2021年2月26日金曜日

文字にしチャッター

対面での相談が減ったことをいいことに、メールやSlackで案件を終わらせるようにしたら、毎日が楽でしょうがない。学会のエラい人たちや、学術の仲間たち、そして編集者と直接会う意味は、少なくともぼくの仕事の場合には、ほとんどなかったんだ。それがよくわかった。


ちなみに、昨年手がけた仕事は増えた(確定申告したらわかった)。年間30回以上やっていた対外講演が4回くらいまで激減したのに仕事の総量が増えている、すなわち、ぼくは人前に出ない仕事のほうが得意で、しかも数をこなせる、ということである。


こういうことを言うと、いわゆるクリエイティブな人たちや、いわゆる飲みにケーションの人たちから、


「会って話すのとメールとではぜんぜん違うよ。」


「Zoomでも伝わらないものがあるよ。対面じゃなければ届かない気持ちがあるんだ。」


と言われるのだけれど、はいはい、そこは全く同意見です、そして、


「会ってちゃ終わらない仕事もあるんだよ。」


「文章のみで磨いていく気持ちもあるんだよ。」


としか思わない。多様性を確保してほしい。サステナブルな社会を目指して欲しい。ぼくはこっちのほうが向いていた、あなたとは違って、ということなのであった。





どっちが正しい、という判断のない世界でやっている。何につけてもだ。正義は視座によって変わるし、未来は過去と切り離せず、正解は水墨画のように解釈すべきものである。


二項対立のおままごとに飽きた人から順番に大人になる。そして、この世界は、子どものまま暮らしていくだけの権利をみんなに認めているのである。





話は変わるがSNS医療のカタチという活動について、先日、大塚たちと話していて、ぼくは急に目標を思い付いた。この活動、終わりなく、ゴールなく、無限に続けていくことも不可能ではないのだけれど、なんというか、ぼくにとってはわかりやすい達成目標がほしいなとかねてから考えていたのだ。それがどういうものかというのをここに書くためには、もう少し文章だけで練り上げる必要があるのだけれど、なぜなら、このアイディアは、人前でしゃべっているときに思い付いたものであって、ぼくの脳から出てくるものはいつだって、会話なんていうやりとりだけでは内部のサイトケラチンが足りないのである。文章で練らなければいけない。文章で磨かなければいけない。文字の中で研ぐ。そうしないとぼくは、何につけても、全力を出せない気がするのである。さあ、このあととある作家とZoomで対談する仕事がある。いっそチャットだったら楽しかったのに。

2021年2月25日木曜日

病理の話(508) かさぶたの下

かさぶたなんてしばらく見ていないなあ。


自分の手や膝には。


まあそれだけ慎重に日々を暮らすようになったということか。


外でギャンギャン遊んでるわけでもないしなあ。




かさぶたができて、しばらく経って、きちんと乾いたかな、くらいのタイミングでエイッと剥がすと、痛い。


だからそっと剥がそう(※真似しないでください)。


すると、かさぶたの下に、赤い肉っぽいものが見えてくる。一瞬。


次の一瞬で、ジワァー! って血がにじんできて、あっごめんごめんやっぱいまのなし、ってかさぶたを元に……は戻せないんだよね。かさぶたって剥がすともうフタにはなんねぇんだよな。ポロポロになっちゃうから。




で、この、「ジワァー!」を経験したことがない人には一切伝わらないんだけど、「ジワァー!」があるってことは、すごい繊細な血管がいっぱいそこにあるってことなのね。


その血管は何をしているのかというと、傷ができた場所に栄養を運んで、傷を治そうとするための……言ってみれば、土木の現場に資材を運ぶ専用道路みたいなものなわけ。


傷なんてものは、体の都合とは関係なく、いきなりてきとうな場所に穴をあけてね、それまであったものをなくしてしまうものでしょう。たかだか1cmとか5mmの範囲であってもだよ。そこにはもともと、皮膚とか、皮下組織みたいなものがあったわけ。それがふっとんでなくなっているから、いずれ穴埋めをしなきゃいけないんだよね。


でも、体を構成する細胞ってのは、そんな数秒とか数分で欠損を補充してくれるほど敏捷ではないわけよ。そもそも他の場所にいる細胞だってみんな忙しいんだ。急にあそこのプロジェクトに穴が空いたからって隣の部署から人連れてこられるわけもないのよ。隣だって仕事してるんだから。


というわけで、まず、穴があいたら、「かさぶた」を作ることを優先するのよ。これはもろいよ。でも穴をふさぐことはできる。汚れが外からやってくることを防がないとね。


で、かさぶたを作ったら、その下の部分は、なるべく穴を引き寄せるようにして、穴をなかったことにしないと、あぶないでしょう。


引きつれさせるわけだよ。そこに穴がないかのように。


だからそこに「線維」を増やすんだね。線維ってのは「繊維」とは違うよ。読みはどっちも「せんい」だけど、「膠原線維(こうげんせんい)」は、穴を埋めたり引きつれさせたりする効果がある。


で、膠原線維の元になる細胞をそこに連れて行って、がんばって線維で穴埋めをして、引きつれさせて、ひとまず穴をふさぐ。同時に、血管を大量に配置して、栄養をたくさん運べるようにしておいて、そこからゆっくりと、穴の部分を埋めるための細胞を作っていく。


この、「穴埋め中です」という工事現場が、かさぶたをとったときに下に見えてくるあの赤っぽい肉みたいなやつ。すぐに「ジワァー!」と血がにじむやつ。


肉芽(にくげ)という。


肉芽は、瘢痕修復が終わると、体に吸収されて消えるようにできている。傷がきれいに消えるときなんてのは、肉芽がいったんできて、その後の修復がすべてとどこおりなく終わったときのことだ。


でも、肉芽を作ってもうまく元通りには治せないこともけっこうある。そういうときは、傷跡がひきつれとなって残ってしまうわけだ。


どういうときに傷がきれいになおるか、あるいはどういうときに痕が残るかを、ずっと真剣に考えている人たちもいる。たとえば、外科医。そして、形成外科医と呼ばれるエキスパートたち。けっこうマニアックで、めちゃくちゃおもしろいことをやっているぞ。その話はいずれまた。

2021年2月24日水曜日

ずくめ

 威力業務妨害的な案件の相談に乗っていて少々疲れた。理不尽なことは世のあちこちに転がっている。


「身に覚えはないんですよね? 潔白ってことでいいんですよね? 我々は堂々とあなたを守っていいんですよね?」


と、たずねられるほうも、そしてたずねるほうも哀れだと思う。


凪いだまま暮らせない。ぼくらは情報の海に生きている。





昨年の秋に買ったサボテンは、冬になってから一度もつぼみをつけない。それまでは何度も花を咲かせていた。パッと見では今も元気にトゲトゲしており緑もみずみずしいが、花を咲かせないということはやはりどこか消沈してはいるのだと思う。サボテンがサボテンであるからと言って元気満タンであるとは限らない。さぼってんのかもしれない。




Zoom会議が増えたことはいいことばかりだが、いいことずくめとまでは言えない。ばかりとずくめの差というものはある。さしあたって問題点をひとつ挙げる。みんな、メールで済む案件をZoomでやろうとしていないか? もっと文章を練って、もっと一往復で相談が終わるように命題をわかりやすく立てて。そうすればいちいちほかの用件をスリープさせてモニタに向き合わなくても済むのだ。没入してから放つ文章のほうが情報量は多い。「メールでは伝わらないので……」みたいなことを言う人は、ぼくが文章に対して向かい合う気を削いでしまう。Zoom会議ばかりの企画から出てきた文章はどことなく表面がつるつるとしていて、最初の数行を読み終わるとあとはなんだかもう「なるようになっている」。衝突が足りないと感じる。摩擦が足りないと感じる。





冬靴は一昨年の秋に13000円出して買った高級品だ。モッコモコしている。3月までバリバリ働くはずだった。今年の札幌は雪が解けるのが早く、なんだかもう、夏の革靴でもいけるんじゃないかと思わせる日がある。もちろんまだまだ雪は残っているのでこのモコモコを履いて悪いことは何一つない。悪いことは何一つないが、いいことずくめとまでは言えない。早くいろいろ身軽になりたいものだ。それは靴ひとつとっても言えることである。

2021年2月22日月曜日

病理の話(507) くり返し積み重ね

できた。教科書ができた。第3校を戻し終わって、あとは編集部で整えてもらえば完成である。


ほんとうに細かくお手入れしてもらった。多数の校閲、校正をお願いした。よかったよかった。これは自信作である。そのうち金芳堂から出ます。





さっきまでその教科書の「索引項目拾い」をやっていた。今回の教科書は通読できるタイプの本なのだけれど、担当編集の方が


「この本には索引が似合うと思います。」


と言い、ぼくも全くその通りだと思った。だからがんばって項目を拾った。


複数のページで言及した言葉はいやでも目に入る。


「病理」(※病理の教科書なのだからあたりまえである)、


「言語化」(※これが本書のキモだ。索引には抽出しなかった)、


そして「くり返し」と「積み重ね」である。




「くり返し」と「積み重ね」が、くり返し出てくるような本を書きたかった。なぜならば、診断とはまさにくり返しだからである。


たった一度の検査でシロだクロだと言わない。


黙って座ればぴたりと当たる、みたいな診断はしない。


そこにがん細胞が見えたからがんです、だけで診断という行為は終わらない。


病理医は臨床医とバトンを互いに受け渡ししながら、診断という行為を何度も何度もくり返す。一人の患者に対して、あるいは、複数の患者に対して、同じ事を、あるいは違うことを、くり返し、積み重ねていく。


そうやって確度を高めていくのだ、ということを一冊使って書きたかった。





今回の本は完全に医学生向けであり、いちおう初期研修医は読めるし、後期研修医もまあまあ読める。指導医クラスになるとちょっとつらいかもしれない。病理医は全員読めるだろう。読もうと思うかどうかはともかくとして。


なぜこの順番なのかは「序章」に記しておいた。端的に言うと、この中では医学生が一番頭がいいからだ。いや、別にこれは、煽りとかおべっかなどではなくて、ぼくの意図の範囲においては、事実である。そのあたりは今日は書かないことにする。





思えばこのブログでも同じ事を何度も何度もくり返し記載して、積み重ねばかりしている。


そういうことなんだよな、と思う。

2021年2月19日金曜日

山の神の感覚

今、このブログに数行の文章をぱたぱたと入力していた。ところが途中で爪が伸びているのが気になり、モニタから目を話して、爪を切ってから視線を戻したら、自分がついさっきまで入力していた文章が気に入らず、すべて消してしまった。


爪を切って戻ってきたときには、視点が接写から俯瞰に戻ったかのような感覚になっていた。中国四川省にあるような、切り立った尾根と尾根のはざまに通った隘路を抜けるように慎重に言葉を紡いでいたつもりだったのだけれど、いったん上空に意識を飛ばしてしまうと、再び谷間に降りていこうと思っても、もうその深い渓谷のどこから歩みを再開すればいいのかよくわからなくなってしまった。


いったん「没入」したら、ある程度の時間はそのままでいなければだめだ。


「ふと冷静になる」のがあまり早いといけない。


ズームアップからロングショットのモードに戻るのが早すぎるといけない。


もちろん、いつまでもいつまでも狭い一人称の視野に凝り固まっていては文章がアンバランスになっていくばかりなので、どこかのタイミングで自分の書いたものを三人称視点で眺めなければいけないのだけれど、最初から三人称だとぼくはうまく文章が書けない。序盤、ある程度までは勢いで突き進まないと、その後安定走行に達することができない。




書く前から全体像がぼんやりと見えているような文章を書くのが苦手だ。学術論文のようにゴリゴリのお作法がある文章だとまだいけるのだけれど、エッセイテイストのブログなどを書くときに、「よし、このオチで決めよう」と書く前に思いついてしまうようだと、その文章はもう産まれてこない。書く前に筆が折れる。「このあと自分の指はどこにたどり着くのだろう」という心地よい不安がないと、第1区~第3区くらいでぼくは文章に飽きる。理想をいうと第5区の山登りの時点で「あ、ここを登ってここを下るのか」がようやくわかる、くらいがいい。そうすると、復路第6区の山下りで自分の文章がどんどん加速していって、第8区くらいでさらにサプライズが待っていたりして、ゴールの大手門付近では笑顔になれる。




序盤きちんと熱中して没入するということ。


中盤、自分できちんと驚くということ。


後半、きれいに風呂敷をたたむために、弱拡大視野と強拡大視野とをこまめに切り替えるということ。




これらがうまくいっているときは、だいたい、自分が気に入る文章ができあがる。さほどいっぱい経験してきたわけではないが、今後いっぱい経験できたらいいなということをいつも思う。

2021年2月18日木曜日

病理の話(506) 分化の方向性

「細胞」……というとみなさんは何を思い浮かべるのだろうか。


鉄道員にとっての「車両」、パティシエにとっての「スポンジ」、アナウンサーにとっての「原稿」並みに、病理医にとっての「細胞」は業務のど真ん中にある。だから世間一般のニュートラルな印象というものをすっかり忘れてしまっているけれど、がんばってちょっと思い出してみよう。


・ちっちゃい


・まるい


・ある


・なんか動く(?)


・同心円みたいな絵で描かれる(?)


このあたりが世間の認識ではなかろうか。




あるいは、義務教育の理科で習う「単細胞生物」あたりを思い出して、ゾウリムシの図をもって「細胞ってだいたいあんな感じだろうな」とイメージする人もいるかもしれない。アメーバとか。ミジンコとか。(※ミジンコは多細胞生物です!!)




では、われわれ病理医にとって「細胞」という文字列がどのように見えているかというと……これは「初期アバター」である。


ゲームで自分が使うキャラクタの顔を、できあいのパーツから選んで自分好みに設定するとき、最初は通り一遍の髪型、わかりやすい目鼻、シンプルなメガネくらいしか選べないし、体はTシャツ、下はハーフパンツみたいなのしか履かせてもらえない。こんな「素材そのままの人間」、探してもなかなかいないよね、という薄味のキャラクタ。


病理医が「細胞」という単語だけを見たときのイメージはまさに、「まだ何物になるかもわからない、初期アバター」である。


「え、細胞はいいけどさ、どんな細胞?」


こう聞いてみないと、話が広がっていかないのだ。





アバターの例えをそのまま続けよう。ゲームを進めていくと、プレイヤーはアイテムを手にする。それは帽子であったり、ちょっと特殊な髪型であったり、ワイシャツやジャケット、ブルゾンなど、「見た目を華やかにし、キャラがどういう性格なのかを色づけるオシャレ」が手に入るのだ。


手に持たせる道具も増やすことができる。


ソードやシールドのたぐい。マシンガン。あるいはフライパン。辞書を持たせるパターンもあるだろう。


アバターがさまざまな装備を増やしていくことで、初期アバターの没個性さはなくなっていき、だんだんと、その人オリジナルのキャラクタが完成する。




細胞もいっしょなのだ。無垢なちっちゃいマルのままでは存在しない。


たとえば、表面に繊毛(せんもう)と呼ばれる毛を生やしてみたり、細胞の内部に大量のミトコンドリアをため込んでみたり、粘液という便利物質を作ってみたりする。


あるいは、細胞の内部に「つっかえ棒」を大量に作って、自分の体を内側から強化し、ほかの細胞とガッチガチに手を結ぶことで、サッカーのフリーキックで守備側がやるような「壁」を作ったりもする。


みんなできれいに整列して、足にすべりどめを装着し、頭の上に手を伸ばして、サッカースタンドの観客が応援の横断幕をきれいにひろげるように、みんなでウワーッと頭上の物体を手渡ししていくようなこともする。




細胞がさまざまな道具を手にして装備を充実させることを、医学用語で「分化」という。


手分けするために化ける、というわけだ。


病理医が細胞を観察するときには、細胞がどのように分化しているかを瞬時に、かつ、念入りに判断する(この両方をやるのが難しい)。


分化の方向性がわかれば、その細胞が「どういう気持ちでそこにいるのか」を推しはかることができ、ひいては、病気を構成する細胞の「わるだくみ」をも見抜くことにつながるのである。ま、細胞なんて、何考えてるんだかわかったものではないですけれどもね。

2021年2月17日水曜日

ハイファイの闇

仕事中に脳内に流れるテーマ曲みたいなものが昔はけっこうあった。


けど、いまは思い付かない。


朝起きて、ご飯を食べているときとか、身支度をしているときなどには、けっこう脳内でかかる曲が決まっている。


車に乗るときも、誰も居ない院内を歩いているときも、デスクのまわりのあかりを付けるときも、ある程度曲が決まっている。


でも、仕事がはじまると音楽が止まる。





CPUに負担をかけないためなのかもしれない。

よけいなアプリをぜんぶ落としているのかもしれない。

息継ぎをするようにTwitterの画面を覗き込むときには音が帰ってくる。

けど顕微鏡の中は静かであるし、Twitterの外は凪いでいる。




デフォルトモードネットワークは雑音に満ちていて、ざらついたノイズを消すためにぼくは自然とバックグラウンドミュージックでうやむやにしようとしているのだろう。





ちょっとまえにTwitterで、おそらくはシャープがつぶやいていて、その後beipanaさんという人もフォローして知ったURLで、これはけっこう有名なので知っている人も多いと思うのだが、




仕事中、いちおうこういうものを流してはいることもある。

どうにも集中できないときだ。

この音楽がだんだん聞こえなくなってくることを目指して、脳の整列をすすめていく。すると、沈黙の向こうで知性が手招きをする。

2021年2月16日火曜日

病理の話(505) それは俺の仕事じゃないと言う病理医

診断がわからないことは、ある。


患者からとってきた検体をいくら見ても、いくら免疫染色をしても、「おそらく悪いものだ」とまではわかるのだが、「具体的になんという病気なのか」がわからないことは、ある。



そういうとき、病理医がさまざまな教科書や論文を調べて、わかるまでがんばるというのは大事なことだ。これはいわゆる美学の問題か? いや、ハイアベレージな結果を残すために必要な努力、あるいは職能の話だと理解している。


また、本を調べるとか、人に聞くとかいった「他力本願」だけではなくて、わからないなと思ったらいったん気持ちを落ち着けて、ほかの仕事をして、少し時間を潰してから、あらためて顕微鏡を見直すことで、さっきは見えていなかった細胞のあれこれに気づくということも、ある。


けっこう多くの病理医が、かなりの時間をかけてひとつの診断にたどり着いた経験を持っている。


普段は多くの細胞を文字通り「瞬間的に診断」している、現役バリバリの病理医であっても、時間がかかるときはかかる。


病理診断は脳を使う医療である。歩き回るよりも、手を動かすよりも、「早い」だろうと思われがちだが、意外とさまざまに時間がかかる。





さて、診断がなかなかつかないときにどう行動するかは、病理医ごとに特徴がわかれるように思う。


A. ただちに、目上の病理医、同僚などをまきこんで、みんなでわからないわからないと大騒ぎしながら診断しようとするタイプ。


B. ぎりぎりまで自分で考えたいために、抱え込んで、何日も熟考して、どうにもわからないとなってから誰かに相談するタイプ。


なんとなく予想がつくと思うのだが、基本的にBはけっこうやばい。自分より経験のある病理医にさっさと相談すれば道が開ける可能性があるのだが、それをせずに、自分の能力を過信して、ああでもないこうでもないと時間を重ね、結果的に患者や主治医を長く待たせてしまうことになる。


ただし、「すぐに他人の力を借りるA」というのも、(おそらく皆さん予想されてはいるだろうが)けっこうあぶなっかしさを含んでいる。これがわりと理解されにくい。


マニアックかつ概念的な話で恐縮なのだが、病理診断においては「ファーストタッチをした医者が最初に立てた仮説」が思いのほか重要だ。


「最初にしっかり見た私としては、病気Cと病気Dと病気Eで迷っています。」


この基準が最初にビシッと定められていると、いかに難しい病理診断でもなんとかなるものである。


しかし、最初にその症例にあたった人が、ろくに顕微鏡を見ることなく、難しいからわからないと叫び倒して人に聞きまくる場合は、この「序盤の仮説」が弱い。


すると、診断全体に悪影響を及ぼすことがある。これについては本当に言語化が難しい。「あまり誠実でない病理医が中心にいると、周りにいくら優秀な病理医が集まってもなかなか診断がいい方向に進まない」とでも言おうか……。




病理医のなかには、ごくまれにだが、、標本を見て、たいして考えもせずに、「この検体は小さすぎるので診断ができません」とか、「病変の一部分しか見えないこの検体だと診断は決まりません」とあきらめてしまい、「たぶんがんだがそれ以上はわからない」というタイプの診断を書いておしまいにしようとする者がいる。


めったにいない。最近はまず見ない。けれども昔は、いた。


「ここから先は病理医が決める話じゃないよ。臨床医がもう少し頑張って、検体を取り直すなり、ほかの検査で診断を決めてくれなきゃあ」


みたいな態度を前景に出して、目と脳の努力を惜しむタイプの病理医が、かつてはけっこういた。




もうちょっと、ここで自分がやれることはないだろうかと、ねばってみろよ。


よく、そのように、頭の中で唱えていたものだった。近頃の病理医は優秀な人ばかりで、こんなやきもきした思いを抱くことも少なくなっている。

2021年2月15日月曜日

伝わらないことを利用する

声や、言葉。


それが「誰に向けられているか」によって、ぼくらは無意識にアレンジの仕方を変えている。


いわゆる独り言は本人だけが了解できればいいので省略が多くなる。


前提はすっとばしていいし、結論が見えた時点で口に出すのをやめることもできる。


独り言はハーケン(登山のときに山肌に打ち込むやつ)みたいなものだ。手がかり、足がかりにはなるが、置いてきぼりになることもある。いかにも意味深だが、登山者本人の一部というわけでは(必ずしも)ない。


一方で、目の前にいる人に「説明」しなければいけないときは、言葉がハーケンであってはいけない。


今から言うことが何につながっていて、どういうきっかけでそれを考えて、どのような筋道で、どこにたどり着こうとしているのか、すなわち「来し方」と「行く末」と「今ここ」とをすべて揃えないと、伝わらない。





ところで、目の前にいる人に「独り言っぽい何かを聞かせる」というタイプのコミュニケーションがある。


「今から言うことは独り言だから、あなたにはすべては伝わらないかもしれないけど、そんなことはわかっているんだよ、ぼくはとにかくあなたに、『なにかむつかしいこと』を考えているテイを見せたいだけなんだ」


という意図が、実際、よくあると思う。


伝わらないことを前提としたコミュニケーションだ。






先日、ある商売の上手な人……と思われている人がテレビで、商売の方法を説明していた。スタジオでは芸人がそれを茶化している。


コーナーの終盤に、「ほんとうはもう一つしゃべりたいテーマがあったのに、芸人たちが余計なボケやツッコミを入れてくるから、最後までしゃべれなかった!」と言って、画面に一瞬、テロップのように「ほんとうはしゃべりたかったテーマ」を表示させた。


でもこれは生放送ではない。収録である。だから、「あっ、やったな」と思った。


もし、ほんとうにこの商売人が「しゃべりたい」と考えていたテーマがあったなら、どうせあとで編集してくれるのだから、かまわずしゃべればいいのだ。打ち合わせだってしているはずである。用意したテロップを最後までやらない、というディレクションは演出意図でしかない。尺に合わせて、芸人のトークをカットして最後のテーマの場面を流すことだってできる。もちろん、最後のテーマは使わないと編集側が考えることもあるだろう、でもその場合、最後に一瞬だけテロップで流すような「チラ見せ」をする意味はない。ばっさりカットすればいいだけの話だ。


つまりこれもまた計算なのである。こっちにはまだあるんだぜ、という「隠し」や「含み」を利用して、視聴者の興味を惹き付けようという試みだ。


「えー何何~、まだ何か考えてるの」


と思わせて、こっちを向かせれば勝ちなのだ。




汚い手を使うなあ……と思わなくもないが、テレビ的な編集の場でなくても、ぼくらはしょっちゅう、「自分の中では省略してしまえること」と、「相手との間で丹念に掘り下げなければいけないこと」と、「その中間」で、ふらふらうろうろする。


ほのめかし、偏り、誤読からのひっくり返し。


もはや文芸だ。そうだ。ぼくらのコミュニケーションはもはや文芸なのだ。




「ずっとだらだらしゃべること」は表現の一形態である。そこでできることがあり、それだと伝わらないことがある。後者の「それだと伝わらない」を利用して自分の評判をうまく上げるタイプの人までいる。


「短く断片を書いて余韻を残すこと」も表現の一形態だ。それと一緒なのだ。ぜんぶ一緒なのだ。そして、ぜんぶ違うのである。

2021年2月12日金曜日

病理の話(504) 正解を知りたいという思い

先日の手術中。

とある外科医は、患者の体の中で、「ある臓器とある臓器」がくっついているのを目にした。

くっついていると言っても、別に臓器同士が仲よくペトっと寄り添っているわけではなく、軽くひっぱった程度では離れないくらいに、固まってしまっている。

彼は、臓器Aのほうを取り除くために手術に入った。しかし、臓器Aと臓器Bは、ちょっと手で引っ張ったくらいでははがれてくれない。さあどうするべきかと悩んだ。

うまく臓器Aだけをベリベリはがして取れるだろうか……。

それとも、いっそ、臓器Bを一部削り取って、まるごと取ってきたほうがいいか……。




外科医なんだからガンガン切ればいいじゃん、というのは素人考えなんだそうだ(ぼくも昔教わった)。一流の外科医というのは、「いかに小さく切るか、もしくは、いかに切らないか」を考えるのだという。

切って取ることは体にダメージを与える行為だ。少しでも傷は小さい方がよく、ちょっとでもモノは体内に残しておいたほうがいい。







臓器同士がくっついているという現象に対しては、「癒着」という言葉を使う。

癒着というと、世の中的にはやれ政治だ経済だ、越後屋とお代官さまだ、カネの話だといういかにも「悪い」印象があるが、体の中でも癒着は起こる。しかも、それはやはり、あまりいい話ではない。

体の中で起こる癒着には大きく分けて2種類ある。

 1.「がん」のため。

 2.「炎症」のため。

前者、がんというのは、組織の中にどんどんしみ込んでいく性質を持つ。そして、しみ込んだ先で次々に、自分が生きていく環境を整えるための地ならしをする。がん細胞の周りに線維がどんどん増えて、周囲が硬く引きつれるのだ。

臓器Aから出たがんが、隣の臓器Bにしみこんだら、この「地ならし」の線維化によって、臓器同士はがっちり癒着する。

一方で、「炎症」によっても癒着は起こる。キズ跡が治っていく過程で、かさぶたの下に硬いものができて、軽く引きつれることがあるだろう。いわゆる瘢痕(はんこん)だ。

臓器Aの周りに炎症が起こっていて、隣の臓器Bとくっついてしまう、ということもあり得る。






さあ、外科医は考える。

もし臓器AとBとの癒着が「炎症」によるものなら、多少むりやりであっても、AとBを剥がしてしまえばいい。

しかし、臓器AとBとの癒着が「がん」によるものだと、AとBを引き剥がしてAだけ取ってくることは、「体内に残したBの中に、がん細胞が残存している」ことを意味する。





彼は手術の前に、CTなどの画像診断で、「おそらく臓器Aから出たがんは、Bに浸潤している(しみこんでいる)」という読みをしていた。

しかし、実際に手術に入って、臓器を手で触ってみると……。




(どうも……炎症で癒着しているだけのようにも思うなあ……このさわり心地は……)





しかし結局外科医は臓器Bの一部を「合併切除」することに決めた。Aだけベリベリ取り外して血がドバドバ出るのもいやだったし、手術前の「読み」を信じていたし、がんというのは見て触るだけではなかなかしみ込む範囲を予測できないということも、これまでの経験の中で痛いほどわかっていたからだ。

なにより、この状況(あくまでこの臓器Aと臓器Bをめぐる状況)では、多くの先輩外科医たちが「取ったほうが安全だ」という見解を、過去のデータに基づいて出していた。

だから外科医は、臓器Aと、臓器Bを、くっつけたまま、まるごと体内から取った。






――後日。

病理検査室に彼はいる。ぼくのデスクにやってきている。

「先生、こないだのあれ……どうでした?」





ぼくはここで、「ああ、がんでしたよ」と答えて終わるわけにはいかない。

彼は、手術中に疑問を抱えたのだ。「臓器Aと臓器Bの、癒着の原因はなんだったのか? がんは、結局どこまでしみ込んでいたのか? AとBのくっついていた部分には、がんがあったのか? 炎症だけだったのか?」

だから、答える。念入りに。写真を提示しながら。顕微鏡の画像を指し示しながら。





「がんはここまでしみ込んでいました。Bの中にも入り込んでいたのです。先生が術中に、Bをむりやり剥がしていたら、体内にがんを残してしまうところでしたね」

「そうですか。なら手術で広めに取ってよかった。それにしても……ぼくが触ってみた感じだと、がんがBにしみ込んでいるとは思わなかったんですよ。なんか、もうちょっとやわらかい癒着に思えたんだけどな」

「あ、それは、このがんが、少し特殊なタイプだからです。ほら、これを見てください。」

「……あ、がん細胞の周りに、炎症があるのか……」

「そうです。このがん細胞は、『周囲に強く炎症を伴うタイプ』なんです。だから先生の手は間違ってないんですよ。たしかにこの癒着は、炎症のさわりごこちがしたはずです。ただし、炎症の中にがんがまぎれていたんですけれどね」






このような「病理医と外科医の対話」は、必ずしも医療の現場で必要不可欠とされているわけではない。

ただし、外科医はときおり、「術中に指先で感じたものの正体」を知り、明日の手術に活かしたいとひそかに思っていることがあって、そのマニアックで専門的な疑問に答えられるのは、たぶん病理医だけなのである。

2021年2月10日水曜日

段取りとうるおい

ガラスプレパラートにアブラが付くのがいやなので、仕事中は手にクリームを塗れない。冬の乾燥で指先が厳しくなってきた。この話を人にしたところ、


「乳液だけでも塗れば」


と言われ、なるほど乳液か、そうかそうか、乳液ってなんなんだろうな……と今さらだが軽くググった。


乳液といえばサザエさんが寝室で鏡台に向かって顔につけているあれだろう、くらいの知識だ。先に化粧水を塗ってあとに乳液だろう? なんかそのレシピというか調味料の投入順序みたいなのは知っている。化粧水と乳液を分けて使う意味があるんだな。これまであまり考えたことがなかった。小児アレルギー科医が使うエモリエントとモイスチャライザーの違いならわかるんだけど。


読者はどうせ化粧水と乳液のことなんてぼくより知っているだろうから、この話題にさらに詳しく踏み込む気はないのだが、いろいろ調べながら思ったのは、「刻むこと」。「刻んでおいたほうがいい」ということ。



昔のぼくなら「なんで化粧水と乳液を分けるんだろう、どうせ両方塗る人が大半なんだから、リンスインシャンプーみたいにセットにすればいいのに。ていうかシャンプーとリンスもそうだ、リンスインシャンプーってのがあるんだからぜんぶそっちにすればいいのに。わざわざ分けるのは商売のためか。コスいな」くらいのことを思っていた。


でも違うのだ。社会では、活動では、人間は、生命は、プロセスをある程度刻んでおいたほうがいいのだ。


「ここまででやめておきたい」とか、「この先でちょっとさじ加減」というものが、本当に多い。


何かと何かは常にペアになっているからセットにしよう、は雑なのだ。AのあとにB、というのと、「ABセット」というのは違う。お味噌汁をひとすすりしてからごはん、というのと、ねこまんまとは違う。


なんだかそういったことを最近はよく考えるようになった。「無駄があるように見えるもの」という話題は世に尽きない。しかし、「無駄があるように見える」と指摘する人が近視的であることのほうが多いように思う。プロセスを刻まないと、その間、ゆっくりと呼吸ができないということもある。なんでもかんでもセットにすればいいというものではない。行程を減らすことでかかる費用を抑える、それは確かにけっこうな考え方なのだが、「コストをかけることで彼我双方がちょっといい気分になる局面」というものを、あまりないがしろにしないほうがいい。



乳液はめんどくさいのでまだ買っていない。

2021年2月9日火曜日

病理の話(503) エライ人がまとめりゃいいってもんじゃないんだよ

学術論文では、過去の研究者がすでに導いている結論を「引用する」ことがとても重要だ。


「Aらの報告によれば、BはCであるとされる。」のように書く。


「Aさんたちが前に言ってたよ。」をまず述べて、「ぼくもそう思うよ。」と続ける。これが論文の考察部分の、9割を締めると言ってもいいだろう。


慣れていない人が読むと、「なんだか、昔の人々の結果ばかり引用して、自分オリジナルのアイディアがなかなか出てこないな。つまんないな。」と考えがちだ。


もっと純粋に、自分の大発見について述べればいいのに、と思ってしまう。


しかし。


実はこの、「今から言うことの9割はもうわかっていることだよ。ぼくがここに新たに、1割だけ知識を付け足すよ」というやりかたこそが、サイエンスなのである。



偉そうに言うけどぼく自身、このことが身にしみてわかったのは4年前のことだ。



4年前、ぼくは、「レビュー」と呼ばれる論文を書いてみろと言われた。仕事を依頼されたこと自体は光栄だなと思ったけれど、実は、あまり気が乗らなかった。

なぜか? それは、「自分はこのジャンルの論文を書く資格がないのではないか」と思っていたからだ。

まず、依頼された分野は「食道と胃のつなぎ目の部分に発生する病気について」であった。ぼくが自分の病院で、自分でいちから経験した「食道と胃のつなぎ目の病気」は、せいぜい20例程度であり、そんなに多く経験する病気ではなかった。

もっとも、ぼくは他の病院から診断の相談(コンサルテーション)を引き受けることがある。よその病院から依頼されて診断した症例は100例程度あった。つまりは、自分の病院の中で診断した症例よりも、他施設に頼まれて相談に乗った症例の方が多かった。

このため、ぼくがこの領域に詳しいとは言っても、なんだか、「人のフンドシで相撲をとった経験が多いだけだなあ」、という気がしていた。そんな状態で、論文を書いていいのかなあ、と純粋に疑問だった。



それに、レビューという形式にもあまり気乗りがしなかった。レビューというのは、「他人が言っている話を多く引用して、そのジャンルで今どういうことがわかっているかをざっと振り返る」みたいなものをいう。つまりは過去の焼き直しであり、自分のオリジナルな意見を書く必要は必ずしもない。たとえるならば、「Yahoo!個人記事。今わかっていることをまとめてみました。」みたいなものであり、「ボリュームが少なめの教科書」にも近い。そういうのはぼくよりはるかに経験があるセンセイが書くべきで、当時のぼくみたいな「中堅にさしかかる直前の若手」がやるのはおこがましいだろう、と思った。


だからぼくは、一度この話を断ろうと思った。


「ぼくよりふさわしい人がいるんじゃないかと思うんですよ。だいいち、レビューって、もっとベテランの人、大御所が書くものなんじゃないですか?」


すると、論文の依頼をしてくれた人が、こう言った。


「レビューみたいな仕事は、エライ人がやるんじゃなくて、これからがんばろうという若手こそがやるべきなんだ。だって、他人の論文を大量に読んでまとめるのって、勉強になるだろう?」




あっ……と思った。その発想が純粋になかった。




そもそもサイエンスは過去の学者達が積み上げてきた成果の上にさらに知恵を重ねていくものだ。「巨人の肩の上に立つ」という言葉がよく知られている。あとからやってきた研究者がたった一人で、「ぼくにはこう見える」を言っても、そんなもの、誰も相手にしてくれない。いかにくり返し、いかに積み重ねていくかに本質がある。


そして、積み重ね、積み上げたものを、いつも振り返る役目というのも必要なのだ。文字通りの「エライ人」たちは、何度も何度も振り返った記憶があり、そのジャンルのことをよく知っている。しかし、若手は、まだそのジャンルを俯瞰した回数が少ない。「巨人」のことをあまり知らないまま現場で働いている。


だから、「若いときこそ、レビューを書くべき」なのだ。ははあなるほどなあ、と思った。エライ人がまとめりゃいいってものではなかった。



https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/28425656/



4年前と3年前に、小さなreviewを2本書いたあたりで、ぼくは「ひとつの領域の論文を片っ端から全部読む」ことをようやくできるようになった。ミニ教科書を書くような仕事は、読者のためになるだけではなく、だいいちに著者自身の経験になる。みんなに頼られる人だから書くんじゃない、書き続けるから頼られるようになるんだという、因果の逆転をぼくは味わい、それ以降、「学術に関する執筆」について、前よりもだいぶやる気が出せるようになったし、「書かずにベテランを名乗ること」の怖さもじんわりと感じられるようになったのだ。

2021年2月8日月曜日

忘れる機能

勉強の速度を落とさないことが難しい。スキマスキマに購読雑誌を読んでいく。『胃と腸』、『病理と臨床』の2つは日本語ですぐ読めるし、これをぼくが読んでいることを前提として質問してくる臨床医や病理医がけっこういるのでなるべく早めに通読しておく。American Journal of Surgical Pathology (AJSP)もざっと通読する。これらはとにかく、「見出しくらいは覚えている」状態にしておかないと、ネットワークの中でノード(中継点)として働けなくなるので、積ん読しないほうがいい。


積ん読や「あとで読む」が許される本としっくりこない本とがある、ということを思う。思考の強度が強い本、あるいは、叙情的な本、もしくは、詩、そういったものはいつまで積んでもいいし、積むことで周りにほのかに香りがしみだしてくるような感覚がある。一方で、「買ったらすぐ読まないとぼくの興味が離れていくので読めなくなる本」が確かにある。また、「買ったらすぐ読まないと味わいが落ちるタイプの本」というのもあると思うのだ。本は積んでなんぼ、という人に話を聞いていると、この、「躍り食いにしか向かない本」をあまり読んでいないと感じる。一方のぼくはたまに「踊り読み」をする。旬を逃さないためだけに読む。「受賞作を読むこと」もその一環かもしれない。ものすごくおすすめするわけではないが人によっては人生を少しだけ華やかに、あるいは騒がしくできるだろう。ねっとりと味を楽しむものではない。のどごしが勝負だ。


ぼくは原則的に「読み終わってから積む」ほうが好きなタイプの人間であり、積ん読があると消化したくなる。さらに言えば、定期的に蔵書を捨てて本棚をカラにしないと落ち着かない。ただ、本棚ひとさおをまるごと捨ててしまうようなふるまいはさすがにやめた。かわりに、一冊読んでつまらなかったらその日のうちに捨てる。そうすればあとでまとめて捨てる手間がいらない。


なるべく手持ちの本を少なくするため、医学書については職場の本棚を活用すると共に、処分の仕方も考えている。買った本のうち「辞書として使えそうな本」は残すことが多い、もっと言えば、「さくいんを使って初読時の感動を引き出せそうな本」は手の届くところに置いておく(よっぽど著者と編集者とデザイナーが優秀じゃないとうまくいかない)。一方で、「物語として読むタイプの医学書」は研修医室に寄贈してしまうことが多い。1冊3000円以上、ときには12000円くらいすることもザラな本を一度読んで人にあげるなんて贅沢の極み……とは全く思わない。後輩たちだってぼくからやってきた本を勝手にブックオフに売り飛ばしたりはしないし、本に線を引きながら何度も読みたい研修医はぼくの本を読んだあとに自分で買い直しているから回し読みの罪悪感もさほどない。ぼくが再読したくなったら、もう一冊自分用に買い直す。これで誰も損しない。


おもしろかった本はなるべく本棚に、意図がある感じで挿す。どの本とどの本の間に置くかきちんと悩む。その本をもらったときにいっしょにいただいた手紙やマスキングテープの断片などを、しおりがわりに本に挟んでおく。数年越しに照れることも可能である。


背表紙を定期的に眺めることでその本を読んだときに自分の心が受けた衝撃を思い出し、そのインパクトで自分の毎日を駆動する、ということをたまにやる。


人間の脳は忘れる機能を持っている。進化の中でそのようになった。だからほんとうは、覚えすぎないほうがよいのだと思う。表紙を見てふと思い出す、あるいは、まだ読んでもいないけれど表紙を見てなんとなくこうかなと思う、くらいの段階が一番脳にとってはいいのかもしれない。そういうことはわかった上で、毎日のように思う、「勉強の速度を落とさないことが難しい」。つまりはすべて言い訳なのだ、本を読むことも、読まないことも、生きていくことも、やっていくことも、眺めているだけで思い出した気になることも、忘れたい忘れたいと言いながら延々覚えていることも。

2021年2月5日金曜日

病理の話(502) めずらしい場面をみんなに教えつつ学ぶ

たまに医者が「学会で発表」とか「論文を執筆」みたいなことを言う。今日は具体的にどういうことをやっているのかをつらつら書いてみる。


実際の症例を使って今日の記事を書くわけにはいかないので(個人情報保護というやつだ)、ぼくが今座っているデスクの周りにある本の中から一冊を適当に選んで、パラパラめくって、ぶちあたった症例を元に架空の物語をでっちあげる。ちょっと待って。


ダララララララララ(ドラムロール)




デデドン! これにしよう。肝臓の教科書を取り出して開き、適当に考える。よし……。



じゃここからはドキュメント(※フィクション)形式にします。








ぼくは武者小路麗介、29歳、身長197cm、中学校時代にはジュノンボーイのグランプリをとってからジャニーズで単独デビューして今はカンヌ国際映画祭の常連でドバイに家があって奥さんは3人いるんだけどたまに日本で病理医をやっている。

先日、ぼくからみると頭2つ分くらい背の低い内科の医者から相談を受けた。

「武者小路先生ちょっといいですかごめんなさい。今度手術になる肝臓の腫瘍の症例なんですけれどごめんなさい。実はCTでもMRIでも診断がつかなくてごめんなさい」

彼は、ぼくを見るとオーラにやられて、しゃべると全ての語尾にごめんなさいをつけてしまう奇病にかかっている。予後は悪くないので放っておくがかわいそうなことだ。




(……このペースで書くと終わらないので普通にやります)





臨床医が、患者の肝臓に2 cmくらいのカタマリを見つけた。さまざまな検査を行ったが、一般的によく知られている病気とはどことなく雰囲気が違う。

手術によってそのカタマリは体の中から除去された。

そして、病理医は、顕微鏡を用いてカタマリを詳しく調べた。



この病気は実にふしぎな性質をもっているということがわかった。

病理医が診るに……


「病気Aの性質を60%、病気Bの性質を40%持った、ハイブリッド」


だった。うーん、見たことがない。病理医は驚く。




さあ、今日の話はここからだ。




まず、驚きの結果を臨床医(主治医)と共有しよう。とうぜん、主治医もびっくりする。患者に説明し、一緒に考えるにあたり、無策では当たれない。今後の治療方針などを検討するためには勉強をする

勉強をする

大事なことなのでくり返した。珍しい病気だったら医者はただちに勉強をする


ありふれた病気であれば医者はこれまでの勉強の蓄積で対処ができる(ことが多い)。けれども、医学というのは日進月歩だから、先週勉強したからといって今週のんびりしていると情報が新しくなっている、なんてこともある。だから日ごろからちゃんと勉強をする。


そして、「珍しい病気」というのは、主治医にとっても経験が浅いのだ。だからこそ、すかさず勉強をしないといけない。それもかなり本気で。ググって終わりではだめだ。


「過去に似たような病気があったかどうか」


「誰かがこの珍しい病気について書いていないかどうか」


先人の知恵。


今この瞬間にも似たような症例を経験して診療を行っている人たちの方針。


とにかく自分一人で勝手に判断してはいけない。人間ひとりの思考能力なんてたかがしれている。絶対に見落としがある。不備がある。思い入れで考えが偏る。まして、珍しい病気を相手にするならば。自分の脳を過信してはいけない。


この珍しい病気をもった患者に対する「方針」を注意深く探り、診療を進めよう。勤勉な医者であれば、おそらく、年に何度かこういうシーンは訪れる。


そして、同時に……


今この瞬間、世界のどこかで、似たような珍しい病気に直面している他の医療者のために、「珍しいと思ったこと」を記録して世に出す






どうやって記録して世に出すのか?


まずは……身近なところ、つまり自分の勤め先できちんと相談をしよう。当たり前なんだけどこれを怠るとロクなことにならない。臨床医たちと、「今回の病気ってどこがどう珍しいのか」を確認しあおう。一人で勝手に「うわあ珍しい!」って騒いでみたはいいが、よくよく調べると、それほど珍しくもない(教科書にもいっぱい載っている)なんてことは、まれによくある


「個人の体験から言うと珍しい」、にはほぼ説得力がない。人間というものは一生を通じて、ほんとうにわずかな体験しかできないのだな、ということを毎日のように感じる。とことん、思考に参加する脳の数を増やす。これがまじめに医療をやるコツである。


「身内」とさんざん話し合って、さんざん教科書を調べて、さんざん論文を検索したら……。


「学会」に報告をする。学会というのは専門家が集まる場所だ。どれくらい集まるかというとそれは学会のでかさとマニアックさによって異なるのだけれど、医療系だと、でかいものではのべ10000人規模、小さいと100~200人といったところだ。


世界各地でがんばっている専門家に、この症例のことを見てもらうのだ。


形式を整える。「ポスター」というやりかたと、「口演(オーラル)」というやり方がある。ポスターというのは、「学会」の会場の中にあるでかいスペース(体育館くらいあることもある)に、クソデカポスター(例:180×90 cm、あるいはA0と呼ばれるサイズなど)を貼って症例を見てもらうやり方。「口演」はみんなが座っている会場の前で校長先生っぽくしゃべる、なおパワーポイントを使ってスライド投影をしながらしゃべることが多い(漫談ではない)。


一般に若い医者はオーラルの方が格が高いと思っているフシがあるが、ぶっちゃけ、格うんぬんでいうと、「学会発表というくくりの中では多少の上下があるが、医者の仕事全体から眺めればどっちも大差ない」。自分のやりたいことに見合った形式を選ぶことが大切だ。

気心の知れた自院の友人達ではなく、他院の専門家たちに見てもらうわけだから、ある程度「お作法」を守る。形骸的にととのえろ、と言っているのではない。お互い忙しいんだから過不足なく情報をやりとりするために様式を守ろうぜ、ということ。


まずは背景をきちんと述べる。Aという病気がありますよね、そしてBという病気もありますよね、でもAとBのハイブリッドは珍しいですよね、と。イントロは重要。

次に、その症例が具体的にどういう患者から発生したのか。

そして各種の検査をどのように行ったのか。

検査の結果をどう解釈したのか(検査の結果がどうだったのか、ではない。そんなことは素人でもできる)。

細かく、かつ簡潔に記載する。このバランスは難しい。理路を整備する。破綻があるとすぐばれる。

発表の中には、自分がこれまで必死で勉強した結果をまとめておくようにする。珍しい病気を前にした専門家たちは、「えっ、こういう病気ってどれくらい珍しいんだろう」、「家に帰って早く検索してみたいな」と思うはずなので、「こちらにご準備してございます」とスッと差し出す。腕の良い執事を目指す



こうして学会に発表すれば、自分の経験した珍しい症例を世に出したことになるか?


じつは、そうではない。今からすごく大事なことをいう。


学会に出すと、各地の専門家からツッコミが入る。これを蓄積して論考をさらに磨き上げることが大事だ


自分の勤め先では臨床医も病理医もそろって「めずらしい、めずらしい」と言っていた病気が、超専門家の前では、「まあ珍しいことは珍しいんですけれど、うちではたまに経験しますよ。」みたいに判断されることもある。


また、逆に、他人によって、「あなたがたはこのポイントPが珍しいと思っているようですけれど、私からすると、こっちのポイントQも十分珍しいと思うんですよ。だから診療が難しかったんじゃないですかね?」のように、論点を増やしてもらえることもある(よくある)。


つまりは関わる脳の数を増やすのだ。学会発表をきちんとやると、どんな症例であっても必ず「リアクション」がもらえる。そのリアクションを踏まえて、論考を鋭くした上で、論文として投稿する。


学術論文というのは後世に残る。検索にもひっかかる。学会でのトークは、症例に対する知見を増やす上でとても貴重だが、そこでなされた会話は世界にストックされるかというと、実は、そうでもない。一期一会で終わってしまいがちなのだ。あとでググっても学会での議論の様子はまず出てこない。

だから文章にする。雑誌に載せる。そうすれば100年経ってもググれる知恵になる。100年後にGoogleがあるかどうかはともかくとして、PubMed(医学論文検索サービス)はあってほしいものだなあと思う。


さあ、論文投稿なのだが、書いて出せば載せてもらえるというものではもちろんない。


学会のとき以上に、「ツッコミ」が入るようになっている。これを査読という。専門家たちが論文を読み込んで、この論理が狂っているとか、ここは著者は珍しいと言っているが本当にそれほど珍しいのかとか、過去に似たような論文を書いた人がいたがそれと比べて今回のはどう違うのかとか、そもそも検査の解釈がおかしいのではないかとか、この写真は汚くて見るに堪えないとか、そういったことをネチネチ突いてくる(※善意でやっている)。


査読が得られる雑誌に投稿すると、だいたい6割くらいは「掲載不可」と言われる。これにはいろいろな理由があり、「いい論文なんだけどうちの雑誌にはそのジャンルは要らないんだよ」と言われる場合もあるし、「珍しいっていうけど珍しくないよ」みたいなこともあるし、「ちゃんと考え直せバカ野郎」みたいに怒られることもある。


では掲載不可と言われたら、投稿をあきらめるのか?


あきらめない。自分という一人の医師が、日常現場で困ったこと、つまずいたこと、勘違いしたこと、これらの経験を後世に残すためには、どこまでも粘る。10回掲載を断られても11誌目が反応してくれることもある。


査読のない雑誌(ツッコミがこない雑誌)に投稿するのはあまりおすすめしない。そういうのは自己満足だからだ。もっとも、査読がない雑誌がすべてダメなわけではないのだけれど、ここを語るのは本稿の範囲を明らかに超えるのでやめておく。肌感覚でいうと査読のない雑誌の半分はクソでありハゲタカ、もう半分は善意にあふれた商業誌である。




ずいぶん長くなってしまった。最後にぼくの日常的目標を書いておく。


ぼくの目標は、2年に1度は自分できちんと論文を書く、ということである。大学にいるわけではなく基礎研究を進めていないこともあり、論文を書かなくても給料はもらえるし、ぼくは多数の医師と連携して共同で論文を書いているので、自分が2番手、3番手として協力した論文は毎年少しずつ出してはいるのだが、それとはべつに、自分が1番手となってちゃんと論文に携わることが大事だと思っている。


現在関西医大で教授をしている関西弁の人から、「市中病院で病理医やってるとあるおっちゃんがいてな、まあもうジイチャンって歳なんやけど、2年に1度きちんと症例報告を出してるセンセがいるんや、ワシあの人尊敬しとんねん」と言う話を聞いて以来、よし、ぼくはそういうタイプを目指そう、と思った。14年前の話だが今でも覚えている。現場に出てみてわかるのだけれどこれってすごく大変だ、特に英語で出そうと思うと骨が折れる。でも、やりがいがある。

2021年2月4日木曜日

ストレスの極み

「人間ドックのときに検便するじゃん。あれ、洋式トイレだと届かないでしょ。みんなどうしてるの?」

と美女が言うのだ。やめろ、と思った。会って2秒でウンコの話をするな。

しかし美女はさらに言う。

「でもこういう話をそこらへんに歩いている男性にするくらいだったら医者であるあなたにするほうがまだマシでしょう。しかもこれはけっこう真剣な問題だよ」

うるさい、かんべんしてくれ、するなら俺以外の医者にしてくれ。このクリニカル・セッティング(場)は俺に効く。

「たとえばこれは企業にとっては商売のチャンスだと思う。私みたいに見目麗しくて、昔のアイドル風に言うならウンコなんかしなさそうな人間が、人間ドックの1日前とか2日前に、体をわざわざ前後左右にずらしたりして、あるいはトイレットペーパーで台座を作るなどして、自分の便が水洗トイレの中に水没してしまわないよう、検便ブラシの先が届く範囲に収まるようにウンコ調整をしているなんて、これはちょっとしたストレスだと思うわけ」

ひどいストレスだ。でもまったくおっしゃる通りではある。

「だったら小林製薬あたりが『ブラシ届かない! そんなとき』って商品を出したら一定の商機はあると思うのよ」

小林製薬に深刻な風評被害だ。

「こういう細かなトラブル、些細なストレス、そういったものに対応する商品を小口で販売することが可能になったのも、ネットビジネス時代のいい側面でしょう。わかる?」

わかる。すごいわかる。その顔で言わないでくれ。橋本環奈と間違えられたことがあるって言ってたじゃないか。似てはいないけど。おまけに橋本環奈なら言いそうだけど。

「だからあなたのツイッターをうまく使って私の来年の検便までになんとかしてよ」









以上がフィクションだったら、まだマシだった。ほとんど原文そのままである。なおこの知人にいちおう記事のチェックをしてもらった。

「石原さとみ」のくだりを「橋本環奈」に変えろと言われたのでその通りに変えた。

2021年2月3日水曜日

病理の話(501) 爪も細胞がつくる

爪ってなんなんだろうな……と思ってもなかなか検索するところまではいかない。


でもたまたま勉強する機会があったのでいろいろ本で読んだ。爪って角質なんだよ。


角質って、皮膚の上にのっかっていて、元は細胞だったんだけど、「はがれ待ち」みたいな状態になっている特殊な細胞、というか「細胞の死にかけ」みたいやつであるな。表面に汚れや傷、ばい菌がついても、定期的にこの角質がポロポロ落ちていくときに、汚れも菌もいっしょに落ちていく。新陳代謝するついでにシーツ交換していくみたいなものだ。うまくできてるなあ。


カカトが乾燥でガッサガサになったときに、ヤスリみたいなやつでゴリゴリやってツルツルにするんだけど(しない?)、このときゴリゴリ削れてくる部分も角質。そう、角質というのは、皮膚の場所によって、微妙に付き方が変わっているのである。よくコントロールされているものだと感心する。


さて、爪だ。爪の根元にある細胞は、ほかの皮膚の細胞とは違って、表面に角質を形成する力がやたらと強い。そしてこれは知らなくてもいいのだがほかの皮膚とは違って「ケラトヒアリンを有する顆粒層が存在しない」という細かな差もある(本当に知らなくていいと思う)。この細胞を爪母細胞という。ツメハハ細胞ではなくてソウボ細胞だ。


爪母細胞はじゃんじゃん角質を作って横方向に積み上げていく。普通、垢というのは体の表面に向かって積み上げていくからここでは方向の違いも生じている。なお、そのまま伸ばしていくと、爪と皮膚との間にはスキマができてしまうだろう(田舎のヤンキーの前髪みたいにだらしなく伸びる)。だから、実は爪というのは三層構造(!)になっていて、爪ミルフィーユの一番下の部分は、爪がくっついている部分の皮膚から直接生えてくる、らしい。爪ってなんとなく指の先端方向に伸びるイメージだったけど、実は肌からもじわぁと生えてきてたんだな。だから爪を剥がすと痛いのか(想像するだけで痛い)。



いやーメカニズムが精巧すぎる……いったいどうなっているんだと感心するが、人体の表面にはほかにもおもしろいことになっている部位がたくさんある。例えば毛だ。髪の毛や体毛、これらもある意味「皮膚の中に混じっている特殊な細胞群」から生えてくるわけで。


あとは歯! 歯はほんとうに特殊だよな。こんな硬いものをやわらか人体が作り上げていくメカニズムもこれまた複雑でおもしろい。というかこの話はぼくよりも歯学部病理の人のほうが詳しいんだけど、いずれぼくなりに書いてみよう。でも今日は爪で終わりにしておく。ツメハハ。

2021年2月2日火曜日

陰を陰のままに

書くことにより浮き立つものもあれば、文字を重ねることで埋没してしまうものもある。


書いて明らかになることのほうばかり取り沙汰される。書いて応援、とか、書いて告発、とか、書いて分析、とか、書くとは世の中を「あかるく」することだと言わんばかりだ。


でも本当は書くことで「くらく」なることもある。よくも悪くもだ。


とても繊細な切り口で、AとBの間にある「あわい」を書いたものがあるとする。そのとき著者はおそらく、「あかるく」しようとは必ずしも思っていない。


くらいものをくらいままに描写するぎりぎりのラインを探る。「くらさ」を表現する文章というのがある。


ところが、「書くことはあかるくすることだ!」としか思っていない人がそこに群がってくると、けっこう、やっかいなことになる。


後からやってきて文字を重ねていく人たちのほとんどは、「あわい」を踏んで固め、間を埋めようとすることがある。すきま、クレバス、彫刻刀の痕、刻印、そういった部分に乱暴に土砂を流し込んで、平らにならしてしまう。


「ほら、これであかるくなったろう」


「もう、ひっかかりはなくなった」


などと言う。




書いてあかるくすること、陰を照らすこと、ここに暴力がある。「そうだね」と言っていただけないとこの先の話は読んでもつらいだけだ。「あかるくすることの何が悪いんだ」と心のそこから信じている人は、夜行性の生き物たちの目をつぶし、肌を焼いてしまう。




「あかるくしない文章」を忘れないようにしていたいと思う。かなり気を付けて探し回らないと、そういう文章は、そもそも闇に紛れてじっとしており、こちらにはなかなか近づいてこない。手を振ってこちらに駆けてくるような文章ばかり読んでいると、いつしか白がハレーションを起こして、世の中にある輪郭がいろいろすっとんでしまう。そういう理解をしている。そういう覚悟もしている。

2021年2月1日月曜日

病理の話(500) 書き慣れている図

マンガ『フラジャイル』の13巻にて、ある泌尿器科医が登場する。


彼の名は大月という。無造作な髪、1日前に剃った髭。どう見ても怖い。迫力の土俵入りみたいな雰囲気がある。


大月が、病理医・宮崎(モルカー的なキャラ)に、腎臓移植について説明するシーンがある。ここで宮崎は、腎臓のことなら知ってます、いちおう医者ですので、と言うのだが、大月はばっさりと「わかってねえから説明する」と語る。


長年、腎臓病と向き合ってきた大月は、他科の医師である宮崎や、読者である我々が、「腎臓移植というのはこういうものだろう」となんとなく……あるいは、最低限度、知っている内容をはるかに越えたものを語る。


それは決して難解ではない。むしろ、わかりやすいくらいだ。


ペンを持ってホワイトボードにスラスラと腎臓を書き込んでいく。一発書きで。


宮崎は思わずつぶやく。「書き慣れている これ 今まで何度も患者さんに説明してきたんだ」


大月の描く絵は、本当にわかりやすい。


ルール違反だと知ってはいるが、あえてそのページの一部を写真に撮らせてもらう。意図を察して欲しい。





このシーンの作画は鬼である。もともと漫画家・恵三朗先生の画力は異常に高いのだが、「絵が巧い漫画家が描いたから、登場人物が描いた腎臓も上手だ」というわけではなく、泌尿器科医・大月がいかにもこれまで「多数の患者相手に何度も何度も描いて説明してきたからこそ描けるレベルのうまさ」だな、とはっきりわかるのだ。

記号化された腎臓、しかしそこには、ぱっと見で「ここは管、ここは実質」とわかるような、それでいて「絵の素人である大月が用いることが可能な」絶妙の効果が潜んでいる。腎臓の立体性を増すためのチョンチョンチョン線、適切な線引き、「患者がいちばん気になる治療の頻度の部分をフキダシで書き入れる感覚(すごいわかる)」……。




そう、「漫画家が描くからうまい」のではない。確かに大月はこれを何度も説明してきたんだろうなという歴史をにじませているこのシーン全体がうまいのだ。




その上で今日の本題である。




世の中には天才が山ほどいる。はじめて出会った難問を解き明かすタイプの知能というのもある。多く経験していることが必ずしも、上級であることを意味しない。そんなことは承知の上で、言う。


「経験を重ねることで説明がうまくなるタイプの人は、確かにいる」。


もちろん、何度も何度も場数を踏むことで、かえって細部が雑になり、説明が適当になり、「素人向けの説明がへたくそになるタイプの有識者」というのも、世の中にはいっぱいいるのだけれど。


こと、患者に向き合う大月のように、「説明するたびに、患者がどのタイミングでわからなさそうな顔をしたかを全部おぼえて次に活かそうとする」タイプの人……


「質の高い経験を数多くこなし、その都度フィードバックで自分を成長させた人」には、なんというか、レベルの違う説明能力が備わることがある。





ただ数を重ねてもだめなのだ。


少しでもいい反応が、相手から帰ってくるように。


500回、1000回と、回数だけ誇ってもだめなのだ。


せめて昔の自分より、今の読者が、わかりやすいと言ってくれるように。