2021年10月29日金曜日

あさまシーソー

けん玉が得意な人に「けん玉が得意だからと言って偉いわけじゃない」といちいちつっかかってどうする。油絵を趣味にしている人に「油絵以外にも人生には大切なことが山ほどある」と説教するなんて野暮だしかわいそうではないか。


それと同じように、勉強ができる人、学歴が高い人に向かって「学校の成績がいいからって偉いわけじゃない」とか「勉強以外にも人生には大切なことが山ほどある」と言うことは嫌がらせだと思う。「頭の良さが学校の成績だけで決まると思うなよ」の一言が持つ暴力性に自覚的でありたいといつも感じる。多くのハラスメントが次々と糾弾されていく中で、「演算能力が高いこと」や「記憶力が高いこと」は、いまだに茶化してもいいもの、叩いてもいい存在だと思われているように思う。


この話をすると「弱者が強者に立ち向かうのはいいことだ」というピントのずれた反論がくることがある。問題はそこにあるのではなく、そもそも、彼我の間に強弱を設定して高低差ありきの議論をすること自体がくだらない。弱い者が強い者を引きずり下ろすことは、強弱を入れ替えて弱い者いじめの構図を保存しているだけだ。




……という話も、きっと、哲学や倫理学の世界ではすでにトピックスになり終えたものなのだろうな、という予感はある。「その話もうやったわ」みたいなことがいっぱいある。先人達が議論し終えたのになお、現場レベルで解決がなされていないということは、構造的にこの問題は解決不能なのかもしれない、という気もする。あるいは、解決することでほかの問題がむしろ大きくなる、という類いの話なのかもなと思う。

人間には、自分を弱い側に置いて、高低差をしっかり意識してから強い者の側を攻撃するという「指向性」がある。文字にするとおぞましいが、克己の物語、逆転の物語、革命の物語、これらには本能を悦ばせる何かが潜んでいるように思う。「そんなことをして何になる!」とまっすぐ突っ込むことは、半分合っていて半分間違っているのだろう、「ストレス解消になる」という理由に反論するのは思った以上に難しい。

正直に書くが、ぼくは叩く側に回った自称弱者をあさましいと感じる。「弱者」というポジションを受け入れたからには強弱の論理を是としたんじゃん、という気持ち。「弱者」と名乗ることで逆説的に強者の存在を盤石にしちゃってるじゃん、という感情。このように、弱者を名乗る人たちを攻撃しはじめている自分に気づいてはじめて構造が回る。叩いてはだめなのだ。怒ってはだめなのだ。なじってはだめなのだ。これだけわかっていてもなお、心の襞の裏から飛び出してくる「自分のデコボコのデコをどこかにぶつけ、ボコで何かを受け止めたい感情」を抑えられない。そういうことに自覚的でありたい。何かをがまんしてその先にもう少しいい風景を見たい。このように書くとまた、「がまんできない人もいるんですよ」という叱責が飛んでくる。

2021年10月28日木曜日

病理の話(591) 色あせるものと色あせないもの

患者から採取された検体の話。


たとえば胃がんの手術で胃を切ったり、肝臓がんの手術で肝臓の一部を切ったりしたあとのことを考える。


切った臓器はフニャフニャだ。そのまま保存すると劣化する、というか、いやな言い方をすると腐る(細菌やカビなどが繁殖する)。そこで、後々まで見返せるように、「固定」という作業をする。


これについては昆虫の標本だとか獣の剥製(はくせい)を思い浮かべてもらうといいかもしれない。品質を長く保つにはケミカルな処理をする。人間の臓器であればかの有名なホルマリンを使う。


現在、病理検査室で用いているホルマリンは10%緩衝ホルマリンという。詳しい話はしないが、この調合が一番いいとされている。何にいいかというと、「臓器の中にある細胞の、さらにその中にある遺伝子の情報までも保存しやすい」のである。病気になった臓器をとってきた際に、そのカタチだけ保てばよいというのであれば、鹿や熊の剥製みたいにすればいいのかもしれないが、ぼくたち病理医は臓器を外から見るだけで診断するわけではない。


細胞の中にあるDNAやRNAといった微細で繊細な物質が、経年劣化しないように。あとから遺伝子の検索ができるように。そこまで考えて、固定をする。


もっとも、ホルマリンが無敵なわけではない。5年も経つと劣化は避けられない。10年経つと遺伝子の細かい解析は厳しくなってくることが多い。そこで、病理ではさらに特殊な保存方法を加える。


ホルマリン固定標本の一部を切り出して、パラフィンというロウで固める。このとき、外側をただロウで固めてしまうのではなくて、細胞内にある水分を抜いて代わりにロウで充填するのだ。こうしてできあがった臓器の一部は「パラフィンブロック」と呼ばれる。


このパラフィンブロックは通称「永久標本」と呼ばれる。その名の通り、半永久的に品質が劣化しない(遺伝情報もあとから検索可能になっている)。


そして、パラフィンブロックの表面をうすーく切って(薄くというのは具体的には4 μmくらい、つまり髪の毛の太さよりも薄い)、スライドガラスに乗せて色を付けたものが、おなじみ(?)の病理組織プレパラートである。ここまでしてようやく顕微鏡での観察が可能となる。ただ、じつは、ガラスプレパラートに付けた色は10年ちょっと経つと褪色(たいしょく=色あせること)してしまう。ガラスを大事に取っておいても、20年も経つと染色がかすんでしまってうまく細胞が見えない。


そういうときは、保管しているパラフィンブロックを取り出してきて、ふたたび薄く切るところからやり直して、ガラスプレパラートを作り直せばよい。50年前の症例であっても色鮮やかに顕微鏡観察することができる。




こうして見返すと、生き物の情報を後世に残すには膨大な手間がかかっていることがわかる。そりゃあ昔のことがわからないわけだ、時の選別は厳しい。むしろ、樹液にトラップされた蚊であるとか、火山灰に埋もれた化石であるとか、そうやって何万年もあとに「元のかたちを推定できるくらいの状態で発見される」というのがどれだけ奇跡的なことなのかと驚いてしまうわけなのだけれども……。

2021年10月27日水曜日

病二十病

タイムラインに「柴犬とチワワのミックス」の話が出てきた。ツイ主が「シババかわいい」と言ったらペットショップの店員に「柴チワかわいいですよね」とやんわり訂正された、という胸熱エピソードだった。そこから連想がどちらに言ったかというとヒンドゥーのカミサマのほうに飛んでいった。おわかりかもしれないがシヴァ犬である。


Wikipediaによればシヴァは形の無い、無限の、超越的な、不変絶対のブラフマンであり、同時に世界の根源的なアートマン(自我、魂)だ。見た目の特徴は、額の第三の目、首に巻かれた蛇、三日月の装飾具、絡まる髪の毛から流れるガンジス川、武器であるトリシューラ(三叉の槍)、ダマル(太鼓)などで、インド、ネパール、スリランカなど全土で信仰されているという。以上はコピペしただけなんだけどこうして読んでみるとかなり強めの神様だ。


しかしシヴァといえばぼくにとってはファイナルファンタジー(FF)シリーズの召喚獣である。神様からいきなり使役されるケダモノ扱いなので申し訳ない感覚がある。どこかの国のゲームで神武天皇あたりが召喚獣として用いられていたら日本人はもやもやするんじゃないかな、とびくびく気を回したりする。まあ神様であればそんな些細なことを今さら気にも留めないのだろうが。


シヴァはFFだと氷の魔法を使う。でもWikipediaのどこを読んでもシヴァに氷らしさはない。ファイナルファンタジーでトリオを組まされるイメージのあるラムウ・イフリートなども原典にはいっさい出てこない、というか、本来インドでシヴァと並び称されるのはヴィシュヌでありブラフマーだ。ううむここまでアレンジしてあるものなんだな。逆か、アレンジしないと堂々とは使えないのか。「名前は似てるけど響きがかっこいいからたまたま似ただけで別モノだよ」と理解したほうがいいのかもしれない。


と、ここでタイムラインで知ったのだがグランブルーファンタジーに出てくるシヴァは炎属性なんだって? ははーなるほどなー、本当にゲームごとに好き勝手に変えていくんだなあ。おもしれえなあ。




さてここからはかわいい中二病の話になる。中学生のころにこっそりと書いていたゲームブック的小説がある。ぼくもきちんとそういう時代を過ごしていた。リングノートの小さいやつみたいなのにイラストもりもりでファンタジーを書きためた。もし今発掘されてネットに流れたら5G回線ごと世界を無にして私も消えよう。永久に。その中に出てきた登場人物の名前、かっこいいと思って付ける語彙、所詮は中学生であって、いくつも選択肢があるわけではないので、どうしても狭い観測範囲で「あっ」と思ったものから名付けることになる。そのうち一つは国語か社会の教科書に書いてあった「アーカンサス十字唐草文様」で、そのままアーカンサスという名前の登場人物がいた。書いていて血圧が300もしくは30になる(どちらであっても命にかかわっています)。

そしてもうひとり、これは後にけっこう「ああ……これいつか書こう……」と思ってもはずかしくてなかなか書けなかった話なのだけれど(一度たぶん書いたけど)、ヴュロスという名前のキャラもいた。たぶんウにテンテンのついた名前を使いたかったのである。元ネタはない、たぶんカタカナを書いて調整して作った。のちにふと思い出して、そういえばヴュロス的なかっこいい英単語とかないのかな、と思って検索したのだけれど、中学生が適当に考えた名前に後付けでかっこいい由来が生まれるわけもない。いろいろ探しているとbullous(水疱症)というのがちょっと近いかなと思ったけれどこれもウにテンテンではない(ビュだ)。そうこうしているうちに中二病は自然消退し、黒歴史は色と同じ棚の中にしまいこまれて引っ越しをくり返すうちに全て散逸してしまった。

そして今ふと、vullosで検索を書けてみると知らないものがヒットした。Vullo'sというピザ屋さんがドイツのKulmbachという田舎町にあるようなのである。ぼくはなんだか旅に出たくなってしまった、ちなみに検索したものを見てすぐに旅に出たくなるのは中二病と当たらずとも遠からぬものを感じる。病理医二十年目あたりでこのヤマイは重くなりそうな予感がある。2022年の4月になるとぼくは十九年目だ、もうすぐではないか、病二十病と名付けて警戒を怠らないようにする。

2021年10月26日火曜日

病理の話(590) アンケートのその他欄を大事にしましょうねという話

病理診断においては、顕微鏡を見て細胞のあれこれを確認したあとに「病理診断報告書」を書く。これ、慣例的に「レポート」と呼ばれることが多い。英語に忠実に読むならば「リポート」のほうが正しいのだろうが、医療現場ではもっぱらレポートと発音される。ちなみにreportをドイツ語読みするとレポートになるからその名残なのかもしれない。最近の医者が使うドイツ語なんて「カルテ」くらいだと思っていたが、たぶん、まだあったね。

レポートの書き方についてはいろいろと流儀がある。ただし、なんでも好き勝手に書いていいわけではない。たとえば「この臓器のこのタイプの癌だったらこのような項目を穴埋めしなさい」という統一した基準がある。あまり実際の例を挙げるのはよくないのだが、さすがに具体的に言わないとわからないだろうから、以下に軽く実例を出す。


<例1:胃癌>
・切除方法
・部位(長軸方向)
・部位(短軸方向)
・肉眼形態(隆起しているか陥凹しているかなどを決まった書き方で)
・病変の大きさ
・組織型(※)
・がんがどれほど深く壁の中に潜り込んでいるのか
・がんがまばらに染み込んでいるか、カタマリになっているか
・リンパ管や静脈といった細かい管にがんが入り込んでいないかどうか
・消化性潰瘍の合併があるか
・がんが採り切れているか
・リンパ節に転移があるか
・ほかの部位に転移があるか
・手術の際に行った「お腹の中を洗った水」の中にがん細胞が紛れていないか
・ステージング(病期)


<例2:皮膚癌――の中でも特に有棘細胞癌や基底細胞癌の場合>
・部位とサイズ
・病変の境界がはっきりしているかあいまいか
・初発か、再発か
・分化度(※)
・特殊な組織型(※)
・神経や血管の中にがんが入っていないか
・どれくらい深くがんが染み込んでいるか
・腫瘍の厚さ


だいたいこのようなかんじで、場所や病気の種類ごとに、箇条書きでチェックする項目が変わってくる。

でも、このような、アンケート用紙にチェックを入れていくように穴埋めだけしていればレポートが完成するかというと、そうでもない。

アンケートだけで仕事になるのは、日によるけれど、病理医が一日に診断する量のうち、4~7割くらいだ。少ない日でも3割、多いときには6割くらいの症例は、アンケートの「その他欄」にいろいろ書き込まなければいけない。


なぜ「アンケートのその他欄」がだいじなのか?


それは、ある病気が示す像……病像……が、必ずその人固有のものであるからだ。われわれは常に、ある病気をどこかに分類して、それに応じて治療を選ぼうとするのだけれども、世に同じ顔をした人が基本的にいないのといっしょで、「同じ顔付きをした病気」もまた存在しない。一期一会のくり返しである。

もちろん、治療や対処方法は無限に存在するわけではないから、どこかに落とし込まないといけない。でも、その「落とし込み」は科学が進歩するごとに少しずつ変わっていくので、注意しなければいけない。

たとえば、むかしは「風邪」といったらいろいろな概念を含んだ。鼻水が出ても風邪だし、喉が痛くても風邪だし、頭が痛くても風邪だしお腹をこわしても風邪と呼んでいた。しかし新型感染症がうるさい昨今、「風邪」といってもいろいろあるということは周知の通りである。インフルエンザと新型コロナウイルスとそれ以外のウイルスによる風邪とではすべて対処方法が微妙に異なるだろう、学校を休む期間だって違う。科学がすすむと、病気の分類はより精度が高くなる。

これといっしょで、たとえばかつて大腸で「充実型低分化腺癌」と呼ばれていた病気の一部は、今は「髄様癌」という別の名前が付けられることがある。名前が変わっただけならばさほど影響はなさそうだけれど、じつは髄様癌と名付けられる病気はほかの病気と違う性質を示すのではないかと言われ始めた。

このとき、たとえば20年前に診断した大腸癌のレポートに、ただアンケートの穴埋めをしただけで

□高分化型
□中分化型
□低分化型(非充実)
☑低分化型(充実)
□その他(具体的に:       )

と診断してしまっていると、これが髄様癌なのかどうかはまるでわからない。もう一度プレパラートを見直さないと確認ができない。

しかし、病理医が勤勉で、アンケートの「その他」欄に、以下のように書いてあると……

□高分化型
□中分化型
□低分化型(非充実)
☑低分化型(充実)
□その他(具体的に: 腫瘍胞巣は充実性で胞巣内部にTリンパ球の浸潤が目立ち、病変から離れた周囲腸管内にCrohn-like reactionを伴っている。)

これは後に見出された「髄様癌」だろうな、ということが、その他欄を見ただけでわかるのだ。





病気の本質を科学が常に言い当てているとは限らない。科学というのは常に進歩し続ける性質のもので、ある時点で用いている「科学的な分類=診断」は、未来には必ずより適切なかたちで更新される。これを「昔は間違っていた」という意味でとらえては不正確であり、常に最新のものが一番「本質に近づいている」と考える。詭弁のようだがここをしっかりわかっておく必要がある。

そして、「診断は古びるが、所見は古びない」。アンケートの分類項目をあとから変更すれば、アンケートの大半は無効になってしまうだろう、しかし、「その他欄」に書かれた内容には影響しない。その他欄に細かく記載のあるアンケートは何年経って見直しても意味を取り出すことができる。病理診断レポートでも、それと同じ事をやっている。その他欄に何も書かない病理医は瞬間に生きている。……今のは一部の病理医に忖度しただけで本当はこう言うべきだ、「その他欄に何も書かない病理医は未来に残せるレポートを書く気が無い」。

2021年10月25日月曜日

脳だけが旅をする

瞬間的に通信速度が低下していたらしく、ブログ投稿用ページを開いたら多くのアイコンが表示されずに「□」になっていた。




昔、たしか『火の鳥』で、事故で体を機械に取り替えた主人公が見る風景がぜんぶ「カクカク」になってしまう、という話を読んだ覚えがある。心が機械に近づいてしまうと、有機物(タンパク質を含む生命)がすべて無機物(金属など)に見えてしまう、という意味の描写だったのだろうな。今思い出しても(一部うろ覚えではあるけれど)とんでもない想像力だ、いったいどんな「経験」を経るとそんな情景を考え付くのかと、ため息が出る。

さてこのような描写は本当に「経験」に裏打ちされたものなのだろうか、という話。

手塚治虫のすさまじい描写というと『アドルフに告ぐ』の巨大ドクロ的コマであるとか、『火の鳥 鳳凰編』で我王が(これもすばらしいネーミングだが)火の鳥のシルエットをバックにわかったわかりましたと悟得するシーンであるとか、いわゆる抽象表現のほうをすぐに想起してしまうのだけれど、先ほどの「無機物に見える」のように抽象どころかある意味具体の極みだな、という描写もあるから平伏するしかない。

手塚治虫はべつにブログをやっていなかったからぼくの今見ているような「□の並んだ風景」のような気づきがあったわけでもなかろう、というかそもそもあの時代にはインターネットがない。小説や映画の元ネタがあるのかもしれないが、あれだけ多作で忙しかったマンガ家が果たしてどこまで「インスピレーションのための取材」をできていたものか。



「クリエイティブのためにはさまざまな作品をどんどん読んで目を養うべきだ」という文章を書く人を、そろそろ信用できなくなってきた。猛烈な量の作品を読んだ、映画を観た、旅行をしたというわりに、書くことがみんな一緒だからクリエイティビティを感じない。説得力がないのである。「自分はクリエイションをさらさらっとやれてしまうから時間が余っており、稼いだカネもあるから、いっぱいいろんなコンテンツを体験できてすごいだろう、うらやましいだろう」というマウント以外に内容がないのであきれてしまう。そもそも、ほんとうにさまざまな表現に触れたのならば、そこから立ち上がってくる「その人のシルエット」がないと本来おかしい。猛烈な量のテクスチャがキャンパスにコラージュされていく中で、撥水加工をされたエンブレムのように、周りの喧噪に飲み込まれないぽかんと空いたスキマがあって、その内部に熱ばかりが蓄積されていくのだ、ぼくはそこに目が釘付けになって、空洞の向こうから遠雷のように腹に響く、誰に借りた言葉でもないその人自身の心の奥底から発せられる「呼びかけ」みたいなもの、そのようなものが一切感じられない「クリエイティブのためにはさまざまな作品をどんどん読んで目を養うべきだ」にはうんざりしている。

逆に、手塚治虫にしろ、藤子F不二雄にしろ、「マンガを描く以外の作業ができないほど忙しかったはずなのに生涯にわたってアイディアを出し続けた人」の脳にぼくは強烈な吸引力を感じる。もちろん彼らも若い頃から旅をしたりSFを読んだり、先行者たちのすばらしいものをいっぱい摂取していたのだろうけれど、もっともいい作品を生み出していた全盛期に「クリエイティブのために」コンテンツを取り込むことをやっていたようには思えない。脳内に若い頃の経験をいくら貯金していたとしても、仕事を続けている間にとっくに枯渇していただろう。なのに彼らはクリエイティブであり続けた、それはいったいどういうことなんだろう、心のどこに潜り込めばあんなに誰も知らない言葉を掘り出すことができるのか?

映画をいっぱい観れば役に立つ、なんて気分で映画を観ている人とは話が合わない。脳だけで旅をして、妄想を妄想のままに留めずに自分の皮膚の外縁から外界に滲み出させることに全力でいる、そういう人たちの言葉のほうがふくよかであると感じる。よいコンテンツを経験することを「出力のため」だなどと、もし本当にそう考えてやっているのだったら、その人はもはやクリエイティブなことはできていないしこれからもできないと思う。心が求めている以外の理由で経験を積まないでほしい。積んだ経験が生み出した表現だなどという恥ずかしいことを言わないでほしい。脳はもっと何億倍も複雑な畳み込み式回路だ。「○○のために」という呪いの言葉に囚われてはいけない。やりたいからやる、やるべきことをやる。「のために」の向こう側で何かをインプットし、「のために」を蹴り飛ばしながら何かをアウトプットするのだ。

2021年10月22日金曜日

病理の話(589) タンパク質ばっかりに偉そうな顔させんなよ

人体のあらゆる細胞には「核」が含まれており、核の中にはDNAが格納されている。DNAは設計図のようなはたらきをしており、細胞がもつ様々なパーツをどのように作るかが記載されている。

DNAという設計図には日本語や英語が書かれているわけではない。A,T,G,Cという四つの文字が並んでいるだけだ。

DNAに書かれた謎の文章を実際に読んでみよう。たとえば、AGCTTCGAAという文字列があったら、AGC, TTC, GAA, のように、3つ刻みで解読するといい。これらはそれぞれセリン、フェニルアラニン、グルタミン酸のようなアミノ酸という「レゴブロック」に対応する。さっきのAGCTTCGAAという文字列は、「セリン…フェニルアラニン…グルタミン酸の順番でレゴブロックを1列につないでくださいね」という意味に読める。

レゴブロックをつなげたものがタンパク質と呼ばれる。タンパク質にはアミノ酸レゴが何百万個も含まれている(もっと少ない場合も、もっと多い場合もある)。

レゴを一列につなげただけでは、さまざまな機能を持つタンパク質にはならない。つながったアミノ酸たちはなんかいろいろあって、絡まる、すなわちダマになる。ダマになって途中でブチブチ切れたり繋ぎ直されたりする。こうして最終的にタンパク質になる。


ここまでが「おさらい」。でも大事なことです。今日はこれをふまえて別の話。


人体のあらゆる物質が基本的にはタンパク質でできている。しかし、タンパク質だけだとサポートしきれない機能もある。普通に考えて、レゴだけで人体は作れないと思うだろう。そこで、人体は「DNAを読んでアミノ酸を並べてタンパク質をつくる」以外にも、(知名度的に)マイナーな仕組みをいくつか持っている。


そのひとつが脂肪の活用であり、もう一つは糖の活用だ。脂肪も糖もタンパク質ではないので(食べ物に表示されている栄養分でおなじみだからなんとなくおわかりだろうが)、DNAプログラム→アミノ酸配列の仕組みじゃないところで人体のパーツになるためにさまざまに加工される。もっとも、体内で脂肪や糖を運んで組み上げる物質自体がタンパク質でできているので(目が回りそうな文章だ)、結局はDNAって裏でなんでもやってんな、という話にはなるのだけれど。


脂肪のはたらきとしてとても大切なのは「細胞膜になる」ということである。つまりは細胞の入れ物、器の役目をする。これはとても大事なことだ。器によって「ここまでがひとつの細胞ですよ」という境界をはっきりさせることができる……でもこの説明だと抽象的すぎるなあ、より化学的に説明するならば、「細胞膜という境界があることで、境界の内外に濃度の差を作ることができる」というのが大事である。ここはブログが2000本くらい書ける話になるのであまり深煎り、じゃなかった深入りしないけれど、雑なたとえで説明しよう。波ひとつ経たないような静かな湖では水力発電はできないけれど、高低差があって水が流れ出して川になれば発電はできる。さらに言えば、ダムを造って高低差を強化することで、水力発電はより効果的に行える。ここで大事なのはダムという「差をつくるためのせき止め」だ。細胞膜は、細胞がさまざまな発電的活動をするためのダムの役目を果たす。アァー細胞警察がやってきて「ほかにも細胞膜の機能は2000個くらいあるだろ!」と怒られそうだけれど今日はこれくらいにさせてください。話を脂肪に戻そう。ラーメンのどんぶりに浮かぶアブラのように、脂肪は水をはじく性質がある。これがみずみずしい細胞において「ダム」としての役目を果たす。


脂肪はダムとして水のせき止めを行うだけでなく、脂肪の仲間を自由に通過させたり取り込んだりする性質もあってこれも地味に役に立つ。「トントン」「誰だ」「水です」「くせもの!通さん!」「トントン」「誰だ」「脂肪です」「よし、入れ!」という感じである。ところでさっきラーメンのたとえを用いたが、クセと香りの強い香辛料や魚のアラなどを油で炒めてから、その油を用いてラーメンのスープを作ると、「油に香りを移す」ことができるらしい(自分でやったことはない)。これは、油が油(香りの成分のひとつ)と混ざりやすい性質を利用しているようだ。一部のうまみ成分のように水に溶けてくれるものならば、コンブやカツオブシで出汁をとるように、お湯に成分を移せばよいのだけれど、香りの主成分は油脂を含むので、アブラに成分を移すことで香味油として用いることで料理に用いる。なんの豆知識だ。豆と言えば豆板醤ってすばらしい調味料ですよね。


さて、脂肪の話をすると、体内で水は邪魔者扱いを受けている気分になってくるが、あたりまえだけれど水は生命の要である。細胞の各所に水をきちんと保持しておきたいシーンは多い。脂肪で水をはじくだけではなく、なんらかの物質で水を保つことも考える。

人体内で水分を保つためには、水を通さない容器やパイプの中に密閉して循環させるのがいい。血液を心臓・血管に閉じ込めて循環させるというのがまさにこれだ。実に合目的で、優れた機能である。しかし、血管の外で水をある一定の箇所に保ち続ける方法もほしい。あちこちの細胞でも水は使いたい。

そこで登場するのが、糖だ。


糖は、べたべたする。


うわー小学生みたいな一文を書きました! でもこれが本質である。糖があるとそこには水が寄ってくる。イメージとしては水飴(アメ)みたいな状態を作れる。水分を保つならばそのまま置いとくより水飴にしたほうが扱いやすい(水のまんまで置いとくと流れちゃう)。では、人体の中で水飴的なものってなんだろう? 2秒あげるので考えてみてください。なおこの2秒はあなたが光速に近い移動をすることで引き延ばすことができます。


(とても早く移動)


はい地球上では2秒たちました、ではお答えします。人体の中で水飴みたいなものといえば粘液である。粘液? 見たことないが? という人は鼻をかんで欲しい。さらさらの鼻水しか出ないかもしれないがときにはねっとりした鼻水が出ることもあるだろう。あれが粘液だ。


粘液というのは液状成分であってタンパクがどうとか関係ないんじゃないの? と思いがちだがあそこには「粘液コアタンパク」と呼ばれるタンパク質が含まれている。さらに、このタンパク質には糖がぶっ刺さっている。「糖鎖修飾」と言って、タンパク質のカタマリに糖を刺すことで、水を引き寄せるはたらきを強化している。ベトベトにするために糖を使う。


脂肪を使って水をよけ、糖を使って水を引き寄せる。あらまあ、いろいろやっていらっしゃること。


脂肪や糖はタンパク質よりも研究の歴史が浅いが、20年くらい前にはすでにトピックスになっていたし、今も活発に研究が進んでいる。DNAやアミノ酸、タンパク質ばかりに偉そうな顔させんなよ、という声が聞こえてきそうだ。

2021年10月21日木曜日

ぞうよぞうなのよ

岸田奈美さんがなんでも手伝ってくれるというので、ぼくはいろいろ考えた。noteの好意的読者数が日本一多い作家である岸田さんがひとたび「推す!」と言ったらば、ものすごい宣伝効果になるわけで、こんなありがたい話に、その場でスッと「じゃああの医療系イベントの広報を手伝ってください!」と言えればよかったのかもしれないけれども、具体的なイメージを膨らませようとしてもなぜかイメージが途中でブロックされるような感覚があり、しのごのと言いよどんだ。

他人が躊躇する心持ちを察するのが極めて早い(人生ランキングでいうと第2位、1位はぼく)岸田さんは、すかさず、

「たとえば、副音声とかどうです?」

と具体例を挙げてくださった。副音声? なんだそれは? とはぼくは全く思わない、このとき岸田さんの脳にあるイメージは過不足無く伝わった。ぼくは自分の気質の部分に「岸田分」(栄養分と同じ発音で)を40%くらい含んでいるから、岸田さんの想定した光景をそのまま理解することができた。「ノールックで脳内コンパネのスイッチをパチンパチン指で倒しながら、ゼロコンマ数秒で周囲360度から飛びかかってくるミサイルを迎撃するようなしゃべり」ができる岸田さん(とぼく)は、UIもCPUもメモリも、副音声解説という芸に向いている。わかる……と思った。それは強力だ……とうれしくなった。しかし、次の瞬間には、「岸田さんを『副』においておくなんてもったいない、この方はほんらい『主』であるべきだ」という正義感のようなものにせき止められて、風船のようにふくらむイメージの元栓をひねってとめるのであった。どうでもいい話だが、かつてnote社がイベントを開いたときに、岸田さんを出演者にせずに「遊撃隊」にしてもっぱらツイッター担当をさせたことがあった(と思った。勝手にそう見ていた)のだが本当におろかな話だ。岸田さんを広告塔にしか使えないなんてクリエイティブという言葉をはき違えていると思った。閑話休題。

そんな岸田さんが与えてくれたチャンスにぼくはなぜ即答できないのか。理由についてはひとまずその場で言語化しておいた(ただし口には出さなかった)。端的に言えば「ぼくの活動を岸田さんに応援してもらうことで岸田さんにとって何かいいことがあるのか?」というところが気になるのだ。いや、わかる、情けは人のためならずという言葉もある、剣道部の先輩もかつて、「俺がおごった金額は俺に返さなくていいから、お前の後輩にその分おごってやれ」と言った、それと一緒なのだ、このように申し出てくださる人というのは「自分のためになるかどうか」というのを同じ時間軸で考えていない。利潤を活動と同じ平面上に載っけない。レイヤーが違う。だから岸田さんが何かしてくれると言ったときに、「でもこの活動で岸田さんに何かいいことが起こるかというと……」と躊躇するのはピントがずれている。そんなことはぼくもわかっている。

だからその後考え直し、「贈与なんだから受け取ったらいいのに」というのはぼくの躊躇を説得できる理由にはならないのだということを確認した。ぼくは、岸田さんに何かをしてもらってぼくの活動をパワーアップすることよりも、おそらく心のどこかで、「岸田さんとぼくが組んだら何かおもしろいことがやれるのではないか」という、すでに育っている若木に水をやるのではなくて種から作って森を目指すほうがいいんじゃないか、みたいなことを内心考えていたのだ。だから、「ぼくの何かを手伝いますよ」と言われたときに瞬間的に「もったいない!」と考えてしまったのだと思う。岸田さんとならできる、岸田さんとなら可能性がある、なんてことを岸田さんの都合も聞かずにぼくのなかでここしばらく温めていたのだからこちらのほうが厚顔無恥だし無礼なのかもしれない。おとなしく「あの件の広報を手伝ってください」のほうが岸田さんにとってもかえって負担は少ないであろう。しかし……なんというか……


岸田さんに家に来てもらって掃除を手伝わせ料理を持ってきてもらってホームパーティーを華やかにするよりも、岸田さんといっしょに旅に出たほうがおもしろいんじゃないのか……(※すべて接頭語「脳内で」を付けて読んでください)


という気持ちがあった。よりおぞましい話になった気がしないでもないが、これがおそらくぼくの根本にある考え方なのだ。他人に贈与をするときの最上の形は、基本的に物ではなく旅路を贈ることで達成されるのではないかと思う。このことがわかっている医学書院のメガネのイケメンは、かつてぼくのツイッターでの(本をめぐる)やりとりを聞いて、


「エアリプでのコール&レスポンスってすごいですね。

もはや贈与でしょう、これは。」


と言った。贈与というのは返礼を期待せずにモノを贈る行為、それはまあ合っているのだけれど、贈与というのはたぶん、世界をよくするためにモノを隣に手渡し続ける、という太古の人類の風習などでは説明しきれない概念で、エアリプがいつのまにかタイムラインを作っているようなものなのだと思う。


というわけでぼくは岸田さんとそのうち旅をする可能性がある。脳だけが旅をするというブログをやっていると、こういうとき助かる、なぜならば、意味が複数用意できるからだ。

2021年10月20日水曜日

病理の話(588) しらみつぶしと一瞬の発見劇

顕微鏡を見て病変を……「悪い細胞」を探すときにはいろいろとコツがある。そのコツは、おそらくそう簡単には他人と共有できるものではないのだ、たとえて言うならば、「ウォーリーを探せ」がめちゃくちゃうまい人から探し方を教えてもらうことができるだろうか? 「それはなんか……カンだよね」という答えしか返ってこないことが多いだろう。でもそこを言語化するからこそ病理診断は学問になり得るのである。


たとえば、がん細胞はウォーリーと違って「ある程度いる場所に傾向がある」。このことを知ると、がんを探すときに便利である。こむずかしい専門用語で言うと、「胃癌の組織型が高分化型管状腺癌ではなく、低分化腺癌であれば、漿膜則を癌が”這っている”ことがあるからそこはちゃんと目で見て確認すべきである」とか、「大腸癌のリンパ管侵襲箇所は病変の辺縁部に多いからへりのところをしっかり見る」など。ウォーリーは屋根の上にいるかもしれないし電車の中に紛れているかもしれない、しかしがん細胞にはもう少し理屈があって、こちらも「がん細胞の気持ちになって」探しにいくとそれだけ発見のスピードは上がる。


今、書いていて思ったのだけれど、「がん細胞探し」はウォーリーを探せやジグソーパズルのようなセンス・カン・しらみつぶし系の仕事とは異なっている。やっていることはシャーロック・ホームズの推理に近い。犯人がどういう理由でどこを経由してどのように動いてどんな悪事を働いているのかを、現場で証拠をかき集めながら同時進行で推理する。エルキュール・ポワロのような安楽椅子探偵ではなく、あくまでホームズやコナン君のように「現場を歩き回って虫メガネであちこち拡大する必要がある」というのがポイントだ、ただしそのときやっているのは頭脳をフル回転させることがメインあって、「虫メガネで拡大して地道にぜんぶ見ていればいつかはヒントが出てくる」という類いのものではない。


昔、「さんまの名探偵」というファミコンソフトがあった。主人公は明石家さんま、コロされた犯人が桂文珍、ボートレースで横山やすしとバトルし、島田紳助をどつこうとすると「あいつはやくざだからどつきかえされる」と注意されるというじつにイカれたゲームだったが、このゲームでは画面の中をプレイヤーが調べることができた(「かにかにどこかに?」)。このとき、小学生だったぼくはどこを調べたらいいのかわからなかったので、画面のすべてをカニの形をしたカーソルでぜんぶ調べ回るという方法でなんとか話を先に進めようと悪戦苦闘した。病理医になって顕微鏡を見るようになったとき、最初はこの「かにかにどこかに?」の気分で、「画面」全体をすべて見ないとがんを見つけ出せないものだとばかり思っていた。しかし、達人病理医は違った。プレパラートを顕微鏡に置いて、拡大を上げる前に視野が高速で動いて、どこかでピタリと止まったらそこを思い切り拡大するとなんとその中に確かにがん細胞がある。い、今のはどうやったんですか、と本当に驚くばかりであったが、振り返ってみるとあれはおそらく「がんはこういう場所にいやすい」ということをわかった上で探しに行っていたのであろう。言語化して教えてくれればいいのだが、そのベテラン病理医はひとこと、「経験だね」と言った。間違ってはいないがそれでは若い病理医は増えないだろうと思ったものである。


ただまあ実際に、ぼくもある程度経験を積んだ今だからこそ言えることがある。ぼくはがん細胞を見つけるスピードも診断を書くスピードもめちゃくちゃに早くなった、しかし、じつは何年経っても「しらみつぶし」はやめていない。なぜなら、ウォーリーは一人かもしれないががん細胞は一人ではないからだ。「ここにはいるだろうな」という場所でがんを見つけても、その後、「まさかとは思うがここにもいないか?」という目で標本全体をきちんと調べ尽くさないと、病理医としての仕事を果たしたことにならない。発見して終わりではない、その他の場所にたしかにがんがないことも確認してはじめて病理診断である。だから結局しらみつぶしになるんだけど、これは、「わからずにやっているしらみつぶし」とは意味が違うので、正味の時間は素人に比べるとやっぱり少し早くなる。


はー、ここ言語化するのたいへんだった。でもまあ大枠は伝わりそうかな。

2021年10月19日火曜日

カイゼンなどという摩耗した言葉を喜んで使うのもある種の若さなのかもしれないと思う

ノーベル賞やドラフト会議のたびに「電話の前で座って待っています」とツイートする人いるよね、という話をしていて、ほかにどんなパターンがあるかなとしばらく考えていたのだけれど、フォロワーからのリプライに「スマブラ」と書いてあって、たしかにと膝を打つ。ニンダイ(任天堂ダイレクト)で大乱闘スマッシュブラザーズの新キャラが発表されるときに「俺参戦!!」とツイートしてるやつ、いる。


「他にどういうパターンがある?」系の話題に強くなると楽しいだろうなー、と思うことがかつてあった。ラジオDJとかに求められる資質だ。でも最近はあまり考えなくなった。「会話の中で自分が一番おもしろいことを言いたい」という欲望が消えてきている。


この話をすると、控えめな方々から「エッそんな欲望があるものなの?」と引き気味に驚かれたりするのだけれど、しかし、世の半分くらいの人はなんとなくうなずいてくれるのではないか。みんなで仲良く話をしているときに、自分の一言でまわりがワッと湧いたら楽しいだろうな、くらいの感覚だ。少なくともぼくには何年もあった。それがぼくの、若さの正体であったと言えるかもしれないし、ここはまだ十分に言語化できていない気もする。もう少し言葉を積んでみる。


自分の中にあるもやもやとした想像を具体に近づけるということの一環として、場から得た印象をすかさず共有可能な言語にしてその場に置くこと。これは、世界の中で自分がどこに配置されるのかを確認するための作業だったように思う。どの刺激が、どこの感覚器に入力されて、脳でどのように反響して、どのように出力されてどこの筋肉が反応するのかを確かめつつ、自分の行動、ありようが、誰の感覚器に入っていって、見えないところでどう反響して、何が反射してくるのかを目の当たりにする。テクスチャAとテクスチャBとが重なり合っているとき、それらの境界の部分が織りなす「自然界には本来存在しないはずの輪郭線」が目に映る。自分自身のテクスチャもまた他者から見たらどこかに境界線を作るのだろうと漠然と理解しつつ、でもどこか不安になって、鉄格子の向こうからスリット状に差し込む光の前に手をゆらゆらさせて手の輪郭を確かめるかのように、その場に自分を置くことで世界との間柄を確かめながらさらに自分の境界線を毎回決め直すようなことをしていたのだ。それが最近なくなってきたというのは、つまり、自らの身体の輪郭が、もうこのへんだなということを、ほとんど理解してしまったからなのだろう。それが若さを失うということであり、いよいよ自分のテクスチャを用いて世界にアフォーダンスを加える準備ができたということなのではないか。

2021年10月18日月曜日

病理の話(587) やられた後に復活すると一回り大きくなる

医学部で「病理学」を習うとき、わりとさいしょのほうで、「創傷治癒」というのを習う。画数が多くていかにも専門用語っぽい言葉だ。

創傷の創は、一般には「創造」っぽいイメージがあるかと思うが、「銃創」のように穴の空いた傷口のことを指す。ひらく、という意味なのだろう。

自分が「昨日までの自分」で居続けるためには、体のどこかがやられたときに、それを修復する仕組みが必要である。生きていればさまざまなものから攻撃されるが、傷ができないように避けるか、傷が小さくなるように後ずさるか、あるいは、傷ができてもそれをすぐに治す、これらが達成できれば、人はわりと長生きできる。

さて、胃粘膜がちょろっと剥げたときのことを考えよう。穴が空いたままにしておくとそこから食べたものや胃酸などが胃の壁の中に入り込んできてしまう。だから生体は比較的すみやかに、周りの粘膜の新陳代謝機能を活発化させて、穴の上に橋を渡すように「粘膜の細胞」を穴のヘリから歩かせる。でも、穴が空いたままだと細胞は空中を歩くことになってしまう、ていうかそれは無理なのだが、人体とはよくできたもので、出血に伴って「かさぶた」的なものができて穴が少し埋まり、さらにはかさぶたの下に肉芽と呼ばれる「修復するための土のう」のようなものが盛り上がってくることで、穴がだんだん小さくなっていく。

そして、穴のヘリからえっちらおっちら歩いた細胞が手を繋いで、ふたたび粘膜が復活するのだけれど、このとき、復活した粘膜の細胞……というか、細胞が織りなす構造は、元の粘膜の構造よりも「少しだけ大きくなっている」ことがある。するとどうなるか?

胃で、昔穴が空いた場所に、今は穴ではなく、逆に、マッシュルーム的な隆起ができていることがあるのである。

この隆起のことを「再生隆起」という。おそらく、穴埋めを急いで細胞の新陳代謝を激しくした際に、作りすぎてしまうというか、「足りないよりは余るほうがマシ!」とばかりに、増殖がいつもより活発になりすぎて、かえって細胞の総量が多くなってしまうのだろう。

このことを病理学用語で「過形成」という。英語だとhyperplasia。-plasia というのはプラスチックと同じ語源で「形成」を意味する。hyperはハイパー、なんか増えてるわー乗り越えてるわーというイメージそのままの言葉だ。



では、逆に、胃の中に「小さなマッシュルームのような隆起」があれば必ず「穴の再生に伴う作りすぎ効果」なのかというと、そうとは限らない。

さきほど、「穴埋めのために、まわりで細胞が作られすぎてしまう」ことが過形成の原因だと書いた。しかし、細胞が一生懸命作られすぎる状況というのは、再生以外にもあり得る。

「べつに修復する必要はないのに細胞の新陳代謝が勝手に激しくなる状態」。

ここで思い付くのは、腫瘍(しゅよう)だ。かの有名な「がん」も腫瘍の一種である。ただし、子宮筋腫のような「がんではない腫瘍」もあることも忘れてはいけないが。

腫瘍というのは「異常な増え方」や「異常な機能」を持っている。穴を治す必要がないのに細胞が増えるというのは普通ではない。土木工事の必要がないのに勝手に土のうを積んだりコンクリートを流したりしている、あやしい事業のようなものだ。

となると、われわれとしては、胃の中に「マッシュルームのような隆起」や、「きのこのような隆起」や、「毛足の長い絨毯のようなふさふさ隆起」などができていたときに、それが「穴が空いてそれをふさぐために生じた過形成」なのか、「がんなどの腫瘍によるもの」なのかを、見極めなければいけない。どうやって見分ける?



大丈夫、プロの内視鏡医が見れば、ざっくり99%くらいは見分けられるものなのだ。えっ1%は間違えるの? 心配ない、その1%を訂正するのが病理医の仕事である。胃カメラの先からマジックハンドを出して、マッシュルームのはしっこをひとかけら摘まんで、細胞を病理医に届ける。病理医は顕微鏡でそれを見る、細胞の姿をていねいに観察して、そこにあるのが「再生・過形成」なのか、「腫瘍性の異常増殖」なのかを確定診断するのである。


2021年10月15日金曜日

日本人がノーベル賞を取りました報道に思うこと

最初に言っておくとぼくはそういう「日本人がノーベル賞を取りました!」報道は大賛成である。どんどんやってほしい。インターネット・オーシャンではたいていの有識者が「賞を取ったのが日本人かどうかなんてどうでもいい」とか「国籍がすでに日本じゃないのに日本すごいと喜ぶなんて」などとナンクセをつけている話題だけれど、ぼくはそういうさまざまな声があるのを継続的に観測した上でなお、「メディアはどんどん日本人がノーベル賞を取ったよ解説ニュース」をやってほしいと思っている。


そもそも、昨年「日本人以外のだれか」がどのようなノーベル賞を取ったのかを誰も覚えていない。「日本人かどうかなんてどうでもいいんだよ!」なんていうみみっちいツッコミよりも、「でかいメディアがノーベル賞の話題を扱ってくれてありがたい!」という感謝の方がでかい。そういう規模、そういうレイヤーの話に感じる。


「科学情報の伝わりづらさ」たるや……。平和賞や文学賞、経済学賞はともかく、物理学賞や医学生理学賞は悲惨である。医学の話題でイベルメクチンばかり覚えているほうがどちらかというと不自然なのだけれど、日本人が関わったというだけで我々の脳内には実際、記憶が定着してしまうものだ。日本人が関わっていない科学業績を伝えるのは本当に大変である。そう、科学情報コミュニケーションの話。


科学の話というのはとっかかりがすごく難しくて、情報の受け手に「あ、これ、自分ごとだ!」と思ってもらうのにとんでもなく高いハードルがある。次にあげるのもまたインターネット・コロシアムでよく有識者から出る文句であるが、受賞者に対する質問で「その研究は何の役に立つんですか」がボコボコにされるシーンを目にする、あれだって要は、一般の人にとってその研究成果を自分ごとにしてもらうにはどうしたらいいかとなんとなく感じ取った記者なりのセリフに違いない(それにしても語彙が少ないとは思うが)。許してやれよと思う。話題にするだけマシだ。「その研究はぼくは興味ないんで質問しません」のほうがよっぽどタチが悪い。お昼の失言系のテレビで有名司会者が「ネコもシャクシもノーベル賞の話題で盛り上がっていますけれども、どうせ我々には関係のない頭のいい話ですから、放っておいてネコチャンの話をしましょう」とか言い出す世界線よりずっといい。


「日本人が取った!」ということでまずは目を引く。そして、「この日本人が取ったノーベル賞とはいかに名誉なことで、なぜそんな名誉をこの人が取れたのか」という流れで、研究の具体的な内容を、テレビ局がカネをかけてやとったイラストレーターやデザイナーの描き起こし・作り起こしのテロップできちんと説明していく。ここまでやってようやく、一年に何度もない「お茶の間に科学情報が放送され、スクショがツイッターに拡散される状態」が完成する。科学者の家族関係なんてどうでもいい、科学には関係ない、という怒りについて、ぼくもまったくその通りだと思う一方、変な話、そうやって「身近に感じた人」が発見した事実とはどんなものだったのだろうと、あとから科学を探究しようと思う人が数百人でも増えればそれはいいことなのではないか。


「なんでも日本人ってだけで取り上げるマスコミ(笑)」という冷笑がある種のブームになったきっかけは、THE YELLOW MONKEYの「乗客に日本人はいませんでした いませんでした いませんでした いませんでした」がヒットしたことだと勝手に接続している。あれだってきっと、現場ではたらく人たちにとっては必要な報道だった、「そんなのやめろ」という外野の声以上にその声を必要として役に立てていた人がいたはずのに、冷笑して茶化したものがロックの皮を被って人口に膾炙してしまった(元の曲はいい曲だがその部分ばかり有名になったのでイエモンもしんどかったのではないか)。ぼくは背景を知らずに外野がヤジを飛ばすことがロックのいいところでもあり悪いところだとも思っていて、でもそんなことは、ロックバンドを名乗る人たちもとっくに考えているので、是非を問わず曲の良さだけを語ればよいと思うのだけれども、少なくとも「日本人がどうたらとか言わずにノーベル賞の報道をもっとフラットにしろ」という人たちの大半はイエモンのあの歌からうまく進化できていないのではないか、と少し気になっているのである。

2021年10月14日木曜日

病理の話(586) 病理医が足りないと思うわけ

いったん家に帰って妻子とあれこれ連絡を交わした後に、また出勤している。一時帰宅しているから勤務時間としてはたいしたことがないが、それなりにしんどい時間の使い方だ。


病理診断だけならこんなに時間はかからない。はっきり言うが、10年も病理医をやっていればうちの病院くらい症例が多くても普通に毎日8時半から17時まで働けばノルマは十分にこなせる。ぼくはもう医師18年目だ、プレパラート仕事だけなら余裕だ。

でも、病理医としての仕事は病理診断だけでは終わらない。少なくともぼくはそう思う。


臨床医から、「この珍しい病気はいったいどういうものなのか」と聞かれたら、夜を徹して資料を作ってその疑問に答えるのが病理医の仕事だ。もちろん臨床医だって調べるのだけれど、細胞に関する部分ならば病理医の方が圧倒的に知識があるので、そこは二人三脚、三人四脚、できれば十人十一脚くらいで調べたほうがいいに決まっている。

臨床医や診療放射線技師、検査技師が、学会や研究会で症例報告をしたいと相談してきたら、病理組織像の解説をパワポで作るし、参考文献をダウンロードして読み込んでおく。

他院に勤める医者から質問があれば答える。専門医としての意見が欲しいと言われれば正規の手続きに則ってコンサルテーションもする。AI病理診断の開発を手伝って論文も書くし、学生のための講義資料も作る。

これらのどこまでが「病院から給料をもらってやる仕事」なのかと言われると、いろいろと答えようはあると思うのだが、でもぼくが考えるに、「その病院で採取された細胞のことだけ見て診断していればいい」というのは病理医としてはあまり働けていない。「その病院に勤める医療者のためだけ考えて調査研究していればいい」というのもまだ狭いと思う。「自分が関わる可能性のあるあらゆる患者、あらゆる医療者の中で一番細胞に詳しく、臨床動態と病理組織像との関連に詳しく、遺伝子やタンパク質の異常にも詳しく、座学に強くて発表がうまいからとにかく知恵を借りたいときにはあの病院の病理医に連絡をとったらいいことがある」くらいの評判を積み上げてはじめて、「ある病院の病理医」としてカンバンを出すだけの資格が手に入ると思う。


ただまあ、その一方で、ぼくが元気に残業し続けている限り病理診断科は役に立つぜと言われるのもシャクだ。持続可能なシステムを作るのもまた仕事である。ぼく一人が残業なんかせずとも、脳だけできちんと人びとの役に立つ体勢を複数人でかわりばんこにこなせるようになればいい。チームでやれたらもっといい。


こういうことを全部考えると、日本病理学会の言う、「病理医は足りていません」という話が現実味を帯びてくる。ぶっちゃけた話、顕微鏡をのぞいてプレパラートを見て考えるだけならもう病理医は足りている(一部の地方は大変だろうが)。でも、主治医達の相談役として病院の中で存在感を発揮するにはまだまだ足りない。医者の総数は約33万人と言われる、これに対して病理専門医の人数はせいぜい2600人。病理医ひとりあたり、127人もの医者の相談に乗らなければいけないというのは普通にきついだろう。まして、相手は医者だけじゃないのだ、診療放射線技師だって臨床検査技師だって、看護師だって病理医にものを聞いてみたい。だったら今の10倍くらい病理医がいたって、ぜんぜんかまわない。


だから病理医はもっと増えていいと思う。とりあえず目標は3000人、かわいいものだけれど、10年前は病理専門医は2100人しかいなかったのだから、最近の病理学会はけっこううまいことリクルートしてるんだなーと思わなくもない。

2021年10月13日水曜日

ここに3体の全部火属性のポケモンがおるじゃろ

> 市原様がお考えになる「言葉」がもつ力とはどのようなものでしょうか。

 

力があるかどうかはともかく、誰かが何かを選択する参考になればよいな、と思ってこれまで言葉を使ってきました。ただし、そもそも、人ってそこまで選択して生活しているんだっけ……ということが最近気になっています。

生きることの大部分が「選択のくり返し」だと思い込んでしまうことは、広告側のしかけた優しい嘘の影響ではないでしょうか。あるいは、人によっては「かまいたちの夜」あたりがきっかけかもしれません。選択肢を選ぶことでエンディングが変わる、それが人生だ……というのは、だいぶGPUの描出スペックが粗い。ドット絵時代に限られたロムの中に詰めこまれた「人生の縮図」のイメージが、未だに多くの人を縛ってるんじゃないか、と思うことがあります。

それこそ、ものを買う、選挙で投票をする、結婚相手を選ぶ、みたいに、「選ぶ」という行動に人生の大事なシーンがある、みたいな。

でもほんとうは、私たちはそれほど毎日何かを「選んで」いるわけではないんじゃないか?


自分の意志は自分だけじゃなく、人間関係、立場、職務、何かを大事に思ってきた積み重ね、みたいなものによって、半分能動、半分受動みたいなかんじで組み上がっています。それほど複雑な自分の前にあるのがいつも「初期ポケモン3体」で、この中のどれかを選んで冒険をはじめなさい、みたいな選択肢がいつもいつも提示されるわけがない。


本当に毎日やっているのは、選択ではなくて、どちらかというと、微調整というか、手直しというか、サイズのお直し、フィックス、だと思います。

服を買うときに大事なのってその服のポテンシャルだけじゃないでしょう。自分がすでに持っている服との相性、バランス、その服をどういうシーンで着るべきかというイメージ。こういうのを全部考えた上で「選択している」と本人は思っているし思いたいのだろうけれども、実際には、選択肢というのはそれほどドラスティックに、火のポケモン水のポケモンみたいにきれいにわかれているわけではない。


火のポケモン3体の中から選んでくれ、みたいな話だと思うんですよね。もっと細部の好き嫌いで「選んで」いる。

 

となると……話を戻しますが……。

 

「言葉が持つ力」によって、誰かが何かを選択する参考になればいい……とこれまで考えてきたのは、ちょっとずれていたのかもなーと最近思っています。「言葉」によって誰かの微調整を少し楽にする。「言葉」によって誰かが行動をフィックスするときの手間やおっくうさが少し解消される。そういう「力」のことをきちんと考えなければいけないのではないか。

 

ABならAを選択してほしい、だからAの魅力を言葉で余すところなく伝えるぞ! というのは、シーン全体が見えていないというか、それじゃいくら言葉を使っても「現実に微調整をくり返しながら毎日を乗り切っている多くの人びと」には現実的にあまり役に立たないんじゃないかな、なんてことを考えています。



(「宣伝会議」のインタビュー用に考えていたことを、ぼくがインタビュー前にあらかじめ文章にしておいたものの。これをふまえてしゃべった内容はもっといっぱい様々な方向に転がっていった。そのうち掲載されます。)

2021年10月12日火曜日

病理の話(585) 当院における病理医リクルートについて

今がぼくのキャリアのピークだなと思うことは多い。仮に今、ぼくより若い人(40歳くらいまで)がうちの病理で働き始めたとしたら、とても楽だろう、なぜならすでにいるぼくらがほとんどの仕事をやってしまうからだ。つまりは自分の好きな量・好きなクオリティで診断や勉強をすればいい、いつまでそうやっていられるかというと、ぼくがピークアウトするまでだ(あと10年くらいだと思う。それまでの間にさらに人を集めて仕事を薄めておけばその後も楽な暮らしが待っている)。

なお、ぼくより勤務年数がぼくより多い人(18年目以降)だとそう簡単でもない。当院は単純に医師免許をとってからの年数で職位が決まるので、当院に来るなり要職に就くことになる。するといくらぼくらが仕事をできるとは言っても要職なりのデューティをこなさなければいけないからそこまで楽ではないかもしれない。逆に言えば、後から入ってもいきなりぼくを追い抜いて主任部長になることができる。これをひとつのメリットと感じる人もいるだろう。先にいる人にでかい顔をされなくてもいいというのも大学と違う市中病院のメリットだ。病理医にとって「大学を出て市中病院に勤める」というのは、臨床医が「市中病院を出て開業する」のと似たメンタルで行うべきことである。周りに病理医が何人いても一国一城の主を気取って差し支えない。経営の苦労がいらない分、開業するより楽だと思う。


自分にマッチしない量のノルマをこなさなければいけない環境、そういう時期が人生に必要だと考えている人はけっこういる。しかしはっきり言って、脳だけで働く我が仕事に必要なのは、そういった精神論的修練ではなくあくまで構造的に研ぎ澄まされたトレーニングである。冷徹に言うならば、「人から積まれたノルマが多ければ多いほど修業になる? そんなに甘い世界じゃないよ」ということだ。各人の脳に合わせたオーダーメードな鍛錬じゃないと、病理医の能力はうまく伸びない気がしている。毎日何百枚もプレパラートをひたすら見ることが能力の底上げになるタイプの人と、ならないタイプの人がそれぞれいる。教科書をいくら読んでも頭に入らないタイプの人に教科書を読ませてもだめだ。人と会わずに自分の世界に没頭することで、かえって外の世界に羽ばたいていくタイプの人もいるし、有給を減らさずに職務として出張しまくることでどんどんネットワークを広げて優秀になるタイプの人もいる。職場から与えられた業務のノルマなんて、修業の足しになるかどうか不定なのだからそこに頼ってはいけない。診断件数を用いて勉強したければいくらでも診断すればいいし、そうじゃないと思うならぜんぜん診断しなくてもいい。ただしぼくと同じキャリア年数のときにぼくより優秀でいてくれる必要がある。そこは中庸な目標として設定してよいのではないか、と自分の能力を客観視して普通に考える。


とはいえ札幌の市中病院だ、ここでキャリアを終えるのはちょっともったいないな、と感じる人も多いと思う。ぼくはたまたま「どこにいてもキャリアを広げるネットワーク構築力が高いほうの人間」だったのでこの場所にマッチしているけれど、大学のお膝元で多くの偉い人と直接顔を合わせないと自分の世界が閉じていくと不安になるタイプの人が多いことはよくわかる。そうでなければうちのような素晴らしい職場環境にはもっと人が詰めかけていることだろう、まあ、ここだけの話、詰めかけた人びとがあまりに若いと「あと10年くらいは大学や研究機関で修業したほうがその後の可能性が広がるかもしれないですね」と心を込めて説明してしまい、その話を真に受けて関東や関西のどでかい施設に飛び立っていった人たちが数十人いるのだが、つまりはぼくが「うち? 大歓迎だよ!」とやっていればこの10年で40人くらいがうちの病理診断科に勤めてくれていたはずなのだ。リクルート失敗の責任は現主任部長にあるということである。

2021年10月11日月曜日

共感の時代

耳の裏が痛い、マスクのヒモのせいだ。しかしこれでも慣れた方である、最初は一日中マスクしてるなんて、耐えられないと思っていた。


……今のは「共感を得る文章」に入るだろうか?


このご時世だ、多くの人が同じようにマスクによるダメージを経験していると思う。でも、「同じような経験をしていればいつも共感が得られる」とは、じつはあまり思わない。


「高校受験って大変だったよねー」みたいな話題で盛り上がる大人がほとんどいないのといっしょだ。多くの人が経験している内容は「当然」なので、かえって共感の波を生まない。「そりゃそうだ」とばかりに、凪ぐのである。


では、共感を得る文章というのはどういうものか。

「高校受験大変だったよねー」ではなくて、「小学受験大変だったよねー」のほうではないかと思う。

ぼくは小学校も中学校も受験していないけれど、おそらく、ネットでより多くの共感を得るならば、「小学受験」の話をしたほうがバズるだろうなーという直感がある。


人の間に広がっていく「共感」というのは、どちらかというと、「ぎりぎりマイノリティ側」の人たちが、「あったよねー」「ねー」と目線を交わし肩をたたき合うときに生じる。この話題はできるだけ拡散しないと人びとに届かないだろうという焦りがリツイートの背中を押すし、「そんなの経験してねーよ」という反論が炎上商法と同じように宣伝効果につながる。


したがって、冒頭のぼくの文章を、たとえば、


耳の裏が痛い、医療用マスクのヒモのせいだ。しかしこれでも慣れた方である、最初は勤務中マスクしてるなんて、耐えられないと思っていた。


に変えることで、ツイッターではより多くのRTといいねを集めることができる。


これが「共感」の正体……と言うと、言いすぎだけれど。




そして、だからこそ、「共感ツイート」からは距離を置いた方がいいんじゃないかな、少なくとも自分ではあまり共感でRTしてもらうようなツイートはやめておこうかな、なんて、じわじわと後ずさっている。

2021年10月8日金曜日

病理の話(584) 急いで電話する病理医

病理診断をする際に、主治医から届けられる「依頼書」(あるいは依頼箋(いらいせん))には、さまざまな情報が書いてある。


患者から採ってきた検体が「どこなのか」(場所)、そして、どんな病気を疑っているのか(性状)。この2つが書いてあることが多い。


書いてないと病理医は、病理診断に苦労する。


どんな検査にも言えることなのだが、拾い上げたジグソーパズルのピース1個だけを見て、全体像を予測するというのは至難の業である。病気のこまかい内容はわからないにせよ(わからないから「生検」をするのだ)、だいたいパズルのどのあたりから採ってきたのか(場所)、そして、これはそもそもどういうパズルなのか(世界遺産シリーズなのか、鬼滅なのか、ワンピースなのか、ディズニーなのか)、できればだいたい色味的に何を疑っているのか(モン・サン・ミッシェルの壁っぽいのか、炭治郎の隊服っぽいのか、ウソップの鼻っぽいのか、ラプンツェルの髪っぽいのか)を依頼書に書いておいてくれれば、それだけ質の高い病理診断ができる。


質の高い依頼書を毎回書いてくれる臨床医との関係は、どんどんよくなる。


すると、ときに、そのような主治医から届けられた標本の、H&E染色標本(最初にできあがってくるプレパラート)を一瞬見ただけで、


「あっ、この医者がこう言って採ってきた検体が『これ』だと、ヤバいぞ!」


とピンとくるようになる。患者の行方を左右する情報にあっという間に気づけるようになるのである。病理医が優秀だから? 違う、全然違う。「臨床医と病理医の関係が優秀だから」ならば合っている。





カチャ……パシ。クルクル。ピタ。(顕微鏡を見るときの音)


……(あっ)(気づいたぼく)


トゥルルルルル「はい、○○内科の」(電話に出る主治医)


「あっ先生、病理の市原です。○○歳○性、○○○○さん。この人思ったよりずっとhypercellularですよ。これはあれですよ」


「えっ、hypercellularなんですか。そうか、だからうまく□□なかったのか」


「ええ、ということは」


「はい、なるほど」


「明日ぜんぶ免疫染色が揃うんで、そのとき正式レポートしますが」


「おっ早い」


「たぶんA病だと思います、ふんわりその気分でいろいろ準備しておいたほうがいいと思います。確定は明日の午後で」


「わかりました、ありがとうございます(ピッ)」


(いいなあ臨床医かっこよくて……)(ピッ)




みたいなやりとりを、いつもできるようになる。




依頼書に「至急」と書いてあるとき(主治医が一刻も早く結果を欲しいとき)はもちろんだが、書いていなくても、「顕微鏡でこのような像が見えたら早く主治医に連絡したほうがその後いろいろ楽になる」ということが、ままある。


顕微鏡診断は、そこまで一刻一秒を争わなくても……と考える病理医もいる。しかし、これは個人的な考えであるけれども、医者というのは、「早く知っておくとその分、仮説を心の中で何度もひっくり返したりこねくり返したりする手間に時間を割く生き物」である。どうせ治療は翌日にならないとだめだから夕方の診断は急がなくていい、とか、患者は明後日やってくるから今日急いでもしょうがない、というものばかりでもない。理屈ではそうなのだが理念がそれでは収まらないのである。

「主治医の脳に早めに入れておく」ことで、脳内タスクがうまく整理され、医療全体の進行が快適になることが、実臨床の現場ではときに、ある。



もう誰が最初に言っていたのか忘れてしまったが、内科医にとっての聴診器やエコー、外科医にとっての電気メスやクーパーが、病理医にとっては顕微鏡と電話なのである。電話はとても大切。あと、足腰、ていうか体力。そして臨床医と勤務中に仲良くできること(終業後は別に仲良くしなくていいです)。

2021年10月7日木曜日

三次元の創作

15日間の期限をもらった再校ゲラチェックを一晩で終わらせた朝、世の中的にはもう少し時間をかけて見せたほうが編集者に誠意が伝わるのかもしれない、と、誰のためにもならない忖度が、眉間のあたりを横切っていく。仕事が早すぎるとかえって疑念を抱かれることがある、今日書くのはそういう話だ。


「もっと時間をかければいいものになるはずだ」という呪いがある。

推敲は終わりがないと言うタイプの人が書く小説や論説は、たしかにぼくの書く物よりも読みやすい。「時間をかけただけいいものが作れるタイプの人」が世に存在することは間違いない。しかし、これは「締め切りが守れない人」とおなじで、気質の一種であり、すべての人に等しくあてはまるものだとは思わない。

一方のぼくは「締め切りより早く終えないと落ち着かない人」である。他人からいくら「もっとじっくりやりなさい」と言われても心に響かないし、時間をかければかけただけ書きたかったメッセージがぼやけてにじんでいくような感覚がある。

もちろん、「なんとなく書きたかったこと」よりも、「誰かにこのように読ませたいこと」のほうが大事なシーンというのはとても多いので、時間をかけて「正しく直す」のが必要なときにはそのようにする。しかし、「正しさの先」を求められているシーンでは。時間をかける意義をあまり感じていない。



ところで次に待っているゲラは(初校だが)締め切りがなんと4か月後である。いくらなんでも長すぎるだろうと思わなくもない。しかし、こちらは共著で、全員が全文をチェックする形式なので、これくらいバッファ期間を長く設けてもよいという判断だろう。

いつものようにゲラチェックをはじめた。おそらく明日にはすべてのチェックが終わる。早すぎます、と言われてもかまわない。ぼくにとってはそれが一番クオリティの高い仕事だと思うからだ。それに、Google documentで編集提案をするスタイルだから、4か月経った時点であらためて一晩かけてゲラを見直すこともできる。当然そのころには、「あのとき完璧に見直したはずだったけれど今となってはやっぱり直したい部分」というものも見つかるに違いない。それはそういうものである。しかし、決して、「じっくり時間をかけたからできた修正」だとは思わない。思えない。4か月経ってぼくの頭の中から原稿の内容が完全にすっ飛んで、読者の気分になったからこそ気づける岡目八目が、「じっくり丁寧に仕事をすることでブラッシュアップされていく感覚」と同じだとは、ぼくには思えない。


多くの著者はそんなこと承知で、いかに締め切りぎりぎりまでに自分の目と脳を他人のものにすげかえて、原稿を読者目線で読んで直すか、みたいなことを必死でやっているのかもしれない。そこが職業作家や職業ライターとぼくとの埋まらない差なのではないかと思う。

でも、究極的なことを言うと、時間をかければどうにかなることや、真摯に努力すればたどり着ける場所に、ぼくは内心、奥底の部分であまり魅力を感じていないのかもしれない。

ぼくは自分のすべてを努力で作ってきた人間である。「自分の努力でどこまでのものができるか」に対して最後の最後で信用を仕切っていないのだと思う。かけた時間とは関係なく、注いだ努力とは関係なく、一晩の気まぐれな没頭の後に偶然輝いた芸術作品のようなものに強烈な色気を感じる。毎日あらゆることに長時間の努力を注ぎ込んでいると、執筆という世界でだけは刹那の燃焼のまぶしさに頼ってみたい。スジは悪いが筋の通った話ではあると思う。書いてみて、わかる。なるほどそういう反骨なのかとわかるところがある。

2021年10月6日水曜日

病理の話(583) 車掌さんの指さし確認と同じで

病理診断をする際に、ぼくが個人的に気を付けていることを書く。あくまでぼくのやり方なので「こうした方がいい」と他人におすすめするほどではないのだが、ひとつの参考に。


ぼくはどちらかというと本を読むほうの病理医だ。同業者の中でとりわけいっぱい本を読んでいるわけではなく、「読む人の中では平均的」な方だと思う。

多くの教科書に目を通すが、とりわけ各種のがんの「取扱い規約」と、「WHO分類(通称blue book)」、そして「腫瘍病理鑑別診断アトラス」は新刊が出るたびになるべく全部読むようにしている。ぼくの所属する病院には脳神経外科がないし、眼科の手術もあまり行われないので、脳腫瘍と眼腫瘍だけはあまり読まないのだけれど、ほかはだいたい読んでいる。

ただし、このとき、「印象は心に刻むが項目の暗記はしない」ことをあえて心がけている。どこに何が書いてあるかは覚えるけれども実際に書いてある文言すべてを記憶しようとはしない、と言い換えてもいい。

とは言え、読んでいるとだいたい覚えてしまうものだ。勝手に身についてしまうものはしょうがない。記憶しておけば間違いなく仕事の役に立つのだから無理して忘れようとも思わない。ただしここで、とても大事なことがある。それは、

「暗記に頼って仕事をしない」

ということだ。



Twitterに「病理医をめざす医学生の毒舌な妹bot」というアカウントがある。おふざけのアカウントなので温かい目で見ていればいいのだけれど、まれにこのようなことをつぶやくことがある。



これには解説が必要だろう。大腸癌は病理診断をする頻度が多い。しょっちゅう目にする大腸癌の診断をするたびに、本棚から「大腸癌取扱い規約」を引っ張り出してきて、首っ引きでないと病理診断を進めることができない「お兄ちゃん(病理医を目指す医学生)」を見て、妹が「頻出問題なんだから、そろそろ暗記したら?」とたしなめているのである。

言いたいことはわかる。しかし、ぼくはこの妹の考え方には反対である(botにマジレス)。見慣れた大腸癌だからといって、「取扱い規約を開かずに診断を終えてしまう」のは危険だ。「お兄ちゃん」は病理医になってからも、恥じることなく何度も何度も大腸癌取扱い規約をひもとくべきだと思っている。若手にも実際にそのように指導している。


書いた物が患者の一生を左右する公式書類、病理診断報告書を書く上で、「取扱いの詳細を暗記したヒト」が診断することはリスクだ。自分は暗記しているから大丈夫、という人は、「自分の能力を過信して万が一の覚え違いを防ごうという気がない」し、「定期的に復習をしていない」と告白しているようなものでもある。



機動警察パトレイバーのコミックス版で、熊耳武緒(くまがみたけお)巡査部長がレイバー免許の試験勉強をしていて、泉野明(いずみのあ)(主人公)を驚愕させるシーンがある。

野明「熊耳さん、レイバーの免許持ってましたよね?」

熊耳「慣れでレイバーの操縦をしたりしないように、こうして年に一度は勉強し直すの。

この精神だ。これこそが、多くの人の命をあずかる人間として適切だとぼくは思う。まあ野明もめちゃくちゃびっくりしてたし、理想論に近いけれど、これくらいの気分でぜんぜんいいと思う。



取扱い規約は臓器の数だけ存在するが、ぼくが常時使っているものに限ればせいぜい20種類程度だ。これらを暗記することは、ぶっちゃけさほど難しいことではない。しかし、「全部暗記しているから本を開かなくても診断ができるし、そのほうが早い」と油断して、ある一人の患者の人生を狂わせてしまうことは絶対にあってはならない。

だからぼくはそもそも「暗記をしようと思わない」。本が届いたら通読して全貌を把握するし、毎回調べに行けばいやでも覚えてしまうけれど、その暗記力に頼らない。



プラットフォームや電車の中で、車掌さん的な人が安全確認のための指さし確認をする。あれは「万が一にもミスを起こさない」という気合いの現れだ。「毎日やる作業だから完全に暗記している、指なんか指さなくても目でみれば絶対に大丈夫」と慢心した瞬間からミスの芽が育つ。指さしはシートベルトでありワクチンでもある。本人を守るだけではなく、業務の対象である顧客みんなを守っているし、周りで見ているほかのスタッフを「あいつは今日もしっかり基本通り仕事をしているな」と安心させる効果もある。やらない手はない。

病理医が仕事の際に必ず本をめくるのは、「覚えているけれど万が一がないように、念の為」であり、「診断を契機に新たに勉強し直すため」でもあり、「周りで働いているスタッフに、この病理医はいつもしっかり原典に基づいた診療をしているとアピールするため」でもある。

というわけで、病理医を目指す医学生の妹botは兄の慎重さを理解できていない。まあ、妹なので(本人ではないので)、それくらいの誤認があってもしょうがないし、かわいいものだと世のお兄ちゃんたちは思うのかもしれないが、ぼくは正直、「妹だからかわいい」というレッテル貼りすらどうでもいいので、間違えていることを言う妹に言葉がきつくならないように気を付けながら「それは違う、患者のことを思うならばお兄ちゃんが暗記しているかどうかなんて些細なことだ。何度も見直しながら丁寧に診断を仕上げることのほうがずっと大事だ。そう思わないか?」とやさしく、しかし毅然と対応することこそがかっこいいお兄ちゃんのあるべき姿だと思う。

2021年10月5日火曜日

マンホールを避ける気持ち

車を運転していたらひとつ前を走っている車がだいぶトンでいた。リアになんか羽根みたいなのがついている昔懐かしいスポーツタイプで、車高がめちゃくちゃ低いし、タイヤがそれぞれ外側に少し傾いていて後ろから見ると「ハの字」みたいになっている。どこからどこまでが許される改造なのかよく知らない。リアウインドウにはYAZAWA的なステッカーが貼ってあった(正確にはYAZAWAではなかったのだがこれで通じると思われるデザインであった)。道がさほど空いていないので、それなりの爆音を立てながらもあまりスピードが出せないようだ。


しばらく後ろからついていくと、ときどきフラフラと蛇行している。助手席の妻に「ああいう運転が好きなのかね」と言うと、妻はすかさず、

「あれはマンホールを避けてんの ほら段差があるとオナカを擦るでしょ」

と言った。なるほどそうなのか。確かにその目で見ると、蛇行した直後に車のタイヤの間からマンホールが出てくる。まったく気づかなかった。

あれだけパンクに改造した車に乗っていても、ボディを地面に擦るのは避けるんだな、と、よく考えたら当たり前のことをしみじみと考えてしまう。当たり前? そうだろうか? いや、ま、当たり前でいいと思うんだけれど、車の改造というものがどこか「遠回しな自傷行為」のように感じられていたぼくにとって(これはもちろん認知の歪みなのだけれども)、そういう車が好きならボディ擦るくらい平気だろう、別に走らなくなるわけじゃないし、と、瞬間的に混乱してしまった。


ファッションと行動が「合っている」「合っていない」という話は難しい。いかつそうな顔をしてコンビニで小銭募金をしている人を見るとぐらぐらと揺さぶられる。ギャップ萌えという言葉が世の中に浸透して以来、逆にこのあたりの「認知のニッチからしみ出す快感物質」をきちんと解説する動きが減ってしまったようにも思うが、何かを観察して心に浮かんだ第一印象、あるいは心象、もっと言えば「勝手なプロファイリング」のような行為がその後裏切られること自体になんらかの「してやられてたりの気持ちよさ」が含まれている。


改造車はその後左のウインカーを出して去っていったのだが、そのときちゃんと「キープレフト」したのもおもしろかった。曲がる瞬間に助手席に見えたのは若い男。家ではネコとか小鳥などを愛でているのかもしれないなとふと思った。

2021年10月4日月曜日

病理の話(582) 化生のしたたかさ

体の中には整然と細胞が配置されている。ものすごい分業をしていて、指先にある細胞と、胃の粘膜にある細胞と、筋肉の細胞と、尿道にある細胞はすべて違うものからできている。びっくりだ。おまけに、「指の細胞は右手も左手もだいたい似たような組成をしている」というのがすごい。左右でこんなに離れているのに。


胃には胃の、腸には腸の。場所が変われば細胞も変わる。


消防署には消防隊員が、警察署には警察官がいて、これらが入れ替わることがないように、胃粘膜は生まれてからずっと胃の細胞で埋め尽くされているし、腸粘膜はずっと腸粘膜のままで……



_人人人_

> 待った <

 ̄Y^Y^Y ̄



じつは人体内の細胞が入れ替わることがある。偶然起こることではなく、人体が、「何かの刺激に反応して、生き延びるために」起こる変化であり、ある種の「適応」であると言える。


たとえば胃。ピロリ菌という悪いやつがやってきて、胃内に持続的に棲み着くことがある。胃炎や胃かいようと言った病気を引き起こすし、大半の胃がんの原因(というか胃がんがでかく育つ原因)も、ピロリ菌にあるのではないかというのが現在の学説の主流だ。


ピロリ菌というのは変な菌で、胃内の高酸環境に適応している。塩酸がいっぱいあるところに棲み着くのだ。物好きである。そこで、体内はおもしろい対処をする。


ピロリ菌が棲み着いて、炎症を起こして破壊した粘膜を再生する際に、胃粘膜ではなく、小腸の粘膜に作り替えてしまうのだ。


これを「腸上皮化生」という。化生、化けて生まれ変わる。


胃内に小腸の粘膜ができると、その部分では胃酸が作られなくなる。すると、ピロリ菌はそれ以上その場所に住めなくなって、まだ胃粘膜が残っている場所に移動していく、という寸法なのだ。


似たようなことがいろいろな場所で起こる。


長くタバコを吸っていると、気管支の細胞が「扁平上皮」という防御型の細胞にチェンジしていく。これを扁平上皮化生という。


子宮頸部にヒトパピローマウイルス(HPV)が棲み着くと、頸部の腺上皮と呼ばれる細胞が扁平上皮にチェンジする。これもまた扁平上皮化生である。


化生は扁平上皮になることが多いのかな? まあ、扁平上皮ってのは防御に向いているからな。外から来た敵(タバコやウイルス)がずっと居続けるような場所では、防御向けの細胞を増やすのがいいんだろう。


でも、いつも化生が扁平上皮になるとは限らない。食道と胃の境界部分では、バレット上皮と呼ばれる特殊な腺上皮化生が起こることがある。


これらの化生はいずれも、人体が何かに攻撃を受けているときに、少しでもそのダメージを減らそうと人体が対処しているものだと理解できる。ただし、やっていることは、消防署だった場所に警察官を配備したり、八百屋や魚屋だと思っていた場所にタイル業者を配置したりすることといっしょなので、じつは、「雇用の上での混乱が生じることがある」。


雇用の上での混乱……? 人事の問題? なに?


いつも通りの人事であれば、面接でチンピラ的存在をはじくことができるのだが、有事で化生が起こって人事が混乱していると、「チンピラを面接ではじけなくなって、悪いやつがそこにいすわることがある」のだ。


もうおわかりだと思うがねばっこく専門用語を使うと、「化生が頻繁に起こっている場所の周囲には、がんが発生しやすい」ということを、ぼくは書いたのである。化生自体は悪いことじゃないんだけどいいことでもないんだよ。

2021年10月1日金曜日

ジーユーアゲイン

GUで毎年似たようなパンツを買っている。ベルトをさせる穴があるやつで、ベルトがなくても腰のところでヒモをしばれるやつで、一見ストレートなチノだが進展性がよく、あぐらをかいても膝が出ない。これにワイシャツを合わせてジャケットを着るのが出勤するのに楽だ。洗濯機で洗えばすぐかわくし、遠目にはまじめなジャケットスタイルに見える。


今調べてみると「ストレッチアンクルパンツ」あたりがそうなのだろう。いちいち商品名を確認して買うことがなく、店頭で「そうそうこれこれ」と手に取って3本くらい買って、1年間使う。夏はいいが冬はやや寒いので冬用にさらに分厚いのを2本くらい買う。これをひたすら、毎日履いている。


物持ちはよく、1年くらいだとそんなに傷まないのだけれど、たいして高いパンツでもないのでヨレたら買い換えることができて清潔だ。夜中までZoom会議をしていても疲れない。仮にホルマリンがかかっても惜しまず捨てることができる(かかったことはないが)。


パンツにお金をかけず、ワイシャツも1枚3000円くらいのものを7,8枚まとめ買いしてずっと着回している。襟が死んだら買い換える。


40をすぎてこの程度のコーディネートだとさすがに人前に出るのはきついのでは? と思うが、なにせ、人前に出ないから気にならない。オンラインだと色の濃いジャケットさえ羽織っていれば向こうから値段はまず読めないだろう。体型にフィットさえしていれば会議や対談の相手は勝手にこちらが高いジャケットを着ていると思い込んでくれる。便利なものである。


こうして服飾費がどんどんかからなくなっていくので、たまには少しいいジャケットでも買うかな……と周りに言いふらしてはや5年くらいが経つ。いつになったらジャケットを買うのかと笑われるありさまである。ネットで買えるほどのセンスがなく、店頭で実物を見てみないと、袖を通してみないと布の感覚がわからない。しかし外出はできないのだから八方塞がりである。いや、まあ、外出できなくなる前からずっと「ジャケットくらいいいものにしたい」と言い続けていながら買っていないのだからこれは言い訳かもしれない。


最近本当に思うのだが、自分にあっている服装をきちんと微調整して着ている人というのは基本的に話がうまい。人からどう見られるか、というメタな視点が強いからかもしれない、しゃべり方に不快なニュアンスがにじまない気がする。「服なんてどれでもいいだろう」と言うタイプの人は、どんなに人気者であってもふとしたときに「周りの人を置いてきぼりにするエゴ」みたいなものが見える気がする。服というのはその人の社会性……とは違うか、「社会の中で自分がどうありたいか」を簡単に伝える部分なので、あまりに無頓着だとちょと大丈夫かなと思ってしまう。では自分のこのGUスタイルは望ましいのかというと、たぶん、本当は望ましくない。けどZoomのフィルターでどうせわかんなくなっちゃうんだよな。まだ当分この言い訳は言い続けることができる。最後にスーツを買ったのは何年前だろう?