2022年11月30日水曜日

病理の話(721) 浸潤と確率

病理医が日常的に気にしている「キーワード」みたいなのがある。

「浸潤の有無」である。

しんじゅんのうむ。説明が必要だろう。



病理医の行う病理診断では、患者からとってきた検体を顕微鏡で見るなどして「病名を付ける」。このとき、およそ半分強の症例で、「がんか、がん以外か」を見極めようとしている。その病気ががんであることの確定は、たいていの場合、病理医が担う。なぜなら、ある病気ががんであることを確定するには細胞まで見る必要があり、細胞を見るというのは病理医のメインタスクだからだ。

細胞の風体やふるまいを見てがんかどうかを決めるにあたって、我々病理医が重要視するのが、その細胞が周囲に「しみこんでいるかどうか」である。

細胞がどこかにしみこむことを「浸潤」と呼ぶ。むずかしい言葉を使いたいのは学者のさがだ。



人体の細胞は、正常であれば、「居場所」を厳密に守る。皮膚の細胞が胃に生えることはないし、脳細胞が肝臓で育つこともない。しかし、ヤクザ化した細胞であるがん細胞は居場所を守らない。胃の粘膜から発生しておきながら、粘膜をこえて周囲に浸潤(しみこみ)し、血管やリンパ管の中に入り込み、リンパ節や肝臓、肺、骨などへと転移していく。本来の居場所を守らずに縦横無尽にしみこんで「のさばる」ことで、体内の栄養を奪い、周囲の細胞とケンカをし、人体の警察官である免疫とバトルをして、最終的に人体を死に至らしめる。


「がん死」を少しでもふせぐ、あるいは先延ばしにするために医療が行われる。なるべくヤクザ(がん細胞)の分布を正確に把握して対処するのががん治療だ。ヤクザが一部分にまとまっているのであれば、その部分を手術でとってしまえば周囲への被害は最小限で済むし、ヤクザが全国(体中)に散らばってしまっている場合には、一部を手術してもあまり意味がないので、広範囲に効く抗がん剤などを使用することになる。



というわけで、「浸潤」とはすなわち「ヤクザ仕草」である。がん細胞がばりばりと周囲にしみこむ姿は、CTスキャンや超音波検査、内視鏡検査などでも見ることができるので、とりわけ病理医だけが確認できる仕草というわけではないのだが、「今まさに周囲にしみこみはじめたがん細胞」というのを確認できるのは病理医くらいだ。ミクロレベルで浸潤しはじめました! というタイミングでがんを捉えることができれば、その時点で治療することで、患者の命を救えることも多い。



ただし、ここでひとつ、注意点がある。周囲に浸潤しはじめたがん細胞は、まだ「わるさをしはじめて間もない」わけで、逆に言えば、その時点では「転移していない」。浸潤と転移こそががんの本質的なヤバさなのだけれど、転移していないとなると、それはがん以外の病気とどう違うのかという話になる。

ヤクザの例えでいうと、「ヤサを一歩出たタイミング」で逮捕していいのかという話になる。お前、悪そうな顔してドアを開けて出てきただろ! で逮捕してよいか? ヤクザの側もだいぶゴネそうだ。まだ何もしてねぇよ……と。



では警察はそこでヤクザを見逃していいだろうか?

ここで、いかにもやっかいな、「統計」という言葉が登場する。確率で考えるのだ。「ヤクザがヤサを出る仕草を示した場合、10%の確率で、駅前の繁華街にショバ代を集めに行って人びとに迷惑をかける」というように、これまでそのような仕草をしたヤクザが後にどういう振る舞いをしたかを、データで突きつけるのである。


えっ10%……? と思われるかもしれない。ヤクザ……がん細胞が周囲に浸潤をはじめた段階では、転移のリスクはそれくらい低いのだ。だったらもう少し放っておいてもいいんじゃないか、という考え方も、できなくはない。ただしここで10%の確率で起こることとは、患者の命を左右することなのである。0.00○%くらいの確率でしか当たらないロト7すらみんなホイホイ買うのに、10%の確率で命が奪われるかもしれないと言われておびえない人がいるだろうか? ……いるんだけど、そこはもう、本人の価値観なので、医者と患者とで話しあって決めていくしかない。


CTや内視鏡などで肉眼的に確認できる浸潤や転移と異なり、病理医がミクロを検索してはじめてわかる浸潤というのはこのように、「ヤクザが将来悪さをするかもしれない仕草」であったりする。ただし、臓器によって、病気によって、がんの種類によって、どれくらい浸潤したらどれくらい転移の危険があるかというのはさまざまだ。医療の世界では無数の統計が管理されており、過去にこういうヤクザのこういう仕草がどのような結果になったのかを緻密に集計してある。浸潤イコールぜったいにやばいとは言いきれないが、浸潤イコールある一定の確率でやばいことが起こる、という感覚だ。こうして現代の医学はだんだんと歯切れの悪いことばかり言い始めるようになるが、勘弁して欲しい、そうでもしないと、ヤクザを早めに取り締まることなんでできないのである。

2022年11月29日火曜日

にせものの怒り

小説や映画などを体験したあとに延々と不満を書き綴るタイプの人というのがいて、おそらくそういう人は文芸や映像に限らず、たとえば絵画や音楽などでもいるだろうし、あるいは政治とかにも向けられるのではないかと思うが、とにかく何か自分の摂取したものに対して怒りを表明するムーブがわりと普遍的に存在する。


で、最近そういうのを見ていると、ときに、ああこの人は思いっきりこれらの芸術に「心を動かされてしまった」のだなあと感じることがある。


それは必ずしも創作者が意図していた通りの感想と同じではないのだろうけれども、創作者の意図イコール芸術性ではないと思うし、動いたならそれは芸術自体が持つ力だよなあと思う。作者の意図とは関係無しに、作品自体の内包する「心動かし能力」こそに神が宿っている。それは女神かもしれないし鬼神かもしれない。芸術作品を見て正だろうが負だろうが、とにかく動かされてしまった人は、どっぷりとその作品の射程圏内に捉えられていると考えるべきである。仮に不満タラタラであったとしても芸術性に当てられているというわけだ。なぜこんな書き方をするんだ、どうしてこんな描き方でいいと思っているんだと、創作者に対する不満や怒りを猛烈に書き殴っている人の心には「二次的な創作の嵐」が吹き荒れている。それはひとえにその人が言うところの「つまらない作品」「できの悪い作品」とやらが世に出されたからである。たぶん、そういう怒りを呼び起こすような作品は、ある意味ですばらしい芸術なのだ。

誰もが、作品がなければ自らの感情に気づけない。

だから、何かに怒りたい人は必ず他者の創作物を貪る。何かを表現したい人はいつしか他者の政治性あるいは社会的動静をチェックする。自分の中から吹き上がってくるものだけで何かを創作し続けることは常人には無理である。他者の創作したものに動かされてはじめて心が別の場所に行ける。慣性の法則に従って不動の状態である精神はいつも、強い外力によってようやく加速度を持つ。





ところで、私は何かを見てぶつぶつと怒り続けている人「全員」にもっとやれそのままでいいと思っているかというと、わりとそうでもない。ここで、怒り方にうまいヘタがあると言いたいわけではない。技量ではなく出発点の話だ。心が「つい」動かされてしまったために怒りが出ているというならば良いのだけれど、そうではなく、別の打算的な感情を実行するために芸術のガワの部分を借りているだけというパターンが存在する。芸術作品に不満を述べているようなふりをして自分の言いたいことを飾り立てているだけ。その芸術作品ははっきり言ってダシにされているに過ぎない、みたいな怒りが世の中にはしばしば混じり込む。こういうのは本当に参ったなあと思う。

何かの芸術によって心が動かされたことを、おさえようもなくほとばしらせて書くというのではなしに、そもそもある作品を見る前からこういう文章を世に出したいと9割方準備している「目的」が別にあって、それをうまく世に出したいと思うあまり、世の中の多くの人が心を動かされるであろう知名度の高い作品の尻馬に乗って、「見ました、ひどかったですね、ところでこういう話は他にもあって」みたいなエクスキューズをデコレーションとして用いた偽者の鑑賞文……干渉文。

「誰かの怒りに駆動されてまた他の人の心がざわめき動かされる」という構図はあっていいしあるべきだ。感情のピタゴラスイッチが次々と連鎖していく姿は殺伐としてはいるがどこか滑稽でもあるし崇高だなと感じる。しかし、多くの人が「つい」心を動かされてしまう作品だという性質だけをどこかからか嗅ぎつけてきて、自分の心は別に動いていないにもかかわらず、何かを主張するために言い訳程度に「鑑賞」し、「ムーブメント」の表層の雰囲気だけを掬ってきて、それを塗りたくることで自己の主張を虚飾するタイプの「怒り」がある。そんな「にせものの怒り」にぼくの心は動かされない。動かされたくない、のではなく、事実として動かされない。凪いでしまうのだ。やめてほしいなあと思う。時透無一郎の顔になる。

2022年11月28日月曜日

病理の話(720) 気づいてから確信してもらうまでのこと

なじみの臨床医が言う。「最近思うんだけどさあ、あの病気あるじゃん。あの少しめずらしいやつ」


ぼくは答える。「はい、ありますね。年に○例くらい見かけるやつ」


臨床医は言う。「あれさあ、病気の部分はもうだいぶ解析されてると思うんだけど、病気の周りにも特徴があると思うんだよな。」


ぼくは驚いて聞く。「えっ、そうですか? そんな話、教科書でも読んだことないですけど」


「うーん。最近はみんな病気の部分ばっかり見ているからなあ。みんな気づいていないんじゃないかなあ。広く見るといつも……いや、いつもではないんだけど……病気から離れたところに、特徴がある気がするんだ。ちょっと、病理でも気にしてくれないかなあ」



病気じゃないところか。ぼくは少し困ってしまう。病理医はいつも、「病気のある場所」をプレパラートにして顕微鏡で詳しく調べるのだが、「病気から少し離れた【背景】」については、肉眼で見てはいるけれども、必ずしもプレパラートにしていない。

だって、そこにはなにもないと判断したからだ。



でも、実際、「なにかあるか、ないか」というのは実に難しい。病理医がないと言ったらないんだ!……と、自信を持って言えたら診断はどれだけ楽だろうか。



患者からとりだした臓器をめちゃくちゃ細かく見ることにおいては、病理医ほどがんばっている職業もないと思うけれど、患者の体の中にあって、血が巡っていて、粘膜もうるおった状態で、臨床医がなんらかの手段で――それは内視鏡であっても、CTであっても、超音波であっても、なんならバリウム検査でもよいのだ――見る画像は、病理医の見るそれとはひと味違う。どちらが正しいというわけではない。さまざまな手段で、それぞれに違って見えるものなのだ。



だから、臨床医が「気づいた」ものには、きっと意味がある。たとえ病理医が気づいていなくても、そこをプレパラートにすることで、何かが浮かび上がってくることもある。



そういうとき、科学を進めるチャンスがある。



じゃあどうやって臨床医の「気づき」を深めていくか? 1、2例を見て、わかった気になってしまってはいけない。似たような症例を何十例も集めよう。そして、臨床医と共に、画像を見ながら、病理のプレパラートもきちんと作って、数を集めて解析を加える。このとき、「対照群」も用意するとよいだろう。その病気「じゃない人」を探してきて、比べてみることで、その病気「である」人との違いが際立ってくる。



「1例だけからわかる事実」なんてものはめったにない。患者との一期一会を否定するわけではない。なんらかの「法則」を見つけて、これから出会うかもしれない未来の患者に備えようと思うときには、証拠は多ければ多いほうがよいのである。そうすることで、最初は単なる「ある臨床医の気づき」に過ぎなかった現象が、いつしか、多くの人が確信して日常診療に用いることができる「診断のヒント」に昇格していくのである。

2022年11月25日金曜日

有用性の検証

指に毛が生えている。

「拳を握ってサンドバッグを殴るかたちにする」とき、「サンドバッグに触れる部分」に毛が生えている。

親指にはあんまり生えてない。

人差し指から小指までの部分、まさにサンドバッグを殴れるところにくまなく生えている。

この毛なんなの。進化の過程で本当にこれが必要だったの?


「まゆげは目に汗が垂れないために必要なのだ」みたいなこと言う人いるけど。指の毛の機能とは?

たぶん、必要だから残ったってわけじゃないな。さらに何千年も経ったらこの毛は消えていくんじゃないのか。だって絶対役に立ってない。


「虫垂」が進化の過程で短くなった盲腸の痕跡だという説がかつてあった。しかし今は、虫垂の中に腸内細菌がリザーブメンバーとして控えるという「サッカーにおけるベンチとしての役割」が指摘されている。ひとたび腸炎を起こして腸の中がぼろぼろになっても、虫垂から控えが飛び出してきてまた腸を守ることができる、みたいな説に置き換わりつつある。

しかし、だからといって、人間の体の中にあるものがすべて何かの役割を果たしているというのは言い過ぎでないかと思う。

たとえば男性の乳首は働いてない。尾てい骨だって特に仕事してるとは思えないし、指の毛だってきっと何の役にも立ってない。



朝から晩までPCの前にいる。ただし年齢的にも体力的にもそれがしんどくなってきたから、最近はよく、仕事の合間に立ち上がってストレッチをしたり、ときおり医局まで早足で歩くなどして体を動かす。それでも、仕事に対する集中力が上がってくると、やっぱり長いこと座って、ずっとキーボードをバカスカ叩いたり、PDFで何かを延々と読んだりすることになる。さらには、斜め上の方を見て何事かを真剣に考える。

そういうときたまに、自分で自分の指の毛を無意識に触ったりなでたり、一方向に揃えたりしている。先日気づいた。

認めたくないことだが、指の毛は精神安定に効果があるらしい。ぼくのささくれた心をおだやかにするために、指で触りやすい場所に短くてやわらかい毛が生えているのかもしれない。進化ってよく出来ているなあ。

2022年11月24日木曜日

病理の話(719) 内視鏡は見えない超音波は見える病理のほうはどないなってまっか

研究会に出ています。今日のは消化管エコー研究会。朝から夕方まで延々と、途中に特別講演も挟みながら、「症例の検討」をする。


症例の検討。


臨床検査技師、放射線技師、あるいは医師が、毎日診療をする中で「この患者のこの画像は、なぜこんなことになっているのだろう?」と気になった症例を紹介していく。


発表者は演題に上がる。マイクを前にし、パソコンでパワーポイント(パワポ)を開く。研究会の会場には数十人が(距離をとりながら)出席しているが、その10倍くらいの人びとがZoomで、オンラインで、その人の発表を固唾を呑んで見守っている。


パワポをスクリーンに投影しながら発表者は言う。


「患者は○○歳○性。~~という症状で受診し、血液検査がこれこれで、超音波検査を施行しました。その際の画像がこちらです。」


画像が供覧(きょうらん)される。会場のひとりが代表して、その画像を自分なりに解析する。自分が検査者になった気分で。


「ここの部分に異常がある気がする……。」


座長と呼ばれる少し偉い人が司会をして、様子を見ながら、適宜、発表者や、会場で画像を解析した人(読影者)に質問をしていく。どこがおかしいと思ったのですか。なぜそう思ったのですか。


「こういう画像はあまり見ません。まれだと思います。」


「なぜこんなまれな画像が見られたのでしょうか?」


なぜも何も、そう見えたんだからそうなんだよ、と考えてしまう人は、これから研究会で感動するだけの余力を残しているということだ。

「なぜ」には必ず理由がある。

病気がまれな出方をするにあたっては理屈がある。




超音波だけではない。内視鏡画像も出てくる。CTも見る。会場のみんなが、Zoomで閲覧している数百人が、一緒になって考える。そして……


最後に「病理」が出てくる。手術でとってきた臓器や病気を、発表者が発表者なりに解説する。しかし、それだけで、「画像がふしぎだった理由」が解決できるとは限らない。なぜなら、「病理」もまた、細かく複雑な解析を必要とするからだ。


そこで病理医が登場する。今回の研究会には複数の病理医が参加していて、これまでの発表者や読影者、司会たちが考えて発してきた発言ひとつひとつに、「病理から見るとこう考えられる」という意見を述べていく。


そこで議論が白熱する。病理がしゃべったらそれが全部答えになるというほど簡単なものではない。病理からはこう見えた、というだけで、超音波や内視鏡のほうがより病態をリアルに現しているということもある。



立場が違えば見えてくるものが変わる。視座が変われば思い付くアイディアも変わる。人と人との交流が学術を深めていく。オンラインじゃなくてリアルで参加して横に座っている臨床家たちと手軽に議論したいなと思うこともあるし、リアルじゃなくてオンラインだから少しだらしなくストレッチとかしながら見られて便利だなと思うこともある。


まあなんかそんなことをやっている。平日の夜、あるいは週末、祝日など。時間は無限だが我々が使える時間は有限だ。限られた機会を楽しんでいく。

2022年11月22日火曜日

読みたさにドライブされたと感じたみ

「読みたい本を読む」と「読みたいかどうか事前にはわからない本を読む」の違いは繊細だ。

前者をやろうと思うと、世にある広告がぶっ刺さる。「そうそう! それ! 読みたかったの!!」

でも、後者のときもじつは広告がぶっ刺さる。「えっ何ソレ! 知らなかった! 読みたい!!」

「読みたい」とはそもそもなんぞやと思ってしまう。読みたいとわかってて読みたいと、読みたいかどうかわからなかったけれど読みたくなった、みたいな話がいっぱいあるからだ。心の中に確固たる「読みたい」があるというのは、幻想か?



本屋に行ってうろうろして、おもしろそうだ! と手に取った本とはそもそもどういう本か。

「本屋に行く前には読みたい本ではなかった」。でも、表紙や帯や本の置き方によってその場で「読みたい本に変わった」。

著者名、タイトル、ジャンル、書店員の作ったPOP。これらが渾然一体となって、「さっきまで読みたいとは思っていなかった本」を「読みたいものに変えた」……?

あるいは、抽象的に読みたかったものが具体的に読みたいものになった? 自分の無意識に「こういう本が読みたい」というのがじつはあって、それがまだ意識に上がってきてない状態から、本屋ではじめて意識として形成されるに至った?


どうだろう。

ピュアな「読みたさ」以外にも、広告的ニュアンスに乗っかりたい感覚で「おもしろそうだ」と言って(言いふらして)本を手に取ることもある。こういうタイトルの本ってたいてい自分に合うんだよな~、とか、こういう本を読んでおもしろいときって快感だよね~、みたいな、根拠の薄い自信・確信。

「広告にドライブされたと感じたみ」(五七五)



仲良くしている知人がすすめた本だから、普段まったく読みたいと思わない本だけれど、きっと何かいいところがあるんだろうなと思って、読んでみたけど結局ピンと来なかった、みたいな経験もある。そういうとき思わず、「本当は読みたくない本を読んだ」という表現をしがちだが、「本当は読みたくない本」なんてあるのだろうか。もう少し深度を深めて語ったほうがよいのではないか。だいいち、「知人がすすめたから」というニュアンスの「読みたさ」も実在するではないか。尊敬する学者や芸能人などと同じ本を読んでみたいという単純な欲望と、実際に読んでみたときに肌に合わなかったというズレと、そのズレを感じたときの微小な敗北感みたいなものを、「読みたい本ではなかったわ~」だけで片付けるのはもったいない気がする。




脳は無意識でだいぶ多くのことをやっていて、そのうち「整合性」があいそうな情報の群れをセットで物語にして「意識」として提示する、みたいなことをやっていると聞く。「読みたい」は必ずしも理路整然としていない。ふと浮かび上がってきた幼若な感情に理屈が伴っていないなあと感じることはよくある。「読みたい」はプリミティブだ。「読みたい」にはファジーな幅がある。「読みたい」は後付けだ。「読みたい本」ばかりではないが、読んだ本はすべて「読みたかった本」になる可能性がある。

2022年11月21日月曜日

病理の話(718) 教材をつくろう

CTやMRI、超音波、内視鏡などで、「体のそとから患者の病気をなんとか見てやろう」と思ってがんばっている人たちがいる。

医者はもちろんだが、放射線技師や臨床検査技師と呼ばれる「技師」たちもだ。

このような人たちは、ときに、画像診断のプロフェッショナルとして、患者の病気をなんとかうまく見極めるために日々努力する。

「ときに」というのは……まあ、仕事はほかにもあるから、というくらいの意味だ。朝から晩まで超音波プローブを患者にあてて、内臓を探し病気を見出すことに命をかけてます! みたいな人もたまにはいるけれど、たいていの医療者は「ほかにも仕事がある」。



さて、そのような人たちが、画像検査で患者の病気を探すのは、「患者の病気を早く見つけて/適切に評価して、その後の治療を成功させるため」であろう。見つかった病気がうまく取れそうだとなったら、外科医や内科医たちがさまざまな「手術」をほどこし、病気とその周りの組織を体の中から取りだしてくる。


で、取り出したものは病理医が見て、さらに詳しく診断を付けるわけだが……。このとき、病理医が見ているものは、いわば、


「画像診断で見ていたものの、答え合わせ」


になる。



たとえばレントゲンという検査が「影絵」だということは、なんとなくみんなわかっているだろう。しかし、レントゲンに限らず、ありとあらゆる画像検査は、「どことなく影絵」の側面がある。患者のお腹をひらかずに、体の外から病気を見ようと思うとき、どんなに高性能の機械でも必ず死角ができるし、影ができるし、色彩が伝わらなかったり質感がいまいちだったりする。その意味で、画像診断とは常に影を見ているのだ。

その点、病理医が見ているものは「取り出した臓器そのもの」である。病理医はそこでさらにナイフを用いて病気を切り、内部性状まで細かく調べることで、影だった部分にどんどん光をあてていく。だから、病理が一番「正解」に近いと言われるのである。



そんなわけで、医者や技師たちはしばしば、病理医に、「あの臓器、本当はどんな感じに見えるの?」と質問をする。たとえばこのように。


「乳腺の中を走ってる乳管って、どんな感じで走ってるの?」

「膵臓のここの部分に脂肪が多かったと思うんだけど、病理で見てもそうだった?」

「肝臓のこの部分には石が詰まってたのかなあ。石のせいで、そのまわりの部分がよくわからなかったんだけど、どうなってた?」

「前立腺ってけっきょくなんなの?」


わりと多く聞くのがこの「結局なんなの」。ちょっと笑ってしまうが聞くほうはいたってまじめである。日頃から、影絵的なもので暗号、記号、例え話をまじえながら診断をしていると、「結局なんなの!?」と知りたくなるのだろう。


というわけで病理医にだいじな仕事がふりかかる。

医療者に「臓器が実際にどうなっていたのか」を見せるタスクだ。

しかしぶっちゃけると、この仕事は、その患者に直接役に立たないことも多い。なにせ、病理診断自体は別に終えているわけで、患者に必要な病理情報というものはすでに主治医にわたっているからだ。

その上、「画像検査を担当した人のために、追加で病理を解説する」というのは、本業とは異なる「趣味」として捉えられてしまうことも多い。

乳管がどう走っていようが、とってしまった乳腺なんだからもう関係ないだろう、という考え方である。


ただ……事前に体外から患者のお腹の中をあれこれ予測する仕事をしている人たちにとっては、定期的に答え合わせをしていくことが、仕事の精度を高く保つうえで重要なのは間違いがない。みなさんもおわかりになるだろう。問題集を解いても答え合わせをしなければ実力は上がっていかないということを。

だから病理医は、直接患者のためにならないような仕事も引き受ける。医療者を教育……と言うと上から目線すぎるかな、画像診断をした人たちといっしょに追加で勉強をするくらいの気持ちで、臓器をさらに細かく解析していくのである。そうすることで、医療者たちの実力を……ときには他の病院に勤める医療者たちの実力をも、底上げすることができる。



患者から実際にとってきた臓器を用いてあれこれ解説することを「レベル1」だとすると。

「レベル2」もある。それは、「今見ている患者の病理像を、似たようなほかの患者と比べながら説明する」というやりかただ。

目の前にいる患者(の臓器)と同じようなできごとが起こっている別の人を探し出して比べた方が、より理解はしやすい。ただしその分、説明の手間がかかる。データベースの検索がうまくないと、なかなか「目の前の患者と似た患者」は見つからない。病名で検索すればいいじゃん、と簡単に考えがちだがそうではない。「画像検査」のようすが似ていた人を探さなければいけないからだ。これにはなかなかのコツがいるのでレベルがひとつあがる。

さらに「レベル3」もある。頻繁に問い合わせをうける質問については、教科書のように、教材としてまとめておくのである。

質問をしょっちゅう受けていると、この質問はよく聞くなあとか、こっちは珍しいなあという経験が蓄積してくる。そういうのをパワーポイントなどを用いてひとつにまとめれば、いわゆる「学術講演スライド」ができあがる。これには知識と経験と、あと、「質問する人たちの感性」をわかっている必要があるので、レベル3と書いたけど実際にはたぶん10くらいは必要だ。アリアハンを出てロマリアで無双できるくらいのレベルがあるとまあ序盤は普通にやっていける。




こういう仕事をかれこれ15年くらいやってきて思うこととしては……。

医療者が病理医に質問をしてきたとき、病理医としては思わず「ぼくだけが知っている真実」を伝えたくなる。これは落とし穴である。つい、顕微鏡で撮影した病気の拡大写真を見せたくなるのだ。なぜなら、顕微鏡を使えるのは病理医だけであり、顕微鏡写真というのはぼくらにとっての「特権」だからだ。

しかし、それを見せても、医療者たちの質問は解決しないことが多い。そんなミクロの現象にはピンと来てもらえないのである。

どちらかというと、デジタルカメラできれいに撮影した臓器の写真をきちんと解析することが喜ばれる。なぜなら、現場の医療者たちが見ている画像のサイズ感は、まさに、臓器をデジカメで撮ったものと同じだからだ。

倍率をあげればいいというものではない。

誰が見ても直感的に「ああ、この形かあ!」とわかるところから解説をはじめる。

そして、医療者たちが気づかないうちに、じわりじわりと拡大倍率をあげていくことで、質問をしにきた人が自然に「マクロの世界からミクロの世界に一歩だけ足を踏み入れている状態」を作る。そうすると、なんだか、うまいこと納得してくれることが多いのである。これはコツというかたぶん真髄に近いものだ。あっさり書いたけどな。

2022年11月18日金曜日

月下血管収縮

最近、血圧をはかるたびにどんどん上がっていくので参ったなあと思っている。上はまあそうでもないのだが、下がやばい。血圧の下(拡張期血圧)というのは基本的に、手足などの先にある毛細血管が締まっていることで高くなる……と理解している。だからもともと、冬は高くなりがちではある。しかしそれにしても今までよりはるかに高い。今朝はついに100を超えてしまった(上は130ちょっとだった)。1年前はこうではなかったのだが。


なぜ? と考えたがまあおそらく交感神経が元気だからだろう。闘争もしくは逃走のモードになっているとき、手足のさきっぽや胃腸を栄養するよりも、真っ先に脳に栄養を送る必要があるので、手足の血管は引き締まり、血圧が高くなる。なお脳を優先するはたらきはほかにもあって、たとえば胃腸の動きを止めるというのもある。ぼくも実際、仕事を終えて職場を出て車に乗って走り出して10分くらい経つとお腹がぐううっと鳴る、というのを毎日くり返している。体がずっと緊張状態にある。漫画家のおかざき真里先生が、一番いそがしいときに胃腸がまったく動かなくなった、みたいなことをおっしゃっていたが、医療知識としてではなく、肌感覚としてよくわかる。


糖質、脂質、塩分を控え、お酒も週末くらいにして、時間があればなるべく運動もするようにして、体重は順調に減りはじめた。だから介入としてはうまくいっているほうなのだろう。ただ、血圧の下だけはまだ下がらない。循環器内科にかかって薬も飲んでいるのだけれど、(まだ)体にうまくフィットしていないと見えて、今のところあまり効いている様子はない。血圧は、生活習慣を見直しながら年単位でフィックスしていくべきものであり、今日明日いそいでどうこうしようとも思っていないが、おそらく2か月後に受診すると少し強い薬を出してもらうことになる。


「自分の体を気にしすぎる状態」こそがじつはストレスなのだ、という指摘は普遍的に見かける。そのような、あまり気にしない方がいいよ、というリプライひとつが小さなトゲとなって心に負荷をかける。生きているうちは何を受信してもすべて軽微なストレスになる。だから全部をモニタするのではなくて、なんというか、「その情報はいちおう受信してはいるけど特にリアクションはしないよ」みたいな、休日の雑居ビルの監視カメラのような、ついてはいるし映してもいるけれど誰もチェックしてないくらいの感覚でいいのだろうということは、理論的にも感覚的にもわかっている。

それでもバランスが取りきれないというのがつまりは老いるということの本質なのだ。

部品ひとつひとつがぼろくなるとか、どこかが急にせき止められるとか何かが分泌できなくなるといった「目に見える局所の異常」が出てくることが老いなのではなくて、わかった上で、対処した上で、どうにもフォローしきれないくらいの複雑性の果てに微妙に全体のバランスが乱れる……いや、乱れる方向に少しずつ歩いて行くベクトルこそが老いなのだろう。「座標」ではなく「方向」を指す。



あーあー血圧高いなーと思いながらPCに向き合うとき、ぼやけていた脳が少しクリアになり手先が軽快に動いて文章が生まれる。もちろんこれは交感神経が緊張を高めて脳をブーストした結果なのだ。家で月を見ながらビールを飲んでいるときにキーボードを手渡されても一文字も入力できない。夜にスマホを握っている人はもう少し交感神経を休ませたほうがいいと思う。詩でも口ずさみながらビールを飲むくらいでちょうどいいのだ。しかしそれでも血圧は下がらないのだからままならないものである。

2022年11月17日木曜日

病理の話(717) ごく個人的な臨床研究との距離感と学会の使い方

ちかごろの医者は、ツイッターあたりで、自分より若い医者や学生が読むことを意図して、たとえばこういうことを言う。

「日常の診療の中で疑問に思うことがだいじ。この患者ではなぜこのようなことが起こっているのだろう? なぜこの病気はこのように観察されるのだろう? なぜ今回の治療はいつものように経過しないのだろう? その疑問を研究に結びつけていこう。毎日ちゃんと診療をしていれば、必ず研究のタネは見つかる!」


このへんで息継ぎをして、ツイートを送信して、いいねを集めて満足する。

大切なことを言っているようで、実はまだ何も言っていない。タネを見つけてそのあとどうするのだ?

ちなみにこれを読むほうの研修医も、微妙なムーブをしがちである。引用RTを用いて「がんばります」とか「大事」とか言ってアピールして、上級医との間で自己顕示欲を互いに高め合っておしまいにしてしまう。タネを見つけてそのあとどうするのだ?



研究のタネを見つけてそのあとどうするのだ、の話。

ただその前に。



【前提】

医師は「研究精神」を持った方がいい。あらゆる医療行為はパソコンといっしょでアップデートし続けなければいけない。ソフトウェアにしろOSにしろ、更新のためにはダウンロードしてインストールしなければいけないわけだが、これはたとえるならば「読み+書き」が必要だということである。

読むだけでよいなら読書能力があればなんとか足りる。しかし、古くなった自分の脳に直接介入してどこかを「書き換え」ようと思うと、なんというか……ペンを持つ手に腕力が必要になるというか……つまりは「読む眼力」だけではなく、「書く筋力」が必要になる。

「書く筋力」を鍛えるにはどうするか。

そこで「研究」の重要性が浮かび上がってくる。

世の中にあるガイドライン、取扱い規約、さまざまな診断基準、あるいは「標準治療」と呼ばれるものなどはすべて、誰かが「研究」をした末にできあがったものだ。これらを世の中に「書き込む」、あるいは進歩にあわせて「書き換える」仕事をした人たちが、無数にいるということを理解すべきである。

その上で、ガイドラインや診断基準を自分に取り入れようと思うときは、これらを書いた人たちの気持ちがわかったほうがよいと言いたいのだ。読むだけで脳に書き込めるほど我々のOSが単純ではないということは、大学受験や医師国家試験の受験をこなした経験があればよくわかるであろう。「書き込む訓練」が必要なのである。

だから医師はみな研究をすべきだ。「研究の手続き」について、ある程度自分で経験をしておけば、読む眼力に書く筋力が加わり、医療のアップデートが自在にできるようになる。

さあ、そのような「前提」を確認した上で、あらためて、研究のタネを見つけてそのあとどうするのだ、の話を具体的に。



「研究のタネ」を見つけたならばそれを植えて育てよう。しかし、あわててはいけない。

タネを植えるには土が必要だ。その土には肥料も混ぜるべきだし、ときには酸性度などにも気を遣う必要がある。日照状況はどうか? 土の温度はこれからどう上がっていくのか?

すなわち、研究のタネを見つける以前に、「土」のことを考えよう。どのようなジャンルで、どのようなバックアップのもとで研究をすすめていくかを考えないといけない。タネだけ手に入れてもしょうがない。所属する場所や師事する相手を選ぶところから研究ははじまっている。

「どんな場所でも研究はできるよ」と軽々しく口にする人(たいていは偉い教授とか元・教授)がいる。しかし、そういう人も実際には、昔の農家でばりばり働いた十分経験を踏まえて自宅に家庭菜園を作っていたりする。そういうのは立ち位置としてズルいのであまり真に受けてはいけない。「研究のタネはどこにでも転がっているよ」みたいな超初学者相手のアドバイスに並べて「そして研究はどこででもできるよ」という上級者向けのアドバイスをする人は構造が見えていない残念な人か、構造を忘れてしまった幸せな人か、あるいは構造を意図的に無視するいじわるな人だ。


さて、首尾良くいい土にタネを植えたら今度は育てていく。水やりはできそうか? 雑草を抜くだけの根気はあるか? どれくらいのタイミングで追肥をする? アブラムシ対策は?

これは研究の手続きを知るということだ。現場で得た疑問を、「この順序で検討すればたいていはうまくいく」という手続きに乗っけていくことをしないと、科学のお作法を無視したひとりよがりな研究になってしまう。具体的な研究の過程では、日常診療では学ぶことができない「手技」がいっぱいある。となれば、「タネをすでに育てた人たちの具体的な日記」を集めて回り、自分でも手を動かして訓練することが必要になってくる。


育った作物からはきちんと収穫をしよう。そして収穫したものは出荷する。タネから実まで得られたらそこで終わり、というのではもったいない。医療を趣味でやっているならいいが、他者のために為しているのだから人の為に出荷するのだ。これはつまり学会報告から論文にまとめていく作業である。作物を育てるのと、収穫や出荷とでは、違う働き方が必要なのと一緒で、仮説を立てて研究データを集めて検証するのと成果を論文化するのとはそれぞれ違った能力に基づいている。


ところで、農産物を出荷するだけでなく、加工や販売まで自前でやってしまうという手もある。農業という「1次産業」に加えて、工業・製造にあたる「2次産業」、そして販売まで考えた「3次産業」までこなす、通称「6次産業」という言葉があるが、じつはこれは医学研究にもあてはまるように思う。まあここまで考えるのはある程度研究慣れしてきた人だけだと思うが、最初の「タネ」とか「土」の話に戻ると、自分が選んだ「土」(研究環境)が、そもそも1次産業向きなのか、あるいは6次産業っぽさを含んでいるのかというのをあらかじめ考えておくのも大事なことかなとは思う。




さて、たとえ話をふんだんに盛り込んだが、では具体的にどうやって「タネを育てるための訓練」を……いや、「情報収集」をすべきなのか。これにはもうあからさまな回答がある。それは、

学会に出て、他人の研究の手続きを見ること

である。

ぶっちゃけ論文だけ読んでいても、タネの育て方はわからないことが多い気がする。完成した論文というのは言ってみればスーパーに並んでいる農作物であり、加工された缶詰めや冷凍食品に近い性質を持つ。論文を読むことですぐに活用できる知識は手に入るし、裏書き(material and method)を読めば細やかに原材料名が書いてあるから、自分も論文に書いてあるとおりに研究すればやれるだろう……なんてのはちょっと甘いのだ。それは農業をある程度わかった人のムーブである。じっさいには、土選び、毎日の管理など、泥臭い部分をもっと知らないとなかなか研究は進んでいかない。

そういうとき、学会に出て、「これから論文にしようと思っている研究内容」を話す人を見つけて、今まさにどのような手続きを行っているのかを肌で感じるのが役に立つ。発表者のまわりにはたいてい指導医、教官がいて、それが「土」だ。つまりタネと生産者と土をいっぺんに目で見ることができる。論文だけだとなかなか手に入らない細かい手続きの部分を情報収集しやすい。



と、ここまでツイッターでつぶやくほうがいいと思うのだが、140文字だとちょっと文字数が足りなかったのでブログにした。学会には行きましょう。Windows MEのままで終わりたくないならね。

2022年11月16日水曜日

明晰夢なんて遊びですよ

夢の中で、ああそうだ、あのことを書こう……と考えていた記憶だけが残っている。もちろん具体的な内容は忘れてしまった。

あるいは、「何かを考えている夢」は確かに見たのだけれども、実際にぼくが見たものはあくまで、「何かを考えているときの自分の脳がぱちぱちする感覚」までであって、具体的な「何か」を見たわけではないようにも思う。

「何か」を考えているだけで喜ぶ報酬系みたいなものがちょっとだけある。

「今のぼくはなにやら無意識から意識を生成しているぞという体感」によって喜ぶ脳の場所がある。

その意識自体の内容とか質は問わず、「何か」を作り出しているということそのものに、微弱な快楽がある。



砂場で手を湿らせながら城のような山のような何かを延々と作っている最中は楽しい。さあそろそろ終わり、と思って立ち上がって全貌を眺めると、これは結局何だったのだろう、とわからなくなって、小さな足で蹴飛ばして、壊して、ガハハと笑ってブランコに駆けていくような感じ。

ほかにもいっぱい例えようがある。編み物とか。手工芸とか。

手が動いていることが気持ちいいのであってプロダクトの出来は別に問わない。

キータッチしていることが気持ちいいのであってブログ記事が伸びなくても別にかまわない。




夢を見ていたぼくは覚醒時とは異なる緊張、異なる弛緩のしかたをしていた。目が覚めれば夢の意識とは噛み合わず、理路に納得もできないが、「言いたかったことはわかる」気もする。ぼくは寝ながら、何かを考えている自分に喜んでいたのだと思う。その「何か」は具体性も必要性も欠いており、それでかまわなくて、いっそ「何か」なんてなくてもいいということをぼくの脳はよくわかっていて、だから、「何か」をぼんやりさせたままとにかく脳内のあちこちに落ちている断片をどのように連結したらどうスパークが飛ぶかというのを、手に水を付けながら拾い集めて固めて積み上げて眺めて壊して楽しんでいたのだと思う。

2022年11月15日火曜日

病理の話(716) AIやICTがもたらすスマートな病理診断

※来年春の日本病理学会総会(山口県にて開催)で、ワークショップ「デジタルパソロジーを活用した病理医の働き方改革」の指定演者に選ばれました。そこでしゃべるにあたっては、「抄録(しょうろく)」というのを提出する必要があります。ホームページなどに掲載されて、人びとがそのワークショップを見に来るかどうか考えるための素材となる文章です。タイトルがリードコピー、抄録本文がボディコピーにあたると考えるとよいかもしれません。

で、抄録を書いたのですが、英文で書けば1000文字許されるのですけれども、和文だと500字制限だということをうっかり忘れて、1000文字書いてしまいまして、いったんボツにしました。しかしまあブログに載せてもよかろうと思って転載します。なお、転載にあたって、改行したり箇条書きを増やしたりとすこしだけ手を加えました。


抄録タイトル: AIやICTがもたらすスマートな病理診断という幻想


抄録本文:



・医師の専門性が過去にないほど細分化されること

・専門医機構等の制度変化によって従前のキャリアパスが陳旧化してしまうこと

など、さまざまな理由により、次の10年が「医師のリクルート暗黒時代」になるであろうことは論を待たない。

日本病理学会をはじめとする関係各位の尽力により、病理医の働き方が他科に比べてより多様性を保証するものであることは周知されつつあるが、医学生や初期研修医が単に

「ワークライフバランスが良ければ魅力的な診療科である」

という価値観のみで進路を選択するわけではないことに留意すべきであろう。リクルートの現場で、医学生に向かって「今後の病理はAIがジャンジャン入ってくるから働きやすいよ」とはなしかけると、その場では「いいですね!」と満面の笑みを浮かべてくれるがあとでTwitterの裏アカウントで「人間がいる意味がない科だった、つまんなさそう」などとばっさり切られていたりする。


そもそも、市中病院の最前線で病理診断をしていると、WSIスキャナの購入許可が総務課から一向に下りず、デジタルパソロジーとはすなわち「大学にスキャンしてもらったWSI(Whole slide image)を送ってもらって学会や研究会の仕事をすること」以上でも以下でもないという悲しい現状がある。AIに至っては、日常の診断を手助けしてくれるレベルにはとても届いていないと言わざるを得ないし、AI研究と言っても「自院の標本を大量に選んで倫理委員会を通してスキャンセンターに送り、論文のイントロに病理組織形態学的前提を書き、エンジニア系の雑誌で査読される段になって以降は医師としてコミットするのが難しい」というのが正直なところで、珍しいことをやっているという実感こそあれ、果たしてこれが一生のやりがいとして「働き続ける病理医としての自分」を支えてくれるものなのだろうかと疑問に思う。

つまり、今のところ、AIやICTが病理診断をスマートにしている実感は一切ない。

泥臭く、人間くさく、調整と交渉の仕事が増える。それが近未来の病理診断の姿ではないか。


しかし、逆説的に捉えると、病理診断科に旧態依然という言葉があてはまらないことを歓迎すべきなのかもしれない。AIをはじめとする「時代に要請される技術」によって、介入されてかき回されるだけの可能性と学問/商売のタネがここにはあるということにほかならず、そもそもAiからもICTからも知らんぷりされているような科ではニュースにもならないわけで、耳目を集めるだけの素材が揃っている場所で七転八倒する中年病理医のていたらくを見てストレートに「つまらなさそう」と即断するほど今の医学生は狭量ではない気もする。


AIやICTがもたらすスマートな病理診断という幻想が現実を蹂躙するさまを供覧して、将来を担う若手の審判を待つ。


2022年11月14日月曜日

ホメオスタシスの賞味期限

小説を読みたいが、物語にどっぷり使って余韻を楽しむほどの時間となるとそれなりにしっかり予定を空けなければならず、もっか、それが厳しい。

たぶん今はそういうタイミングじゃない。

小説はもう少し先に取っておこう。本は逃げない……とも限らないが……まあ……読める日はこの先もやってくるだろう。



……と書いて、このあと、さらにいくつかの文章を書き、ブログに登録した。ところが、さきほど公開したばかりの、「1週間前に自分が書いたブログ記事」とほとんど同じことを書いていたことに気づいて、苦笑しながら文章を消去した。

まいったな、とリアルに頭をかいている。




ふと思いついたこと。

昔も今もよく読む椎名誠は、自身を「粗製乱造作家」と自虐的に呼称するほどの多筆家である。ものすごい数のエッセイを書いているので、当然のように「同じことについて書かれた記事」がいくつかある。

昔はそういうのを見ると、ああ、自分の書いた物を忘れてしまうなんて悲しいことだ、と思った。

しかし今はもう少し違う、ややポジティブな印象を持っている。ただし「自分も同じようなやらかしをした」と言いたいわけではない。ぼくの書く物が椎名誠のそれと見比べてよいものだとも思わない。

そうではなく、「なぜ同じものを何度も書いてしまうのか」ということに対する原理のようなものが見えてくる気がするのだ。


椎名誠はおそらく、書くことが「世の中に対する強い刻印」などではないのだろうと思う。仮に、彼の仕事に対するスタイルが、書くことで何かを世に残すという発想だと、同じものを二度書くことにデメリットが生じる。なにせ、それはもう「残っている」からだ。

しかし、書くことが「世の中にある凹凸をなでて確認する」くらいのものであったらどうか。

同じ観光地にくり返し訪れることではじめて頭の中に入ってくる情報のようなもの。

たまに通りがかる道ばたの点字ブロックを指で読んで質感やキメを確認し、そこから得たものを心の中に「一時的に書き留めて」おき、その印象を用いて現在の自分を少しだけ微調整してからまた先に進むような生き方があるような気がする。

そういう人にとっては、同じ思い出を何度も文章にしてもさほど気にならないし、前回書いたときのことなんて覚えていないし、何度思い出して書いても(まあ似たような文章にはなるのだけれど)毎回ちょっと違った自分が出力されてくる。



いいのだ。何度書いても。入力と出力のセットが毎回まったく同じということはあり得ない。読む人は「またその話題かよ」と飽きるかもしれないが、書いている人の中ではその都度微妙に異なる出力と、微妙に異なる自分の調整結果とが待っているわけで。




もっとも、かく言うぼくは、さっき同じ題材の文章を書いたと気づいてすぐさま消してしまった。べつに何度書いてもよいのに、と自分自身で思いながらも、さほどの躊躇なく削除した。

きっと、今日の感性で反射的に書き終えたものと、1週間前の感性で書いたものとが「違う結論」にたどりついていることに気づいて怯えたからだ。

自分の恒常性は1週間で崩れ去っているということを目の当たりにして、なんだか、「今のはウソだよ。」と言い捨ててその場から逃げ去りたくなってしまった。そういうことがある。そういうこともある。そういう微調整をしている。

2022年11月11日金曜日

病理の話(715) 書かなければいけないスペースがあるからとりあえず万能なコメントを書きました的な話

今日はしょっぱなから急加速するので、がんばって振り落とされてください。


病理診断報告書。あるいは、病理レポートと呼ばれるものの話。

(※なぜかreportのことをリポートとは言わずレポートと言う。ドイツ語の読み方だろうか?)


レポートに、けっこうえぐい文章が並んでいることがある。たとえばこうだ。


「核の偽重層化を伴った異型腺管の増生を認めるため、低異型度腺腫と診断します」


漢字だらけだ。説明も少ない。……まあ、しょうがない。

専門家が読むものだから、専門用語が使われるのはとうぜんのことだと、割り切ってもらうしかない部分もある。


しかし……。何枚もレポートを読んでいると、だんだん、ふしぎなことに気づく。


別の機会にこういうレポートが出てくるのだ。

「核の偽重層化を伴った異型腺管の増生を認めるため、高異型度腺腫と診断します」


さっきのと、どこが違うかお気づきだろうか?

じつは、「低」だったものが、「高」にかわっている。



低異型度腺腫と、高異型度腺腫。

低いと高いの違いがあるから、微妙に診断も違うのだろう、ということはみなさんもおわかりだろう。

これらの詳しい意味はともかく。

前半部の文章がまったく一緒なのに、後半の診断名(らしきもの)の内容が、わずかに変わっていることを、変だと思わないか?



こういうのを見ると、熱心な医学生あたりは、質問をしてくる。

「せんせい! あの! 意味はよくわからなかったんですが、この……前半部の『~~ため』っていうのは、診断の理由を説明しているんですよね?」

「そうだよ。」

「前半部分がまったく一緒なのに、後半部が違うってことは、根拠がきちんと書かれ足りていないのではないでしょうか?」

「そうだけどいいんだよ。」

「???」


この「???」というお気持ちは、医学生に限った話ではなくて、患者もよく表明する。「説明になってないんだが?」ということだ。

しかし、病理医からこのレポートを受け取って診療に活かす主治医は、意外と冷めた感じでこのように言うのだ。

「まあそこは病理医に任せる部分だし、仮にちゃんと説明されたところで、読んでもわからないんだから、書いてあっても書いてなくても、業務的には困らないんだからいいよ。」



こうして、主治医と病理医の間ではある種の信頼関係というか共犯関係みたいなものが生まれており、結果的に、「前半部の説明文はいつも同じで、後半の診断部分だけが微妙に異なる病理レポートがぞくぞくと再生産される」ということになる。

実際にこのような文章を平気で書き続ける病理医はいっぱいいる。というかぼくも書くことがある。

専門用語をあまり並べられてもわからないから、いいんだよ。病理医だけがわかっていればいいんだよ。

でも、最近のぼくは、やっぱこういうのって不誠実かなあ……と思うようになってきた。



たとえば、動物の専門家といっしょに動物園を歩いて説明を受ける際に、

「足が四本あってしっぽがあってガウって言うから、犬です。」

「足が四本あってしっぽがあってガウって言うから、オオカミです。」

「足が四本あってしっぽがあってガウって言うから、かぜをひいたキツネです。」

と説明されるとさすがにモヤらないか?

言ってることは、間違ってはいない。しかしもっと説明してほしいと思うのが人情だろう。

たしかに、犬とオオカミの形態学的な違いを、動物の専門家の用いる言葉でダーッと説明されても、一般の人は困るばかりなのだ。でも、「足が四本あってしっぽが生えていて」みたいな、見ればわかるよ、みたいなことを決まり文句のように書かれたところで、なんか、「何かを書かなければ言わないスペースがあるので書いておきました」みたいな、おざなりな、建前的な感覚を覚えないだろうか?




病理医の仕事のメインは、顕微鏡を見てレポートを書いて、文章で主治医とコミュニケーションすること……と思われている。ぼく自身は、文章だけではなく、電話、パワーポイントのスライド、会議・研究会・学会、はたまたSNSなど、あらゆるデバイス・インターフェースを通じて主治医とコミュニケーションする仕事だと思っているけれど、中でも文章の役割が大きいことは間違いない。

その文章の中で、「とりあえず診断の理由は書かないとおさまりが悪いから」みたいな理由で、「生地をオーブンで焼いたのでケーキです。」「生地をオーブンで焼いたのでピザです。」「生地をオーブンで焼いたのでナンです。」みたいに、そりゃ説明したことになんねえだろ、みたいなレポートをばんばん書いてしまうのは病理医としてはどうなんだろう、という気持ちがあるのだ。


そこで「別に現場の医者たちは、説明なんてどうでもよくて、ケーキかピザかナンかタコスかわかればいいんで。」みたいなことを言い出す人もいるのだけれど、いや、ま、そうかもしれないんだけど、それってコミュニケーションじゃなくない? という気持ちがあるのだ。まあなんかここは好き嫌いの話かもしれんが。

2022年11月10日木曜日

創造的な話

「行動記録型の日記」と「思索記録型の日記」があるとして……みたいな書き出しで、なにごとか書けないかと思ってPCに向かった。しかし実際に今の一行を書いて読み直してみたところ、どちらかというと「分類型の日記」と「連想型の日記」について書きたい気持ちのほうが強いということに気づく。


ちなみに、上の文章は「分類」をしたいのか、それとも「連想」をしているのかというと、どちらでもあるわけで、なかなかこうばっさりと分けるのは難しい話である。書きたい気持ち VS 書けなさそうな可能性 の戦いは、2-3で後者が勝利して今シーズンの全日程を終了。




大学2年生くらいからホームページに文章を書き始めた。ただし、ホームページだけではなくミクシィやらブログやらいろいろと分散させていたことがよくなかった。引っ越しした際にプロバイダのJcomを解約したら、うっかりホームページデータサーバも解約してしまい、それに気づかずにしばらく時間が経ち、間の悪いことにPCを買い換え、前のPCにホームページビルダーの元データがすべて入っていたことに気づかずPCを初期化して処分してしまった。そういえば最近ホームページ見てないなと思って見に行ったらデータは跡形もなかったのでかつてのホームページはもう見ることができない。正確にはウェブアーカイブス的なサービスでトップページだけは見ることができるのだけれど、もはや書いていた記事まではアーカイブされていない。





数年前まではもう少し記事をたどることができたのだが、今みたらトップページ以外はほぼ完全に消えてしまっていた。記憶の消え方と並行している。なお言わなくてもいいことだが、ストーカー被害を避けるためにかつてのブログなどもすべて削除してしまったので、結局昔書いたものはもう何も残っていない。ウェブタトゥーなどと言うが、タトゥーも消えるのである。実際の墨ほど保存性はよくない。



20年前の自分の気持ちのかけら、ほんの一部だけ覚えている。「世の中の何かを分類する方式」で書いたものと、「何かから連想をつなげていって書く方式」で書いたものとを交互に投稿しようとぼんやり考えていた。上でも述べたように、その両者は必ずしもきれいに分かれるものではないと思うけれど、分類型の自分と連想型の自分とを見比べてみたいという欲望が当時からあったのだろう。

ホームページが消えてしまったあと、消失感と共にはじめたのがTwitterだった。Twitterをはじめて数年経った頃、三中信宏先生の『分類思考の世界』と『系統樹思考の世界』を読んで、そうそう、そういうことをぼくも高い練度でやりたかったんだ、とため息をついた記憶がある。




分類は世界を知るための作業、連想は世界を広げるための作業だ。




当時のぼくは、知っては広げ、広がっては知り、をくり返してぼくは今のぼくにつながる何かを作ろうとしていたのではないかと思う。「何かを作る」とは書いたものの、別に、今のぼくになることをあらかじめ予想して立ち回っていたわけではないだろう……しかし今、当時のぼくが考えていたことをほとんど覚えていない以上、逆に、今のぼくは昔のぼくがなりたかったものだという可能性を自分から捨てる必要もない。なにせ覚えていないのだから。誰も答えは持っていないのだから。

たぶん今のぼくは昔のぼくがなりたかったぼくだ。このように、毎日寝る前に唱えておけば、睡眠中に何度も何度も海馬を言葉が通過して、低確率で数十年残る記憶として刻印される。そうすれば、次の20年が経ったころ、「40年前のぼく、その後、なりたいぼくになれて良かったなあ」と、今作った記憶を振り返って目を細めることもできる。なんとも創造的な話である。

2022年11月9日水曜日

病理の話(714) ミミックかんべんしてくれ

ドラゴンクエストシリーズには「ひとくいばこ」というモンスターが出てくる。「ゆうしゃ」一行がダンジョンの中で、宝箱を開けようとすると「たからばこは ひとくいばこだった!」などのメッセージと共に、宝箱に擬態したモンスターが襲いかかってくる。


これがけっこう強い。そのダンジョンに出てくる普通の敵よりも強いことも多く、ゲームに慣れていない人だと高確率で全滅する。


しかし、まあ、ゆうしゃ・せんし・そうりょ・まほうつかいがきちんと揃ったつよつよパーティであれば、たとえ「ひとくいばこ」であっても、冷静に対処することでなんとか切り抜けられるだろう。ただしこのとき、「ひとくいばこ」には基本的にまほうが効きづらいので、回復を丹念に行いながら、戦士と勇者が地道に殴りまくることで、なんとかたおす。


そうやって物語を薦めていくうち、ま、ひとくいばこくらいなら怖くないわ、くらいにパーティ(とプレイヤー)が慣れたところで、宝箱の中から飛び出てくるのが「ミミック」だ。

こいつがめっぽう強い。いきなり「つうこんのいちげき」を食らわせてくる。初見のミミックで全滅しない人のほうが珍しいのではないだろうか、というくらいに強いので困りものだ。

見た目は「ひとくいばこ」と大して変わらないのに、ミミックはかなりの上位互換である。

したがって、かつてドラクエで育った子どもたちはみな、大人になっても、心のどこかで「ミミック」を恐れている。



そのせいだろうか。

医療の中で「ミミック」という言葉が出てくると、われわれは戦慄する。



この場合のmimic(もしくはmimick)は、モンスターではなく文字通り「擬態する」という意味だ。具体的には、「あの病気に見えたけどじつはこの病気だった」というような、「似通った病気どうしで診断を間違えたとき」に使う。

「○○病をミミックした△△病の1例」と言った症例報告論文が出されることが多い。

いやいや、それって結局、△△病をうまく診断できなくて、○○って誤診しただけやん……と、後世の人はツッコむのだが、話はそう簡単ではない。なぜなら、これ、本当に騙されるからだ。難しいのである。


ドラクエだと、一度ミミックにやられたプレイヤーは、その後は宝箱を目にするたびに「ミミックかな?」とびくびくして、インパス(※宝箱の中身がミミックでないかを調べるための呪文)を唱えるのが定石だ。

医療でもある意味おなじことが言える。ただし、「一度ミミックにだまされたら」というのはまずい。そのだまされは、患者の不利益に直結するからだ。「世の中の誰かがミミックにだまされたという話を仕入れて、ミミックがいないかを気に留める」くらい慎重でないと、診断はうまくいかない。



さて病理の話なので、病理診断におけるミミックのことを考えよう。たとえば「がん細胞によく似た、がんではない細胞」が出てくることがある。炎症によってへなっへなにされた、元は善良だった細胞が、見ようによっては「がん」に擬態するのだ。医学生で病理診断をかじった人というのがたまにいるが、黙って診断をまかせると高確率でこの擬態を見抜けない。

そこでインパスならぬ「免疫染色」というわざを用いて、なんとか擬態を見抜こうとするのだが、これがまた難しくて、「免疫染色すらもまぎらわしい、がんではない細胞」みたいなのが出てくることもある。中皮とか。一部の軟部腫瘍とかね。


病理形態診断におけるミミックの倒し方は……強靱な体力と豊富な経験(レベル上げが必要)、そして免疫染色のような「呪文」も大事だが効かないこともあるので、最終的には「物理で殴り続けるように、地道に、ひとつひとつ証拠を積み上げていく」」ことが結局遠回りなようで一番役に立つ。


まあ、臨床診断で「ミミッカー」を倒すときには、必ずしもこの「地道な物理」だけが解決法ではないようなのだが、病理診断……というか形態診断の場合はスマートに解決するというよりも泥臭く殴り続けるくらいのほうが少しいいような気がする。大学受験の数学で、確率の問題を解くときに、「1000通りくらいだったら計算するよりも数えたほうが早い」と思ったことがないだろうか? あれに近いものが……ちょっとだけある。

2022年11月8日火曜日

サボタージュアクター

体重が微増してきている。朝昼晩の食事量のうち炭水化物の部分を少し減らし、歩く距離を少し増やした。筋トレをするほどの熱意はないがたまに腹筋くらいならやってもいいとは思う。しかし、なんというか、筋トレに対する愛着がないのでめんどうである。ランニングなら音楽が聴けるしルームランナーで走れば動画も見られるので、まあそういうのだったらやりたいなと思うけれど、今は残念ながら本当に時間がない。


「忙しいと太る」のからくりが、昔からよくわからなかった。毎週全国を飛び回っている上級医が、顔はげっそりさせながら、しかし腹には欲望をたぷんたぷんにたたえているのを見て、忙しいって言ってもどうせ出張先で飲み食いしまくってるんだろう、くらいに思っていた。おそらく実際に、忙しいふりだけして暴飲暴食してガンガン太っていくタイプの医者もいる。しかし本当はそれ以外の医者のほうが多いのだろうな、ということがわかってきた。実際に年を重ねた自分の体重が少しずつ増えている状況で、彼らの内実が少しわかるようになった。

太る理由は基礎代謝の減少と、日常の食事量に対する強い慣性である。

仕事で脳を働かせるために朝・昼としっかり食事をすると、基礎代謝が落ちている分、カロリー過多になって太る。

それでは代謝にあわせて摂取カロリーを減らせばよいかというと、これがわりと難しくて、脳が「今までの糖質量」になれているせいか、食事を単に減らすとてきめんに知的活動が鈍ってしまう。如実に差が出る。思考の粘り気が足りなくなる。若い頃も「食べてないから脳が鈍ったな~」はあったと思うのだが、中年の仕事というのは一瞬でも気を抜くとヒヤリハットであり、ちょっとでもぼーっとしてると部下がやらかし同僚がイキり他科が爆発して病院が滅ぶ。そういえば医局で若い医者が居眠りしているのをよく見るのにベテランの医者はいっこうにぼーっとしていないなーと言う事に気づく。かつては「どうせベテランは当直免除でよく寝てるから昼は眠くないんだろ」くらいにしか思っていなかったけれど、中年は「仕事中に寝たら死ぬ」ので一瞬たりとも気を抜けないということが今なら実感できる。昼に居眠りが可能な時代の仕事量なんて、今にして思えばたいしたことはなかった。「夜起きているだけでいっぱい働いたことにしてもらえた頃」がなつかしいとすら思える。自分が昼間に眠気をもよおしても「死に直結する人」が自分とつながった場所にいなかったからできたことなのだ。今、脳を鈍らせたら命にかかわる。自分の命だけではない。複数のドミノをいっぺんに倒すときの感覚で、数百人の命にかかわる。それが中年だ。それが中間管理職なのだ。刹那たりとも脳をにぶらせてはならない。したがって、脳に栄養を与えるべきだ。食べるしかない。こうして食べるいいわけをしているのである。

だったらせめて、栄養のことをまじめに考えて、脳に行く栄養を確保しつつ全身の代謝に応じた食事の献立を考えればいいのだ。しかし残念ながら、そこまで取り組むだけの時間と余力とセンスと経験がない。単純にお米の量を減らすくらいのことはできるが、「ポイントポイントで食材で工夫する」みたいなやり方には運用のための努力が必要で、そこまではなかなかできない。だって忙しいんだもの。

つまり、「忙しいと太る」は、「忙しいと自分の食事を年齢にあわせてアップデートしようという心配りが足りなくなり、基礎代謝の減少に食事の調整がおいつかないから太る」ということなのであった。今まで内心ばかにしていた上級医たちに謝りたい。小太りくらいのほうが愛されるよね(とってつけたコメント)。とはいえ、ぼくの場合は血圧が上昇してきているので、体重増加にはきちんと気を付けたほうがよいだろう。


あとは運動。


小学校から大学まで24年ほど剣道をやっていた。大学時代の6年間は、「剣道のために一般的な筋トレをすることのばかばかしさ」を感じていた。まあ高校生くらいまでは、知恵なき筋トレが通用するのだろうが、大学生ともなると理論と実践と筋力の関係は均衡してくるので、理論なき筋トレはかえって害である。相手の防御よりも自分の攻撃の方が早くなるために、かつ審判から見て説得力があるような派手な打突音をもたらすために、どこの筋肉とどこの筋肉をセットで、ユニットにして、どの向きの運動を用いて鍛えたら一番よいかをひたすら考えていた。単純に腕立て伏せやバーベルで高校時代からバッキバキに鍛えまくってきた人よりも強く美しい剣道をするためにどう鍛えたらよいかを幾人かのチームメンバーと共に練り上げ、結果、高校がスポーツ推薦だったタイプの剣道家たちと遜色なく勝ち負けできるくらいの「剣道用の筋力」を手にすることができた。その後、25歳で大学院に入って運動する機会はめっぽう減ったが、24年間かけて付けた剣道筋はなかなか衰えず、10年は立派にぼくを支えてくれたのだが逆に言うと10年で有効期限が切れた。30代半ばくらいから急速に頸椎症や腰痛などを発症することになる。それまで無理な体勢で長時間、顕微鏡を見たり解剖をしたり、パソコンで講演資料を作ったりとバリバリ働いていたのはひとえに剣道により体幹の筋肉がしっかりしていたからだ。筋肉の衰えと共に不具合が全軍で押し寄せてきた。ああ、「筋肉貯金」を使い切ったんだなあと思いながら、顕微鏡の接眼レンズの高さに合わせて机や椅子を細かく調整し、歩き方にも気を遣い、枕の高さまで変えて、数年かけて首や腰の痛みを克服して今なんとか働いている。このような「筋肉に対する紆余曲折」を振り返って思うと、自分は本当に脳のために筋肉と戦い続けてきたのだなあと嘆息するのだけれど、ならば今、微増してきた体重を減らすために運動をし、基礎代謝を増やすために筋肉を戻すかというと、なんというか、「剣道するわけでもないのにな」「仕事はもうできているわけだしな」と、過去の意地と現状維持バイアスとが加わって筋トレに対する愛着がいまいち湧いてこない。こうして筋トレをさぼる言い訳をしているのである。



言い訳をするのが中年の特徴だということも、ぶっちゃけ、わかっていた。でもまあ言い訳はするよ、だって今日もうねうね暮らしているのだから。

2022年11月7日月曜日

病理の話(713) むくみのはなし

「むくみ」。

なんか腫れぼったくなるアレ。

むくみは意外と奥が深い。

いくつかの理由があって、むくむ。

「いくつか」というのがポイントだ。




理由を考える前に根本的なところを。

そもそもむくみとは何か。

医学用語だと「浮腫(ふしゅ)」という。訓読みもできるぞ。「浮腫み(むくみ)」。そのまんまだ。ふしゅみではない。

浮いて腫れる、と書くわけだが、さて、なにが浮くんだろう?

手足がむくんでいるとき、個人的には、皮膚の表面でいつも受け取っている感覚、触覚とか温・痛覚が、いつもよりも浮くような感じがある。あれを現した言葉なのかな?

ちょっと語源を調べてみよう。

調べた。わかんなかった。

なんかちょっと浮くような感じで腫れるってことでいいと思います。



さて、Googleなどでむくみ/浮腫を調べると(語源を知りたかったので)、いろいろ間違った知識が出てくる。代表的なのは「むくみとは、皮膚の下に水が溜まることを言います。」みたいなやつ。皮膚の下! まあそういうこともあるけど、そうとも限らない。なぜなら、皮膚「自体」もむくむからだ。

むくみは、「細胞のあいだに水気がたまる」ことで起こる。皮膚の中も下も関係ない。ただし、水がたまりやすい場所、たまりにくい場所というのはある。




体の中にはさまざまな細胞が配置されている。皮膚もそうだし内臓もそうだ、血管も脂肪もぜんぶ細胞でできている。では、人体には細胞がみっちみちに詰まっているかというと、そうではなくてスキマがある。渋谷の交差点だって、人がみっちみちかというと、確かに人はいっぱいいるけどちゃんとスキマも空いているだろう。あれといっしょだ。細胞と細胞の間のスペースがあり、間質(かんしつ)という。間(あいだ)の質と書くから、そのまんまだ。

この間質に水気がたまることを「むくみ」と呼ぶ。


間質には普段からある程度の水気がある。カラッカラではないのだ。細胞が乾燥してしまっては困るからね。よく知られている話だが、人体の6割くらいは水でできている。赤ちゃんはもう少しみずみずしい。この「6割の水」のうち、4割は細胞自体にふくまれている。そして、残りの2割が、「細胞の外」にある。この「細胞の外」に該当するのが間質と、忘れてはいけない「血管の中」である。


ん? こんがらがってきたかな? では絵を書く。




寄り集まっていろいろ仕事をしている人間が、ここでは「細胞」だと思ってください。こいつら細胞が、そもそも4割の水気をもっている。そして、細胞外、すなわち「間質」と「血管」をあわせたスペースに2割の水気が含まれる。

「血管」には0.5割(5パーセント)くらいの水があり、残りの1.5割が「間質」にあるそうだ。血管の中の水って思ったより少ないね。

もっとも、実際の分量にするとそれなりである。血管の中にある水分量は3リットルくらい。間質にはその3倍だから、だいたい9リットルの水分が含まれている。こう書くとけっこうな量だよね。

ただし9リットルもの水があるというとタプタプに感じてしまうが……じつは人体の中にある間質を面積に換算すると、サッカー場くらいの広さになるそうだ。サッカーコート1面に2リットルのペットボトルを4本半まいたところでびしょびしょにはならない。やっぱりたいしたことないかなあ。

だいたい、それくらいの分量感だということです。




さて、あらためて、むくみはどこの水が増えるのかというと……。


「間質」。細胞と血管の間に水が溜まる。これによって、足がむくむとか、手がむくむとか、肺がむくむ(!)とか、脳がむくむ(!!)といったことが起こりうる。


えっ肺!? ていうか脳!!?!?


手足がむくむのも大変だけど、肺がむくむとしゃれにならない。スポンジのような肺に水がたまっちゃったら、いくら息を吸っても酸素を取り込めない。

それに脳がむくんだら大変だ。なにせ、脳は頭蓋骨に取り囲まれている。狭いスペースでパンパンに腫れたらいくらなんでも細胞に悪影響が出るだろう。



しかし、二日酔いで手足がむくんでいるときに、呼吸がゼーハー苦しくなるなんて聞いたことがない。
人体では、場所によってむくみのメカニズムが違うのだ。手足がむくむタイミングでも脳や肺がむくむとは限らない、というか、脳や肺はなるべくむくまないように調節してある。

ではそのメカニズムとは?



むくむとは間質に水が溜まることだ、と書いた。水はどこからやってくるかというと、血管の中である。それはどこでもいっしょだ。なんらかのメカニズムで、血管内から水分が周囲にしみ出す。それも、大動脈とか大静脈みたいなでかい血管からではなく、非常にこまかな、毛細血管から漏れ出てくる。


毛細血管から水が漏れ出る度合いにかかわるファクターは、大きく分けて二つ。物理的な圧力と、血液の濃度である。


毛細血管にいわゆる「水圧」がかかると(静水圧の上昇)、間質への水漏れは起こりやすくなる。たとえば、居酒屋で両脚を掘りごたつの中におろしていると、帰りにブーツを履こうと思ってもむくんで履けないが、畳の小上がりで足を伸ばしていればそのうちむくみは改善する。これは足をおろしていると、足の毛細血管に「重力による圧」がかかって、水分が毛細血管の外に流れやすくなるからだ。

でも、圧だけで水漏れを起こしては困るので、「水分が血管の外にもれないようなしくみ」がある。

中学や高校の理科でやった浸透圧というものを覚えているだろうか? 血管の中には塩分やタンパク質など、さまざまな物質が溶け込んでいて、間質にくらべると溶質の濃度がすごく濃い。さあ、ここで理科の授業を思い出してほしい。水分は、溶質の濃度が高いほうに移動する。だから、血液が「間質よりじゅうぶんに濃い状況」である場合は、多少の圧がかかっても、血管の中に水をひきとめるはたらきが作動する。

血液と間質との間に「浸透圧の差」をつくる上で重要になってくるのが、毛細血管の壁である。この壁に穴がぜんぜん空いていない状況、つまり、血液の中にあるタンパク質などが間質にもれにくい状況だと、血液の濃度の濃さは保たれ、水は引き留められる。保水効果が期待できる。

ただし、血管というのは、体の各地に酸素と栄養を運ぶ役割を果たしているから、「タンパク質などが間質に漏れなさすぎる」状態だと、物資の輸送ができなくて困ってしまう。バランスが大事なのだ。物資は運びたい、しかし、血管内の物質濃度は濃く保ちたい。

そこで、臓器ごとに、「どれだけタンパクを運ぶべきか」や、「どれだけむくみを防ぎたいか」に対応して、血管の壁はタイプが異なっているのである。



脳はとにかくむくみたくない。頭蓋骨の中で脳がむくむと命にかかわる。そこで、脳は、なんと「毛細血管の壁から一切タンパクをもらさず、血管の中を高濃度に保つ」という仕組みを有している。ブラッド・ブレイン・バリア(BBB)という。むかしアメリカのプロレスにトリプルエイチ(HHH)というのがいたが、脳にはトリプルビーがある。脳の血管は何ももらさない、例外は糖分だけだ。脳が疲れていると甘い物がほしくなるだろう。脳は糖分以外を受け取ろうとしない。

こうして、脳においては、常に血管の中の濃度を高く保ち、浸透圧によって血管の中に水を引き留めておくことで、むくみをふせいでいるのだ。



しかしいつもそういう強靱な血管ばかりでは臓器がうまく働けない。たとえば、肝臓。肝臓は栄養をため込んだり加工したりする、人体最強の工場であり、血管の中と外とで物資を移動させる必要がある。だから肝臓の毛細血管(的な類洞とよばれる構造)は、脳とは違ってタンパク質が通過し放題だ。このため、血管に圧がかかるような状況では、浸透圧の差による水分引き留めが使いづらくなり、あっという間にむくむ。


ほかの臓器も見てみよう。たとえば肺だ。肺の毛細血管では、肝臓と同じように(脳とは真逆で)、タンパク質がわりと自在に通過する。となると、血管内外の浸透圧差を必ずしもうまく保てない。ただし、肺にはリンパ管とよばれる「間質にもれた水分やタンパク質を回収する仕組み」がかなり発達している。このため、病気でもないかぎりは、一瞬血液からタンパクがもれて、浸透圧格差がなくなって、血管の外に水が漏れても、リンパ管によって間質の水気やタンパク質が回収される。これにより、多少肺がむくんでもすぐに水分を引き取ることができ、むくみがおこらないようにしているのである。


今、とつぜんリンパ管の話が出てきた。くり返しになるけれど、リンパ管は、間質にある水分とタンパク質を回収するシステムである。間質の水気とタンパク質を同時に回収することで、「間質の濃度が薄い状態(=血管の中身が濃い状態)」を保持する。では、足などで「リンパの流れが悪い状況」が生じるとどうなるか? 水分やタンパク質の回収がうまくできなくなって、むくみやすくなるし、むくみが取れづらくなる。


リンパ管の中に入った水分やタンパク質は、静脈と同じように、最終的には心臓に帰って行き、また全身をめぐる血液となるのだが、このとき、リンパ管の中に入った水気とタンパク質を「ぎゅっ、ぎゅっ」と移動させる仕組みが必要である。ご存じだろうか。足のリンパ管ならば、足の筋肉を使うこと、つまり「運動」をすればいい。そうすると、すきまにあるリンパ管も筋肉にぎゅいぎゅいしぼられて、中身がどんどん心臓方向に運ばれていく。筋肉はリンパ管の中身を絞って移動させるポンプなのだ。だから運動するとむくみがとれるんですよね。

ちなみに肺のリンパ管は運動しても中身を絞れないが、かわりに、呼吸して肺を開いたり閉じたりするだけで、リンパ管もぎゅんぎゅん絞られる。呼吸を利用して水気を吸い上げているのである。人体すごいと思う。




えっ……なんか今日の話……長くない? と思いました? すみません、今日の内容はですね、「今後書く予定のある原稿のために、ぼくが頭の中を整理しながら書いているメモ」なのです。そのうち図解入りでどこかに書く。

2022年11月4日金曜日

クラファンを手伝っていただけないでしょうかという依頼がたまにくる

お世話になっております。市民向けの医療系イベントの活動資金集めのために、クラウドファンディングに挑戦されるとのこと、すばらしいですね。応援しております。


さて、ご依頼のございました二点、

1.クラファンサイトに応援メッセージを寄せてほしい

2.ツイッターアカウントでクラファンの宣伝をしてほしい

についてお答え申し上げます。


まず私はこれまでけっこうな数のクラファンから「応援メッセージをくれ」と頼まれ続け、その中には患者団体、医療団体などさまざまなものが含まれておりました。いずれも理念は崇高で、個人的にはぜひ応援したいなと思うものばかりでしたけれども、クラファンサイトへの応援メッセージの掲載については一律でお断りしております。はっきりした理由があるわけではないのですが、あえて言うならきりがないからです。


私と「クラファンという制度そのもの」に対する距離感としまして、「私自身がクラファンサイトの紹介文を読み、値段を読み、なるほどこれは自分で応援したいなと思ったものに実際にお金を払ったあとにツイートする」以外の方法で誰かのクラファンを手伝ったことはないですし、今後もそれ以外のことはしないと思います。


なお、これまで、企画段階から声をかけてくださったクラファンはひとつもありません。企画がすっかり完成して、募集金額や返礼品などが確定してサイトまでできあがったタイミングで、公開直前になって「よかったらツイッターで告知を手伝ってください」と来るパターンのみです。たぶん、「ここまでやったらあとは宣伝くらいしかやることがないな、そうだ、ツイッターでバズれば楽勝だな」と思い付かれてはじめて、私の存在を思い出していただけるのだろうと拝察いたします。ありがたいことです。


ところで、私は、自分の活動でクラファンを使ってお金を集めることに対してめちゃくちゃ強い抵抗があり、仮に企画段階から「クラファンはどうでしょう」と言われたらわりと本気で抵抗します。これにも論理的な理由はなく、どっちかというと単なる好みの問題です。自分のツイッターをそういう雰囲気にしたくない、みたいな感覚です。




これまで、ツイッターを続けるにあたり、ふたつのことを自分なりに決めてきました。

「献本は一切もらわない。買いたい本は自分で買う」

こちらは何度もツイートしてきましたがもうひとつあります。それが、

「クラファン応援アカウントにはならない。応援したいクラファンには普通に金を払う」

です。私の中ではこの二つはほぼ同じことを言っています。

ここをはき違えると自分のアカウントのホーム画面を自分で見てうんざりするだろう、という気持ちがあります。



以上、こちらの都合ばかりで恐れ入りますが、クラファンはともかく、総論として○○さんの活動や理念自体は応援しております。なので、差し支えなければクラファンがはじまったらリプライなどでお教えください。そのリプライを読み、クラファンサイトを見て、考えて、自分でお金を払ったあとでその日の気分によってはツイートをするかもしれません。これ以上のことはお約束できません。どうぞよろしくお願い申し上げます。




似たような文章を毎回作るのに疲れたのでブログに保存して今度からこれをコピペします。

2022年11月2日水曜日

病理の話(712) 誤診がわかるとき

ナイーブな話だけど、けっこう大切な話。

「誤診」とはなんなのか。




誤診(ごしん)とは患者の見立てをまちがうことです。

病理診断であれば、「診断名」が間違っていれば誤診だ。「病気がどれくらい広がっているか」を見間違えても誤診である。

ただ、現実には、病理診断に間違いが発生したとして、主治医や患者がその間違いに気づく可能性は少ない。

なぜ、医者も患者も「病理診断の間違い」に気づけないのか?





道ばたに草が生えていたとします。それを見てぼくが、「あ、セイタカアワダチソウだ」と言ったとします。

それが合っているかはわからない。ぼくが適当なことを言っているだけかも。正解かどうかを調べるにはどうしたらよいか?

たとえば、スマホで写真を撮影して、草木の種類を判定するアプリにぶちこむとか。

あるいは、草に詳しい専門家に聞くとか。

そうすればきっと正解はわかるだろう。

雑草のことをあまり知らないぼくが、「セイタカアワダチソウじゃない?」と適当なことを言ったら、なんらかの手段で正解を探したくなるのは人の性である。


では次に。

道ばたに草が生えていたとして、ぼくのとなりに最初から「草に詳しい専門家」が歩いていたとする。河川敷大学雑草学部の教授が「これはヤハズエンドウですね」と言ったら、ぼくはその話を信用して、それで終わりにすると思う。

それ以上混ぜっ返すことはないだろう。

雑草の素人のぼくが、横からわざわざ、「いやいやこれはカラスノエンドウではないですか?」なんてツッコミをいれることはないに違いない。だってそれはたぶん正解なのだから。



病理診断もこれといっしょである。病理医が「診断はこれです」と言ったものを、患者も、さらには主治医であっても、ひっくり返すことなんて普通はできない。専門性が違いすぎるからである。

となると病理診断に誤診はない……というか、誤診しても見つからない、ということになってしまう。

しかし現実に、低確率だが誤診は見出される。いったいどうやって?




雑草と病気の違いを考えればわかる。雑草の名前を言い当てた後に、歩いているぼくは雑草をどうするわけでもない。しかし病気の場合は「治療」をする。

そう、治療をすることで、診断の間違いがわかるのだ。端的に言うと、「診断が間違っていると治療が予想通りに進まない」。治療中に、「どうも期待していた効き方じゃないなあ」という気分を主治医が持つことで、事前の病理診断が間違っていたのではないかという可能性がようやく浮上する。

こうして「誤診」が見出されることになるのだが……じつはこの話は、言うほどわかりやすい構造ではない。



たとえば、がんではないものを「がんだ!」と病理診断してしまったとする。そして、手術でそれを採ってきたとする。がんではないものを体の中から取り除いたあとに、再発することは絶対にない(だってがんじゃないんだから)。

しかし、患者も主治医も、「がんに手術をして、何年たっても再発しないのだからラッキー」という気持ちで喜ぶ。

病気が再発しなかったからと言って、「もしかしたらあれはがんではなかったんじゃないか」などとは思わない。




つまり、「過剰診断」の誤診は気づかれにくい。現場レベルではどうやっても見抜けない誤診なのである。

もっとも、病院が20年とか30年とかデータを蓄積すると、「過剰診断による誤診」もいずれはあかるみにでる。がんじゃないものをがんと診断し続けていると、次第に、「この病院のがん手術だけ、妙に再発率が低いなあ……」というように、本来予測される統計とのずれが生じてくるからだ。

もちろん、そこには、手術をした外科医の腕がいいから再発が少ないのではないかといった、別に考えなければいけないファクターがいっぱいある。でも、丁寧に調べて続けていくと、長い時間を経てから「病理医の誤診」が浮上してくることはある。

ただ、誤診がわかったころには病気の概念も、診断基準も、まして診断した病理医自体も入れ替わってしまっていることも多いのだが……。




結局、病理診断というものは、病理医が強い義務と責任をもって自分の診断をチェックし続けないとだめなジャンルだと言える。独りよがりではいけない。専門家の言うことを黙って聞け、みたいな診断は論外だ。常に他者の目による監査がのぞましい。主治医たちとも何度もコミュニケーションをとる必要がある。ちょっとでも彼らが「あれおかしいんじゃないの?」という気持ちになったら、スッと相談に乗る間柄でいなければいけない。そうして、ときに自分の診断のずれを自覚し、他の病理医たちとも「目合わせ」を怠らないようにすべきだ。病理診断という医療の「判決文」は、どこまでもどこまでも丁寧に出し続けていく必要があるのだ。

2022年11月1日火曜日

居心地を編む

血圧の薬を飲み忘れたことに気づいたのは出勤してからだ。毎朝、1錠だけ薬を飲んでいる。世の中に出ている薬の中でいちばん弱いやつだし、1日1回しか飲んでいないからどれだけ効いているのか疑問でもあるが、飲まないとなんとなく心の据わりが悪い。慢性に、じわりじわりと、シートベルトをするような気持ちで飲んでいる薬だから、1日とばしたくらいで体になんの影響もないだろうとは思うのだが、なんとなく今日は朝からまちがえた1日だという感覚である。居心地の悪さを感じる。

「居心地」という言葉は、心が居る地と書くのだなあということをいまさらわかる。この部屋は居心地がいいなあとか、この駅は居心地が悪いなあとか、なんとなく「場所をあらわす言葉」だと思って使っていたけれど、ほんとうは場所そのものを評価するためのではなく、場所によって動いた心のありようをあらわすための言葉である。

受け取り手のもんだい。切り取り側のもんだい。

世の中にあるあらゆる物質には無限の情報が内包されているのだが、その情報のどれを受け取れるかはもっぱら、観測者側の都合による。それまでどういう刺激・情報を感受してきたか、何を選んでどこに調整の軸をあわせてきたかによって、世の中にすでに置いてある無数の情報の中から、スキャンの範囲におさまるものだけを拾い上げていくシステムだ。

絵画を受信する訓練をしてこなかった人は絵画の持つ情報を拾えない。クラシック音楽を聴き続けてきた人でないとクラシック音楽の持つ情報を受け取れない。

このマンガが好きだと言えるのはそのマンガにたどり着いて情報を摂取するだけの準備ができているからだ。ただし、最高のマンガだなと思ってぼくが受け取っている情報は、作者が意識的に、あるいは無意識にそこにちりばめた情報の一部でしかなかったりもする。常に一部しか受け取れない。その一部だけでぼくらは人生を細かく微調整することになる。

どの場所にも、一個人が拾える以上の情報が必ず含まれている。しかし、そこにたどり着いた人の歩んできた歴史や、あるいは受容体のタイプによって、その場所に心を居着かせるだけの情報が拾えるかどうかが決まる、居心地の良さが変わる。

居心地をつくりあげるのは自分の経験と外部からの情報だ。縦糸と横糸の候補は無限にあるが、いつも無限×無限で布を織れるわけではなく、自分の経験を有限化し、外部からの情報も有限化して、選び取ったものどうしで今回はたまたまこのようなテクスチャになりました、という日替わり感覚で居心地を編む。それは血圧の薬一錠を忘れた程度でもろくもほどけてしまうこともあるし、逆に、世のどこかで大戦争が起こっていても編もうと思えば編めてしまっている、なんだか悲しい手癖の産物であったりもする。