2021年4月30日金曜日

陰ではググれない

「四六時中」はなぜ四と六なのだろう。疑問に思って、ググる……前に、少し自分で考えてみる。


ほんとうは四と八にしたかったんだけどゴロ的に六になった、とかかな。


あるいは落語の「時蕎麦」みたいな、昔の時間の数え方に由来するんじゃないかな。


ある程度想像を膨らませてからググる。


元は「二六時中」だったらしい。「丑三つ時」みたいな言い方で、昼と夜を六つずつにわけて、「六つ×2=一日中」ってことなんだね。四と八から変化して四六時中、ではなく、二と六から変化して四六時中。だいたい合ってたけどちょっと違った。採点するなら75点ってとこ。


ググる前に考える。より正確に言えば、「書く前にググる前に考える」。ソースのないことを書くと医者に怒られる。ソースがGoogleばかりのものを書くと非医療者に怒られる。じゃあそのバランスをどうする。どっちにしても怒られるならせめて自分がしっかりできるほうのやり方を選びたい、と思う。





Zoom会議をしながらキータッチをしている。Zoomの画面上では肘から下の動きが映っていないからぼくはまじめに前を向いているように見えるだろう。……でも、ほかの人が同じように仕事をしているとなんとなくわかってしまうものだ。ぼくもたぶんばれている。目が明らかにひとつの箇所に固定されており、肩から上の「奔放さがない」のを見て、なんとなく、「あっ何か書いてるんだろうな」というのはわかってしまうものだ。「こっそり裏で何かをやっていることを見抜く力」みたいなものが、人間には備わっている。今の返事はたった今ググったものなんだろう、的な洞察って、ある。そういうのはばれる。

2021年4月28日水曜日

病理の話(530) リュウジンオオムカデの簡易症例報告と病理診断という処方

「この患者にはいったい何が起こっているんだろう?」と疑問を掘り進んでいく医者がいる。

熱が出ている、痛い、しびれている、ふらつく、下痢がある、だるい、体重が減った……。

患者が訴えるさまざまな症状から、原因を探り、対処法を考える。


患者自身が特に症状を感じていなくても、医者が見ることで些細な徴候に気づく、なんてこともある。血液検査に潜んだわずかな違和感や、CTに偶然うつりこんだ影などから、まだ何の症状も来していない隠れた病気の存在が浮かび上がってくることも。


ひとたび患者の「内部」に疑問を持ったら、何が潜んでいるのかを考えよう。このとき、医者がたまに用いるのが、病理診断というワザである。

病理診断は、患者の体の中にある「カタマリ」を採ってきて顕微鏡で診ることで、病気の正体を(主治医とは違う角度から)明らかにする。


主治医はふだん、病気の正体を探るにあたって、いちいち患者を解剖することはしない(したら死んじゃう)。できればなるべく傷を付けずに、外から病気を推測していくことが求められる。それに比べると、病理診断というのはちょっと、「ずるい」。実際にモノを採ってきて直接見ちゃうんだもの……。ずるいし、強力である。これに勝てる診断方法というのはあまりない(引き分けならいっぱいあるが)。



さて、このとき、病理医が付けた「病名」を、主治医がいつもよくわかっているとは限らない。すごいマニアックなポイントなんだけど、現場ではわりとよくある話だ。

これ少しわかりにくいから、例え話にしよう。




これよりあなたは、パソコン修理センターの店員さんだと思って下さい。3,2,1,ジャンゴ。今、強力な催眠術がかかりました。「私はパソコン修理センターの店員……」。はいOK。


買ったばかりのパソコンがあります。おしゃれなやつ。マックの新作とか。薄くてカッコイイやつ。これがある日、とつぜんブーンって言って火を噴いたらしく、あなたの元に持ち込まれました。お客さんはびっくりしています。なんてこった。何が起こったんだ。早くなんとかしてくれ。


あなたは優秀なので原因がすぐわかりました。パソコンの中に虫が入り込んでいます! 虫は取り除いたからもう大丈夫ですよ~。

わかって安心。でも、気持ち悪いなあとも感じます。お客もぎょっとしています。えっ、ゴキブリか何かが入っていたんですか? いやだなあ、おうちにもゴキブリホイホイとか置かなきゃいけないかなあ……。

ここに、「虫を調べる人」が登場します。「「なんでやねん」」。あなたとお客は思わずハモりました。別にそこ調べなくてもええやろ。もうパソコンは治ったんやからあんまり気持ち悪いことせんといて。あかんて。

でも、調べる人はまじめです。「なぜパソコンが壊れたのか、その原因になった虫をちゃんと調査しますよ」と言って聞きません。まあいいや、あんまりお金とらないでね。


そして調査報告書が返ってきました。そこにはこう書かれていました。


「これはリュウジンオオムカデですね。」


参考:

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210420/k10012984551000.html


ええー!? なんで!! ゴキブリとかじゃないのかよ!! あなたはびっくりします。いやリュウジンオオムカデってなんだよ。どんな虫だよ。まあムシには違いないんだろうな、それが入ったらパソコンが壊れそうだなってことはわかるし、取り除けばトラブルは回避できるというのもわかるけど、そのムカデがどこから来たのか、ほかにも客の家にまだ住んでいそうなのか、予防策はあるのか、パソコンの中で子ども産んでたりしないか、みたいなことが一切わからない。珍しすぎるからだ。普通知らないよね……。




今の例で、「パソコンに入っていたのはリュウジンオオムカデです」って書くのが一番かんたんな病理診断だ。


この報告書をみて、あなたはお客に説明することになる。


「あ、調査の結果が来てましたよ。リュウジンオオムカデでしたね。えーとこれはよくいるムカデですね」とはならない。ムカデマニアじゃないからだ。

修理センターの人はパソコン修理の専門であって、ムカデの専門家ではない。

でも、修理センターの店員とはお客さんを相手にするフロントマンである。説明するのは大事な仕事だ。知らないまま説明することはできない。

調査報告書に「リュウジンオオムカデ」と書かれているのを見たら、修理センター職員はそれを調べて、勉強して、説明できるようになってから客に電話をしないといけない。

これ、けっこう手間だよね。どうすればいいと思う?

原因が判明してから、そのことを調査するための時間を別に設けなければいけないだろう。1日か、2日か。十分に説明できるだけの資料、根拠、そういったものを集め終わってから、客に連絡をとり、「お店に来てくださいね~」と伝えることができる。




病理診断でもこういうケースがたまに起こる。ぼくの場合は年に2回とか3回とか……。病理診断は決まったが、そのまま報告書に書いても、患者はおろか主治医も「なんだそりゃ」ってなりそうなケースだ。

ここで想像力をふくらませるべきだと考えている。

「どうせ主治医(≒修理センター職員)がこれから調べ物をしなきゃいけなくなるんだから、これに詳しいぼくが先に調べて書いておこう。」


「あなたのパソコンに入っていたのはリュウジンオオムカデです」なんて、言ってみれば、AIのサポートを受けた医学生でも書けるしょっぼい病理診断だ。これでは現場の役に立たない。


「あなたのパソコンに入っていたのはリュウジンオオムカデです。最近沖縄で見つかった新種で、水中で10センチほどあるテナガエビの仲間を食べているのが確認されています。陸上の天敵を避け、生息域を広げるために、水中でも暮らせるように適応した可能性があるということです。(前述のリンクから引用しました)」


ここまで書いてようやく「現場の役に立つ病理診断」になる。調査員がこれを書くことで、修理センター店員が「調べる手間」を簡略化することができ(まあできれば自分でも確認してもらいたいのだが)、説明の手際のよさはそのまま客の利益に繋がる。具体的には「診療が10%ほど早くなる(体感)」。診療が早くなれば、客にとっては「治りが早くなる」かもしれないし、「早く安心できる」かもしれないし、「次にまたムカデに入り込まれないように生活環境を見直す」ことにもつながってくる。沖縄の海の中でパソコンをやらないでください。



以上のことをぼくは最近「病理診断を処方する」という言い方で若い病理医に説明している。ぼくら病理診断科は、診断しかしない部門なのだが、その行動を少し細やかにすることで、主治医や患者の意思決定や行動にうまく作用することが可能だ。これはある種の「処方」だと思う。

2021年4月27日火曜日

登山家どうし仲良くしてね

DeepLという翻訳サービス(アプリ)がある。これとgrammary(の有料版)という文法校正ソフトを使えばだいぶ戦える、という内容のツイートを見た。まったくだな、と思う。医学論文をいちから書くときにはこれらのツールはとても便利だ。


しかしこのようなことをつぶやくと、本家本元の翻訳者の方々が、「あんなソフト、翻訳の入り口にも立っていませんよ」と指摘してくる。まあそれはそうなのだろうと思う。翻訳という仕事自体はほんとうに奥が深い。現在のAI翻訳程度ではまるでニュアンスが伝わらないんだろうなってことは肌身で感じる。


参考: 翻訳 訳すことのストラテジー

https://www.amazon.co.jp/dp/4560096856/ref=cm_sw_r_tw_dp_CWEAMANMM02GWR4DBGT7


先日、アカデミー賞をとった映画の中に出てくるセリフを紹介する本を買った。英文と日本語とを比べるとまるで違うことを書いていることに気づいて笑ってしまったし、読み比べるのがおもしろくて仕方ない。そのセリフを直訳しても絶対にこの日本語にはならない。直訳だとおそらくそのシーンで役者が、さらには脚本が言いたいことはまるで伝わらないだろう。


参考: その悩みの答え、アカデミー賞映画にありますhttps://www.amazon.co.jp/dp/4860295021/ref=cm_sw_r_tw_dp_2D5C9JQB6DBQYCXG8DG6 




ただし。

科学者は、英語を用いて「ニュアンスの話」をしたいわけではない。学術論文において、科学の論理が正しく伝わるかどうか考えるとき、DeepLとgrammaryの併せ技以上のAIを絶対に作るべきだ、とはぼくはあまり思わない。このふたつでたたき台を作ってしまえば、あとは英文「翻訳」ではなく英文「校正」をネイティブ研究者たちに有料でお願いするだけで十分通じる論文が書き上がる。

なにせ、英文論文でやりとりする相手が英語ネイティブの人たちとは限らない。ブエノスアイレスの学者もニースの研究者もハバロフスクの医者も重慶のポスドクも、母語に比べれば使い慣れていない第二言語を使って学術を行う。「翻訳AIでは拾いきれないようなニュアンス」を練り込んだ英文論文を書く生命科学者がどれだけいるだろうか? いい文章だなあと感心されたところで、他国の研究者に細やかさが伝わらないものを書けば学術の結果を引用される回数も減るから本末転倒であろう。文学や哲学の研究であればともかく、生命科学論文の文章は「ネイティブスピーカーでなくても意味をくみ取れる」ことが必要だ。


DeepLで書いた論文をネイティブに校正してもらって投稿。「ネイティブに校正してもらって」の部分を省略できる日が来たら、そのときは「AIの翻訳すごいなあ」と言えるだろう。これは翻訳者たちが言うとおり、まだ無理である。人力の校正なしで、DeepLとgrammary有料版だけで投稿する論文は編集部からはじかれてもしょうがない。ただし、「ネイティブやプロの翻訳者に最初から翻訳してもらわなければいけない」とまでは思わない。そこまですると研究費がいくらあっても足りないという悲しい現実もある。


翻訳者の中にはDeepLなどの実力を思い切り低く見積もって「あんなのは翻訳の入り口にも立っていない」と言ったりするが、少なくとも生命科学のジャンルにいるぼくは、DeepLもgrammaryも、十分「コミュニケーションの入り口に立っている」とみなしていいと思う。コミュニケーションという山をのぼるとき、初心者向けの登山道の入り口にDeepLが立ったからどうだというのだ。それでプロの翻訳者たちの矜持が折られるわけではない。プロにしか登れない山道、ロッククライミングのような激しい道からしか見られない景色、感じられない体験の価値は一向に揺るがない。だからあなた方はもう少し仲良くしてねと思うことがある。余計なお世話ではあるだろうが。

2021年4月26日月曜日

病理の話(529) 統合の役割を担うタモリ

病理医は多くの臨床医たちとコミュニケーションをする仕事なので、ときに、「複数の専門家たちの意見をたばねる」ことを求められる。

この話はなぜか病理医によって語られる機会が少ない。「確定診断」とか「がんの進行度を判定する」とか「基礎医学と臨床医学の橋渡しをする」というのは病理医の仕事としてよく話題にのぼるのだけれど、「コミュニケーションの中心にいる」という話はあまり取り上げられない気がする。めちゃくちゃ大事な仕事なんだけれどな。


今日はその一例として、「病理解剖」のことを書く。


患者が病死したあと、病理解剖が行われることがある。解剖を執刀するのは病理医。依頼するのは主治医だ。主治医は、自分の患者の「病気のふるまい方」になんらかの疑問を感じたとき、病理医に解剖を頼む(もちろん遺族にも許可をとる)。

患者がめずらしい病気だった、とか。

期待していた治療がぜんぜん効かなかった、とか。

いつもよりも圧倒的に速いペースで悪くなってしまった、とか。

そもそも生前に診断までたどり着けなかった、なんてケースもある。こういうとき、病理解剖は、亡くなった患者に何が起こっていたかを解き明かす手伝いになる。



ここで、患者の体に起こったことを疑問に感じる主治医は、「ひとりではない」ということを強調しておく。

高齢化社会が加速すると、患者の中には複数の疾患があることが当たり前になる。腰痛と膝の痛みで整形外科に通い、高血圧とコレステロールの薬をもらうために循環器内科へ通い、アレルギーのために耳鼻科へもかかり、脂肪肝もあるような患者が大腸がんにかかったとしたら、主治医はこれだけで4,5人は必要である。

大腸がんの診療を担当する医師が、これまでの患者のトラブルをすべて引き受けることができれば話は楽だ。しかし、なかなかそうはいかない。現在の医療は高度に専門化されている。「餅は餅屋」、すなわち、「整形外科関連のトラブルは整形外科にまかせたほうがよい」。他科の医者と連携しながらみんなで患者を診ていくのがあたりまえだ。

かりに、「かかりつけ医」がいたとしても、話は同じ事である。患者にとってはかかりつけ医が共通の門戸となり、さまざまな科を受診する手間を減らせるから、かかりつけ医の存在はとてもいいことだが、実際にその医者が自分だけで複数の専門的な診療を完全に背負えるかというと、そういうわけではない。ここぞというときに、適切なタイミングで、4,5人の「遠くにいる専門医」たちにその都度相談をする。関わる医者の数が減ったわけではない(患者の目からすると減るのだけれど)。


となれば、「患者の腰について疑問があった整形外科医」と、「患者の血圧について疑問があった循環器内科医」と、「患者の大腸がんについて疑問があった外科医」のように、複数の主治医が、それぞれ異なる疑問を持つことがこれまたあたりまえとなる。


複数の医者から寄せられた疑問を、病理解剖はすべて解決しにかかる。解剖というのは全身の臓器を相手にする仕事であり、病理医というコンサルタントのもとにはすべての臨床科の医者がクライアントとして訪れる。


ここで、「病理医がコミュニケーションの中心地にいる」という状態が完成する。


病理解剖で患者の体の中を細やかに探っていくとき、複数の主治医たちがこちらを向いてさまざまな質問をぶつける。そのすべてに病理医がたった一人で答えられるとは限らない。解剖がなんでもかんでも答えを与えるわけではないからだ。でも、病理医のもとに主治医が一同に介するようなシーンを作り上げられれば、その会議室では、主治医同士が共通の患者の話題で交流をすることができる。「病理医がカンファレンスを開催しますよ」というタテマエで、たくさんの科の医者が集まって来て、そこで心置きなくコミュニケーションを取れること自体に強い意義がある。


CPC(クリニコ・パソロジカル・カンファレンス)と呼ばれる、病理医主導の会議。


じつを言うとぼくは、病理解剖という若干古びつつある手技が万能だとは思っていない。解剖をすることがそのまま直接患者に良いことを及ぼすわけではない、ということを普段から力説している。しかし、CPCの開催に関してはかなり前向きにとらえている。病理解剖なんてきっかけにすぎない、とすら思えるケースもある。


ぼくが解剖をし、その手元に複数の専門家たちの目が集まることで、議論が沸騰して疑問が次々と解消されていく


このとき、解剖はそれ自身で役に立ったと言えるだろうか? 言える……かもしれない。でもより正確に言うならば、「病理解剖+その後のCPC(カンファレンス)」こそが、疑問を解決するためのカギになっているのだと思う。



「複数の主治医と話をしなければいけない病理医」こそがたどり着ける場所がある。なんとなく、ミュージックステーションでずっと司会をやっているタモリのまわりで歌手同士が会話をするイメージに近いなと思う。病理医こそは交流の中心にいる、ただし、タモリの司会のように、けっこういろいろ工夫しなければ成り立たない、名人芸に近いことをやらなければならない気はする。

2021年4月23日金曜日

炭になっている

積み本がゼロになったのでスマホのKindleに入っているマンガでも読もうと思った。しかし、先日、Kindleがエラーでうまく動かなくなった際にアプリをアンインストール→再度インストールをした結果、スマホの中にマンガが1冊もない状態であった。購入済みのマンガは何度でもダウンロードできるから、今回、お金の心配はしなくていいのだが、あらためてダウンロードしなおすのに時間を要する。


スマホを充電器に挿しながらダウンロードを続ける。この間、何をして過ごそうか。いい機会だからSwitchで最新のモンハンでもダウンロードしようかと思ったが、これだってダウンロードに時間がかかることに代わりはない。こういうとき、ゲームというのはやはり形あるカセットが一番便利なんだよな、ということを考える。ゼルダをダウンロードで買ったのは失敗だった。クリア後、容量を圧迫していたので一時的にSwitch本体から削除したところ、再びダウンロードするのがおっくうでそれっきりやらなくなってしまった。追加コンテンツもあったのに、もったいないことである。


家の中をあさって、マンガを物色。ワンピースやGIANT KILLINGあたりを1巻から読み返せば1日以上つぶすことができるが、今日(日曜日)はこのあと出勤しなければいけないから、重厚なマンガを読み始めてしまうのはもったいない。ぶつぶつと言いながら本棚を漁っていると、一度しか読み通していないハリーポッター全巻が奥のほうから出てきたり、何度も読み過ぎてぼろぼろになっている深夜特急に目がいったりして、だんだん、「ああ、今日はこのまま本棚の整理をして終わるんだろうな」ということを思った。


近頃あまり物語を文章で読んでいない気がする。最後に小説を読んだのはいつだろう? 知念実希人『傷痕のメッセージ』だろうか? いや、カズオ・イシグロ『クララとお日さま』だった。あれはすばらしかったな。たまに小説を読んでそれが「当たり」というのはうれしい。そうだ、ちょっと前には今さらゴールデンスランバーを読んだのだ。あれもまあおもしろかった。


なんのことはない、最近はむしろ小説をよく読んでいる。きちんと思い出したらちゃんといっぱい出てくる。医学書や人文系の書籍も前と同じくらい読んでいるので我ながらいつ読んでいるのかと思ったが、土日に家にいる時間が増えた分、知らず知らずのうちに小説に手が伸びていたのだ。


うっすら気づいていて認めたくないことがある。前のように職場で寝泊まりする元気がない。仕事はすべて以前の10倍以上のスピードでこなせるようになり、クオリティもあがり、空いた時間で次の仕事をすればいいのだろうがそこの気概が落ちている。おそらく人よりは働いているけれど、昨日の自分よりさらに働こうというモチベーションが10年前ほど感じられない。燃え尽き症候群という言葉があるけれど、今のぼくは差し詰め「炭」だ。火が目に見えない状態になり、熱だけを発し続けるような燃え方に変わった。燃え尽きるという概念はしっくりこない、ただ、おそらく生き方というか燃え方は変わった。今までと同じ気分で働いていると、人のために焼き鳥や野菜をあたためようにも網との距離感がイマイチ遠くてなかなか火が通らない、といったことが起こるのかもな、と感じる。遠赤外線で焼くとおいしいんですよ、というシェフの言い分は信用しない。あいつらは「直火焼きチキン」のこともおいしいんですよと言う。


炭といえば竈門炭治郎だ。作中、炭焼きの息子だから料理がうまい、というシーンがある。炭治郎は米もうまく炊けるし料理もいちいち上手だ。ひるがえってぼくは今、炭になった。となると料理がうまくなる必要があるしキャンプの達人であるべきなのだろう。書を捨てて野山に出ろということか。たしかに家で本を読んでいようが外でタープを建てていようが感染の心配はまずない。合理的ではある、ただし、問題は今のぼくの車が中途半端に壊れかけていることと、キャンプ道具がいちいち大がかりな数人用のでかいのしかないこと、そして、まだ北海道は外で過ごすにはきびしい気候だということ。一人用のテントをAmazonでつらつら見ていたら今日の休み時間は終了した。スーツを着て職場に向かう。なぜぼくはZoom会議のためにいちいち出勤しなければいけないのか。複雑な事情が山ほどあり、一部は解消できなくもないんだけれどあきらめて放置している。昔のぼくはこういうところを決して放置しなかった。やはり炭になっている。

2021年4月22日木曜日

病理の話(528) 医学に派閥は存在するのか

※この記事はnoteにも書いたんですが、もともとブログに載せようと思っていたものなのでシレッとブログにも載せます。


人が集まれば派閥ができるのは、人間社会の常である。


だったら当然、医療現場においても派閥があるだろう……と考えるのは自然なことだ。


医療現場にも派閥っぽいものは、ある。


「B'z派」とか「アンチB'z派」とかね(これはフィクションです)。




ただし、医療の活動原理の根底には「医学」という学問が存在する。


学問においては、「派閥」という言葉を使うよりも、もっといい言葉がある。


それは「学派」。


学派は、一般に言う派閥とは少しだけ性格が異なっている。




学派というのは具体的にはどういう「派閥」だろうか?


具体例をあげて考えてみよう。


たとえば、「邪馬台国はかつてどこにあったのか」という命題がある。これには論争があり、かつて、「九州派」と「近畿派」という二つの学派が存在した(今もかな? あまり詳しくは知らないんですが、例え話ですので大目に見てください)。


それぞれの学説を支持する人々は、互いに証拠を見せ合いながら、争う。


「真実はいつもひとつ!」と決められればいいのだが……。


なにせ、遠い昔の話だ。仮説と仮説を戦わせて、どちらがより「今をうまく説明できるか」という形でしか、論争は前に進まない。


タイムマシンが開発されない限り、「正解」は手に入らない。


かけ算や割り算とは異なり、歴史に何が起こったかを考える作業には、たった一つの正解は存在しない。だからこそ、「学派」が生まれ、学問的な争いが起こる。




ただし、このとき……。


二つの学説が、まるっきり反対のことを言っているわけではないということに注意してほしい。




二つの学派が争っているのは、あくまで、邪馬台国が「どこにあったか」についてであって、邪馬台国の「有無」については争っていない。


「昔の日本には人が住んでいた」ということはまず間違いがないし、それが邪馬台国という集まりを作っていたこともおそらく間違いがないし、「邪馬台国があったのは関東や東北ではなさそうだ」ということもほとんど間違いがない。


「ここまではたぶんみんな同意だよね~」という基礎の共通認識がある。




学問は、「ここまではOKかな、ここまではいいよね」という作業をずっとくり返して作られている。今日の記事の序盤に書いた話でいうと、


起承転承転承転承転承転承転承承承承承承転承承承承承承承承承承承承承承転承承承承承承承承承承承承承承承承承承承承承承承承転承承承転承承承承承承転承承承承承承承承転承承承承承承承承転転承転承


みたいに、「転」を織り交ぜながら、「承」がめっちゃ続いているイメージだ。




たくさんの証拠を集め、多くの仮説をぶつけ合った結果、「みんなもここまではいいよね」という地固めがなされる。


学派が戦うのは常に「承」の先だ。多少過去に戻ったところから「転」でやり直すこともあるが、「起」まで戻るということはない。あり得ない。


ここで、歴史のことをまったく知らない人が、途中から議論に入ってきて、「邪馬台国って本当はなかったんじゃないか。日本人は全部宇宙から連れてこられた可能性もあるよな」と言い出すことには、かなりの無理がある……と思う。


えっ、「起」に戻っちゃったの? みたいな。




「邪馬台国は存在しない説+日本人は昨年宇宙から連れてこられて記憶を植え付けられた説」を突然提唱して、「学派」として名乗りをあげられるかというと、


それはなんかまあ、無理じゃないかなーと思う。






先人達が慎重に語り合った学問の歴史の先端部、「ここまではいいよね」の先で、「今なお決着がついていない部分」について争うのが学問だ。




さあ、話を医学に戻そう。




医学にも派閥(学派)は存在する。しかし、学問における対決は、あくまで、「現時点までに積み上げたことの先で、細部を微調整するように戦う」ものだ。


そこにある「派」は、一般的な意味での「派」とはだいぶ雰囲気が違う。




たとえば、非医療者の中には、医学の世界に「反ワクチン派」があると思っている人がいる。しかしこのような学派はそもそも存在しない。


なぜなら、ワクチンという道具が有効であることは、天然痘、ポリオ、日本脳炎、麻疹、風疹など、さまざまな証拠が揃いすぎていて、「そこを疑うのは医学としてはちょっとね……」というくらい当たり前のことになっているからだ。そこは「起」である。


「日本は24年前に来日した宇宙人が全部つくりました派」が歴史学に存在しないのといっしょ。


ワクチンの科学的な議論は、もはやそんなところには収まっていない。




少し前に、「新型感染症についてファイザー製のワクチンを1回だけ打つか、2回打つか、どちらがより効果が高いか?」という「議論」が繰り広げられた。ただしこの議論、一般にはあまり知られていないかもしれない。なぜなら、これは人と人がテレビに出て口角泡を飛ばして「議論」を行ったわけではなく、各国で行われた臨床試験によって、つまり「データのぶつけ合いによって」検討されたからだ。


すでに、「ファイザー製のワクチンを打つなら2回がいいだろう」という証拠が集まっており、実際に日本国内でもそのように運用されていることは、みなさんご存じの通りである。


話はとっくに先に進んでいる。いまさら「反ワクチン派」が出る幕はない。医学のプロセスの中ではもう存在していない。


えっ、「起」に戻っちゃったの? という話。




顕微鏡がなかった時代、人体には四つの体液があり(血液、 粘液、胆汁、黒胆汁)、これらのバランスで人間は元気になったり病気になったりする、という説を唱えた人たちがいたそうだ。医学の「起」の部分。


19世紀以降、このような段階の議論は誰もしなくなった。「今はもう、そういうレベルの話はしなくてよくなった」。


これが、科学の進歩。


これぞ、「科学は、変化する。」ということ。







「科学がすべてなんですか」「反医学はありえないんですか」という意見もたまーに目にする。


はっきり言うが、「反医学」はあり得ない。それは「起」だ。ただし、「医学の中でなお、慎重に議論を戦わせるべき部分」は存在する。


「変化する」ということと、「共有できる部分がある」ということ。


たったふたつの冴えたやり方で、科学は進んできたし、これからも進んでいくのだ。

2021年4月21日水曜日

つぶやくのをやめる

何年か前のアップデート以来、Windows PCとiTunesの相性が悪くなり、何千曲かため込んでいた音源を聴くのが少しだけおっくうになった。ほんの少しの差なのだ。ログインし直すとか、その程度で前と同じように使えるのだ。でもそのマウスの数センチ、数回のクリックが、ぼくと音源との距離を開けてしまった。そこから1年とちょっと、YouTubeでLo-fi hiphopのライブストリームを聴いていたが、主任部長になってからは問い合わせの電話がかかってくる回数が激増し、電話が鳴る度にイヤホンを耳から外すのがおっくうで、結局職場ではほとんど音楽を聴かない状態になった。


何をばかな、そんなの当たり前だろうと思っている人たちは、ぼくの2~3倍くらい長く自宅で過ごしている。ぼくの5倍くらい休日を取っている。仕事中にTwitterとか許せない、という人が寝ている間もご飯を食べている間も映画館やショッピングモールに行く間もぼくは仕事をしている。どちらがすごいとか偉いという話にはならない。時間の使い方が、人生の使い方が違うとしか言いようがない。何度かそのようにツイートしようとした。でも、タイムラインには、攻撃的な言葉を届けたい本人よりも、黙って見ている普通のフォロワーのほうが10万倍くらい多い。結局、つぶやくのをやめる。



「つぶやくのをやめる」。



数年前から何度もぼくを中傷している医師たちがいた。所属はマイナー系だったり、専門性の高い内科だったり。そういう人たちはぼくのことをときに「某病理医」と呼んだり「北の病理医」と呼んだりする。向こうはたいていぼくのことをブロックしているのだが、ぼくはHootsuiteというPCアプリを使っていて、検索機能がブロックされていても関係なくツイートを拾ってくる。「病理医」「病理」「病理診断」で10年検索をかけているぼくの目に、そういうツイートがときおり飛び込んで来る。


ところがある時期から、誹謗中傷がぱたりとやんだ。いよいよ興味をなくされたのか、と感じていたが、その後ほどなくして、医者が主導するクラウドファンディングが増えて、ぼくのところにDMが舞い込むようになった。クラウドファンディングと、DM、一見関係がなさそうだが大ありなのだ。「知ってはいたが最近相互フォローになったばかり、みたいな距離感の人」からばんばんDMが来るのである。内容はこうだ。


「Twitterではいつもお世話になっております、DMでははじめまして。このたび私たちは、崇高な使命の元に、かならず人びとの役に立つ、誰が見ても文句のない慈善事業をはじめます。つきましては、おいそがしいところ誠に恐縮ですが、拡散のお手伝いをしていただけないでしょうか。」


どういうことかな、とクラウドファンディングを見に行く。たしかにいい企画だ。そして、発起人や、コメント欄の最古参に、ぼくの悪口を何度もツイートしていた顔がひっそりとまぎれている。あまりに悪口ばかり言っているから覚えてしまった人が、あそこにも、あっちにもいる。


ああ、まあな……と、腑に落ちることがあった。人は、自分が誰かの役に立っていると確信しているときは他人の悪口を言う暇も無くなるものだ。でも、こうまでわかりやすく誹謗中傷の総量が減ると、少し笑ってしまう。ぼくは最近、あまり悪いことを言われなくなった。


声をかけてきたクラウドファンディングにも、声をかけてこなかったクラウドファンディングにも、医者がやっている慈善事業については内容を精査したあとに毎回おなじ額を寄付する。拡散してと言われても言われなくても基本的にツイートをする。医者が医者に悪口を言ったというのは医者側の問題だ。当事者たち、患者たちにとっては関係がない。そして、「声をかけられたからと言って額を増やすわけではなく、ツイートを変えるわけでもない」というのは、冷静に考えると、小さな復讐なのかもしれないな、という自覚はある。



なお、最初からこうやって達観できていたわけではない。当初は、「この感情」をどうしたものか持て余した。単純に腹が立ったのだ。何をいけしゃあしゃあと……という気持ちが確かにあった。

細部をわからなくしてツイートして発散してしまうというのはありかもしれない、と、何度もツイートを作って、「つぶやくのをやめる」。

何度かそういうことがあってから、ぼくは、何気ない日常のツイートの中にも誰かを遠回しに揶揄しているニュアンスが潜まないかどうかが気になった。胃の周囲の脂肪織がすべて燃焼しきるくらいには怒りの熱量をため込んでいたから、どうしたって何かは漏れていくだろうな、と思った。この時期、いくつものツイートについて、過剰なくらいに「つぶやくのをやめる」ことになった。



最終的にぼくの方向性を決めたのは「ぼのぼの」に出てくるダイねーちゃんであった。彼女はシマリスくんのお姉ちゃん(の大きい方)で、いつも眉毛の間にしわをよせている。ダイねーちゃんはこう言う。


許して忘れるのです。


許して忘れるのです。


難しいな。許すのが難しいし忘れるのも難しい。いがらしみきおはよくそういうタイプのセリフを編む。許せないし忘れることもできないとわかっている。でもダイねーちゃんが言うのだ。許して忘れるのです。ならそうするしかない。




その後もDMは何通もきた。ときには医療者以外からもやってくる。「いつもTwitterではお世話になっております。DMでははじめまして。このたび、本を書きました。ぜひ先生にも読んでいただきたく、一冊お送りしたいのですが、送り先をおうかがいしてもよろしいでしょうか。」お世話をした覚えはない。会話した覚えもない。本はただちにAmazonで購入して、購入完了画面をスクショして送り、「もう買いましたのでご献本は結構です。ご紹介ありがとうございました。」と、ATOKが覚えてしまった文章をなかば自動入力して返事をする。そして、読む。

これがたいていおもしろいのが、なんというか、腹が立つ。

ぼくに本を送ろうとする人はほぼすべて、「ぼくだったら楽しく読むだろう」と類推した上で連絡をとってきているのだ。本1冊は営業の値段として決して安くはない。投資する先を慎重に選ぶのは商売人の常である。裏でしんと黙って知らん顔をしている編集部の人間がいる。ぼくが読んだ本をおもしろかったとツイートすると真っ先にRTしてくるのが編集者である。そういう世界に生きている。本に責任はない。いちど、ツイートしようと思ったこともあったが結局「つぶやくのをやめる」。


なお以上のことは基本的に3年以上前に起こったことを元にアレンジして書いた。ぼくはもう、あったことをそのまま記すようなことはしない。許して忘れるための秘訣と言えば秘訣、それは、「つぶやくのをやめる」。

2021年4月20日火曜日

病理の話(527) ここんとこの模様の微妙な違いの理由が知りたいんですよね

今日の話をするにあたって、実際の内視鏡などの画像を用いると、いろいろ問題があるので、例え話を交えながらやる。



胃カメラの診断学の進歩はマジですごい。患者に口からカメラを飲んでもらい、そのカメラが病気のある部分まで肉薄していくのだけれど、肉薄ってどれくらい肉薄かっていうと、もう、カメラの先端が病気の部分にほとんど触れるか触れないか、っていうレベルである。


近い



となると、胃カメラをやっている医者から見て、病気はこのように見える。



すごい近い


これくらい近いとクマさんの全貌は見られない。しかし、胃カメラは動かすことができるので、自在に動かしながらクマさんの全体をくまなく見る(ダジャレです)。



で、この病気を、胃カメラの先からマジックハンドのような電気メスを出して、うまく切り取って、治療する。今の内視鏡医(胃カメラドクター)はそういうことができる。あ、病気の種類によるけれど。



上手にとれました



で、とってきたクマさんを、病理医はどうするか。

細やかに切って短冊状にして、「割面」を顕微鏡で観察する。





病理診断のために短冊切りにする侍のイラストです









短冊をプレパラートにして顕微鏡で見るときのイメージです





そして顕微鏡で見た結果を、写真に書き込んでいく。




クママッピング



最後に病理診断を書く。



一般的な病理組織診断報告書(のイメージ)です











で、これを見て、胃カメラをやった医者からは問い合わせがくることがある。


「先生、ここんところを顕微鏡でみたらどうなってましたか? 興味があるんですよね」








問い合わせの写真






……いやいやいやいや

拡大しすぎだよ

わかんないよ

これどこだよ





ってなる。そこで、胃カメラをやった医者と病理医は、画像を付き合わせながら、

「胃カメラで興味をもって見ていたここは、顕微鏡だとどこにあたるのか」

というのを、すごく真剣に考える。











ここまでやると「血の通った病理診断」になる。胃カメラをやる人が本気になればなるほど、短冊に切って顕微鏡を見るだけでは病理診断は終わらなくなる。わりとコミュニケーションの世界だ。いまのところ、AIではこの仕事のごく一部までしか手伝えない(けど役には立つよ)。








2021年4月19日月曜日

自分の病気の話

1年くらい前には三叉神経痛で苦しんでいた。三叉神経などと書いても文字からはどこが痛いのか伝わってこないが、ぼくの場合は「歯」だった。というか歯茎の奥とでも言うか。知覚過敏になったり(熱いモノもしくは冷たいモノがだめ)、鈍痛が来たりする。最初はぜったい虫歯だと思った。しかしいくら調べてもらっても虫歯が見つからない。おまけに、上の前歯の少し左横と、下の前歯の少し左横、すなわちかみ合わせる部分が両方とも同じタイミングでズンと痛くなることがある。これって神経だよな、と思って神経内科で聞いてみたらやっぱり三叉神経痛を疑うとのことだった。エリカだかマリカだか忘れたけれど何やら薬を出しましょうか、どっちでもいいですよ、と聞き、3か月くらいで治ることが多いよとのことだったので特に何も飲まずに過ごしていたら、3か月後には本当に治っていた。


そしてその頃から腰痛が出始めた、これは半年続いた。ぼくが今驚いているのは、一時期は医局まで歩くにも足を引きずらなければいけないほどの重度の腰痛だったのに、今こうして振り返ってみると「治った」ということ。まさかこの腰痛が治るとは思わなかった。多くの仕事をキャンセルできたのはひとえに感染症禍のおかげでもある。デスクでZoomするだけでもきつくて泣きそうになっていたけれど、一昨年と同様に出張しまくっていたら果たしてどれだけ長引いたかわからない。というか、飛行機の搭乗口で歩けなくなって搬送されていたかもしれない。何がいいほうに転ぶかわからないものだ。


そういえば腰痛が治ったな、ということを意識したのはじつは昨日のことである。なぜかというとぼくは今、頚椎症がひどいのだ。具体的には首を少し見上げる姿勢で完全に右手がしびれる。家に帰ってテレビを見ているときも油断するとしびれる。おまけに、右手の人差し指だけは姿勢にかかわらずずっとしびれていて、これがもう3週間くらい続いている。頚椎症は初めてではなくて5年ぶり2度目。これもまたいつか治るんだろうなあ、と漠然と期待していてふと思った。「あっ、腰痛治ったな」と。


こうしてぼくは次から次へとどこかが不調である。なるほど中年とはこういうことなのか、と身を以て知る。書いていて急に思い出したのはIBS(過敏性腸症候群)のことだ。3年くらい便通がおかしい。痛みを伴い、下痢と便秘をくり返す。休みになるとぴたりと治る。食事をいろいろ変えて繊維質を増やしても、仕事のストレスが多いとほぼ役に立たないが、妻と相談して食事に気を付けているうちに前よりは付き合いやすくなった。付き合い続けることに慣れてしまい、もはや自分が抱えている体調不良として腰痛や頚椎症と共にノミネートするのを忘れていた。ああ、中年とはこういうことなのか、と思い知る。





先日ついに老眼が来た。ぼくは右目の視力が1.2で遠視、左目が0.3で近視なので、人に説明するときには「遠近両用」と言っているのだけれど、とうとう本を読んでいて「あっつらいな」と感じるようになった。着々と患者の気持ちがわかるようになっていく。今年43歳になる。何かを成し遂げるには十分な歳だ。体の痛みはまったく愛おしくない。歳を取ることはちっともうれしくない。その上でなお、何かを成し遂げるには十分な歳である。成し遂げるっていうか遂げたらだめなんだろうな、継続していかないと。痛みと同じように。

2021年4月16日金曜日

病理の話(526) 病理医になるには

なろうと思ってなる仕事って世の中にどれくらいあるのかな? ちょっとわかんない。だから今日のタイトルがどこまで「本質的」なのかもわからない。

でも、定期的に書きたくなる。「病理医になるにはどうしたらいいですか?」「どこで研修すればいい病理医になれますか?」に対する、お答えを。



さあ、今日の答えを書く。



「病理医がたくさんいる施設を見学し、できればその施設でキャリアの一時期を過ごしましょう。」



これがすべての基本だと思う。






内科、外科、「フツーの医者」になるためには、さまざまな場所を渡り歩きながら複数の研修をするのが当たり前になった。ひとつの施設で同じボスにずっと師事して、それで一人前の医者になれる、というのはほぼ無理である。

「大学医局」という比較的ゴリゴリの狭い世界に「入局」して門下生になっても、そこには「医局人事」という名前の外勤が待っている。大学やでかい病院だけで一生を過ごすことはない。

では医局というマフィアの中におさまらずに、自分で研修先を自由に選びながら一人前を目指せば、ひとつの場所に永年勤務しながら一人前になれるかというと……。

各種の専門医を取得する課程で、どうしても多彩な臨床経験が必要になる。「あの病気を診た経験」や、「その病気を診た経験」のように、「病気の種類をとにかくいっぱい経験する」だけでよいならば、大学病院や大規模医療センターのような病床数の多いところに勤務すれば事が足りるだろう……と思いがちだが、それだと、「地方の小さな病院に勤務した経験」は得られないし、よりわかりやすく言えば、「大学病院に行くほどではないなと思ってかかりつけの病院で済ませようとする、でもじつはけっこうでかめの病気が隠れている患者」を最初から診る機会が無い。

現代において、医者が育つには「転勤」することが前提だ。渡り歩かない医者はかなり少なくなったと思う。



しかし、このことは、現時点で病理医にはあまり当てはまっていないかもしれない。

なぜか病理医を目指す人は、「どこかひとつの施設でうまく育てばいいな」と思っている傾向がある(個人の感想です)。

さらに、病理医を育てるほうも、「俺がいちから教えればきちんと病理医になれるよ」と言い張っているケースがある。けっこう不思議だ。どういう自己顕示欲なんだ。

実際、「うちの施設ではこのように研修をして、病理専門医をとってもらいます」というプログラムが、「単一施設で組まれている」ケースは後を絶たない。臨床医は多くの病院を経験してようやく医者になるのに、病理医だけが「たったひとつの冴えたやり方」で病理医になれると思うほうが不自然だ。




「数少ない上司」に育てられる病理医はすごく偏っていく。なぜなら、いまどきの病理医は、病理診断のなかでも細かく細分化された専門分野に熱中しており、「病理診断という狭い世界の中でもさらにすみっコぐらししている」ことがほとんどだからだ。それが悪いことだとは言っていない。仕事が高度化すれば分業するしかないし、自分の専門性を高めていくことはおもしろい精神作業でもある。ただし、教わるほうにとっては、大変だ。

どのボスを選んでも偏っているのならば、複数の、なるべく多くのボスの話を聞いて、「どこに行っても通用するように」幅広い研修をしないと、病理医になるための第一歩である「病理専門医試験」にも受かりづらい。



「病理医が1人、2人しかいない施設に勤務して定年まで勤める」というのはキャリアパスとしては下策である。取り得る選択肢としては、

・病理医が10人以上いる施設に入り込む

か、

・「病理医がいる病院」を複数たばねている施設に入っていろいろなところに送り込んでもらう

の2種類が浮上する。まあこのどっちかしかないと思うんですよ。





「どっちかしかない」って書いたけど、ネットワークが発達して病理医のいる施設同士の連携がしやすくなっていく今後は、もう少し違うキャリアも出てくるのかなーとは思う。けど、今のところ、「俺が教える最強の病理学」を1個だけ持っていてもろくな病理医にはなれない。本と似ている。複数持っていたほうが楽しいのである。

2021年4月15日木曜日

ふまじめだから星一つ

本を出すと必ず発売直後に買ってくれて、Amazonに星1つを付ける人がいる。おかげで毎回Amazonの評価はいつも1.0からスタートする。


内容はいつも同じで、SNSでふざけているから星1つだ、医者が仕事中にツイートしているのは問題だ、など、書籍と関係ない内容が半分くらい盛り込まれている。見かねた人びとによって削除申請がなされると、Amazon側もそれを理解してくれるようで、数日でレビューが消去される。しかし、また似たような名前の人が現れてすぐに星1つを付けて去っていく。いたちごっこでありそういうものだとあきらめている。とある作家が「あそこはもう見てません」と言っていたがさもありなんと思う。


その後、しばらくすると、時間をかけて本を読んでくださった方が評価を付けにやってきて、星4とか星5とかをくださるので、ある時期からは評価が平均されて3.0くらいに上がる。ただこれはおそらく、「星1があるからバランスをとってやろう」という気分と無縁ではないと思う。もとからそこに星1がなければ、あるいは星3くらいでいいかなと思っていた人も、発売直後についたろくに内容を読んでいない人の星1を目にすると、かわいそうだなと思って多少高評価ぎみにレビューを書いてくれるのではないか。


Amazonの評価はいつも乱高下する。いちいち気にしてもいられない。なにより、ぼくはもともと書店を応援するためにAmazonのリンクは貼らないことにしていたから、これまでは黙っていた。


でも、あるとき鴨が、「書店員さんも、Amazonの売れ行きやランキングを見て仕入れを決めているらしいよ」と教えてくれてから、そうか、Amazonのリンクを周知することが書店の役に立つなんてこともあるんだな、と思い、ここ1年くらいはAmazonリンクを貼るようにしている。


星1を見て「そうか、つまらん本なんだな」と思う人は少ないように思う。誰もが物事の裏側をめくってみたいから本のページをめくるのだ。レビューも、「これは仲良しごっこで付けてる星5だな」とか「これは単に著者へのいやがらせで星1なんだな」ということは、誰よりも読者のほうがよくわかっている。


だからAmazonの星なんて気にしなくていい。見る人は見る、読まない人は読まない。ただ、いつも、ぼくが好きで気に入っている本にはたまに300とか500といった数の星がついていて、それがうらやましいなと思うことはある。多くの人に届くよりも少数の人に深々と刺さりたい、そううそぶくことは簡単だ。しかし多くの人に深々と刺さるものが書けたらそれはけっこうすばらしいことだ、かもしれませんね、SAMURAI。

2021年4月14日水曜日

病理の話(525) 病理医とは医療の編集者であるか

ふつうの医者(臨床医)を作家・文筆家にたとえると、病理医の仕事は編集者に似ているのではないか、と思うことがある。


医者は患者を「取材」して、よく吟味し、考え、自分の語彙力を用いてそれを記述し、患者とともにストーリーを編む。患者ごとに異なる、ひとつとして同じものなどない人生の物語に、診断名を決めることである種の「定型」を導入し、治療という介入によってこれを多くの人が納得できるような展開に持ち込んでいく。


物語の「主役」はあくまで患者である。しかしその患者の声を聞きながら、「あなたにはこういう展開がふさわしい」と誘導をしかけていく医者の臨床技術はあたかも作家のそれだなあ、と思うのである。


作家というと、物語を生み出す神であると思われてしまうかもしれない。しかしぼくの知る多くの作家達は、ときにこのようなことを言う。


「キャラを内面まできちんと描ききると、そのキャラが勝手に動き出すことがある。私はその姿をきちんと見て書き留めているだけだ」


すなわち物語というものは、丁寧な人物造形という裏打ちがあれば、たいていの場合、登場人物と作家との共同作業によって生み出されてくると思うのだ。




……ここまで書いて、かつてぼくが「作家」に例えていた臨床医は、今なら「ライター」に例えた方がしっかりくるのかもな、と思った。古賀さんの本が届いたらまたこの部分を考え直そうと思う。


古賀さんの本: 取材・執筆・推敲 書く人の教科書  https://www.amazon.co.jp/dp/4478112746/ref=cm_sw_r_tw_dp_KBMP5AAGV2MXHXCTV36Q




さて、作家・ライターであるところの臨床医と、登場人物・主役であるところの患者が共同作業で編んでいく物語、あるいは「コンテンツ」は、そのままではほころびが生じることがある。


丁寧な取材と掘り下げ(実際の医療では問診、診察などにあたる)によって、患者の体から、あるいは心から出てくる小さな声を、プロのもの書きであるところの臨床医はきちんと文章に仕立て上げていく。より多くの人が、よりわかりやすく、対処しやすい形の美文を書く。しかし、多くの取材を行い、その道のプロとなった作家……臨床医には、それ故の弱点がある。それは、「客観的な」、あるいは「俯瞰的な」物語への評価がだんだんできなくなるということだ。


作家の頭の中だけでは成り立っているストーリーも、それを実際に他人が読んでみると、ここはわかりにくい、ここは十分に書かれていない、ここは設定に無理がある、などの「ずれ」がある。作家、すなわち臨床医自身もそのことはよくわかっていて、「丁寧な取材」だけではまかないきれない、厳密で学術的な部分の調査や、全体の整合性をとること、物語自体の説得力を上げることが必要だと、きちんと認識している。


だから作家は編集者とも共同作業を行うのだ。編集者は作家が組み立てたプロットを聞いて、そのプロットが最も輝くような「舞台装置」を他者の目線から検討しなおす。「そのストーリーならばこの部分をしっかり目立たせた方が全体の流れがわかりやすくなるのではないか」「この物語にはこのようなタイトルを付けることではじめて見た人がぐっと引き込まれ、物語に入って行きやすいのではないか」といったことを提案する。また、同時に、第一の読者としてわかりにくいところを指摘したり、作家の得意な領域の確認を行ったり、ときには別の可能性を提示したりもする。


これらの例え話を医療現場での仕事に置き換えると……


病理医は臨床医の考えているプロット=臨床診断を共有して、それがきちんとハマるような病名を「病理組織診断」という別の目線から提案する。「この臨床診断に対してここで病理組織診断を確定しておくことで今後の診療の流れがスムースになる」「この臨床診断にこの病理診断がつくことで保険診療の流れに乗り、チーム医療が前に進む」。また、同時に、主治医の第一の聞き手として診療の仮説におかしいところがあったら指摘し、主治医の得意な領域に応じて今後の方針を確認し、ときに別の科の医者にも介入してもらう可能性を提示する。



うん、まだこの例え、行けるな……と思う。『いち病理医のリアル』のときは、まだ編集者という仕事のことをそこまでしっかりわかっていなかった(今もかもしれないが)。でも、ああやって書いてみたあと、作家と編集者の関係と、臨床医と病理医の関係を、それぞれ時間をかけて調べているけれど、今のところ、大外しはしていないんじゃないかなあという気がする。




かつてぼくは、編集者に出会うたびに「なぜ自分で書いて作家になろうと思わなかったのですか」と尋ねていた。でも、今はわかる。言語化はしないでおくが、なんというか、理解できるのである。

2021年4月13日火曜日

読み終わらない本のこと

ぼくは日ごろから「本を読むのが速い」と言われる。でも、ゆっくりじっくり、長々と本を読んでいることもしょっちゅうだし、自分ではあまり速読しているとは思っていない。速く読んでいるのではなくて、読書の時間が長いだけだろう。


先日、『眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ「シネマ」』という本をようやく読み終わった。この本を読むのに3週間ちょっとかかった。毎日読んで3週間。コツコツ読んで20日以上。決して速いとは言えないだろう。


この間、仕事に使う医学書や医療系の雑誌を読んだり、定期購読している書評の雑誌を読んだり、マンガの新刊を読んだりもした。たいていのものは「シネマ」より先に読み終わってしまった。「シネマ」だけが遅々として進まなかった。きつい読書だったのである。


とにかく頭のめちゃくちゃいい人が書いた本だということはよくわかった。そして、大変に難しかった。書いていることの1割もわからない。けれどもその「わからないけれど何かゾクゾクとする感覚」が気持ちよくて、いつまでも読んでいたいと思った。結局この本は読んでいる途中に何度かツイートしたけれど、読了報告はしなかったはずだ。これを人におすすめできるほど、ぼくはこの本を読めていないのではないか、と思ったからだ。たまにそういうことがある。おもしろかったけれど、読み切れなかったな、という本。


読んでいて挫折し、いつかまた読もうと思って本棚に挿している本もいくつかある。ベルクソンの『物質と記憶』(講談社学術文庫)はそのひとつだ。ざらりと低解像度で完読するくらいの気持ちで読み始めたのだが、半分ほど読んだところで、ページの中に出てくる言葉の半分くらいがわからなくなってしまい、そこでリタイアした。


医学書院のメガネのイケメンにそのことを告げると、彼は「ベルクソンは解説書がいっぱい出てますからそっちから読んだらいいですよ」とこともなげに言う。哲学の本を原著から当たるのは危険だということを、そのときはじめて知った。お説に従ってその後、いくつかの哲学書を「解説書から」読み始めたのだが、『ジャック・デリダ入門講義』(作品社)は入門書と書いてあるのに歯が立たなかった。話が違うじゃないかと思った。


今回の「シネマ」だってそうだ。ゼロから読む、とあるが、うそだと思う。この本を読めるのはおそらくゼロではなくてすでに10万くらい持っている人だ。ぼくはまだ2,3しか持っていない。しかし魅力的な本だった。これをまともに読めるようになる日は来るのだろうか?


けっこう前の話。ぼくが「哲学の本を読んでいると、途中で挫折することがあるんですよ」と言ったところ、「そもそも、本というものを、これまで、スイスイ読んだことがないですね」と返した人がいた。その人は自他共に認める読書家だったので驚いた。「スイスイ」の定義が違うのかしら、そう思って尋ねると、「どんな本でも、ためつすがめつ、行きつ戻りつ、途中でいったん伏せては深呼吸をし、しおりを挟んでは他の本に浮気し、関連書籍を思い出して本棚をあさり、ここぞというタイミングでは紅茶を入れ……とやりながらでないと読書ができないのです」と言って、笑った。ああ、なるほど、こういう人に比べたらぼくは確かに本を読むのが(たいてい)速い。そしてぼくは、自分が速い読書をできなくなるときに、なにか、猛烈な居心地の悪さ、ストレス、そして同時にけっこうな「期待」を抱えていることに気づいた。それなりにわかりやすくこじらせた感情。


ぼくはなかなか読み終わらない本のことを別に愛してはいない。しかし、なかなか読み終わらないのに満喫できる読書というものが、おそらくぼくにとっての理想なのかもしれない、ということを、その読書家の前で、つらつらと語った。するとその人は少し遠くを見ながら、こう言った。

「本を好きで居続ける必要すらないんですよね、私自身、ときには、本なんてじつは嫌いかもしれない、って思ってしまうこともある。それでも忘れた頃にまた本を開いている。そういう話がぜんぶ、いいものですよね」

なんだよ、ぼくの言ったこととぜんぜん関係ない話で勝手にまとめやがって、でも、これ、ぼくの言ったことと全く同じ話であるとも言えるなあ、と、ぼくはそのとき、絡まった糸くずを解きほぐすような指の動きをしながら考えた。

2021年4月12日月曜日

病理の話(524) 指名手配書の写真って古びてくるじゃんね

「病理の話(521)昔の標本を取り寄せる」を公開した後に、ツイッターで何気なく寄せられた質問がある。


「がんを顕微鏡でみるとき、元あったがんと、転移した先のがんって、同じように見えるんですか?」


これ、なかなか実践的な質問で、臨床医や病理医のタマゴにもたまに聞かれる。


結論: 「そこそこ同じように見える」。


言うほど簡単ではない。けっこう難しい。




まず、がん細胞というのは、すべて見た目が違う。そこからはじめよう。

「大腸がん」と「乳がん」では細胞の雰囲気がまるで異なるし、おなじ「乳がん」であっても、人それぞれ、少しずつタイプが異なる。


例として。


「がん細胞が互いに手をつないで、輪を描くかのような構造をつくる」

こともあれば、


「がん細胞がおしくらまんじゅう状態で、ぎっちり詰まっている」

こともあり、


「がん細胞がみっちり詰まっている中にぽつりぽつりと空間が空いていて、中にがん細胞が死んだあとの痕跡がのこっている」

こともある。


このような「がんの作る構造」は、転移した先でも保たれていることが多い。保たれていれば、顕微鏡をみて、「あっ転移だ!」とわかる。しかし、ぜったい保たれているわけではない。



直感的な表現で書いてしまうけれども、がんが最初に我々の前にすがたを表したとき(原発巣:げんぱつそう、という。原子力発電とは関係がない。もともと発生した場所、くらいの意味)、その細胞は、言ってみれば「初犯時の犯人の姿」である。その後、数年経って再犯(再発)したときには、がんも「歳を取っている」し、「治療を生き延びたことでスレている」。指名手配の写真のままで暮らす犯人はいない。服装は替わるし、化粧の仕方もかわるし、ヒゲを伸ばしたり、カラコンを入れたりもする。

がんもこれといっしょだ。

昔、原発巣で観察したがん細胞は、手をつないで輪をつくるような(正確には試験管構造なのだが、断面でみると輪になっている)構造を作るタイプだったけれど、再発巣に出てきたがんは、ぜんぶがぜんぶ試験管ではなくて、どこか、おしくらまんじゅう型に変わっている……なんてことがザラにある。


病理医は、がん細胞が作る「構造」だけではなく、別の性質をさぐりにいく。がん細胞の「細胞そのものの顔つき」を見る。時の選択を経て、さらに変装した犯人を暴き出すように顕微鏡を見る、ということだ。


核のサイズは? 核小体の見え方は? 細胞質の色は? いくら髪型を変えて服装を着替えたところで、骨格はなかなか変えられない。どこかに「昔のおもかげ」が残っているものである。


免疫組織化学という手法を用いて、がん細胞の中にどんな物質が含まれているかを確かめるというやり方もある。サイトケラチン7番とサイトケラチン20番という物質のどちらをどれくらい持っているかと確かめるのは、言ってみればその人が持ち歩いている麻薬や拳銃を調べるようなものだ。犯罪者はけっきょく手放せない凶器をどこかに隠し持っている。



こうして、昔と今を見比べながら、「どうせ再発しても昔のように弱点はこれなんだろ?」と、過去の犯罪捜査をもとに復活した犯人を追い詰める。そのための病理診断、そのための病理医である。

2021年4月9日金曜日

陰パリピ

園崎未恵さんのラジオ( https://www.youtube.com/channel/UClbFFSflPR0prx4Ork5VrDA )を聴きながら出勤。

デスクについて、そのままワイヤレスイヤホンで聴きながらメールに返信をしようとしたのだけれど、話の内容がわからなくなりそうで、メールはあきらめた。Twitterもやめる。番組が終わるまでデスクワークはせず、サボテンに水をあげたり、コロコロで椅子のホコリを取ったりする。


昔はもうすこし「聴きながら書けた」のだが、たぶんそのころは、聴いていなかったし、書いてもいなかった。では何もしていなかったのか、というとそうではない。聴いているともなく聴き、書いているともなく書いて、それで何か、十分に脳が喜んでいたのだ。もちろん書いたものを受け取った人にはいろいろ感想もあったろう。それでもぼくにとっては、きっと、「それで自分の脳がうれしかった」のだから、ま、各方面に申し訳ないとは思うけれど、ぼくにとってはよかったのだと思う。



集中すればいいというものではない、ということをよく考える。

何かにかかりきりになることのメリットは、細やかにミスを減らしていけること。だから診断のような仕事は没入してやるに限る。ミスによって迷惑をこうむる人が多い現場で、多くの人々がミスをしかねない状態で、最後にぼくがすべてのミスを回収する。箱根駅伝に例えるならば往路の最後でぼくが帳尻合わせをする、すると、復路で安心して山下りができる。そういうイメージ。ここでは集中が確かに役に立つ。

しかし、集中すればいいというものではない。

ぼくは五感の足並みが揃っていない状態で出てくるものがわりと好きである。そういうところに何か、人としてフクザツに暮らしていることの醍醐味を感じることがある。全身を同じブランドで固めて安心するシチュエーションがあるというのは理解するが、たいていの人はTPOに応じて、パンツとTシャツはGUなんだけどベルトとジャケットはちょっと気の利いたブランド、みたいな組合わせをして楽しむ、あるいはやり過ごしていくものだと思う。それといっしょで、自分の全身全霊を没入するのもときどきがいいと思っている。耳はあれを楽しみ、目はこれを楽しむということが、「やれるならばやっていたい」、そう思っている。



しかし……なんかできなくなってきた。耳は耳で脳の体力を使う。目は目で過去のもろもろからいろいろ引っ張ってくる。そういうようになってしまった。本当は五感をあちこちに散らばらせておもしろおかしく突飛な刺激を受けていたかったけれど、そろそろ、集中するわけではなしに、没頭する、そういったムードに体がなっている。外から入ってくるものに対して、反応したがる体内の兵卒が増えてきたなあ、という感じ。使い込んだ五感の尖兵たちは、なんか、勝手にお互い仲良くなっているのだろう。耳が何かをやっているとき、手や目のやつらも、「ちょっと、今は耳にまかせようぜ!」みたいなことを言うようになってきている。そうやって内輪のノリでウェイウェイやるのはよくないんだぞ、ほんとうは、と、脳が神経に嫉妬しているようなところがある。

2021年4月8日木曜日

病理の話(523) ポリープの分類

「ポリープ」という言葉が。市民の間にわりと、それなりに、なかなかの割合で知られているというのは不思議だなーと思う。だって変な単語だよね。Polyp. 


大腸カメラでポリープとってもらった、みたいな使い方をする。市民権を得ているというのが興味深い。


サンゴやイソギンチャクのような海洋生物の界隈では、同じpolypと書いて「ポリプ」と読む。伸ばすか伸ばさないかの違いはあるが同じ単語だ。


語源や細かい意味については詳しくはかかないが、大腸や胃にできる「ポリープ」というのは、要は「キノコ的に発育するもの」である。形状はまさにキノコだ。


キノコが多様であるように、ポリープも実はけっこう多様である。


茎があったり、はっきりしなかったり。


表面がつるっとしていたり、ぎざぎざ、ふさふさしていたりする。


形の違うキノコが別の名前を付けられているのとおなじで、エノキ的な形をしたポリープと、椎茸的な形をしたポリープ、さらにはアフロヘアー(?)みたいな形をしたポリープは、それを作り上げている細胞が違う。


つまりポリープというのは複数の病気を含んだ概念なのである。「大腸カメラでポリープをとった」の一言だけだと、それがどういうポリープだったかはわからない。




そこで病理医が登場して、ポリープの正体をあばく。患者にとって一番ぎょっとするのは、ポリープが「癌」であったときだ。ただその頻度は必ずしも高くない。多いのは「過形成性ポリープ」、「腺腫(せんしゅ)」、「炎症性ポリープ」あたりだと思う。


ほかにも無数にある。過形成性ポリープのなかにはmicrovesicular hyperplastic polyp(対応する日本語がない)や、goblet cell rich hyperplastic polyp(対応する日本語がない)があるし、現時点で腺腫(せんしゅ)と呼ばれているものの中には、traditional serrated adenoma、tubular adenoma, tubulovillous adenomaなどがあり、ほかにもこれらの分類に入らないポリープとしてはPeutz-Jeghers type polypやJuvenile type polyp, inflammatory myoglandular polyp, muco-submucosal elongated polyp, そして忘れてはいけないのは隆起型のmucosal prolapse syndrome...



なーんてことを書くといかにも昆虫とか魚類とか、それこそキノコなどの分類学者っぽいんだけれどやはりこういうことは覚えておかないといけない仕事なのである。ポリープっつってもいろいろあるよって話でまとめても一切かまわない。「がん」にだけ気を付けておけばほかはそもそもあまり大勢に影響がないのだ(少なくとも患者にとっては)。


では分類はなんのためにやるのか? 分類するための分類? いや、じつはそうでもなくて、「そういうポリープが出てくるような体質」とかがないかなって調べるために有用だったり、あるいは、「ある種のポリープは放置しておくとその後がんになるかもしれない」みたいなことを研究するのにも役に立つ。このあたり、分類学とはいえども実学の趣があるよね、とみんなを言いくるめて研究費を取得したりするんだけど、どうも、キノコの分類と同じ気持ちでワクワクやっているようなふしもあるんだよな。理由はどうあれしっかりと知っておくことは、悪いことではないよ。人類にとって。

2021年4月7日水曜日

年度が替わるのでデスクの写真の配置換えをしている。額装された幡野さんの写真が2枚と、額装されたROROICHIさんのボールペン画が1枚。デスクのまわり、ぼくの目が行く3箇所に飾っていて、ときどき入れ替える。たったそれだけのことでデスクの色感が変わって見える。たとえば、自室の窓の場所を季節ごとに動かせたら楽しいだろうと思うのだが、それは現在の建築方式では不可能だ。一方で、額装した写真や絵というのは、これはもう窓のようなものであり、本物の窓よりも簡単に移動させられるし、本物の窓よりときには美しいものを映してくれる。ただそこに手を入れられない、風が吹き込んでこないということだけが不便であり不満だ。しかしよく考えるとたまに風を感じることはある。


幡野さんの写真からは風を感じることがある。ROROICHIさんの絵は無風だが時間がそよいでいるように感じる。


もうひとつくらい絵が欲しいな、と思いつつ、照林社の編集者から送られてきた鬼滅の刃や天気の子の絵はがきをべたべた貼っている。恵三朗先生から来た年賀状も飾っている。ちはやふるのカレンダーが一番大きいかもしれない。先日、総務課の職員(男性)がデスクにきたときに、ちはやふるカレンダーを見て目を輝かせていた。これらも結局は窓なのだと思う。病理のデスクには巨大な窓があるのだけれどブラインドによって太陽光はスキマから漏れ出てくる程度だ。それでも十分にデスクは明るく、しかし、ぼくはこの窓をときおり動かしてみたい衝動に駆られる。もう少し斜め上あたりに窓があったらどんなに素敵だろうと思う。それが叶わないかぎりぼくは写真や絵を飾り続けることになる。頚椎症がひどくてデスクに座ることに恐怖心が少しだけある。それでも絵や写真があるから疲れが癒えていく。よどんだ気持ちが窓を通じて外に逃げていく。換気が大事だという合い言葉は意外と人にいい影響を与えるかもしれないなと春を迎える札幌にて思う。冬は窓を開けるのは無理だ。そういえば幡野さんの写真の2枚中1枚は雪の写真である。この窓からは冷たい風がときおり流れ込んでくる。

2021年4月6日火曜日

病理の話(522) 見えないものを見ようとして

病理医が顕微鏡を覗くとき、そこに「病原性微生物」が見えることがある。

いきなりの六連続漢字では暴力っぽいので、意味をちゃんとひらこう。

病原性=病気の原因になりうる、

微生物=ちっちゃいやつ。

である。



この「病気の原因になりうる」というのがミソだ。つまり、人体には病気の原因にならない微生物だっているよね、っていう理屈が裏に隠されている。

たとえば皮膚の常在菌や腸内細菌は、体の表面(あるいは腸の表面)にくっついているけれど、体に害を及ぼさない。だから、これらを顕微鏡で発見しても驚かなくていいということになる。

ぼくらが顕微鏡で見出すべきは、病原性のある微生物だけだ! じゃあそこをきちんと見分けないとなあ。難しいなあ……。






んだけど。いや、ま、そうなんだけど。じつはこれが、不思議なことに。





病理医が皮膚や腸のプレパラートをみるとき、そこにいわゆる「常在菌」がいることは極めてまれなのである。こないだ気づいた。「あれっ、そういえば、億兆の常在菌がいるんじゃなかったっけか?」 ぜんぜんいない。

ていうか、病理医が顕微鏡を見るときにかんして言えば、「そこに菌がいるならば、たいていは病原性微生物」である。ごくわずかな例外を除くと、「菌がいればまあ病気になってるよ」という感覚がある。





あれあれ? これは、どういうことかな?





少し考えて、わかった。皮膚や腸の表面にくっついている、善良な菌(?)たちは、検体を採取したあとにホルマリン瓶にほうりこむと、そこで死んで剥がれてしまうのだ、ということに。

やや専門的な話になるのだけれど、皮膚の常在菌や腸内細菌というのは、体の表面にくっついてはいるが、自由に動ける状態というか、「しみ込んできていない」のである。だから劇薬に放り込んだ瞬間から剥がれてしまう。このため病理医はこれらの「いるはずの菌」を目視することがない。

そして、じつをいうと、病原性の微生物も、表面に「ただいる」状態では、それをぼくらが目視することは不可能なのである。たとえば食あたり……感染性腸炎で、大腸の粘膜をかじりとってきて(生検)、それを顕微鏡で見ても、腸内に増えている「悪玉細菌」はふつう、見ることができない。こいつらも常在菌といっしょで、ホルマリンに漬けたとたんに剥がれて死んでしまうのだ。




では、病理医は、感染している「悪い菌」を直接みることはまったくないのかというと……。

ある。それも、あまりうれしくない意味で。

先ほどから、常在菌も悪い菌も、表面にくっついている限りは(検体処理の際に)剥がれ落ちてしまう、と思わせぶりなことを書いている。

これは、逆にいうと、菌が体の中に「しみ込んできている」場合には、ホルマリンに漬け込んでも剥がれることがなく、組織の中に菌が見えるということだ。

ほんらい、皮膚にしても腸の粘膜にしても、「体内に変な物を入れまへんで」という物理的な防御は完璧なのである。そのバリアを破壊されて、菌が体の中に侵入してきた状態というのは、端的に言って、ヤバい。このヤバいケースで、病理医は菌を顕微鏡の中に見つけることがある。




さっきから菌、菌と書いてきたけれど、真菌なんかも見られる。寄生虫もね。体に対して攻撃を仕掛け、かつ、体に突き刺さったり潜り込んだりするタイプの病原性微生物にかんしては、ぼくらは顕微鏡で見極めることができるのだ。






ちなみにウイルスは見られません。段違いに小さいからね。でも、ウイルスが侵入したときの細胞変化を見ることはできる。けっこう工夫の余地がある。

2021年4月5日月曜日

チャーシュー力

仕事のタイミングがうまく合わなくて、とある金曜日の午後、やることがなくなってしまった。めったにないことだ。あわてる。


本当はやるべきことがごっそりあるのに忘れているのではないか、と、まずは自分を疑う。手帳を見て、WorkFlowyにまとめているto do リストを探す。しかし見事になにもない。

正確には、4年後に出しましょうと言われている大著(笑)の原稿書きという仕事があるにはあるのだが、この仕事はまだ一行も書けていないし、目次すらほとんど思い浮かんでいない状態である。たかだか金曜の午後ひとつくらいではどうにもならない。今日のところは無視していいだろう。もう少し言語化する前の段階で思考を暖機運転しないと動けない。


これまで書いた教科書や一般向け書籍はいずれも依頼される前から頭の中で考えてきたことがベースになっている。書いている途中でいろいろと新しいことが引き出されてくるから、書き終えるころには「へえ、こんなことになったのか」と自分で感心するのだけれど、真の意味でまっさらの状態から「書き下ろし」たことはないと思う。そして、4年後の本は、今はまだまっさらだ。あと3年は書かずに温めておく。そうしないと書けない。


というわけで、今日ここにある暇をどうするか。


返事していないメールはない。出なければいけない会議もない。数週間後の研究会の準備でもするか、と思ってフォルダを開くと、なんと先週のぼくがすでに作り終わっているではないか。い、いつの間に。芝居がかって天を仰ぐ。頚椎症が悪化するのですぐまた元の位置に戻す。パワポを開いて中を見る。やはり完成している。作った記憶は曖昧である。寝ている間に小人が作ってくれたタイプの仕事かもしれない。そんなことではプレゼンを提示する際に言葉が出てこなくなって困るだろう、と思って、読み進めていったら確かにぼくが作ったものだ。作り上げた記憶はないが作り上げた物がたしかにぼくの体温を持っている。


依頼されていた論文の病理パートも書き終えている。著者校も昨日PDFで送り返してしまった。依頼原稿は2か月先の締め切りの分まで書き終えてある。対談の企画書も書いた。共同研究の倫理審査も通した。委員会資料もぜんぶ揃っている。学生講義の準備も万全だ。


いよいよやることがない。もう帰りたいなととっさに思った。でも夕方からは会議がある。あと3時間くらい、どうやって過ごそう。


職場のデスクにひそかに隠してある『映像研には手を出すな!』のブルーレイを見て過ごしたら楽しいだろうな、と思ったけれど、さすがに業務時間内にそこまで自分の時間に没入することはできない。これは「お守り」だ。開いて中身を見るのは御利益を吹き飛ばす行為である。そもそも、いつ突発的に仕事の電話がかかってくるかもわからないし、外界を遮断するような時間の使い方はできない。


迅速組織診の予定がないことを確認して、医局に歩いていって、自分宛の郵便を受け取った。医学系の雑誌が1つ届いていた。よかった、やることがあった。これを読もう。いつもなら業務のスキマスキマで無理矢理読む雑誌を、今日はわりとゆっくり読める。ソファでコーヒーでも飲みながら雑誌を読めばいい。ほかの臨床医だって、総合医局のソファスペースでよく休憩している。あれと同じようにやってみよう。


……でも、だめだった。ソファに座ろうと思ったけれど、なんだか恥ずかしくて、また病理のデスクに逃げてきてしまった。ぼくは「誰もが見てわかるタイプの小休憩」をとることができない。


うすうす気づいてはいた。普段のぼくは、「どうだ、この見事な働きっぷりは」と、オシャレな服をみせびらかすように自分の多忙さを見せびらかしているということに。いざ、暇な時間が訪れると、それを周りに知られることに、まるで服を脱ぎ散らかしてスウェットでダラダラしているところを見られたかのような恥ずかしさを覚える。


当たり前だけれど反復する毎日でぼくはいろいろ歪んでしまっている。多忙に案件を打ち返していくことはメトロノームのようにぼくのリズムを整えているし、雨垂れとして心の中にある石を穿っている。ああ、もっと暇になればなあ、なんて望み続けることまで含めてひとつの人格なのだろう。患者がしばしば「長年付き合った病気が治る感覚に頭がおいつかない」と無意識で感じているのと似ているかもしれない。


もっとダラダラ働いていいんだと思う。本当は。そうしないと若い人が夢を持ってここにやってこられない。でもぼくは、「バリバリ休み無く働くことを夢見て医者になった人」のほうが偉いと心のどこかで信じ切っていると思う。もちろんそういう考え方は古い。脳の回転数と指先の回転数とは必ずしも比例しない。睡眠時間を削れば削っただけ偉いという価値はぼくらの世代で破壊しておくべきだ。わかっている、わかっているのだけれど、他人については、世界についてはよくわかっているのだけれど、それでもぼく自身はいまだに、「バリバリ働いている自分」のほうが、「だらけながらいい仕事をする自分」よりも絶対にカッコイイと盲信しているフシがある。そうやって自分をヒモで縛って醤油ベースのつけだれで煮込んでおかないと味がしみ込まないと確信している。ばかばかしい。圧力鍋で5分もアレすればどんな具材でもいいカレーになるというのに……。ま、ラーメンにはならないけれど。

2021年4月2日金曜日

病理の話(521) 昔の標本を取り寄せる

人と病院との付き合いなんて、なければないほうがいいと思うこともあるし、せめて1度で終わればいいなと思うのだけれど、なかなかそうもいかない。


継続的に病院にかかる、というケースはままある。診察券をずっと財布に入れておくイメージ、とでもいうか。


「良くなったり悪くなったりしているので、定期的にチェックしてもらう」とか、「完全に病気が消えることはないし、治療を続けていれば悪くもならないので、川中島の戦いのように引き分けを続けていく」とか。

あるいは、「ひとつの病気はよくなったが、別の病気が出てきたので、せっかくだから同じ病院でそのまま診てもらう」ということもある。



患者と病院との付き合いが長くなるとき、病理医にはある特殊な仕事が舞い込むことがある。それは、患者の最新情報と、「昔やった病理診断」とを見比べるということだ。

ひとつの例をあげる。ありそうな話を適当に頭の中で組み換えたできごとであり、そのものズバリのエピソードがあるわけではないが、なかなか衝撃的だとは思うので、心して読んで欲しい。



10年前に乳がんにかかった患者がいる。手術で病変はすべて採り切れており、リンパ節にも転移はなかった。そのまま毎年病院でチェックしていたが、再発はなかった。


ところが今回、乳がんでかかっていた病院とは違うクリニックで、胃カメラによる健康診断を受けたところ、胃に小さな病気が見つかってしまった。


内視鏡医(胃カメラを担当した医者)は、「おそらくこれは胃がんだろう」と思った。病気のカタチや色調、周囲の状況などからそう判断した。


ところが、患者の既往歴(きおうれき。過去にどんな病気をしているか、ということ)を確認すると、そこに「10年前に乳がん」と書かれている。


胃がんと乳がんは、同じ「がん」と名前がついているけれど、まるで別の病気だ。構成している細胞だって違う。だから、この患者が過去に乳がんになっているということと、今回あらたに胃がんが出てきたということは、基本的には別々に考えていい話だ。


しかし、内視鏡医は気になった。

一度も再発していなかった乳がんが、10年経って胃に転移するなんてことも、じつを言うと全くないとは言えない。たとえば、中~大規模の病院で10年とか20年という長い間はたらいていると、1人、2人はそういう患者と出会うこともある。確率は低いが、ないわけではない。

内視鏡医は少し考える。「胃の病気が、もし乳がんの再発だったら……。」

胃がんと乳がん(の再発)では、治療法がまるで違う。


そして、これ以上は、いくら考えてもわからない。


だから内視鏡医は、まず、胃カメラで、胃の病気の一部をつまみ採ってくる。


爪の切りカスよりさらに小さいくらいの断片でいい。これを病理に出す。


病理医に向けて書いた依頼書。「胃がん疑いです。なお10年前に乳がんの既往あり。」


それを見た病理医はすかさず……。


前に乳がんを診療した病院に連絡を取って、乳がんの病理診断をしたときのプレパラートを取り寄せるのである。


胃がんと乳がんは、見ればすぐに区別がつく……とは言い切れない。細かいことを言えば細胞は別モノなのだけれど、所詮は胃カメラで断片的に採ってきただけの細かいカケラ。断言するには心細い量だ。


だから、「以前の病気の姿を、実際に顕微鏡で見て比べる」というのが極めて大事なのである。





今回のように、「病気が再発なのか、それとも新たに出てきた別の病気なのか」を確認するためには、昔のプレパラートを取り寄せる。

ほかにも、たとえば、「○年前にA病と診断がついていたが、その後の経過を見ていると、どうもA病としては珍しいふるまいをする病気だということが後からわかってきた」というときも、昔のプレパラートをもう一度見る。

「○年前にBという病気を診断されているが、じつはCという病気も隠れていた可能性はないか?」などと問い合わせを受けて、昔のプレパラートをあらためて見直すということもやる。



病理診断は細胞を見て考える仕事なのだけれど、一度考えた内容をあとから振り返ったり、昔書いたものを参照して今に加味するといった、「時間軸を加えたロングスパンの思考」もやることがある。このあたりは、臨床医も、若い病理医も、わりとおろそかにしがちな部分であり、中年以降の病理医は「自分がしっかり過去を取り寄せて見比べないとな」と気持ちを引き締めるようにしている。じっさい、そういう知り合いが多い。

2021年4月1日木曜日

欲望

「このブログは、朝更新するのが一番いいな」と感じている。ただし、自分がなぜそう感じているのかはイマイチわからない。ここのところはあまり考える気がしない。たぶん、わからないままにしておいていい部分なのだろうと思っている。人間、あまりこだわりのふたを開けない方が良い。閉じたままにしておいたほうが安定するものがある。密閉して低温で熟成させる。超音波とかは当てない。



ぼくのスマホにはときおりキャリアメールが届く。コンタクトレンズの会社と、回転寿司の予約に使えるウェブサービス、そしてスポーツ用品店。いずれも、日ごろ、一切使っていない。だからすぐにブロックしていい。それで何の差し支えもない。そもそもぼくは裸眼なので(メガネは伊達メガネだ)、コンタクトのメールが来る意味がわからない(いつ誰が登録したんだ)し、長いこと外食していないし、スポーツ用品なんて買わない。しかし、使い途のないこれらのメールをブロックせず、着信するままにしてある。明確な理由はない。ぼくはアプリ等の通知をかなり細やかに管理するほうだから自分でも不思議ではある。「なんとかしてもいいのに、なんともしていないなあ。」とはっきり気づいていながら、そのまま。ahamoがはじまって、キャリアメールが廃止されたら、これらのメールも届かなくなるんだよな、と思って少しさみしい思いすらしている。

一連の感情は言語化し切っていない。メカニズムを追いかける気にもならない。



「えっ、そういう中途半端な状態に耐えられるんですね」

みたいなことを言われることがある。もう少し自分を完璧にコントロールしたがるタイプだと思っていました、という言葉を耳にする。コントロールしたいと思うのは、自分から発せられて明らかに人に向かって飛んでいる部分くらいだ。それは礼儀としてやっておきたい。しかし、「にじみ出てしまって、届いてしまうもの」まではコントロールできると思っていない。どちらかというと、操作にかんする「不全感」を抱えたままでいたい。根源的な欲求のレベルで、ある種の「未解決」を望んでいる。



「放置したままで、少し腐敗しかかっている部分」のようなものを、ときおり求める。職場でも家でも、部屋の中はきれいで、机の上も整然としており、PCのデスクトップもスカスカで、「仕事ができる男は机がきたない」みたいな発言は生理的に無理。それなのに、精神の一部が無解釈で放置されている状態をどこかに残しておいたほうがいい、そういう信念が、ほどよいきれい好き感覚と矛盾無く存在する。



最後まで言語化しないままに終わりたい。ただし「取っ手」をひとつ付けておく。ぼくは、単純な系である限りは心ゆくまで整頓する。なぜか。複雑系が整理できるわけがないだろうと「言いたい」のだと思う。「単純じゃないものを扱っているんだよ」と、「言いたい」のだと思う。ここまでにしておく。