2021年8月31日火曜日

病理の話(571) 妄想診断実況訓練

今日はぼくがときどきやっている「妄想診断実況訓練」の話をする。


これは、病理医としてはたらいている最中、診断と診断の合間や、仕事を終えて家に帰る車の中、あるいは出勤中などに、最近出会った症例を頭の中でくっつけたり修飾したりしながら、「架空の難しい症例」を作り出して、それを自分で診断できるかどうか妄想で訓練する、というものだ。


学校でやる避難訓練のシチュエーションを自分でいじりはじめるようなイメージで考えてもらえるといいだろう。


「生徒たちは今こうして廊下を一列に並んで批難しているけれど、もし、天井のスプリンクラーがいっせいに作動して、しかもそこに塩酸が含まれていたら、この逃げ方ではおそらくだめだ、ではどうする?」


みたいなことを、どんな小学生もかならず小さいころに妄想していたはずだ。していなかった人は今日はもうブログを読むのをやめて寝てください。





【例】


○○から採取されてきた検体。顕微鏡でぱっと見たところ、「上皮性腫瘍」(※こういうとこあまり気にしないで読んでください)のように見えるが、なにか違和感がある。ふつう、ここから採られてくる検体は99.9%が「上皮」と呼ばれる性質をもつが、今回は、違うかもしれない。


いつもならば、「上皮であることはあたりまえ」で、「どんな上皮か」を丹念に検索する作業に入る。渋谷の街中でアンケートをくばるとき、そこに年齢や性別は書いてもらうけれど、「あなたはヒトですか?」という選択項目は用意しない、なぜなら渋谷の路上で猿にはめったに出会わないからだ。それといっしょで、今回の生検も、「あなた、上皮ですか?」から質問することは、ふつうない。


でも、今回はなにか……おかしい。上皮にしては、「細胞と細胞の間にスキマが見えすぎている」のが気にくわない。さっきの渋谷の例でいうと、猿っぽさがある……いや、もうちょっとあいまいだ。「ヒトっぽさがへん」。マンガ・寄生獣に出てきた、「ヒトならぬものの目」を思わせる。


だから今回の生検では、最初に、「あなた、ヒトですか?」の質問にあたる免疫染色をしよう。普通はこんなことはしないけれど、さいしょに、上皮マーカーサイトケラチンと、あと、そうだな、汎リンパ球マーカーLCA、汎間葉系マーカーVimentin、そして特殊な腫瘍をひっかけることがあるマーカーS-100、この4種を「初回おためしセット」として染色する。さらに、おためしの結果を見て次の一手を迅速に打つために、「あとは免疫染色の抗体だけぶっかければ検査が終わりますよセット」もオーダーしておこう。弁当屋で、パックの中に白米だけ詰めて、あとはおかず待ち、みたいな状態になっているのを見ることがあるが、あれをやる。


(【例】おわり)




……と、まあ、こういうかんじの実況型の訓練を、ぼくは毎日やっている。それでも難しい病気はやってくる。それでもわからない患者には出会う。それでも、やらないよりは、やったほうがキレ味がよく、かつ、診断が、2秒早くなる。

2021年8月30日月曜日

公園のベンチであなたにガウディ

医療情報発信は勤務医としてのタスクをすごく圧迫するので、20代や30代前半にやるのはちょっときついと思う、そもそも医師になって10年未満だとキャリア的に見ていない風景が多すぎて、情報を発信しようにもネタが足りなくなってしまいがち。


だから情報発信するなら30代半ばくらいからがチャンスだ。職場における自分の立ち位置が明瞭になってきて、医療で自分が得意な領域と、誰かに聞かなければわからない領域と、誰かに任せてしまった方がいい領域とがきちんと分かれてくる、そのタイミングで情報発信をすると「自分発の情報」にこだわらずに「自分が情報交換のハブとなる」ことができるようになる。


40代に入ると多忙は頂点を極める。勤め先の医業は猛烈な量になるし、しょっちゅう自分が一番上になって責任をとるようになる。医療情報もキレ味が増す。飲むようにエビデンスを採取し、無数の人とコミュニケーションする中で出てくる情報は誰にとっても価値が高い。しかし、限界も近づいている。


50代になるとインターネットもリアルも関係なく「調整役」としてやるべきことが多くなってくる。救急の現場がテレビで描かれるときに若くてかっこよい俳優ばかりが使われるが、あれが完全にフィクションとも言い切れないのは、50代を超えた救急医は現場を維持するための「管理職」にまわっていて実際にERに降臨することが減るからだ(減らないならそれはある意味スタッフが足りていないということ)。このとき、30代や40代で趣味的にインターネットを使っていなかった人や、すでに執筆の経験がある人以外は、医療情報発信をする暇はほぼない、というか脳がそちらにフィックスできないし、する必要もない。より若くていきいきしている人を教育してそいつらに情報発信も頼めばよいのである。


60代になると「実績がない限りそもそも言葉を聞いてもらえない」という状態が出てくる。職場で実績があるなら職場の教育役になれるし、学会で実績があるなら学会の講演を頼まれるようになる。でも、自分の所属する、自分の声が届く、自分が実績をあきらかにしているコミュニティの外に声を届けるのはかなり厳しい。若い人と言語のずれが出てきているというのもじわじわと効いてくる。




ということでぼくは30代からへたくそなりに医療情報の拡散を手伝いたいなと思ってやってきましたが、43となりそろそろ限界も近づいていて、少しずつ環境を整える側に回っていくんだろうな、ということを考えています。SNS医療のカタチのメンバーも忙しすぎて厳しいことになっているが、ここでインフラを作るのが「偉くなりつつあるぼくらの仕事」なのだと思う。先輩達がすでに作ってくれたインフラをありがたい足場にしながらその上に、いつまでも大きくなり続ける情報のサグラダファミリアを建てる。建築の側に回る。

2021年8月27日金曜日

病理の話(570) 悪人を生んだ時代と環境の責任について

体のあちこちにある細胞は、常に新しく生まれて入れ替わっている。

ほとんどの場合、新たに生まれてくる細胞はそれまでそこにいた細胞とまったく同じ性質を持つ。だから、細胞が入れ替わっても臓器のはたらきは変わらずに保たれる。


「イオンの専門店街にショップがたくさんある。ショップでバイトする店員は数年ごとに入れ替わっていくが、仕入れる商品の傾向が変わるわけではないし、陳列スタイルも変わらないので、店としての雰囲気は保たれ続ける」という感じだ。店員が入れ替わっても、引き継ぎがきちんとできていればショップとしては問題ないのである。


この店員の入れ替わり=細胞の新陳代謝が、あるとき乱れて、「異常な悪人」がそこにのさばるようになると、「がん」と呼ばれる。


がんは細胞の中に多くのエラーを抱えており、放っておくと無限に細胞分裂して徒党を組む。「ほどよく働いてから去る」という新陳代謝に従わないので、いつまでも居座るし、正常の機能を果たさないし、周りをぶち壊す。


この、がんの「原因」とは何か?

世間で有名なのは「たばこ」とか「放射線」あたりだろう。しかし、がんの原因はひとつふたつと数えられるほど少なくない。がんとは、「チンピラがヤクザ化して、たくさんそこにのさばった状態」であるが、これにはとてもたくさんの達成条件があるからだ。


先ほどの例え話で言うと、イオンのショップで、あきらかに反社会的勢力とのつながりを感じさせるようなチンピラが雇われることはまずない。ちょっとおかしいな、という人が面接に来たら、まずそのショップの店長は雇わない。これは人体においては「免疫」のはたらきに相当する。それぞれの臓器には常駐する免疫細胞がいて、生まれてきた細胞にエラーがあるとその場で反応して壊してしまう。毎日数百万の細胞が新たに生まれている人体で、がんが出てくるのが「数十年に一度」という低頻度にとどまる理由は、「がん細胞が爆誕してもそのつど免疫担当細胞がそいつを倒しているから」というのが大きいと言われている。ショップはそれぞれいい面接をしているのだ。


仮に、ショップの面接をすり抜けて、ショップで働きはじめたとしても、チンピラとしての化けの皮が剥がれると、客やほかのスタッフに見とがめられてクビになる。いったん生まれて増え始めたがんも、体内の別の免疫によって遅れて退治されると言われている。人体の中には、警備員や警察的な存在がいっぱいある。十重二十重の防御機構がある。


さて、たとえば「たばこ」というのは、体内の非常に多くの細胞にいっぺんに多くのエラーをもたらす力を持っている。すでに存在する細胞にエラーを起こすとけっこうな問題で、たとえば肺というショップの人員が不足して「肺気腫」という病気になると、呼吸は非常に苦しくなり生命にかかわる。しかし、それだけでなく、「生まれたばかりの細胞」……つまり前途ある若者にもエラーを抱えさせるというやっかいなやつだ。若いときからエラーを抱えると、そいつは将来がんになることがある。

たとえるならば、「テレビですごく教育に悪い、暴力的な特番を何日も何日も続けて流していると、それを見た子どもの中から『犯罪やってみようかな』という若者が育ってしまう」というイメージだ。

ただし、「暴力的な特番を見れば必ず若者がチンピラになってそのうちヤクザになって徒党を組む」かというと、そういうわけではない

だってショップの面接は相変わらず機能している。そもそも悪いテレビを見て悪人になるというのは確率問題ではあるけれど、「絶対」なんてことないだろう。

はっきり言うが、喫煙者にがんが発生したからといって、その原因が「たばこだけ」とは言えない。たばこによってエラーを抱えた細胞がいても、ショップの面接が正常に機能していれば、たいていのチンピラは面接で落とされる。



こうして考えると、がんというのは、「環境にも原因があり、本人(細胞自体)にも原因があり、それらが運悪く積み重なって、折り重なって、ぽっと出てきてしまう」のだということがわかる。原因は常に複数あり、メカニズムもいつも複雑なのだ。







あるイオンのある街の治安が悪化している。宇宙人が襲来して街にビームをあびせかけ、あちこちに穴をあけてしまったからだ(ひどい)。


(※まさかそんな、いきなりエイリアンかよ……と思う人もいるだろうか? でも、たとえばたばこというのは人体にそれくらいの攻撃をするので、イオンの例えを使うならこれくらいしても間違ってはいない。)


イオンのショップも歯抜けになってしまった。店員も実家に帰ったり家族の手当てをしたりして、常勤の店長がいるショップといないショップがあるようだ。どことなく、バイトの店員を雇うシステムも適当になっている。


テレビでは毎日へんな番組をやっている。陰謀論うずまく黒いノンフィクションがひたすら放送され、ただでさえ暗い気持ちにストレスが蓄積していく。


こうしていつしかイオンの中にチンピラやヤクザが棲み着く。これが、「複数の原因が積み重なりまくってがんになった」という状態。


しかし、逆に、こういうパターンもある。


街はとてもきれいだ。ゴミ一つ落ちていない。人びともみんないい笑顔をしている。警察も十分に機能している。


ただし、ある日、イオンのショップで、たまたま、偶然、うっかり、店長がシフト調整をまちがって、バイト面接をあまりよくわかっていない若手社員にやらせてしまい、ひとりのチンピラを雇ってしまった。


そのチンピラは目立った悪さをすると通報されるというのがわかっていたから、おとなしい顔をして、一般人のふりをして、毎日それなりにまじめに働きながら、機会をうかがう。


数年以上の時を経て、警備員とも顔なじみになったところで、少しずつ仲間を増やす。次第にそのショップの店員に対するチンピラの割合が多くなっているが、まわりはなかなか気づかない。


このチンピラは子どものころ、別にへんな番組など何も見ていなかった。おかあさんといっしょやちびまる子ちゃんを普通に見てすごした。しかし、なんか、たまたま、悪い心に育ってしまった。


不運が重なった。街中のあらゆるショップでは善良な人びとが入れ替わりながら街を維持していたのだけれど、たまたま、偶然、イオンの中のあるひとつのショップだけで、チンピラがヤクザとなって、周りの店を壊す準備をはじめようとしていた……。



こういうタイプのがんもある。ていうか、こっちのほうが多いのではないかと思うくらいだ。なにせ、体の中には、37兆とも60兆とも言われる数の人が……いや、細胞が住んでいるのだから。地球の人口よりはるかに多いのだから。不運が重なることは、あるものだ。

2021年8月26日木曜日

底力と眉毛

眉毛だな、眉毛、眉毛が語っている。そう思った。


多彩な世代の個人が集まって、複雑系のネットワークのハブに佇む「要人」に、さまざまな思いの丈をぶつけるという番組を見ていた。


分析好きの中年たちは、さまざまなメディアを介して手に入れた「世界の一部だけを撮った写真」を元に、それぞれの視座からそれぞれの意見を語る。


意気揚々たる若者たちは、現場の熱を込めた打突を、「お上」に直接打ち込んでいく。


それを要人はひとり、眉毛を八の字にしながら噛みしめて、ひとりひとりの名前を復唱しながらずっと聞いていた。




「Twitterの2,3行には慣れていない、泥臭く、たとえばこのように1時間という長めの時間をついやして、じっくり語るスタイルしか取れない、なぜなら私たちはロートルだから」


と要人は語った。


ぼくはそのスタイルを見て言葉にならない畏敬を覚えた。



https://www.youtube.com/watch?v=WCDrIHwiV9g



カリカリしないことだ。かつ、感情を否定しないことでもある。すでに今の二つの文章が、どこか「矛盾」しているように思えるかもしれないが、そうではない、両方なのだ。自らはカリカリせず、だれかの不満や不安やイライラやストレスにはそのまま向き合っていく。


医療だなあと思った。

2021年8月25日水曜日

病理の話(569) 原因と結果を一方向の矢印でつなげるものばかりだと思わない

先日読んだ本にじつに含蓄のあることが書いてあった。


日ごろから患者の痛みに丁寧に向き合っている医療者はとっくにご存じかもしれないが、不安や心配は痛みの原因になりうる。ストレスが由来の痛みというのは、実際に存在する。

しかし、だからといって、診察室で、

「イライラや不安によって痛みが出ることがあります。心配事やストレスはありますか?」

と聞けばいいというものではない。「あなたの痛みは気の持ちようですよ」と言われているような気になってしまうだろう。


そうではなく、

「痛みが続くとイライラや怒り、不安が起こるのは自然なことです。あなたもそのような気持ちを感じていませんか?」

のほうが、その後の面接が深まりやすい、とその本は語る。ぼくはここで思わず唸った。



今のふたつの文章を単純に見比べると、因果がひっくり返っているように見える

前者は、「イライラ・不安(原因) → 痛み(結果)」であり、

後者は、「痛み(原因) → イライラ・不安(結果)」を思わせる。

しかし、そもそも身体に起こっていることは、ひとつの原因→ひとつの結果、という単純なものとは限らない。

前者は単純な因果を探りにいくタイプの尋ね方だが、

後者は複雑な現象の一端を明らかにしようと思っている。



ある痛みや苦しみが長く続くとき、その過程では、

何か小さなきっかけがあり → 症状が起こり → その症状が不快を招き → 不快が症状を悪化させ → またそれが不快につながり → ここで別の要因も加わってきて → さらに症状が悪化し → そのために不快感がどんどん増していく……

のように悪循環が起こっていることがある。

さまざまな要因が絡んでいる。こうなると、単純な一本の因果では病態すべてを語り尽くせない。



そのような複雑化した痛みに苦しむ患者を前にして、「たった一本の因果の筋道をあきらかにする」タイプの、いわゆる紋切り型の思考を促してしまう会話を、医師がはじめるべきではない。

「イライラや不安によって痛みが出ることがあります。心配事やストレスはありますか?」

という前者の聞き方は、あたかも、「イライラ・不安(原因) → 痛み(結果)」という単純な因果を医者が探っているかのように聞こえる。

でも、患者は、この長く続く痛みが「まさかイライラや不安だけのせいで起こっているなんて思えない」し、実際に、「それはイライラや不安が単一の原因だというような単純なメカニズムで起こっている痛みではない」のである。そのため、前者の聞き方は、丁寧ではないし、適切ではないし、じつのところ、科学的でもない。


さあ、後者の聞き方をもう一度眺めてみる。

「痛みが続くとイライラや怒り、不安が起こるのは自然なことです。あなたもそのような気持ちを感じていませんか?」

これなら、多くの患者が「それはあるな」と思えるだろう。そして、痛みのすべてを解明できるかどうかは置いておいて、自分という複雑な生き物にまとわりついているイライラや怒りの部分についての情報を医者と共有できるようになる。

すると、結果的に、先ほどの悪循環の、

何か小さなきっかけがあり → 症状が起こり → その症状が不快を招き → 不快が症状を悪化させ → またそれが不快につながり → ここで別の要因も加わってきて → さらに症状が悪化し → そのために不快感がどんどん増していく……

この中で太字で示した部分、複数箇所に登場する「重要項目のひとつ」である、イライラや怒りといった不快の情報が明らかになっていく。




医療の科学において私たちが常に気にしておかなければいけないことのひとつに、「複雑系で起こる現象を単純化しすぎてはいけない」というものがある。「長く続く痛みの医療」というのはまさにこれなのだ、ということを、私はこの本から学んでいる。病理組織学とはほとんど関係がないが、「痛みという病の理」を考える広義の病理学の本として、きわめて優れたテキストだなあと思っている。


『こころとからだにチームでのぞむ 慢性疼痛ケースブック』(医学書院)

2021年8月24日火曜日

デザイン欲の末に

やることが多く考えることも多いのだが、それでもまあ、しょせんはこの程度で済んでいるんだよな……と考えることはある。

30代のころはもっときつかった。仕事は今ほどできなかったし、予定も今ほど詰まってはいなかったにもかかわらず、「この先どうしたらよいのか」に対する悩みがぼくの輪郭のもっとも外側の隙間を埋めていたので、閉塞感が今よりずっと強かった。パテで内側をゴリゴリに固められているような感じだった。体の内部で何かが光っていても、その光が肌を突き抜けて外に出ることがない。自分で自分の中が光っていることに気づけない。そんなことで落ち込む日が、今よりはるかに多かった。

20代のころはさらにきつかった。今よりはるかにデューティが少なく、こなせる仕事の量はたぶん20分の1以下だったけれど、その20分の1で勝負をしなければいけないという思いが今の100倍強かった。つまりは体感としては今より5倍つらかったのだと思う。自分がどこまでやりたいのか、と、自分がどこまでやれるのか、の摺り合わせがうまくいっていなかったころだ。「自分がやりたいこと」があるいは高望みなのではないかと気づいて失望するのが怖かった。

年を取るごとに、手が届く範囲がわかりやすくなる。脳内の部屋に置かれた調度がきれいに整頓され、反射的に必要なものに意識が届く。ぶらぶらと動き回っても足の小指をどこかにぶつけるようなこともない。

もちろん、各方面に高速でアクセスできるようになれば、それだけ意志決定する回数が増えていくので、抱える案件だって多くなる。でも、「自分の脳を自分の思い通りに動かせる感覚」がこれまでで一番強いので、あまり苦にならない。

振り返ってみればぼくは、「自分の脳、そして脳に駆動される自分の体や自分の仕事や自分の可能性が、自分の思い通りに動かないこと」がもっともストレスだったのだろう。生活や仕事をデザインするのに43年かかった、ということなのかな。


今は、思い通りだ。

ただし、思い通りならば全能なのかというと、そういうわけではない。

うまくいかないだろうな、という予測すら高確率で当たるからだ。「思った通りに失敗した」ということがある。「思った通り」と、「願い通り」とは違う。

可能性の振れ幅が少ない。びっくりする機会が減っていると言ってもいい。

まだまだ自分の周りにあるものに驚きあきれ騒ぎたい。本を読むなどして自分の知らない世界をコンテンツとして摂取し、自分の所属するネットワークを外部に拡張していこうとする。けれども、「思った通り」、個人で繋がれる範囲の限界もそろそろ見え始めている……。


それでも、今のほうがマシだ。


あのころはそれくらいつらかった。20代のぼくはどこに出しても恥ずかしくないくらい、平均的に悩み、もがいていた。悩む若者にはひとまず40までがんばれと言いたくなるときがあるが、ぼくが20代のころそうやって言うオトナはいなかったことを考えると、たぶん、こんなことを言っても届かないし、意味もないのだろう。あるいはぼくは、つらかった自分の20代を自分なりに肯定したいためだけに、今のつらさを犠牲にして「今のほうがマシだ」と自分に言い聞かせているだけなのかもしれないが。それでもいいのだ。よくぞがまんしてここまで歩いてきたものだ、と思うことは多々ある。

2021年8月23日月曜日

病理の話(568) 急変の科学と文学

ある人が、急に具合が悪くなった! たいへんだ!


というとき、「急に」をヒントにして、医者は体調不良の原因を考える。

人間が急に痛がる、急に倒れる、急に吐くときには、だいたい、以下のどれかが起こっている。


・急に何かがねじれた

・急にどこかが詰まった

・急にどこかが破れた


卵管がねじれた、血管が詰まった、腸が破れた……。

異常をスバヤク探して治療をしないと、体調は、坂を転げ落ちるようにどんどん悪くなる。ねじれた、詰まった、破れた、のときには、臓器に血が行かなくなったり、臓器の中身が外に飛び出たりする。本当に一刻を争うのである。


ところで、ここで言う、「急に」というのは、いわゆる「秒単位」である。

患者は本当に「急激に」具合が悪くなるので、たとえばテレビを見ていたとしたら、番組のどのタイミングで誰が何を言ったときに具合が悪くなった、と言うように、何時何分のレベルで痛みの始まった瞬間を覚えているのだ。

例:「フワちゃんが林先生の頭をひっぱたいた瞬間にぼくも頭が痛くなったんですよ」


しかし日本語は難しい。患者が言う「急に」が、いつも秒単位であるとは限らない。


たとえばぼくはこのように言うことができる。

「43歳になって急に太ったんですよね……」。

この場合の「急に」というのは年単位である。日本語ってこういう使い方するよね。別にぼくはオリンピックの閉会式を見ている最中にいきなり3キロ太ったわけではない(当たり前である)。42歳の検診まではだいたい体重が変わらなかったのに、43歳になって測定したら太っていた、みたいな感じなのだが、平気で「急に太った」という言葉使いをしてしまう。


また、こんな言い方もある。

「いやービール飲みすぎましてね、最初は少しムカムカするかなーくらいの気持ちだったんですけど、2時間くらいガマンしてて、急に吐いたんですよ……」

「吐く」という行動自体が「急に」っぽさを含んでいるのでつい言いがちだが、よくよく考えてみるとこの人は、「急に吐いた」のではなくて、「2時間ムカムカと戦っていてけっきょく吐いた」というイメージである。




医者が患者と会うときに、「急に具合が悪くなって……」と言われたら、その「急に」はどれくらい急なのかというのをまず確認しなければいけない。

コミュニケーションというのは基本的に「ズレ」からスタートする。ぼくの思う「急に」が、あなたの思う「急に」と、合っていることの方が珍しい。それくらいの気持ちで、お互いの感覚を摺り合わせてから診断に入る。遠回りなようだけれど、結局はそれが、一番早い。急に理解しようったって無理だよ。

2021年8月20日金曜日

お祭りの心

学生さんが「TikTok楽しいですよ」と言った。ぼくは「おじさんはもうああいうキラキラしたところに混じっていくのはつらいなあ」と答えた。



ネットワークの中で、クリスマスツリーの電飾のように、自分がピカピカ光ることを考える。自分が光ったからと言ってまわりが連動して光るわけではない。自分が光ったからと言って誰かを明るく照らせるわけでもない。それくらいの小さな豆電球だ。

豆電球がいっぱい連なって、あちこちでピカピカ光っている。同期しているようにも、していないようにも見える。そういうツリーを遠くからぼうっと眺めてみると、全体として、なんだかきれいだな、楽しそうだなあという気持ちになる。ぼくはTikTokというのはそういうクリスマスツリーの世界だなあと思って見ている。

本当は「混じっていくのがつらい」わけではないのかもしれない。

ぼくもクリスマスツリーではないが、ねぶた祭りの電飾に混じってピカピカやっていることはある。Twitterというのはねぶたなのだ。みんながそこに乗っかって、発光したり反射したりしながら、大きな道をずんずんとゆっくり突き進んでいく。ねぶたに興味のない人は山ほどいる。ねぶた祭りを知らない人たちのほうがじつは多い。でも、ねぶたはときに、道で何やらでかい存在感を発揮することがあるのだった。




学生さんが「TikTok楽しいですよ」と言った。ぼくは「おじさんはもうああいうキラキラしたところに混じっていくのはつらいなあ」と答えたけれど、「おじさんもそう思うよ。楽しいよねああいうの」と答えればよかっただけなのかもしれない。クリスマスもねぶたも両方楽しめばよいのだ。なのに、何をそんなに、意固地になっているのだろう。

2021年8月19日木曜日

病理の話(567) 師の心

なかなか厳しい戦いが続いている。何の話かというと「病理AI」だ。機械に病理診断をやらせようという試みである。ぼくはその研究に参加している。

研究はとても優秀な主任研究者が引っ張っていて、ほとんどの解析で「大勝利」をおさめている。しかし、ところどころ、「病理AI君がとてもポンコツな場面」に遭遇する。敗北の場面はじつに厳しい。


ある臓器における病理AIの正答率……たったの……65%!

えぇーそれって3回に1回は誤診するってことじゃないかあ!


病理AI君はポリポリと頭をかく。「診断、難しいッスね!」

病理専門医資格を取る前の医学生のような病理AI君を、ぼくは見ている。

胃がんとか膵がんの診断だとあんなに優秀だったのになあ。

○○がんだとこんなにだめなのかあ……。


「テヘへ、難しいのはまだわかんないッス!」


ここで人間が相手なら、よーし年数をかけてじっくりと病理診断のイロハを教え込んでやるぜ! と、指導医として燃えるところだが……。

病理AIに、ヒトが何かを教えるなんてできるのかなあ。



などと思っていたら主任研究者が新しいシステムをホイホイ作ってぼくに渡してくれた。

「これを使えば病理AI君を教育できるんだぞインターフェース」である。

えぇーとぼくは驚いた。AIって教育できるんですか?

「できますね。先生はこれを使ってAI君と会話してください。これは合ってたね、偉いぞ、これは違うかな、なあに次は間違えなければいいんだ、というかんじで。病理AI君が20例の練習問題を解くたびに先生はそれを採点して、私に進捗を教えてください。私は、先生と病理AI君との勉強をもとにプログラムを微調整して、AI君をどんどん成長させますから……」

なんてこった、病理AI君がぼくの教え子になったのである。



実際にやってみると人間にモノを教えるよりはるかにラクなので驚いた。なあんだ、病理AI君、やればできるじゃないか。彼(女)はどんどん成長していく。そのスピードは人間の比ではない。

こうしてぼくは自分よりはるかに飲み込みのいい、若い病理AI君を育てて、あっという間に追い抜かれていく。

主任部長の座を明け渡す用意は出来ている。

退職金をもらったら南の島でサトウキビを育てながら余生を過ごそう。

ときおり、昔の教え子から手紙が来るのだ。

「先生、お元気ですか。私は今、病理AIとして一日に5億件の病理診断ができています。」

ぼくは目を細めながら返事する。

「うそつけ、5億枚のプレパラートを誰が作るんだよ、ていうか一日に5億人も病院にかかってないだろ。」

病理AIはテヘへと笑う。その笑い方だけは以前とかわらないな、と、ぼくはにじむ涙を拭こうともせずに、夕暮れのテラスでまだ自分が病理専門医だったころのことを思い出して、懐かしむ。来年250歳になる。だいぶ腰も痛くなってきた。

2021年8月18日水曜日

脳のアイドル

忙しくて忙しくてパニックになったのでブログを書きます。

こうすることで指がダラダラ動いている時間を作り出す。

指はエンジンだ。ブログを書いている間、ずっと、ドルルンドルルンと気筒を動かし続ける。

その熱の一部を脳のほうにも拝借する。タカタカと文字が打ち出されているところのピントがだんだん合わなくなっていく。

かわりにぼくはやらなければいけないことを再整理する。優先順位リストを脳内でくるくると入れ替える。

あの研究の手伝いは2時間後に1時間ほど時間が空いたときに差し込もう。

このパイロット実験は5分後にはじめよう。

こっちの診断はぜんぶ終わったが追加の標本が2時間半後に上がってくるはずだ。

となると……さっきの研究の手伝いは2時間後にはじめても30分ちょっとで中断せざるを得ないな。

1時間後には脳が焼けているだろうからこのタイミングでツイッターに行って少しクールダウンをしよう……。

こういうことをずっと考えている。



先日、夢を見ていた。元AKB48の山本なにがしさん(※そんな人は実在しない)というアイドルがソロデビューして、「じつは現役時代に歌いたかったデスメタルをスタジオで披露する」と言って、Mステ的なステージでデスボイスでゴガガガゴガガガとがなりだす。足が非常に長い。デスボイスはへたくそだ。そして、なにより、振り付けがおかしい。デスメタル的なスピード感が一切なくて、演歌のように下手から上手へ片手をスゥ……と動かしていくなめらかでゆったりとした動きなのだ。ぼくは不安になり、横に座っていた妻に話しかける。「これ、デスメタルじゃないよねえ」。すると妻はぼくを見ながら少しあきれてこのように言うのだ。


「どっちでもいいじゃん、やりたいようにやっているなら。」


ぼくはその話を聞きながら、まったくその通りだな、そういえば解剖の切り出しをまだやっていなかった、でもまずはメールの返事を2分後にはじめよう、この歌はあと2分で終わるはずだから、と考えている。そこで目が覚めた。


少し二度寝をしながらぼくはパンを焼くことを考える。牛乳がなかったから買いに行かなければいけない、今日はあのドラッグストアが開いている時間に帰れる日だったろうか、ならばコンビニで少し高い牛乳を買って帰ってもいいかと予定を組み始める。研究が3つ、論文の指導がひとつ、雑誌の連載原稿がひとつあって、今日は病理診断と切り出しの予定があり、合間に研修医の指導を行う。ブログの記事を3本くらい書いておくと明後日の予定がラクになりそうだなあということを思う。真鍋先生からいただいた本を2/3まで読んだところでストップしているのをそろそろ再開したいと考える。医局に置きっぱなしにしてある段ボールを捨てにいかなければいけない。息子が送ってきたNintendo Switchの画面写真に写り込んでいたゲームタイトルにツッコミを入れるのを忘れていた。きみ、それ、おかあちゃんと趣味がおんなじじゃないか(笑)。ブログがそろそろいい文字数になるので予定の再整理を終了して実務に入ることにする。だいたい毎日そういう感じで過ごしている。

2021年8月17日火曜日

病理の話(566) シマウマを探しに行ってしまうきもち

とっっっても大事な考え方であり、かつ有名すぎてマンガとかでもジャンジャン描かれている警句に、次のようなものがある。


「蹄(ひづめ)の音が聞こえたら、違う違う、象じゃ、象じゃない




……今のはまちがいだ。正確にはこう。


「蹄の音が聞こえたらそれはウマだろう。ほとんどの場合、シマウマじゃない」


もはや皆さんの頭の中には鈴木雅之しかいないと思うが、きちんと解説をする。


競馬場のそばで歩いているあなたの耳に、パッカパッカと音が聞こえたら、振り向くときに「ウマかな?」と思うのが普通だし、当然だし、それは実際、確率的にはウマである。


もっとも、パッカパッカと音を立てるのはウマとはかぎらない。シマウマだってパッカパッカする。ビサイド・オーラカだったらワッカワッカする。

けれども、競馬場のそばにシマウマがいる確率は低い。

それをあえて、逆張りして、「もしや……シマウマかも!?」と期待して振り向いても、まずたいていは裏切られる、ということだ。



この警句は医療においてとなえられる。

「お腹の右下の当たりがギュウウッと痛い、歩くと響く、脂汗を流している、さっき二度ほど吐いた、医者がお腹の右下の決まった部分を指でグッと押し込んだら患者はとても痛がった」

という症例で、医者がまず疑うべき「ウマ」は、虫垂炎(いわゆるモウチョウ)である。

ここで、虫垂炎を頭に思い浮かべることもせずに、「あ、これはおそらくきわめて特殊でまれな腸炎だろう」と、シマウマを探しに行くことは、順番としては違う

このように説明するとたいていの人は納得するはずだ。しかし、話はそう簡単でもないのである。



医者も人間だ。いつもいつも「理屈どおりに」診断が進むわけではない。

たとえば、自分が勉強したばかりの珍しい症例のことが頭から離れない、ということがある。「10万人に1人の病気でお腹の右下が痛くなることがある」なんて聞くと、医者は、「自分がその珍しい病気を真っ先に見つけたら患者のためになるだろうなあ」なんて、夢と野望を抱いてしまう。

めんどくさく書いたな。もっとわかりやすく、一言で語ろう。




医者は、功名心によって、「シマウマを我先に探しがち」なのである。




だから医療の世界には警句があるのだ。「それウマだよ。まずウマを考えな。シマウマはそのあとだよ」

病理診断でもすごく陥りがちなワナである。胃生検を見て毎回「胃梅毒」を探すことにやっきになって、ふつうにそのへんにいるピロリ菌を見逃す、みたいな。

でもね……正直なことを言うとね……。

病理医の場合はね、ウマもシマウマも象もビサイド・オーラカもいっぺんに探しに行くよ。なんかもう、そういう仕事ではあるんだよ。

2021年8月16日月曜日

本日の推し活

宇都宮徹壱さんというフットボールライターかつ写真家の方にインタビューを受けた動画が公開された。


https://youtu.be/uscolCCypsU


ぼくがひたすらデュフフ的キモさで熱く「推し」を語っているので、好事家のみなさまはぜひご覧頂きたい。ここで推している本は『蹴日本紀行』という最新作だ。


『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』 https://tetsuichidou.stores.jp/items/60ec3e8e00790639e62ba55d


で、まあこの最新作はとてもいいのだけれど、ほかにも宇都宮さんの本にはいい本がいっぱいある。特に対談の中でも語った『ディナモ・フットボール』がシブくて好きだ。


https://www.amazon.co.jp/dp/4622033895/ref=cm_sw_r_tw_dp_NHHHDWBEPN6R89HW5WC5


なんとびっくり、ディナモ・フットボールはみすず書房から出た本なのである。みすず書房というと宗教、哲学、文化、医療などなど、専門領域をまたがって幅広くリゾームの根をのばすようなえげつない編集と高額で分厚く媚びない本作りで、学者が尊敬する版元トーナメント(妄想)の準決勝に余裕で勝ち上がる、マニア垂涎の出版社であるが、そこから出されたフットボール本。東欧の政治や文化とサッカーが編み込まれまくって、モノクロの文体がかもしだす幽玄さに若かりしころのぼくは取り付かれてしまった。



対談動画でも語っていることをもう少し詳しく書く。


ぼくは2007年頃、大学院を卒業する直前になって、いろいろやる気をなくしていた。4年も通ったが、とうとう研究はうまく行かなかった。いちばん最後に施したウェスタンブロットは、たしか結婚して間もない前の妻にマイクロピペットを握らせてやってもらった記憶がある(何をやっているのか)。当時のぼくにとって、大学院はもはや思い出づくりの場になり下がっていた。4年間の医学部博士課程のうち、後半の2年では教授が不在だった、もちろん大学院に入ったときにはそうなるなんて思ってもいなかったから不測の事態だったのである。当時の病理学講座が政局に巻き込まれ、教授が退官したあとに次の教授選が開催されるまでに3年を要した。その3年はぼくの大学院生活を直撃し、とうとう、卒業まで教授がいないという残念大学院生活になってしまった。スタッフが補充できず新たな研究費の獲得にも制限がかかるボス不在の講座で、ぼくはなぜか指導教官も不確定になっており、ほんとうに放り出されてしまっていて、研究テーマは迷走し、バイトでやっていた病理診断の腕だけがちまちまと上がっていく。毎日朝8時にデスクについて実験をやって失敗し、夜中の1時まで論文を読んで帰宅する生活が2年間続いて、心も体もぼろぼろになっていた。卒業しても教授はいないから人事もワークしておらず、大学に残ることなどもちろんできなかったので、近場の市中病院に温情をかけられ拾ってもらうかたちで就職することがかろうじて決まっていた(数奇なものだが、それが今の職場である)。

というわけで、卒業を目前にした2007年の正月明けにはもう残務処理に近いことしかしておらず、毎日のように論文を読みながら、それでも余った時間で2ちゃんねるのAA系SSサイトに入り浸り、自作のホームページを毎日更新しつつ(プロバイダを乗り換えた際にうっかりURLごと全部消したので今はもうないです)、スポーツナビなどのスポーツコラム記事を片っ端から読んでいた。そのときに出会ったのが宇都宮さんのとある記事だった。


https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/200811290013-spnavi


それまで宇都宮徹壱という名前はNumberやスポーツ新聞などの紙媒体で目にしており、やや珍しい字面だから記憶に残っていたのだけれど、毎日チェックしていたスポーツナビに見つけた見慣れた名前のライターの記事の、題材がSAPPORO開催のノルディックスキーだったのでぼくはあれっと思った。タイトルにはこうあった。

「これがサッカーの取材だったら…」

引き寄せられるように毎日この連載を読み、そしてぼくはここから宇都宮さんの記事を特に選んで追いかけるようになった。印象的だったのは、彼がワールドカップなどの大きな大会の記事を書いた直後に、JFLや社会人リーグ、地域リーグなどの(Jリーグですらないような)地方のフットボールを取材した記事をほとんど同時期に出していたことだ。


(海外と地方の記事が入り乱れるスポーツナビの宇都宮さんの記事一覧)


なんとも守備範囲が広い人だなあと思い、その切り口や書き方、「フットボールのとらえかた」自体に魅せられて、気づけば書籍も買いそろえ(サッカーおくのほそ道とかすごくいいです)、Twitterもフォローし……



とやってかれこれ14年、インタビューを受けることになってしまった。水曜どうでしょうのD陣ふたりと対談させられたときも思ったことだが、好きでおいかけていた人と直接話す機会を与えられると必ずキョドってしまう。「光栄です」以外の言葉が出てこなくなる。今回もたぶんぼくは寡黙におどおどするんだろうなーと思っていたがもちろんそんなことはなくて死ぬほど喋り倒して、最初は「記事化してちょっとYouTubeにも載せるかもしれません」くらいだったのが、結果的にYouTube動画5本でインタビューをほぼ全てフル公開、というかたちになった。まったくオタクは罪深い。


じゃ、くり返しておく。



宇都宮徹壱さんというフットボールライターかつ写真家の方にインタビューを受けた動画が公開された。


https://youtu.be/uscolCCypsU


ぼくがひたすらデュフフ的キモさで熱く「推し」を語っているので好事家のみなさまはぜひご覧頂きたい。ここで推している本は『蹴日本紀行』という最新作だ。


『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』 https://tetsuichidou.stores.jp/items/60ec3e8e00790639e62ba55d

2021年8月13日金曜日

病理の話(565) 対カタマリ捜査線

患者がある病気にかかる。その病気が、「なんらかのカタマリを作る」たぐいの病気であれば、どこかのタイミングで病理診断が行われる。


病理診断では、病気によってできているカタマリの構成要因を直接顕微鏡で見ることで、病気の正体をさぐることができる。カタマリならまかせてほしい


では、カタマリを作る病気にはどんなものがあるか? 代表的なものは、「がん」である。


胃がんならば胃のどこかに異常な細胞がカタマリになって増えるし、大腸がんも膵臓がんもカタマリを作る病気だ。悪性リンパ腫というがんは、リンパ節などに異常な細胞が増えて、リンパ節がパツンパツンに腫れるが、これもカタマリと言えばカタマリである。


ただし、カタマリをつくるのはがんばかりではない。たとえば、あるウイルスにかかると首のあちこちのリンパ節が小さくコロコロ腫れまくる。これは、ウイルスという外敵に、「人体内の警察官(≒免疫細胞)が駐屯する警察署」であるリンパ節が反応して、警察署内に人員を増員させるためにリンパ節の中が人口過密になってパンパンに腫れている。カタマリを作ってはいるが、「異常な細胞」が増えているわけではなく、「体の中にいる普通の細胞の数だけが増えている状態」であると言える。


ほかにもある。たとえば、胆石。胆のうの中に石ができて、これが胆のうの入り口に詰まってしまうと……正確には、詰まったり詰まらなかったりをくり返すと……昔懐かし「ラムネのビン」みたいな状態になって、胆のうの中に流れ込んだ胆汁(たんじゅう)が、ラムネのビー玉のように胆のうの入り口に詰まった石によって出られなくなり、結果として胆のうがパンパンに腫れる。これも広い意味では「カタマリ」だ。ただしこのとき「異常な細胞」が増えているわけではなく、「分泌物がふくろの中に充満している」わけだ。


おしっこをためる膀胱がパンパンになってもある意味カタマリだろう。


便秘で腸がパンパンに腫れてもカタマリには違いない。


あとはそうだなあ、足首をひねったとするでしょう。グキッと。1日くらい経つと、足首がパンパンに腫れる。これもある種の「カタマリ」ではあるじゃない。でも、これはがんなんかじゃなくて、「炎症」だ。皆さんも、なんとなく経験でご存じだと思う。

炎症は、「赤くなって、腫れて、熱くなって、痛くなる」。「発赤+腫脹+熱感+疼痛」。ケガがひどいと歩けなくなる(機能障害)。この「腫脹(腫れ上がる)」が、カタマリをつくる。



このように、「カタマリをつくる病気」だからといって、毎回そこに「がん細胞」が増えているとは限らない。逆に言えば、「カタマリがあれば直ちにがんだとは言えない」からこそ、そこにある細胞を採ってきて検査する病理診断の意味があるわけである。



さて、白血病という病気がある。これはがんの一種だが、基本的には「カタマリを作らない」病気だ。血管の中にがんの細胞が散らばっている。カタマリではないので、細胞を採ってきても異常な細胞が寄り集まっているシーンになかなか出くわさない。病理診断で白血病の診断をするのはやや難しいのである。しかし、まったく病理診断ができないわけではない。

白血病の細胞は血液の中を縦横無尽に動き回るのだが、骨髄(こつずい)と呼ばれる場所である程度寄り集まって待機していることがある。休憩所というか、F1レースのピットというか、なんとなくそういうイメージだ。そこで、「骨髄生検」という検査を行い、「わずかなカタマリを作っている白血病細胞」を顕微鏡でみることで、診断の手助けができる。


ただしこの、「骨髄生検」がけっこう痛いのだ。人にもよるが、やりたくない検査の上位にランクインされることで有名である。無駄な検査はしたくない、負担のかかる検査はしたくない、それでも、病理診断の強力さを知っていればこそ、主治医は申し訳ないなと思いながらも患者に骨髄生検の必要性を説く。そこまでして採ってきた骨髄だ、病理医も襟を正してしっかり診断をしなければいけない。

2021年8月12日木曜日

脳内民主主義

「医者はツイッターで厳しい言葉を使わないほうがいい」という意味のことをnoteに書いたら、


「厳しい言葉を使わざるを得ない状況に追い込まれた医者の気持ちも考えるべきだ」


というコメントがついた。


ぼく自身、「厳しい言葉を使いたい状況」に追い込まれたことはある。それでも厳しい言葉は使わないように努力する。だから、コメントの方向がずれてるなと思った。

でも、コメントした相手に直接言い返すことはしなかった。


相手の考えを変えさせるために、言葉をたたみかけていくことが、少々下品だなと感じるようになっている。

下品なことをしない。これは、日常の目標としてはけっこう難しい。

意図して積極的に取り組まないと、ぼくはすぐ下品になる。

下品だと何が悪いか。感覚的に言うと、「正味の実入りが少なくなる」。下品なために周りの人が一歩下がり、下品なためにぼくの言葉のフォントの色が少し薄くなり、下品なためにぼくの声に雑音が混じり、下品なために伝えたいことがうまく人に届かなくなって、結局、めぐりめぐって、ぼくが得られる喜びや充実が少し減る。そういうものではないかと思う。



誰かの意見をひっくり返そうとする医者の、心の奥底に、「相手を真っ二つに斬り伏せるほど自分は正しいのだろうか?」という逡巡がある。あってほしいし、たいていはあると思う。

でも、自分が迷い戸惑って結局何もしないで終わるくらいなら、「何かが変わるかもしれない」と行動するべきだ……と信じる気持ちがはたらく。だから人は何かを言う前に多かれ少なかれ迷いを振り切るための思考をとる。

心の中で投票をして、賛成多数の意見を総意と読み替えて、反対側の意見をねじ伏せて、「心の国会が下した結論」として「○○すべきだ」というように強い言葉を使う。

このようなプロセスがある程度早いスピードで行われた結果、「強い言葉を使って相手を従わせようとする医者」が生まれる。




ここで「多数決」をとっている部分。ここがぼくはなんだか下品だなと感じる。下品というか、品ポイントを少しマイナスする、くらいのイメージなのだけれど、とにかく、「迷ってはいたけれど、迷ってばかりじゃ何にもならないから」の、「何にもならないから」のところと、その後の「○○すべきだ、が総意ですので」という開き直りの部分、このふたつが、品性の裾を引っ張って、引きずり下ろそうとしている感じがある。




「結局はこうしないとどうにもならないんだよ」


「誰かが言わなきゃいけないことじゃないか」


「多少の傷はしょうがないよ」


「こっちだって覚悟してやってんだ」


「何を言っても伝わらないからせめて厳しく断罪するしかないだろう」


「厳しい言葉を使わざるを得ない状況に追い込まれた医者の気持ちも考えるべきだ」


あー、多数決しちゃったんだなーと感じる言葉たち。


そしてぼくは、そのような言い方をした人の脳内にいる、「投票に参加されたけど少数派として棄却されてしまった、その人の心の奥底に住む迷いの心」に同情してしまって、それ以上、何かを言い返すことができなくなってきている。

2021年8月11日水曜日

病理の話(564) 糸を結ぶように知恵を結ぶ

ぼくが医学生だったころの話。

5年生から6年生にかけて、「病棟実習」というのがあり、1年かけて大学病院のさまざまな科を回った。

たった1年しかないので、どこの科もせいぜい2週間くらいしか見学できない。

だから、覚えているのは断片的なイメージばかりだ。今の学生実習はもう少ししっかりしていると思うけれど、昔は結構、適当だった。期間の半分くらいは放っておかれていた印象がある。


外科では手術を見学した。実習前には、これを一番楽しみにしていた。オペを実際にこの目で見られるなんて! 

しかし、手術中にやっていることは「棒立ちで体の中を見ている」に過ぎない。手術を行う医師たちの手元は、早くて細かくて、何をやっているかよくわからなかった。あっという間に飽きた。

考えてもみてほしい。あなたの家のエアコンが壊れたとする。慌てて業者を呼んで直してもらう。やってきた業者が、ふたをあけ、ネジを回し、何やら部品を取り替えているのを、横でいつまでもいつまでも見ていて楽しいか? 最初は「わぁ、そこが開くんだあ」なんてちょっとウキウキ見ていても、次第に、「あーあとは入れ替えてはめてきれいにして終わるんでしょ、わかった。」という気持ちになって、業者さんへの麦茶の差し入れでも作りに台所に逃げていくだろう。それと全く一緒だった。

ただ、なんか、「医者っぽいことをやってんなー」という実感だけを味わうような実習ではあったと思う。



外科の実習は手術見学だけではなかった。朝早くに、英語の論文を医局員が全員で読む勉強会があって、それにも出席しなければいけなかった。

当時の外科の教授は、毎日難しい手術に入ってバリバリ切りまくる武闘派だったが、朝の30分では必ず論文を読むと決めているのだと言い、医局員にもきちんと勉強し続けてもらうために、みんなで勉強会を企画しているのだそうだ。最初はいわゆる「ポーズ」かと疑った。毎日そんなに自分に関係のある論文が出ているわけもなかろうに……なんて思っていた。

しかし、外科の早朝勉強会はけっこう本格的だった。ガイドライン、適応、術式、統計、これまであまり勉強してこなかった高度な内容が英語で乱れ飛んでいた。ぼくは内心どこかで外科をなめていた。脳筋ヤロウの勉強なんて形だけだろ、くらいに思っていたのかもしれない。とんでもなかった。よく考えたら、よく考えなくても、この人たちは全員、医学部を卒業した「勉強が得意な人たち」だった。

ひええ、という気持ちで勉強会に出ていたある日、自分の近くに座っていた研修医に目がとまった。外科の勉強会は、ベテランばかりが参加しているわけではなく、当然、まだ医者になったばかりの研修医たちも参加する。若い医者を見ながら、ぼくもあと2,3年するとこれくらいの立場にはなっているわけだ、と感じざるを得なかった。ぼくは医師免許を取ったらすぐに病理の道に進むことを決めていたから、外科の研修医と同じ事をするわけではないにしろ、医者になったら「このレベルの英語」がわかるのがデフォルトなんだな、というプレッシャーはビンビンに感じた。勉強会についていけないと医局で孤立してしまうんだろうなあ、と、他人事とは思えない身震いがした。

ところが……。

よく見ると、その研修医は、配られた論文を自分のふとももの上においたまま、足を組んで何やら熱心にサンダルをいじっている。スクリーンにプロジェクタで論文が映し出されて、少し暗くなった医局の中で、彼は論文を見ずに自分の足と向き合っている。何をしているのだろう。数秒見て、ようやくその行為にピントが合う。

彼は、自分のサンダルに結んだ糸を、くり返しくり返し、「外科むすび」していた。

医者はすばやく糸を結ぶやり方を身につけなければいけない。切り傷を縫ったり、手術中に血管を縛ったりする必要があるからだ。彼はその「むすび」の練習を、自分のサンダルにくくりつけたヒモを使ってやっていた。えっ、と思って周りのドクターの足下を見てみると、若い医者の足下にはみんな糸がついていた。

ははあ、寸暇も惜しんで……。

でも、今は勉強会の最中なのに。


勉強会が終わって、手術見学に入る前に、その研修医を呼び止めて、「さっきの足のヒモをむすぶやつ、あれなんですか」と聞いてみた。すると彼は悪びれもせず、こう言った。


「まだ俺は勉強できる立場じゃねえし」


勉強できる、立場?


「そうだ、手技を身につけてない医者なんかお荷物だから。最初の数年はルートとって、糸結んで、挿管して、気管切開して、そういった手技が全部できるようになるのが第一歩、ていうかそれができなきゃ猿だよ」

人以下、ってことですか?


「そう。まずは人にならなきゃ。教授だってそうしろって言ってるよ。だから俺たちはまず、糸」



このことは強烈に頭に残った。

ただし、ぼくは、病理の大学院に進んで研究者になるつもりだった。研修医の言うことをそのまま鵜呑みにはできないな、とも感じていた。

「まずは、糸」ではない。

外科医にとっての「糸むすび」にあたるものは、研究者にとってはなんだろう?

当時のぼくは、それは「論文」であり、「本」だろう、と思った。

彼らが糸を自在に使えるように、ぼくは論文を自在に読めるようになりたいな、と思った。





結論からいうと、これはあまり正しくなかった。研究者には研究者の「糸むすび」的なものがあるが、それは必ずしも論文をガリガリ読むことではない。その後のぼくは、研究の世界では生き残れず、病理診断医を目指すことになるが、才能が足りなかったのはもちろんのこと、努力の方向性も間違っていたのだろう。

ただ、めぐりめぐって病理医になった今、あるいは当時のぼくが「糸むすび」のように本を読み続けていたことは、もしかすると、「糧」になっているかもしれないなあと、どこか、後付けで信じたくなることは、あるにはある。

2021年8月10日火曜日

翻訳の限界

目のまわりがごわごわしていて、昼過ぎくらいからときどき目を休めないとしんどくなる。鏡を見たら目の周りが真っ黒だった。

目のクマの部分の血流ってどうなってんのかな……。

そもそも眼球じゃなく目の周りの血流が悪いってのは何を意味するんだろうな……。

余計なこと(?)を考えつつ、なぜこんなに眼精疲労しているのか考える。


本を読んでいるからか? いや、今までとさほど量は変わっていないはずだ。

仕事が大変だったか? ここんとこ、それほど普段と変わらない。

トシのせいか? それにしてはここ最近で急激にぐっとしんどくなっている。


なぜかなーと思ってしばらく過ごしていた、そんなある日。

疲れて21時前に寝た日。ふと目が覚めたら、まだ23時半くらい。

ぼくはじっとりと寝汗をかいていた。窓を開けて寝ていたが、外気はあまり入ってこないようだった。

喉が渇いており、灯りをつけずに冷蔵庫まで歩いていって、寝る前に冷やしておいたお茶を飲む。

ぼくは、夜中に目が覚めてもわりとそのまますぐ寝入ってしまうことが多い。水分補給にいったん体を起こすところまで行くなんて、今日はなんだか珍しいなと思った。

そうか、最近夜が暑いから、知らず知らずのうちに眠りが浅くなっていて、何度も何度も目が覚めて、それで知らない間に寝不足になっているのかもしれない、と急速に腑に落ちた。単純に睡眠が足りていないのだ。


最近の札幌は寝苦しい夜もある。北海道以外で暮らす人からすると「何をあたりまえのことを……」と思われるかもしれないが、冬期にマイナス20度ちかくまで冷え込む地域で夜中に気温が25度を下回らないというのは、振れ幅が大きすぎて、ひるんでしまう。どうせみんなも冬の昼間に気温がマイナス10度とかになったら大騒ぎするだろう。それといっしょだ。ぼくは単純に寝苦しさの経験値が足りていないのだ。


目の周りが真っ黒になっている、イコール、目を使いすぎている、と、なにげなく推論していた内容がきれいに覆されて、いろいろなバイアスに騙されるもんだなと妙におかしかった。寝室の状況を改善しない限り、昼間にいくら目を大事にしたところで根本的な解決にはならないということだ。というか、昼すぎから目がしんどいと思っていたあれ、おそらく、「お昼寝しろ」と体が叫んでいたのだろう。ぼくは体の叫び声を聞くのがへたくそだ。でも、言い訳させてほしい。体が日本語で叫ばないから悪いのだ。なんだその、目の周りを黒くしてみました、目の感覚をゴワゴワにしてみました、ってのは。「体語」はむずかしい。「ラテン語たん」でも読み解けない、とくべつな外来語なのである。

2021年8月6日金曜日

病理の話(563) 勉強の成果をほかで活かす

今日の話はわりとふわっふわした感じになるので、読まれる方もどうぞふわっふわした感じでお願いします。



病理医をやっていて、あるひとつの病気をよく勉強すると、ほかの病気の診療にも役立つことがある。


たとえば、サイトメガロウイルスというウイルスに感染した細胞には特徴的な変化が現れる。細胞の核の中に、ふつうの核には見られないような物質が溜まって、核がどでかく膨れるのだ。見つけるとぎょっとする。


サイトメガロウイルス感染細胞をきちんと見つけることはだいじだ。サイトメガロウイルス感染症には治療薬が存在する。病理医が見つけることで治療が前に進む。ただし、そう簡単ではない。ある程度の訓練が必要になる。


そして、サイトメガロウイルスに感染した細胞を見つけられるようになると……ある日……「ヘルペスウイルスに感染した口の粘膜の細胞」なんてものも見つけられるようになるのだ。これらはまったく同じ見た目ではないのだが、どこか似ていて、そうだな、ふわっふわしたことを言うと、細胞を見たときに、脳が、


「あっなんかウイルスくせえな!」


と叫ぶのである。この感覚はどうにも名状しがたい。ほんとうに脳がさけぶのだ。サイトメガロウイルスならともかくヘルペスウイルス感染細胞なんてそうそう見る機会はないし、それだけを毎日勉強しているわけでもないのだけれど、見つけた瞬間に、


「あっ今のウイルスじゃね!?」


と脳が反応してくれるのである。このふわっふわした本能的な感覚は診断においてはとても役に立つ。




膵臓に発生するやや特殊ながんには、ある種の特徴的な遺伝子変異が存在する。そのタイプのがんを毎日のように見て、目と脳が「その病気のあれこれ」を覚える。すると、ある日、胆管や胆のうなどにあらわれた病気を見たときに、「あっ例の遺伝子異常じゃん!」と突然脳が叫ぶこともある。


膵臓に出た病気のもつ遺伝子変異と、胆管や胆のうに出る病気のもつ遺伝子変異が、同じということはむしろまれなのだ。遺伝子ってのは本当にいっぱいあるからね。


でも、調べてみると、「脳が叫んだ症例」では、たしかに同じような遺伝子変異が見つかったりするのだ。ふわっふわしたことを言うとこれはもう直感的なやつで、「なんかそれっぽい!!」くらいの感覚で脳がバーッと叫ぶ。そこに理論をあとから付け足して、直感だけでなく理屈で診断ができるところまで実力を引き上げる必要があるのだけれど、とにかく、ふわっふわっ、「あっなんかそれっぽい!」ということはあるのだ。



乳腺の特殊ながんを見慣れていると、ぼうこうの特殊ながんに気づくことはある。

リンパ節を見慣れるうちに、類上皮細胞性肉芽腫が目に飛び込んでくるようになる。



このように、「ほかでの経験が役に立つ」というのは、いかにもヒトが病理診断をする上でのアドバンテージだよなあ……なーんて思っていた。人工知能ではこうはいかないだろう。肝臓の診断ができるようになったAIは、皮膚の診断には使えない。子宮の診断ができるようになったAIは、肺の診断には使えない。学習している臓器・病気でしか、AIは活躍できないはずだからだ。


ところが。


最近の人工知能研究では、「transfer learning」と言って……詳しいことはぼくもまだよくわからんのだが、「ほかで勉強した成果を、ぜんぜん違う診断にも活用する」というやり方があるらしい。びっくりである。ぼくの脳が「あっ、それっぽい!」と叫んでいたアレを、AIが代わりにやってくれるかもしれないのだ。すっげぇな。ふわっふわっ。

2021年8月5日木曜日

敗北

庭に小さな、ほんとうに小さな畑を作っている。プランターでいいじゃねぇかと言われるくらい小さい畑だ。


今年は、きちんと土を入れ替えずに苗を植えてしまったので、毎日天気はすごくいいのだが野菜の生育がよろしくない。去年はきちんと育ったのにな。


ミニトマトは「なんとか鈴なりになっている」。なんとか鈴なりってなんだ。でも本当にそういう感じなのだ。


キュウリは微妙である。まあいちおうぽつりぽつりと実はついている。3本ほど食べた。まあまあだった。


問題はナスとピーマンだ。ナスはともかくピーマンがろくに育たないというのはちょっとした屈辱である。こんなの放っておいても実が付くだろうと思っていた。あわてて追肥をしたけれどイマイチである。そして、ナス。このやろう。


ナスの苗を買ったとき、ラベルに、「一本でも満腹!」と書いてあった。でもまさか本当に一本ずつしか実が付かないなんて思いもよらなかった。そういう意味かよ! 一度収穫してから次の実がなかなか育たない。


元気なのは大葉やバジル。こいつらは際限なく増える。付け合わせばかりが元気に増えて、主菜を張れるたぐいの野菜がちっとも育たない。ツイッターみてぇな畑だなと思った。


今朝も早朝に水をやってから出勤したのだけれど、ホースの先につないだシャワーヘッドみてぇな散水機を手に持ってちろちろと苗の根元に水をやっていたら、お隣さんちの壁の前をネコが優雅に通り過ぎていった。今どき珍しいことだが、うちの町内では3,4匹くらいのネコが夜中に徘徊している(今日は朝だったけれど)。深夜に物置付近のセンサーライトが付くのに気づいて、誰か忍び込んでいるのかなと思ってドラレコの角度を調整して確認したらネコだった。見覚えのある模様のネコが目の前にいる。ああ、君か、という気分。直接出会ったのははじめてだ。


かつて、「子どものとも」だったか「科学のとも」だったかに、「ねこさんこんにちは」という絵本があって、ぼくはその本がとても好きで何度も何度も読み返していた。しかし時は令和、犬もネコも室内飼いが当たり前になった昨今、まさかの自分ちの庭を散歩するネコに会うとは。育たない野菜。通り過ぎる太ったネコ。推理がつながる。君、畑にいたずらしてないよな。ネコはこちらを見もせずにそのまま去っていった。一切の脈がない。これほどまでに無視されると厳しい。農協の下部組織に勤務しておきながら、ネコに無視されるような野菜しか作れないということ。この責任は厳しく追及されるべきであろう。うなだれたままちょろちょろ水をやっていると、苗の周りに雑草がやたらと生えている。てめぇらばっかり元気になってどうする。ツイッターみてぇな畑だなと思った。

2021年8月4日水曜日

病理の話(562) 細胞を見なくてもわかる病気

ぼくは病理医であり、職務は病理診断である。この病理診断という仕事は決して一種類ではなく、いくつかのバリエーションがあるのだけれど、ぼくの場合は、「体の中から採ってきた細胞を見て、診断を書く」という仕事が多い。


たとえば胃カメラで胃の粘膜をチョンと小さくつまんできたら、それを顕微鏡で見て、胃炎や胃がんの判定をする。


はたまた胆石症の手術で採ってきた胆のう、胃がんの手術で採ってきた胃、肝臓がんの手術で採ってきた肝臓などをみる。


そういった仕事だ。全身のあらゆる臓器に発生する病気を目で見て診断する。自分で治療をすることはなく、処置をすることもない、「患者に対して手技を行わない」医者である。診断は下すが手は下さない、と言ったらいいかもしれない。


だから全身のありとあらゆる病気に詳しいぞ、と胸を張りたいところなのだけれども、じっさいには、「病理医がぜんぜんかかわらないで診療が行われる病気」がいっぱいある。というか、そういう病気のほうが多いかもしれない。


たとえば、腰痛。腰が痛いからといって、腰の筋肉や腱をつまんで検査に出すということは(普通は)ないだろう。つまんだほうが痛いじゃないか。肩こりや膝の痛みなどでも細胞を見る検査は行われない。


あるいは、血糖が高いとか、コレステロールや尿酸が高いとき。「血液の中に含まれる物質が多い」という異常を判断するために、細胞ひとつひとつを判定してもあまり役に立たない。逆に、貧血のように「血液の中に含まれる物質が少ない」ときも、細胞を顕微鏡で見ている場合ではない。


ほかにもある。心臓という大事な人体ポンプは、体中の血管というパイプの中に血液を送り出しているが、この血液の「流れ」に異常が出るといろいろな病気になりうる。「高血圧」はその代表だ。血液の成分自体に問題がなくても、パイプにかかる圧が高ければ臓器はダメージを受ける。また、脳につながっているパイプが詰まってしまうと脳梗塞(のうこうそく)という病気になるし、心臓を栄養するパイプが詰まれば心筋梗塞(しんきんこうそく)だ。これらの病気で、脳や心臓の細胞を採って顕微鏡で見ても、特に意味のある検査にはならない。パイプや血流の評価のほうがずっと大事なのだ。



そう考えると……。顕微鏡を用いた病理診断というのは、「異常な細胞がカタマリを作る病気」や、「細胞自体に決定的な変化が出る病気」などの、ごく一部の病気にしか役に立たないということになる。


パイプの詰まりやねじれによる病気や、大事な液体の成分が変わる病気では、病理診断はわりと無力である。感染症、循環器疾患、呼吸器疾患の多くは病理と交わらない。整形外科や精神科ともわりと疎遠である。


では、病理医は、病理診断を用いない科のドクターたちとあまり会話をしないのかというと……。


これは、人による。キャラクターにもよる。ぼくはわりと循環器内科医や呼吸器内科医、整形外科医、精神科医と話をするほうの病理医だ。「細胞を見る必要があまりない科なのに、なぜ?」と聞かれるが、これに対する返答はちょっと難しい。ざっくりと答えるならば、「細胞を見るだけが『病の理(やまいのことわり)』を追究することではないよ」となるのだが、この話は長くなるので、いずれまた。というか、過去のブログに死ぬほど書いてあるので興味がある人はさかのぼって見てください。

2021年8月3日火曜日

病院でお赤飯

病院のコンビニに入っていたお赤飯おにぎりがなくなった、とツイートしたら、

「病院でお赤飯というのは場違いだからしょうがない」

というリプライがついた。そんなこと考えもしなかった。仮にそうだとして、縁起が良いから? 悪いから? どっちに抵触するというのだろう。病院内の売店ってそんなことまで考えないといけないのか。


いけないのかもしれないな。わからなくはない。

本当は、季節が変わって商品が入れ替えになっただけだろう。見知らぬサラダが増えてなじんだパンも消えていた。お赤飯おにぎりだけの話ではないのだ。それでも、このことは、なにやら泥はねのようにぼくの心に汚れを落としており、今も消えない。


「病院でお赤飯というのは不謹慎」か。ぼくはそんなことはないと思う。単なるメニューじゃないか。しかし、そういうアイディアを思い付いてしまう人はいる。たまたまリプライを付けた一人がそうだったというより、おそらく、一定数はいるだろう。




「SNSで誰もが発信できるようになった」ことよりも、「SNSで何でも受信できるようになった」ことのほうが根が深いと思うことはある。ほんとうだったら一生目にしなかった情報を見つけてしまって、余計に怒ったり拗ねたり指摘したりする人が増えているような気がする。病院のコンビニにお赤飯おにぎりがあることをめざとく見つける人がこれまでにどれだけいたというのだろう。これからはどれだけ増えることになるだろう。少なくともぼくが「うちの病院のコンビニで買うお赤飯のおにぎりが好きだった」とつぶやかなければ、くだんの人は「病院にお赤飯はそぐわないのでは?」みたいなことを考えることもなかっただろう。このブログにしてもそうだ。このブログを告知するツイートにしてもそうだ。一生届ける必要がなかった人に、うっかりどうでもいい話を届けて、それによって、うっかりどうでもいいことを考えてしまう人の数が数人なり数十人なり増えるということ。SNSは受信の機会を激増させた。それにヒトの脳が耐えられるのだろうかと思うことは頻繁にある。

2021年8月2日月曜日

病理の話(561) がん細胞の誤植

「がん細胞」もまた「細胞」であることにかわりはない。

細胞であるということは、その中に「核」があるということだ。

核の中にはDNAが入っている。DNAとは細胞の設計図である。がん細胞もDNAを持つ。

DNAには、胃の細胞になるための設計図も、目の細胞になるための設計図も、毛髪をつくりだすための設計図も、血管を生やすための設計図も、すべてが書き込まれている。ここ、注意してほしい。「すべて」である。

たとえば今、耳かきのようなものを用いて、皮膚の表面をガリッとこそげ取る。そんなに血が出るほどひっかかなくても大丈夫、ちょっと力を入れる程度でいい。するとそこに表皮の細胞が混じっている。これを顕微鏡でガンガン拡大していくと、核の中にDNAが入っており、そのDNAには表皮になるための設計図だけではなく、体内のありとあらゆる細胞の設計図が入っていることがわかる。表皮をとったはずなのに! 不思議である。

ではその表皮の細胞に「喝!」を入れて、DNAのほかの部分を活用しなさい! と命令することで、その細胞が胃や目や毛髪や血管に変化するかというと……これはなかなか、うまくいかない。現時点ではほぼ無理である。



表皮の細胞が持っているDNAは、「広辞苑」のようなものだ。とんでもない数の文字……体内のあらゆる細胞を作れるくらいの情報が、コンパクトにまとまっている。ただし、この広辞苑は、192ページと27ページと343ページ以外、「開かない」。

体内のすべての細胞が同じ広辞苑を持っている。しかし、表皮の細胞は表皮になるために必要なページしか参照しない。ほかのページはテープで固定されていて開かない。

胃の細胞は108ページと166ページと402ページと225ページを参照する。ほかは開かない。

毛根の細胞は192ページと33ページと344ページを参照する。ほかは開かない。

(表皮と毛根は微妙に近いページを参照しているが、完全に同じではない。)




そして、がん細胞も広辞苑を持っている。ただしそこに書かれている内容は、200箇所くらい間違っている。誤植が200箇所もある広辞苑。岩波書店は発狂してしまうだろう。でも、逆にいえば、あれだけ分厚い広辞苑の中に200個しかエラーがない。大多数の表記は間違っていない。これが「がん細胞のニュアンス」である。

体内をめぐる免疫細胞は、ほとんど間違っていない広辞苑を持つがん細胞を、「正常の細胞なんだろうな」と勘違いする。がん細胞の広辞苑にもテープが貼ってあって、胃のがん細胞は正常の胃の細胞と似たテープの貼り方をしており、ぜんぜん開かないページがいっぱいある。開かないページの中にどれだけ誤植があるかはよくわからないし、わかる必要もない。だってその設計図は使われないのだから。でも、「全部で200箇所くらい誤植がある」というデータだけは別に手に入る。それがホールゲノムシークエンスと呼ばれる技術だ。

「どの誤植が、細胞をがんにしているのか」を調べるのは難しい。テープで封印された場所にある誤植はさほど大きな役割を果たさない。がん細胞の中で「開くことができて、設計図として駆動している部分」の誤植ががんの原因ということになる。

「がんの原因」は、がんの種類にもよるが、だいたい誤植1~20箇所くらいによる。そのような誤植をピンポイントで攻撃するような薬を使うと、がん細胞だけを的確に倒すことができる。ただし、そんな薬が開発されていれば、の話だが……。