2023年3月31日金曜日

天下一の味覚

最近、病院の1階に入っているローソンで夕方にオヤツを買うようになった。44歳までいちども経験したことのない習慣であり、多くの知人に「それはもったいなかったねえ」みたいに言われたので、そうか、オヤツって食べていいんだな、と納得して取り入れることにした。帰宅して晩飯を食うまでにはまだ5時間くらいあるからここでエネルギーを補給しておくのはよいことだ。なぜ今まで気づかなかったのだろう。

最初は、ジェネリック・バターサンドとかジェネリック・栗まんみたいな手で持てるお菓子ばかり買っていたのだ。そこから少しずつ幅を広げて、ワッフルとかシュークリームみたいなものを買ってもみたが、さすがにそこまでクリームクリームしているものを食うと晩飯に影響しそうで気が引ける。小さいのがいいと思う。

今日買ったのは「ブルーベリーのチーズケーキ」である。プリンのような容器に入った小さなオヤツで、乳白色のチーズケーキの上にわりと分厚くて濃厚なブルーベリーソースがどんと乗っていていかにもうまそうだ。スプーンを付けてもらった。ぼうっとした今日のぼくが店員だったらきっと「スプーンとお箸どちらにしますか」と客に訊ねて笑われただろう。客のほうでよかった。フタを剥がそうと指を添えると、商品の正式な名前が目に入った。「ブルーベリーのチーズケーキ ブルーベリーソースがけ」。

そうかあ、ブルーベリーを混ぜ込んだチーズケーキの上に、さらにブルーベリーソースをかけている、ということか。「追いブルーベリー」だな。

昔、マンガ「BAR レモン・ハート」で、タリスカだったかボウモアだったか、クセの強いモルトをハイボールにしたあとに、上に原酒のウイスキーをちょっとだけフロートするという飲み物を紹介していて、すごくうまそうだなと思っていたら、現実に存在するなじみのバーで同じ出し方をしていると知り、狂喜乱舞して注文し、うまいうまいと飲んだなあなどと急激に思い出が蘇る。バー……久々に行きたいな。忘年会も新年会も送別会もなかった、歓迎会もたぶんやらない。でももう飲みに行ってもいいような気はしている。しばし呆然とよしなしごとを考えてから、ブルーベリーのチーズケーキにスプーンを入れて食べ始めた。

うまい。オヤツってうまいな。ブルーベリーのほどよい酸味とチーズケーキの濃密な舌触りとがシーソーを軽く揺らして楽しくバランスをとっているかんじ。


しかしこれブルーベリーのチーズケーキではないよな、と思った。チーズケーキのブルーベリーソースがけであって、ブルーベリーのチーズケーキのブルーベリーソースがけではない。わかっていただけるだろうか。炭酸にウイスキーをフロートしたものと、ハイボール(ウイスキーの炭酸割り)にさらにウイスキーをフロートしたものとは別モノだろう。ぼくは商品名を見て、「ブルーベリーの味や風味がねりこんであるチーズケーキ」の上にさらにブルーベリーソースがかかっているということに興奮したのに、これはつまり「プレーンなチーズケーキの上にブルーベリーソースがかかっているだけ」ではないか、なんだかダマされたな……。


いや……ダマされたは言い過ぎだな……うまかったからいいか。そう思い直して食べ終わる。ごちそうさまでした。ちなみにこういうデザートって検索したら出てくるのかな。これか。ローソンで作っているわけではなくて、お菓子の専門業者が作ったものがローソンで売られているということらしい。


https://www.andeico.co.jp/2015/01_product/00_new/blue_berry/


「アンディコ」のチーズケーキ。解説を読む。


「オーストラリア産クリームチーズを使用したチーズプリンと、自家製ブルーベリーソースの2層デザートです。」


ん?


「オーストラリア産クリームチーズを使用したチーズプリンと、自家製ブルーベリーソースの2層デザートです。」


あっ! チーズケーキですらない! チーズプリンだって!! さっきめちゃくちゃ偉そうに「ブルーベリーのほどよい酸味とチーズケーキの濃密な舌触りとがシーソーを軽く揺らして楽しくバランスをとっているかんじ」とか書いちゃったけどこれチーズケーキじゃないじゃん! 


つまりぼくはブルーベリーの風味付けをしたチーズケーキにブルーベリーソースがかかったものを買って食べたつもりが、プレーンなチーズプリンにブルーベリーソースがかかったものを食べていたのだ。ハイボールにウイスキーをフロートしているものを飲んだつもりがじつはホッピーのソーダ割りにドランブイを……まあもうおいしかったからいいか……。

2023年3月30日木曜日

病理の話(761) 教える機会を自分で作る

「人に教えることで自分が勉強できる」の法則はけっこう普遍的である。


・何度も他人に説明しているうちに自分の中で要点がまとまっていく

・自分が説明したあと、相手が何か質問してくる部分はたいてい、さいしょの説明でうまく伝えられなかった部分であるから反省材料になる

・自分よりも上手に教えている人のすごさがわかるようになる(のでそこを目指せるようになる)

・自分が誰かにものを教えるときの教科書・資料のすごさがわかるようになる(のでそこをより深く読めるようになる)

・説明した相手が「なるほど、こういうことですね!」と本人の立場から理解を表明するとき、その相手が持ち込んだ新たな情報からこちらが逆に教わることがある(教育はいつでも双方向的である)


「教える側に回る」ことの利点は複数ある。

そして、病理医という職業は本質的に、「誰かに何かを教える側」である。主治医をはじめとする医療従事者に、「ある細胞をみてAという診断をする根拠」を毎日説明し続ける職業だ。だから、キャリアを積むに連れて病理医は次第に教えるのがうまくなっていくし、人に教えた量にあわせて勉強のしかたもどんどん上手になっていく。病理医は処置も手術も患者との会話も処方もしないで、そのぶんずっと勉強しているのだけれど、そこにさらに「教育」が混ざることで、勉強の量・質とも非常に高くなるのである。

そんな病理医の姿を臨床医がみると、しばしば、ドクターズドクター(医者の医者)という二つ名を持ち出す。たぶんに広告的なニュアンスが感じられるあだ名だが、どちらかというと我々はドクターズティーチャーである。「先生の先生」と日本語にしたほうがおもしろい。言うまでもないが前者の「先生」は医者、後者の「先生」は教師のことである。



……ただ、以上はぼくの理解であって、必ずしも世の病理医がみな同じ意見ではない。

たとえば、病理医がAと言ったらAなんだ、という診断をするタイプの病理医もいる。主治医に自分の思考過程を説明しようとはしないで結果だけをズバンと返す。一部の主治医も、そういうドライな病理医のほうが「検査」っぽくて使いやすいと思っているフシはある。

また、教師系の仕事をなるべくせず、その分の時間で研究に没頭する病理医もけっこういる。細胞をみて診断をすることよりも、その病気のメカニズムや治療方法の開発などに興味があるので、主治医とコミュニケーションする時間があったら論文を書く、みたいな人だ。医学の発展に欠かせないし個人的にも夢があっていいと思うが今日の話とはずれる。

あるいは、自分が学ぶので精一杯だから教師役なんてとてもとても、と謙遜するような病理医もいる。けっこういる。細胞から診断することのわけを知りたいならもっといい先生がいます、もっといい本がありますと言って、自分では説明せずに「識者」につなぐ。わりとよく見かける。けれども冒頭の話を思い出してほしい。誰かの教師でいることは何よりも自分の勉強になるのだ。「自分なんてとてもとても」の時期が長いと、それだけ効果的な勉強をする機会を逃している、とぼくなんぞは思うのだが、ま、勉強というのはペースをあげればいいというものでもないので、その人なりのペースでゆっくり登坂していけばよいのだろう。

そうそう、「周りに教える人がいない」という病理医もいる。主治医があまり病理診断科とコミュニケーションをしたがらない、病理検査室に細胞と検査伝票を届けたらあとは結果が出るまで一切病理医のことを忘れている、みたいな環境は頻繁にある。そういうところで主治医のもとに出向いて「診断のわけを教えます」とやったところで相手は聞いてくれないだろう。若手病理医が研修に来るような病院でもないとすると……病理医は貴重な勉強の機会を失うことになる。では、どうすればいいか?


ひとつの答えは「ブログを書く」ことかなと思う。がんの診断根拠、免疫染色の効果的な使い方、病理検査の依頼書に書いてほしいことなど、病理医は普段なにを考えているか、どう勉強しているのかを記事にまとめてネットの海に流すのだ。すでに多くの人がやっていて、いい教科書もやまほどあるから、自分がさらにそこに加わる意義はない、みたいな考えではもったいない。くりかえすけれど誰かに教えるつもりで資料をまとめ、頭の中を整理し、誰かに語りかけるように論調を組み立てること自体が自分の勉強になるのだ。もうあるから要らない、ではない、自分のために要るのである。自分が昔書いたブログの記事をときどき読み返すと、ここはずいぶん偏っているなあとか、この書き方だとまちがって伝わるかもなあとか、これは現場で引っかかりがちな疑問についてあえて避けてしまっているな、みたいなことが次々と思い起こされる。自分で自分にフィードバックをかけていく。誰かの教師でいることが大事なのではない。自分が自分にとっての教師でい続けることが大切なのだ。それをやらなければ、長い人生、ずっと病理医をやり続ける=ずっと勉強し続けるなんていかにもしんどいだろう。ブログをやるといい。ただし、プラットフォームとしてnoteを使うのは、スキやらフォローやら、承認欲求を満たす仕組みが多すぎて、気が散るからあまりおすすめできないのだけれど……まあ、この際、どこでもいい。

2023年3月29日水曜日

新作落語としての死神

着々と先の仕事が片付いていく。講演や講義の資料はかなり先のものまで完成している。とはいえ、新年度になってみないとわからない類いの仕事もポツポツあるし、そもそも講演や講義というものは事前準備だけで終わるものではなくて当日の聴衆の反応を見ながらフィックスしていく作業も必要であるから、仕事の準備が順調だからといって今後やることのすべてが自動化されたわけではない。

が、でも、総論として「準備万端」であることは間違いない。準備ができていないことに比べたら今がどれだけ楽なことか。つまりは喜んで安心するべきなのである。

ついでに言うと今のぼくは、どこの大学に行って将来何をしようかとか、大学で何を学んでどんな資格を取ろうかとか、職に就いてからどのように初期のレベルアップをしようかといった、人生の前半戦に必発の悩みからは遠く離れたところに立っている。つまり、この先に押し寄せる仕事の準備が万端なだけではなく、この先に選ばされる「重大な選択肢」みたいな負荷もぜんぜんないのだから輪を掛けて楽なのだ。

こんなにストレスのない暮らしは思春期以降はじめてなのではないか。



そして、だからこそ、近頃のぼくはすこし燃え尽きているのだと思う。半生で背負い続けた精神的な負荷が少しずつ減っているために、かえって、押しつけられていた心の、「抑え」になっていたものが外れて、ふわふわと隙間から漏れ出ていくように何かの総量が目減りしている。選択をしない暮らしにおける終わらない微調整にはそれなりの……というかおそらく人生で最大の事務能力が必要で、いかにスキルが向上したからといって決してそれは片手間にスイスイこなせるような類いのものではなく、つまり中年には中年なりの「全力を傾けてやらなければならない小仕事」があるのだが、心の中から何かがこぼれて目減りしていっているそれはおそらく化石燃料で、エンジンの回転数があきらかに減っていて、でもスキルは十分に中年レベルに高まっているから、ぶっちゃけ、タイヤの回転もトルクも減っていてもなんだかんだでのらりくらりと前に進んでいくことができてしまう。


そのことがつまらないなあと感じる。




日曜日に猛然と働いて、午前中であらかたやりたいことがなくなってしまい、となれば次は4か月後の講演をひとつ作っておくとこのあと4月が楽に過ごせるなあ、と、思ったのだけれど、楽に過ごしたからといってなんなんだ、という気持ちが湧いてきてしまって、昔サザエさんだったかコボちゃんだったかで、「片足の爪を切った後、もう片方の足の爪を切るのは退屈なことがわかっている翌日にとっておく」みたいなシーンがあったっけな、というのを思い出しながら、仕事をそれ以上進めるのをやめてスープカレー屋を訪れた。日ごろ、人が多そうな昼飯どきに外食をすることはめったにない。11時台前半にずらして食事をすることが多い。けれど今日は、混んでいたからといってなんなんだ、待たされたから何が悪いんだという気持ちだったので、12時半くらいにあるスープカレー専門店の総本店を訪れた。先日、系列店にはじめて入って食べたスープカレーがおいしかったので、今日もその延長戦のイメージで、ただし同じ店で同じ店員に会うと照れてしまうから、本店にしておこうという小さな逃げを選んだ結果である。総本店の駐車場は満車になっていなくて、ぼくは車を停めて店内に入り、店頭の看板にあった本日のおすすめメニューみたいなものを頼んでからradikoで燃え殻さんのラジオ「BEFORE DAWN」を流して待った。ラッシーが先に届いた。それをちびちびやりながら、燃え殻さんが自分のエッセイを自分で朗読するところを聴いた。「ボクたちはみんな大人になれなかった」というタイトルをつけながらもあの小説では主人公たちが否応なく大人に取り込まれていく、そんな中で彼女だけは子どもの心を残したまま――というあの作品の雰囲気はスープカレー屋と非常によくマッチして、ぼくは自分がうまくなじまなかった人生のことをいろいろ考えた。そうして待っているうちにカレーが運ばれてくればよかった、というかまあ日曜日のありかたとして引っかかりなく典型的だったはずが、問題がひとつ生じ、それはカレーがなかなか来なかったということだ。入店時にラッシーを頼んだときに「LINEでおともだち登録していただければラッシーは無料ですよ」と言われ、そういう登録系はこれまでの人生の中で基本的に即座に断ってきたのだが、今のぼくは店員や店舗の下心みたいなものに平気でのっかって何が悪いんだという方向に精神が持っていかれているので、ああそうですか、ではさっそく、と店員の前でホイホイLINE登録してなんらかの送信ボタンを押した。その無料ラッシーはすぐ運ばれてきたのだがそのあとの肝心のカレーがぜんぜん来ない。よく見ると周りにいる客たちも、ぼくより先に席に着いていたはずの人たちのところにもカレーは来ていないので、これはつまりぼくが忘れられているわけではなくて基本的に今日のこの店の運営がこれくらいのスピードなのだろうと理解した。ラッシーには氷が入っていてそれがそろそろとけてくるだろうなというタイミングでようやくスープカレーが運ばれてきて、ぼくは多少下の方が水っぽくなったラッシーとともに普通にうまいスープカレーを食ったが、系列店と同じ辛さの番号を選んだはずなのに今回のほうが少し甘く感じた。スープの種類を変えたから当然だろうと思った。ただしぼくは今日はもうこのあと仕事をするわけでもないから多少汗だくになっても構わないと思っていつもより辛めの番号を選んだにもかかわらず思った辛さに達していなかったことに少しだけ気落ちした。ぼくがスープをサラサラ飲んでいる間、燃え殻さんはお便りを読んでいて、昨日風俗嬢をやめたというリスナーが「最後のお客さんが燃え殻さんだったらよかったのにと思いました」と書いているのをそのまま正直に読んで咽頭のあたりを小さくヒュンと鳴らしていた。ああスープカレー屋で聴くラジオとしてなんてぴったりなんだろうと思った。食い終わって店を出ようとすると周りの客達はまだチンタラチンタラとスープカレーを食っていて、ぼくもこれくらいのスピードで日曜日を過ごして何が悪いんだと、お会計をしてもらうポイントカードを今までのように車のゴミ箱に捨てることもなくダッシュボードに大事にしまって何が悪いんだと、エンジンをかけて家に帰りながらこのあと十二国記の続きでも読みつつ途中で寝落ちして何が悪いんだと、そうやって次々と小さな不良行為に自罰的な評価をくだしながら、自分が悪びれることで暮らしを存続させていることにも少々驚き、数多くの言い訳をストレスのかわりに心の上にかぶせて、それでかろうじて心の中の炎が消えないように世界の風から守ろうとして必死だった。

2023年3月28日火曜日

病理の話(760) パターン認識と統計に基づいた仕事

要は、AIでいけるやんけ、という話である。


細胞の形を見て、正常の細胞と見比べて、似ているか似ていないか、似ていないとしたらそれはどれくらいかけ離れているものなのかを考える作業を、病理医は「異型を判断する」と呼んでいる。ここでいきなりの専門用語だが、びびる必要はない。異型すなわち異なりの型とは、どれだけ正常の細胞からかけ離れているかを度合いで表すということだ。どれだけ似てますか、似ていませんか、それだけの話だ。


病理医が「これは異常な細胞だな」と判断したあとは、過去に報告されている(教科書などに書いてある)病変と見比べて、またも似ているか似ていないかを考える。正常からのかけ離れを評価しつつ、過去に名前のついた病気と似たところを比べてもいるわけだ。しょっちゅう「似ている、似ていない」ばかりやっている。

これを俗にパターン認識と呼ぶ。


話は突然変わるが、「クイズ王」がやっていることを思い浮かべてほしい。彼らは膨大な知識を集めて覚えているように見えるが、単に頭の中に知識を詰めこむだけでなく、クイズという形式で勝つための訓練もやっている。どういうフレーズで問題文が読み上げられたらどういう質問がされがちか、どういう順番で条件が提示されたらどこで早押しが可能になるのか、といった、「出題のパターン」をいくつもストックしておき、新たに耳に入ってくる問題がそのどれと似ているか似ていないか、という選別を行うことで、単に物知りなだけではなく、それらを人よりも早く気づいて早く答えるという「競技性」に高めていく。我々はそういう姿を見て「すげーな、人間業じゃねーな」と感じて喜ぶわけである。


で、この、パターン認識によって複雑な認識を上手に処理していくというのは人間だけでなくコンピュータが得意とするところだ。知識をたくさん記憶できることよりも、無数のパターンの中からどれに近いかと探り当てる、いわゆる「ひらめき」的な部分でこそ機械は本領を発揮する。

なんでその答えがそのスピードで出てくるんだよ、と我々はクイズ王に驚く。しかし、「なんでこの答えがこのスピードで表示できるんだよ」とPC相手にびっくりする人は最近はほとんどいないのではないか。




さて、病理医が細胞を良性だ悪性だと判断するとき、その根拠が「過去に教科書に書いてあるから」、「昔の病理医がこういうパターンだと悪性だと言ったから」だと、少々さみしい。研修中や若いうちはそれでもいいかもしれないが、そもそも昔の人が見つけたことが今の医学においても成り立つとは言えないので注意が必要だ。

たとえば、昔は今よりも喫煙率が高かったから、肺がんのタイプも「タバコによって引き起こされるがん」の率が高かったのだけれど、最近すこしずつ喫煙者が減って副流煙に触れる機会も少なくなっているから、あと20年くらいすると、タバコ関連のがんはたぶんかなり減るだろう。一方で、肺がんの原因はタバコだけではないので、これからは今以上に「タバコと関係ないタイプのがん」が増えることになる。

あるいは、ピロリ菌のことを考えてみよう。日本で発生する胃炎の多くはピロリ菌の感染と関係がある。しかし、上水道が完備されたことなど複数の原因で、最近の特に若い人の中でピロリ菌の感染率はかなり減少している。では胃炎も激減したかというと、減ったといえばかなり減ったのだが、たとえば痛み止めなどの薬を長期的に飲むことによって生じる別の胃炎なんてものもあるとわかってきた(薬の種類による)。

細胞のかたちがどうだとか、良悪がどうだといった基準は別に時代が変わろうとさほど変わらない……と思われがちだが、じつはそうでもない。人間を取り巻く環境が時代と共に変わることで、「正常」も「異常」もさまがわりする。となると、「昔のエラい病理医が言いました」だけに判断基準をおいかぶせてしまうのはちょっと危険である。


そこで、病理医は、常に「自分がこの細胞はこうだと判断する基準」について考えていなければならない。はっきりした根拠を常に考えておく。その根拠として一番使い勝手がいいのは何かというと、「統計」である。

この細胞が体にある人を「数年黙って見ている」と、高い確率で症状が出るとか、命に危険が及ぶ。そういうことが「統計」の結果でわかっている場合に、(まだ症状が出ていなくて、命に危険がないとしても)ああ、この細胞を見たらもう治療をはじめよう、と、あたかも未来予測をするかのように判断することができる。

根拠として「統計」ほど強いものはないのだ。



話はまたも変わるが、「クイズ王」がやっていることを思い浮かべてほしい。彼らは膨大な知識を集めて覚えているように見えるが、単に頭の中に知識を詰めこむだけでなく、クイズという形式で勝つための訓練もやっている。どういうフレーズで問題文が読み上げられたらどういう質問がされがちか、どういう順番で条件が提示されたらどこで早押しが可能になるのか、といった、「出題における確率」をいくつもストックしておき、新たに耳に入ってくる問題が確率的にどういう答えに結びつきがちか、という感覚を研ぎ澄ませることで、単に物知りなだけではなく、それらを人よりも早く気づいて早く答えるという「競技性」に高めていく。我々はそういう姿を見て「すげーな、人間業じゃねーな」と感じて喜ぶわけである。


で、この、統計によって未来予測を可能にするというのは人間だけでなくコンピュータが得意とするところだ。知識をたくさん記憶できることよりも、無数のデータを総合して統計的にこの先起こることを予測する、いわゆる「予言」的な部分でこそ機械は本領を発揮する。

なんでその問題文と答えがその段階で予測できるんだよ、と我々はクイズ王に驚く。しかし、「なんでこの問題文と答えがその段階で表示できるんだよ」とPC相手にびっくりする人は最近はほとんどいないのではないか。




と、並べてみると、「パターン認識と統計」のふたつでゴリゴリ仕事をしている限り、その仕事はAIにやらせりゃええやんけ、という話になる。

ではクイズ王はAIにとってかわられるのか? そんなわけはなくて、クイズ王というのはアスリートといっしょで「(脳を含めた)肉体をどれだけ鍛えているか」に価値があるのだ。フォークリフトを用いれば300キロのバーベルを上げられるからバーベル選手の存在に価値はないなんて誰も言わないだろう。

では病理医だとどうか? AIにもできる仕事だけど人間がそれをやるから尊敬できていいんだ、みたいなことを、人びとはおそらく言わない。みんな、別に、病理医を尊敬したいんじゃなくて、病気を早く診断して早く治療をしてほしいだけなのだから。したがって、病理医はクイズ王よりも生き残りに必死になる必要がある。……もし、病理医の仕事が「パターン認識と統計を駆使する」だけのことならば。



実際には、病理医の仕事というのは、細胞が何と似ているかという(パターン認識による)現状把握と、その細胞が出たら将来どうなりがちかという(統計による)未来予測だけではない。病理医は常に、病気のメカニズムを解明し、新たな診断や治療の可能性がないかということを、ほかの医者を引っ張る場所で率先して考えている。「まだパターンがわかっていない」病気や、「まだ統計解析に必要なだけの数が集まっていない」病気を前に、このような細胞変化が出るということはいったい何が起こっているのかと、他分野と共同しながら仮説を形成し、推論を実地で検証する、研究者的な仕事が根幹にある。

病理医の場合、日常的にタスクとして行っているパターン認識や統計学的処理の部分をAIにやってもらうことはむしろ「研究にそそぐ情熱をより多く使える」ということになる。AIが、「すでにわかっている部分を用いて」診断をやってくれるというならそれに越したことはない。未解明の部分を切り開いていくほうに全力を出せる、最高ではないかと思う。



そして、かつてまだ世間のAIに対する認識が甘かったときに、多くの内科系医師や外科系医師が「AIによって放射線科医や病理医の仕事はなくなるよな」みたいなことをよく口にしていたのだけれど、彼らの仕事もじつは病理医と同じように、多くの部分でパターン認識と統計に裏打ちされている。それらがまさかAIに奪われるとは思っていなかったんだろうな、というところまでAIに持っていかれる。

では、AIに持っていかれた分の労働時間を使って、今度はどこに全力を出すのか? 病理医は長年そういうことを考えてきた。今のあきらかなAIブームでもあまり驚かずに、「ま、そのうちこうなるとはわかっていたし、ぼくらは大丈夫」と言えるだけの言葉をすでに揃えている。

一方、ほかの科の医師は、最近あまり病理医に向かって「将来仕事なくなるかもね」と言わなくなった。自分たちの仕事がどれだけ奪われるかを今になって実感しはじめ、病理医の世界に目を向けるほどの余裕がなくなってきたのではないかと思う。なあに、心配することはないですよ、その道、我々もすでに通ってきました。少なくとも我々は、コミュニケーションの分野や研究の分野で、つまりAIにはできない部分でこれからも活躍できそうだなという目算を持っています。あなたがたもそういう気分になるんじゃないかと思いますよ。ああ、「内視鏡やカテーテル、外科手術がある限り大丈夫」とか言っている人はあぶないです。そういう手先の仕事については、AIがアシストすることで医師免許の必要性が薄まりますから、アイデンティティを揺るがされて落ち着かない日々を過ごすことになると思いますけれど……。

2023年3月27日月曜日

近距離専用トゥンク

バイトの医者が来たり来なかったり、短期雇用の医者がCPCを放り出して立ち去ったりする昨今、人に迷惑をかけずに暮らし続けることの難しさを考える機会が多い。かくいうぼくはこれまで多くの人に尻拭いをしてもらいながら、そのことをカラッと忘れて「自分はよく努力したなあ」とか「乗り切った俺えらい」などとポジティブに生活してきたので、この問題にかんする自分ごと感も他人事感も両方けっこうある。

誰もが自分の重心を機転として、そこからの距離に応じて想像力を発揮している。目安として、重心からの距離が50cmを超えるとがくんとイマジネーションが弱くなる。まあ50cmというのはだいたいなのであまり厳密に言うものではないが、ぼくに限らず多くの人は手の爪より足の爪を切るのを忘れがちだし、ワイシャツに比べてチノパンは使い回しがちだし、顔面や手のスキンケアに比べると足のカカトは相対的に適当だと思う。

さらに重心からの距離が3メートルを超えた物体に対してはまるで想像がはたらかないものである。隣の部屋の住人から壁ドンされたときのことを思い出してみればよい。車を運転中、信号が赤から青に変わったときに前の車が止まったままで2秒ほど経過するともうクラクションを鳴らしたくなる人もいるだろう。

何キロ、何十キロ、何百キロも離れたところにだって人はいるのだが、いなくても自分の暮らしには特に影響がないと思えてならない。北海道の東で地震があっても東京のタイムラインはほとんど反応しない。ジョン・レノンもじつは言うほどイマジンしてなかったんじゃないかと思う。数千キロ先の他人が50cm以内でうろちょろしているSNSではそこのところが狂っている。想像力の範囲外の人が、ガワだけの状態で至近距離に突然出てくるから、こちらとしても、「ああ近い近い。想像できる」なんて勘違い。けど本当はできない。相手のことは一切わからないし、相手の言葉の裏にある前提だって共有できない。なのに「こいつのことを想像するにとんでもないやつだな」なんて勝手に話を進めてしまう。これはバグである。

そういうバグを「仕様」と言い張って、開き直って暮らしているのが令和のぼくたちだ。うちの職場に迷惑をかけて去っていった人たちがぼくからどんな迷惑を被ったのか、ぼくには想像が及ばないけれどそこには必ずなんらかの迷惑が存在したはずなのだ。理屈でわかるのだが感情がその先をひらいてくれない。明かりが射さない。50 cmを超えると光が届かない。誰もがエルキュール・ポワロや古畑任三郎みたいに、単発スポットライトの下に佇んで腕を組んだり指をさしたりしている。かつて、MOTHER3のエンディングで画面が暗転したとき、暗闇の中にプレイヤーである自分の顔が写り込んだ瞬間にぼくはゲームを卒業したと感じた。しかしそれは間違いなく人生という虚構の中にぼくが日夜ひたりつづけていることを一瞬だけバシャリと可視化する、ミルククラウンの滴のひとつぶであったのだと思う。

2023年3月24日金曜日

病理の話(759) つまらーんと思っていた講義の思い出

大学で医学を学んだとき、「うわあ、医学だなあ! 今ぼくは医学を勉強しているんだなあ!」と実感できた科目といえば、真っ先に勉強した解剖学である。

これはやっぱり小学校とか中学校に置いてあった骨格標本の影響だろうか。皮膚をとりはずした人体に筋肉や骨や臓器がいっぱい詰めこまれているという漠然としたイメージを、あらためて「骨学(ホネガクではなくコツガク)」から順番に学んでいく過程は、いかにも「医学の階段の一段目」という感じがした。


ただしその次にやってきた「生理学」はとっつきづらかった。生理学というネーミングは一瞬女性の生理の話かと思ってどぎまぎしたが(ここでどぎまぎするというのも性教育の失敗のひとつではあるが)、生理学とは「生きる理(ことわり)の学問」であって、女性の月経も含まれるけれどそれだけには留まらず、正常の人体がどうやって稼働しているかを学ぶのだという。おお、ならば、「科学の子」にとってはご褒美みたいな時間じゃん、たのしみー! と期待してはじまった講義は、残念ながらサーカディアンリズム(概日リズム)がどうとかタンパク質とタンパク質が相互作用でどうとかミトコンドリアがどうとかいう話ばかりでがっくりしてしまった。試験も覚えることが多く難しかった。

生理学は人間の生きている理(ことわり)を探るといいつつ、解析するにあたって人体をどこまでも拡大して調べるタイプの学問である。日常ぼくらが目にする「生きている人間」、もしくは理科室の骨格標本と、生理学におけるタンパク質動態とはスケールの隔たりが激しく、いきなり遠いところにポンと置いてきぼりにされるような感覚があった。試験や進級というしばりがなければまじめに勉強し続ける気もしなかったろう。ああ、専門科目にこういうとっつきづらさがあるから、医療系の大学以外で医学を学ぶのは大変なんだ、つまりぼくらの「役得」みたいなものはこの生理学以降にあるのだろうなと変に納得したりもした。


そして病理学である。これもまた実につまらなかった。学生時代のぼくにとって、解剖学(おもしろい)、組織学(そうでもない)、生化学(きつい)や生理学(つらい)などをひととおり学んだあとに、「いよいよ病気の勉強をできるんだ、この先に医者が見えてくるのだ」とワクワクしかないネーミングでやってくる「病理学」。とうぜんケガとかがんとか重病の類いを紐解いていくに違いないと予想する。しかしそこではじまる話が「炎症」、「遺伝子異常」、「代謝異常」、「循環動態異常」などの基礎理論で、またも肩すかしなのだ。

具体的な病名を取り上げてくれたらもうすこしわかりやすいはずなのに、と、授業の構成をうらみこそすれ、病理学に感動できるところがあるとは思えなかったし、病理学者に対する共感の念も唯一の例外(※)を除いて全く湧かなかった。

(※)亡くなった長嶋和郎元教授の「伝説の病理学講義」だけがそこを打ち破ったのだが、この話はブログでも何度も書いたし、『病理医ヤンデルの医者・病院・病気のリアルな話』(だいわ文庫)などでも書いているのでここでは省略


いわゆる「基礎医学」(生理学も病理学もここに含まれる)のつらさである。

その後学ぶ「臨床医学」(内科学とか整形外科学といった、いわゆる一般的に想像できるタイプの医学)では、基礎医学の知識を用いて具体的な病気についての勉強をする。だから下準備として医学部の前半にしっかりと基礎、専門用語、概念、考え方を学んでおく。そんなことは講師陣に言われずとも学生ながらしっかり察していたつもりだ。大学受験で微分積分をバリバリこなすために、小学校で足し算やかけ算を習い、中学校で因数分解をやってきた経験があるからわかるのだ。「あれってなんの役に立つの?」が後ほど大きな応用となって戻ってくるというのは医学部生にとっても理解できる話だった。したがって、生理学や病理学がクソ学問だなんて全く思っていなかったし、ぜったい将来役に立つだろうとわかっていた。しかしそれがクソつまらないというのもまた偽らない本心だった。後で役に立つからといって気軽に愛せない。


それから20年以上の月日が経ち、今のぼくの目で病理学のカリキュラムを見ると、本当によく計算されていて「この順番以外で医学を学ぶのは無理だろう」という感覚すらある。わかりやすいところから、インパクトのある順番に学んでも絶対に医学という高山は登坂できない。三合目までのハイキングでいいなら、有名な病気をあちこちつまみ食いして学ぶだけである程度の知識はつくのだ、しかし八合目を超えるためのアタックをしようと思うなら最初にこれくらいの下準備を(全部が学生の頭に入るわけがないとわかっていても)目の前に広げておくしかないとわかる。

そして、今のぼくが「わかる」からといってそれが真理ではないんだよなということを、まだかろうじて想像する余力がある年齢でもあるのだ、今のぼくは。たぶんもうちょっと時間が経つと、「しのごの言ってないでこれを全部暗記できたらその先がめちゃくちゃ楽になるんだから、ダマされたと思ってがんばりなさい」と言うタイプの講師になるだろう。でも、うん、そういうことではないのだ。カリキュラムはこれ以外にどうしようもないにしろ、まだまだ教え方の可能性はあるはずで、Robbins Pathologic Basis of Disease(病理学の有名な教科書)に書いてある順番だから合っている、みたいな教え方では必ず多くの学生が振り落とされ、結果、10年後とか20年後に、「病理学の知識が中途半端な状態のために現場で困っている医療者」が大量発生することになるのだろう。

2023年3月23日木曜日

人を呪わば穴二つ

こんなぼくにはもちろん後ろ暗い部分がある。たとえばどういうところかというと、何年も前にTwitterでぼくのことを揶揄したアカウントをたまに思い出してホームを見に行き、あいかわらずあちこちの「敵」と戦うツイートばかりしてるなとか、プライベートに関する愚痴がツイートに漏れ出ているなとか、あいかわらず友だちは増えてないんだろうなといったふうに、「同情を投げかける」ところだ。もちろん直接話しかけるわけではない。脳内で「かわいそうに」と蔑むのである。


自分のことを悪く言った人に後日ひそかに同情するというのはいかにも性格の悪い行為だと自分でもわかっている。だからことさらツイートすることはないが、じつは半年に1度くらいそういうことをやっていて、常習犯である。やるときはまとめてやる。仕事が一段落した夜7時半くらいに、ツイッターからログアウトした状態で記憶をたよりにいくつかのアカウント名を検索して、「いまどうしてる?」


アカウントがなくなっていることもある。アカウント名が変わったくらいだと、Googleを使えばなんとか見つけることができる。いずれにせよたぶんつらいことがあったんだろうなと同情する。炎上の真っ最中なんてこともざらにある。そのうち沈静化するからがんばりなと同情する。


同情とは同じ情と書くけれど、実際にはぜんぜん漢字と合わないニュアンスをいっぱい持っていて、これはつまり「かわいそうに……」か、「かわいそうに笑」のどちらかであるからぜんぜん「同じ情」ではない。むしろ違情、もしくは異情と書くべきである。


さらにいえば、その人自身はおそらく、誰かに同情される立場だとはつゆほども思っていない。ケンカばかりして辛いと思っていないし、炎上がいやだと思っていない。ケンカは聖戦、炎上は商売のタネであり、支持者からは「今日もご活躍ですね」と、中立の人からは「勇壮に戦っている」と、アンチからは「調子に乗ってるからぶっつぶしたい(けれどピンピンしている)」と思われている。

そういう人だからこそぼくが(全く本人に知らせることなく)「かわいそうに……」「かわいそうにw」と同情する。この構造はいかにも矮小で下劣だ。だから人前ではやらない。


ぼくと同じことをどの人間もやっているかというとそんなことは全くないと思うが、でも、けっこうな数の人がやっていることもまた事実ではあると思う。ただし互いに「あなたもやりましたか、ぼくもやっています」と明かし合うようなことはない。下品だからだ。性格が悪い、矮小で下劣で下品、我ながらここまでこき下ろすほどのことなのに、今でもやめられないのは、ぼくが自分に対して付けられた傷をいつまでも眺めるタイプの心性の持ち主だからであるし、いずれにせよ他人に認められたいとかいずれ報われたいといった欲求とも関係がなく、開き直るわけではないのだがこれはタバコへの依存のようなもので、「やめたほうがいいのに」と眉をひそめられていてもなかなか習慣から抜け出せない。


タバコや酒の依存に対して、依存症の人びとが集まって車座になってお互いの気持ちを述べ合うというオープンダイアローグ的なことをやると、ときに依存症脱却のきっかけになったりもするという。しかしこの話題に関して誰かと語り合いたいとは全く思わなかったので、ぼくはこうして自分の心性を見つめ直して文章化することで行為のキモさと自分自身に対する有害さを可視化することにした。


これによって、もう、過去にいやな思いをさせられた人のことなんか忘れてしまったほうがいいんだよな、とあらためて認識することができた。ぼくはこの記事をきっかけとして、もう二度と、あれこれの人びとを検索欄に入れて現況をチェックするようなことはしない。そういう人たちとは全く関係のないところで明るく楽しく暮らしていく。

……と、「しょうもない人たちから断絶して今は幸せ」と書くこと自体も、レイヤーは違えど復讐のひとつの様式であり、蔑みが別の形になって表れているだけなのは言うまでもない。


こんなぼくにはもちろん後ろ暗い部分がある。傷つけられた人に対する執念が形をかえてずっと残り続けており、それをどう落ち着かせようと思っても、あるいは気にしないで無視してしまおうと思っても、何をやっても揶揄になってしまうということだ。人前で話そうとは思わないし、解決する方法も思い付かない。ただ、これまで自分が傷つけてきた人も、同じようにぼくをどこかで蔑んでいる、そのことを歯噛みしながら受け入れるしかないのだということだけはスッと思い付いて腑に落ちる。

2023年3月22日水曜日

病理の話(758) 論文の手直しを丁寧にやる

浅生鴨さんに聞いた話だったと思うが、原稿を書くときにまずは手書きでしたため、その後原稿用紙をみながらあらためてキータッチでデジタル原稿に起こして入稿するのだという。その「迂回」、確かに効果的だろうなあと膝を打った。

作家の文章は意味だけで成り立っているのではない。フォント、インク、配列、バックグラウンドの素材や色調などと調和して立ち上がってくるものだと感じる。それは読む側にとってだけのことではなく、書くとき、産み出すときにももちろん言えることで、物語や随想が自分を離れて読み手のものになる前に、幾通りもの角度から新鮮なきもちで文体や表現、ニュアンスなどを見返す。それはすごくいいことだなあと思う。

いいことだなあと思うが、同じことを自分でできるかというとなかなか大変だろう。プロとアマの差はこういうところにも垣間見える。

彼はさらに、「縦書き」で書いた原稿をときには「横書き」のフォーマットに変更して見直すようなこともするらしい。アイディア賞だな……と思う。そこで生まれてくる差はでかいだろうなあ。

編集部が文章を組んだ「ゲラ」になると、またひと味違った印象が生まれるだろう。浅生鴨さんに限らずぼくが尊敬する作家はみなゲラをしっかりと手入れする人ばかりだ。ゲラになってからほとんど書き直してしまうタイプの人もちらほらいる。すごいなあと思うしそう簡単には真似できない。

ぼくがこれまで医療系雑誌のために書いてきた原稿、ゲラにはもちろんきちんと目を通すけれど、直したいところがほとんどなくて、そのまま返送することがよくあった。あちこち資料を引用しながら作った学術文章は、学問の部分さえ間違っていなければ、文体や表現方法は半ば業界内で指定・固定されているようなものでいじりようがないし、共著者からの専門的なチェックが終わっている以上、ゲラの段階で大幅に意味を入れ替える必要もない。だからついさらっと流してしまっていた。

しかし、そのような文章が学術誌に掲載され、自分であらためて読者として読みはじめた瞬間、何度も目を通したはずの原稿の表現に引っかかってしまうということが何度か続いた。「わずかに隆起した病変の表面にわずかに黄白色調のドット状の模様が認められ……」。「わずかに」が連続して出てくるし、「黄白色調のドット状の」って助詞が連続していて、なんだか頭が悪そうだ。意味は通る、というかこの通りの所見なのであるから、自分で書いていたときにはあまり問題視しなかったし、内容をチェックした他の医師たちも特に何も言わなかった。でもこの表現のへたくそさ、ゲラの段階で気づきたかったなあ、気づくべきだったよなあ、と肩を落とす。



先日、研修医がWordで書いてくれた論文を投稿前にあれこれ手直ししていた。モニタ上で何度も読み直し、Wordの「校閲機能」(文書のどこをどういじったかのログを残してくれる機能)を用いて手を加えていく。研修医がそれなりの時間をかけて書いた論文であるが、逆に時間をかけて書いたからこそ、冒頭で言っていることと末尾付近で言っていることの「言葉の使い方」が微妙に違っていたり、周囲と議論をして内容を直したはずのところが一部直っていなかったり、参考として提示する写真の掲載順が狂っていたり、「考察」の部分の意味が通りづらかったりといった、内容とは必ずしも関係ない部分が気になる。引用文献の表記が間違っていないかどうかについては特に念入りにチェックする。これを直さなかったからといって、読者が大幅に損をするかというとそんなことはないのだが、今後万が一、私たちの論文を念入りに読んで次の研究につなげたいという人があらわれて、参考文献を読もうとなったときに雑誌の番号やページ数などが間違っていたら困るからだ。どこかの誰かがいずれ困る(かもしれない)ものを世に残してはいけない、だから直す。

自分が読む側であるときには、細部をきちんと整えている雰囲気が論文全体から伝わってくるとき、その著者のことをかなり強く信用する。病理所見の拾い方、写真の撮り方、説明の仕方も大事だがとにかく細かな書式・用語の統一がなされているか、共著者どうしの意図が揃っているか、文献の引用が細やかで丁寧かどうかみたいなところも大事なのだ。書いている内容に嘘がないかどうかについては、本当のところ、ゴリゴリの専門家以外はそうそうわからない。でも、論文の隅々までまちがいがないかどうかチェックするタイプの人は、学問そのものに対してもやっぱり誠実なはずである。

というわけでしっかりと時間をかけてWordファイルに手を加えて、さあこれでもう投稿してくださいねとメールする際に、ふと思い立った。「すみません、二度手間で恐縮ですが、これを直したあと、完成版をあらためて紙に印刷してくれませんか。それを見てもう一度チェックしたいので」。まあ本当に念のためである。研修医は快諾して印刷したものを渡してくれた。一晩寝かせて翌朝、紙をめくりながら論文の「最終稿」を読んでいく。すると……出るわ出るわ、DeepLとgrammarlyの二重チェックをかけたのに間違っている専門用語、文中と図の説明の中で表現が統一されていない部分、写真のDPIが2枚だけどうやら違っているであろうこと。モニタのスクロールと指で紙をめくることはこんなに違うのかとあきれながら細かな誤字まで含めて修正を終えた。今までどれだけ間違ってきたんだろうなあ、と思いつつ、研修医がこれからの人生でぼくよりもっと丁寧に論文を書き続けてくれることを祈る。

2023年3月20日月曜日

ホムンクルスの守備範囲

勉強をしない学生、仕事をしない社会人の話をよく聞く立場である。ほんとうによく聞く。なぜぼくにそんな話をするのだ、と首をかしげてしまうような相手からも聞くし、そりゃ悩みがあったらぼくに言うだろうなあという間柄からも聞く(なんなら話題の一番目や二番目にのぼってくる)。

これはつまりぼくが抽象的な意味での「親」的存在になったことと無関係ではないと思う。

同世代の子どもは中高生くらいに育っていることが多いし、職場ではたいてい管理職で、20代の若者への教育担当でもある。業務関連の能力が洗練されて仕事にかかる時間が短縮されている分、一日の中に占める教育の割合が以前とは比べものにならないほど多い。振り分け、引き受け、見守るのが仕事。

そこで気になるのは、「社会にフルマッチしてばんばんやりたいことをやっている人」よりも、「なにかずっとズレを抱えていてもがいている人」のほうである。それはもう、とうぜんそうなる。


ここで、「ズレたままでもいいじゃない」「生きづらいのは社会のせい、本人は悪くない」とニコニコ話を終わりにできたら、どれだけ楽だろうと思う。それこそ、考えなくてよくて楽だからそういう言動をよく見る。楽なまま生きられたらよいね。楽じゃない部分を誰かに押しつけながら。ちなみに押しつけられる側にいる。


平均的な教育や指導の「道」からはずれがちな人を見て、「はずれたままでいいよ」と背中を押す言論や書籍が横行しているのはなぜか? それはもちろん、実際の現場だと逆に「なんとか元の道に戻ってくれんかなあ」と考えている人の方が圧倒的に多いからである。いかにも寛容さのない職場に思えるけれど、じっくり内情を見てみると、「矯正」にも一理あったりするので難しい。

Twitterを見ていると、世間は以前にくらべてずっと多様な受け止め方をしていて、発達障害的な特性を排除せずに活用することこそが優れた社会であると信じたくなるし商売をやっている人ならプロフにも書きたくなる。しかし現実はもっと煮こごり的で、全く流動性がないわけではないにしろ基本的にはべっとりと固まってプルプル震えていて夾雑物も多い。

ワークスペースフリーでフレックスなベンチャー企業的空間はあくまで実験的な「例外」にすぎない。しかもそういうベンチャーが大勝利しているかというと意外とそうでもなくて、や、「合う人」にとってはいいのだけれど、結構な数の人がなんだかんだ言いながらも定時と定位置と定例会議のある暮らしに安寧の一部を仮託しがちなので、そういうフリーさと「合わない人」がまったく別種の自由さを求めてうろうろしていたりもする。

「形だけでも、建前だけでもいいから、みんなに合わせてくれないか?」と、誰かが誰かに、直接は伝えないにしろ、内心で懇願している。えっ、ひどい、と思うあなたはどの立場で何を見ているのか? 何から目を背けて、誰にやさしくしようとしているのか?


自分をふりかえる。自身の生きづらさに対して「つらいけどそれでも社会になんとか合わせていかないと」という時代の使命感にむりやりドライブされ、かろうじて合わせた……というか「ぎりぎりフィックスできなくはなかった」ぼくは、思春期から青年期にかけての辛くしんどい毎日を辛くしんどいまま通り過ぎて今かろうじてここにいる。さて、仮に生まれるのがあと20年ちょっと遅くて、ネットから「生きづらさを感じてもいいんだよ、そこから逃げて」の大合唱をあびせかけられる状態であったとして、それならぼくは間違いなく今とは異なる何モノかになっていて、知らない場所で全く違う人格で暮らしていたと思うが、その生活における辛さは当時の/今のぼくと比べて果たして軽いだろうか? 「そのままでいい」の声だけが響き、実際にぼくらのために身を粉にして何かを代わりにやってくれる都合のいい人がいるはずもないタイプの地獄において、生きづらい人がいるという事実が多くの人の目に可視化されたのはまあいいにしろ、対策は本質的に難しいし、なまじ希望を感じさせておいてそれっきりという意味で、より複雑な辛さをパラレルワールドのぼくは感じているのではないかと、他人ごと(自分ごと?)ながらその身を案じている。


話をこの世界に戻す。今の自分が薄くコミットする関係性の若者の中にも、サボりぐせと発達障害的な生きづらさの両方を持っている(どちらかだけで説明しきれない)人がいる。具体例をあげたいわけではないので、なんとなくニュアンスを混ぜて架空の人間をこしらえて説明すると、たとえば虚栄心ばかり強く口ばかり達者で仕事のクオリティが低く、じつはスキゾフレニア的にしんどい内面と毎日戦っている人や、多彩な接続先から猛烈な勢いで情報を得ているゆえにいわゆる「定型」に対して平均以上にシニカルな態度をとり続けてしまい、しかし非定型的な部分にいわゆる非凡性があるわけでもないので金銭や地位の評価を得られずに毎日怒りをあらわにする人、みたいな感じだ(あくまでシャッフルした例えではあるが)。「自由意志と責任」でも「器質と不条理さ」でも語れない、絞め殺しの木とその宿主が混ざり合いすぎてどちらが本体なのか遠くから見ていてもわからないような人がいっぱいいる。心底実感する。ただし実感までしかできない。判断や評価は本当に難しい。せいぜい、ここは自分によく似ているなあ、とか、ここは自分にとって不快だなあ、などと自分の視座で独りごちるくらいしかできない。


「叱って矯正できる人なんてゼロだ」「絶対に暖かく見守るべきだ」と信じてやまない教師のもとから小悪党が量産されることがある。大悪党じゃないならいいじゃない? 小悪党までなら許そうという言質にぼくの情動は激しく反発するが、純粋な論理の部分ではそういうこともあるのかもしれないと引き裂かれる。発達障害の名のもとに、未成熟な若者から仕事や学業の「重圧」をきれいに排除した結果、周囲のサポートが得られた30代半ばまではよかったものの庇護する親や上司がいなくなった40代できつくなってしまう人もいる。じゃあどの段階で「世の平均的な負荷」に慣れさせるべきだったのか、仮にそのように「別の選択肢」を選んだところでこの人にがらっと違う人生があり得たのかということをよく考える。二択だろうが三択だろうが十択だろうが人生は言い表せまい。選択じゃなくて終わらない微調整であり、成功/失敗ではなく折り合いがついたかついてないかなのである。固有の人生はあらゆる方向に啓いているべきで、どんな生き方も言祝ぎたいと思うのは本心だ、しかし、職場に病気の証明書を出しつつ別のバイト先で申告漏れだらけの収入を稼ぎ、教育を受ける機会も応召義務もコミュニケーションもすべて放棄して制度の隙間にある権利だけを拾いながら職場を転々としつつ誤診をくり返している医者を野放しにするのは許されることなのかと、裁判官でもないくせに頭を抱える夜もある。



俺だったら……ぼくと似て……私のできる範囲では……。自分という触媒がないと化学反応が進まない小さなフラスコ内実験環境に飛んだ火花は、ガラスの向こうのデスクを決して汚さない。非介入、非選択、それでもなお自分の声の届く範囲で不幸せがひとつでも減るように。ぼくは運良く今こうして書ける場所にいて、運悪くこうしてじくじく悩み続ける脳になったのだ。

2023年3月17日金曜日

病理の話(757) そこなんで硬いの

胃カメラや大腸カメラを使いこなす医者が、胃腸の粘膜に5ミリとか1センチといった小さな病気を見つけたときに、カメラの先端から特殊なナイフ(というか「はんだごて」みたいな形状をした一種の電気メス)を用いて、その部分だけをこそぎとってくることがある。


イメージとしてはショートケーキの上に乗っているいちご+クリームの部分だけをスプーンですくいとる感じだ。下のスポンジにキズをつけないのがコツである(胃腸に穴を空けずに、表面の部分だけとってくる)。ただし、生クリームほど簡単にこそげるわけではなく、陶芸か彫刻かというくらいの細かな作業が要求されるので、実際にその作業をみると「ケーキのいちご取り」とは違った印象を受けるけれども。ここは例え話の感覚を優先して説明を続けよう。


で、この、いちご with クリームをとってくるときに、医者はいろいろなことを考えている。スプーン的デバイスを差し込んだとき、「あっ、いつもより感触が硬いなあ」みたいなことを感じ取るというのだ。スッとスプーンが入ればサッと取れる、しかし、ゴッと何かに当たる場合は要注意。


「いちごがクリームの下のほうにめりこんでいるのでは……?」


「いちごだけじゃなくキウイも含まれていたりして……」


「クリームの成分がいつもと違うなんてこともあるか……?」


ケーキの話ならまあいいのだ、食べてしまえばみなおいしい。しかし、病気のついた粘膜をこそげとってくるときには、これらは結構な問題となる。削って取ってきたつもりが、体の中に取り残していたら困るなあ、とか、いつものようにすくいとろうとしてもなかなか剥がすことができずに、下のスポンジ部分(胃腸の壁)を傷つけてしまうと大変だなあ、ということだ。


で、「もし硬かったら大変だなあ」で終わらないのが、医学である。スプーンを差し込んでから「あっ硬いね」「やわらかいね」と判断するのではなく、ケーキの見た目、あるいはケーキのお皿を手で持ってぷるんぷるんゆらすことで見られる「いちごの振動っぷり」などから、スプーンを差し込む前に、あらかじめ「これ硬いんじゃねぇかな?」と予想しておくことが大切だ。


もしいちごがめり込んでいるんじゃないかと予想したら、コンビニで手渡されたプラスチックのスプーンではなく、ちょっと切れ味の良さそうな金属のスプーン、あるいはナイフなどに持ち替えるのがよいだろう。あるいはその硬さの種類によっては、上だけこそげるのをあきらめて、ケーキ全部を一口で(?)食べてしまうという判断もある。





で、えー、その、いちごの下が硬いのはなんで? と聞かれるのが病理医の立場で、その場合はいちごの深部やクリームの部分を顕微鏡で拡大して、「あーこの成分があったからですね」などと返事を返していくのである。香り付けにクリームに混ぜたこの顆粒がつぶつぶしてスプーンの触感に影響したんじゃないっすかねえ、なるほど、みたいなかんじ。

2023年3月16日木曜日

たなごころの熱

20代から30代にかけて、職場のぼくはいつも皮膚の内側に熱を保っていた。ワイシャツの袖口のボタンを開けて腕まくりをし、放熱しながらでないとキータッチがうまくできない気がしてならなかった。小学生のころに読んだ、「ステゴサウルスの背中のヒレは血液を効率良く冷やすためのラジエーターなのだ!」という記述をずっと忘れずにいた。自分もなんらかの形で熱を逃がさないと、脳がオーバーヒートしてプスンプスンと壊れてしまう、ということを、真偽以前に「当然のこと」として受け入れていた。

学会や研究会など、スーツの上を脱げない場面では、ノドをせり上がってくる熱をそのまま声に変えてしゃべるような感覚があった。せめて足首だけでも外気に触れたいと思って短めの靴下を履いて靴擦れを起こしたりした。熱によって細胞が振動し、汗によって筋肉が円滑になるイメージを、解剖学や生理学を修めたあとも情動の部分で持ち続けた。


それが最近、すとんとなくなった。


今でもたなごころの中に熱い空気を抱えたままキータッチをする感覚は残っている。しかし、長袖を長い袖のまま着て、ときには上からジャケットを着たりもする。暑がりなのは治っていないが、汗は落ち着いた。頻脈は変わらないし毛細血管も拡張しているけれど、前ほど焦燥感が湧いてこない。頸椎症や腰痛ほど厄介ではなく、老化と呼ぶほど切実さもなく、脳を回すためのモーターや空力システムを前ほどあわてて稼働させなくていいだけの話。たったそれだけのことを妙に寂しく思う。この熱がなくなるとぼくはものを考えなくなるのではないか、ということを少しだけ考える。





「雪が溶けて、川となって、山をくだり、谷を走る、野を横切り、畑うるおし、呼びかけるよ、私に。ホイ」




なぜ今、唐突にこの歌を思い出したのか。

本当にふしぎだ。

母親と自分が歌う声である。

幼い頃、買い物の帰り、あるいは幼稚園の帰り、だったのではないかと思うがもはや定かではない。手をつないで雪解けの春をてくてくと歩いて行く道すがら母がよく歌っていた。ぼくは母の手を握りながら「ホイ」のところだけ唱和した。ただそれだけの風景を、急に思い出したのはなぜか、キータッチする手をとめて、しばらく天井を仰いで考える。

むりやりこじつけようとすれば、これはぼくの中の根源的な記憶、「手の中に熱をかかえながら何かを思い浮かべている最初の記憶」なのではないか。たぶん、そういう情緒的解釈で多くの人は納得してくれるのではないか。

しかし自身の中では疑っている。連想とか、カスケードとか、因果としてAからBが導き出された、みたいなのとは違う。今の歌は本当に突然、「なんの脈絡もなく思い起こされた」のである。ラジオのつまみを回してチューニングをしていたら意図せず隣国の放送が紛れ込んだときの驚きに近い。こじつければこじつけただけ、はにかむような淡い喜びの核から半歩ずつ距離をとるようだ。余計な理由を考えるのを直ちにやめてしまう。描写されないままの印象が、ぼくにぼんやりとした理を語る。たなごころの熱を感じながらものを考えることを忘れてはいけない、誰でもなく自分だけは覚えてくり返す。今後、体の熱が総量として目減りしていく中で、きっとぼくの肉体は脳が命じるまでもなく、たなごころの中に熱を保ち続けるように微調整をかけていく。なぜなら、ぼくの脳は手の中とつながっているからだ。脳を活かすために手に熱を持つ。

ま、たぶん、そういうことを自分で考えたくなったから、「ホイ」を思い出させられたのではないかと思う。無意識のほうがよっぽど道理をわかっているなあと感じることがある。

2023年3月15日水曜日

病理の話(756) どこまでやれるかやるべきか

ある病気の診断を行った。細胞の形から「A病」であると診断できる。わりと難しい診断、すなわち「名付け」であった。Aであると名前を確定させるところまでで、まずは一段落である。



ただし、これだけで診断という仕事が終わるとは思っていない。主治医はその先を聞いてくるからだ。

「A病の中にはさあ、病気の細胞がBというタンパクを持っているタイプと、持っていないタイプがあるんだよ」

「ほう?」

「で、Bというタンパクを持っているやつには、特効薬があるんだよ」

「特効薬か」

「そうそう、効きがめちゃくちゃいいの。ただしBというタンパクを持ってない細胞には効かないわけ」

「ツボにはまるかどうかがそのBの有無で決まると」

「そうそう たとえるなら」

「たとえなくていいです」

「姉がいると姉萌えアニメを素直に楽しめなくなるけど、姉がいないと姉萌えアニメに夢を見られるようになる、みたいなことだよ」

「たとえなくていいです」



というわけで、A病という診断名がついたところで仕事を終えてはいけない。Bというタンパク質が細胞の中に存在するか否かを見極めるところまでやる。そこまで見分けると、治療方針が変わってくるのだから、これはもう、絶対にやるべき業務だ。診断は名付けだけでは終わらない。名前を付けた病気の性格みたいなものまできちんと記載するということだ。

で、A病、Bあり、と診断をしたとする。ではこれで我々の業務は終わるか。


ここからがじつはけっこう、意見がわかれるところである。


たとえば、A病、Bあり、のほかにも、「元々はCという病態だった。それが育ってAになった」のように、その病気の「過去の姿」を予測するようなことも、病理診断の延長で行うことはできる。

過去の姿を知ったところで、現在の病気の治療法にはじつは関係がない。A病の姿が元々はCだろうとDだろうと、「今Aである」ことだけが重要なのだ。

しかし……それはあくまでA病の話。ほかの病気の場合は、「過去をさぐる」ことが治療方針につながることもある。病気によってはルーツをきちんと探るところまでやったほうがいい。したがって、「過去を探る手段」というものが、大学や研究室には存在する。ちょっとだけ具体的に言うと、遺伝子のキズをあきらかにしたり、遺伝子のまわりについているゴテゴテとした装飾を調べたりすること。

これらには、日常の診療とは比べものにならないほどの金がかかるということを追記しておく。


で、この、「過去さぐり」を、A病に対してやるべきか?


まず、患者からはお金をとれない仕事になる。あくまで治療や患者の将来に結びつく検査だからこそ、患者はお金を払い、国の医療保険がその多くを保険によって肩代わりしてくれる。しかし、「A病の過去を知ること」は、少なくともその患者の役には立たないのだから、患者が金を払う筋合いはない。

ではやらなくていいか?

いや、やったほうがいい、という考え方もある。多くの病気の過去があきらかになって、情報が蓄積していくことで、病気の「メカニズム」がより細かくわかるようになるし、メカニズムがわかれば新たな治療法の開発にもつながるからだ。

「年に1回テレビが壊れる家」があったとする。そこでまたテレビが壊れたときにやるべきことは、優秀な町の家電屋さんと仲良くなってテレビを格安で直してもらうことだろうか? いや、ま、それはそれとしてやるんだけど、根本のところ……。コンセントの電圧がおかしいとか、ネコが20匹いていつもケーブルをかじっているとか、そういう、「テレビが壊れる原因となっている部分」を叩かないと、これからも毎年テレビは壊れ続けるだろう。元栓を閉めてはどうか、ということだ。



ではあらゆる病気に対して過去をさぐりまくるのがいいのか。理想を言えばそうだ……。しかし金と時間と労力がかかる。世の中には無数の病気があり、そのすべてにおいてお金を使い続けることは、単一の施設、単一の医師・研究者がやれることではない。そんな財源もないし体力もないからだ。だからどこかで線をひかなければいけない。どこで引くことになるだろう?


すっごく残酷なことを言うと、まず、その医者のまわりにある「コネ」の有無によって線の引かれ方がかわる。ある担当医の知人・上司・後輩関係者をざっと見渡したとき、A病、D病、H病、M病の研究に詳しい人がいてすぐに相談に乗ってくれるならば、これらの病気に関しては積極的に「過去」まで探られていることが多い。しかし、まわりにその病気の専門家がぜんぜんいないと、「過去を探るためのお金と時間と労力がおいつかない」ので、診断は最低限の、「患者の治療に必要な項目のみを調べて終わる」ことになる。


こうやって書くと少しざんこくに見えてくる。見えてこないか? ぼくには見える。けど、そういうものなのだ。現実の医療は。


だから患者は常に自分の病気を「もっとも専門性が強い人」に見てもらいたくなる。「過去までさぐらなくても、診療には問題ない(その患者個人に不利益はない)」のだから、遺伝子までバリバリ調べたがる超絶マニアに毎回見てもらう必要はないのだけれど……なんか……気分的に。


そして、一部の病理医は、「自分の知人関係のタイプによって、検索できる病気としにくい病気が分かれてしまうのは理不尽ではないか」という気持ちになる。ではどうするか。


コネめっっちゃつくろう、みたいになる。リアルの知り合いを増やしつつ、インターネット内の勉強会に次々参加して、地理的には遠いところに住んでいる病理医・研究者とも頻繁にやりとりを重ねていく。そうやって、いつどんな病気が来ても誰かには相談できるように、ネットワークを広げるべくがんばりつづけるわけだ。



……や、それだって、限界はあるよ。そういう理想と理念と現実と限界みたいなものをずーっと毎日考えている人が、頭の中でそれこそ毎時間毎秒考えているセリフが、今回のブログのタイトル、「どこまでやれるか、やるべきか」なのである。甘くはない。


2023年3月14日火曜日

網茶

「生茶 ほうじ煎茶」を買ったのだが横に加熱処理と書いてあってどのへんがナマなのだろうと疑問に思った。ラベルをよく読むと「まる搾り生茶葉抽出物」とあって、なまちゃば? では茶葉を焙じていないということだろうか? ではなぜほうじ茶? そもそもほうじ煎茶とは? そういった疑問を全部つきぬけたところに


おいしい


があるのでそれでヨシとなる。


で、まあ、ここで終わると単なるナンクセになるので(Twitterではここで終えたが)、KIRINのホームページに見に行って調べてみると、「棒茶」に加えて「炭火焼きしたほうじ茶の粉」をブレンドしてあるらしい。なるほどそういう工夫をしているのか。だからおいしいのだな。と細やかに納得することができる。


https://www.kirin.co.jp/softdrink/namacha/houji.html


でもそれって生なの? と思わなくもないが、カツオの刺身に生姜を添えて食うとして「新鮮な生魚を食える日本はいい国だよなあ」とつぶやいたとして、フォロワーから「しょうがは生魚ではないのでは?」とつっこまれるとイラッとするだろうし、ま、そこはいいんだろうということにする。でも生茶でそれやっていいの?


https://www.kirin.co.jp/softdrink/namacha/houji.html


結局ぼくがこのお茶を、ローソンの100円ペットボトルではなくあえて少し高いこのお茶をペイペイで購入したのは、「生茶」というロゴの「うまそうさ」に惹かれたからであるから、「なぜ生茶と呼ぶの?」についての最適解はあるいは「おいしいお茶とユーザーとを適切に橋渡しするため」と考えるのが一番いいのかもしれない。ロゴ、デザイン、命名、こういったものが商品のクオリティとは別に……というかクオリティに食い込んでまるごとぼくに飛びかかってきてぼくはまんまとそれにのり、おいしくお茶を飲みながらこうして「なんで生なの?」などと言って時間つぶしまでできているわけで、商品の価値は何倍にも上がった(?)のだからいいではないか、という考え方をする。そのほうがいろいろ楽しくやっていけるよなあと思う。でも生ではないじゃん。



「網タイツ」の人を「生足を出している」と呼んでいいだろうか。「たしかに生足だ」という人と、「それはあくまで網タイツだ」という人がいるかもしれない。皮膚の成分が規則的散在性に表層露出しているのだから「生」感がある一方、総体としての混じり気がある時点で「生足」のゲシュタルトからはかなり離れているのだから生足とは別の「網タイツ」という概念で包含すべきであるという考えがあると思う。生茶にひっかかるのもそこだ。生茶は網タイツではないかと思う。

2023年3月13日月曜日

病理の話(755) ねばらない病理医

研究会と呼ばれる医者の集まりで、「病変の細かな違い」について解説や議論をすることがある。

それは、ロバとラバの違いを見極めることに似ている。あるいはロリアンブルーとシャルトリュー(ネコの品種)の違いを見極めるようなものでもある。明石家さんまとほいけんたくらいわかりやすいこともあれば、ザ・たっちのどっちが兄か見分けるくらい難しいこともある。

たとえば、「大腸がん」と「大腸がんに似た、がんではない小さな腫れ物(放っておいても誰もこまらない」なんてものを、我々医者は必死で見分けなければいけない。当然のことだ。あるできものをがんだと思って患者を入院させ、麻酔をかけて病気を切り取って、患者が退院してから「じつはがんではありませんでした」と言ったとして、患者が「ああがんじゃないなら良かった!」とニコニコ帰って行くと思ったら大間違いだ。そりゃあそうだろう。時間、金銭、精神、さまざまなものを奪っているのだから。

とはいえ、病気の診断というのはとにかく難しい。

「PCRさえすれば100%わかります!」みたいなことは、現実の医療においては存在しない。偽陽性も偽陰性もない完璧な検査というのは(理論上作り出すことができても)現実にはありえない。どんな検査も漏れや抜けがある。したがって、診断も「精度100%」ということはない。

だから医者は、あらかじめ患者に、「これはがんである可能性が高いですが、とってみたらがんではない、ということも十分ありえます」と説明する。しちめんどうくせえことを言うなあ、とか、オッ責任逃れか? と思われることもあるだろう。しかし、診断の難しさというものを医者と患者が共有することはかなり大事なことだと思われる。




さて、ああでもないこうでもないと病変の細かなちがいについて議論をしていると、(おそらく飽きたのであろう)比較的若い臨床医や病理医から、「それを分けることに意味があるのですか?」という質問が出ることがある。

かなりある。「エピソード」的なものではない。日常と言っていい。

この質問に対し、細かい違いを説明しがちなタイプの指導医(例:ぼく)が、やっきになって「もちろん意味がある」とか「素人目にはないと思えるかもしれないが、玄人から言わせてもらうと、ある」みたいな回答をしては、ダメである。

なぜなら、質問者の側も、意味はまああるんだろうなとわかって聞いているからだ。「意味があるんですか?」という質問を、字義通りに受け取ってはいけない。

その裏にもっと違うニュアンスが仕込まれている。

「その違いを見極めるのは好事家同士でやってください、ぼくにとってその違いを見分ける意義が感じられないです。つまらないなあ。」

質問者はこう言いたいのである。


短くまとめれば「わからない、つまらない」なのだ。こう言わせてしまった時点でぼくらは敗北である。その研究会をおもしろく運営できなかったということ。若い人たちに勉強する気力を失わせてしまったということだからだ。


だからほんとごめんなと思う。


ところが、ごく一部の人が、二言目に次のようなことを言う場合がある。


「どうせそのA病とB病を区別したところで、どっちだったとしても、患者に対してやることは変わりませんよね。手術で取り切れたら根治、ですよね。だったらその病気2つを区別する必要はないんじゃないですか?」


ああ~こうなってくると話は変わる。これはさっきまでの「おもしろさがわからない、つまらないことを不満に思っている医者」とはニュアンスが違う。これは「ねばらない医者」だ。自分という小さな一人の人間が、電子カルテのどのキーをどういう順番で押したらいちばん患者から訴えられないかばかりを考え、A病ならCという薬を、B病ならDという手術をすれば自分の給料は保証されると考えているタイプの医者。医学と医術が渾然一体となった末に練り上げられて産み出されてくる医療というものの、複雑ゆえに慎重に取り組まなければならない我々医療者の営為の、「作業」とか「処置」の部分までしか理解できておらず、医学の裾野の膨大さから目を背けてしまっている医者。それはもはや医師免許を必要としない。あなたのやっている仕事はペッパー君にやらせれば十分である。


おもしろくない、わからない、はしょうがない。しかし、複数の人間が目の前で、テクスチャの微妙な違いに過去の医療者・研究者が見出せなかった意味を創出しながら、臨床行為への応用を慎重に探っているところに後からやってきて、学問も臨床もどちらもさほど知りもせずに「意味が無いですよね、必要が無いですよね」と軽々しく発言できてしまうというのは、知恵が足りないとか機転が足りないという以前に、思考にねばり気が足りない。


そういう人は今のところ病理医には向かない。これから病理医になれたらいいですね、と心の底から願っている。


その程度の「ねばり」だと、今後何度も何度も、難しい診断の崖からすべりおちるであろう。ガイドラインの通りに絵合わせをしているだけで病理診断が終わるというのは大きな勘違いだ。おそらくすでに小さな誤診を何十回もやっている。しかしダブルチェックを担当する上級医のおかげで救われているとか、あるいは、そもそもそういう「ねばらない病理医」の書く病理診断報告書は、臨床医にまともに読まれていないということもある。「こいつはがんだって言ってるけど、いつもわりと適当な診断を書いてくるし、今回も念のため、ようすを見てみるか」くらいの……病理診断があってもなくても変わらないような対応をひそかにされていたりする。これは病理医としてはかなり悔しいことであるが、本人は、悔しい目にあっていることにそもそも気づかず、半端に自信を持った状態で病理医人生を終えてしまう可能性もある。


「なぜだろう」のねばりが足りない医者はだめだ。それを教えてくれる人がこれまでいなかったのだとしたら、かわいそうなことである。

2023年3月10日金曜日

愛の勝利

「AIよりも日本語がヘタな人」の数がどんどん増えていくのだろうなと思う。おそらくぼくがこれまでブログに書いてきた文章を全部チェックしたら、「てにをは」の間違いはポコポコ出てくるはずだ。となると、ぼくは、すでにChatGPTやBingAIのような言語生成AIよりもヘタクソな日本語を使っていることになる。いまどきのAIは「てにをは」を一切間違わないからだ。AIは、平板で、熱量に乏しく、偏って練り上げた思い入れのようなものが一切感じられないつまらない文章を書くけれど、「てにをは」はぜんぜん間違わない。じつに立派だと思う。


先日、タクシーに載って行き先を告げたら、運転手さんがカーナビに住所を入れ始めた。そしてよく見ると車載のカーナビのほかに、ハンドルの向こうにiPhoneも置いてあって、そちらでもナビがはじまっている(おそらく音声認識させたのだろう)。どちらかだけでいいじゃないか、と思うのだが、おそらくiPhoneだけだと「客から見えない」からダメなのかな、と感じた。古いカーナビの情報では目印となるはずのコンビニやガソリンスタンドがなくなっていたりするし、道だって無駄に細い道に入り込んだりかえって遠回りだったりと、あまりあてにならないところがあり、その点iPhoneのナビのほうが常に地図を更新しているしルートの精度も高いから信用するならiPhone一択だ。しかし、運転手の向こうに隠れて見えづらいiPhoneだけで運転すると、酔っ払った客が運転手にナンクセをつけるのではないか。「おい、俺が普段通らない道を行ったろう、遠回りをしたんだろう」などと。「いえ、ナビ通りですよ」と言っても、酔った客からナビが見えなければ無駄なケンカが長く続く。それを防ぐための、後部座席からよく見えるナビにルートを表示させるという小技なのではないか、と思った。いまどき、人は信用できない。見えないところにある機械も信用できない。AIをこれみよがしにアナログに使う人間が一番信頼されるということだ。


2023年2月時点の言語生成AIは、「正しい言語を用いるが、しれっと嘘をつく」ことで有名である。これもおそらく1年くらいすると別のAIとかけあわされるなどして進化するから時間の問題だろう、などと各方面で言われているが、ぼくは正直、「すぐに進化する見通しが立っているなら進化させてからリリースするだろう」と疑ってしまうタイプであり、じつはこの時点でAIの急成長っぷりはいったん足踏みするのではないかとひそかに思っている。病理AI業界の論文の出し方を見ていると、ちょっとでも新しい技術ができたらすぐに査読「なし」のアーカイブに載せて先行性を主張しつつ、商品としてリリースする際には思い付く限りのチューニングを施して後続組が追いかけてこられないように気を揉むものである。ChatGPTだってBingAIだって「ここから先の進歩は他社には追いつけないスピードで自動的に進める」と思ったからこそ一般公開したのだろう。真に日進月歩の技術は、中途半端な段階でβ版リリースなんてされない(無駄に後発組に勝ちを譲るようなものだからである)。iPhoneのバージョンがあがるたびにSiriが賢くなったか? OK googleがこの1年で爆発的に便利になったか? なっていると言う人もいるが少なくともぼくはそれを感じたことがない。所詮はスマホだとしか思わない。カップ焼きそばをつくるときに3分測らせるだけのために音声認識が活躍している。


ついさきほどタイムラインで、「BingAIはネット検索を取り入れることで情報の正確性をさらに増している」と書いている人がいてまず笑い、次に本気で言ってんのかと眉をひそめた。検索で正しい情報が手に入る領域に留まっているならそれでいいだろう。あるいは、検索の日本語をどんどん正しくして「検索強者」と「検索弱者」の差を縮めることで世の中が進歩すると言いたいのか。ほんとうにそんなに、変わるものだろうか。微妙にニュアンスの違う検索項目が平板化されて特定のURLへの流入が妙に増えるとか、そういうネットの中での変化は起こるだろう。それが「正確な情報を得る役に立つ」と意訳されてぼくの元に届いているのだとしたら、なんとも、わびしいものだ。

さらに「文章の校正をさせるとめちゃくちゃうまい」みたいなことを言う人も多くて驚く。実際に使ってみればわかるが、こんなに引っかかりのない文章ばかりがnoteあたりで量産されたらnote全体の閲覧数はたぶん減るだろう。いや、検索流入のユーザーが増えて、noteの経営側はほくほくかもしれないが、noteを読んで心を動かされるユーザーの数が減るのではないかと心配になってしまう。余計なお世話か。ぼくらは論文みたいな文章ばかり読んで生きていくわけじゃない。AIの文章はつまらない。目が滑る。


……と、ここまで書いて冒頭に戻るのだけれど、そもそも我々の何割が、血の通ったおもしろい、うねりのある、目をひきつけるような文章を書けるというのか。AIが普及しようがしまいが、人間は互いをちらちら見ながら機械的に学習して、けっきょく最大公約数的な文章をつい書いてしまう。「間違いはボコボコ出てくる」「ユーザー数がガバガバ減る」みたいに、通り一遍のオノマトペでブログ記事を書いているぼくが、じつは今日のブログを8割以上ChatGPTに書かせているんだよと告白したところで、誰も驚かないだろう。

2023年3月9日木曜日

病理の話(754) 理屈はあとからついてくるが先に行かせたいときもある

病理診断の現場では、細胞を目にした瞬間、あるいは数分考えたあとでもいいのだけれど、とにかくまずは直感的に「A病だな」「B癌だ」「C炎だ」のように診断名が思い浮かぶものである。

そこに理屈はほぼない。それまで勉強してきた経験が、森の中で互いに重なり合う枝葉のようにうっそうと茂っている、その総体、もしくは集合体の中からにじみ出てくるように、診断名という概念がブワッと浮かんで、診断者の自由意志が「ああ、それしかないな」と確信をするのである。この間:0コンマ数秒において、演繹も帰納も一切働いていない。AIが統計だけで理論なしに回答をはじき出すのに似て、診断名がプロセスをたどらずに、ブラックボックスの中からいきなりバンと飛び出てくる。


ただしその、診断名がバンと表示される直前くらいから、脳が猛烈な勢いで動きだす。フェードインで診断名がブワァッと表示される0コンマ00何秒の間に、直感的な診断名を支持する理屈、たとえば細胞の姿を言い表す「所見」がバシバシと文章になって、診断名の後を追いかけてくる。最終的に診断名が脳内の液晶スクリーンにバーンとはっきりくっきり表示されたら、その下には「根拠」が書き揃えられているのである。この、「診断」と「所見/根拠」との関係は、あたかもキャッチコピーとボディコピーの関係のようだなと思う。キャッチコピーは目を引くし、多くの人の印象に影響をあたえて行動を左右するが、具体的なことは特に言っていなくて、リードコピーやボディコピーを読むと伝え手の側がほんとうに言いたいことがわりと親切に書いてある。もっと言えば、ボディコピーの詳しい説明文を読むことで、あらためてキャッチコピーの部分が「芯を食った言葉」として納得できるようになる、そういう関係に近い。診断名はそれだけ圧倒的だ。ときにそれによって人は傷ついたり打ちのめされたりする。これは患者だけではない、主治医だってそうだ。しかし、説明文のところの所見、根拠、理由、これらによって理路が開けて理知的に受け止められるようになるので診断だけバーンとあってもそれはあまり効果がないのである。


これが病理診断のおよそ9割5分で起こっていることだ。直感が強烈な診断を与え、それにわずかに遅れて(ただし人の目に留まるタイミングで見ればほぼ同着で)詳細な所見、理論、根拠、解説が追いかけてくる。解説分のところには「なぜこの病気と診断したのですか?」という質問に整然と答えられるだけのことが書いてある。ただしその病理医に「診断が降りてきた瞬間」に、本当にその根拠も同時に駆動していたのかというと、じつはそうではないということをぼくは今書いた。


ちなみに残りの5%くらいのケースではこうはいかない。


直感が診断名を連れてきてくれない難しいケースがある。A病かD病か迷う、あるいは、AからZの中に本当に答えがあるのだろうかとわからなくなる。経験から練り上げられた直感がうまく仕事をしないというか、むしろ、「直感的に、勘だけで診断してはだめなのではないか」とブレーキがかかる感じに近いと思う。この細胞は見た通り・絵面通りに診断すれば悪性なのだけれど、ほんとうだろうか? こうして騙されるケースがあるのではなかったか? と、「最初の勘で走ろうと思っても、次の直感に袖を引かれてなんだかついその場に立ち止まってしまう」診断というのがあるのだ。

こういうときの病理医は、直感的で絶対的な診断が提示されないまま、細胞の所見をひとつひとつ拾い取りながら、筋道を一歩ずつ進めていくことをする。ゴールが見えないのだけれど道はこっちにしか通じてないから歩いていればいずれゴールにたどり着くに違いない、みたいな考え方をすることもある。でもたいていそういうときは道が分岐し……いや、そんな生やさしいものではない、三叉路とか迷路のように「しらみつぶし」にすればいつか正解のルートがわかるというものではなく、オープンワールドのゲームのように、そもそも道が示されていない状態に放り出される。荒野、海原、どちらにどれだけ進めばよいかが見えない。とりあえず足を丁寧に進め、オールをゆっくりと漕ぐ。少し動いては周りを見渡し、破綻に向かって進んでいないことをおびえながら確認する。


このモードで診断しているときは、先ほどの、「キャッチコピーが先でもうぜんとおいかけてきたボディコピーが後」みたいな診断の作り方にはならない。ああでもないこうでもないと、他者の診断の経験を借りながら……教科書や論文などを参照し、あるいは同僚やコンサルタントなどにも尋ねながら……「宣伝文句だけバーンと出すんじゃなくてそのはるかに前の段階の、商品の企画開発から一緒に考えていく」みたいな感じの作業になる。経験というジェンガを抜いては積み抜いては積み、ぐらぐら、抜いては積み、ぐらぐら、みたいなイメージである。

こういうときには自分を引っ張ってくれるのは直感ではなくあくまで理屈だ。そしてエビデンス(他者が作り上げた証拠)である。自分の中に埋もれた(あるいは逆に自分がその中に埋もれているとも言える)経験はなかなか目立って活躍してはくれない。でも全く役に立たないというわけでもない。「荒野をさぐりさぐり彷徨った経験」みたいなものもある。理屈に先行してもらって、そろりそろりと抜き足で地面を踏みしめていく過程で、ある瞬間に、パアッ! と周りが見えていっきに足取りが軽くなって走り出したくなる、そうやって診断がバシバシ決まることもある。そうやって視界が開けて走り始めると、亀の歩みであった理屈は置き去りとなり、天から降りてきたキャッチコピー的わかりやすいゴールが周りをさんさんと照らしていて、すべてが高解像度で見えるような時間の到来だ。そして、ここがポイントなのだが、そうやって降りてきた輝かしいゴールが時に間違いだったりもするので気を付けなければならない。細胞を見た瞬間にやってくる直感にも、悩んで悩んだ末に降りてきた直感にも言えることだが、直感だけにドライブさせているといつか必ず後悔をする。


ずーーーーっと理屈をこねくり回した経験が必要だ。そして直感に引きずられながら一気にゴールまで駆け抜けた経験も必要である。そういう両極端の経験を積んだ先達の書いた本を丁寧に読み、追体験をしないと、いつまでたっても昔の病理医と同じレベルでしか診断をできない。それだと「現代の病理医がだまされがち」な病気に何度もだまされることになる。駆使する必要がある。駆使するのだ。駆動し、使いこなすのである。自分の脳と他人の脳、両方をである。

2023年3月8日水曜日

季節の変わり目に

職場を出たら外気温が0度だという。あたたかくなった。風もない。春だ。手袋がいらないのでスマホをいじりながら歩く。イヤホンを耳に入れて電源を入れるのもこれこの通り、外でできてしまう。春だ。イヤホンを耳に刺すのもradikoをチューンするのも素手だからこそいとも容易くできる。春だ。昼間に地面が少し溶けて、これから朝にかけてまた凍るのだろうが、今のところはまだ靴底のグリップがしっかり噛む。春だ。

多少の粉雪が舞ってもレミオロメンを呪わなくて済む。嘘だ。コロナは滅んだという。嘘だ。 20代の人たちと一切会話が弾まなくなった。向こうがおもしろくなさそうな顔をしているのがよくわかる。なぜならぼくが全くおもしろくないからだ。嘘だ。粉雪をエンタメにしやがったバンドを許さないしマスクは外せないしぼくは若い人の話をおもしろいと思っているのに向こうはそう感じていない。春だ。

ずっと雪かきをしているような日々であった。あらゆる仕事がしんしんと降り積もり、その多くは時が経てばあるいは底のほうに堆積したり、逆に溶けてなくなったりするのだけれど、それを毎日こまめに、まじめに端によけ続ける。ある程度計算をして、効率を考えて、明日の雪かきで雪を放る場所をつぶしすぎないように、今日この脇道を通る人の足元が少しでも安全であるように。春が来ると雪かきは終わる。少し間をおいて、今度は草むしりの日々が始まるのだ。それが春だ。

2023年3月7日火曜日

病理の話(753) 病理医を目指す人におすすめの書籍

医学生、初期研修医、後期研修医(病理専攻医)の順番に、「将来ガチで病理医をやりたいと思っている人におすすめの書籍」を書いていきます。


1.まだ医学生だが今から病理診断についての知恵を高めておきたいという人へ



これが一冊目!? と驚く人がいるかもしれないが、ぼくは基本的にここからはじめるのがいいと思っている。第1章として「炎症の担い手:浸潤細胞」という項目があり、形質細胞、好中球、肥満細胞、リンパ球、好酸球、単球/貪食球/組織球についての細かな説明と豊富な写真が載っていて、これが必読なのである。

この際だからはっきり言うが、「腺癌かどうか、扁平上皮癌かどうか」なんてものは誰に教わらなくてもなんとなくわかる。医学部にすでにいる人間の頭脳であれば、ネットで落ちているアトラス(日本病理学会の「病理コア画像」などが有名)などを見れば十分に理解できてしまう。将来的に、がんの組織型の分類などはAIも用いて便利になされていくだろうし、そのへんの感覚は焦って本を読んで準備する必要もないと考える。

いっぽうで、炎症細胞の見え方や「こう見えたらこういう意味がある」という勘所は、たとえガチで病理医として勤務していようと、「教えられ方」が悪い場合は5年経っても10年経ってもふんわりとしか理解できない。ぼくより年上の病理医であっても炎症細胞の解釈にあまり興味がない人は山ほどいる。しかし、臨床医とコミュニケーションを取り続けると、じつは病理医から見える「炎症細胞の出現様式」ほど臨床医にとって役に立つ情報もなかなかないということに気づく。

初期研修では病理だけを勉強することはできず、むしろ臨床のさまざまな科で研修をしていく。そんな医学生・初期研修時代に、「どの科においてもそこそこ役に立つ炎症の話」を病理目線で予習しておくと、かなり役に立つのではないかと思われる。真っ先に勉強するなら、炎症だ。自分でいちはやく勉強するなら、炎症だ。



2.初期研修医の間に病理医についてのモチベーションを高めておきたい人へ

病理検査室の実務的な部分を予習したり、もうすぐ先輩になる病理医という人たちが具体的にどういう動きをしているのかをあらかじめ知っておいたりするのがよいだろう。医学生の時期にも言えることなのだが、初期研修医までの間はどれだけ病理組織の勉強をしたところで、実際に自分がなんらかの症例(リアルな患者)を担当していないと、知識が上滑りするばかりでなかなか症例ベースの勉強はできないものだ。一方で、これから一緒に働く人たちの信念や環境みたいなものがきちんと書かれた本は早めに読んでおいたほうが役に立つ。となるとまずはこの3冊ではないかと思う。





これらに共通しているのは「仮想オーベン(=指導医)」としての質の高さと、病理検査室での実務の風景が浮かぶような構成になっているということ。いずれも通読が可能な高いリーダビリティを誇るので、どれかを見つけたらぜひ読んでほしい。


3.後期研修医=専攻医となり、実際に病理診断をはじめている人へ

この時期からは生涯無限に本を読むことができる。おめでとうございます。ただし、切り出しを覚えたり病理解剖を覚えたりするのにまずは必死だろうから初期に読める本は少ないかもしれない。勤めている病院のルーティンのどれが自分に回ってくるかによって、読まなければいけない本も変わってくるだろう(大腸ポリープばかり勉強しなければいけない人もいるし、乳腺を多く診断する人もいるだろう)。

そういった各論的ずれはともかくとして、多くの人は文光堂の『外科病理学』(I, II)を手元に用意してあらゆる疾患に対応しているのではなかろうか。クソ高い本だが、どこの病理検査室にもまず間違いなく置いてあるので借りて読めばよい。なんならボスに命じられて出張した外勤先にもこの本が置いてある確率は高いだろう。電子版をiPadに入れている病理医もたまにいるが……どうせどこにでもあるからな、という感覚。でも個人で購入している人もけっこういると思う。初任給で買えばいいのでは?

どこの職場にもあり、かつ、全国津々浦々の病理医が診断に用いている本というと、文光堂の『腫瘍病理鑑別診断アトラス』(通称:白い本)も有名だ。がんを診断するなら何度も何度も首っ引きであろう。一方で、このシリーズは当たり前だががんのことしか載っていないので、卵巣の良性腫瘍・嚢胞とか、整形外科から出てくる良性腫瘍、炎症性腸疾患への生検、腎生検、骨髄所見などを調べて書く役には立たない。

「がんの診断については専門書が職場にいっぱいあるからいいとして、病理医として勉強を深めるために誰もが読んでおいたほうがいい本」みたいなのはあるか、という話。ある。たとえばこれだ。


病理診断においてさまざまな臓器で当たり前のように用いられる「専門用語」の解説が細かい。臓器横断的な病理診断の考え方のようなものがちりばめられている。同様のニュアンスを洋書で達成しているシリーズに、『Quick Reference Handbook for Surgical Pathologists』というのがあり、こちらは英語が得意だろうが苦手だろうが手元に置いておくと病理研修の序盤から中盤くらいで大活躍する(特に病理診断系の論文を読んで出てくるDeepLでも読み解けない謎の形態学用語を知るのにいい)。


あとは……

・皮膚病理系(斎田先生か阿南先生からはじめるのがいい。泉先生の本は基本をある程度勉強してから読むとぐっと読みやすくなる印象がある)
・婦人科の非腫瘍系(内膜の日付診や良性病変の細かい鑑別用。ぼくは古いものしか知らないので申し訳ないがあまりここには書かないほうがいいかも……)
・骨髄系(骨髄疾患診断アトラス/中外医学社がいちばんいいかなと思うが、臨床的な事項が書いたWHO血液腫瘍分類/医薬ジャーナル社なども検査室にあればたまに目を通すと役に立つ)
・非腫瘍系の骨・関節疾患(そのままずばり非腫瘍性骨関節疾患の病理/文光堂が強い)
・肝炎(全陽先生の組織パターンに基づく肝生検の病理診断/日本メディカルセンターが超強いのでこれが一番いいのではないかと思う)

このあたり、病理検査室にたいていあるだろうからそれらを借りてたまに読んでおくことをおすすめする。ところで腎生検や脳腫瘍などは専門性が高すぎるので書籍だけでがんばっても限界がある。ただ、腎生検はたまにいい本が出ているので個別にいろいろな人に聞いてみるといい(ここで書いてもいいのだがぼく自身があまり腎生検をまじめにアップデートしていないので責任が持てない)。


4.その他

自分でこうして2日に1回「病理の話」を書いておいてアレだが、「ブログで病理を勉強する」のは無理である。勉強をさんざんしている人が遊びで読んで「あらそんなこともあったのね」と次の勉強のきっかけにすることは誰もがやっていると思うが……はっきり言うと病理系で「優れたブログ」は存在しない。「おもしろいブログ」は結構あるので趣味でじゃんじゃん読めばいい、ただしブログベースで勉強をするのは無謀だ。これは海外のブログも含めてである。英語で書いてあればなんだか格調高いように思えるかもしれないが、実際にはそういうブログの著者はもっといい書籍を書いている(日本よりはるかに稼ぎにうるさい海外の病理医なのだから当たり前だと考えよう)。書籍は専門の編集者や共著者などの目を通している分、情報の精度が高いし画像のクオリティも良い。書籍>>>(超えられない壁)>>>ブログ、である。WHO分類やAFIPアトラスを端から通読していく手間を惜しんでブログを読んでいてはいけない。厳しいようだが病理医こそはそういう手間に精魂を込めるべきだ。ほかの臨床医が「時間がない」「気力がない」と言って読めなくなった本を病院の中で唯一……というほどではないけれど……読める人間が病理専門医でなければならないと思う。そこが我々の強みなのだ。

ところで、「自著」について、近頃はもうこういう本の紹介を目的とした記事ではなるべく紹介しないようにしている。そんなことをしたら今日のおすすめ全てが信用できなくなるではないか? 売上げとか人間関係とか自分の功名心などでバイアスがかかった本のおすすめほどクソなものはない(クソでもおもしろければいいのだけれど……)。ぼくは自分の本を一切読ませずに、他の人が書いた本だけで病理医を育て上げる自信があるし、病理医たるものそうでなければだめだろう。世の中には最高にいい教科書がたくさんあり、それを片っ端から読んでいける人間こそが病理医になるべきだからだ。



このブログ記事を見ている人の中にどれだけ病理を目指す医学生や研修医がいるかはわからない(ほとんどいないかもしれない)。それはそれで全くかまわない。ぼくはこうしてときおり自分の中でぼんやりまとまっている内容をブログの記事にすることで、現実にぼくのいる検査室を見学に来た医学生や研修医たちに、実際の本を手にとりページをめくりながら本の内容を流暢に紹介することができる、それだけで十分役に立っている。

あと、このブログを引用しながら「それよりもこっちの本がいいよ」とすすめてくれる病理医がもしいたら、そういう人を大事にしてほしい。人それぞれおすすめの本はあり、みながみな違った視点で病理の世界を切ろうと毎日格闘している。学ぶ人にとって今が一番いい時代だ、なぜなら、ネットを用いて指導医を無限に増やすことができるのだから。

2023年3月6日月曜日

脳だけが旅をする

今日は日曜日だがまあ月曜の朝を楽にするためにメールでもチェックするかと思って出勤してPCを開いたらモニタに目のピントが合わないのでびっくりした。しばらくメールを読んだり文章を書いたりしてみたけれど、老眼ならピントもそのうち合うだろうと思っていた期待は見事に裏切られ、10分経っても20分経っても司会はぼやけたまま。眼輪筋が衰えていてピントが合わせづらいのかと思ったがどうやらそうではない。モニタより近くにある外付けキーボードの文字はわりとちゃんと見えるからだ。つまり、どういうことか? 簡単だ、老眼かと思ったら近視が進行していたのである。そっちかよ! この歳になって、今さら? ひとまず視界という字を司会にミス変換していたことにもなかなか気づけないくらいには視力が落ちている。文字への集中力が削がれる。思考も散漫だ。まずい、いよいよ伊達メガネをあきらめて本物メガネをかけなければいけない。いやだなあ、メガネの医者なんてステレオタイプの真ん中すぎて嫌いなんだよ、という声が脳内の一箇所から響いてくる。ぼくの意識に対する古参のタニマチみたいな存在が脳の一角に棲み着いていて、たまにこうして声を上げる。ぼくもそれを聞いて今回ばかりはおっしゃるとおりだよなとうなずく。伊達メガネならいいが本物メガネはいや。視界はぼやけ続けているがそれとこれとは別問題なのだ。

脳の真ん中に自由意志の本体のようなものがある。その右前、左前、右後ろ、左後ろに4名の「本体に反応する分身」がいる。前にいる二人はぼくの本体と連立与党を組んでいるイメージで後ろの二人は野党だ。基本的に応援してくれて牽引してくれるのが前の二名で、何をしても反対するのが後ろの二名。賛同と反論を参照しながらぼくの思考はヨチヨチと前に進んでいく。なお、今回の「伊達メガネならいいが本物メガネはない」と言っているのはじつは前にいるほう、すなわち連立与党側であり、二対二なら真ん中の自由意志がわりと冷静に是非を検討してやっていくのだが、今回のように三対一に均衡が崩れると「本物メガネ」を指示する声は脳内ではまったく存在感を失う。医学的にどうだとか生活を考えたらどうだとか安全のためにどうだとかそもそも伊達メガネと本物メガネの違いなんてはたから見たらわかんないだろうみたいな「正論の一名」なんて脳内多数決の中では何の役にも立たない。

「メガネの医者はいやだ。伊達メガネなら許せる。本物メガネはありえない」可決。

脳内では筋の通った理路だ、なんべん脳内で議論を行ってもこの理屈に破綻は見いだせない。しかしもちろん脳外から見ると奇異である。なんなら、ぼくの脳に外付けされているぼくの耳にも不思議に聞こえるし、今こうしてぼやけたままの視界の中でもなんだか変な感じに映る。あるいは、およそ世の中でよく目にする「論理性が破綻した言動」というのも、これと一緒なのではないかと思う。脳内では確かに矛盾なく繋がっているのだが、しかし、それはあくまで、脳内と脳外が物理法則も時間の概念も論理法則も倫理のありようまでも別様である「異国」であるからだ。国境を越えた途端に解釈は噛み合わなくなり紛争が起こる。



釧路の看護学校の定期試験の採点を終える。締め切りは3週間後だが無事終わった。東京の大学教授といっしょに来月やる予定のウェブ講演会2つの資料を作り終わる。講演は1か月後だが無事できあがった。診断以外の仕事の遅れを日曜日の午前中を用いて片付けていく。「3週間? 1か月? ぜんぜん余裕がないじゃないか、もし1か月かかる仕事が突然入ったらどうするつもりだったんだ」「ごめんね、ほんとうだよね、今度からもっと早く取り組むようにするよ 日曜日にもう少しがんばればいいと思う」「おいおいそれじゃ困るぞ、日曜日に出張すると一発で破綻するじゃないか 平日にちゃんとやれよ」「そうだね」議論が終わる。ながまきさんが作ったYouTubeリストの音楽を片っ端から聴きながら次の仕事へ、次の仕事へと進んでいく。6月の講演のプレゼンを作る。こうすれば平日にきちんと顕微鏡を見て診断ができるし共同研究の論文も書くことができる。

仕事と休みのバランスみたいな話はもう見飽きた。「メリハリある生活をしたほうがいいですよ」とぼくに10年前にアドバイスをしてくれた人たちよりもぼくのほうがたいていツイートの回数が多いし論文の数も負けていない。まったく、脳外の論理はいつも破綻している。「バランス」? なんで天秤にかける? 載せる場所が2箇所しかない測定器具を使ってなぜ人生の豊富なありようを可視化しようとするのか。オロカだ。

日曜日くらいゆっくり休んで本でも読んだらいいではないかと言われても、あと4時間がんばれば決着できるとわかっている仕事を放置したまま本を読んだところで内容が頭に入ってこないのだから現場感のないコメントだとしか思えない。日曜日に職場にいるのはひとえに自分が癒やしの時間に集中するための下準備である。つまりは今こうして働くことで休んでいるとも言える。なぜそれがわからないのか? 脳外はいつも破綻している。脳内の4名が1名を取り囲んで談笑している。1名は体育座りで目をこすりながら近視の進行を未だに疑っている。

2023年3月3日金曜日

病理の話(752) 専門家マトリョーシカ

病理医という職業はまーまーレアである。日本なんちゃら専門医機構というところが基準を決めて認定する「専門医」なるエラそうな資格のひとつに、「病理専門医」というのがあって、これを持っている人は現在日本全国に2700人くらい。ぼくがツイッターはじめたときは2300人くらいだったはずなのでなんとなく増えてる。超レアってかんじでもない。もっとも、外科専門医だと20000人くらいいる。やっぱレアといえばレアかも。


で、このややレアな病理専門医だが、じつはさらに「専門性」にわかれている。病理医が担当する臓器は全身あらゆる部分であり、脳、皮膚、目、鼻、耳、くち、ノド、食道、胃、十二指腸、胆管、胆嚢、膵臓、脾臓、肝臓、空腸、回腸、虫垂、大腸、肛門、心臓、肺、腎臓、尿管、副腎、甲状腺、唾液腺、膀胱、尿道、子宮、卵巣、精巣、膣、ホネ、筋肉、血液、リンパ節と思い付く限り上からざっと列挙してもこれくらいあって、しかもこれだと胸膜とか腹膜を書き忘れているし、脊髄や神経も忘れててアチャーとなっている。

これらの細胞および病気すべてに詳しいというのはまあぶっちゃけ不可能だ。「昔はぜんぶ見られる病理医がいたぞ!」とかいう話も聞くし、ぼくもたまに言うのだが、昔と今ではひとつの臓器に関する知識の深さが違う。遺伝子検索はおろか免疫染色もほとんどしなかった時代と今とでは話のスケールが異なる。


というわけで、病理専門医の中にもさらに細分化の波がおしよせているのだけれど、この先については「専門医制度」みたいなお墨付きはないのである。なにを言いたいかというと、たとえば、

「認定・胃病理専門医」

とか、

「殿堂入り・脳腫瘍病理専門家」

みたいな称号がないのだ。


自動車免許に例えるとわかりやすいだろうか。普通免許があって、大型特殊の免許がべつにあって、でもその先の重機ごとの認定資格みたいなのは(あるかもしれないけれどぼくは知らないのでいちおう)ない。クレーン専門免許とかフォークリフト達人証明書とかはないということである(あったらすみません)。

医者もこれといっしょで、医師免許があって、病理専門医の認定があるが、その先でどの臓器を専門にしていくかというものに対しては「おすみつき」がない。

だから言ってみれば名乗ったものがちなのだ。

専門領域でいっぱい論文を書いているとか、講演会などでめちゃくちゃしゃべっているなどで、この人がなんとなく専門家っぽいなというのをおしはかることはできる。しかし、人前でしゃべること、あるいは論文を書くことと、「顕微鏡を覗いてそこに潜んだ科学をあますところなく引き出す能力」とが絶対に一致するかというと、どうやらそういうことでもない。


診断がめちゃくちゃすごい病理医というのは確実にいる。専門家の中にいる。しかし、専門家といっても幅があって、「自称専門家」もたまにいて、まあ最低限のクオリティは保っているので患者にさほど悪影響は与えないし、なんなら主治医から見ても「いい病理医だなあ」と思われている人が圧倒的に多いのだけれど、病理医が見るとわかる「真の専門家」みたいな人はそんなに多くはない……いやまあいるけどね。


ところで、臓器ごとの専門性というのはどうやって身につけるのか、あるいはどうやって目指すのかという話もしておこう。

自分が興味のある臓器の勉強をして専門家になっていく?

原則はそうだ。でもちょっと違うニュアンスもある。

どちらかというと、「自分が過ごしている環境にあわせてだんだん決まっていく」というイメージ。カメレオンやコウイカ、ナナフシあたりを想像してもらうのがいい。済んでいる場所の背景色に適応して色彩が変わっていくだろう。病理医もいっしょである。自分がそのとき勤めている病院の「臓器ごとの手術の数」とか、自分が長年世話になったボスのスタイルに似ていくとか、そういう部分でわりと「病理医の一生を鋭く光らせる専門性」というものが受け身に決まっていくことが多い……と思う。


ちなみにぼくの勤める病院では、胃癌や大腸癌、肝臓癌、膵癌、胆管癌、肺癌、乳癌などが多く手術される。ほか悪性リンパ腫とかも多く診断されているし炎症性腸疾患の診断頻度も多い。だからぼくの専門性も自然と胃腸、肝臓、胆膵、肺、乳腺などに偏っていく。ぼくはほかにも興味のある臓器があって、そっちも勉強しようと昔は思っていたのだけれど、やっぱり圧倒的に日々戦っているジャンルにどうしたって強くなる。そして、強くなってきたおかげで、その領域でさらに強く診断している人たちの背中がかろうじて見えるようになり、ああそうか、ああいう場所を目指さないとだめなのかと日々背筋がのびる。

2023年3月2日木曜日

生徒ビンビン物語

人の数だけ個性があり、生き方、大事にするもの、「良かれ」の方向など、さまざまなバリエーションがあるということを毎日噛みしめている。金、仕事、生き甲斐、人間関係。


参った! ギブアップである。こんなに人それぞれじゃあ、もうぼくはついていけない。しかしじつはこのプロレス、ギブアップしても試合が終わらない。いくらタップしても締め上げる腕が緩まない。すとんと意識が遠ざかり、ぼくは落ちる。落ちても試合は終わらない。目が覚めたらまだ締められている。ギブアップ! しかし試合は終わらない。


ぼくなら不満に思わないような部分を思い悩む人。どう声をかけていいのかいつも困る。

ぼくなら気にも留めないようなことを何度もリフレインして沈み込んでいく人。「わかるよ」と言えないことがこんなにしんどいとは。

ぼくが気づきもしない石ころにつまづく人。

ぼくが感知しない花粉でずっと鼻水をたらしている人。

かける言葉はなくなる。ああそうか、昔の人が「背中で学べ」と言った理由がいまならよくわかる。かつての師匠達は、弟子たちと面と向かって話すことがめんどうだったのだろう。自分よりあとからやってくる人とわかりあえる気がしなかったのだ。そうに違いない。

ちなみにきょうび、「背中で学べ」をやると、それで傷つく人もいる。だからもうできないと思う。

向かい合えば無。

背を向ければ死。


そのうち少しずつ少しずつ、自分の話が通じる人とだけやりとりしたくなる。

クラスタに分かれていく。

思考が凝り固まり、仲良しグループでだけ会話するようになる。

だめだぞ、そんなことでは。いえ、大丈夫です、ご心配には及びません。

なぜならぼくには、「話が通じる人」の心当たりがないからだ。寄り合いにはまる心配はない。派閥に巻き込まれるおそれもない。

本当は、「互いにわかる人」とだけ会話をしていたい。良いものを良いと、つらいことをつらいと言いあえる人と、目配せをし、肩をポンポンと叩きながら、酒でも飲みつつ苦笑いをしたい。言葉と視線と感覚を交わすのだ。肉声で。肉眼で。肉体で。

でも、そんな都合のいい人はいない。

誰あろうぼくがそもそも、昔から、他人が不満に思わないような部分で思い悩み、他人が気にも留めないようなことを何度もリフレインして沈み込んだ。人のつまづかない根っこにつまづき、人の感じないホコリにアレルギーだった。

そもそもわからなかった、わかられなかった自分が、今、他人を、若者を見て、わからないわからないと言っている。



どうしたものかと考えて10年以上が経つ。直接顔を合わせたってわかりあうことなんてできないのだから、そこはもうあきらめて、ネットの力で、不便な言葉をすべらせて、感情の表層だけをやりとりする。表層だけしかやりとりしない。深いところにあるものなんて誰にもわからないし、誰のもわからない。そういう感覚を知ってなおここにいる人たちが、何万人、何十万人、みんな違う。みんなわからない。わかられない。それでもなぜか、「ぼくと同じようなモチベーションでここにいる人」がいることだけはわかる。

何百万人という他人がそれぞれ内心で何を考えているか、何に悩み何につまづいて何に涙を流しているかは一切わからない。しかし、わからない数千万人はみな、むき身の自分でリアルでフィジカルにぶつかりあってもなお、誰にもわかられなかった人たちである。じつは全員そうなのだ。誰も互いをわからない。

「この手紙程度ではぼくのことは何も伝えられない」と肩を落としながら大海にガラス瓶を流している人が数億人いる。

ぼくはその、「ビンに手紙を詰めて流す感覚」だけが、ぼくら全員に共通しているのではないかと思って、ネットに文字をすべりこませてきた。



その感覚すら共有されていないのだ、と知るまで、そんなに時間はかからなかった。



2023年3月1日水曜日

病理の話(751) 病理診断実況のコツ

病理医は、細胞を顕微鏡で見て、そこにあるものを読み取り、意味を与えて、診断を下して報告書に記す。

あるものをあるまま見ればいいんだから簡単だろうって? うん、簡単なこともあるが、そうだな、じつはけっこうマニアックな難しさがあるので、今日はその話をする。


まず、顕微鏡を覗いたときに「何に着目するか」がとても大切だ。視野に広がる無数の細胞の中から、患者の現在の状態を反映する細胞もしくは細胞集団を選び取る必要がある。


さあ例え話の出番だ。

あなたはプロ野球のバッター。マウンドではピッチャーが振りかぶっている。ここで、目に映るものすべてを「実況」するとどういうことになるか?


「日はとっぷりと暮れており、ここは野外球場で、風はライトからレフトに向かって吹いていて、外野スタンドにも内野スタンドにも客がぎっちり詰まっていて、今はライトスタンド側が立ったり座ったりしながら激しく応援をしている。内野手は定位置からやや左にずれている。ランナーは一人も出ていない状況だ。ピッチャーがモーションに入ると同時にショートとサードが少し腰を落として、セカンドも続けて腰を少し落として、うしろからキャッチャーが座り直す音がわずかに聞こえて、ピッチャーはワインドアップから、あっ今少し風が吹いてピッチャー後方のロージンバッグから粉が飛んで、センターはリラックスしていてレフトはひざに手を置いてショートがカカトを少しあげてピッチャーが左足を挙げてバックスクリーンのモニタがピッチャーを後ろから見た映像が映って正面から見た自分とキャッチャーと審判の顔が映っているいつものテレビの画面に切り替わってここでセカンドがさらに深めに腰をピッチャーが体重を少しずつ前に移動してライトの歓声が一段と高くなって鳩が二羽飛んでいたなあと思ったらピッチャーの手からボールが離れたと思ったらサードが腰を落としてショートが少しはずんでそういえばバットを少し長く持ちすぎていたかもしれ\ストラーイク!/」


見すぎである。


もう少しピッチャーの様子に集中したほうがいい。これでは打てないのだ。あるものを全部語ってもだめなのである。そもそも上の文章、ぜんぶ読んだ人も半分くらいしかいないのではないか。報告書になんでもかんでも書いてもだめだ。読む方の気持ちも考えなければいけない。


だから大事なものを選び取るのだ。情報を刈り込む。

何も考えずに顕微鏡を覗くと、そこには粘膜を構成する上皮細胞のほかに、膠原線維とか、血管内皮とか、血管周囲に少量だけもれでた炎症細胞、浮腫を示す空隙、脂肪、検体作成のときにちょろっと漏れたのであろう赤血球、パラフィンの粉、ホルマリンに混じっていたゴミなどがぜんぶ含まれている。

それらの中から、「今回、自分が患者に診断を付けるために必要な情報」だけを見る。

先ほどの野球の例えでいうと、自分が向き合うべき「ピッチャー」の、「手元」にあたる部分がどこかと考えるわけだ。たとえば、がんの診断をするならば、あまたある情報の中から「上皮細胞の異常」を特に鋭敏に拾い上げるように、脳のチューニングを合わせていく。

ちなみに、野球の例えでなんとなく思い付いたことをついでに書いておくと、「ボールが手を離れてからでは遅い」みたいな感覚も使う。「このような手の動かし方ならここにボールが来るだろう」と予測する、みたいなことを、顕微鏡を見るときにもやっている。「このような細胞配列だと、放っておけばきっとこういう悪さをするだろう」みたいな予測こそが病理診断の醍醐味だなあと思う。すでにミットに入ってしまったボールを見てもしょうがないのだ(でも、ちゃんと見てカウントはする)。


そして、いきなり逆説的なことを言うようだけれど、ピッチャーの手元だけ見ていてもいいバッターにはなれない。上皮細胞の良し悪しだけ見ていて診断が終わるのは研修医までだ。上皮細胞に異常があるとき、多かれ少なかれ、その上皮と相互に影響を与え合っているほかの細胞や環境にもなにかしらの変化があらわれる。

野球のたとえで言うと、ピッチャーがモーションに入ったときに内野陣がいっせいに「少しだけ左に動いた」のであれば、バッターがおもわず左に打球を打つようなボールをこれからピッチャーが投げる、ということだろう。右打者の膝元に落ちるような変化球をひっかけさせて、三遊間にゴロを打たせるような球をこれからピッチャーが投げるからこそ、内野陣はそれに合わせて重心を三塁方向に移動させて対処しようとしているわけだ。

これと同じで、がんの診断をするときには上皮細胞だけを見るのではなく、その上皮の挙動を受けて反応している周囲にもすこしだけ目を配っておく。すると、上皮細胞だけを見ているのと比べて、「診断のキレ味があがる」のである。


そうやって勘所を押さえて、「所見」をとる。細胞の挙動の意味を感じ取る。これまでの研究で示されている結果と照らし合わせて、細胞がこのような状態になっているならば将来患者はこうなるはずだという未来像をきちんと示す。

その示し方はあたかも、一流のラジオ中継のように的確であるべきだ。

さっきみたいに、球場の何もかもを目に収めてかたっぱしから実況しても、聞いているほうは何がなんだかわからない。

勘所だけをビシッと。しかし、なるべく情景が伝わるように。


「夏の夜の甲子園からお送りします 巨人対阪神の第22回戦 ピッチャーは先発の佐藤、次が55球目。内野陣が腰を落とし、さあピッチャーワインドアップから第2球目を 投げた インコース振りに行った鈍い音、引っかけた サード高橋定位置落ち着いて取った 一塁送球 アウト」


「広範な腸上皮化生を背景に一部胃底腺の残存する粘膜で軽度の慢性炎症細胞浸潤を伴っています。体中部前壁やや小弯、肉眼的に隆起と陥凹の混在した病変の陥凹部に一致して 異型を有する高分化型管状腺癌がみられ、一部中分化の混在。低分化成分はありません 切片12で粘膜下層の浅層に浸潤。進達距離は250 μm 消化性潰瘍の合併なし。脈管侵襲はありません、リンパ節転移陰性。断端陰性」


まあこのまんま書くわけじゃなくてもう少しプロっぽく書いてるけど、いずれにしても、なるべく滑舌よくしゃべるのがコツ。文字であってもだ。