2020年12月30日水曜日

病理の話(490) 口から入ってきたものは敵と認識せず攻撃しないことにしましょう宣言

ほむやアポストロフィ(’)に聞いた話の受け売りなんだけど、人間ってすげえなーと思う仕組みのひとつに「経口免疫寛容」というのがある。


熟語がみっつ組み合わさっているのでわかりにくい言葉だが、すごく単純にわれわれの日常ことばに翻訳するならば、


「口から入ってきたものは 敵と認識せず 攻撃しないことにする」


という意味のことばになる。




人間の体をほかと隔てているものといえば、皮膚だ。自分の腕の皮をひっぱってみよう。お腹の皮でもいい。この中がぼく、この外が世界。そう唱えながら。


人体は実際にそのように考えているふしがある。皮膚に傷をつけて侵入する外界の物質、たとえばバイキンとかウイルスの類いは、皮膚の中から下あたりにある様々な細胞が認識して、「ただごとじゃないな、お前、敵だろう」と判断してボッコボコに攻撃する。


このボッコボコのときに「炎症」が起こり、腫れ上がって、赤くなって、熱くなって、痛みが出てくる。戦いが起こっているわけだ。


で、この防御システムは、皮膚をやぶって入ってくるもののうち誰が敵か味方かみたいなことをなるべく区別しようとがんばるのだが、いいかげん侵入者が多いと、どれが敵かを判断しきれなくなる。


肌荒れを持っている小さなお子さんや、手に切り傷をつけたまま働いているシェフなどの「荒れ・傷口」(皮膚の抜け穴)から、バイキンやウイルスだけではなく、小麦粉とかオサカナの成分などが入り込むと、「ええいめんどくせえ、お前らも敵だろう」と判断して、人体は小麦粉やオサカナの成分も敵だと記憶してしまう。


すると、そのお子さんやシェフがのちに、「口から小麦粉やオサカナを摂取しても」、人体は「こいつ前に皮膚から入ってきたやつだぜ」と判断して、変わらずに攻撃を発動する。この過剰な反応が「アレルギー」と呼ばれ、人にさまざまな症状を引き起こす、というのだ。




まあ実際、よく出来ていると思う。皮膚という国境を越えてひとたび侵入したやつは、小麦だろうが卵だろうがオサカナだろうがみんなお尋ね者だ。そいつが口からしゃあしゃあと入国してきたらやはりマシンガンをぶっぱなす。これは国防としては(過剰だが)理解できなくはない。




そして人体がすごいなーと思うのはここからだ。いつまでも外界のすべてを排除していては厨二病……じゃなかった、それだと栄養すらぜんぶ攻撃して打ち倒してしまう。だから人体においては、外界のすべてを排除する皮膚とはべつに、「我々にとって役に立ちそうなものだったら入って来てもいいよ」と、寛容する(ゆるす)システムがそなわっているのだ。それを担当するのはどこか?


口の中! そして、胃腸! なのである。


人体がこのような「味方を区別するシステム」を口に用意しているというのはめっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっちゃくちゃにかしこい。


「あ、だから舌が味を感じるんだ!」


とぼくは腹オチ・手のひらポンした。とりあえず口に入れてみて、まずかったらペッと出す、ここでとりあえず雑多に敵味方をよりわけていたんだな。


そして、口に入れてなんかおいしいなーと感じたらそのまま飲み下す。舌や胃腸の粘膜に接し、その後吸収された食べ物に関しては、「こいつらは味方なので今後通しても大丈夫です。」という指令を出し、それが全身の免疫細胞によって共有される。


これが経口免疫寛容、「口から入ってきたものは 敵と認識せず 攻撃しないことにする」である。マーなんともうまくできたシステムだ。ほれぼれする。

2020年12月29日火曜日

ブルガリアのほうがたぶん寒い

マフラーを巻いてからコートを着るのは、首筋からのすきまかぜを少しでも減らすためである。ダナーのスノーブーツ(短いが信じられないほど温かい)を履いて、家のカギを締めるのにも苦労するような厚手の手袋を履いて(手袋をはめている人はなにもわかっていないのだ)、車に乗ってエンジンをかける。すぐに膝掛けを取り出す。


そこでふと気づく。あれ、それほど今日は寒くないのでは……。


車のコンパネに表示された外気温をみるとマイナス1.5度だった。だったらこんなに完全装備じゃなくてもよかった。


とりあえず手袋だけを脱ぐ。あとはまあ、車が温まってからでいいだろう。




経験的に外気温マイナス5度くらいを下回ると、これくらい完全装備しておかなければ出勤中にすっかり凍えてしまって、朝イチの仕事でうまくキータッチをできなくなる。いつしか冬はモッコモコになった。スタイルなど気にしていられない。


それでなくても冬至周辺は昼が短いのだ。世界が一番冷たいときにエンジンをかけさせられる車もかわいそうである。走行は12万キロを越えた。ときおりエンジンが身震いをする。


東京に住む友人たちが、こちらでいう「秋程度」の寒さで凍えているとき、はたからそれを見ていると、「おしゃれだからだよ。」と教えてあげたくなる。それで防げるわけがないんだ。あるいは、防げなくても大勢に影響がない程度の寒さなんだ。




かつて北欧から日本にやってきて、高校生時代のぼくに数学を教わっていたベルトーチカ・イルマ……いやこれは本名じゃなくてガンダムの登場人物だな……イルマじゃなくてイリ……しまった、名前を忘れてしまった。

とにかく、「なぜこんな場末の公文式に通ってくるの?」と不思議になるくらいの、アニメの中から出てきたかのような肌の色をした女の子とぼくはたまたま同じ公文式にいた。ぼくはとっくに公文式を卒業していたが確か知り合いに頼まれて数学の採点バイトをしていたのだったと思う。そこに彼女はやってきた。

イル……イリ……細身の彼女は冬になると、ミシュランマンもかくやという防寒をしていたことを覚えている。というか、今、思い出した。

彼女の冬に対する堂々とした備えっぷりは、すごくかっこよかった。

その後彼女は確か、ケンブリッジ的な名前のどこぞの大学の医学部に合格した。オックスナントカにも受かったしほかにもいろいろ受かっていた。あとから聞いて、ああ、かっこよかったもんな、なんて変な納得のしかたをした。


ぼくが彼女に数学を教えていたのは、単に向こうの文化では数学の進度が日本よりも遅くて、「ぼくの程度」でも十分通用したからだ。ぼくのほうが真の意味で「数学に強かった」わけではない。だいいち、北欧の母国語と、英語と、そしてカタコトではあったが日本語を使いこなしてぼくと「数学」でコミュニケーションをとるような秀才である、数学的センスだって申し分なかった。ぼくはたまたま日本という国に住んでいて、たまたま学校でイリなんとかよりも先に微分積分を習っていた、ただそれだけのことで、とてもじゃないが上から目線というか日本から目線で彼女を語ることなんてできなかった。


なんて言ったっけな……あの子の名前……。冬になってもずっと忘れていた。もっときちんと覚えておけば、いまごろ、あるいはTwitterで再開することもできたかもしれないのに。

2020年12月28日月曜日

病理の話(489) 2週間後に結果を聞きに来てください

※今日の話はフィクションです。ぼくの思い出話などではない。




胃カメラを飲んだら医者が「ちょっと組織をつまみますね」という。


最近の胃カメラは、患者もモニタを眺めていられるケースが多い。自分の腹のなかに洞窟探検よろしくスコープが入っていくところはなかなか不思議な感じである。


「はぎががぎがぎがが」(何かありましたか)とたずねると、不安を察したのか、看護師さんがすかさず背中をさすってくれる。そういうところの呼吸はすごいなと感心する。


医者も慣れたもので、「ええ、ここちょっと赤くなっているんで……悪いもんじゃなさそうですけれどね、少し引きつれた感じもありますし、細胞をとって検査に出しましょう」と説明した。


モニタの右下からなにやらマジックハンドのようなものが硬い感じでズズズズと出てきて、先っぽがパカと開いて、粘膜に近寄っていって……グニとつまむ。ひっぱる。プチ。


少し血がにじんだようだった。うぐ、と声を出してしまった。医者がすぐに反応する。「あ、この血はすぐ止まるんで心配ないですよ」そうか心配ないのか。




ほかの場所をぐいぐい観察している。ちょっと腹の上の方がひっぱられたり押されたりするような感覚はあるが、特段痛いこともない。そういえば胃粘膜をプチとちぎったときも痛みは感じなかった。内臓の中の神経ってのはにぶいのか。




ぜんぶ終わって身支度を調えてからあらためて医者の話を聞く。



「おつかれさまでした、おおむね問題のない胃ですが、1箇所、組織をとって検査に出すことにしました。2週間後に結果を聞きに来てください。」



に、2週間……?





というわけでその間は患者はわりと不安なままなのだが、別にこの間、医者たちがのんびり時間をつぶしているわけもなく……。




まず胃からとった粘膜はすぐにホルマリンという刺激臭の強い液体が入った小瓶にジャボンと漬けられる。そして病理検査室に運ばれる。開業医の場合、病理検査室は自前では持っていないので、外注をしなければいけない。外注ということは郵送なり宅配なりをしなければならないということだ。ここで少し時間がかかる。


ホルマリン瓶を運んだ先の検査室で、検体を瓶から取り出し、パラフィンとよばれる「溶けたロウ」のような物質の中につけ込んでさらに1日待つ。ロウは細胞の外側だけではなく、細胞の中身にもしみ込んでいき、細胞の中に入っていた様々な物質の代わりに細胞を満たす。


「ロウ漬け」になった組織を採りだし、周りをさらにロウで固める。「ロウの煮こごり」みたいな状態が完成する。これをパラフィンブロックという。


煮こごりのイメージをそのまま持って欲しい。ただしすごく硬いやつだ。硬いから簡単に刃物で断面を作ることができる。生体内からとってきた物質は、そのままだと、硬かったり柔らかかったりして切りにくい。だからロウ漬け、ロウの煮こごりにしておいたほうがよく切れる。


ここで組織を実際に切るのは臨床検査技師だ。言っておくがとてもじゃないけど近代の病理医にはこの「組織を切ってプレパラートにする作業」はできない。専門性が高すぎる。


臨床検査技師はカンナのおばけのようなミクロトームと呼ばれる器械を使って、組織を4マイクロメートルという気の狂ったような薄さのペラッペラに切る。


「煮こごりをかつらむきにする」


「煮こごりを削り節にする」


みたいなイメージだ。わかるだろうか? 煮こごりを削り節ぃ? そんなの無理だよ! というのが普通の人間(+病理医)の感想なのだが、それを臨床検査技師は訓練のすえにできるようになっている。


煮こごり削り節は向こうが透けて見える。ペラッペラだ。


このペラッペラをガラスに貼り付けて、さまざまな染色液の中を通過させる。するといろいろな色に染め上げることができる。


こうしてプレパラートが完成する。ホルマリンに漬け込んで1日(+郵送)、パラフィンに埋め込んで1日、そして技師の作業に数時間がかかる。まあ、プレパラート1枚だけを作るのだったら最後の作業はもう少し早く終わるのだが、実際には1日に200とか500と言った数のプレパラートが作製されるので、ここはどうしても流れ作業になり、時間がかかる。


そしてできあがったプレパラートを軽くかわかして、患者を間違えないようにラベルを貼って、病理医の元に届ける。ここからようやく診断がはじまる。


病理医は顕微鏡を見て、2秒で診断をつける。ほんとうに2秒で診断できることがある。しかし、15秒かかることもあるし、5分かかることもある。

ここでの難しさは単に「絵合わせクイズ」のそれとは異なる。病理医の元には患者の情報がたくさん届けられており、どういう患者のどういう組織をとってきたのか、主治医が何を考えているのかがそこに記載されている。病理医はその患者の情報をきちんと読み込んで、顕微鏡で見えているもの(所見)の意味をきちんと考えなければいけない。


そうでなければ病理医が医師免許を持っている意味がないのだ。「細胞はこの図鑑に載っているこの形と似ているから○○病ですね」で仕事が終わればどんなにかラクだろう?


ただまあ何年も勤めている病理医であれば作業にかかる時間自体は短いことが多い。ここで診断がわかれば、病理診断報告書に記載して、打ち出して、主治医の元へと返送する。


ここまで、最短で2~3日といったところだ。ならば患者は2週間も待つ必要はない……。




いや、「最短で」というのがキモである。実際にはさらに時間がかかることがよくある。




まず、珍しい病気が見つかった場合、主治医は病理医がつけた診断名に対してきちんと勉強をし直し、その患者にどのような対応をするかを考える時間が必要だ。世の中には2万とも3万とも言われる数の病気がある。これらをすべて暗記することはできないし、個々の患者ごとに適切な対応をしようと思ったら、単なる暗記だけでも無理だ。つまりは主治医にも考える時間が必要なのである。


そして、病理医がすぐに診断できるとも限らない。「これは、今見ているこの染色だけでは診断に到らないな」と判断して、「染色をさらに追加する」こともある。たとえば免疫染色と呼ばれる特殊な染色をするときには、病理医から技師にオーダーが飛び、技師はあらためてパラフィンブロックを削るところから工程を再開する。


免疫染色は何百種類もある。病理医がまず細胞をチラ見して、「その細胞から病名を確定するのにどの染色が必要か」と判断し、それから免疫染色を適切にオーダーしなければいけない。「最初からあらゆる免疫染色を染めてしまう」ということは無理なのだ。だからここには時間がかかる。


染色とプレパラートを追加する作業には、1回につき1日~2日の追加時間が必要だと考えて欲しい。そうすると時間はあっという間に過ぎていく。



このようなタイムロスを計算して、主治医はあらかじめ患者に「2週間後であればたいてい結果は出ていますので、2週間後に来てください」という。もちろん、2週間経っても病理診断が終わっていないこともある。急いで間違った診断をくだしてしまっては意味が無い。ここではスピードよりも正確性が求められる。


2週間ハラハラした患者には申し訳ないと思うが、こちらも2週間けっこう必死なのだ。




たとえばぼく(病理医)が診断をくだすのに3日かけたとする。その結果、いそいで患者を病院に呼んだほうがいいと判断すれば、主治医は躊躇なく患者に電話をかける。また、「いそいでも結果に影響しないな」と判断すれば、普通に2週間後の予約を待って、患者に丁寧に検査結果を告げる。そのような判断は毎日のようになされてはいる。





2週間が経過した。


「先生、どうでしたか」不安そうな患者が医者にたずねる。


医者は答える。「悪いものはありませんでした。がんの可能性はないそうです。私も、胃カメラで見て同じ事を考えていました。


ただし、病理医が、患者の飲んでいる薬を確認してくれ、と言っています。Aさん、事前におうかがいした限りでは、確か今おくすりは飲まれていないということでしたが、何かお飲みになっているものはありますか?」


患者はびっくりして答える。「えっ、くすり飲んでないっていいましたっけ? ぼく関節の病気があるんで、痛み止めを飲んでいますよ。あ、そうか、胃腸に関係ないから書かなくていいのかな、と思って、書かなかったんだったかな……」


医者はピンとくる。「なるほど、そうでしたか。こちらの聞き方が悪くて失礼致しました。病理医が言うには、痛み止めの薬のせいで胃が荒れているのかもしれない、とのことです。適切な用量を飲んでいて、胃があの程度なのであれば、様子を見てもいいかなと思うのですが、ちょっとおくすりの飲み方については相談しましょうか。」





※くりかえすが今日の話はぼくの脳内で適当に考えたフィクションです。

2020年12月25日金曜日

それはお前の行動が甘かったからだ

磯野さんと水野さんの対談をログミーで読み直していた。

https://logmi.jp/business/articles/322304

いろいろと「うっ」と思う記事である。公開されてから1年くらい経つが、いまだにタイムラインにも流れてくる。示唆に富む上質な対話だ。

最近ぼくが気にしているのは連載第2回のこの部分である。ちょっと長いが引用する。



磯野:「どうやってやせますか?」みたいなのがいっぱい出てきたあとに、お洒落なランチの話とかがすごく出てきて、ものすごく両極端に引っ張られる社会です。

だから、具体例を出して申し訳ないですけど、(バラエティタレント/ファッションモデルの)ローラさんのInstagramを見ていると、食べ物の写真がいっぱい出てくるんです。

「今日はビタミンカラー満載のサラダをいっぱい食べちゃったよ」「みんな、いっぱい食べたほうがいいよ!」と言ったようなコメントが書かれていて、でも、ローラさんはBMIが18とかなんですよ(笑)。

彼女を責めたいわけではまったくないんですが、「正しいやり方さえすれば、いっぱい食べても素敵な体型でいられる」というメッセージというのは、ものすごく出ていると思うんですよね。「ライザップ」とかはすごく典型的だったと思うんですけど、あれってけっこう「食べなさい」「やせるためには食べるんです」みたいに言いますよね。

そうすると何が起こるか。やせようとしたけど結局うまくできなくて、例えば「摂食障害になっちゃった」とか「リバウンドしちゃった」みたいになったとします。

すると「それはあなたのやり方、あるいは、あなたの性格に問題があったのであって、正しいやり方さえすればこういう体型は得られるんですよ」というメッセージが流される。つまりダイエットに失敗して、きれいな体型にならなかったのはあなたのせい、というわけです。


これを読んだときの「うむむぐぬぬ」感たるやすごかった。

わかる。

わかるのだ。

「正しいやり方さえすればこういう【いい結果】は得られるんですよ」の圧力というのはものすごい。

ぼくはこれに取り込まれているように思う。



ツイッターをやっていると無数に見かける、以下のようなことば。


「8年間がんばって勉強さえすれば大学以降はとてもいい思いを……」


「手洗いマスク三密回避さえすれば感染症禍でも……」


「ツイッターで他人の悪口を言わずに読んだ本の感想だけ言えば日常が……」


これらの言質に共通するのは、後に続く、(だからもしうまくいかなかったらそれはお前の行動の律し方が甘かったからだ)というメッセージだ。


参ったなあ、と思った。ぼくもこういう言い方をたまにしている。




ストーリーを与えて、「これに正しく沿えばうまくいくし、やり方がへただとそりゃあ失敗するだろうさ」と言うやり方。これ、本当に、世の中にあふれている。ぼくも影響を受けている。


でもなー成功とか理想とか夢とかって、「正しいやり方」をしていれば「必ずたどり着く」ものではないんだよな。


偶然の因子のほうがよっぽど大きく作用する。


「成功のカギは、いかに正しい過程を遵守するかだ!」のメッセージが強すぎる社会はしんどいな……。





しんどくならないために、じゃあ、どうすればいいかって?





いや、今の太字がもう、だめなんだろう。「こうすればしんどくならない」という方法を追い求めることは、すでに、(だからもしうまくいかなかったらそれはお前の行動の律し方が甘かったからだ)というメッセージにつながろうとしている。


この話題、奥が深い。ちょっと継続的に考えてみる。


(だからもしうまくわからなければ、それはお前の考え方が足りなかったからだ。)

2020年12月24日木曜日

病理の話(488) 直感を先行させて理論に追いかけさせる

「これ、どれががん細胞なんですか?」


研修医に質問をされ、一緒に顕微鏡を見る。


あ、一緒に顕微鏡を見ると言っても、ほっぺたをくっつけて一台の顕微鏡のふたつの接眼レンズを片目ずつキャッキャウフフとシェアするわけではない。同時に複数人がみられる「ディスカッション顕微鏡」というのがあるのだ。



前にもこのブログに載せたことがあったので写真を再掲する。鏡筒(きょうとう)を左右に伸ばして「のぞき穴」を増やしただけの極めて単純な仕組みではあるが、そこそこ高価(写真に写っている範囲で○百万円)なので笑える。



さて、顕微鏡を使って細胞を拡大しよう。そこに見えるのは「細胞一個」ではなくて、細胞どうしが大きな構造を作り、水分や粘液、線維などとも混じり合ってできる「組織」だ。町を上空から俯瞰するような気分で視野全体をスキャンする。このどこかに「ヤクザ(がん細胞)」が紛れ込んでいる……と、かつてのぼくは診断し、病理診断報告書に「がん細胞がいる」と書いた。


研修に来ている若い医師は、過去の診断書を検索システムでチェックし、自分が勉強したい病気の名前を探し当ててプレパラートを引っ張り出した。だから、この視野の中には確実に「ヤクザ」がいるとわかっている。しかし研修医は「ヤクザ」が見つけられない。


組織内ヤクザ=がん細胞は、見た目がゴリッゴリに悪そうな姿をしていれば、研修医や医学生、なんなら中学生であっても「あっ」と気づくことができる。派手なリーゼント、そり込み、タトゥー、手に持っているマシンガン、あきらかな返り血などによって(実際には核の形状のおかしさや細胞質の違いなどによって)、顕微鏡を見た瞬間に、「絶対こいつ悪いやつやん」とわかる。


しかし、全ての「ヤクザ」がわかりやすいわけではない。世の中にはリアルヤクザのほかにもインテリヤクザ(IT関連の悪事を働くのだが街中では善良そうな顔をしている)、潜伏ヤクザ(基本的に隠れていて表に出てこない)、教授ヤクザ(説明省略)などがいて、見た目では「悪性」と気づきにくい場合がある。


ではエース格の病理医はこのような「わかりにくいヤクザ」をどうやって見つけ出すのか?


第一に、「勘」である。経験に裏打ちされた洞察。「いやそこに人がいるのはおかしいでしょ」みたいな感覚。


ただしこの「勘」はすべて後から言語化できる。できなければならない。


間違わないでほしいのだ。「勘で見つける」というのは「理論化できない見つけかたをする」とは意味が違う。「先に脳が異常を察知して、あとから理屈を説明できる」のだ。いわゆる「山勘」とか「直感」を、追いかけて分析して言語化できなければ、その勘には「再現性がない」(もういちど同じ場面に出会ったときに見つけられるかどうかわからない)ことになってしまう。それでは診断者としては三流だ。


たとえば……。


GUで買ったパーカーと中日ドラゴンズの野球帽をかぶった大柄な、しかし善良なおじさんが、夜の3時に埠頭のはしにある倉庫の前でタバコを吸っていたら、「見た目は善良そう」であっても警察官は職務質問をするだろう。

「お前なんでこんなところにいるんだ? こんな時間に……」

このとき、警察官に、「なぜ見た目が普通のおじさんに職務質問をしたんですか?」とたずねると、おそらく、


「まあ、勘だよ」


と答えるだろう。でもそこをさらにツッコんで質問する。「ど、どういうことですか?」


すると警察官は自分の勘を言語化するのだ。「確かに、見た目はよさそうに見えるけれどね、格好が普通であっても、居場所がおかしいとか、態度がおかしいとか、現れるタイミングがおかしいとき、つまりは振る舞いがおかしいときにはひっかけるべきなんだ。だってぼくらがやることは、まさに、『悪い振る舞い』を見つけ出すことなんだからね」


実は勘にも理論の裏打ちがある。しかし、それをいちいち言葉で説明するより先に脳が「あっ、おかしい」といったん結論付ける。そして「結論は間違いないけどいちおう、理屈も確認しとこうかな」と、認知のプロセスを巻き戻してあらたに副音声解説を付ける。その解説が付けられない場合は「ほんとうにヤマ勘」なので、他人を説得するにはいささか論拠が足りないということになる。



病理医というのはこの「勘を言語化する仕事」をする。AIが担当できるのは「勘」までだ。AIの普及によって病理医は勘を磨く場面が少なくなり、「他人の直感を代わりに解説する」といういささか困難な仕事が増える。個人的な感想だけれど、この、「AIによって下された直感を人が言語化する」という作業は、高度なゲームに似ていて大変おもしろい。はやくそういう仕事をいっぱいやってみたい。AIの進歩ってチンタラしてるから困る。早く普及しろよ。病理医は手ぐすね引いて待ってるんだよ。

2020年12月23日水曜日

毎ペース

「少し無理をして継続している趣味」みたいなものが、かつてのぼくにはいっぱいあった。

30代前半のころ、毎週火曜日や木曜日あたりで飲みに行っていた。仕事が早く終わる日を週に一回作ろうと心に決めて、その日は5時過ぎに職場を出て、そのまま徒歩でススキノに向かう。だいたい30分でススキノの中心部に着くので、まず吉野家に入って牛丼の大盛りと玉子を食う。腹を満たしたらなじみのバーに向かい、今日はジンにします、あるいはテキーラにしますと、ひとつ酒の種類を決めてカクテルを作ってもらい、数杯ほど飲んだら家に帰る、というのをしばらく続けていた。

これはぼくなりの抵抗であり背伸びであった。ぼくは仕事だけに明け暮れているわけではないのだと自分で自分を認めたかったし、こうやって決め事をしないと無限に職場に居続けてしまって、それがいい加減つらくもあった。

その頃のぼくはすでに他人と飲むことがおっくうになっていて、とにかく一人でやれることがほしかった。一人居酒屋からはじめたのだけれど大将や隣の人が話しかけてくることが数度あってめんどうになってやめた。バーのほうが気楽だった。20代によくウイスキーを飲んでいたのだが、これだと金がかかりすぎる、カクテルなら安いとは言わないがまだそちらのほうが値段は控えめだし、何よりたくさんの味が楽しめてうれしかった。

ある日、いつものようにススキノ方面に歩いて行く途中で、「今日は吉野家じゃなくてラーメンにしよう」と思い立ち、入ったことのないラーメン屋に立ち寄り、しょうがの効いたみそラーメンを一杯食ったら、何もかもどうでもよくなってしまい、そのまま近くのコンビニでビールを買ってタクシーをつかまえて家に帰った。家で飲んだビールはうまくて体に優しかった。それ以来、毎週バーに行くという「無理をした趣味」からは遠ざかっている。

あれはいったい何ブームだったのか。今でも思い出す。

バーは敷居の高い場所でもなんでもない。行きたいと思ったら行けばいい。わからない酒は聞けばいい。感染症禍で外食ができなくなってはや7か月、友人のやっているバーが気になっていないといえば嘘になる。でも、コロナを言い訳にするのは間違いで、バー自体にここ3年ほど行っていないのだからほかに理由があるのだろう。「いつか巨額の金を落としにいきますよ」とうそぶいたままなんとなく足が遠ざかっている。たぶんこのさき40代の後半になったら、宿り木をもとめてうちから歩いて行くことだってあるだろう。でももう「定期的に」ということはないのだと思う。

酒に限った話ではない。人生とか趣味というものはそれくらいのスパンで考えてくれないと、とぼくにとっては窮屈でしょうがないのだ、毎日とか毎週とか、毎月とか、「毎」がついた途端にぼくは何もかもが面倒になる。酒だけではない。釣りも、キャンプも、スキーも、ゲームも、YouTubeだってそうだ、ぼくは不定期でなければ続けられない性分になっている。

このブログ、毎日更新しているじゃないかとつっこまれるかもしれないから、念の為おことわりしておこう。今日書いたのはこの記事だけではない、昨日の記事もおとといの記事もすべて今書いたものだ。そうやって世間をだましてやっている。毎度お騒がせしております。

2020年12月22日火曜日

病理の話(487) 後回しにしないけれど早回しにもしない

昨日の午後から夜にかけてめちゃくちゃ診断をしたので、今日の午前中は書き物をする。いろいろと順調だ。助かる、いつもこういう日ばかりならいい。


ぼくは病理医としてさまざまな仕事をしているが、「病理診断」は後回しにしたくない。待っている人の数が多く真剣度が高いからだ。後に回さないのであれば「先に回して」いく。もう帰ろうかなと思っても、そこでもうひと粘りして、早めに早めに。患者のためにも、医療者のためにもだ。


ただしここで注意点がある。


ほかならぬ、仕事のクオリティだ。早く終わることばかりを気にしていると細部に気が回らなくなる。後で見返してみるとびっくりするほど誤字が増える。誤字が増えるということは、脳のチェックが甘くなっているということで、字の間違いだけならいいが概念の勘違いなどもおそらく増えていくはずなのである。「確定診断」的役割を求められる病理診断で、ちょっとした勘違いでした、は許されない。

だから急いでこなした仕事は、少し時間を置いた後にもう一度目を通すようにする。ひとり時間差ならぬひとりダブルチェックだ。すると、急げば急ぐほどダブルチェックに時間をとられ、その後の仕事が遅くなる。急いだつもりが時間がかかる。

だから仕事は早すぎてもいけない。「クオリティコントロールができる範囲で最速で」というバランスを狙う。

そもそもぼくの業務は医療のクオリティを担保することだ。質とスピードのトレードオフについては敏感でなければいけない。



ここからは完全に例え話でイメージの話なのでピンとこない人もいるかもしれない。でもそのまま書いてみる。



自動車に乗ってどこかに行くことを考えて欲しい。

あなたは、「目的地に一番早くたどり着くための、エンジンの回転数」を考えたことがあるだろうか? 車の速度ではないぞ、もちろん走行ルートでもない、「エンジンの回転数」だ。エンジンが高回転すれば車の速度も上がると思いがちだがそうとは限らない。坂道のような場所ではギアをうまく選ばないと、いくらアクセルを踏み込んでエンジンをふかしてもなかなか車が上がっていかないことがある。また凍結路面で思い切りアクセルを踏んでもスリップするばかりで、ひどいときには車がそのまま横滑りしていく。

つまりエンジンが高回転するかどうかと車の速度自体が上がるかどうかは、「関係はあるのだが、完全に対応はしていない」。

こういうことをよく考える。

脳の回転数を高めていくというのは自分の中で発想を次々と切り替えていくことに等しい。最高速でぶん回せば、仕事がその分早くなるか? 路面に噛み合わないレベルのアクセルワークではタイヤはスリップするばかりだ。おまけに周囲の渋滞状況を考えずにアクセルをべた踏みして車を急発進させたらそれはそれで事故るだろう。目的地に早く、しかも事故なく着くためには、法定速度をそこそこ守り、オートマティックのギアチェンジもスムースに行い、アクセルを踏みまくるだけでなくブレーキのバランスも考えなければいけない。そうしなければハンドルが効かないし運転手の肩も凝るだろう。

では脳は常に60%くらいで回転させておくのがいいということか?

そうではない。ぼくはときにレースに臨む。時速の上限がないサーキットで、いかにギアをつないで車の最高スペックの時速まで出せるか、ということも必要だ。この世界で車に乗っているひとのほとんどはサーキットを走らないが、ぼくはこの仕事の特性上、ときおりF1やゼロヨンの場面で戦わなければいけない。

ギアチェンジやコーナリングやタイヤのスリップなどを考慮してなお、エンジンのトルクをスペックの最高値まで高めていくにはどうしたらいいか。

そういうことも考える。





「昨日の午後から夜にかけてめちゃくちゃ診断をしたので、今日の午前中は書き物をする。いろいろと順調だ。助かる、いつもこういう日ばかりならいい。」


という文章はこう読み解くことができる。


「昨日の午後から夜にかけて予定より先の『道の駅』まで運転したので、今日の午前中は博物館に寄っていく。いろいろと順調だ。助かる、いつもこういう日ばかりならいい。」


すると周囲からはこう言われるだろう、「おっ、体力あっていいね、楽しそうだね、でも安全運転でどうぞ。」

2020年12月21日月曜日

見ささる聞かさる言わらさる

「たれぱんだ」や「リラックマ」、あるいは「プーさん」や「ミッキー」のグッズをかばんに付けたり手帳ケースにしたり、ローソンでお茶を買ったときの小物を集めたりする人は「オタク」とは呼ばれず、「かわいー」とチヤホヤされる傾向があるのだが、これが「鬼滅」や「ゆるキャン△」、「プリパラ」や「アイマス」のグッズだと、同じローソンであっても「オタク」と呼ばれて「きもいー」とイヤハヤされるのはなぜなのだろうか?


答えはコンテンツそのものに含まれているというよりも、コンテンツが育んできたユーザーもしくは周囲環境との関係性にあるので、コンテンツの絵柄を細かく解析したところで両者の差はなかなか見出せない。「最初にどの界隈で流行ったか」にも答えは隠れているだろうし、「声優さんがどこまで関与しているか」にも関係するかもしれない。


何かを解析するときに、そのもの自身をいくら掘り下げても見えないモノがあると気づいたら、観察眼の眼輪筋にかかる力が少し変わってくる。


筋肉にグッと力を込めて、水晶体をゆがませて、強いレンズ効果を引き出して、より細部を、より近接して眺めてばかりではだめなのだ。


目の周りの力を抜いて、水晶体を弛緩させて、全体をぼんやりと、見るというよりは眺める、あるいは「見えてくる」、さらに北海道弁を用いて表現するならば「見ささる」状態まで持っていってはじめて見えてくるものがある。






大学時代まで剣道をやっていた。相手の目を見ながら剣先を見て、同時に相手の手元を見て、そして相手の右足の動きを見る必要がある。どこかを「注視」するとたちまち相手にそれが伝わる。相手がぼくの右コテを見たなというのはわかるし、ぼくが相手の面の左上あたりを見たら相手がそれを察する。だから、お互いに目線で「牽制球」を投げるように、「今そこを見ているのはブラフだからな」という動きを小刻みにやっていく。

三段になって数年経ったときに、当時の師範に、「もう少し全体を見てもいいと思う」と言われたのでいろいろ試行錯誤した。そのときぼくがやったのは、向かい合った相手の2メートルほど後ろに、ジョジョのスタンドのように「相手がもう一人いる」ことを思い浮かべて、そのスタンドの方に目のピントを合わせるというやり方だ。すると相手の本体はむしろぼんやりとピント外れで見えるのだが、これをすると全体が同時に見える、いや、「眺められる」、というか、「見ささる」。スタンドの位置があまりに遠いと本当に何も見えなくなるのでバランスが難しかったが、慣れてくると、「相手の右足が親指ひとつぶん前に出てくる直前の重心移動」がわかるようになり、いわゆる「後の先」(相手より後に動き出すのに相手より先に打ち据えること)ができるようになった。最終的には「相手がまだ動いていないのだけれど、相手の脳がこれから動くぞと指令を送っている最中にこちらが動き出す」こともできるようになり、そこから団体戦では2年間無敗となった(個人戦では普通に負けました)。






こうしてエピソードを書いていくというのが実は「微視的」だと思う。文章を読むときも常にピントを文面の後方にあわせて「ぼうっと全体が見ささるようにする」。そこで気づくことがある。「なあんだ、個人戦は負けてるんじゃないか」。


このように人生の経験をアレンジして自分なりに考えて使っている。精度はイマイチだが……。

2020年12月18日金曜日

病理の話(486) 英単語からみる症状と病気の歴史

医学用語の一部は、ギリシャ/ローマ時代に端を発する。昔、治療の方法は今とはまるで違ったけれど、少なくとも、「この人に何か異常が起こっている」ということは興味の対象となっていた。


たとえば、人類が「がん」と真っ向勝負できるようになったのは、せいぜいこの30年と言ったところだ。しかし、当たり前のことを言うようだけれど、治療法など一切なかった昔から「がん」はあったわけで、昔の人だってがんにかかった人に何が起こるかはしばしば経験していた。

ただし、胃がんや大腸がん、肝臓がんなどは昔の人にとっては直接手に取って見ようがない、知りようがない病気だった。体の中を覗く方法がないし、手術だってなかったからである。

見られなければ、名付けられない。

だから胃がんや大腸がん、肝臓がんなど、体内のがんを指し示す病名はもともと存在しなかった。

後年になって病理解剖が行われるようになって、ようやく、gastric cancer(胃の+癌)、colon cancer(結腸+癌)、rectal cancer(直腸の+癌)、liver cancer(肝臓+癌)と言ったように、病名がついた。これらはいずれも「○○(の)+癌」という二語構造になっている。いかにも後年になって機械的に名付けられた病気、というかんじだ。


これに対して、食べても吐いてしまうとか、肛門から絶えず血を流しているとか、体が真っ黄色になるなどの症状には古くから名前が付けられている。Vomit(嘔吐), melena(下血), jaundice(黄疸). これらは昔の人も十分に認識することができた病態であり、由来が古い単語だからか、「たった一語」で状態を表すことができる。


必ずしも絶対だとは言わないけれども、「なんだか小難しい一単語で病名が表される場合」、その病気は太古から人々に気づかれていたケースが多いように感じる。


昔も今も、皮膚の病気や病態というのは外から見ることができるので名前が付く。Psoriasis(ソライアシス)というみなれない不思議な単語は「乾癬(かんせん)」という皮膚の病気に付けられた名前だ。Verruca(ヴェルッカ)というのはイボのことである。Callus(カルス)は、タコ(医学用語では胼胝(べんち)という)。


逆に、内臓の病気そのものにはなかなか一語の名前が付かない。しかし全身に影響を及ぼすような病気だと古い名前が付けられている場合もある。Cirrhosis(チローシス)、肝硬変などはいい例かもしれない。


Sarcoma(サルコーマ)という古い単語がある。これは、「肉腫」をあらわすのだが、いわゆる体の表面付近にできる「がん」のことだ。普通、がんというと内臓にできそうだけれども、骨や筋肉、脂肪のなかにがんができることもある。体の外部から認識できるタイプのがんには古くから名前が付けられていたということだ。


Melanoma(メラノーマ)も古い。これは皮膚にでるがんの一種で、広い意味では肉腫、すなわちサルコーマに含まれるのだが、特別扱いされてひとつの英単語が当てられている。なぜならメラノーマはほかのがんと異なり、メラニン色素を含有し「黒い」のだ。事実、日本語では悪性黒色腫という。「見た目」が明らかに違うから、名前も別についている、と考えればいい。


なお、Cancer(キャンサー)という古い言葉は、日本語でいう「癌(漢字で書く)」にあたる。語源は「カニ」だ。カニの足のように周囲にしみ込み、カニの甲羅のように硬く引きつれるからその名がついたと言われている。さきほど、胃がんや大腸がんや肝臓がんは昔の人にとって見ることができなかった、と書いたばかりだが、実際には外から見られるがんもある。それは何かというと「乳がん」だ。


乳がんは発症年齢が比較的若く、昔の短い平均寿命であってもかかる可能性が比較的高かった。というか、昔の人にとっては、「乳がんだけが目に見えるがん」だったと思われる(メラノーマは黒いし、サルコーマはいろいろ理由があって肉々しい印象があったので、昔の人もまさか同じがんの一種とは思わなかったのだろう)。すなわち、Cancerという言葉は、もともとは乳がんが進行したあとの性状から名付けられた。今では乳がん以外の多くの「悪性・上皮性腫瘍」をすべてcancerと呼ぶが、たしかにどんな臓器から出るがんも、どこか「カニの足のようにしみこむ」傾向があるし、「線維化してガチガチに硬くなっていく」ことが多い。



昔の人だからと言ってバカには出来ない、むしろ、人間ができることの無力感に今よりもまともに向き合って、「せめて詳しく記載することでなんとか将来の人類の英知に希望を託した」のかもしれないな、と思う。古い単語の由来を追いかけていると、当時の人間の執念のようなものを感じることがあり、自然と背筋が伸びる。

2020年12月17日木曜日

本当の無言

出張に来ている。移動中は全部無言だし周りのおじさんたちも一言もしゃべらない。飛行機は空調ががんがん効いているし、感染リスクはごく小さいと信じたい。空港からは病院の手配した車に乗る。この間も一言もしゃべらない。

出張先の病院に着く。もちろん一言もしゃべらない。病理検査室に入る。1か月ぶりですよろしくお願いします。あとはもう、一言もしゃべらない。顕微鏡に向かい合い、積まれたマッペ(プレパラート入れ)を端から片づけていく。夕方まで診断をしたらホテルに向かう。途中にあるコンビニで晩飯を買う。パスタを温めてもらった。ビールを買い込む。ホテルまで歩いてチェックインして部屋にこもって、手を洗って、ジャケットもワイシャツもぜんぶ脱いで部屋着に着替えて、ビールを開けてパスタを食う。ずーっとしゃべらない。パスタを食べ終わる。

ああーと声が出た。それっきりまた一言もしゃべらない。

ビールは少々買いすぎたかもしれない。3本目の500ml缶を開けたところで飽きてしまった。PCを付けて音楽をかける。

ああーと声が出た。




いろいろと言いたいことはある。




コンビニでビールを買うとき、500ml缶だけを買うということはない。なぜか昔から、500mlの缶を何本買ったとしても、最後に必ず350ml缶を1本買い足してしまう。実際、500mlの缶を3本も飲むといつもぼくはいったん酒に飽きるのだ。そして飲みかけのビールを置いたまましばらくの間、音楽を聴いたり映像を見たりする。出張先ではどこにも出かけない、それは感染症禍に見舞われる前から変わらない習慣だ。3時間もだらだらと動画を見ながらTwitterやメールを返したりしていると、夜が深まったあたりで、ついさっきまでたどり着く気がなかった場所にたどりつく。

そこでぼくはもう一度だけ、いちからビールを飲みたくなる。ここぞとばかりに500ml缶のぬるいビールを流しに捨てて、冷蔵庫の中にもう1本だけ残った、冷たい350ml缶のプルトップに指をかける。




だいたいそこで本当の無言にたどり着く。


2020年12月16日水曜日

病理の話(485) 5Gにならないと使えない

プレパラート。


顕微鏡で見るガラスのこと。


これを今は、「ホール・スライド・イメージング」(Whole slide imaging; WSI)と言って、すべてスキャナでとりこんで、PC上で見られるようにするというのが流行りだ。

ホールというのはケーキのホールと同じで、「全部」を意味する。スライドというのはプレパラートのこと。全プレパラートを画像にする。そのまんまだ。


顕微鏡いらずでPC上で診断をすることには利点と欠点がある。でもまあ、これからはどんどんそうなっていくだろう。顕微鏡で「しか」診断をできないと言っていた人たちも、感染症禍でZoom会議が当たり前になって、みんなで一緒に顕微鏡を見ることが難しくなり、かわりにZoomの画面上でPCデータを共有するようになったら、結局みんながWSIを使い出した。ほら、使ってみれば簡単なのだ。変化してしまえばそれが当たり前になる。


ところが……いざ、多くの業務をWSIにしてみると、けっこう大変なことが多くて、日常的に病理医が苦労することも増えた。


まずWSIスキャナの値段。だいたい800万とかする。そして大量の取り込みデータを補完するためのハードディスク。ぶち壊れたら大変なことになるので基本的にはクラウド運用するのだが、テラバイトレベルでないと容量が足りない。保守管理費用を含めると、ひとつの施設で年間に1000万くらいのランニングコストがかかる。


となるとうちの病院(市中のいち中核病院)では導入ができません。なのでぼくの手元にはWSIスキャナがありません。すみません。多方面にご迷惑をおかけしております。


こんな高額な機械を入れたところで病院の収益にはあまり寄与しない。なぜならWSIにしたからといって診療報酬(患者と国からもらえる医療費)が増えないからだ。ぼくらがただ便利になるという理由だけで病院が高額な何かを仕入れてくれることはそんなに多くない。ないわけじゃないんだけど今はどこの病院も信じられないくらいの赤字なので(うちなんか関連施設全体の損益を計算すると月に○○億の……いやこれはやめておこう)、収益が増えないような投資は当分の間できないだろう。しょうがないと思う。


というわけで、ぼくがWSIを使いたいときは、連携している大学や知人の施設などに頼んで、「ここぞ!」という症例のプレパラートを郵送し、先方でスキャンしてもらって、デジタルイメージにする。


先日も、とある症例のプレパラートをデジタルデータに変えてもらった。先方は快く引き受けてくれて、データをDropboxに入れてくれた。それをダウンロードすればぼくのPCでも使える。

ところがそのダウンロードが毎回スムーズにいくわけではないので困るのだ。個人情報は消去しているけれども患者由来のデータだから、個人のPCではなく職場の回線を用いて職場のPCにダウンロードしなければいけない。たかだか10数枚のプレパラートにもかかわらず4GBを超える容量があって、途中でダウンロードがうまくいかなかったりする。職場のファイヤウォールがきつめであることも理由のひとつだろう(病院のセキュリティは強い)。そして、なによりべらぼうに時間がかかる。


なぜあんな小さいプレパラートをスキャンするとそんなに大容量データになってしまうのか? それは、プレパラートをスキャンするときには「高倍率で全視野を保存」しなければいけないからである。顕微鏡で600倍に拡大した視野と同じレベルの拡大ですべてを保存しないと、単に遠目にスキャンしただけでは、拡大に堪えない。ぼくらはしばしば、髪の毛の太さ(約80マイクロメートル)の20分の一しかないような好中球の、しかもそれが崩壊したときに現れる核塵、つまりは2マイクロメートルくらいの物質を見極める必要があるわけで、それをプレパラートから読み込もうと思ったら、それはそれは膨大なデータ量になる。おまけに全視野読まないと意味がないからね。


ダウンロードが不便な場合、施設によってはクラウド上にデータを保存していて、ダウンロード抜きでウェブ上でプレパラートのデータが展開できるようにしているのだけれど、そうなると今度は通信速度によって表示に遅延が出る……。


結局、デジタルデータで診断をしようとすると高速回線は必須。ましてiPadでやろうと思ったら5G回線がなければ仕事にならない。プレパラートならちょろっとワレモノ注意のシールを貼ってクロネコヤマトで送ればそれで済んでたのになあ、なんて言いながら、ダウンロード待ちの時間にちまちまツイッターで暇を潰していたりする。




ところで、マンガ「フラジャイル」のタイトルの由来が、本当はなんなのかをぼくは知らないが、海外にプレパラートを送るときに「ワレモノ注意」として貼るシールに「FRAGILE」と書いてあることから、なんとなく、「脆弱なものに人間の命をかけている」、みたいなニュアンスをタイトルに込めたんだろうなあ、みたいなことを考えたことはある。ではフラジャイルなガラスを使わなくてよくなったら病理診断は強固になるかというと、決してデジタルデータのほうが強いなんてことはなくて、究極的なことを言えば、どれだけ強固なモノを使ったところで診断するのはぼくらの弱っちい脳なわけだし、せめて回線速度を高め、脳の演算速度も高め、どうにかこうにかやりくりして、ようやく「弱い命」を強く考えるための手段を得る。なにやらぼくらは昔も今もこの先もそういう風にできている。

2020年12月15日火曜日

つまんない本を完読する

今日のテーマ、「つまんないんなら途中で投げ捨てればいいべや」というツッコミが来て終わりな気もするし、斜め読みでも拾い読みでも読書には違いない、という哲学もあるし、「つまんない本を完読する」というタイトルがどれだけの人に刺さるかというと、たぶん刺さんないと思うんだけど、ちょっと語ってみる。




つまんない本を完読すると達成感がある。


「なんでこんな内容で一冊書こうと思ったのか」の全貌が見えてきたりすることがあって、ゾクゾクする。


最後の最後に著者の本音がダダ漏れてたりする。


ずーーーーっとつまんなかったけど最後からめくって3ページ目くらいのところに急激にエモい話が出てくる、なんてこともあって油断はできない。


ぼくにとってはつまんないんだけど、これが楽しいと思う人は相当いっぱいいるだろう。


この著者の選んだ、鼻につく書き方を、技術として貫くぞと決めた思考回路をトレースするのはおもしろい。


自分とまったく違う視座からたどり着いた他人の結論を見て、ずいぶんと飛躍してるなあ、などと安易につっこむことは危険だ。見る角度を変えれば、ぼくの側から見えていた穴は奥のほうで塞がっているかもしれない。ぼくから見ればマリオの大ジャンプが必要でも、向こうから見たらドラクエ方式のノージャンプウォークで十分回避できるかもしれない。


書籍編集者はこれでよしと思って出版したわけだ。

版元の営業はこれでよしと思って本屋に紹介したわけだ。

書店員はこれがいいと思って並べたわけだ。

その価値観とぼくとが合わないというのはどういう構造なのか?

外れているのはぼくのほうなのではないか?

そうやって探っていくのもまた楽しい。


昔読んだ本と比べてみる。先にこの本に出会っていたらあそこでどう変わっただろうか、みたいなことを考える。摩耗した今だからこそ言葉が入ってこないだけで、鋭敏な感性をもっていた昔ならもっと浸れたかもしれない。中学生の時ならどう思ったろうか。大学院のときならどう受け止めただろうか。


なんでもかんでも最後まで読めと言っているわけではもちろんない。「途中で読むのをやめてしまった読書」にだって価値がある。そこにまとまった量の文章があるのに思わず読み飛ばしてしまうとき、財布を開いて自腹を切って買ったのに途中でシュレッダーゴミと一緒に捨ててしまうとき、自分の脳はどういう選択をしているのだろうかと追いかけていくと、なかなか複雑な感情にぶち当たることもある。


これはあくまでぼくの場合なんだけど、どんなクソみたいな本でも、あるいは逆に最高の辞書を前にしたときとかも、「完読」することでだけつかめるフンイキみたいなものが多少ある。途中ガクンガクンと首を折りながら寝てしまった場合でも、とにかく最後まで自分の指でページをめくり続けた記憶さえ残っていれば、その本が本棚に挿さっているのを見たときに、いつもある種の独特な感情に包まれる。これが完読したときの「ごほうび」なのだ。この本を確かにぼくは最初から最後までめくって文字を追ってみたんだ、つまんなかったけど……。ブツブツ言いながらしまった本が、まれにあとで光り輝くことがある。たとえばゴリゴリのハードSFなんかで経験することだ。純文学、恋愛小説、自己啓発本とかでもあり得る。まあ自己啓発本を読んでよかった試しはないのだけれど、それもあくまで「今のところは」という注釈つきだ。


フーン興味ねぇなーつまんねーと思ってから何年も何年もその小説のことが気になってしょうがない、ということもある。まして、「どこがおもしろいかはわかんないんだけどなぜか最後まで読んでしまった」なんてのは読書の中に厳然と存在するひとつの「萌え」。ペルディード・ストリート・ステーションというSFが完全にそうだった。何がどうおもしろいのか説明できないし、これってぶっちゃけつまんねぇんじゃねぇかなと半信半疑で最後まで読み終えて、ぱたりと本を閉じたときに「あああ読んでよかった気がする……」と深く息をついた、あれはたしか札幌から釧路までJRで4時間10分かけて移動していた車内の、おそらく帯広を超えて白糠あたりに停車したかしないかで、ぼくはこのクソ長いSFを読み終わって大きくため息をついて、そのあと釧路に着くまでの短い時間で何度も何度も表紙を見直してはため息をついたのだ、あらすじなどは全く覚えていない、しかし「ぼくはこれでSFを読んだと言えるんだ」という達成感と、脳の中に尾を引くように残るSF色の残像に身を委ねる不思議な快感とに包まれて、ぼくはディーゼルの走行音の中で幸せに居眠りをし、世界にこんなことを書こうと思った人と、編もうと思った人と、売ろうと思った人と、買ったぼくとがいたのだなあと、なんだか本当に救われたような気持ちになったのだ。




2020年12月14日月曜日

病理の話(484) 細胞の自爆戦術

秋田大学の総合診療・検査診断学講座のホームページがおもしろい。


http://www.med.akita-u.ac.jp/~gimclm/research.html 


人体の中に存在する「はたらく細胞」のひとつである、「好酸球」を相手に、ここまで深く……というか、なにより、ここまでおもしろく科学エッセイを書けることがすごい。仮にも大学の診療部かつ大学院の研究講座のウェブサイトにこれを載っけるには多くの信頼と筆力が必要だ。感動する。


さてここに書かれている内容はどれもいいのでぜひじっくりとご覧いただきたいのだが、今日かんたんに取り上げるのは、好酸球ではなくて「好中球」のほうだ。


講談社から出ているマンガ「はたらく細胞」では、好中球が主人公的ポジションにいる。

好中球は、人体に敵が侵入してきたときの第一歩が早くて、まっすぐターゲットに向かって行って殴りつけ、さらにはその一部をバリバリと食べてほかの炎症細胞たちの到着を待つ。

今のはマンガ内での表現だが、実際に人体の中で起こっていることそのものである。非常によいマンガなのでみんな読んでみてほしい。


しかし、上記の秋田大学のホームページにもあるように、好中球の働き方はどうやらそれだけではない、ということが知られている。まだマンガには反映されていないようだ。以下にその「新たにわかった好中球の働き方」を解説する。


ぼくら病理医が顕微鏡で、好中球がバイキンと戦う様子を眺めていると、「好中球はもろいなあ」という感想が自然と出てくる。「おもろいなあ」ではなく、「脆(もろ)いなあ」だ。

なぜなら、好中球は炎症が起こると大量に登場するが、すぐにバイキンと「心中」してしまうからだ。マンガだと何話にもわたってずっと主人公なのだが本当はすぐ死ぬ。特攻部隊、あるいはカミカゼのイメージなのである。

一節によれば好中球は組織内での寿命が2日しかないとも言われている。だから「急性炎症」のマーカーとして用いられる。


ただ、好中球がすぐ死ぬのは、必ずしも「もろいから」だけではなくて、そこには生体のこまやかな計算と機能があるようだ。

好中球は、自分の中にあるネッバネバの物質を自爆によって放出し、周りにあるものたちをそのトラップで絡めとって動けなくする、という機能を持っている。つまりは弱いから死ぬんじゃなくて戦略的に自爆する。その名も「細胞外トラップ死」という機能。


これが非常に特殊であるということは、顕微鏡を見ているとピンとくる。

ためしに、好中球以外の細胞が死んだ「痕跡」を顕微鏡で見てみよう。そこには「うっすらとした残骸」しか見えない。病理医がしばしば「ゴースト」と呼ぶ、輪郭がぼやけていて細胞核が存在しないモヤモヤモンヤリとした塊ができる。これが一般的な細胞死のひとつ、「ネクローシス」の末路だ。

また、ときに、アポトーシス、あるいはプログラム死と呼ばれる細胞死の場合には、細胞がキューンと縮んで濃縮してその場で消えていく、という痕跡がみられることがある。ネクローシスがゴーストならアポトーシスはブラックホールみたいな消え方をする。この2つは病理医であればしょっちゅう観察している。

ところが、好中球の場合は、ネクローシスともアポトーシスとも少し異なる死に方をしている場合が確かにある。好中球が死んだあとに、うっすらとした残骸ではなく、一点に凝縮したキュン死でもなく、「明らかに元は核だったと思われる色」をした物質が絡み合った毛糸のようにはじけている、「核塵(かくじん)」と呼ばれる像を呈することがある。

ぼくはこのことを今まで特に不思議とも思っていなかったのだが、よく考えると、「なぜ好中球だけは核塵を残すのか」?

「ほかの細胞は薄くなって消えたり一点消失したりするのに、なぜ好中球の場合は漁師町の海岸に放置された古い地引き網みたいな形状で死ぬのか?」


これがつまりは「細胞外トラップ死」を顕微鏡で見ていたということなのだろう。好中球は死ぬときに、核の中に含まれているネバネバ(実はDNAである)を網にして、周りの物質になげつけるという、ウソップも驚くような頭脳戦略をとることがある。そのネバネバで何かを辛み取ったときに見えるのが核塵なのだな。たぶん。



「自爆したら周りの物質がからめとられるから便利だ」みたいなことを好中球が逐一考えているわけではなかろう(そうだったら怖い)。


じゃなくて、「自爆したらたまたま周りの物質を絡めとってしまうタイプの細胞を持っていた生命が、いろんな意味でうまく生き残った」と解釈するのが妥当なんだろう。




なーんてことを考えながら冒頭のホームページを読むとおもしろいです。

好中球の話は注釈として小さい文字でちょっと出てくるだけで、くだんのホームページの主人公は好酸球なんだけど。


http://www.med.akita-u.ac.jp/~gimclm/research.html

2020年12月11日金曜日

冬の駐車場に誰も居ない

勤め先の職員駐車場は値段が高い。

札幌駅から一駅となりという、そこそこいい立地だからだろうか。職員割を効かせているはずなのに月額12000円も取られるのは、札幌という田舎にしては珍しいと思う。

そのためか、職員は医療者や事務員含めて1000人規模のはずなのに、車はせいぜい80台くらいしか停まっていない。公共交通機関を用いる人のほうが多いし、あるいは少し離れたところに、もっと安く借りているのだろう。



今日、早朝に出勤したところ、だだっぴろい駐車スペースに車は3台しかなかった。

通路かどうかに関係なく、仕切りの白線を越えて車を走らせる。がらんどうの駐車場でだけ味わえる、背徳の楽しみ。

うっすらと凍り付いた中、ぼくはハンドルを右に切って自分の駐車スペースへと向かう。

すると後輪がわずかにスリップした。

瞬間的に、「このまま車が左前方にスリップしてどこまでも滑っていくところ」を想像する。



滑っていく先にはいかにも高級そうな車が一台停まっているのだ。

ぼくは慌ててブレーキをかけるが、横方向に滑ったタイヤにABSは無意味である。摩擦係数が限りなくゼロに近くなった、「凍ったばかりの地面」は何物をも受け付けない。

1トン弱の鉄の塊が、慣性だけで高級車の横っ腹に向かって等速運動で滑っていく。

ハンドルを左右に小刻みに回してカウンターを当てる。車体は滑りながらもいやいやと首を振り、1メートル以上滑ったところでわずかに地面とタイヤがグリップするのを感じる。すかさずブレーキではなくアクセルを踏む。すると滑っていく方向とは直角に車がずれる。ここぞとばかりにハンドルを操作して車の操縦性を取り戻す。

あんなに滑っていったのが嘘だったかのように、ぼくの車は再び前方に向かって静かに進んだ。

高級車との間はもう2メートルも空いてなかった。ひやりとする。



いったん車を停めて外に出る。すかさずメガネが曇る。マスクをしていなくても曇る。

ぼくは路面に目をやる。新雪の柔らかさとは大局的な、「新氷」の残酷な反射が朝日をはじき返していた。ここでぼくがハンドルやタイヤと戦ったことを誰もしらない。あの高級車も知らない。これから出勤してくる人々も知らない。患者も知らない。世の中の誰もわからないままにぼくだけが一人汗をかき、カロリーを使い、密かな戦いを終えてその根拠はどこにも残っていないのだ。スリップ痕すらほとんど見えなかった。

戦いは何も生まない、というのはこのことだろうか――――




というようなことを、「後輪がわずかにスリップした」のときにちょっとだけ想像して、でも車はすぐに自分の駐車スペースについてしまったので、静かに車をバックさせて、鞄の中からタイムカード代わりのIDパスを取り出して左手に持ち、出勤した。誰も戦ってなどいなかったけれど、ここは確かに戦場だったのだ。

2020年12月10日木曜日

病理の話(483) 病理医としてやれる病理診断以外のこと

病理医は、

・臨床医が診断・評価して患者の体内からとってきた細胞や臓器を、

・目で見て切って

・臨床検査技師さんにプレパラートにしてもらって

・それを顕微鏡で見て

・診断書のかたちにして臨床医ほか医療者向けに説明する

ことをやっていれば給料が十分にもらえる。これらをまとめて「病理組織診断」という。


しかし、病理医は、実はほかにもやれることがある。


あくまで「やれることがある」であって、「やらなければいけない」ではないが、自分が給料を稼ぐためとか自分が達成感を得るためといった「自分のため」以外にも何かやってみようかな、医療をもうちょっと担ってみようかな、と思った場合は、病理組織診断以外の仕事を同時に行う。ほかならぬぼくも、病理組織診断以外の仕事を勤務中に行っている。


(※医師免許があるからついでに他の仕事もしよう、といった「資格があるからやれちゃうバイト」については今回は割愛する。いわゆる「寝当直」(医者としてある決められた時間に当直室にいるだけでお金が発生する)などは、以下には書かない。ぼくはそういう「医師免許を活用してお金をかせぐこと」は、借金をして大学院に行っていた時代から一切やっていないし今後もやる気がないので、ぶっちゃけ、詳しいことはわからない。また、株取引など医師免許とは関係ない仕事については興味がないので書けない。他人の趣味に口出しをするつもりもない。)



病理診断以外の仕事その1: 細胞診(さいぼうしん)

病理医が行う病理組織診断以外の仕事として最もポピュラーなのは、「細胞診」である。えっ、細胞をみて診断するのはふつうに病理医の仕事でしょ? と思われるかもしれないが、「組織診(そしきしん)」と「細胞診(さいぼうしん)」は微妙に異なる仕事で、今ここでとりあげているのは「細胞診(さいぼうしん)」のほうだ。


細胞診は、臨床検査技師さんが主として行う。ただし、臨床検査技師さんだけでは仕事を完遂できないことになっていて、細胞診の最後には必ず病理医がチェックをする。このとき、ふつうの病理医が持っている「病理専門医」とは違う資格が必要で、「細胞診専門医」という資格を別に持っていなければいけない。病理専門医の資格をとること自体が決して簡単ではないが、細胞診専門医の試験は段違いに難しい。かくいうぼくは、病理専門医の試験は学生時代や大学院時代の勉強と診断補助経験を活かして労せず取得することができたが、細胞診についてはめちゃくちゃ受験勉強をした。英検に例えると準2級と準1級くらいの差があると思う(※ぼくは準1級持っていないので適当に言いました)。

細胞診専門医のほとんどは病理医である。まずは土台としての病理専門医を取った上で、細胞診専門医という「二階」を積み重ねることで、ようやく臨床検査技師さんたちの仕事の手伝いができる

よく病理医は、「技師さんに手伝ってもらって病理診断をする」などと偉そうにいうのだが、細胞診(さいぼうしん)という局面においては逆に技師さんを手伝う側にまわるのだ。持ちつ持たれつの関係によりお互いの仕事が鋭くレベルアップする。細胞診をやっていない病理医は、技師さんにお手伝いしてもらうばかりで、お返しをしていない……とまで言うと言いすぎなのだけれど個人的にはそのように感じている。



病理診断以外の仕事その2: 検査室の管理

病理医のはたらく病理診断科という部門は、病棟をもたず、臨床検査技師さんと一緒に作り上げる場所だ。そしてたいていの場合、「臨床検査室」に附属していることが多い。

検査室を取り仕切るのは基本的に技師さんたちだ。しかし、近年、臨床検査「科」にも医師をおくべきだという意見がある。そして臨床検査専門医という制度も存在する。血液検査や生理検査、一般検査、細菌検査など、画像診断以外のあらゆる検査を統括する医師が必要だろう、という考え方だ。それ自体はいいことだと思う。

ただしこの「臨床検査専門医」という資格は極めてマイナーで取得者が少ない。聞いた話だが、北海道には20人もいないという噂もある(それどころか一ケタだと言う人もいる)。資格をとるには事実上、大学での勤務経験が必要なので、大学で働いていないぼくをはじめ、多くの市中病院の医師たちはそもそも取得できない。

ではほとんどの病院の臨床検査室は医師抜きで回っているということか? まあぶっちゃけそうなんだけど、病理医がいる病院では、病理医が臨床検査科の維持業務の一部を手伝っていることもある。いつも病理診断部門で技師さんと持ちつ持たれつやっているのだから、病理以外の検査技師さんのことも手伝おう、と考えるのは当然のことである。ぼくは臨床検査専門医資格はもっていないのだけれど、「臨床検査管理医」というチョロい資格をいちおうとっていて、まあこんなもの申請して講義を受ければすぐ取れるんだけど、「臨床検査室を管理する手伝いをしますよ!」と宣言している。予算でめんどくさいことがあったとか、技師さんが勉強会を企画する、とか、技師さんが論文を書きたいなどといったときに、事務作業やアイディア出しなどを一緒になって手伝う。



病理診断以外の仕事その3: 臨床・病理対比

病理医は日ごろからおおくの医者を相手にして書類仕事を行う。「医療における総務課ポジ」的なところがある。ただし医療の知識は持っているので、毎日顔をあわせる臨床医たちと、医学的な話について相談をしたり、ときには論文作成を手伝ったり、共同で研究をしたり、臨床医がみた患者の姿を病理の知識を使って解釈し直したりする。「臨床」と「病理」を照らし合わせる。この作業を雑談だとか暇つぶしのように捉えている病理医……なんてものはたぶんもうほとんど存在しない(昔はいた)。最近の病理医はみな、臨床医との関係が良好で、コミュニケーション能力が高く、みんなに一目おかれて病院の中でなかなかいいポジションを勤め上げている印象がある(インターネット上にいる病理医は不満ばかり言っているなどとよく耳打ちされるのだが、ぼくが知る限り、ここ10年の病理医はかなり臨床医に愛されている印象がある)。



病理診断以外の仕事その4: 医学研究

多くの病理医は研究目線をもっている。めちゃくちゃ雑に言えば「医学の発展に寄与する」ことは病理専門医という資格の中に、あるいは病理医の給料の中に含まれているとぼくは考えている。どんな研究をどのようなかたちでやるのかはバリエーションがありすぎるのでひとまずおくが、基本的には論文を書くか、他人の論文を病理の力で良くすることがメインとなると思う。学会・研究会などに出席して発言することも含まれる。



病理診断以外の仕事その5: 教育・啓蒙

多くの臨床医と一緒にはたらき、日常的に文章を作る仕事をしている病理医は、教育現場との相性がいいと思う。病院内の研修医教育に携わり、病院図書室の書籍目録を充実させ、病院の研究費を統合して病院内外に向けた研究会を企画し、臨床・病理検討会(CPC)で活躍する。医療系の大学や専門学校での講義を行い、ときには一般向けの書籍を書いたりもする。




「病理医という特殊な職業人を、病院が医師としての給料を払って雇う」ということをぼくはだいぶ重く考えている。病理診断だけでももちろん給料分のはたらきはできる、それはまちがいない。でも、「あの病理医は雇って正解だったな」とみんなに思ってもらおうと考えるとき、ほかにもこれくらいの仕事があるぞと思っていたほうが健全なのではないか、という気がする。今日は日ごろから自分が何度も考えていた話なので長くなってしまった。

2020年12月9日水曜日

2倍にするととうとうサクサク

WorkFlowyやGoogleカレンダーなどのウェブサービスを活用している。前者は気軽なメモ用紙として。後者はスケジュール管理に。

こまやかに修正できるしアレンジも利く。リマインド機能も便利。

それでも、同時に、紙の手帳を使う。利便性や効率性だけでは語れない部分があるからだ。

ぼくが紙の手帳や紙の付箋といった「手書きのメモ」を未だに使っている理由はなんなんだろう、と、自分の無意識を掘る。するとそこには、


「活字の中に自分の手書き文字が浮き上がるような感触を、大事な記憶を釣り上げるためのフックにしている」


という構図が見えてくる。





スマホのアラームを目覚ましに使っていると、だんだん体がそれに慣れてくる。ときおり寝過ごしそうになることがある。無意識でアラームを止めてしまうようになれば深刻だ。ぼくは日ごろ4時半ころ起きているので、多少寝過ごしてもいわゆる「遅刻」はしないのだが、出張先で寝過ごしてしまうと飛行機に乗り遅れそうで怖い。

ではどうするか?

「出張先では、ホテルの部屋にあるアラームもいっしょにかける」

そうすれば、「いつもと違う感触」に脳がざわめいて、きっちりと目が覚める。


このような対策をとっている人はけっこういるだろう。

ぼくにとって、紙の手帳を使うことも、似たようなところがある。

近頃のぼくは、脳を出入りする文字情報の99%がメイリオやゴシック、明朝でできている。

そこにたまに「手書きの文字」をすべりこませる。すると、手書きの文字はあたかも「旅先のホテルのアラーム」のように、異質な感覚として脳のどこかにひっかかる。

この感触を小出しに用いることが大事だ。なにもかも手書きにしてしまっては本末転倒。「付箋を貼りすぎた本」が広告的・CM的意味合いしか持たないのといっしょである。ここぞというときにピンポイントで「自分の字」を紛れ込ませるからこそ意味がある。



話はちょっとずれるけれど、インタビュー企画などで聞き手の側が、有名人の本に大量に付箋を貼っているのを見る。それを使って引用して記事を書くというのはまだわかるのだが、著者に付箋まみれの本を見せびらかすのはちょっと下品だな、と感じる。恩着せがましい。途中からきっと、読んで考えることではなく、付箋を貼ることが主目的になっているようにも思える。


手帳にもそういうところがある。まっくろになってもうほとんど読めなくなっているような他人の手帳を見るとき、「メモを書き続けたこと」が重要視されていて、手帳の本来の役割はすでに機能しなくなっている。それはなんというか、倒錯しているというか……




いや、いいのか?

倒錯しても、いいのか?




自分の決めたスケジュールに沿って毎日をつつがなく過ごしていくこと「だけ」を目的にするくらいなら、万歩計の数字が増えていくのを見るように、お経を読むたびに数珠を回すように、自分がスケジュールまみれであることを、自分がこれだけ文字を残したということを、わかりやすくアピールすること「自体」が目的になっていても、いいのか?


……いいのかもしれないな。



ぼくは普通に仕事がしたいので、これからも、ウェブのサービスをメインに使って、手帳は「アクセント」としてしか使わないとは思うし、本を読むときも、なるべく付箋は貼らないように、やっていくとは思う。ただし、自分の中にもおそらく、本来の目的がどうでもよくなってしまって、ただ積み重ねてくり返していくことに大きな価値を感じているものが、ある。たぶんある。どこかにはある。たとえばそれはSNSの中に? いや、あれはくり返しというよりも、照り返しなのだけれど。

2020年12月8日火曜日

病理の話(482) 自分の弱みをなんとかする

病理医をやっていると、専門性とかサブスペシャリティとか呼ばれる、「自分の強み」が身についてくる。ただ、今日はむしろ、「弱み」の話をしたい。


ぼくを例にあげて説明する。

ぼくは市中病院に勤めているので、基本的にあらゆる臓器をまんべんなく診断する。胃腸、肝臓、胆嚢、胆管、膵臓、肺、乳腺、甲状腺、子宮、卵巣、膀胱、尿管、前立腺、リンパ節……。

しかし、このすべてに対してまんべんなく知識を持っているかというと、そういうわけではない。

たとえば、胃腸の病理についてぼくは詳しいが(これは「強み」である)、卵巣のめずらしい腫瘍の病理についてはあまり詳しくない(つまりは「弱み」だ)。自分ひとりでレアな卵巣病変をいちから十まで診断する自信はない。



「自分が専門としていない臓器の診断」



これを責任もってやろうと思ったら、自分でなんとかしようというプライドだけではどうにもならない。

誰かに手伝ってもらう。

そのためのシステムが複数存在する。



まず何よりも大事なのは、「複数の病理医を雇用して、専門性を分担する」こと。

ひとりでカバーしきれないならみんなでやればいい。単純なことだ。

しかし、それにしたって限界がある。10人雇ったってせいぜい専門性は20個までだろう。病理の専門分野というのはもっと多い。おまけに、AさんとBさんの専門性が少しかぶっている、なんていうパターンもある。人を集めればすべて解決するわけではない。

それに、複数の病理医を雇える施設ばかりではない。いわゆる「ひとり病理医」という病院は全国に数多く存在する。

ひとりで病理医として勤務している人にも必ず「強み」と「弱み」は存在する。オールマイティになろうと思って勉強する姿勢はすばらしい。しかし、あらゆる臓器の最新医療の深みに到達するというのは物理的に無理である。


ではどうするか?

「コンサルテーションシステム」というのを使うのだ。


日本病理学会が窓口となって、「難しい症例の診断に答えてくれる人」と、「難しい症例を持っている人」をマッチングするサービスが展開されている。これが無料で行われていることは他科の医師にはあまり知られていないだろう。なんともすごい話だ。

「自分一人で病理診断なんてできるわけない」ということを、日本中(というか世界中)の病理医がよくわかっているから、相互互助の精神で持ちつ持たれつやっている。




では、コンサルテーションシステムさえあれば、経験が少なくても、勉強が足りてなくても、「ひとり病理医」として活躍できるものかというと……。


少なくとも、「コンサルト(相談)できるくらいには、その患者・その臓器のことを語れる能力」が必要なので、手放しでは喜べない。


自分の「弱み」をも具体的に分析しておく必要があるのだ。なぜこの腫瘍が珍しいと思ったのか? なぜ自分だけでは診断しづらいのか? どうして専門家の目を借りようと思ったのか? そういったことが説明できずに、「わからなさそうなので見てください」だけメールで送っても、適切なコンサルテーションは得られない。


「見立て」を人に頼ることもまた専門的な技術が必要なのである。弱みの部分を誰かに助けてもらうにも経験がいる。その意味で、病理診断には豊富な経験が必須なのだ。もっとも、経験を積み上げる土台にある程度の知性は必要な気がするし、経験を積み上げたあとに知性で色を塗るくらいのことはしなければいけないのだけれど……。

2020年12月7日月曜日

まぎらわしの作法

とあるスケジュール調整のメールが届いた。

来年の仕事の予定を問われている。

ほとんどは自分ひとりで都合を付けられた。ただ、年間で2度ほど、別の仕事先(A)との調整をしなければいけない。

そこで(A)に電話をした。



日ごろ、あまり電話でやりとりをすることはない。

ただ、なんとなーくなのだが、(A)はメールをあまり使っていない職場に思えた。

これまでのメールもレスポンスがあまり早くない。

なので珍しく電話にした。先方もそのほうがいいだろうと思った。


相手はワンコールで出た。要件をいうとすぐに了解してくれた。

「のちほど、メールで日程をお送りしますね」

と、すばやいレスポンスをもらえた。






あれから6時間。

メールはこない。






もう一度電話していいのだろうか。迷っている。そろそろ通常の企業であれば定時だ。先方に定時という概念があるのかどうかはわからない。このスケジュール調整はほかにも相手がいることなので、できれば早く決着を付けたかった。だからわざわざ電話したのだ。急いでいます、と一言付け加えればよかったがもう遅い。


連絡というのはむずかしい。自分の脳だけで処理できない案件を抱えるといつも悩む。自分が律速段階になって顔を真っ赤にすることもあるし、相手との意思統一がなかなか図れなくて案件がそもそもスタートしないこともある。「いい人」の顔をしていればいつもうまくいくとは限らない。真剣度が伝わらないと向こうがズボラなときには案件ごと忘れられてしまうこともある。


今回のように、「電話」という乱暴な手段をまず使って、その中で「メールでいいですよね」「いいですね」とお互いに了承し合ったのに、その後の反応がぱたりと途絶えてしまう場合、ここでさらに「電話の追い打ち」をするかどうかは迷うところだ。むこうは1日くらいあとでもいいと思っているのかもしれない。ぼくは今回に関しては20分で結果がほしかった。でもそこをきちんと伝えなかったぼくに非がある。



……なんてことを一日中考えている部分が、脳の中のどこかにある。たぶん頭頂葉くらいにあるんじゃないかな? 今のは適当に言ったけど。なんだかモヤモヤとスケジューリングを考え続けているのは脳の一番上のほうなイメージがある。たぶんそんなところにそういう機能はないのだが、「見立て」でそう考えている。


本質的なことを言うとぼくは心根の根本のところをズボラに保っていたい。数年かけて一冊の本を読むような暮らしにあこがれている。自分の本性はそういう人間だとわかっているからこそ、「人前でそれをやっては迷惑をかけるだろう」と、なかば強迫観念的に、自分の原始的な部分を覆い隠すように大脳新皮質の表面の、ほんとうにうわっつらの部分を強めに加工してテフロンを塗ったのだ。だからぼくは対外的・社会的にはメールのレスポンスもリプライの返答もハイスピードであり続けたいし、そうしないと自分の仕事で誰かが泣くことになるのではないか、という危機感が毎日ぼくの心臓を少し早めに鼓動させている。



メールはこない。「ソロキャンプ 冬 北海道」で検索して気を紛らわせている。これ普通に凍死するな、という結論に到った。

2020年12月4日金曜日

病理の話(481) 採り切れましたか

息を詰めてプレパラートを見る。


15枚。20枚。25枚。30枚……。


途中で呼吸を止めていたことに気づいて、大きく深呼吸をする。


外科医の顔がちらつく。


「採り切れればいいんですが……」





術前カンファで、この患者のことはよく聞いていた。


病変がかなり大きい。


すべて手術で切り取ることができれば、文字通り、「患者の命を延ばす」ことはできるだろう。


しかし、病気というのは、雑草や害虫のごとく、「まさかこんなところにまで」という勢いで、広がってしみ込んでいくことが往々にしてある。


手術の前に丹念にしらべたCT、MRIなどの画像で、病気の広がり具合をどこまで正しく評価できるか? 大きなカタマリの動向はだいたい読める。ミリ単位で病気のしみ込み方を判定することもできる。しかし……


ときに、病気の本質は、「細胞1個」のレベルで解析しないと見誤る。


手術で切り取った臓器のきれはしに、「病気の細胞が1個でも」残っていたら?


それは、おそらく、採り切れていないのだ。


まして、10個、100個、1000個という細胞が、きれはしに存在していたら。


体の中に残っている臓器のかたわれにも、きっと病気の細胞は存在するだろう。


細胞のサイズというのはマイクロメートルオーダーである、ミリ単位の1000分の1だ。


顕微鏡を使わなければまず判定は不可能。





そして外科医は祈るのだ。


「この見立てで採り切れるはずだ……ゲリラ兵みたいに孤独に先進する、病気の細胞がいなければ。」


「これだけ大きく切れば採り切れるはずだ……CT, MRIであれだけ見て確認したんだから。」


「たのむ……病理医が顕微鏡で見て、採り切れているよと言ってくれますように。」






息を詰めてプレパラートを見る。


15枚。20枚。25枚。30枚……。


途中で呼吸を止めていたことに気づいて、大きく深呼吸をする。


外科医の顔がちらつく。


「採り切れればいいんですが……」


すべてのプレパラートを見終わってため息をつく。


一行、記載する。


「断端陰性(4 mm)」





2 cmほどの余力を残して病気をすべて切りとった、と言っていたけれど。


きれはしまではなんと、4 mmしか余力がなかった。危ないところだった。


こういうことが、年に数度、ある。これで外科医は患者に説明するだろう。「無事、採り切れました。さあ、これからのことを一緒に考えましょう。」


よかったね、と思う間もなく、次のプレパラートがぼくらを待っている。

2020年12月3日木曜日

福原選手は敬称を付ける

「卓球の張本選手は、実はひとつスマッシュを決めるたびに悪霊を退治してるんだ。」


「あ? なに?」


「除~霊! ってね」


「あ? なに?」




みたいな会話があったとき。

一度目の「あ? なに?」と、二度目の「あ? なに?」は、たぶん発音の仕方とか、表情の作り方とか、全身の動かし方が違う。


……この「違い」は、日本語が母国語の人であればなんとなくわかってくれるだろう。




会話を文字にするとき、それを読んだ瞬間に頭の中で、「実際に人間がそれをしゃべっているときのイメージ・モデル」が組み上げられる。文字に書いていない情報が、すごい勢いで付け足されていく。

これがコミュニケーションの真髄だと思う。

「文字に書いていない情報」のほうが、なんなら文字そのものよりも情報量は多いなあ、と感じることはとても多い。




プロの俳優さんとか声優さんがセリフを読むとき、素人のそれと何が違うか。

声質とか滑舌とかそういうのももちろんぜんぜん違うんだけど、なにより、「文字の外にある情報を脳に喚起させる力」が段違いだと思う。

ところで、「プロの俳優さんや声優さんがセリフを読みました。」という一文には、「現場が感じたありがたみ」の痕跡があまり見受けられない。文字の外の情報というのは、確実に存在するのだが、文字で人に伝えるのがとても難しい。現場にいれば必ずわかる、「プロのすごみ」を、どう文字にしたらいいか……。


「文字にならない部分を文字にする」ということ。

なんだそれ矛盾じゃねぇか、と、字面通りに受け止めてもらっては、言外の情報がちっとも伝わらない。

身振り手振りが脳内再生されるような文章を書くということ。

それを、お互いに、やるということ。

2020年12月2日水曜日

病理の話(480) 臨床と研究と教育と

大学時代には至る所で耳にした話。


医者の仕事は三つあるのだという。臨床、研究、教育。


臨床というのはあらためて眺めてみると変なことばだが、「ベッドサイド」(患者の寝ている横にいること)の日本語訳である。患者に直接会って話して手をさしのべる一連の医療行為のことをいう。


でも医者の仕事はベッドサイドだけでは終わらない。医学の研究をして、新しい治療法を開発したり、病気の正体を今までよりもっと解像度高く見極めたりするのも、立派に「仕事」だ。


さらには教育。自分一人がフルで働いたら年間に1000人の患者を相手にするとして(それはだいぶ優秀なほうかもしれないが)、その勤務時間を削って、相手にする患者数を500人にまで減らしたとしても、かわりに「年間200人の患者を担当できる後輩を10人育てれば」、より多くの患者を救えるだろう。


「これらをすべてやるのが医者だ」。




……でも実際には、この三本柱の比率は一様ではない。人生の三分の一を臨床、三分の一を研究、三分の一を教育に当てている、というバランスの良すぎる医者を、ぼくは見たことがない。


大学にいる人間たちの多くは研究がメインだ。「いや、自分は大学にいるけれど、臨床がメインだよ」という人を15年も観察すれば、99%は大学以外の場所で働くようになっている。大学というのはそういう場所だ。


逆に、市中病院の多くは、研究をする環境が大学ほど整っていない。そして臨床がメインとなる。研究をしっかりやっている医者もいるのだけれど、よくよく話を聞くと、そういう医者は「市中病院に在籍してはいるけれど、実は大学にも籍を置いている」ことがほとんどである。


教育をメインにすえている医者をあまり見ない。教育を相当熱心にやっているなあ、と感じる医者は多いが、それでも、臨床と教育を半分ずつ、というくらいのバランスであって、教育が臨床を上回るような医者はほとんど存在しない。なぜなら、医者の世界で教育をしようと思うと、生意気な後輩達が、

「おまえ、偉そうに先輩面してるけれど、臨床の経験たいしたことねぇじゃねぇか」

と蔑んでくるからだ。教育をしっかりやろうと思ったら、臨床の経験を磨かないとうまくいかない。




じゃんけんよりもう少し複雑な三角関係がある。臨床・研究・教育をどの配分でこなすかというのは人それぞれ。


で、ぼくはどうなのか、という話。


ぼくの精神力の割り振りは、


臨床:40%

研究:20%

教育:40%


くらいではないかと感じる。昔はもう少し臨床が多かったのだけれど、「病理診断医が臨床診断にかける時間は年次をかさねるごとに短くなる」。勤め続ければ診断の速度は早くなる。おかげで教育の割合が増えてきた。


臨床医の場合はこうはいかない。診断のスピードが速くなったら、その分で患者に向き合う時間を延ばしたり、治療の判断や実施にかける時間を長くしたりすることができる。この場合、診断が早くなっても「臨床」に向き合う時間は短くならない。


しかし病理医は診断しかしない。だから診断が早くなれば、余った時間はまるまる、「研究」と「教育」に振り分けることができる。そしてこのことは、「病理医」という職業を考える上で、実はすごく大切なことなのではないか、と考えている。


いっしょに働く臨床医たちのために、忙しい臨床医たちに変わって、最新のガイドラインを読んで理解してただちに現場に反映させること。


臨床医たちに混じって、症例に病理学的な解釈を加えながら、臨床医の疑問を解消する方向に会を導くこと。


学生や修行中の若い医師への指導。これらの時間をどんどん増やしていくことで、トータルで医療の底力を上げるように立ち居振る舞うこと。


これらを「ドクターズドクター」(医者のための医者)と呼んでいる人があまりに多くて閉口する。ぼくらのやっていることは「ドクターズティーチャー」ではないか。「先生(医者)のための先生(教育者)」であろうとすること。センセイズセンセイ。




ま、人それぞれ、好きに配分すればいいんだけど。

2020年12月1日火曜日

脳だけが旅をする

休日、用もないのに出勤することはないのだが、わずかに用があるだけでうっかり出勤してしまい、そこから長く過ごしてしまうことはままある。


わずかな用を土日にこなす意味がどれだけあるものか? 月曜の朝、始業前にやればいいのだ。でも、なんだか気が急いて、土曜の夕方だとか、日曜の昼に、つい職場に足を向けてしまう。


「待っている患者がいるのだから一日でも早く仕事をするべきだ」というのは詭弁にすぎない。ぼくらの仕事はすべて主治医の口から患者に伝えられる。ぼくが土日に病理診断報告書を書いたところで、それを説明する主治医は出勤してきていないわけだし、患者だって土日に説明される心の準備もないだろう。つまり、ほんとうはぼくは、土日に休んでいいのだ。そんなことはわかっている。わかっているけれど、どうも、休めない。


元々土日には学会や研究会を詰めこんでいた。病理医は患者を持たないし、病棟の回診をするという作業も存在しないので、土日は医学に明け暮れていい。この仕事のいいところだ。しかし、感染症禍によって土日の学会はすべてオンライン化され、北海道からえっちらおっちら移動しなくてよくなったせいで、移動分の時間がごっそり余ってしまった。


その時間を自分のために使おうと思っても、うまく使えない。





尻に根が生えるほど過ごした職場のデスクは、見るだけで正直うんざりすることもあるのだが、気に入った本をデスクの回りに挿してある上に、20年以上前から集めたCDの一部も置いてあるから、座ってしまえばあとは快適なのである。通信環境だって完璧だ。過ごそうと思えばいつまででもいられる。


よくない傾向だ。


「仕事と休みとはメリハリをつけてきっちり区別したほうがいい」


そんなことはわかっているのだけれど、そうきっちりと分けきれるものでもないということは、これまで多くの日本人が証明してきただろう。





病理解剖の報告書を仕上げるために出勤した。15分程度で、この日やれることはすべて終わってしまった。まだ追加でいくつか染色をしなければいけない。でも、休日は検査技師が出勤していないから、染色のオーダーを出しても意味が無い。結局月曜日まで待たなければいけない。だいいち、15分くらいの仕事であれば、月曜の朝6時に出勤してからちゃちゃっとやってしまえばよかった。

……そんなことは百も承知で、日曜日にこうして職場にいる。ぼく自身、ほかに何をしていいか、どこにいていいか、よくわからなくなっている。



書店や映画館であれば感染のリスクは低いということはわかっている。服を選びに行けばいいし、なんなら紅葉を見に車を飛ばしてもよかった。それでも、マスクをつけてどこかに移動することに心底うんざりしてしまっていて、どうにも出る気がしない。


もし今、ぼくが感染したら、同じ部屋で仕事をしているほかの病理医や技師たちの感染防御がいくら完璧だとはいえ、やはり一部はPCR検査を施行することになるだろう。あるいは、仮に同僚達が検査をしないで済んだとしても、聞き取り調査や体調調査などで半日近くは無駄にすることになる。


かかったときのダメージがでかすぎて、「かかったらかかったときだ」と納得できない。割り切れない。


ぼくが感染するということは、最前線で診療をしているドクターたちが感染するのとはまた違った意味合いがある。


病理診断科は他科との関わりの数がとても多い。消化器内科や外科とだけ付き合っているわけではない、産婦人科も、耳鼻咽喉科も、泌尿器科も、さらには放射線科だって臨床検査科だって幾度となくコミュニケーションをとる。「100人以上の医者相手に仕事をしている医者が1人欠ける」ということを真剣に考えるとめまいがする。ありとあらゆる他部門の人々に、「本当にマスクをして2メートル離れて15分以内で会話を終わらせましたか?」と確認してまわる作業を考えるだけで頭が痛い。主任部長になってからは会議も多く、院内のお偉方と言葉を交わす機会だって増えている。そういう人たちが「万が一にも濃厚接触になっていないかどうか」なんて、ほんとうのところ、自信がない。「絶対に大丈夫」かどうかなんて誰にもわからない。ゼロリスクは存在しない。


だから休日の移動の足はにぶる。

「でかけなければ生きていけない」ということがないからこそ、でかけられない。




誰もいない職場はひっそりとしていて、感染のリスクなど一切感じられない。誰かに休日の過ごし方を詰問されても、「ここで一人デスクワークをしていた」と言えば、変な言い方だけれど「アリバイは完璧」なのだ。今日も出勤して、脳だけを世界に飛ばす。タイムカードを押さずにデスクに突っ伏して、脳だけが旅をする。

2020年11月30日月曜日

病理の話(479) 不安や不満が腹にたまるのはなぜか

前回の記事を書いていて思ったことをシンプルに書きますが。


われわれ、イライラしているときとか、不安なときとかに、「腹になにかが溜まるような」感覚を覚えることがある。これはなんだろう?


何が溜まっているのだろう? 重苦しいというか……「うえっぷ」となる感覚……。




今ぼくがわかっている限りでこの質問に答える。



自分にとって敵にあたるものを感じてイライラするとき、これから何が起こるのだろうかとおびえて体をちぢこまらせ、不安におびえるとき。


体の中では、交感神経がガッと興奮している。


交感神経は、「Fight and flight」にかかわる神経だ。日本語に訳すると、「バトルか、逃げるか」である。かつて森の中で暮らしていた人類が、肉食動物にばったり出会ってしまったとき、そこで踏みとどまって戦うか、あるいは脱兎の如く逃げ出すか。いずれにしても、人体はある程度共通の仕組みを発動する。


心臓をばくばくと動かして、全身の筋肉に、栄養を送り込んで、いつでも動けるように準備する。戦うにしろ、逃げるにしろ。


汗をかけ!


筋肉や脳以外に余計な栄養を送っている暇はない! メシ食ってる場合か! おしっこしてる場合か!


だから胃腸の動きをとめる。ご飯を消化するはたらきも最低限にする。胃腸がうごめくことはけっこうカロリーを使うのだ。戦うか、逃げるか、そんなときに腸を動かすことはリスクでしかない。ましてウンコしたくなったら困るだろう。膀胱だって勝手に収縮してもらってはだめだ。




すなわち「戦うか、逃げるか」というシチュエーションにであうと、あらゆる臓器、さらにはホルモンが総出で、「走ったり叩いたりする動きを最適化するために」人体が調整されるのである。




イライラする、あるいは不安でドキドキするとき、胃腸は動きをとめてじっとしており、動きの悪くなった胃腸は重く張ったように感じられる。


昔の人が「自分の胸に聞いてみろ!」と言ったのは、無意識に心臓がドキドキすることを自覚して「心は胸にある」と感じたからだろう。「溜飲が下がったわ~」とか、「腹オチしたわ~」というのは、リラックスをとりもどして胃腸がうごきはじめ、ウップと詰まっていた胃腸のはたらきが元のように戻ったことを意味するのではないかと思う。


ほかにもホルモンの話とかいろいろしなきゃいけないんだけど、今日はざっくりでいいや。

2020年11月27日金曜日

陰口

ある人の目に留まらない場所で、あるいは、「ぎりぎり目に留まるかもしれないけれど、目に留まらないだろうという建前のもとで」、人が人の悪口を言っている。


本人に直接言っているわけではないので、これはつまり「相手のことを思って」言っているわけではないのだと思う。ものかげで言う悪口のことを「かげ口」というが、まさに、光あるところではなく、何かの陰に隠れるようにして、自分のために行う行為だ。


陰口は、「陰口を言った本人にとってメリットがあるから行われる行為」。


メリット? そんなもんないよ、言いたいから言っているだけだ、と思っている人もいるかもしれない。しかし人間というものは、あるいは脳というものは、とてもうまくできていて、無意識の行動、無自覚の行動にも長い目で見てみるといろいろと合理性があることが多い。


では、陰口というのは、脳が何を目標として行っているものなのか?




腹の中に不満がたまっていく、という表現がある。人間はストレスを抱えたときにぼんやりとした不満のような感情を腹部で知覚することがある。おそらく、あなたも経験したことがあるのではないか。

そして、この腹の中にたまった不満をゲボッと吐き出して楽になりたいとき、人間は陰口を言う。「溜飲を下げる」という言葉があるが、むしろ溜飲が上がって上がって口から漏れてしまったものが陰口なのだ。

まとめると、陰口とは感情の吐瀉物なのだと思う。




ここまで何も新しいことは言っていないし、これからも新しいことは言わないが、今日のブログに書いておきたいのは、ここから先のことだ。





SNSで誰かが誰かの陰口を言っている。


それに「いいね」を付ける人。


あれはなんなんだ。


他人の吐瀉物を愛でている。


本人はもしかすると、吐くほど不満をため込んだ人がようやくゲボッと吐き出した汚い陰口を目にして、吐いた人の背中をさするつもりで、いたわっているつもりで、おつかれさん、もっと吐いていいんだよ、と、「いいね」を付けているのかもしれないが。


タイムライン上に残るのは、「いいねにまみれた吐瀉物」のほう。そのことに想像力が到らないのだろうかと、本当に不思議な気持ちになる。


陰口もまた自分を守る行動だ。だから、陰口を言っている人に「寄り添い」、「傾聴する」タイプの人は、その人をだいじに思う気持ちを出してやればいい。それは良いことだと思う。


しかし吐瀉物にいいねしてどうする。


なぜそれが見えないのか。




嘔吐は反射だ。自分では制御できないことがある。究極的なことを言えば、陰口というのは本人にとってアラートサインであり、言ってはいけないとわかっていてもつい口から出てしまう類いのものであったりもする。


だから、仮に自分がその陰口の対象だったとしても、陰口ひとつで激怒することはないし、「よっぽど腹に不満をため込んでいるんだな」くらいの想像でなんだか落ち着いてしまうものなのだけれど。


誰かへの陰口に「いいね」がついているのを見るときのほうが、怖い。愛でるという行為は反射ではないからだ。「いいね」は自覚的に行うものである。「吐瀉物をよかれと思っていいねする」ほど汚い5・7・5があろうか?


「反射的に推す」というオタクの方便がある。「尊すぎて判断力がなくなった」というオタクもいる。しかし、そういうオタクは往々にして、多弁で、語彙も豊富であり、むしろ大脳新皮質を無限にブン回して「推し」を慎重に吟味している。「反射的にいいねを推す」と公言する人に限って、いいねの対象は論理的に選ばれているものだ。


吐瀉物に反射していいねをつけている人がいるのだとしたら。


ぼくはそれは、だいぶ異常なことだと思う。

2020年11月26日木曜日

病理の話(478) 人体はウイルスとうまく戦う

こないだ読んだ本(『本当に使える症候学の話をしよう』じほう/髙橋良)に書いてあっておもしろかったことを紹介。



インフルエンザにかかったときなどに、「関節が痛くなる」ことがありますね。くだんの本には、「それって悪いことですか?」と書いてある。まあそこで一回驚く。


いや悪いに決まってるやんけ。


しかし、そこから著者は、「ではウイルス感染でなぜ関節が痛くなるのかを考えてみましょう」と話を展開する。


まず、ウイルスに感染したとき、人体はさまざまな方法でウイルスと戦おうとするのだが、このときに、「緊急警報発令」をして、全身の細胞にさまざまな対策を取らせる。警報の種類がいっぱいあるのだが、たとえばその一つはサイトカインと呼ばれている。


サイトカインと横文字を使うといきなり難しくなる気がしてならないが別に難しくない。


ウイルスがいるぜ、注意せよ、となったときに一部の細胞が、サイトカインという物質を血中に放出する。これは血液に乗って全身の細胞にはたらきかける。サイトカインとサイレンという言葉が、雰囲気としては少し似ているだろう。だからサイレンだと思えば良い。


ウィーンウィーン。サイレンが鳴る。


たとえば鼻にある細胞たちがサイレンを聞く(実際には血液に乗って流れてくるものを受け取る)。


すると、鼻の血管の中から、液体成分を周囲にじゃんじゃん漏れ出てくる。いや、そんなことしちゃだめだろ、と思いがちだが、この液状成分はウイルスにやられている細胞をぶっ倒すための「はたらく細胞」たちを運んだり、あるいは洪水の役割を果たして悪いやつらを押し流したりする。ウイルスと戦うためには血管の壁をスカスカにして液状成分を回りに漏らすことが役に立つのだ。


で、そんな洪水とかが起こるとどうなるかというと、鼻水が止まらなくなるのである。サイレンがなると鼻水が出る。


同様のことはあちこちで起こるのだけれど、たとえば、サイレンが鳴ったときに、鼻水ならぬ「肺水」が出てしまうとどうなる? 呼吸するためにスポンジのようにスカスカと空気を含んでいる肺に水が出てきたら、人間は溺れてしまうだろう。だから、このサイレンは、「肺には効かない」。人体というのはうまくやっているのだ。サイトカインが全身をめぐっても、肺はそれになかなか応答しない(というか、してしまった場合には重症肺炎となる)。


また、たとえば、サイレンが鳴ったときに、鼻水ならぬ「脳水」が出てしまうとどうなる? 脳というのは頭蓋骨に押し込められているから、ここに水が増えてくると一気に内圧が上がって、ひどいときは命に関わる。だからサイレンは基本的に「脳にも効かない」。人体というのはうまくやっているのだ。サイトカインが全身をめぐっても、脳はそれになかなか応答しない(というか、してしまった場合には脳炎とか髄膜炎になることもある)。


というわけで、人体は、外敵であるウイルスがやってきたときにサイレンならぬサイトカインを発して全身に反応してもらうのだけれど、このとき、サイレンが全部の臓器で同じように働くわけではない。ちゃんと呼応させる部分を選んでいる。


で、関節に関しては、「サイレンが効く」のだ。関節の中に水がじゃぶじゃぶ出て、鼻水ならぬ「関節水」状態になる。すると内圧が上がって、動くと痛くなる。これが、「インフルエンザにかかったときに関節が痛い」の正体だ。


ここで疑問をもとう。


なぜ肺や脳はきちんと守るのに、関節は守らないのか?


それは、「関節が痛むこと」によって、人体が損をするわけではなく、実は得をするからなのだ。どんな得をすると思う?




関節が痛い → 動くのがしんどい → 黙って寝ているしかない → 安静になる!




これだ! つまり一部のウイルスに感染したときには、人体は、「関節をあえて痛くする」ことで、人間がそれ以上無理して活動しないように休ませる、というのである。医者が口をすっぱくして「安静にして休んでください」と言っても、早めのパブロンだとか絶対に休めないあなたへエスタックだとか無茶なCMを見ながら人間は動いてしまうわけだが、ここでサイトカインが口をすっぱくして(?)、関節にサイレンを鳴らして痛みを出せば、さしもの有吉もそれ以上動けなくなるというわけである。





インフルエンザにかかったときなどに、「関節が痛くなる」ことがありますね。くだんの本には、「それって悪いことですか?」と書いてある。まあそこで一回驚く。

いや悪いに決まってるやんけ。

そして中身を読む。なるほど! よくできてるなあ!

そしてあらためて質問されてみよう。「関節が痛くなる、それって悪いことですか?」




……やっぱり悪いことだとは思うが……まあ……言いたいことはわかったよ!


2020年11月25日水曜日

拙者

「一人称が変な人が苦手」である。その人の全体が発する雰囲気と、その人が自称する「自らを呼ぶときのやりかた」が合っていないとき、うーん、大丈夫かなこの人……と思う。そして、嫌な予感はだいたい当たる。


他者に対して自分をどう呼称するかというのは意外と奥が深いと思う。「ぼく」はブログの一人称ではひらがなの「ぼく」を使うことが多いがこれもケースバイケースだ。「私」がマッチする場面というのもある。「私」で引っ張らないと完成しない文章があると感じる。「僕」のほうがいいと思う人もいるだろう。極論すれば「小生」がマッチするラジオ投稿というのもあるわけで、これはおそらくネクタイの色を選ぶとか(あるいはそもそもネクタイを締めないとか)、季節に応じて靴の色味を変えてみるのと同じ感覚でやるべきことなのではないか。


ぼく自身は、これまでにインターネットで構築してきたキャラクタに対して「ぼく」が一番しっくりくるのではないか、と思って「ぼく」を選んでいるのだけれど、「その一人称、変ですね」と誰かに言われたら再検討に入ってすごく悩むことになるだろう。自分は自分の最初の読者だが、最初だから一番尊重すべきとは全く思わない、「二番目の読者」が変だと言ったら一気に自信を無くす。「自分が他の目にどのように映っているか」を厳しく吟味しないで書いた文章というのはどのみち誰にも伝わらないのだ、そう、未来の自分ですら「この文章結局何を言いたいのかわからないな」と、過去の自分にダメ出しをすることがある。ましてや現在の他人に向けて何かを書くというときには。


と、ここまで書いていて思ったのだけれど、自分のことを何と呼ぶか、みたいなことは究極的にはどうでもいいことで、ぼくが誰かを瞬間的に判断するときには「その呼称を自分の前にコトンと置いてみて、その人自身がどのような目で眺めているか」という、メタ認知の視点……というと流行りの言葉であまりおもしろくないのだが要は俯瞰の度合いを見て「こいつ大丈夫かな」というのを推しはかっている。ここまでさらに書き足して思ったのだけれど、誰が何をどうやっていても本当のところはどうでもよく、最終的には他人がやる有様を自分にはね返してきて、「自分は他者にとってどうありたいか」というのを微調整することのほうがぼくにとっては大事だ。


40代になっても未だに一人称が下の名前である人を見て、周りにいる人たちがそれを「うわっ、キモ……」と口に出したときに、当の本人がニヤリとして「計算通り」とつぶやいているのかどうか。ぼくはそういうところを見ながら目の前にいる人間たち全ての不気味さを感じ取り、ひるがえって自分というものの境界線を何度も何度も何度も引き直しては「ぼく」の有り様を探っている。

2020年11月24日火曜日

病理の話(477) 運動不足解消のために医局に向かいます

「医局」という言葉にはいろいろな意味があるのだけれど、ぼくのように市中の中規模病院に勤めている場合、およそ2つの意味で使っている。

1.自分が所属している大学の科名のこと。

2.勤め先の医師休憩スペースのこと。


【1.自分が所属している大学の科名】
たとえばA大学の第一外科、略して一外(いちげ)出身で、B病院に勤めている外科医がいたとする。直接大学で勤めているわけではないのだが、一外の教授が人事権をもっていて、B病院で数年はたらいたら次はC病院に行きなさい、みたいに命令をされる。外科医の人生としてはよくあるパターンだ。さて11月も半ばをすぎて、一外の秘書さんからメールが届く。

「12月○日には医局の忘年会です」

この場合、「医局」という言葉は、外科医が所属する「第一外科」という科名そのものを指す。「あなたの/ぼくの所属先」くらいの意味だ。

この外科医は医局の忘年会に出席し、他病院でがんばっている友人や先輩たちと飲みながら、「今後の医局の動向」についてこっそりと話し合ったりもする。



【2.勤め先の医師休憩スペース】

なぜこちらにも医局という言葉を当てるのかよくわからない。ナースの詰め所のことをナースステーションというように、医者の詰め所のことはドクターステーションと呼べばいいような気もするのだが、必ずといっていいほど「医局」と呼ぶ。昔の中規模病院は、科ごとに医局がある(消化器内科と外科と産婦人科はそれぞれ個別に休憩スペースがある)ことが普通だったようだが、今では総合医局と言って、ひとつの大部屋に休憩スペースがあり、パーテーションで個人のデスクが仕切られていることが多い。

ぼくの勤める病院も総合医局制。初期研修医・後期研修医あわせて20名をのぞくすべての医者(120名くらい)が大きな部屋の中でパーテーションに仕切られて過ごす。もっとも、医者が医局のデスクにいる時間はあまり長くない。病棟にいることも、外来にいることも多いからだ。

医局には個人のデスクのほかに、20名くらいなら一緒に過ごせる程度のソファやテレビが置いてあるスペースもある。メジャーリーグで日本人が大活躍しているとか、オリンピックが盛り上がっているとか、大規模災害など、昼間っからテレビがうるさいときには医局のテレビ前に医者が集まっていることもある。コーヒーメーカーやポットが置いてあり、電子レンジも冷蔵庫もある。ただ、電子カルテ端末が複数設置されていることもあり、休憩スペースでダラダラすごす医者はあまり多くない。なんとなく仕事モードのまま小休止をする感覚だ。





ぼくは「医局」で過ごす時間はほとんどない。なぜなら、病理検査室の中にデスクがあり、そっちがメインだから。したがって医局のデスクは倉庫にしている。版が古くなった教科書や、学会が発刊する雑誌など、めったに読み返さない本を整頓して医局の本棚に並べる。あと、郵便物は基本的に医局に届く。

ぼくが医局を訪れるのは1日に1回、郵便をチェックしにいくときだけだ。もし、郵便物が病理のデスクに直接届けられるならば、ぼくは医局に顔を出さなくなるだろう。基本的にいつも病理にいるほうがラクである。

ただ、医局に顔を出さないと、他科の医師とのコミュニケーションチャンスが減ることもまた事実だ。医局の自分の机には、名刺を磁石で貼り付けて、横にメモを置いて、「基本的に病理にいます 市原」と書いておく。とにかく居場所をみんなに教えておく。そして郵便回収で医局に行くときは、さりげなく通りすがるドクターの顔を見る。何か言いたそうにしている人がたまにいる。そこで立ち止まって「はい」と声をかける。するとたちまちスルスルとそのとき困っている症例の話を教えてくれたりもする。



最近思うのだが、病理医のスキルとしてもっとも大事なのは「謎の存在にならないこと」ではないか。ふとしたときに相談できる関係でありたい。「そういえば病理にあいつがいたな……」と連想される人間でありたい。コミュニケーション能力と言ってしまうと大雑把すぎる気がする。ウェイ系のノリは必要ない。ただ、「あ、ちょっと相談してみっかな」までに相手の心を柔らかくする工夫というのはいるだろう。医局に郵便を取りに行くのは運動不足解消のためだけではない。一人でも多くの医師に「そういえばあの件……」と話しかけてもらうチャンスを、こっそり仕込んでおくということ。

2020年11月20日金曜日

大人だってほしい

タイムラインの流れがよろしくない。ツイッターはおすすめツイートを上に表示させる機能があり、ぼくが気になっている人ばかりをピックアップするので、ランダムにフォロー11万人のツイートを表示してくれるとは限らない。そのことがかえって不便に感じられることも多い。

だからぼくはサードパーティのクライアントを併用している。要は、Twitter Japanの公式アプリではないツイッター用アプリを使うということだ。

これによって、普段ほとんど会話もないけれど相互フォロー、という人々のツイートをたまに目にする。世の中で大きな事件があったときなどは、普段から交流のある人たちの反応も大事なのだけれど、ほとんど他人というレベルのフォロイーが何を言っているのかが気になる。

金曜日の夜にジブリをやっているときとか。

ワールドカップサッカーの予選中とか。

大統領選挙とか。

世の中が震撼しているときに、Twitter公式アプリでいつものように、巨大なフォロワー数をほこる「うまいことを言うやつら」のツイートばかりを見ていると、洗練されすぎていて、きれいすぎて、なんだか違うなーと思ったりもするのだ。ぜいたくなはなしだが。





新規感染者数の増加が止まらないある日。Twitter公式のタイムラインには「あらためて、手洗い、マスク、三密回避!」の常識的な声が並んでいた。これには何の問題もない。感染症対策の専門家も、あまねく人々にやさしい知恵を拡散したいともくろむインフルエンサーたちも、これらを世間に周知しようと一致団結していた。

そういうときに、別アプリで、「完全ランダムに表示されるタイムライン」を見る。

今日はこんなツイート(鍵アカウント)を見つけた。




ほしがきが
ほしいガキ

(※手を伸ばす子どもの写真付き)






そういうのがいい。ツイッターはそうであってほしい。

まあフリート機能ももう少し洗練されたらそうやって使えるようになるだろう。世界はどんどんよくなっていく。

2020年11月19日木曜日

病理の話(476) 解剖の効用

病理解剖は、病気で亡くなった患者さんの胸から腹までを開けて、中の臓器を観察し、ていねいに取り出し、最後に体を縫い合わせる。


切る場所は胸~腹である。顔や首に傷はつかない。手足も原則的にいじらない。


場合によっては脳を調べることもある。このときも、顔には傷が付かないように、髪の毛の部分などをうまく使って特殊な切り方をして、頭蓋骨をあけて中身だけを取り出して、またパカッと閉める。


つまり臓器は採りっぱなしだ。体の中に返さない。傷をきれいに縫い合わせてご遺体をきれいに拭いて、ちゃんとテープを貼って傷をかくして、服を着せれば、パッと見では解剖したとはわからない。





臓器を採りっぱなしにしてどうするか? 目で見る。細かいところまで見る。X線をあててCTで観察してわかったつもりになっていたものを、「じかに」見る。影絵とは違う、そのものを見ることは、圧倒的に解像度が高い。だから「直接見るといろいろわかる」ということになっている。


けどほんとうは、直接見てもわからないことはある。造影剤を用いてCTで検査した方がわかることだってある。


たとえば、解剖で臓器をいくら見たところで、生前そこにどのように血が流れていたのかはわからない。ダイナミズムは失われている。推測はできるが、「直接目で見たからなんでもわかるぜ!」というほどではない。


だからぼくたち病理医は、目で臓器を直接見るだけで終わらせない。せっかく取り外した臓器を、もっときちんとすみずみまで検索しないと、患者にも遺族にも申し訳ないだろう。


顕微鏡を使うのだ。全身のありとあらゆる臓器の、異常がありそうなところを徹底的に顕微鏡で調べていく。ここまでやるとさすがにいろいろなことがわかる……。





けど、今の医学というのは本当に優れているので、「そこまでしなくても」、たいていの病気は、患者が生きている間に、体を開くことなく、細胞を見ることもなく、臨床医によって言い当てられている。


代謝がどのように変化していたか。腫瘍がどこにどれくらい育っていたか。正常の機能がどれほど失われていたか。


患者本人の訴えを聞き、分厚い教科書何冊分にもなる診察方法で細やかに患者の全身を調べ、血液を見て、CTやMRIを見て……とやっているうちに、膨大な量の情報が主治医に流れ込み、患者の体に起こっていることの99%はすでに把握されている。




そこまでわかっている人体に対してあえて病理解剖をする意味が、令和2年現在、どれほどあるだろうか。





ぼくの持論を言う。


病理解剖をやっている最中……特に、臓器を検索している時間、平均して1時間半程度(※これ以外にも準備や後片付けがあることに注意)、ぼくら病理医は、主治医とずっと会話をしている。ぼくがメスやハサミを使って臓器を選り分けて体から取り出し、重さを量ったり写真を撮ったりしている間中、えんえんと、主治医や研修医たちと、「この患者について起こったこと」を話し合う。

この会話こそが病理解剖の意義だ、と思っている。




「手術をしたことがあるにしては、お腹の中はあまり癒着が多くないですね。」


「なるほど確かに。この方はあまり消化器症状をうったえることはなかったですよ」


「そうでしょうね。腸管の色はおかしくないですもんね。」


「ただときどきお腹を痛そうにしていたことがあって……それはどこが原因だったのなかあ。」


「正中ですか?」


「はい、心窩部ですね」


「となると内臓痛ですかね、あとで粘膜面も見てみましょうね」


「よろしくお願いします」


「そういえば亡くなる前の呼吸状態はどうだったんですか?」


「そんなに気になりませんでした。やはり今回は別の病気のほうが」


「ふむ、たしかに見た感じ、肺水腫はさほど強くないですね。でも背部ではちょっとうっ血があるかな」


「あ、最後の方でいちど吐いていますが」


「となると、右肺については気管支に沿って切り開いてあとでお見せしましょう。あれ、肝臓の色がすこし黄ばんでますね」


「あ、それは最後に使っていた抗癌剤の影響があるかもしれません」


「なるほど脂肪肝になるやつがありましたね。でもこれ、普通の脂肪肝とは色味が少し違う気もするなあ」


「肝機能自体はさほど……悪くなっていなかったですけれどね」


「そうですか。でもまあ肝臓は念のため見ておきましょう」





学術的に新しいことがわかるわけではない(そんなことはそうそうない。たまにある程度だ)。主治医があらかた予想していたことばかりが出てきてもいい。


「たぶんこうだろうな」をくり返して確度を高めて、日常診療を生き抜いている臨床医にとって、たまに遭遇する病理解剖で、「自分が予想していたものを違った角度から見せてくれる病理解剖」における病理医との対話は、……


……誤解をおそれずにいえば……


「interesting」なのだ。


楽しい(fun)ものではない。患者を看取った気持ちだってまだ整理されてはいない。もっとこうすればよかったという後悔もあるかもしれない。でも、とにかく、「患者に何が起こったか」を目の前で振り返り、医師免許をもった他部門のプロフェッショナル(病理医)と、医学のあらゆるジャンルに対してじっくり1時間以上も話し合うこと、これこそが、病理解剖の大きな意義のひとつなのだと思う。




患者の腹を開けて、


臨床医と病理医が、腹を割って話し合う。


みっつのお腹を大事にあけるのだ。そして対話をする。ここには確かに効用がある。対話できない病理医の行う病理解剖は、おそらく、今の医学にはもう、必要ない。「その程度の医学はもはや、臨床医もすでに持っている」からである。


2020年11月18日水曜日

退場者がいましたしPKもありましたからだいぶ長めに取られているようですね

早めに出勤するのが難しい季節となった。朝はいつまでも暗くて二度寝を誘う。でもそこはたいした問題じゃない。車通勤する人間にとって、冬はタイムロス祭りなのである。


除雪によって、道の両脇に雪山ができる真冬。歩道を潰すといろいろ問題がある(通学途中の小学生も困る)ので、雪の塊は車道にはみ出す。いつもの2車線が1車線に減るということだ。右折車や左折車があるたびにバスがひっかかり、生活道路ですら渋滞する。路肩にちょっとカチカチ停めている車などが現れたら大迷惑、冬の一時停車は重罪である。夏場あれだけ広かった道が半分以下になると、あらゆる道路の利便性がガタ落ちする。そんな中、もし出勤時刻を誤って、ラッシュアワーに車通勤してしまうと、20分乗車のはずが1時間、40分乗車のはずが2時間、だいたい夏場の3倍程度は車の中にいることになる。ラジオに詳しくなる。スポティファイに課金する。


だからぼくは夏のうちから6時台には出勤するように体を慣らしている。ラッシュアワーを外して早めに移動することは冬への備えとして欠かせない、早め早めに移動すれば、仮に遅れても7時半には職場に着くことが可能だ。おそらく豪雪地帯に住む人間はみなうなずいてくれると思うのだけれど、雪の季節に車通勤で8時半ぎりぎりに着くように家を出るというのは難しい。何度かやらかすことで人は学ぶ。



では早く起きて早く移動すれば、雪の影響は完全に避けられるか? 実はそういうわけにもいかない。


さあ出勤するぞと思った瞬間に外が雪だと、いろいろ時間がかかる。ぼくの車は青空駐車で、一晩雪が降ると車の上にも積もる。それを払い落とすのに時間がかかる。車がヒーターで暖まらないと窓がくもるから発進できない。けっきょく、家を出てから移動を開始するまでに20分とか1時間といった時間を費やすことになる。


けっこうな量の積雪があった日は、車のエンジンをかけてからアクセルを踏み込むまでの間に、軽く汗をかくほど動く。車の屋根の雪を落とし、窓の雪を削り、ワイパーの下に潜り込んだ雪をかき出す作業は、20代の時は気にならなかったが今にして思うと肉体労働だ。同じ事はもちろん帰宅の際にも起こる。


結局冬という季節は、1日が24時間なのではなく、23時間にも、22時間にもなるということだ。無心で雪と格闘する時間、車の中でチンタラすごす時間が、往復で1~2時間以上、夏よりも余計に費やされる。満員電車と違って自分ひとりの時間である点が利点だ。満員電車と違って吹雪の中で雪をどう払い落とすかを考えなければいけない点が欠点だ。



だからぼくはラジオが好きになっていったのかもしれない。冬の透明度の高い空気の中、まだ周りが暗いうちに凍結した路面をそろそろと移動するとき、FMラジオ、AMラジオ、Podcast、YouTube、さまざまなものにぼくは人生のタイムロス分を預けた。そこから得られたものが訳知り顔のDJの自分語りであっていいわけがない。クラシックも聴くようになったし、古いオルタナやプログレのアルバムなども聴き直せる。落語なんかもじっくり聴ける。なにより、時間があれば本を読んでいたぼくが「本を読まずに長時間黙っていること」をできるようになったのは、もしかすると冬と雪のおかげなのかもしれないなと思う。冬は人間を矯正する。タイムロスによってロスタイムが伸びていく、という感覚がある。

2020年11月17日火曜日

病理の話(475) そこになければないですね

先日、実際に現場で働く人(Aさん)に尋ねられた質問を、一部改変して載せる。なお、Aさんはベテラン放射線技師だ。現場で40年以上働いている。


Aさん「先生、胃カメラで胃の粘膜をつまんで、ピロリ菌がいるかどうかを検査することがありますよね」

ぼく「はい、ありますね」

Aさん「生検でピロリ菌の有無を判定するときの精度はどれくらいでしょうか。生検だと100%わかりますか?」




ぼく「いえ、残念ながら100%ではありません。ピロリ菌は確かに顕微鏡で見つけることができるのですが、小さい胃の検体内に目視できるピロリ菌の数はせいぜい5,6個ということが多いです。細胞が産生する粘液の中に、小さな『ねじれ棒』状の菌体が、数個見える、というのが典型的。運がいいと100個以上みつかることもありますが、菌だからいつもウジャウジャ見えるかというと、実はそうでもない……というか、たいてい、ごくわずかしか見つけられません。」

Aさん「なるほど、ちょっとしかいないものなんですね。」

ぼく「ええ、しかも胃の中のどこにいっぱいいるかは胃カメラで見ただけではまずわかりません。ですから、『たまたま粘膜をつまんだところにピロリ菌がいなかっただけ』で、ほかの場所にはたっぷりとピロリ菌がいる、というパターンも十分にあり得ます。」





Aさん「じゃあ、胃カメラで粘膜をつまんでピロリ菌を見つけるのはあまり効率がよくない、ということですよね。」

ぼく「実はそれが難しいところで……ピロリ菌がいるかいないかを100%判定できる検査というのはそもそも存在しないのです。尿素呼気試験にしても、血中抗体検査にしても、絶対、ということはない。でも、もし顕微鏡で『菌体を見つけることができたら』、そのときだけは100%ピロリ菌がいると断定していいんですよ。」

Aさん「なるほど、うまく見つかれば、それは100%であると。」

ぼく「はい。ピロリ菌の現行犯をつかまえることができれば感染は確定です。」

Aさん「でも、『ピロリ菌がいないこと』を証明するのは難しい、ということですね。」

ぼく「はい、その通りです。『そこになければないですね~』というのは、ピロリ菌の検鏡検査(顕微鏡を見て行う検査)では言えません。」





Aさん「ところで、検診だと、内視鏡医が、『ピロリ菌のいないきれいな胃ですね』などと言うことがありますが、あれはどうやって決めているのですか?」

ぼく「ピロリ菌に持続感染した胃は、炎症を起こして色味がかわったり、粘液の出方が変わったり、ひだの太さがかわったりするのです。そのような変化が一切なければ、胃カメラでのぞくかぎりは『ピロリ菌はいなさそう』と判定します。」

Aさん「本当にいないかどうかはわからないんですね。」

ぼく「胃粘膜がほとんど無傷なら、ピロリ菌はまず存在していないと見なしても大丈夫。ただし、むずかしいのは、ピロリ菌以外の理由で荒れた胃のときですね。」

Aさん「ピロリ菌以外、ですか?」

ぼく「はい、たとえば自己免疫性胃炎(A型胃炎)とか、薬剤性胃炎とか……。ピロリ菌がいなくても、胃が荒れることはあるんです。そういうときに、原因がピロリ菌じゃないことを証明するのが、そこそこ難しい。」

Aさん「胃を荒らす犯人にもいろいろいる、ってことなんですねえ。」





※チャットでの会話をアレンジしました。ほとんどそのままだけど。

2020年11月16日月曜日

つまらない他人のつまらない夢の話

起きてからもしばらく覚えているタイプの夢は、いずれ何かの役に立つから覚えておいたほうがいいよと脳に語りかけられているのではないかと思うのだ。だからなるべく覚えておくようにしている。


たとえば先日、起きる直前に見ていた夢は6本くらいあって、このうち1本目と6本目がつながっていた。2~4は忘れた。ぼくの脳は2~4番目の夢は事務的に見せていたのだが、1と6はぼくに覚えておいてほしかったんだと思う。


1本目にまず、ぼくは20年前の剣道部の後輩といっしょに大荷物をかついでレンタカーを借りた。そこに荷物を積み込む。レンタカー屋を発信する。そして札幌駅の北口風のたたずまいをした、東京西部のある駅(だとぼくは認識している)のロータリーに、エンジンキーをつけたままで車を留め、なぜか駅の構内に入っていくのだ。


そこにはセントレア駅のミュースカイ乗り場のように、改札の向こうの1階部分に複数の電車が停まるような構造をしていて、ぼくは電車を迷う。どれかに乗り込む。複雑な乗り継ぎをなんとかしないとと思って頭がいっぱいになる。もう後輩はいなくなっている。


そこから4つくらいのエピソードを立て続けに見るのだがここはどうしても思い出せない。


そして、夢としては珍しいことに、ぼくはいろいろな夢に翻弄された後で急に思うのだ。


「あっ、あの車、どうした?」と。




そして駅前に戻ると恐れていたとおり車はないのだ。いつの間にか戻ってきた後輩とともに嫌な汗をかく。レンタカー屋に行く。するとカウンターの向こうにはゴトウマサフミさんの自画像のような、長崎県のかたちをした複雑な髪型の男がふんぞりかえり、「困るんですよねー、そもそもあなた、○○保証入っていないでしょう」と言う。


ああそうか、ぼくは、車だけではなく、後輩の荷物の分までお金を払わなければいけないのか、それは困ったなあ、というところで目が覚める。外はひどい天気で、ときおりあられが窓を叩く音が聞こえてきて、ぼくはお手洗いに行き、トイレの窓から遠雷が光るのを見て秒数を数えた。


いつまでも音は聞こえてこなくて、次に目覚めたとき、ぼくはなぜか車の鍵を握りしめて布団の中にいた。





車を離れるときにはちゃんと鍵をかけよう。

2020年11月13日金曜日

病理の話(474) 病気のかたちをどう解析するか

人体がひどいめにあうとき、そこに「かたちのある病気」があるときと、「かたちとしては見えない病気」があるときとに分けることができる。


かたちのある病気の代表は「がん」である。でもほかにもいっぱいある。たとえばじんましんが「出る」とか、胃に「穴があく」とか、肺が「スッカスカになる」などというのは、いずれも、かたちの変化として確認することができる。


逆にかたちのない病気の代表は「高血圧」である。どこかに高血圧という物体があるわけではないし、高血圧によってただちにどこかの臓器が変形するわけでもない(※玄人向けにはもっと細かい話があるけどしない)。「高血糖」とか「高コレステロール血症」なんかもおなじだ。血液に溶け込んでいる成分の異常や、液体の流れ・分布の異常などは、「かたち」としてはわかりづらい。


「だから」かたちばかり見ていてもだめなんだよ、という考え方もある。


「でも」かたちを見ればけっこうわかる、という考え方もある。


要はいろんな見かたが必要なのだと思う。ぼくは職務として「かたちの変化をとらえる」ことをどこまでも勉強し続ける立場にいるが、「かたちではわからない病気」についても勉強しないと、ほかの医療者と話を合わせられなくなるので、がんばって両方勉強する。





さてかたちの変化をどう捉えるかについて。


まず大事なのはサイズだ。臓器にしても細胞にしても、あるいは細胞と細胞の距離関係にしても、人体というのはすべて「サイズ調整」をされている。かなり厳密に。だからこのサイズとか距離が乱れているなーと思ったらそこは絶対に見逃してはいけない。


次に大事なのは輪郭だ。心臓や肝臓や肺、あるいはウニョウニョ動くような胃や大腸も含めて、輪郭の部分が「いつも通り」なのか、「いつもと違う」のかを見極めることはとっても大事である。原則的に臓器の輪郭というのは、そのもの自体の「やわらかさ」と「張り」、「中に何が詰まっているか」、あと「重力」などによって決まっているのだけれど、そこにたとえば何か「硬く突っ張ってしまう病気」があると、輪郭が変わる。


大きめの臓器じゃなくても、細胞ひとつひとつの輪郭だって、スッとした弧を描いているときはいいのだが、カクカクと角張っていたら何かおかしいと思う。中身に何が起こったのかと考える。


そして大事なのはムラの有無だ。臓器、細胞、なににおいても言えることなのだけれど、ある程度、似たようなもの、同じような仕事をするものばかりが集まって、「似たもの同士」で仕事をするのが人体というものだ。肝臓の中には肝臓の役割を果たす細胞が集まっているし、胃には胃の役割を果たす細胞がきっちり存在する。だから、「周りとくらべて、ここだけ構成成分にムラがあるぞ」と思ったら、それは異常だ。何か普通ではないものがそこに増えていないと、そういうことは起こらない。


さらにマニアックなことをいうと、細胞どうしが作っている構造が、「ゆがみはじめている」ときは要注意。細胞というのは大工さんでもあるが部品そのものでもある。適切な量の細胞が、組み体操をしているとき、そこに秩序があれば、組み体操のピラミッドは左右対称で整ったかたちになる。しかし、中にイキった細胞が混じっていると、ピラミッドの右側だけやけに大きくなる、みたいなことが起こる。すると「左右非対称」になるだろう。そういったゆがみが積み重なると、構造が「蛇行」したり、「でこぼこ入り組み」になったりする。





これらの「かたち」を見る上で、地味に大事なのは、動きの止まった写真を見るスタイルだけでは限界があるということ。


「そのかたちが形成されるためには、どういう動きがあったのだろうか?」


と、頭の中で、ちょっと時間軸を動かす。「かたち」だけではなく「なりたち」に思いを馳せる。そうするとかなり切れ味が増す。





「なりたち」を想像する訓練には、「かたち」を見ないで病気のことを考えるといいかもしれない。すなわち、高血圧とか高血糖みたいな病気をどう想像していくかという、「かたちを考えない診断手法」を学ぶことが、めぐりめぐって「かたち」を診断することにつながっていくのではないか、と思っている。

2020年11月12日木曜日

世界の換わりとショートマイルドツイッタランド

新しい往復書簡マガジンのタイトルに悩んでいる。今日のブログのタイトルも「案」のひとつだったやつだ。


「言いたいだけやん」となったのでボツにした。


De Architectura(デ・アーキテクチュラ)という昔の建築の本をもじって、「De Textura」というのも考えた。しかしなんだかカッコつけすぎやんけ、と思ってボツ。


曼荼羅とワンダーランドをかけあわせて「マンダーランド」というのも考えたのだが、ぜんぜん見た目が美しくないのでボツ。


「Hook that's(複雑)」もボツ。


しっくりこねえ。




「しっくり」ってなんなんだ。「しっくり」とは擬音か? それとも擬態語か? しっくり。なぜこの言葉に日本人はある程度共通の感覚を呼び起こされるのか? 


「しっくり」ってふしぎだなあ。この語感がぼくらの脳の何を引き出すんだろう……。しっとり、とも違うし、ぴったり、とも違うし、じっくり、ともまるで違う。さっくり、とも違う。まさに「しっくり」しかしっくりこない感覚というのがあるんだよなあ。


言霊がどうとかいうけど英語圏の人に「しっくり」と言ってみたところできっとsickとかbig treeとかと聞き間違えるに決まっている。「しっくり」が通じるのはたぶん、中学生くらいまで日本語にひたった人だけのはずだ。そもそも言霊というのは、母国語の種類と言語修得レベルによって発動したりしなかったりするということなのだろうか? まあそうなのかもしれないし違うのかもしれないなあ。言葉なんて複雑系を通過して脳内にイメージを喚起させる最たるものだからなあ……。




「しっくり複雑系」ってマガジンのタイトルにどうだろう。だめか。「シックリ」だとアイヌ語っぽい。「複雑シックリクル」だと椎名林檎っぽくなっていけるか。いけない。




「ゲシュタルト崩壊後リサイクル」みたいなことになってきた。これマガジンのタイトルにいけるだろうか? 無理っぽい。ドツボだ。しっくりドツボ。「しっくりドツボ」? 弱いなー。

2020年11月11日水曜日

病理の話(473) 治療が診断になる

今日の話すごく難しい。まだ、ぼくの中でも、扱いかねている部分はある。実践……いや、実戦の中で鍛えられていかないといけないのかもしれない。



患者にとって、病院という場所は「治療のために」訪れるところである。


決して、「診断のために」訪れるわけではない。病名なんてどうでもいいからとにかく治して欲しい……


……とも言い切れないよね! ってことをぼくはこれまでずっと言ってきた。

人は、自分の体調不良の原因を言い当てられる、ただそれだけでちょっと癒やされるところがある。秋に決まって体調が悪くなるタイプの人が、あるとき「それは花粉ですよ。花粉症って春だけじゃないんだ」と言われて、なんだそうだったのか、と思って気分が少し晴れやかになったりする。つまり診断もけっこう大事なのだ。


けれど。


ま、診断すること自体はすばらしいことなんだけど、やっぱり治療でしょうよ、って話ですよ。そこはスッと話を通していいでしょう。治るに越したことはないんだ。




でね、ぼくは診断をする仕事(病理医)なので、やはりこの、診断に肩入れしている部分があったのだけれど、最近よく、「治療のほうが大事」ってことと、「治療自体も診断に影響する」ってことを両方考えている。


たとえば、胃のピロリ菌を除菌する(治療する)と、さまざまな病気がよくなる場合がある。胃炎や胃潰瘍もそうだが、MALTリンパ腫というややレアな病気は、リンパ腫(つまりがん)なのに、除菌で治ってしまうことがあるのだ。


で、この、MALTリンパ腫の病理診断ってけっこう難しいのである。細胞を見ただけでは決めきれないこともあり、細胞の表面に出ている特殊なタンパク質をフローサイトメトリーという検査で確認するとか、細胞の中にある染色体と呼ばれる構造を直接調べるとか、かなり込み入った検査を追加してようやく診断に到ることが多い。


MALTリンパ腫の「正確な診断」はそうとう難しい。しかし、このMALTリンパ腫の診断を簡単にするほうほうがあるのだ。それは何かというと……。


「ピロリ菌の除菌(治療)をして、どう変化するか見る」


診断が確定する前に、というか診断が8割方決まった段階で治療をしてしまうのだ。「これはおそらくMALTリンパ腫だな」くらいの時点で、つまり、「絶対にMALTリンパ腫ですよ」まではいかない時点で、一部の治療をはじめてしまう。


そして、「治療にどれくらい反応するか」を元に、あとから診断を付ける。そういうやり方がある。


いつもではないよ。それほど単純ではないから。でも、たまに、そういうことをする場合がある。




実はほかにもこういう「治療をしてみて、診断の参考にする」ということを、医者はよくやっている。名著『私は咳をこう診てきた」の中にもそういうケースが山ほど載っている。


えっ、診断が確定しないのに治療なんかしていいの? と思ってしまいがちな医者に対して、最近のぼくは、このようにコメントする。



「診断することが大事なの? 医者がこれだと決めた治療をすることが大事なの? まあそれらも大事なんだけど、結局、長い目で見て患者にとっていいことをしたかどうかが大事なんだよね」




これ、まだまだ、難しい。もっと考えていかなければいけない。そうしないと誠実になれない。

2020年11月10日火曜日

くものなかにいる

気づいたら10年経っていた。ツイッターをはじめたのが2010年の11月なのである。もっとも病理医ヤンデルというアカウントをはじめたのは2011年の4月。5か月間は別のアカウントで、「病理広報アカウント」を作るための情報収集をしていた。


そのアカウントは今はもうない。数年前まではあった。昔懐かしい「規制アカウント」(本来のアカウントがツイッターによってツイート規制されたときに出てくるためのアカウント)としても運用していたので、古いフォロワーはぼくの昔のアカウントを覚えているかもしれない。



気づいたら10年経っていた。今やすっかり「クラウドの中」にいる。インターネットやSNSは外付けハードディスクだよ、なんて言っていたのが懐かしい。当時はまだ、「脳が主」で、「ネットが従」だと思っていたのだ。


ネットを含めた社会が「意思の主体」であり、ぼくらは細胞にすぎないのである。それがわかるまでに10年かかってしまった。


もっとも、ぼくらは細胞だからと言って卑屈になることはない。人間は考える細胞なのである。葦よりだいぶ進化した。誇っていい。




「クラウドの中にいる」というのをどう表現しようかな、なんてのを今ちょうど考えていた。かつて、アメリカの気象台みたいなところ(正式名称忘れた)が、空を高さに応じて10段階に分類し、下から第1層、第2層、と便宜上呼ぶことにした。下から数えて9番目、すなわち成層圏のすぐ下あたりに、積乱雲が達する場所があるのだという。この、9番目の層を「クラウドナイン」と呼び、on the cloud nineと書くと「積乱雲の上」、すなわち天国を意味するのだと聞いたことがある。


ところがこのクラウドナインというフレーズ自体はコスられまくっており、今やウェブで検索すると、出るわ出るわ、美容室やらアクセサリーショップやら、名付けられまくっていて本来の意味を探すのに苦労する。世の中すぐに天にも昇るここちになりたがる。まあわかるが。



ためしに「クラウドワン」で検索すると、ウェブのクラウドサービスの会社がヒットする。


「クラウドツー」だと音楽だ。


「クラウドスリー」だと小説がでてきた。


「クラウドフォー」だとまたアプリ会社だ。


「クラウドファイブ」では本とか音楽が出てくる。


「クラウドシックス」はそこそこ人気のあるフュージョンバンドらしい。わりと新しい。


「クラウドセブン」はエステとバンド。日本になる。日本人は7が好きだ。


「クラウドエイト」がいきなりフィリピンパブだった。どういうことなんだ。


「クラウドナイン」はいっぱいある。


「クラウドテン」は楽曲のタイトル、そして、「クラウドナインよりさらに幸せなこと」を意味するのだという。


「クラウドイレブン」。絶対にそういう音楽あるだろ、と思ったらあった。


「クラウドトゥエルブ」。ロンドンにあるフィットネス系のお店だ。へえ。


「クラウドサーティーン」は急に洋服のブランド名になった。


「クラウドフォーティーン」。アメリカにある有限会社でマンガを扱っている。LGBTQ関連のものも扱うという。これって同人誌の会社なのかな?


「クラウドフィフティーン」。そういう楽曲がある。たいてい歌になるのだ。みんな考えることはいっしょだ。


「クラウドシックスティーン」。……ああっ!!






だ、だ、誰かがすでに! クラウド○○を探して記事にしてるじゃないか!!!





でもNAVERまとめはもうサービスがないので中身は見られなかった。Webarchives使ってもいいけどそこまで別に見たくはなかった。




とりあえずみんな雲の名前をタイトルにするのが大好きだ、ということがわかった。今度ぼくが何かの名前を付けるときにはCloud 42あたりにしておくか(年齢)。





と思ったら「Cloud forty-two」という名前の会社がすでにあった。ウェブ関係だそうだ。あきらめます。

2020年11月9日月曜日

病理の話(472) プレパラートの持ち方

指先がサラッサラッ、の人がいるとします。


清楚なかんじの大学生とか、あるいは、霞食ってる仙人とか、ドラえもんとか。


そういう人の指って、ほんとにアブラがぜんぜんついてない、と思いがちなんですよね。特にぼくくらいの、今42歳くらいの人はそういう感覚があると思う。


でも若い人や、あるいは、デジタルデバイスを使いこなしている人たちは、「人間の指先にアブラがねぇごどなんで、ねぇんだ!」ってことをよくご存じです。なぜなまった?


スマホなんてちょっとスッスしたら指紋つくでしょう?


テレビの回りを拭き掃除してるときにうっかり画面さわったら、あとで朝の光が差し込んだときとかにそこだけなんか汚くなってるのが見えたりするでしょう?


知ったかぶりしてメガネクイってするときにうっかりレンズさわったらそこだけ曇ってみづらくなるでしょう?




で、病理医の話なんですけど、顕微鏡でプレパラートを見るときの話ですよ、あの「ガラスプレパラート」ってやつをですね、べたっと指で持つと、そこに指紋が付くんですね。


その指紋の部分を顕微鏡で見るとね、なぜでしょう、これはもう言語化できないんですけど、油脂が強拡大されてですね、




ウワーーーーーーーーーー!




って病理医は発狂して寿命が80年ほど縮みます。かわいそう。


だからみなさんはガラスプレパラートを絶対に「直でベタ持ち」してはいけません。


ではどうするか? かんたんですね、ハンドパワーです。


触らずに持ち上げればいい。ただ、そうは言っても、夕方とか、疲れているときとか、ちょっとハンドパワー足りない日ってありますよね。


今日はそういう、「ハンドパワーでプレパラートを持ち上げられなくなったときのコツ」を、すごく丁寧にお伝えしますね。説明が長くなるかもしれませんが、おつきあいください。







こうやって持てばいい。





おしまい。

でもこれ本当に大事なので医学生諸君は覚えといてね。まあもうプレパラート触る実習もあんまりないんだけど(今はバーチャルスライドといってPCモニタで実習することが多いですね)。


2020年11月6日金曜日

新機種乗り換えキャッシュバックキャンペーン

充電器がポンコツだ。一晩差し込んでおいたはずなのに、出勤後気づいたらスマホの充電の残りが30%しかなかった。これでは退勤まで持たないかもしれない。



充電器だけじゃなくて、そもそものスマホ本体も、バッテリーが弱るのが早い。



……ゲームボーイはこんなに早くバッテリーがへたることはなかった。

Nintendo 3DSだって、Switchだってそうだ。スマホよりずっと楽しい機械はあんなに充電できたのに。なぜスマホではそれができないのか。

いっそ、任天堂がスマホつくってくれればいいのに……。



充電がすぐなくなるようになると、ぼくたちは新しいスマホを購入したりする。「そろそろ3年か~」なんて言いながら。

ひどい話だ。たった3年で買い換えるなんて。

残価設定型ローンを使って車を買ったことがないぼくにとって、3年で何かを買い換えることには抵抗感しかない。できれば5年は使いたい。

それでも早いと思うけれど。



購入してから毎日のようにアップデート、アップデートをくり返して、それで結局本体の容量がだんだんなくなって、動作が遅くなって、充電がもたなくなって……。

こんなに早くあきらめなければいけない家電というのは本当にどうかしている。

パソコンにも言えることだが。




3年でふるびてしまう家電。冷蔵庫やエアコン、テレビや洗濯機とくらべて何が違うのか、と考えると。

「脳神経」の代替品である、ということが思い浮かぶ。

目のかわりにカメラで見て、耳の代わりにマイクで聴く。脳の代わりに記憶する。心の代わりに考える。

そこまでやってしまう機械だと、たった3年の「古さ」がストレスになるということか。

あるいは、脳神経の代わりをするような機械というものは使うエネルギーがはんぱなくて、ほかの家電に使っているようなバッテリー技術をあてはめてもすぐに劣化してしまう、ということなのだろう。




よく考えたら、スマホの充電よりもはるかに燃費の悪いマシンをぼくは持っていた。

脳である。1日に3回くらいブドウ糖を補給しないといけない。もっと言えば、1分間に20回弱、呼吸して酸素を行き渡らせないといけない。こんなに燃費の悪いコンピュータで偉そうに、スマホをバカにしている場合ではなかった。



でもなあ。脳は3年で買い換えるわけではないしなあ……。




ふと思った。実はぼくの脳も、3年経つとまるっきり入れ替わっているのかもしれない。3年前に思っていたことの寄せ集めなんて、今や、もう何の役にも立たなかったりして。

2020年11月5日木曜日

病理の話(471) 言い古されたことを何度も言う

たとえばこの「病理の話」にしても、同じ事を何度も何度も書く。それはなぜかというと、みんな、この形式のブログではバックナンバーなんて見ないからである。


このブログのPV数を見ていて気づいたことがある。それは、公開して1年くらい経つ記事と、最近の記事のPV数が、さほど変わらないということだ。

つまり、時間が経てば経つほど読む人が増えるわけではない。公開直後にワッと読まれて、あとはもう、ほとんど読まれない。


そのことをウェブに詳しい人にたずねたら、「それはブログの構造の問題ですね」と言われた。「過去の関連記事」みたいなものを表示する機能がついていないと、今の人々は昔に遡ってどんどん読んでいくようなことをしないのだという。


あるいは、Google検索でひっかかりやすいように対策をしておけば、「昔の記事がバズる」こともあるだろう。けれどもぼくはこのブログに関してそういうことを一切やっていない。


自然と、「ときどき思い出したかのように、同じ話題を何度もしゃべる」という形式のブログになり、読者もだいたい固定されて、毎日様子を見に来る、みたいなかんじになっている。





で、今日の内容をなぜ「病理の話」に書くかということなんだけれども、このような「ときおり思い出したかのように一度言ったことをまた言う」というのは、病理診断の報告書を書く際に、あるいは臨床医と話し合う際に、けっこう大事なプロセスではないかと思っているのだ。


医者は、一度念入りに説明すれば何でも覚えられる……わけがない。医者はそこまで優秀ではない。18歳前後で人より早く情報処理ができるようになった、というだけで医学部に入学しているが、40前後になればその能力はとっくにたいていの社会人に追いつかれている。当然、一度説明したくらいでは頭に入らない(昔はそうじゃなかった、と言いたい人はいる)。


だから、「思い出したかのように説明する」のがとても重要だ。特に、病理診断のように、たいていの医者にとってはたまにしか触れない、たまにしか世話にならないジャンルに関しては。


「Ki-67免疫染色ですが、陽性細胞数も大事なんですけど分布がもっと大事なんですよ」


「TTF-1免疫染色の感度も特異度も100%ではないですからね」


「遺伝子再構成検査を提出する際にはホルマリン固定ではなくて、生理食塩水で軽くしめらせたガーゼの上に検体を直接のせて、すぐに検査室に持ってきてください」


「ぼくが矛盾しませんと書くときはあなたに賛成ですの意味ですが、ほかの病理医が矛盾しませんと書くときもそういうニュアンスだとは限りません」



こういったことは、何度も言う。忘れた頃に言う。くり返し言う。付き合いの長い上級医になると、若手を横に同席させた状態でぼくが説明をするとき、途中から微笑んでいる。でもそこで茶化すような人はいない。なぜなら、上級医になるとおそらくみんなが、「何度も言うことの重要性」をわかっているからだ。



で、当然、患者にも「何度も言う」ほうがいいと、ぼくは思う。しかしこのとき、一部の患者は、「こっちが忘れると思って何度も言いやがる、なめやがって」と思うことがあるらしい。たまにツイートでも目にする。


や、そういうことでもないんですけどね。でもまあ言い方の問題もあるだろうなあ。

2020年11月4日水曜日

代わりに言わないということ

https://soar-world.com/2020/10/21/annirie/


↑これがいい記事だなーと思ったんでツイッターで紹介した。その際のツイートをここにもはりつけておく。



”発信力の弱い人、伝える力がない人に「勝手になりかわって」「代弁して」伝えようとする人が激増している昨今、「代わりに言わない」ことをこれほどやさしく解体した記事はめったに出てこない。朝からすばらしいものを読んだ”






最近、リツイートで回ってくる「バズりツイート」の多くが、


”なんかうまいこと言える人が誰かの代わりに何かを言ってやった”


という体裁をとっているのが内心気になっていた。

あるいは、これは「世の中一般の傾向ではない」かもしれない。

ぼくがフォローしている11万人(≒ぼくをフォローした12万人の中で、ぼくがフォローを返そうと思うくらいには人間であるひとたち)が、そういうツイートを好きなだけかもしれない。

すなわちぼく自身が持つ傾向なのかもしれない。

以下は自戒込みで言う。


「誰かの代わりに何かを言ってやるぜ!」がリツイートされやすい環境にぼくはいる。




リツイートのボタンは、ときに「よく言った!」「共感する!」みたいな気持ちを込めて押すものだと思うので、「強い代弁者」のツイートは拡散されやすいだろうな、と思う。


でもぼくはだんだん「代わりに言ってやるぜ!」の暴力にうんざりしつつある。


弱き者――具体的にどういう人たちなのかは場合による――が、ほんとうは世の中に言いたいことがあるとする。たとえば「いじめっこに怒鳴り返してやりたい」とか、「今の世の中でつらい思いをしている」とか、「関係性の中で黙ってしまっている」とする。

そういうときに、「強き者」が出てきて、代わりに声を上げることに、功罪の功ばかりがあるとはぼくには思えない。やはりそこにはゆがみがあると思う。

代弁というのはあくまで代理の声である。あとから出てきた声のでかい人が何かを語る時、それが、「最初の繊細な人」の気持ちを8割背負っていればよいほうだろう。実際には、6割も背負えていない、4割しかあっていない。そんなもんだと思う。人間は他者の気持ちをそこまで正確に推し量れない。


代弁によって大衆の溜飲を下げるタイプの「メディア」あるいは「バズツイート」にはとりこぼしたニュアンスがあるのだ。それはもう、絶対にある。それをわかった上で利用するならいい、しょうがない。欠点を飲んでなお利点が魅力的ならどんどん使えばいい。


しかし、「代弁された者」の気持ちはおそらくずっと明かされなくなる。そういう構造にちゃんと気づけるかどうかだ。


くだんの記事はそこに繊細だと思った。ツイートのあと、ウィズニュースの水野さんとか、NHKの藤松さんとか、ごく少数の「代弁者であることの暴力性」に気づいているであろう人の顔を思い浮かべた。そういう人を真似していくしかない。ぼくはそう思う。

2020年11月2日月曜日

病理の話(470) 誰の役割だろうか

『がん医療の臨床倫理』(医学書院)というゴリゴリの本を読んでいたら、こんな話が出てきた。



「乳がんの患者さんがある検査をした。


その結果が出るまでの間、別室で待機してもらうことになった。

ところが、清掃だか何だかの都合(忘れた)で、その日は待機するスペースが空いてなくて、やむをえず、同じような境遇で待ち時間を過ごす別の患者と相席してもらった。


別室で同席した患者どうしは、互いに同じ病気だということで、お茶を飲みながら談笑し、互いの不安を語り合った。


後日、その患者は、『あの待ち合いでの時間が、病院で一番快適な時間だった』と述べた」




これを読んで思わず唸ってしまった。


病院には数多くの待ち時間があり、それは病院のシステム上、やむをえないものである。画像検査を行ったら、その結果がPCで見られるようになり、医者がそれを評価するまで、患者は待っていなければならない。このとき、医療者側は、「申し訳ないけど待っててください」と伝えるしかない……。


待たされている患者は、その間、不安な気持ちをひとりでどうにかしなければいけない。


ところが、病院が意図していなかった偶然により、たまたま似たような境遇の人と同席することで、不安な待ち時間が「経験を共有できる貴重な時間」に変わった。


患者にとってはほんとうに幸運なエピソードだったと思う。


ただ、これ、医療側が、意図して整備することはできないのだろうか?





病理診断というシステムひとつとっても、数多くの待ち時間が発生する。いずれも、検体を正しく保存し、標本をきっちりと作り、病理医がしっかりと考えるために必要な時間だ。しかし、結果を待っている医者や患者にとっては、単なる待ち時間でしかない。


ここにもっと上手に介入して医療全体に対する満足度を上げることができないんだろうか?




「そんなの病院の経営者ならとっくに考えてるよ」……とも思えない。だってそもそも医者側はさほど気にしてない、というか気にする余裕がないんだ。ぼくだって昨日まであんまり考えてなかった。必死で働いて少しでも待ち時間を短くすること、くらいしか考えてなかった。

そう、病理の結果を待つ患者や主治医にとっての「待ち時間」は、診断する病理医にとってはまさに「激烈にがんばっている勤務中」なのである。待っててくれ!としか言えない……。



でもなあ。



たとえば、「患者役の監査者」にたまに受診してもらって、待ち時間がどこにどれだけ存在しているかの統計をとる。そしてスマホとかけあわせて、待ち時間に「患者であれば知りたくなるであろうこと」をかわりに紹介できるような動画を流す。そうすれば、待ち時間を有効に使えるかもしれない。

あるいは、「待ち時間の裏で必死で働いているわれわれがやっていること」を、ちゃんと患者に伝えるのも効果があるかもしれない。「待つことになるのも当然だ」と患者に思ってもらうというのも手だろう。

病院内にWi-Fiを整備する、みたいなことも、福祉の一環としてやるべきことだよね。令和の時代、Wi-Fiは公共インフラだ。

今、儲かっている病院は、Wi-Fiくらい当然のように設置しているんだろうけれど、病院にもいろんな種類があって、保険医療上どれだけはたらいてもなかなか黒字が出ない、半分慈善事業みたいになって多くの患者をぎりぎり救っている病院もいっぱいある。そういうところには新規にWi-Fiを完備する予算なんてほとんどない(患者はいっせいにネットを使うのでそれなりに強いWi-Fiを整備しないといけないから思った以上に時間がかかる)。

すると、ここには税金を投入しないといけないのかなあ……。



今日の話は「病理の話」には見えないかもしれないけれど、病人にとって、「病気のために使う時間」というのは基本的に人生の損失なのだ。ヘンな話、治療で寿命を1日延ばせるとして、その1日が病院通いに費やされてしまったら、意味が無いと感じる人だっていっぱいいるだろう。となると、病院にいる時間を快適にするというのは、病気に直接対処するのと同じ意味を持つ。


「病人のまわりにある理」を考えるのも病理のひとつである、と言ったら、いいすぎだろうか? ぼくはこれを趣味で考えているのではない。自分の職能で解決できる部分がないかという視点で、おおくの医者が自分事として考えておかないといけないのではないか。そう思うのだ。

2020年10月30日金曜日

毛玉

職場にはいてきたパンツの毛玉がすごい。最近寒くなってきたので、ワタが入ってあったかいやつを引っ張り出してきたのだけれど、あらためてじっくり見てみると毛玉がすごい。人前に着ていけるような服では無かった。……と、以前なら赤面しただろう。


今は人に会う機会が減っているからあまり問題ない。機能があれば、見た目はわりとなんとかなる。


「ソーシャルディスタンシングによって、モノを大事にすることができる。」


すばらしい。




ちょっと今写真を撮ってみたんだけどグロかったので載せない。なぜだろう。肉眼だとそこまでひどい感じはしないのだが、スマホで撮ると光量の関係か、解像度の関係か、毛玉の凹凸がエモ散らかして、綿の荒野に一揆集が決起したみたいに見えてしまう。お見せできない。


「スマホカメラによって、毛玉はグロくなる。」


また所見を得た。






こういったことを少しずつ書きためていって行を埋めることでブログになる。そういう書き方があることは事実だ。ぼくもこれまでに何度かやっている。ただまあ、ぼくのレベルでやると、スッカスカになる。


「一人井戸端会議」において、会話のお題をこうと定める理由はいらないし意味もない(こうやっていうとマツコデラックスを目指すタイプの人が「意味はある」などとつっこんでくるかもしれないが)。


ただ、その小さくて無意味な話題はある種の静電気みたいなものを持っていることがあって、そこにポンと置いてしばらく眺めていると、周りのホコリがよってきてピトピトとくっつく。すると少し話題の質量が増える。


そうやって黙って置いておくうちに、いつのまにか話題の周囲に最初のタネよりはるかに大きな別の話題がくっついていることがあって、あっ、なんでこんな話題を思い付いたんだろう、なんて思って、後から出てきた話題のほうを手に取って眺めていると、とんでもなく長い文章になることがある。そういうことがある。


このことを「氷山の一角」という表現を用いて書いてもよかったのだが、なぜか今日の場合は、一つのコアとなる無意味ななにかを置いて、そこに静電気でもっとでかいものがひっぱり寄せられる、みたいなニュアンスになった。たぶんぼくはそういうことを普段言語化せずに考えているのだろうと思う。


で、その、ぼくが言うのもあれなんだけど、一流の小説家とか一流のエッセイストというのは、最初のコアも大きく育て、寄ってきた別の玉もしっかりと育てて、ふたつが融合したようなテキストを作り上げるのがとても巧みだと思う。逆にぼくは最初のコアにいつまでもいつまでもかかずらう。こだわる。ホコリまみれになった最初の玉を何度でもチラチラとみている。それはもはや他人から見ると毛玉でしかない。ぼくの布地から湧いて出た汚い毛玉。

2020年10月29日木曜日

病理の話(469) 勉強のめやすに4つの分類

「疾患を学ぶ」と言ってもいろいろな方法がある。

あの医者の勉強とこの医者の勉強を比べてみるとまるで違う、ということをよく経験する。

今日の話は医学の勉強法についてなのだけれど、あくまで一部の医者(病理医含む)を想定して書く。それ以外の人にとっては、うまく活用できないかもしれない。念のため、おことわりしておきます。なお、内科医・國松淳和先生がよくこの考え方をなさっていると思われるし、ぼくはそれに影響を受けている。





実地臨床で遭遇する疾患の勉強をするとき、頭の中に4つの分類項目を用意する。

1.コモン×コモン

2.レア×コモン

3.コモン×レア

4.レア×レア

コモン(common: よくある)と、レア(rare: めったにない)の組み合わせである。これだけではなんのことかわからんので、もうすこし細かく説明する。

1.コモン(遭遇頻度が高い)×コモン(典型的な見え方をする)

2.レア(遭遇頻度が低い)×コモン(典型的な見え方をする)

3.コモン(遭遇頻度が高い)×レア(非典型的な見え方をする)

4.レア(遭遇頻度が低い)×レア(非典型的な見え方をする)


つまりは、医者として患者に出会って診察をする際に、「その病気にはどれくらいの頻度でお目にかかるか」と、「その病気として典型的なかたちで診断できるかどうか」で分けておくのだ。ひとつずつ見ていく。




1.コモン×コモン の例:

 「かぜ」、中でも「ウイルス性の上気道感染症」の患者には、医者をやっている限り相当な高確率で遭遇する。「せき、鼻水、のどの痛み」という3つの症状が揃ったパターンが典型的である。
 よくある疾患の、最も典型的な「表現」(どういう症状で医者のもとをおとずれるか)をきちんと勉強する。このことは医者をやっていく上でほんとうに役に立つ。
 きちんと頭に入れておけば、毎日のように使う。

 病理医でいうと、たとえば、胃がんや大腸がんの細胞の特徴を覚えるようなことだ。
 


2.レア×コモン の例:

 「クローン病」という、小腸や大腸などに炎症をくり返す病気がある。発生頻度は高くない疾患である。ふつうに医者をやっていても経験する機会は多くない。しかし、この病気には典型的な症状・所見がある。なかなかよくならない下痢や腹痛、発熱どの症状を見て、内視鏡を行い、「縦走潰瘍」や「スキップする潰瘍」などのいかにも特徴的な所見をみつけると、クローン病ではないかと疑うことができる。
 「クローン病」のことはきちんと勉強しておく必要がある。ただしクローン病の勉強方法がかぜといっしょではうまくいかないんじゃないかな……と思う。なぜなら、「めったに遭遇しない」からだ。たとえば、「下痢や腹痛が典型的」と言っても、下痢や腹痛をひきおこす病気はほかにもいっぱいある。クローン病よりもっと頻度の高い病気が山ほどある。そういったものの中から、「これはレアなクローン病に違いない」と決めるための勉強は、やや特殊だ。「ほかとの差をより意識しなければならない」とでも言うか。

 病理医でいうと、たとえば、Whipple病のPAS染色所見や、ニューモシスチス肺炎のGrocott染色所見を覚えるようなことだ。



3.コモン×レア の例:

 「心筋梗塞」という、大変有名で、かつ重い病気がある。運動や食事の重要性がこれほど一般に知れ渡っても、発生頻度はいまだに高い
 典型的には「すぐにはおさまらない、強く胸をしめつけられるような痛み、焼け付くような強い胸の苦しさ」で発生する。
 ただし、この病気はまれに、「胸が痛くならない」こともある。
 糖尿病などの持病を持っていて痛みに鈍感になっている場合や、本人が胸の痛みではなくお腹の痛みとして知覚する場合、アゴや肩の痛みがメインで胸の苦しさがあまりよくわからない場合などが、まれに起こる。
 よくある病気レアな発症様式。当然、診断するのはむずかしい。しかし、ここで診断にたどり着くのが遅れるとたいへんだ。レアな症状を呈することもあるということを医者が知っておく必要がある。
 えーそんなの無理だよーと思うか? はっきり言って、専門の病気を相手にするプロなら、「コモン×コモン」を勉強したあとで、「コモン×レア」にも守備範囲を広げておくべきである。また、自分の専門外の病気についても、「あれ、コモン×レアか!?」と、気づくくらいの訓練はしておいたほうがいい。

 病理医でいうと、たとえば、E-cadherinが陰性とならないinvasive lobular carcinomaを覚えるようなことだ。



4.レア×レア の例:

 正直に言うけれど、これは基本的には後回しである。ほかの3象限をある程度のレベルまで学んでからでないと、字面だけ、写真だけで学んでもまずうまくいかない。それはそうだろう、「めったにない病気」の、「非典型的な見え方」を学んでもしっくりこなかろう。

 ところが、落とし穴がある。学会や雑誌の中で「症例報告」されているケースの一部は「レア×レア」なのだ。だって、病気自体が珍しくて、しかもその見え方も珍しいとなれば、関わった医者は積極的に学会で発表し、論文にまとめるだろう?
 ただ数を稼ぐように論文を読んでその内容をきちんと吟味していない人は、知らず知らずのうちに「レア×レア」を蓄積してしまっているかもしれない。このことに自覚的でなければならない。論文を読み学会報告を聞くときには、意図的にその他の3象限を取り入れるようにしなければいけない。

 病理医でいうと、たとえば、転座型腎細胞癌のあたらしい染色体転座が見つかったという論文を読んで、その転座に特徴的な所見を覚えるようなことだ。






……今日の記事は、さすがにピンとこない人が多かったかもしれない。

なぜなら、「病理医」というレアな職種の、「疾患の勉強」というコモン……いや……比較的レアなジャンルについての記事だからだ。レア×レアはむずかしいのである。ま、でも、記事にはしやすい。

2020年10月28日水曜日

脇目をきちんとふる

ムスカがシータに「流行りの服はおきらいですか」と問いかけるとき、あーなるほど、ムスカくんもこれまでいろいろな人間と付き合ってきたなかで、流行に追われて常に新しいデザインばかり買い求める人にも出会ったし、あるいはその逆に、「流行っている服なんてつまらないでしょう」とばかりに逆方向にすすんでいく人にも出会っていて、きっといろいろな人間に振り回されてきたんだろうなあ、そうじゃないとそのセリフ出ないよなあと、なんだかかわいさを感じてしまうのである。


”「流行りの服がおきらいな」人ってへんくつだよね。自分の好みが他人の好みよりも優れているという「好みマウント」が、言葉のはしばしから出てくるタイプに多いじゃん。ぼくそういうの苦手だ。”


ムスカもきっと、場末の居酒屋の小上がりで、焼酎をウーロンで割って飲みながら、サークルの後輩相手にそうやって恋愛観を語ってうっとうしがられた過去があったんじゃないかと思う。ほら思い出話がはじまるぞ。シータは逃げてほしい。でもそんなあぶない逃げ方はしないほうがいい。






脇目をふる。脇に目をやる。自分から見て、脇。


自分が世の中心にいるわけではない。脇目こそが本道に近いかもしれない。というか、脇目をふるとき、左右のどちらかはおそらく世の中心である。自分の向かう前が中心ということはまずない。


そして世に中心はない。分散型ネットワークには中心点がないのだ。地球の表面において「中心」がどこにもないのといっしょだ。3次元を2次元の地図に展開して、真ん中を日本にするから、ぼくらは日本が真ん中だと思い込んでしまうし、太平洋とか日本海を「右」「左」などと呼ぶんだけれど、本来の地球の表面には「中心」なんてない。そこには球を網羅するネットワークがあるだけだ。右も左も前も後ろも区別がつかなくなるのが、分散型ネットワークの特徴である。宇宙空間に出てしばらくすると、「高さ」と「遠さ」の概念が区別できなくなるように。球面上を歩いていると、どっちが「脇」でどっちが「前」なのかわからなくなっていく。そういう迷い方をする。


脇目をどんどんふる。脇目をきちんとふる。ネットワークの中で何度か同じパルスが通っただけのけもの道を「本道」などと呼ぶことをせず、自分が歩いている道を「本道」だと思い込むこともせず。脇目をふりつづけるなかで、なお、自分の首が自然に戻る部分は、「本道」ではないかもしれないが、自分がなんとなく進んでいきたい方向なんだろう。座頭市のように。ベッケンバウアーのように。草食動物のように。脇目をふりつつ、「前」に向かう。

2020年10月27日火曜日

病理の話(468) 未来の病理診断が今ここに

「Scientific reports」という学術雑誌はなかなか特殊な、いかにも今風の雑誌である。


論文掲載には「査読」といって、複数の人間の審査を経なければいけない。ただし、掲載が決まるまでの時間は早いほうだと思う。すべての論文が「オープンアクセス」といって、誰でもウェブで無料で閲覧できる。


ぼくの勝手なイメージだが、「けっこうよさげな結果を、急いで世に出したい」ときに重宝されているような印象がある。


さてそこにこういう論文が出た。


https://www.nature.com/articles/s41598-020-71737-w


"3D histopathology of human tumours by fast clearing and ultramicroscopy"


”3D histopathology of human tumours...

(訳:3次元組織学 オブ 人間の腫瘍……)


...by fast clearing and ultramicroscopy."

(訳:……迅速組織透明化技術と、ウルトラ顕微鏡によって。)




すごそうな言葉ばかりが並んでいて、そのじつ何が起こっているのかよくわからないと思われるので、ちゃんと解説する。


ふつう、病理医が細胞を評価するときには顕微鏡を使うわけだが、この顕微鏡、虫メガネと違って、そのものにただ近寄っていけば細胞が見えるというわけではない。拡大を上げ続けていくと2つの障害にぶつかる。


1.「拡大をあげればあげるほど、視野が暗くなる。」


小さな面積を拡大していくので、周囲をいくら強く照らしても、構造がよくみえなくなっていくのだ。このことは非常に大きい。


2.「拡大をあげても、細胞の外側ばかり見えてしまい、中身が見えない。」


きわめつけはこれ。細胞というのはゆで卵みたいなものだ。周囲にカラがあり(細胞膜という)、なかに白身と黄身があって、黄身の部分を「核」と呼ぶ。こいつを外からにじりよって観察したところで、見えてくるのはカラばかり。内部を見るのはなかなか大変だということが想像つくだろう。



そこで、これらの問題を一気に解決する手段として、人間はほんとうにかしこいことを考え付いた。


輪切りにするのだ!


タマゴを輪切りにする!


しかも、そのスライスをペラッペラに薄くして、下から強い光をあてる!


こうすると「1」と「2」が一気に解決できる。下から強い光を当てることについてはまあ上から当てても実は一緒やんけと思わなくもないのだが、「スライスする」ことで断面にすれば、カラの内部の構造だって一目瞭然だろう。


そこで「薄切」という技術を使って、組織をペラッペラにする。カンナのおばけみたいなものを使う。


ところがここでひとつ問題が生じた。ペラッペラの組織というのはほとんど透明だったのですよ。だいこんのかつらむきすると向こうが透けて見えるでしょう?


下から光をあてても、薄すぎてなんだかよくわからん、という事態がおとずれた。あちらを立てればこちらが立たず。


で、人間、さらに工夫して、いろいろと細胞を染める技術をためして、最終的に、のび太さんのエッチイー染色というのを考え付いた。正確にはHematoxylin and Eosin (HE)染色という。のび太さんと覚えていい。しずかちゃんだけど。


これを使うと、タマゴの黄身の部分をきっちり染めることができて、なんならカラの部分も繊細に染めることができる。ペラッペラのスライスであってもだ!


というわけで、「薄くペラペラにする」+「色を付ける」+「下から光をあてる」の三位一体攻撃で、わたしたちは普段、細胞をまるはだかにしているのである。エッチイー。





ところが今回のScientific reportsの記事……というか実はそのずいぶん前から、そうだな、10年以上前から、人間達はまったく別の技術開発にとりくんでいたのだ。そこにはあるモンダイ意識があった。いわく……


「薄く切ったら立体構造が見えないじゃん。」


や、ま、そうなんだけどさ! でもそれはもうしかたなくない?


みんながそう思ってたんだけど、いろいろな業界のひとたちが、「組織をまっぷたつにせずに、そのまま透明にして、そこに色をつけて、なんかすごい顕微鏡で見るワザってねぇの?」という開発をはじめたのである。


いやいやそれってすごいぜ。だってまず「組織を切らずに透明にする」ってことだろう。そうしないと光が奥まで届かない。タマゴの中が見えない。


でもこの技術、まじでずーっと開発され続けていた。ぼくが知る限りでも10年弱前にはすでに日本病理学会で発表があったと思う。


そしてこのたび、「めちゃくちゃかんたんに、しかもすばやく組織を透明にできる試薬の組合わせ」がわかったというのだ。それが上記の論文である。


おまけにその透明になったスケスケ組織に、今までのようなHE染色であるとか、各種の免疫染色をそのままやることができるという。さすがにその発想はなかった。


するとどうなるか? 特殊な顕微鏡(ここにも血と汗と涙の歴史がある)をもちいることで、組織をペラッペラのかつらむきにせずとも……まあ実際には完全に切らないというわけにもいかなくて、ブタの角煮の厚さくらいにはしたほうがいいんだけど……組織の構造をみることができるようになった、というのだ!


ぎょえーすごい。3次元構造がみえる! という論文である。この技術をまず発表しておかないと特許とられちゃうだろうから、論文作成者は発表を急いだんだろうな。Scientific reportsに投稿するのもまあわかる。




ただまあ実際に論文を見てみると、これ、「核の中身」まではなかなかみえないね。やっぱり精度はさほどではない。けど、実際の人間の「がん」が、どのように3次元的に進展しているのかをきちんと表現することができている。


これ、たぶんAIと組み合わせると、人間の診断能力を超えると思うよ。それくらい情報が多い。


よーしぼくもこれからは3次元病理医だ。人間の欲望ってのは果てしないな。病理医のエッチイーである。

2020年10月26日月曜日

体幹を鍛えよう

仕事で首や肩周りが重くなるのはまあわかるのだが、最近、家でマンガを読んでいてもあちこちがだるくなる。つまりは体を黙って支えていることがしんどいということだ。


一番らくなのはふらふらしていることである。所在なく歩き回ったり、意味も無くたたずんでいたり、寝っ転がるにしてもキングサイズベッドくらいのソファがあれば便利なんだけどなーと思いながら床の日が当たるところでずっとごろごろ回転している。定常状態でいると必ずどこかの筋肉に負担がかかる、だからいつも加重のかけかたをずらして、ひとつのところに留まらないようにするしかない。


多彩なくらしをすることで、「人生の床ずれ」を起こらなくする。まあかっこよく(?)言うとそういうことになるだろう。しかし、冷静に考えて、これらの面倒な気配りは、「体幹や四肢近位の筋肉をきちんと鍛えておけば必要なくなる」のである。


腹筋と背筋を。体の横側の筋肉を。ふとももや腕を。ムッキムキにしなくてもいい、人並みに鍛えておけばいいのだ。維持できるだけの体力があればいいのだ。そうしたら、また、何時間でも本が読めるし、何も考えずに一日日向に座っていることもできるだろう。


のんびりするためには運動がいる。心を無にするためにも筋肉がいる。




テレビに「20年前、スポーツチャンバラで世界一になった人」が出てきて、ウレタン製のチャンバラ刀を振り回していたのだが、駄々っ子のそれと変わらないように見えた。


ぼくも剣道をしなくなって18年ほど経つ。つまりはああなっている。もはや、していなかったのと同じ状態、いや、「俺も本気を出せばあの頃に戻れる」と感じているぶんだけタチが悪いようにも思う。とりあえず昨日、鬼滅の刃を1巻から読むときに、V字腹筋を足してみた。

2020年10月23日金曜日

病理の話(467) がん細胞を更正できるものなのか

がん細胞は、正常の細胞の性質をある程度兼ね備えたまま、その挙動がおかしくなっている。


たとえば白血病というがんは、「白血球」というだれもがもつ細胞の性質を持っているのだけれど、ちゃんと白血球としては働いてくれず、どこかしら異常になっていて、必要以上に増えたり(増殖異常)、本来の仕事をしなかったり(分化異常)、不死化していたりする。


で、このことを何度かブログに書いているうちに、ある感想をいただいた。


「それぞれの細胞の性質を持っているならガン細胞の記憶をなくして普通の細胞として更正してほしいみたいな気持ちになりました」


まったくそのとおりである。ぼくはよく、がん細胞をチンピラとかヤクザ、マフィアに例えるのだが、彼らを真人間に戻す方法は無いのだろうか?


この発想をおおまじめにすすめて、がん治療に活用できないだろうかと考えている研究者は実際に世界中にいる。ただ、あらゆるがんに「更正」が有効ではないようだ。というかそもそも多くのがんは「更正するには悪事をおかしすぎてしまっている」のである。映画の終盤、更正した悪人が結局死んでしまうシーンを思い出して涙する。レオン一度しか見てないのに覚えてるな。


がんが「悪事をおかしまくっている」というのはどういうことか。これをもうちょっと科学的に書くと、「がんの持っているDNAは異常だらけ」となる。よく、DNAの変異によってがんになる、という言葉があるのだけれど、がん細胞というのはDNAが1,2個変異したようなナマッチョロイものではない。


がん細胞には、少なくても20箇所、多ければ100箇所以上のDNA異常、すなわち「目に見えてやばいプログラムエラー」が存在する。ちいさなミスを入れれば限りない。


一度カンチョーをした小学生を不良とは呼ばないだろう、先生ときちんと話し合えば十分真人間に戻れる。しかし、リーゼントモヒカンにチェーンのついた財布と短ランボンタン、タバコ3本を同時に加えて両手にサバイバルナイフをぶらさげ、マリファナとコカインとハッピーターンを同時に吸引しながら書店で万引きをする高校生がいたらこいつはさすがに更正不可能ではないかと考える。もちろんこれが1名だけだったら児童相談所に連れて行くなり鑑別所に行くなりして一人の人間としての人生をもういちど考えてみようぜと説得するところだが、150万人いたらどうか? おそらくトランプ大統領ではなくても空爆を考えると思う。


そう、がん細胞というのは、異常を数多くもち、徒党を組んでいる。だから薬や放射線などをうまく用いて更正するというのが非常に難しいのである。


ただ研究者というのはあきらめがわるい。完全にマフィア化したがんについては、更正という手段はほとんどあきらめムードなのだけれども、「まだがんになる前の細胞」の、「悪事を起こす予兆」みたいなものだったらなんとか更正できないだろうか? と考えている人はいる。


それはたとえばDNAの異常そのものではなく、その異常を引き起こしがちな「DNAのメチル化」と呼ばれる、DNAの周辺にある異常を人為的に元に戻せないか、みたいな研究だ。まどろっこしいね。言ってみれば、高校生の男のコは多感な時期だけどまだまともなカッコウをしている、しかしその家ではしょっちゅうテレビでVシネマがかかっていて、毎日暴力・淫靡・R-150指定くらいのヤバヤバ動画が放送されている、となるとこれはいずれ高校生もぐれるかもしれないだろう。そういうときに、「テレビ消しましょうねー」と指導を入れる、みたいなイメージだ。


えっこれ難しいんじゃない? と思っていただきたい。その直感は重要である。なにせ、この高校生の周りの家にも多くの住人がいて、彼らもまたテレビを見るのだ。ただしみんなが見ているのはイッテQだったり復活した徳井だったり、あるいはテレビではなくYouTubeやネトフリであったりするのだけれど、町内放送で「お前ら全員テレビ消せ」とやるわけにはいかないだろう。そう、がん細胞の周りには通常の細胞がいるので、これらをまとめて調整しようとするとなかなか大変なのである。


ただそれでも、マフィア化したアホどもを真人間に戻すよりは可能性がある。このため今の日本では、「エピジェネティクス」とよばれる、DNAそのものの異常ではなくてその前段階、あるいは周辺にある情報の異常についての解析がとても進んでいるのである。