2018年3月30日金曜日

病理の話(185) 病気発見のコツ的なやつ

病気の発見にはさまざまなコツがいる。



たとえば、咳が出て熱が出て鼻水が出ていたら「あっ、かぜかな?」と気づくことができるだろう。

けれども、たとえば大腸のポリープなどというものは、ふつうは症状を呈さない。

症状を呈さないということは本人が気づけないということだ。気づかないから病院にかからない。だから見つからない。

「症状が出やすいかどうか」によって、病気の発見の難しさは変わる。



多くの「がん」は、かなり長い間……一説によると10年以上にわたって症状を呈さない。だから、患者本人は自分ががんであることに気づけない。

まあ、がんがすべて「早期発見すべき」とはならないのだが。この話は以前にも書いたので今日はやめておくけれども、とにかく、「がん」ということばに怯えて思考停止してしまってはいけない。



今日はとりあえず「病気の発見の難しさ」のことを書くので、「がんの多様性」についてはいったんおいておこう。



膵臓がんのうち、「通常型膵管癌」というタイプのがんがある。これはできるだけ早く見つけたほうがよいとされているがんだ。なかなか症状が出ない。症状が出るころにはけっこう進行してしまっている。

症状が出る前に見つかるのは、たいてい、CTとか超音波のような画像検査によって見つかったがんだ。

小さくてまだ症状を呈していないがんが、どうやって見つかるか?

画像検査に、「膵臓の中に周りとは違うものが映り込んでいる」ことで発見される。

この「周りとは違うもの」というのがくせ者である。



がん細胞というのは、正常の細胞と違う挙動を示すのだが、実は、正常の細胞と「そこそこ似ている」。

温泉に入っていて、裸の男性が何人かいるとして、そこにヤクザが混じっているかどうかをどうやって判定する?

みんな人間だ。みんな男性である。体がでかくてチンチンが豪華ならヤクザだろうか? ラグビー選手がみんなヤクザに見られてしまうのもかわいそうだろう。

入れ墨を彫っていればわかる。けど、仮想通貨の詐欺に関わるようなインテリヤクザタイプだとまず気づかないだろう。

がん細胞と正常細胞の違いもこれに似たところがある。要はどちらも「上皮細胞」という細胞の仲間であるから、そこまで大きく性状は違わないのだ。

だったら、画像検査ではがんはどういう感じで見えてくるのか?



まず、「徒党を組んでいる」。

普通の臓器には、さまざまな細胞が混在して決まったパターンを形成している。町中にスマホショップやパティスリーや交番が入り交じっているように。

その中に、「駐屯地」を作るヤクザの集団がいたら目立つだろう。まずは「異様なカタマリ」を探す。



次に、「アジトの形成がある」。

がん細胞と正常の細胞はけっこう似通っているのだが、がんというのは自分たちだけで増えることはできないで、多くの場合周囲に「自分が生きていくための足場、アジト」を作る。このアジトが実はかなりごてごてと派手なので、画像ではがん細胞そのものよりもむしろ、「がん細胞のアジト=線維性間質」が見えてくることが多い。

ヤクザだけだと見極められなくてもハコをみればそうとわかる。



そして、「正常構造を破壊している」。

症状を来していないからといってあきらめない。まだ症状は出ていないかもしれないが、がん細胞というのは多かれ少なかれ周囲を破壊し始めている。だから、「何かのカタマリの周りがぶちこわれはじめている像」に気を配る。

臓器の輪郭が乱れていないか? 周囲が引きつれ始めていないか? 



こういうのをマクロレベルで探すのが、CTや超音波などの画像検査だ。画像でわかるくらいの変化があれば、医療者はまだ症状が出ていない段階であっても、「犯罪の痕跡」に気づくことができる。

けれど、これって、結局は、程度問題である。

破壊行為が派手ならば見つけることはできる。でも微細だったら?

引っ越してきたばかりのヤクザが手始めに近所のデニーズで店員に絡んだ、くらいの段階で、はたして街角の防犯カメラはヤクザを発見できるだろうか?



こういうときに、顕微鏡が役に立つ場合がある。

顕微鏡がみるのはミクロ、すなわちとても小さい範囲を拡大したものだ。がん細胞がわずかな悪さをしているところを見つけることもできる。



けどちょっと考えて欲しい。

あなたはヘリに乗って街を見下ろしている。どこかの建物の中で悪さをしているチンピラがいるとする。たとえばそれは3丁目5番地にあるデニーズの中かもしれない。ここで、「どの建物を拡大してみるか」によって、チンピラが発見できるかできないかが変わってしまうだろう。うっかり5丁目14番地のローソンの中を拡大したってチンピラは見つからないかもしれないではないか?

顕微鏡でみるというのもこれといっしょだ。「どこを採取してくるか」という、検体採取場所をきっちり考えておかないと、まるで見当違いの場所の細胞をじっくり見たって、いつまで経っても「がんの証拠」はみつからないのである。

現代の病理診断医というのはしばしば、CTや超音波などの画像所見に詳しくなり、「どこから細胞をとるべきか」というのを考えなければいけなくなる。昔に比べるとだいぶ仕事が増えている気がする。

まあ昔の病理医は昔の病理医で信じられないほど難しい仕事を難なくこなしていたんだけれども……。聞いた話だが、「ぼくは昔、グラマンが飛んでくるのを見つけて撃墜する仕事をしてたから、リンパ節の中のがん細胞1個をみつけるなんて造作も無いことだよ」といった病理医がいたとか、いなかったとか。

2018年3月29日木曜日

反芻の芻という字は成り立ち的に「w」「w」である

祖母が亡くなったときの話をずっと書いていた。

40分で20000字ほど書いた。そして先ほど消した。一度も保存しなかったので、それっきりとなった。

どうもまとめきれなかった。なんというか、書いていて、伝えられる自信が何一つ湧いてこなかった。

自分の中で「書いておこうかな」と思ったから書いたという「だけ」の文章だった。



「背負っているものを吐き出したら、なにかの作品になるかな」と、思っていた。

でもいざ書いてみるとだめだ。できばえは三流だった。

別に今まで、一流の文章を書いた記憶などないが、普段のブログの文章が二流だとすると、そこまでも達していなかったということである。





「背負っているものを文章にすると、さぞかし重厚なものが書けるだろう」という錯覚。

ときどき陥る。

「陥る」ということばが思わず指先から放たれた。うん、そうだな、脊髄が反射で選んだ語句ではあるけれども適切なセレクションである。

「背負ったものを書く」というのは陥穽だ。

書き手だけが深く文章に沈んでいく。掴んで離さない文章、などというが、掴むべき獲物は読者である。

自分の胸を掴みながら、自分だけが穴にはまりこんでしまってはいけない。

蟻地獄が自分の掘った穴に取り込まれて死んでしまうのに似ている。

ぼくの書いた文章は、そういうものだった。





自分の心の奥底からわき出てくるなにものかをあらわせば、それが芸術になる、とうそぶく人があちこちにいる。美術家。音楽家。小説家。

自分発の何者かに突き動かされて、それをただ筆にのせたり、コードにのせたり、キータッチしただけなのだ、と彼らはいう。

確かに彼らの主観はそうなのかもしれない。少なくとも対外的にはそういうことにしている、というケースもあるだろう。

自覚があるかないかは知らないが、彼らのクビから肩、腕のあたりには、ぼくが持っていないフィルターのようなものがある。

心から手の先に情念が辿り着くまでの間に、このフィルターを通過することで、情念が見る人に刺さりやすいかたちに整形される。

そんなフィルターを持っていないぼくが、彼らのマネをしてただ背負ったものを発しても、それは蟻地獄の自罰とかわらない。

技術なき情念は届かないのだ。




一度情念を吐き出したPCモニタを眺めて、再度飲み込む。反芻をする。

不格好な情念を幾度もかむ。

もとより噛みにくいしろものだ。何度も噛んでいるうちに味がなくなっていく。




ぼくは祖母の死に強い後悔がある。5年ほど経った今もなかなか色褪せず、また書くことができないでいる。味のしない肉を飲むときの、喉が抵抗する感触をずっと自覚している。

2018年3月28日水曜日

病理の話(184) 解剖必要論

「解剖は死因の究明を目的に行われる」。

たまにみかける説明文だ。

死因、とか、究明、という非日常的な熟語たちが緊張感を誘う。

このことばが最初に世間にやたらとつぶやかれるようになったのは「きらきらひかる」のときだったように思う。まあ当時はTwitterはなかったのだけれども。

今度はアンナチュラルだ。テレビの影響力ってのはすごいな。




解剖は、①司法解剖と、②病理解剖に分けられている。厳密にはもうひとつ、行政解剖というのがあるが、まあそこはおいておく。

 ①司法解剖は「事件」とか「事故」による死を扱い、

 ②病理解剖は「病気」による死を扱う。




事件や事故は、人体に外部から加わるもの、と考える(これを外因という)。

物理的な衝撃、激しい温度変化、吸引する空気の組成がかわること、そして毒物など。これらはいずれも外因、すなわち外から訪れて死を招く。


これに対して、病気というのは、人体の中に起こる異常であり、内因、と呼ぶことができる。

※厳密には、感染症のように、外から微生物が入り込むことで起こる病気もあるのだが、ま、そのへんを説明しはじめると長く複雑になるので、ここでは「病気は内因です。」ということだけお伝えしておく。




外因死なら①司法解剖。内因死なら②病理解剖。

外因か内因かわからない死の場合は……? そういう細かいところも、今日のところはおいておこう(いずれ語る機会もあろう)。




外因によって、ある人に死が訪れたとき、「まだ生きている人にとって」、いくつか気になることがある。

亡くなった人は、もう何も気にならない。いつだって気になり考えさせられるのは残されたほうの人だ。

解剖は「世界に残されて、これからも生きていかなければいけない、生きていきたい人々」のために行われる。



死の原因が何であろうが、残された人は、大きく分けて2つのことが気になる。

1.死んだ人のこと。

・亡くなった人には何が起こったのだろう、つらかったろうか、苦しかったろうか、案外苦しさは感じなかったのだろうか。まだ生きられたろうか、よくがんばったのだろうか。

2.まだ生きている人のこと。

・次に誰かがこの人と同じ状況に陥ったら、やっぱり死んでしまうだろうか。だったら、次の死をどうやって防ぐのがよいか。



これらは、墜落した飛行機の中から「ブラックボックス」を回収する作業に似ている(以前にもこのブログで書いたかもしれない)。

落ちてしまった飛行機は元には戻らないし、亡くなった人の命は取り返せない。

それでも、墜落の前に何が起こったのか、墜落は防げなかったのかを知らないと、「残された我々」は気になってしまう。繰り返そう、大きく分けて2つのこと。

1.死んだ人のこと。

2.まだ生きている人のこと。




解剖を手遅れの医療だと呼ぶ人がいる。こういうタイプの人は、朝5時台のニュースを読むアナウンサーのことを「昼には帰れるんだからいい仕事だよな」と呼んだり、火曜日に定休日を設けている美容室を「平日に酒が飲めていいよな」とやっかんだりする。放っておくほうがよい。

解剖とは過去だけでなく未来のために行う医療だ。




ところで、①法医解剖と、②病理解剖では、扱うものが「①外因」か「②内因」かの違いがあるので、解剖の仕方がかなり異なる。

ぼくは病理診断医なので、①法医解剖は、(資格的にはギリギリできなくはないが)やりかたがわからない。

ただ、「内因死だと思って病理解剖が依頼されたケースで、これは外因死ではないのかと気づいて、法医解剖にスイッチすることを提案する」技術だけは持っている。

めったにないことだが、法医学の講座とは仲良くやっていなければいけない。法医学の講座には友人がいる。彼らはアンナチュラルを見て何を思っているのだろう、ちょっと尋ねてみようかと思ったが、ま、元々語ることがうまいやつらである、いずれ本人達の口から何事か語られるだろうから、それを待つことにする。

2018年3月27日火曜日

したがきになる

出張して学術講演をした際に、うっかり間違ったことを言ってしまった。出席者のメールアドレスに次々とおわびのメールを出した。

ひとりひとりに少しずつ違う文面を送るため、内容のコアの部分をコピペしながら、少しずつ言い回しをかえていった。

そしたら最後の人にメールを送るころにはとても読みやすくなっていた。

最初にメールを送った相手への文面は、振り返ってみると、ちょっと読みづらかったな。申し訳ない。





学術、エッセイ、ブログ、そして日々の病理診断書、それぞれ使っている脳の領域はたぶんバラバラなはずであるが、「文章をつくるときの取り組み方」は似ている。

「しめ切り」が決まったら、ぼくはとにかく一刻もはやく原稿を作ってしまうことにしている。しめ切り直前まで迷ったとか、ぎりぎり最後の夜に書き上げた、などという記憶はない。

書き上がったものを、いったん寝かせて、脳に残っている「書いたときに持っていた強烈なイメージ」を消す。消えないにしても、薄める。「作者の気分」を忘れるまで待つ。そして時間が経ってから、自分が「読者の立ち位置」になるのを待って、文章を読み直し修正を加える。

あちこちに、ほころびがいっぱい見えてくる。たいてい、「作者はすべてを書かなくてもすべてを知っているが、読者は書いていないことは知りようがないので、読んでいて情景がいまいち浮かんでこない」ことが多い。

しめ切りが近くなるにつれて、すなわち、作者としての観点が弱まり、読者としての観点に近づくにつれて、文章が少しずつマシになっていく。






ブログ記事ならともかく病理診断書の文章を同じやり方で書いてるってことはないだろう。そう思われる方もいらっしゃるかもしれない。

でも、やってることは同じだと思う。

プレパラートを見たら、まずハイスピードで仮入力をしてしまう。全ての標本にいったん目を通し、書けるところをどんどん埋めておく。それから、心ゆくまでじっくりと時間の許す限り、細かく難しい顕微鏡所見を追い求めたり、文章を読みやすく書き換えたりする。




ぼくの「文章の作り方」は、まちがいなくPC入力文化がもたらしたものだ。同じことを手書きでやれる自信が全く無い。ぼくの性格も仕事の適性も今の立ち位置も、すべてPCが現代にあるから成り立っているものである。

PCがなかったら、どういう書き方をしてどうやって生きていたのだろうなあ。

そういえば、芥川賞作家の西村賢太氏の日記を読んで、紙にペンで原稿を作る人であっても「下書き」をする場合があると知った。よく考えれば当然のことだ、昔の文豪だって下書きをきちんとした人はきっといただろう。でも、ぼくは正直おどろいたのだ。文章を何度も何度も書き直すなんて、恋文じゃあるまいし、職業作家が毎回「書き直し」をやっていたら時間がどれだけ経っても足りないではないか、とすら思った。

それこそ、中には、脳内の情景を言葉にするのがうますぎるため、下書きなどは不要、一度書いたらそれが完成原稿です、という人もいるのかもしれないけれど……。



デバイスが進歩して、ひとつひとつの作業のスピードがはやくなると、試行錯誤できる回数が段違いに増え、手間もおどろくほど少なくなる。

あくまでぼくの場合だけれども、とにかくまず全景をみてみないと、細部にこだわることもできないし、全体のバランスを整えることもできない。できるだけ下書きを早めに作ることこそが大切だ。




各方面にお詫びメールを出し終わってふと思った。「その場で質問されて、口頭で答える」という作業には、下書き的なプロセスが存在しない。口から出た言葉を「書き直す」ことはできない。相手と会話をしながらボケたりつっこんだりしておもしろさを探っていく「しゃべくり」ならば、いちど発した言葉に多少のあやまりがあっても瞬発力とウィットでなんとかやっていけるだろう。でも、学術講演会における質疑応答のように、短時間で論理をわかりやすく正確に相手に伝えなければいけない場所……下書きなしの一発勝負でぼくがどれだけ脳内の情景を言葉にして相手に伝えられるかが問われる場所は、「まず下書きをさっさと仕上げるタイプ」のぼくにとっては鬼門なのだ。

あの芸能人もあの実業家もあの国会議員もみんな「早く正確に正しいことを言え」とせっつかれていたっけなあ、とあわれみの感情すらわいてくる。主戦場が書き文字の場を選んだ過去のぼくは卓見だったのだ。

2018年3月26日月曜日

病理の話(183) ベルトコンベアー的システムを読む

生きていくためには、「昨日と同じ自分で居続ける」ことが必要である。

いや、ま、成長とかね、勉強とかね、そういう意味では、「昨日と同じ自分」でいてはだめなんだろうけれども、そういうことじゃなくて。

脳が脳として。心臓が心臓として。

胃は胃として。肝臓は肝臓として。

昨日と変わらずクルクル働いてくれないと。

精神の成長もへったくれもないであろう。

だから、生命がもっている「自分を維持しようとする働き」というのはとても大切だ。

少し専門用語を使うと、「恒常性を維持する」ということ。恒常性の恒は、恒星の恒。「つねにありつづける」みたいな意味だ。



恒常性(ホメオスタシス)の維持のために、人体はさまざまなシステムを用意している。

定期的に栄養とか酸素を摂取するのは、細胞を常にみずみずしく保ったり、細胞が活動するためのエネルギーを補給したり、細胞が新陳代謝するための材料を補給したりするために必要だ。

ばい菌とかウイルスのような、「敵」が体内に入ってきたときに戦ってくれる、「免疫」。これだって、昨日まではいなかった敵を今日も明日も追い出し続けようとするはたらきである。

これらについては当ブログで何度か触れてきた。今後も書くだろう。

そして、今日はちょっとだけマイナーな視点から話をしたい。




まずは例え話だ。

あなたの家の中をきれいに保つために必要なものは何か? と考えてほしい。

たとえば食材とか、生活必需品はきちんと届くと仮定する。

けれども、届いた必需品が玄関に置きっ放しではいけないだろう。これらを、「あなたが使う場所に運ぶ」という作業が必要だ。

また、暮らしていればゴミが出る。ほこりも出る。きれいにおそうじして、ゴミ袋にまとめる。この「ゴミをどこかに捨ててくる」のも、あなたの仕事である。

必要な物資が「ある」だけではだめ。

ゴミを「まとめる」だけではだめ。

食材は、放っておいても冷蔵庫には入らない。ゴミは、放っておいても勝手に誰かが捨ててくれたりしない。

家に住む人々が、自分で、食材を運んだり、ゴミをゴミ捨て場まで持っていかなければいけない。




例え話はここまでにして、話を人体に戻す。

体内では、食べ物やゴミを、どうやって運ぶのか?



食道から胃、十二指腸、小腸、大腸と続いていく管の中を食べ物が通り過ぎ、さまざまに消化・吸収されたのちに、便というコンパクトなゴミが完成する。

この食べ物やゴミを運搬するのは、「ぜんどう(蠕動)」という、消化管自体のうごきだ。消化管の壁には平滑筋という、われわれの意志とは関係なく動く筋肉が完備されていて、これが管を波立たせ、口側から肛門側へと一方通行の流れを作り出す。

よく考えると極めて高度なしくみだ。歯磨き粉のチューブを思い浮かべて欲しい。あなたは「平滑筋」になった気分で、チューブをぐいぐい押して中身を外に出そう。ただし、チューブの入口は一箇所ではない。チューブの両端に出口があると思って欲しい。さあ、うまく押して、「片側からだけ」歯磨き粉を出してみて欲しい。

これ、意外と難しいだろうと思う。食べ物や便を逆流させてはいけないというのは誰でもわかるだろう。求める機能は実にシンプルだ。しかし、それを「筋肉のしぼりだけで実現」するというのはいかにも高度ではないか。



実はこの「筋肉によってしぼりあげることで運搬するシステム」は、消化管だけではなく、いろいろなところに備わっている。たとえば、唾液腺の「導管」の周囲には筋上皮細胞という「しぼり」がある。乳腺の「乳管」の周囲にも、膵臓の「膵管」の周囲にも、腎臓から膀胱への道である「尿管」の周囲にも、みな、一方通行で物資を運ぶための「しぼり上げシステム」が存在する。



ずいぶんとマニアックな話をしているなあ、と思ったかな?

ではここで問題である。

「乳管」に似た形をしているけれども、周囲に「しぼり」を担当する筋肉がない状態……というのがありえる。

これは、いったい、なにか?

病理医が、そういう、「しぼり」のない管を見つけたら、なんと言うだろう。



「……乳がんだ……。」



しぼりがなければその管は正常に働けないのだ。正常に働けないくせに、正常の構造のふりをしてそこらじゅうに散らばっているもの。これはすなわち「がん」の可能性がある。

人体を支える機能はとても複雑で、それぞれに意味がある。その機能を「省略」しているものが平気でのさばっているとしたら、それは生体の秩序を乱す「がん細胞」かもしれない。ぼくらはときどき、そういう目で、顕微鏡を見ている。

2018年3月23日金曜日

脳だけが旅をする

LOSTAGEを聴きながら診断していたら日が暮れていた。ふとわれにかえったタイミングで、心の向こう側から自分の声がした。

(……そうだなあ、「自己責任」とか「自業自得」みたいなことばは、誰も救わないなあ。)

何時間か前に読んだブログの感想が、いまごろ頭に浮かんだのである。

へんな気分だ。タイムスリップをした気になった。

仕事をしている間、脳のほかの機能が停止していたのだろうか?

アイドリングしていた心の声が、よーいどんで飛び出してきたのだろうか?

このタイミングでこんなことを唐突に考えつくなんて、心の声というのは実に、不思議で、不如意だ。

ぼくはしばし、仕事の手を止めて、読んだブログに再度アクセスし、内容をもう一度読みながら、いくつか考え事をした。




心の声は、常日頃、どこにどうやって駐屯しているのだろう。

自分が意図しているいないに関わらず、ときどきぽっとやってきて、ぼくの思考を奪う。そんな思考の遊軍みたいな存在を、今日の記事では「心の声」と呼ぶことにする。



心の声は、脳にとって何か役に立つのだろうか?

立つだろうな。

「何かが降りてくる」とか、「ひらめく」とか、そういった現象は誰もがあこがれるものだと思う。自分の意志とはあまり関係なく、ふとした瞬間に突然聞こえてくる心の声。ときに硬直化した思考を拡張し、よりよく生き延びる可能性を上げてくれるだろう。

……まあ、心の声がいつもいつも役に立つわけではない。むしろ、取るに足らないナゾの思いつきに過ぎないことのほうが多いように思う。それもまた、いいんだろうな、たぶん。




無意識に、「自分の意志とはあまり関係なく」と書いていた。

そう、心の声は、「意志」とはちょっと違うように思う。

一般に、自分の意志で決めたことです、という場合、そこには「能動性」が含まれている。

けれど、心の声は、自分でも制御できないタイミングで、自分でも思いも寄らないような内容を、脳内に直接ぶちこんでくるようなイメージであり、能動とはちょっと違う。

そうだった、「中動態の世界」という名著をまた読み返してみよう。人間は、実は思ったよりも能動的には生きていないのだ、ということ。あの本を読んだぼくは何度も膝を打ったものだ。





PCをどんどんパワーアップさせ、ハードディスクの記憶容量をどんどん大きくすれば、あっという間に「人の脳が記憶できる容量」を超えることができる。

おまけに、「意志のようなもの」も、すでに現状のAI(人工知能)は搭載しているように思う。目標に向かって能動的に解析を進めていくことは、人間でなくてもできる。

もはや、脳の「記憶」と「能動的な作業」については、人間は機械に勝てない。

その一方で、「心の声」は、今のところ人工物には備わっていないと思う。

ときに突拍子もないことを、ときに脈絡もないことを思いつき、大事なデータをいくつかつまんで、もてあそびながらふわふわと考え、なんか別にどうでもよかったな、と思ってまた記憶にしまいこむような行動。

無駄が多く、きわめて人間くさい。ぼくはこの「心の声」こそが、「意識」というふしぎな現象の中核を担っているものなのではないかと思う。




散発的に放たれる心の声を少しずつ拾ってブログを書こうとする。2回に1回は、書いている内容がうまくおさまらない。まとめられずに発散したり、妙に収束してしまったりする。この作業を毎日のように繰り返して、自分が意志ある人間として何か為しているような気分になることもある。

けれど、今日の記事を書いてみてわかった。ぼくのブログは、必ずしもぼくの能動的な意志で書かれたものではない。たまたま縁あって、書ける状態が続いているぼくが、心の声にときどきせかされて、中動態的に「書かさってしまったもの(北海道弁)」を集めて置いてあるだけだ。




なるほどなあ。

きみはそんなことを考えていたのか。

心の声から連想した文章が、手首より先のあたりでかたかたとキータッチをしていくのを、ぼくの目が眺めて感心をしている。

2018年3月22日木曜日

病理の話(182) コントロールがないとカリン様もなやむ

たまに顕微鏡をみるときの話もしよう。

……今の1行目を読んだだけで、今200人くらいがブラウザを閉じた。

カリン様「なんと わかるのか! それが……」

悟空「オラ、(閉じた人々を)退治に行ってくる!」




突然のカリン様と悟空はほっといて話を先に進める。

病理診断のうち、組織診(そしきしん)と呼ばれる領域では、ぼくら病理医が顕微鏡で細胞をみて、診断を行う。病気かそうでないか、病気だとしたらどれくらい悪いものなのか、どれくらい進行しているのかなどを、見た目で判断する。

見た目ってつまり、主観だよな?

病理医の主観、すなわち胸先三寸で細胞の良悪を決めて、患者の人生を予測したり、治療を決定したりしてよいものなのか?

病理医が悪だと言ったら悪……。それって、危険ではないか?




……なんてことを、当の病理医も考えている。病理医だけではなく、一般に「形態診断」と呼ばれる、臓器や病変のかたちを見て診断している人たちはみんな同じ悩みを抱えている。「主観をできるだけ排除して、客観的な判定をするには、どうしたらいいだろう」。




例をあげよう。

「細胞の核がでかくなっていると、その細胞は悪性であることが多い」。これは事実だ。

では、具体的に、細胞の「核がでかい」というのを、どう判断するのか?

顕微鏡をみた病理医が、「あっなんか今日は大きく見えるぞ」と言ったら悪性なのか?




ここで登場するのが「コントロール」という概念だ。

ぼくらが普段もちいているコントロールという言葉は、主に操作するという文脈で用いられると思うが、今回は違う意味で使っている。日本語にすると……「比較する対象」だ。「比較する基準」でもいい。

細胞核の大きさは、観察視野の中にたいてい含まれている「リンパ球」とか、周囲に存在する「間違いなく正常の細胞」と比べることで評価すればよい。

「リンパ球をコントロール(比較対象)にすると、この細胞の核は……直径が、リンパ球の核の3倍くらいあるなあ。だいぶ核腫大が起こっているということだな。」

「正常の腎臓尿細管上皮細胞をコントロール(基準)とすれば、このがん細胞の核は……直径が、正常細胞の2倍くらいあるから、だいぶ増殖活性が高いのだな。」

コントロールをきちんと置いて、比較することで、誰がみても「ああ、そうだな、大きいな」と判断できるようになる。




ぼくらは顕微鏡をみて様々な主観を発動している。その主観を主観で終わらせず、「誰がみてもその通りだと納得してもらえるように、客観的に記載する」作業こそが病理診断の根本にある。コントロールなんてのはその好例だ。

でも、もっというと、コントロールを置くことが大事だけど、それ以上に、「きちんと客観性を保って診断しました」と、声に出して相手に届けることがもっと重要なのである。

「核がでかい……と書きたいけれど、これは主観だなあ。よし、核が正常細胞の2~4倍くらいに大きくなっている、と書こう。これならみんなわかるだろう。」

「免疫染色でHER2陽性……と書きたいけれど、もっと客観的に書こう。ええと、観察範囲のほぼすべてにおいて、がん細胞の細胞膜、とくに管腔面に沿って染色性がみられるから、HER2は3+(陽性)と判定します、と書こう。」

「大腸粘膜に中等度の炎症……と書きたいけれど、軽度とか中等度とか高度をどうやって判定しているかも書いておこうかな。粘膜固有層の表層から深層までムラなくびまん性にリンパ球や形質細胞が浸潤しており、複数箇所で陰窩の上皮内にも好中球浸潤がみられるが、表層上皮の剥離までは呈していないから、中等度の炎症です。これでまあわかってくれるんじゃないかな。」

主観で決めてるんじゃないんだ、と宣言する上でもっとも重要なのは、「自分がこう診断した理由を客観的に記載できる文章力」かなあと思う。




……実際には、毎回診断のたびに客観性を示す文章を長々と書くと、冗長になる。読む方もうんざりする。だから、ある程度省略することになる。ただし、省略するのが許されるのは「臨床医に信頼されている病理診断」だけだ。

臨床医が、

「あいつは普段は文章あまり書かない病理医だけどさあ、いざってときにはきちんと文章で説明してくれるからさあ、きちんと客観的に見てると思うんだよな。だから今回はこの診断書の『がんです。以上』を、信じるよ。特に説明が書いてなくてもな。」

と信じてくれているときのみ、ぼくらは「短い診断書」を書くことを許される。

2018年3月20日火曜日

よだれでちゃうぜ

教科書を通読していた。「唾液腺腫瘍の組織診・細胞診」という新刊である。ぼくは別に唾液腺腫瘍の専門家でもなんでもないのだが、ふと読んだ前書きに心を奪われて、15000円という大金を支払って手に入れた。

ぼくがぐっときた前書きをまるごと引用してもいいが、それはまあちょっと下品かなあと思うので、要約させてもらうことにする。

前書きにはこんなことが書いてあった。



「唾液腺の領域において、いくつか教科書が出版されている。

多くの病気がきちんと記載されていてたいしたものだ。

けれども、唾液腺は病気の数がすごく多いので、誌面の都合でひとつひとつの病気に十分なページを割けていないことが多い。

また、唾液腺の病気は数が多く、ひとつひとつがまれであるため、ひとりの病理医が一生かけてもすべての病気を経験することはまず無理である

そのため、教科書には多くの執筆者が招集されて、それぞれまれな症例をもちよって、自分の経験した病気だけを執筆するようになる。

すると、書く病理医ごとに、語彙とか言葉の使い方とか論述の仕方が微妙に異なっているので、教科書を通じて書き方が一定しなくなる。

まあ、各項目を必要に応じて辞典のようにひくぶんにはそれでいいのかもしれないけれど。

『通読』しようと思うと骨がおれるではないか。書式が一定しないのだから。

そこで私は、通読に耐える教科書をつくるため、ほとんどぜんぶ自分で書いてみた。」(※あくまで意訳です)



ぼくは思わず小さく声を出して笑った。くくく。

「教科書が通読できないのが不満」だなんて。

いいなあ!




今の時代、新聞を隅から隅まで読む人は少数派となった。そもそも新聞なんかとってない人のほうが多いし。

早く読めればそれが価値。

ピンポイントで自分の知りたい情報にたどり着けることが至高。

個別のニーズに応じたオーダーメードな索引。

そんな本ばかりが出ている世の中に、

「書式を個人の責任のもとに揃えて、ページ制限をとっぱらって、量と質を担保しておいた! さあ、安心して通読しなさい!」

なんて教科書を出すなんて。

きもちいい。広辞苑を通読するタイプの人だな。



ぼくは唾液腺病理の専門家ではない。だけど、こういう「学術的一本気」をみてしまうと、ああ、ちょっと勉強してみようかなあという気になった。

会ったこともない熱血師匠の薫陶を受けてみようという気になった。





通読するまであと少し。実にマニアックで情感に満ちあふれ、かつ言葉の定義や理論の細かい整合性にきちんとこだわっている良書だなあと思いながら楽しい時間を過ごしている。Pleomorphic adenomaのhistologyだけで38枚もの写真が載っている教科書! なんてすごいんだ。

2018年3月19日月曜日

病理の話(181) 雲とかミョウバンの結晶も増えることは増えるわけで

生命というのは「静的な存在」ではなく「動的な状態」である。

石がただそこに落ちている、山がただそこにそびえ立っている、死んだ獣の骨が落ちている。これらをぼくらは生命とは呼ばない。

生命は、常に外部から栄養を取り込み、内部で循環させ、細胞を生まれ変わらせ、いらないものを捨てて、ぐるぐる新陳代謝を繰り返す存在だ。

石は栄養摂取をしない。だから生命ではない。



けれど山はどうだろう。

山には草木の種が舞い降りて、芽を出し根を張り山の一部となる。

ときには火山が爆発して、山の上にあらたな灰が降りそそぐこともあるだろうし。

川が土砂を運んで山の形を変えていくことだってある。

山という存在は実は「広義の新陳代謝」をしている。じゃあ山は生命だろうか?




人間と山とを、生命か非生命かと区別する基準は何かと考える。それは、たとえば「境界線の有無」である。

人間というのは「ここからここまでがぼくです、ぼくは自分の心臓と自分の肺を使って、自分に所属する細胞にくまなく酸素や栄養を与えて生まれ変わらせ続けます」という存在である。

生命のアイデンティティには境界がある。

山は、そうではない。

富士山の裾野がどこまで伸びているかと定義することはできないだろう。日本列島ぜんぶ富士山の一部であると、いえないこともないからだ。境界線がはっきりしない。草木の萌芽や土砂の堆積は、ひとつの山に限定して起こることではなく、シームレスに周囲にも降りそそいでいる。



さらに、「自分で複製をするかどうか」という項目も、よく生命の定義として用いられる。

生命は次世代を用意する。単細胞生物の細胞分裂、多細胞生物の有性生殖、やり方はさまざまであるが、子孫を残すための仕組みが備わっており、行使することができる(実際にするかどうかはともかく)。

山は自分を複製しない。




でもこういうことを考えるとけっこう難しい問題にぶちあたる。

「地球」は生命だろうか?

境界があり、複雑な新陳代謝を繰り返して常に地球であり続けようとする存在は、きわめて生命に類似している。

しかし、「複製」はしないだろう。

ある日突然太平洋のどまんなかに亀裂が入り、真ん中からグアッと分かれて地球分裂をしたらすごいことになるだろうなあ。

だから地球は生命とは呼べないね。ぼくは長らくこの答えで満足していた。




でもふと思った。

遠い将来に、人類が「第二の地球」を求めて宇宙に船出して、見つけた星にあらたな文明を築いたとしたら。

それは地球が人間という名の精子を飛ばして、地球型惑星という卵子と受精をはかる行為……惑星レベルの有性生殖と言えないだろうか?




まあそういうSFはとっくに描かれているんだろうな。読んだことがあるという方は教えてください。

2018年3月16日金曜日

脳のアゴ

「クリエイティブな人の書いたもの」を、積極的に読んでみようと思った。

そしたら、集まったものは、「書くことやしゃべることが得意な人の書いた、クリエイション論」だった。

前者と後者は微妙に違う。




「クリエイトすることを本業としており、なおかつ情報発信も得意な人」のいうことはとてもおもしろい。

一方で、

「クリエイトする人の側にいて、情報発信を担当する人」のいうことも、とてもおもしろい。

両方ともおもしろくてサクサクと読んでしまうので、両者の違いに気づかないまま、読み進めてしまう。




気がついたらぼくは「情報発信が得意な人の書くクリエイション論」ばかりを読んでいたように思う。

それが悪いわけではなかろう。

けれども、近頃、「クリエイター本人がボクトツに書いた本」を狙って読みたいと思うようになった。

いや、ライターが正しいインタビューを行ってクリエイションの姿をわかりやすく伝えた記事が嫌いだというわけじゃない。

そういう意味じゃない。

むしろ好きだ。

けれどもぼくは、無意識に毎日ネットでライターの書いたものを読んでおり、そこはもう「足りている」と感じる。



ある世界に光を当てると、輪郭、色調、あるいはそこに住む人の表情がくっきりと目に残るだろう。

けれども、強調や省略をされていない陰や影をみようと思ったら、誰かにストロボを焚いてもらってばかりではだめだと思う。

息をひそめて暗がりを覗き込み、次第に目を暗順応させて、呼吸するように眺めないと、陰影はみえてこないのではないか。




たとえば今読んでいる本は、表紙にまったく集客能力がない。インスタ映えしない。目を引くフレーズがない。最初の数行を読んだだけで「あっ、この先もぜひ読もう」と思わせるような誘因力がない。分厚い。写真が少ない。フォントがやさしくない。

ネットライターがこんな本を出したら、たぶんその後仕事はこないだろう。

商業的にバズる要素が皆無と思えるこの本。

著者は、どこで巡り会ったかはしらないが営利企業に勤める編集者に出会い、この内容を後世に残すべきだと説得されたのだろうか。あるいは、今自分が取り組んでいる内容を形に残したいと強く欲したのは著者自身だったかもしれない。

いずれにしてもそこには、誰かの「出版して誰かに読ませたい」という欲があったはずだ。

その欲が、どこから来るのかを探りながら読み進める。

表現がわかりづらい文章だな、と思ったら、その奥には「著者にだけ見えていて、まだうまく言語化できていないような風景があるのだな」と理解する。

冗長だな、と思ったら、「サムネイルではなく全体像を丁寧に拾わないと見えてこないものがあると考えているのだな」と斟酌する。

卑近な例えや美しい表現が出てこないならば、「内容の骨子だけで興奮できるだけの何かを著者は感じているのだ」と腕を組む。





現代のぼくらは、ネットライターがわかりやすく見やすく楽しく揃えてくれるビュッフェを日替わりでプレートに盛り、脳に養分を入れていく。

この効率、効能、捨てがたい。もはや昔には戻れない。食べ放題である。まず満腹になるまで食べることはないが。

いまさらモンハン的こんがり肉にかぶりつくような情報収集はできない。だいいち年を取れば咀嚼だって弱くなっている。

……と、書いてはみたものの。

ぼくは今、人間の脳の……「脳のアゴの力」を、過小評価している気がしている。

小中高大社会人、人間がずーっと勉強を続けていくのはなぜだろう?

ぼくは「脳のアゴ」をもう少し信じてやってもいいのではないか?







なお最後にちょっとしたどんでん返しを書いておくが、ぼくにとって、ネットライターの仕事はクリエイティブそのものである。

「彼らが専門家に変わって何かを伝えた記事」があったとき、ぼくはその記事の内容そのものよりも、「この内容をどのようにわかりやすく加工したか」というライターの技術やセンスのほうに興味がある。

実際、ビュッフェばかり食っているとありがたみはなくなっていく。それは正直そうだ。けれども、ビュッフェを維持するシェフたちがスゴ腕であること、そこに料理とかサービスの本質が見え隠れしていることの方に、ビュッフェの味よりもむしろ大きな興味をかきたてられている。

2018年3月15日木曜日

病理の話(180) 生命都市論

生命を都市に例えはじめると、ほんとうに、スミのスミまで例えきることができるので、ああこれはもうすなわち、都市とは生命なのだなあと思う。

ぼくは都市を題材としたSF小説とか詩とかが好きだ。たぶんその理由は都市というものが生命と同じくらい「見通せない」ものだからだ。

都市を拡大しよう。そこには多くの人がさまざまな仕事をしながら暮らしている。売るもの、買うものは刻一刻と入れ替わる。建てる、保つ、壊してまた建てる。流通、物流、倉庫もあれば配達人もいる。3丁目の角から2軒目のドラッグストアに入ってみたらそこにはお腹の大きくなったバイトさんがレジ業務にいそしんでいたりする。

これらひとつひとつの「要素」を細かく検証していくことはできるのだが、ミクロの要素を積み重ねても決してマクロのダイナミズムは見えてこない。都市に住む人々の暮らしをとことん解析したところで、都市全体がよくなっているのか悪くなっているのかを判断することはできない。「都市とは決して見通せないものだ」というのはそういう意味であり、ぼくはこの話はそのまま生命にも当てはまると思っている。

あなたは市長だ。都市が抱えている問題を解決しなければならない。まず、都市の犯罪を減らそう。どうすればよいか? 警察官をひとり増やしたくらいで犯罪の総数はおそらく減らない。もちろん、増やした警官はまたひとりの人間であるから、そこには新たな暮らしが生まれ、生産と消費と、遊興と義務とがわき出してくる。警官をひとり増員することでどこかに何かは起こる、良くも悪くもだ、しかしそれが都市全体をくまなく解決することには、おそらく、めったに、ならない。

だったら警察署をひとつ建てればどうか。うん、管轄地域の再構築が起こって、犯罪抑止が期待できる地区がいくつか生まれるだろう。しかし一方で、都市の暗部の密度は今よりも濃くなるかもしれない。

警察署を複数建てても問題は解決しきらないだろう。

そもそも住人をすべて警察官にしてしまえばどうか?

それはそれで都市の機能が破綻する。

それに、たとえば、生身の人間による犯罪を多少減らせたとしても、今度はネット犯罪が横行するかもしれない。

視点を変えよう。たとえば、道をきれいに掃除して花を植える。一見、犯罪抑止に関係のなさそうな、美観を保ち清潔を維持することが、めぐりめぐって周囲に暮らす人々の目を肥えさせ、微笑みを用いた相互監視の関係が成り立って、あるいは犯罪も減る……こともあるだろう。まあ、こんなことで防げない犯罪もあるだろうが、かかるコストと得られるメリットを考えると、花を植えたり人を笑顔にしたりすることはやっておいてもよいかもしれないな。




おわかりだろうが、ぼくは今、都市と犯罪の例えをもちいて、免疫と疾病の関係を語っている。

サプリメントを1個飲んだだけで、すべての病気を劇的に予防できるなんてことはありえない。薬というのはあくまで「問題が明確な部分にピンポイントでぶつける特殊部隊」である。それが悪いというわけではない。使い処が肝心だということだ。

世の中には無数の犯罪者がいる。ぼくらが抑止したいのは単一の犯罪ではない。だったら、どうするのがよいか?



まず防げる犯罪は防ごうじゃないか。特定の犯罪にピンポイントで効果があり、コストもさほどかからず期待値の大きい政策は導入する価値がある。ひとまず、犯罪との関連が高そうな麻薬とか重火器の類いは法律で規制しておいて損はない。「爆弾がなくても包丁で人は殺せるだろう」って? それはそうだけど、爆弾を規制すること自体は少なくとも一部の重犯罪の抑止に一定の効果があるだろう。麻疹ワクチンや、HPVワクチンというのはこれにあたる。

その上で、ワクチンのような「特殊部隊」だけに頼るのではなく、都市全体を明るく健全に回す努力が必要だ。都市という「複雑系」の中によどみが生じないようにする。流通や情報交換が常に勢いよく動いていること。停滞は犯罪の温床だ。

多くの医療者が「医学的に正しい健康法だ」と言っているのは、運動をすること、いろいろなものを食べること、さまざまな刺激に触れること、常に微笑みをもって自分の体を眺めていること。これらは特殊部隊ほどの派手さがなく、ライフハックとしても地味で、なんだかダマされたような気分になってしまうのだが……。すべては生命活動を「停滞させない」ための、地道で効果的なやりかたなのである。

ぼくら生命を運用する側の人間は、生命という都市を司る法を知り、その都市に愛着とアイディアをもって常にゆるやかに介入する「市長」でなければならない。




そうだぼくはシムシティがとても好きだった。たぶんこのブログにも同じことを2度ほど書いている。ただし毎回違う表現を混ぜて、情報が新陳代謝するのを留めないように気をつけているはずだ。動き続けることこそが都市の要であり生命の要でもあるからだ。

2018年3月14日水曜日

遠そうだが通そう

しちめんどうくさいことを書いていたのだが消すことにした。

具体的には、ええと、「敵を設定して毎日を暮らすのやめたほうがいいよ。それ、エネルギー効率悪いし。気持ちよくなっちゃうのはよくわかるけど」という内容を、とても遠回しに書いていた。

しかし書き終わってから読み直してみると、

”「この記事にピンとくる相手」を揶揄して攻撃する記事”

になっていた。「いちいち敵を設定するのやめなよ」という武器を振り回して、「敵」を殴っている。

うーん、これでは遠回しな切腹だ、と思った。

ままならないなあ。





「闘争と逃走」という有名なことばがある。生理学を学ぶときに、「人間の体の中には敵と戦うとき(闘争)、あるいは敵から逃げるとき(逃走)に発動するスイッチがある」という文脈で用いられる。おきまりのフレーズだ。

ぼくらの体は、ときおり、交感神経系が活性化し、いわゆるアクセル系のホルモンがばんばん出た状態になる。俗に「アドレナリン出るわwww」などというだろう。あれだ。ただし実際に出るのはアドレナリンだけではない。副腎皮質ホルモンも髄質ホルモンも、甲状腺ホルモンも、下垂体ホルモンも、膵臓とか消化管などありとあらゆる臓器から出るホルモンが、闘争と逃走に備えて足並みを揃え、体を臨戦態勢にもっていく。

臨戦態勢。

心臓が早鐘のように打ち、汗をかき、筋肉はより力強く、五感はより研ぎ澄まされた状態になる。

逆に栄養の消化とか排泄のような「今やんなくてもよくね?」みたいな機能はすごくおとなしくなる。



で、この状態が、どうも、「きもちいい」らしいんだな。ある種の快感を連れてくるように思う。



ホルモンや神経ごときに「うまくのせられて、きもちよがっている」自分をちょっぴり情けなく思うこともあるが、これすなわち本能であり、なかなかあらがえない。



さて、自分の今の行動が、闘争と逃走のいずれかの文脈を帯びている場合。

いかなる大義名分があって行動していようとも、実は「自分がきもちよくなるため」という隠れたモチベーションがありはしないだろうか、ということを考える。

まあ自分がきもちよくなることを目指して行動すること自体は悪くもなんともないんだけれども。

ちょっと、そういう自覚をしてもいいかなあ、と思ったりする。




大義名分というのはたいていの場合、小さくちょっと恥ずかしい動機を覆い隠すために掲げられる。少なくともぼくは、日頃の自らの行動原理が、それほどかっこよくしびれる理論で構築されているとは思えない。矮小な、卑近な、あるいは快感に根っこを生やした、ちょっとアレなモチベーションで動いているのだろうな、と思っている。それ以上でも以下でもない話ではあるが、うーん、ま、自戒してあまり偉そうなことをいわないようにやっていきたい。

本能に逆らうことはできない。苦しくも厳しい目標であることは承知の上だ。

2018年3月13日火曜日

病理の話(179) 治療をする目的と手術の前後で考えること

手術を受けたことがある人はご存じだろうが、手術の前にやる検査というのはほんとうに量が多い。

たとえば「胆嚢とか胃とかを小さく切るだけの手術」であっても、文字通り検査漬けになる。検査だけで数日かかってしまう。

何をそんなに調べているのか?



ある臓器に病気があるとして、その病気を詳しく解析することはとても重要だ。病気がどれくらい広がっているかによって、手術のやりかたも変えなければいえないだろうから。

けれど、検査というのは、病気だけをじっくり調べているわけではない。

手術の前には必ず心臓を調べる。

呼吸機能、すなわち肺の働きも絶対に調べておく。

血液検査によって肝臓や腎臓の能力だって詳しく調べる。

胆嚢を切り取るために心臓や肺まで調べなければいけない。そりゃあ検査も増えようというものだ。





ぼくらは手術を「わるいところを切り取るもの」だとイメージする。しかし、実際の手術において医療者が考えていることはもうちょっとだけ複雑だ。

「わるいところを切り取り、わるくないところに今まで通りにきちんと稼働してもらう」ことこそが手術の目的である。



手術の目的はたしかに病気を取り除くことなのだ。しかし冷静に考えて欲しい、取った臓器とか病気よりも、「取らなかった部分」のほうが患者のこれからにとっては重要である。だって、取らなかった部分とはこれからも協力して命を続けていかなければならないのだから。

手術によって病気を取るのはいいが、そのときに病気以外の「きちんと動いている臓器」に不具合が出てしまっては意味がないのである。だから、検査のときには病気そのものだけではなく、病気になっていない部分の検査もかなり詳しくやっておかないといけない。




今回の話は「術前検査」についての話だったのだが、話題をもう少し広げてもいいかもしれない。



医療をめぐるいろいろなことを考えるとき、「病気をみつけること」や「病気を消し去ること」が大目標だと考えてしまうと、いろいろと間違うことになる。

最も重要な目標は、「患者が今までと同じように平和に暮らしていくこと」、あるいは「今までと同じとまでは言わないができるだけ平和に暮らしていくこと」にある。

病気を取り除くためには、取り除いたあとの体がどうなるかをきちんと予測する必要がある。病気を取り除いたはいいが、へとへとになり臓器も一部うまく動かなくなってしまい、生活のクオリティが下がった、はよろしくない。

そもそも病気を取り除いたほうがいいのかも考える必要がある。

もっといえば、その病気を見つけた方がいいのかも考えておかないといけない。



現在、とくに日本で行われている検査は、とりあえず今の段階で「やったほうがいいと思うよ」と多くの人が認めていることが多い。

しかしその一方で、「その検査はやりすぎなのでは?」「その早期発見は患者にメリットがないのでは?」「その治療は医療者にとっては意味があるが患者にとっては意味がないのでは?」という問題もまだまだ多く残っている。

2018年3月12日月曜日

ヤンスタ

いろいろ考えたのだがTwitterをやめるのではなくInstagramをはじめることにした。

何をいっているのかわからないかもしれないが、ぼくにはわかる。

「まじめで怒られないほうへシフトしようとしている」?

それもある。けれどもっと大きな理由がある。




先日「美しい電子顕微鏡写真と構造図で見る ウイルス図鑑 101」という本を読んで、ぼくはアアッと力なくエクトプラズムを吐いた。片方に美麗な絵。もう片方にオタクの字。図鑑というのは最高だった。ぼくは知っていたはずなのにしばらく忘れていた。

教科書ばかり読む毎日に、ときおりマンガや小説をまぎれこませていたけれど、ぼくはもともと図鑑や博物館が大好きだったのだ。

なぜ、ぼくはいまだにInstagramをやっていないのだろう?

ぼくは唐突にハテナマークに囲まれてた。

だからすぐにはじめた。図鑑が届いた翌日だったと思う。

一晩かけて、「インスタ 始め方」で検索をした。アカウント名と方針を定めた。





顕微鏡写真をいくつかアップしている。ヒマな人はぜひ、見てみて欲しい。それらの写真には、詳しい説明は付けていない。とにかく「接写」した写真だ。それを撮ったときのぼくの気分をキャプションにつけておくことにする。

小学生の頃、おもちゃの顕微鏡をみて、なんかよくわからんけどおもしろい気がするなあと、博士の真似をしていた、子供のころのぼくが見たら、意味もなく少しテンションを上げてくれるような、そういう写真を選ぶ。

具体的な病名は載せない。珍しいものも載せない。

子供のころ、図鑑を開いて、何時間も眺めて飽きなかったものとは、珍しいものではなかった。美しいものでもなかった。希少価値を見抜く技術とか、審美眼とか、そういうものが身につくのは大人になってからである(しかもそれはだいたいエゴだ)。子供だったぼくは、基準はよくわからないけれど、とにかくたまに図鑑の1つの小項目に留まって、写真を見ながらずっと何かを考えていた。

そういうInstagramをやりたいと思う。


あとはそうだな、出張したときに写真を載せます。SNSばかりやってて仕事してないと思われているから。

2018年3月9日金曜日

病理の話(178) 電顕ノスタルジア

ぼくが今の病院に勤め始めたころ、ボスに連れられて院内を案内されたとき、地下にある窓のない部屋に「電子顕微鏡」が置いてあった。

透過型電子顕微鏡。

かつては全国の多くの病理検査室でそこそこ頻繁に使用されていた、非常に高価な装置である。

ボスに案内されて部屋に入ると、芸能人のウェディングケーキのようなサイズの電子顕微鏡が部屋の中心に鎮座していた。よく見てみると両目でのぞく接眼レンズがあるので、ああこれは確かに顕微鏡だとわかる。しかし、一見した印象は、日頃ぼくらが使っている顕微鏡のそれとはだいぶ異なっており、どちらかというと天体望遠鏡のすごいやつを想像した。興味のある方はぜひググってみてください。


現在も、軟部腫瘍というまれな腫瘍や、腎臓の腎炎という病気の診断、あるいはもっと基礎的な研究のために今でも透過型電子顕微鏡は使われているが、少なくともぼくのような市中病院の病理医が「電顕(でんけん)」まで使うことは極めて稀である。ぼくが11年前に病院を案内されたときにはすでにほとんど使われない品となっており、処分するにもでかいし高価だしで、なかば厄介者扱いだった。その後、数年経って、完全に撤去された。今では当院に電子顕微鏡はない。



ぼくらが普段使っているのは「光学顕微鏡」。

臓器を「切り出し」して、4μmという薄さに薄切(はくせつ)して、HE染色などで色をつけて、光をあてて見る。細胞ひとつひとつがどのように並んでいるか。細胞が寄り集まって作った構造。細胞の中に含まれている核の形状。これらをみて、ぼくらは診断をする。

電顕がみるのはこれよりさらに一段ミクロの世界だ。

試料は約0.5 μm程度に切るのだそうだ(実はぼくは医者になってから15年、いちども電顕を使ったことがない)。これだけの薄さの試料を作るためには、特殊な装置……というか特殊なカンナ(ミクロトーム)を用いる。電顕用のわずか0.5 μmの試料は、なんと「ダイヤモンド製のナイフ」を使うらしい。

さらにできあがった試料は電顕用に染色をほどこされるのだが、トルイジンブルーという染色液のほかに、ウラン化合物のようなちょっとヤバイものも使う。そこまでしないと、光学顕微鏡を超えたミクロの世界というのはうまく可視化できないのだ……。



かつて、軟部腫瘍や腎臓病に限らず、電顕は「光学顕微鏡だけではみられないもの」をみるのに大活躍した。日々の診断においてもしばしば電顕が用いられた。さらに、ぼくら病理医は「まれな病気」に遭遇すると学会報告をしたり論文を書いたりするのだが、「論文に電顕の写真をつけないと(電顕できちんと超ミクロを確認しておかないと)、まず掲載されなかった」という時代が長く続いたのだという。

脂肪滴。アクチンフィラメント。ミトコンドリア。さまざまな超微構造が、電顕によって証明された。



さっきちょっとだけ天体望遠鏡の話をしたから、望遠鏡を例えに使おう。あなたは望遠鏡を除いたことがあるか? 月食を観察したことがあるとか、展望台で100円を入れるタイプの双眼鏡なら覗いたことがあるとか、そんな経験があればわかっていただけると思うのだが……。

「超拡大」すると、自分が今どこを見ているか、すぐにわからなくなるだろう。

しかも、ちょっと手元がずれるだけで、視野の中に入っていたお月様があっという間になくなったり、展望台から探していた自分の家の屋根がわからなくなったりするだろう。

電顕もこれといっしょなのだ。実は、うまく自分の撮りたい写真を、撮りたい画角で用意することが難しい。



昔の人たちが必死で撮影して、今の教科書にも残っているような電顕の写真というのは、あれはもうコンテストの優秀作品みたいなものなのである。実際にはなかなかあそこまで撮れない。



さて、そんなキワッキワの技術であった電顕がすっかり廃れてしまった理由はいくつかある。その一番大きい理由は「免疫染色」だ。

ダイヤモンドナイフに放射性物質を用いてスーパーミクロを観察しなくとも、免疫染色という技術でタンパク質を定性してしまえば、診断には必要十分だったのである。

さらに、各種の遺伝子解析技術が進歩したことも大きい。それまで我々は、あくまでミクロを拡大してカタチをみるしか病気の姿に迫れなかったのに、今では人体や、あるいは病気そのものをコードするプログラムを直接見に行けるようになった。




今でも電顕は一部の研究施設などで「現役」で用いられている。病気の診断に利用しなくなったというだけで、ミクロの構造を解析すること自体には大きな意味があるからだ。だから別に電顕というのは廃れた技術ではない。ぼくのような比較的若輩の病理診断医が、「もう使わないもんなー」と勝手にノスタルジーを感じているにすぎない。


……けれども。

そうなんだけれども。

ぼくの勝手な印象であるが、透過型電子顕微鏡で撮像された、あのグレースケールのスーパーミクロ写真をみていると、ぼくはなぜか、医療の歴史とか科学の系統樹のようなものをふわふわと思い浮かべて、ああ、どんどん変わっていくんだよなあ、と勝手にセンチメンタルな気分になってしまうのである。それをいうならナノメンタルだろうって? あ、なんでもないです。

2018年3月8日木曜日

デーブ大久保が痛がってるよ

網走から帰ってきた日の話が続く。というかまだ時間に余裕があるので、もう少し記事を書いておこうと決めた。前々回の記事はさっき書き上げたばかりなのだが、読み返していて、

「あっ、そういえば今日のぼくは何も持っていないけれど、昨日のぼくにはひとつネタがあったなあ」

と思い出したので、そのことを書く。




ぼくは昨晩、網走出張だった。網走での仕事が終わったあと、スタッフたちと晩飯を食べた。網走は年に数回しか訪れないが、いつどの季節に訪れても必ず日本で一番うまい魚が食える。まあ、魚というのは東西で種類がだいぶ違うから、北海道の魚に慣れたぼくが中四国や九州に行くとマジで感動して魚ばっかり食べてしまうし、北陸もぼくの味覚にぴったりフィットなのでやっぱり魚ばっかり食べてしまうのだけれど、それはそれとして、網走の魚はやはりうまい。釧路も稚内もうまいが


やめよう、魚の話をしたいわけではないのだ。先に進める。


ということで網走で刺身を食っていた。ほどよくアルコールが回ったところで、話題が「教科書」の話になった。ぼくらが仕事で使う本の話、初期研修医にどんな教科書を読んでもらうとよいかという話、医療系の雑誌の話などをぽつぽつしていた。そこでひとりの、とても優秀な放射線技師がこういった。

「ぼく実は子供のころから、ぜんぜん本が読めないんですよ」

ん?

まあ正直、耳を疑った。彼はほんとうに優秀な技師なので、まさか「本が読めない」なんてことあり得ない、と決めつけていた。どうせ謙遜だろうと思った。しかし彼はこう続けるのだ。

「いや、ほんとに必要な論文とかは読むんですけれどね。読み物がだめなんですよ」

それは小説とか、エッセイとか、そういう字の本がだめってこと?

「ええ、だから本はほんとにぜんぜん、一年に一冊も読んでいないかもしれません。マンガは読みますけれどね」

じゃ、じゃあ、自分の分野の勉強とかはどうしてるの? そんなにいろいろ知ってるのに。

「それは……勉強会とか、まあ関係ある論文とかは読みますけど。教科書みたいなのはまず読まないんですよ、読む気がしなくて……」





考えてみれば当たり前だ、世の中には本を読む人もいれば読まない人もいる、そんなことはわかっていた。けれどもぼくは完全に失念していた。医療者だって本を読む人と読まない人がいるということを。

「本 を 読 ま な い ま ま 腕 を 上 げ て い く 医 療 者」

すごいインパクトに感じたのだ。けれどまあそりゃそういう人もいるだろうな、とは思った。




そこで話は初期研修医教育の話になった。

「市原先生、初期研修医むけの本を用意しているっていってましたけど、それ、読みたくない人だっているんですよ」

ああ……そうか……。

「だから、今だったらあれですよ、DVDがいいです。あとはネットの動画とか企業のPR動画」

動画!

「内視鏡とか、救急手技とか、探せばいっぱい動画ありますよきっと。そういうのを初期研修医室に並べておいたほうがみんな喜びますよ」




ほんとうにショックだった。自分にかかったバイアスというのは自分では絶対に気づけないな、とも思った。

心のどこかで「本を読めない医療者がまともなわけねぇじゃねぇか」と反論したい自分がいるのだが、しかし、目の前にまさにその「本を読まないくせにめちゃくちゃ優秀な医療者」がいるのである。ぼくはぐうの音も出なかった。




ぼくもこうして老害になっていってるんだなあ、とまで思った。とりあえず研修医向けのDVDを大急ぎで集めようと画策している。とりあえず自分で見てから勧めたいなあとは思うのだが……DVDかあ……。がんばらないとなあ……。

2018年3月7日水曜日

病理の話(177) 仲野先生と病理学のベストセラー

大阪大学・仲野先生の「こわいもの知らずの病理学講義」が売れ続けている。

仲野先生の本業は生命科学者だが、「Honz」や「本の雑誌」などの書評ウェブ・書評雑誌をみるとたいてい医療書ではない本の書評を書かれているし、日本医事新報のコラムも「無属性コラム」であって、なんというかマルチなご活躍ですごい。

その仲野先生が「病理学」の本を書いたから、飛びついて読んだものだ(もうけっこう前になる)。一般向け書籍なのに妥協せずに病理学の話を書いているなあ、すごいなあと感心した。

ぼくと同じように、ツイッターのタイムラインにも、この本の感想をつぶやいていた人が何人かいた。ただ人によって感想が少しずつ異なっており、ぼくが最初思いつかなかった視点もあって、これがなかなか興味深い。

「病理学って書いてたけど、病理医があんまり出てこなかったよ」

「病理学っていうかあれ医学そのものじゃないの」

ああ、そうか!

病理学と病理医の仕事はイコールじゃないってこと、ふつうはわかんないよなあ……。



そもそも「病理学」は、医学部生が必ず習う項目のひとつである。看護学生なども習う。

医療系学生諸君は、生化学、生理学、病理学、薬理学、細菌学といった「基礎医学」をまず習ってから、いわゆる内科とか外科とか耳鼻科産婦人科泌尿器科のような「臨床医学」を習うようにできている。

基礎→応用。

理論→実践。

ほかの学部のことはあまり知らないのだけれど、どこの学部もだいたいこういう習い方をしているのではないかな。

医学部生が習う「病理学」は、あくまで基礎だ。しかし、根底を担う理論であり、重要性も高い。

「こわいもの知らずの病理学講義」は、まさにこの、基礎学問を扱った本である。

すべての医療者が学部時代に一度は習う、基礎病理学。

決して簡単ではない。けれどそこはさすがの仲野先生だ、病理学のガチの教科書を読むより何倍もわかりやすい(それでも難しいとは思うが)。




さて、この本を買って内容を完璧に覚えたら「病理学のマスターだから病理医になれる」?

実はそうではない。

「病理学マスター=病理医」、ではないのだ。

「病理学マスター」は、「あらゆる医療者になるうえで必要な、病気の知識を得た状態」である。

内科医だろうが外科医だろうが、病理学講義の根底に流れているものを理解せずには医者ではいられない。

逆に言えば、別にあなたが「病理医」というマニアックな仕事に興味がなくても、もし医療者に興味があるならば「病理学」を勉強する意味はあるということになる。




実をいうと病理学には2種類ある。

「基礎病理学」という、あらゆる病気のうらにひそんでいる法則のようなもの……炎症とはなにか、代謝とはなにか、再生とはなにか、腫瘍とはなにかといった「メカニズム」を学ぶ学問。これが仲野先生の教科書に書かれている。

これに加えて、「臨床病理学」あるいは「外科病理学」という、より実践的で臓器ごとに具体的な病気を勉強する学問がある。

前者がキン肉マンのカメハメ48の殺人技で、後者が52のサブミッション……あれこの話前にも書いたかな?

あらゆる医療者の中で、病理医だけが特にくわしく、専門にしているのは、「外科病理学」のほうだ。特に「組織病理学」。これは学部時代にはとても習いきれない。習いきれないし、普通の医療者は完璧に知る必要がない。




仲野先生が「病理学講義」と題してまとめあげたのは、多くの医療者が知っているべき「基礎病理学」のほうだ。題材の選び方がすばらしい。病理医になりたいという酔狂な人間や、病理医のマンガ・ドラマで病理の世界に興味をもった人だけを対象にした本ではなく、もっと広く、医学って結局なんなんだ、人体とはなんなんだという、「ヤマイの理(ことわり)」に興味をもつ向けである。




……で、まあ、すごい売れているそうだ。

ぼくは正直びっくりしている。「人体はなぜ定年を迎えるのか」みたいな新書風タイトルとか、「現役生命科学者が医学部の講義をおっちゃんおばちゃんにわかるように再現してみた」みたいなYouTuber風タイトルだったら売れるのはわかる。でもこの本は「こわいもの知らずの」という冠がついてはいるけれど、「病理学講義」というお堅いタイトルなのだ。それなのに、あんなに売れるなんて……。



医学のことってほんとはみんなちゃんと勉強したいんだろうな。

2018年3月6日火曜日

ぼくはひとり大人になれた

網走出張から帰ってきたらブログのストック(記事の書き溜め)があと6日分にまで減っていた。逆にいえばこの先6日間は書かなくてもいいわけだから(しかも土日は更新してないわけだから1週間以上だ)、だいぶ余裕があるのだけれど、つい先日まで13日分程度ストックしていたせいか、心もとなく感じる。

みんなはどうしているんだろう、書いたらすぐ公開しているのだろうか。ストックして順番に公開している人というのはどれくらいいるのだろうか。時はインスタ全盛時代。

仮に書き溜めを用意するにしても、2,3日分あれば十分な気もするけれども。

慣れというのはおそろしい。ストックがないと不安になってしまった。

実はなにがどう不安なのかはわかっていない。

けれども、きちんと言い表せるならばそれはもう不安とは呼べないのだと思う。正体がつかめないとき感じるのが不安だ。表現して解析できるならばそれは単なるリスクであったりウィークポイントであったりコストであったりする。

ぼくはばくぜんと不安になり(不安というのは常にばくぜんとしている)、こうしてPCを開いてブログを書き始めている。

テレビをつけたらスウェーデンとアメリカがカーリングで激突していた。今日は平昌オリンピックをやっている最後の土曜日。

どこの国の人もみんなヤップヤップいうんだな。




今日のぼくは、考えの持ち合わせがない。

自分の中になにもない日に、ブログの編集ページを開いていると、さて今日は何が自分から引き出されてくるのかなあ、と少し楽しくなる。

こういう感情を楽しめるのは、最近はブログの記事を書いているときだけだ。

たとえば人と会話をしているときにも、「何が起こるだろう」と楽しみにする気持ちはある。

けれどそういう「他人と作り上げる、まだ見ぬものに対するよろこび」を、最近少し感じにくくなってきた。



まず、他人と話をしているときに自分から出てくるものが、汚かったり、くだらなかったりすると、自分にがっかりしてしまう。がっかりした自分を見ながら、なぜこんなものが自分から出てきたのだろうと自分を責める。さらに、もし自分がへたなことをいったせいで相手がこの時間を無駄に感じてしまったら申し訳ないなあと罪悪感がわいてくる。最後にこんなに縛られながら誰かと一緒にいることがストレートに苦痛となり、その苦痛を味わっている自分がめんどうくさくてつまらないなあと落ち込む。

会話の場で、ただ単に笑っていることが増えた。相づちをうち、リアクションのパターンをいくつも用意して、からっと笑う。それが一番「相手の意向に沿うこと」だ。

なんかそういう風に自分が「なってきている」ことに気づいて、しらけている。




そうか、今日の空白を、ぼくは自己嫌悪で埋めるのかあ。

少しおもしろくなって、記事入力欄を眺めている。もっと書けるなあ。





会いたい人がいる。しかしぼくはその人に会ったとして、自分から何も差し出したくないし、相手から何も引き出したくない。ぼくは今、誰かと一緒に新しい何かを生み出したくなんてない。おもしろいイベントも、含蓄にあふれたことばも、文殊の知恵もセレンディピティも運命の導きも、なにもいらない。

ぼくは自分から何かを引き出そうとする動きに疲れてしまっているし、相手から何かを引き出して一緒に練り上げようとする自分の試みにうんざりしている。

できればその人は、ぼくの仕事場のほど近いところに住んでいるといい。肩書は「知人」がいい。飲み友達まで昇格させると自分が忙しくて飲めないときに申し訳なくて、申し訳ないという連絡をたまに取らなければいけないのが圧倒的に面倒くさい。そういうわずらわしさ、水臭いという感覚、微妙な距離感、あるいは恋愛感情などがスパイスになり人生を豊かにするという考え方はよくわかる、でもその考え方は今のぼくには必要ない。今のぼくはパキスタンカレーみたいだ、スパイス以外で味付けをしていないし水の入る余地もない。

何かくさくさとした日、職場から車で帰る途中に、コンビニから出てくる知人を偶然みつけて、窓をあけて、「焼き鳥食わねぇ?」と声をかけ、「あー今晩飯買っちゃったよ」「明日の昼にでも食えよ」「だいたいお前車だろ」「今置いてくるから」みたいなノリで、なんだかんだで臭いがついてもいい服かどうかチェックしてからのんびり焼き鳥屋で合流するまでに40分くらい経ってて相手はすでに2本目のホッピーを飲んでいる。ぼくも彼と同じ鳥の串とネギを注文し、札幌では少し珍しくなってしまった瓶のビールを飲む。特に今日この人に話さなくてもいいけどとりあえずほかに相手もいないからしゃべろうかと思った、さっきラジオで聞いていた話題を口に出そうとしたとたん、店に据え付けのテレビからカーリングの歓声が聞こえてきて、話題はうやむやになって、次に彼が何か口にしようとするのでぼくは仏頂面でそれを黙って聞くのだ。どうせ答えなどは出せない。ぼくはそういう意味で全く彼の役に立っていない。それでいいのかどうかはわからない。ぼくから聞かないし彼も言わない。それくらいの関係が



テレビから大歓声が聞こえた。アメリカが1エンドに5点もとったのだ。カーリングとしてはちょっとすごい点数が入ってしまい、試合の趨勢は決し、ぼくはブログの記事で次に書こうと思っていたエピソードを忘れてしまった。確か昔、そういう場所がどこかにあり、そういう相手がどこかにいたような気もするのだが、断言できる、ぼくにはそんな相手はいないし、何が出てくるだろうと楽しめる場所はもっぱらPCの前なのである。楽しかった。

2018年3月5日月曜日

病理の話(176) あるなしだけでは語れない

「ちょっとの血液とか、尿とかで、体の中に隠れているがんが見つかるシステムが開発されてるんだって。すごくいいよね。」

「もしそんなのが開発されたら、あんなにいっぱい検査しなくてすむもんね。」

「そうだね。」



などという会話を聞いていると、半分そうだけど半分ちがうかもなあ、と思う。




「がんのあるなし」がわかることは、インパクトが大きい。

一度がんにかかった人が、そのがんを治して元気に生きている場合、自己紹介として「がんサバイバーです」と名乗ることがある。かっこいい言葉ではあるが、それにしても「がん」ということばは本当に、消えようが抑え込んでいようが、その人の人生を大きく左右する呪印なのだよなあ、と思わされる。

そのことをわかった上であえて書くけれど。

患者の生命に具体的に影響するのは、「がんがあるかないか」ではない。

「がんがどこに、どれくらいあって、どのようにふるまっているか」のほうだ。

台所に包丁を持っているからといってその家で殺人が起こるとは限らない。

その包丁を誰が手にしてどう扱っているかをみきわめないと意味がない。




たとえば甲状腺がんというがんは、「がん」と名前がついているからにはいずれ大きくなって転移したり周りにしみこんだりする。しかしこの「いずれ」がくせものである。

かなりの高確率で、「いずれ」が来るまでが異常に長い。

仮にこの「いずれ」が5年だったとしよう。5年で大きくなって生命の危機が訪れますよ。これは大変なことだ。すぐに治療をして、未然に死を防ぎたいと思う。

……しかし、実際には、「いずれ」は50年だったり100年だったり、ときには200年だったりする。

「このがんは200年かけて人の命を奪います」。

200年あったらほかの病気や老衰で先に死んでしまうだろう。

そんな「がん」を見つけても、現代の医療でできることは少ない。

「予防的に採ってしまえば安心ではないか」という人もいるかもしれないが、患者の首に傷をつけて、役に立つ臓器の一部を失うことを、そう簡単に決めてしまってよいものだろうか。




「ほうっておくと死を招く病気や、ほうっておくと自分がすこやかに暮らせなくなるような病気を、自分の具合が悪くなる前にみつけて、治したい」というのは、多くの人間の願いであると思う。

甲状腺がんの大部分は、死なないし、暮らしも変わらないし、具合も悪くならない。しかし、「がん」という言葉には強い呪いがかかっているから、「がんが見つかりましたよ」と言われると、それが「命に影響する程度」に関わらず、治したいと願ってしまう。それは無理もない。

現代に生きるぼくら人間は、「がんのあるなし」にばかり興味を向けすぎている。そういう文学を積み立ててきてしまった。そういう文脈に慣れすぎてしまった。




ありとあらゆる病気は「多様」である。特に「がん」はとてもバリエーションが多い。

早期発見することで、早期に治療を開始でき、その後の患者の人生をよりハッピーにできるがんがある。

一方で、早期に見つけても患者に何もメリットがないがんも、確かにある。

この違いを見極めることこそが大切だし、その傾向を知ってふるまわなければいけない。




血液や尿などで、がんのあるなしを判定できるシステムというのは実際役に立つと思う。何はなくともまずは「あるなし」だという考え方はある。このシステムで見つかるがんの中には、一刻も早く見つけることで患者がメリットを得られるものも多くあるだろう。

だから、冒頭の会話、

「ちょっとの血液とか、尿とかで、体の中に隠れているがんが見つかるシステムが開発されてるんだって。すごくいいよね。」

「もしそんなのが開発されたら、あんなにいっぱい検査しなくてすむもんね。」

「そうだね。」

の、1行目はぼくも大賛成だ。


しかし、2行目は、ちょっと違うかもな、と思う。がんが見つかった瞬間から、今度はそのがんが「どういうがんなのか」を調べなければいけない。

見つければ楽になる、幸せになるというものではないのだ。見つけたくなるのは人情だけれど……。

2018年3月2日金曜日

繰り返すこのプリリズム

いろんな人がいる、と知ることはとてもよいことなのだ。

自分と違う考えを持つ人の生い立ちに思いをはせよう、そこに至るまでに誰に影響を受けてきたのか、どんな楽しいことがあり悲しいことがあったのかと、想像してみよう。

……そんなの、とてもじゃないけど想像しきれない。想像もつかないだけの、「いろんな」人がいる。絶対に理解しきれない。ぼくはそういうニュアンスで、「いろんな人がいるんだよなあ」と知った。

人の数だけ人生があるし、人生の数の何億倍ものできごとが、人それぞれに違ったかたちで降りそそぐ。

それらをぜんぶ理解して「相手の考えに完全によりそう」なんてことはできない。そのことを知っているかいないかで、だいぶ話が違う気がする。



相手が自分に妙な怒りを持っていたりすると、自分に何か悪いことがあったのだろうかという懸念と、もうひとつ、自分とこの人とはおそらく立っている場所とポーズが全く違うのだろうなという諦念を、右手と左手に持った状態にする。

片手だけで対処しないほうがいい。「いろんな人がいる」と知っていることが大事であり、かつ、「いろんな人がいるからしょうがない」とあきらめきってしまってもいけないのだと思う。





病気と人生とを相手に働いている。

たまにこういう人に会う、「病理医は直接患者に会わないし、人を診ずに病だけを診ている、そんなのは医者とはいえない」。

ああ、そういう考え方をする人もいるだろうなあ、と半ば納得してしまう。

ぼくは、「人をみている」と宣言する人はいったい何をみているのだろうと考える。しかし、考え始めたところで、「どこまでわかるものかなあ」と、少しだけあきらめてもいる。

病気をみて事実を伝える。その事実の受け取り方は、人によって異なる。同じがんという病気をどう捉えるかは、ほんとうに人によってさまざまに違う。

「病」という光は、「人」という気まぐれなプリズムによって、常に違う形に偏光させられ、患者を彩っている。

ぼくは、形も機能も効率も偶然もさまざまに異なるプリズムを仕事相手とせず、そのプリズムに入っていく光の正体を暴く仕事をしているのだと思う。



だから、病理の話のときには、光をひたすら科学的に解析してみたいし、病理以外の話をするときには、普段あえて診ないようにしているプリズムのことが気になってしかたがないのだ。

2018年3月1日木曜日

病理の話(175) そして身体診察のこと

各種の画像検査の話をしばらく続けてきた。

X線・CT

MRI

超音波(エコー)

内視鏡

これらは患者の体を直接「ひらく」ことなく、中の姿を知ろうとする検査である。便利になったものだ。

医術というのはそもそも「ひらかずに中を見ようとする」ことに主軸のひとつを置いている。

内科、という言葉はまさにその象徴だ。内部をみる科。これだけで名前になってしまっているのだから。



昔の人は、体の中をみるにあたって何を考え、何を行ったか。

みる。触れて触る。叩いて響かせる。押しこむ。動かす。

これらを身体診察と呼び、医術の根幹を担う手技として今でも多くの医療者が使いこなす。



ここまで、臓器は直接みることができないというノリでブログを書いてきたが、実際には直接みられる部分というのはけっこういっぱいある。

皮膚。そうだ、皮膚とは体の一番外にある臓器だ。何がわかる? 色調をみれば血の巡りがわかる。血液に何かまじっていれば皮膚にも色が出てくることもある(たとえば、黄疸)。皮膚を「一番相手に近い臓器、一番相手とふれあえる臓器、すなわち愛の臓器である」とうそぶいた皮膚科医もいた。

目。眼球にはこまかな血管が走っており、眼球自体が透明に近いので、血管を詳しくみることが比較的容易だ。貧血のときにはまぶたのウラをみるとわかりやすい。黄疸は白目の部分でみるとわかりやすい。糖尿病で血管がぼろぼろになっていないかどうかも判断することができる。

鼻の穴。耳の穴。各所に空いた穴というのは、体の内部への入口であり出口でもあるから、内部の情報を少しずつ外にもらしてくれている。

「舌診」ということばがある。舌(した、でもいいが、ぜつ、と読む)は、咽頭・喉頭・食道・気管へと続いていく洞穴の入口だ。皮膚とはまた違ったニュアンスを含み、血流や栄養、水分量、あるいは粘膜の状態をみることができる。東洋医学で舌診がもたらす情報は極めて多い。

肛門も重要だ。外から指が届く消化管の粘膜というのは、舌・咽頭をのぞけば直腸くらいのものである。おしりから指をつっこむなんて多くの人はいやだけど、肛門から入ってすぐの腸管には腸の中にもれでた血液が溜まっていることがあるし、直腸の周りにある前立腺や子宮などの臓器を壁越しに触ることもできる。

とどけ、とどけ、とやっていく診断学。



身体診察はそれに留まらない。

手首を触り、手を握って、汗ばみ方や温かさを感じ取り、脈をとり、左右の差に注意をむける。もし左右の手に差があれば、それは体の中に左右のバランスを乱す何かが起こっている証拠かもしれない。

患者が息を吸って吐く様子をみながら、どの筋肉を使っているかを見定める。胸一杯に空気を吸い込むのに妙に力が入っていないか? 首の筋肉がつっぱったりしていないか? 腹のへこみはどうなっているか?

お腹をみる。張っているか。へこんでいるか。中に水が溜まっているかどうかは叩いてみると振動でわかる。お腹の中にある臓器のうち、小腸や大腸については空気を含んでいるから、叩くとポンポンとタイコのように音がしたりもする。押してみると臓器に触れる。触れにくい臓器もあるだろう、逆に、普段触れないものに触れたらそれは「臓器が大きくなっているか、場所がずれている」ということでもある。押して痛めばそこには何か騒ぎが起こっているかもしれない。押した手を離して痛むときは、お腹の壁が「跳ね返るトランポリン」のようにポヨンと跳ね返ることで痛みが出るわけだから、それはお腹の壁に炎症が及んでいるということかもしれない。

姿勢を変えたら痛みがよくなる、逆に痛みが強くなる。姿勢を変えることで位置関係が変わる臓器はどれとどれだ。そのどこかに病気が隠れているのか。それとも、以外と筋肉そのものに痛みがあるのか。

足をとる。動かしてみる。痛がりはしないか。可動域はどうか。こちらをひっぱってうまく動かないのにあちらに押したら動くというのは、関節に何かがあるのか。筋肉や腱が硬くなっているのか。



いくらでもある。



読んでいて気づかれただろうか? 「かもしれない」「だろうか」を連発していることに。だからしばしば、人はいう、「推測じゃなくて画像できちんとみればそれで解決するのに」と。

たしかに身体診察よりも画像のほうが「病気の姿を現している」ことはある。

でも実は、画像より身体診察のほうが「病気の姿を反映している」こともある。

X線の透過性で差が出づらい病気。かたまりを作らずぼやけた変化がかなり広く起こっている病気。そもそも特定の場所に原因がなく、血液全体に何かが広がっているとき。こういうときには、身体診察のほうが病気に一歩、二歩と近づいていることも多い。




画像検査の話から、身体診察までたどりついた。これらはすべて、あるひとつのこと、「中で起こっていることを外から見抜く」を目的とした技術である。

あと語っていない医術はなにか?

問診(患者の話を聞くこと)。医療面接ともいう。

血液検査。

心電図や呼吸機能検査などの、生理学検査。

まあこれらの話はまたいずれ。




病理の話が出てこないではないか? と思われる方もいらっしゃるだろうから、いちおう最後に書いておこう。

病理だけは、「中で起こっていることを外から見抜く」技術ではない。

「中のものを直接取り出してきてみる技術」なのである……。