技がある。日本語では「深切り切片作成」などという。ふかぎり。コーヒーが香るような語感だ。

なにを「より深く」切るのか。



プレパラートに乗せるのは、4マイクロメートルという極薄の検体である、という話を、以前にここで書いたことがある。これくらい薄くないと、染色したときにうまく細胞の断面が見えてこない。検体を4マイクロメートルに薄く切るのは「薄切」といい、病理の技師さんの専門技術である。

これ、検体を4マイクロメートルの薄さに切っても、「元の検体」は当然、まだ残っている。うまく削るために何度か表面にカンナをかけ、いざ、エイヤッと4マイクロメートルの薄さで標本を1枚作り出しても、まだ検体はけっこう残っている。この残った検体は、病院で半永久的に保存される。

なお、検体は、そのまま保存されるわけではなく、実は、パラフィンと呼ばれる物質の中に沈められて固められた状態にある。

寒天の中にフルーツを埋め込んだ、夏の涼やかな創作和菓子を想像してほしい。ぶどうとかさくらんぼのような小さなフルーツを寒天でかためたあと、ナイフで縦にスッと切ると、フルーツの断面がきれいに出てくるだろう。病理標本作成でやっていることは、そういうことだ。寒天がパラフィン。フルーツが検体に相当する。この寒天、フルーツを切りやすくする「台」として働くと同時に、検体を末永く保存するための「保存媒質」としても作用する。

さて、4マイクロメートルで切り出した検体をプレパラートにして、じっくりと見る。そこに、少しでも……細胞1,2個でも、何かアヤシイ所見があったとする。

優秀な病理医であれば、たとえ細胞1,2個の変化であったとしても、必ず見極めて、正しい診断を下す……?

いや、実は、優秀な病理医ほど、小さい検体でいきなり診断を下すことはしない。

Deeper cutをするのだ。

保存してあるパラフィンブロック(寒天固めだ)を取り出してきて、技師さんにお願いして、4マイクロメートルの検体を、追加で15枚くらい作ってもらう。

検体が、少しずつ削れていく。すると、「面が少しずつ変わる」。

寒天にうめこんだフルーツを、次から次へと4マイクロメートルで切っていこう。フルーツの断面は少しずつ変わっていくだろう。

たった4マイクロメートルずつ切り進んでいくだけではあるけれど。例えば、赤血球の直径はせいぜい6マイクロメートルくらいしかない。ぼくらが戦っているのは、そんなミクロの世界だ。ミクロの世界で、4マイクロメートルの標本を15枚も作ると、60マイクロメートルほど、「検体がずれる」。これはでかい。

このずれを使って、さっきは1,2個しかなかったアヤシイ細胞、そしてその周りが、どうなっていくのかを観察するのだ。

Deeper cutを作ると、アヤシイ領域がぐっと広がることがある。あるいは、見えづらかった細胞が見やすくなることがある。最初の標本には全く出ていなかった、腫瘍細胞や、周囲の変化が見えてくることもある。

この、Deeper cutを、どれだけ使いこなしているかというのは、実は、病理医だけがわかる、「病理医を見極めるヒント」となる。

Deeper cutをオーダーしたことのない病理医は、あまり診断の経験がないか、そもそも「病理診断」って仕事に興味がない((c)岸)。

あるいは、逆に、「自分の診断能力に絶対の自信があり、オリジナル(一番最初)の標本だけで診断をつけられる、ものすごい病理医」のことも、ある。

うん、この世界、ものすごい病理医も、いっぱいいますよね。



ところでぼくがこのdeeper cutを使い始めたのは、今の病院に来てボスに厳しく指導を受けてからだ。

それまでは、そもそも、deeper cutがこんなに強力な情報をもたらすことを、知らなかった。まあ、見ている検体の種類にもよるのだが、それにしても、ぼくは本当に、今の何十倍も未熟だったのだ。今もだけど。

もちろん、deeper cutにも制限はある。ときに、微小な検体がdeeper cutですっかり消失してしまうことがあるから、検体のサイズによっては注意が必要だ。あえてdeeper cutをせず、step section(説明略)にしておくとか、HE1枚+免疫染色(説明略)を選択した方がよい結果をもたらすこともある。また、手術検体では、そもそもdeeper cutが必要ないケースの方が圧倒的に多い。

けど、ま、胃生検とか大腸生検、肺生検、胆管・膵管生検などでは必須のテクニックですのでね。お若い病理医の方はぜひ、覚えておいてください。

……結局マニアックな方を書いてしまった。ぼくはいったい何と戦っているんだ。