2022年8月31日水曜日

病理の話(693) 自分の意見なんて一切書かなくていい

先日、研究者のタマゴと話していたら、このようなことを言われた。


「はじめての論文を書いているんですが、『考察』を自分なりの言葉で書いたら、ボスに、『自分で考えたことなんて書くな! 参考文献を集めまくれ。他人の意見を引用しまくれ。お前の意見は1%未満でいい』って言われたんですよ。そういうものなんですか? おかしくないですか?」


うん、気持ちはわかる。そして、ぼくもボスと同意見だ。




科学論文、なかでも人体にかかわる医療系の論文は、だいたい、以下のような構成になっていることが多い。

 ・イントロダクション(はじめに)

 ・研究に用いた材料/症例の説明

 ・どのように解析したか、くわしい方法

 ・研究の結果(データをまとめたもの)

 ・考察

もう少し詳しくみてみよう。


まず、イントロダクションの部分では、「その論文をはじめて読む人が、その領域に興味を持つような内容」をしっかり書くのが大事である。

たとえばぼくが昔書いた、乳癌の病理AI開発についての論文だと、イントロには、

「乳癌というのはこれくらいの頻度で発生する病気で、このような診断が行われており、分類がこれくらいあって、診断にはこういうむずかしさがある。」

ということを、過去に書かれた教科書や論文の言葉を参照しながらひたすら書いていく。「乳癌の病理AI」という話題にたどりつくまえに、読む人が「乳癌」について詳しくなるのが目標なので、小さな教科書を編集するような気持ちで書く。

教科書、というのがポイントだ。

国語の教科書には、たくさんの作品が掲載されているだろう。国語教科書作成業者が、自分の言葉で、「国語とはこういうものですよ」と講義しているわけではあるまい。世の中にすでにある、「これを読むといろいろわかるよ」という文章を集めて揃えるのが教科書の仕事だ。

イントロの最後で、「このような乳癌の病理AIをつくると便利だろう。」と、これから説明する研究の内容に向けて橋を架ける。ここでも、「すでに過去に世界のあちこちで、乳癌の病理AIは開発されているよ。」ということをきちんと書く。別にぼくらの研究が「世界ではじめて!」というわけではないのだということを示す。とにかくひたすら過去の他人の研究を引用しながら進めていくのが重要である。イントロダクションに自分の意見など一切必要ない。まず、読み手に同じ土俵に上がってきてもらいたい、そのことを一番重視する。



次に、「研究に用いた材料/症例の説明」を書こう。医学研究では、どのような患者を対象としたのかを丁寧に書かなければいけない。対象とした患者の人数、その人たちがどういうきっかけで病院を受診したのか、年齢はどれくらいか、性別の割合はどうなっているか、どのような病気にかかっているのか、どのような治療がなされているのか……。ここに自分の意見など一切必要ない



そして、「どのように解析したか、くわしい方法」を書く。論文を読んだ人が、研究者のとった行動をすべてトレースできるように書く。このとき、過去にすでに研究で用いられている手法を参考にしているはずなので(すでになされているからこそ妥当なやり方だとみんながわかるのだ)、参考にした研究があればその論文を引用しながら説明する。また、自分のとった研究手法が完全に新しい手法だったとしたら、ほかの人があとから真似できるように、使った試薬とか、用いた統計解析ソフトなどを、逐一記録する。事実をひたすら書くのだから自分の意見など一切必要ない



ついに「研究の結果」を書こう。ただしい手順に基づいて得られたデータを、余すところなく、かつ、ごちゃごちゃしないようにうまく表やグラフなどにまとめて、わかりやすく記載する。解釈は後回しだ。起こったことを正直にみんなに示す。すなわち自分の意見など一切必要ない



こうして、自分の意見を排除したまま書き進めてきて、最後に「考察」を書く。したがって、研究者じゃない人は、「ここに著者の思いの丈がぶちまけられているのだな!」と思いがちである。でもそれは大きな勘違いだ。考察においても、自分の意見などほぼ必要ない

考察では、過去の無数の学者たちが、「どのようなデータからどうやって考えたのか」という記録をひもとくのが大切だ。ここに来て「研究の結果」を解釈するのだけれど、その解釈にも「科学的なやりかた」があって、そのやりかたは基本的に過去に他の研究者たちが積み上げてきた論文の中に書いてある。自分だけが思い付いたとっぴな解釈など、ほかの研究者からすると、


「お前が言うんならそうなんだろう、お前の中ではな」


以外のなにものでもない。このようなデータが得られたならばこう解釈すべきだろうという取り組みは、数千、数万、いや、たぶんそういうオーダーじゃないな、数億回くらい世界で試されており、それらが実際に医療の現場にあてはまったかどうかについての検証もなされている。つまり……


「考察のしかたも引用する」


のである。となるとやはりここでも自分の意見など必要ない





こうして、論文というのは、とにかく他者がこれまでにやってきたことと、自分の前にある患者やデータとを見比べて、おなじこと、ちがうことをひたすら正直に書いていくことでできあがる。考察の仕方すら引用する。


そして最終的に、できあがった論文を通して読んでみると……自分の意見など一切含まれていないはずの論文から、濃厚に著者の言いたいこと、理念、信念が肌感として伝わってくるものだ。直接は書いていないはずなのに、文体を、結論までの過程を、そこににじむ努力を、いかに多くの論文を勉強してこれを書いたのかという歴史を思いやることで、結果的に著者自身の意見がばりばりに浮かび上がってくるのである。





報道に似てるかもね。インタビューを伝えるときにスタジオでフリーアナウンサーが「取材相手が言ってもいないこと」を勝手に付け足して、自分の意見で場を締めたりするでしょう、あれって報道じゃなくてバラエティですよね。バラエティも人びとが求める番組だから間違ってはいないけど、「報道」ではないわけじゃないですか。

論文を書くというのも報道なんだよ。著者が勝手にフリーアナウンサーを気取ってはいけない。これまでに積み上げてきた科学の歴史と、自分がとりくんだ研究の内容とを、丁寧に、わかりやすく、順を追って、読む人の参考になるようにうまーくまとめる編集能力こそが大事なのよね。そして、編集に長けた人は、安易に自分の意見をそこに混ぜ込もうとはしないけれど、できあがった記事からは確実に、「この編集者の信念、わかるわあ……」みたいな熱気が伝わってくるものなのである。


2022年8月30日火曜日

脳だけが旅をする

いろいろと考えることはあるのだが、世のほぼすべての人びとが「いろいろと考えることはある」ので、おかげさまで、みなさんといっしょです。



経験が増すとともに一つの思考に集中できなくなる。あっちもこっちも「懸念事項」として頭の中に引っかけている。ことあるごとに手に取って眺めてまた戻す。パソコンの周りに色とりどりの付箋をはりまくっている。いや、実際には貼ってないけど、貼っているような暮らしをしているということ。毎日目にする付箋は、そこにたくさん貼ってあることそのものが自然になってしまって、かえって目に付かなくなる? いや、そうでもないかな? 気にしてはいるんだよな? モーニングルーティンのように毎日いくつものことを一瞬だけ考えて、すぐに保留して、あるいは仮固定して、宙づりのままにして、その日そのときにだけしなければいけないことに戻る。「気もそぞろ」でこなせるほど、人生の仕事は甘くはない、しかし、ここぞという瞬間に目の前にある仕事に没頭しようとしつつも、ふと意識の一部がドローンになって後方に浮き上がっていく。ぼくはそのドローンに飛び乗る小人になって、「さっきの付箋、どうしたっけな」と、きびすを返したり、でもまた集中しなきゃな、と、少しキョロキョロしたりして、「そんな挙動ではみんなに迷惑をかけるからだめだぞ」と苦言を呈するさらにもう一人のぼく(雲間にいる)によってまた地上の体に再度インストールされる。そういうことをくり返しながら少しずつぼくの外輪郭が定まっていく。振動していた皮膚が徐々に凪になって体の表面に固定されていく。




インターネットによって無数の人びとが発信するようになって、社会は分散し、分断したのだ、みたいなことを言う人がいる。しかし、実際にはグーグルとかフェイスブックとかマイクロソフトとかヤフーとか、一部の企業が「一人勝ち」になっており、本当は分散とは真逆で、じつのところ「集中」している、という意味のことが書いてある本を読んだ。

あまりにたくさん発信者がいすぎて、「裾野」の部分がロングテール(長い尾っぽ)と呼ばれる広さになっているけれど、ほとんどの人は、検索のアルゴリズムによってごく一部の強い企業が用意した情報に群がっている。事実、無数に散らばった個人のブログなんて誰も読んでない。個人のツイッターにいいねは付かない。……わかることはわかる。ここで言う「一部の企業」とはテレビ局も新聞社ではない。オールドメディアは青息吐息だ。それより上位の概念である「検索や情報表示を提供する側」だけが勝っている。コンテンツを作る側はどこもかしこも、グーグルが次にどういうアルゴリズムで記事を上に表示してくれるかによって生きるか死ぬかの綱渡りをくり返している。一見、選択肢が分散しまくったように見える今は、かえってごく少数の強者に権力が集中している。ああ、まあ、そうだよな、と思う。

でも、その一方で、インターネットよりまだかろうじて優秀なはずの人間の脳(本当にそうだろうか?)は、必ずしも集中はしていないなあ、という感想もある。

かかわるべき日常の引っかかりの数が年齢や経験と共に増え、思考のタネがどんどん手に入っている状況で、思考の末端の「個人ブログ」みたいなものがまったく閲覧されなくなるかというと、必ずしもそういう風にはできていないようである。脳はインターネットよりもガラパゴスなのだろうか。「あっちもこっちも、今はどうしているっけな」みたいに、油断するとすぐに気もそぞろになる。「もっとも大事なことだけに集中して、思考の一人勝ちだ!」みたいなことを、どうやらぼくの脳は得意としていない。経済の論理ではないということか。損得の論理ではないということか。脳の使うエネルギーにだって限りがあるし、考え続けるための時間だって無限ではないのに、ぼくはいつも分散型の思考で摩耗している。判断が複数走って互いに肩をぶつけ合うことで、第3コーナーあたりで摩耗している。


旅をしている間は、「旅をしている」から、ほかのことをしなければいけないという圧から解放される、と、かつて嬉野雅道Dの奥さんが言っていた(嬉野さんが本に書いていた)。ぼくは旅をしても、「ほかのこともしなければな」という気持ちから逃げられないので、嬉野さんの奥さんとはちょっと違うのかもしれない。脳が旅だけをすることはない。「ああ、ほかのこともしなければな」と考え続けている自分の脳を愛するほかはない。

2022年8月29日月曜日

病理の話(692) ポアロとホームズの違いみたいなものである

今日はねー、エルキュール・ポアロとシャーロック・ホームズの違い、みたいな話をするよ!


と言いつつ、いきなりだが皮膚科の話をはじめる。


皮膚科医は、皮膚にあらわれた発疹をみて、なぜそうなっているのか原因を考え、治療を選ぶ。

発疹にはさまざまなパターンがある。いわゆる「ブツブツ」のこともあれば、「赤くなってる」パターンもあるし、ぷくっと水ぶくれになっていることもあるし、なんだか熱っぽくなって下の方がコリコリ硬いこともある。

これらの発疹は、なんらかの「病因」(つまり病気の原因だ)があって引き起こされる。つい堅苦しく書いてしまったけど、皮膚に限らず、どんな病気にも言えることだ。高血圧にも、逆流性食道炎にも、心筋こうそくにも、がんにもさまざまな病因はある。

ただ、皮膚の場合は、そこに起こっている現象が「直接見やすい」というのがポイントだ。ほかの病気では、そうはいかない。

高血圧の現場を直接みることはできない。逆流性食道炎も胃カメラを使わないと観察できない。心筋こうそくだって、がんだって、体の内部で起こっていることだ。

しかし、皮膚だけは違う。発疹は、外から何が起こっているかをそのまま見ることができる。

この差が診療にかかわる。


一般的な内科医や外科医が病気を診断する場合は、「内部で起こっていることを間接的な手段を用いていかに推測するか」が求められる。なにせ、患者と会話して外から手で触れて診察しているだけでは、病気そのものを見られないのだから、いかに会話の内容から中で起こっていることを推理するか、いかにうまく診察をして指先に触れるものからヒントを得るか、いかに血液検査や画像検査で病気を浮き彫りにするかがポイントになる。

これに対し、皮膚科医は、「そこにあるものをいかによく見るか」という技術が重要だ。えっ、直接見られるなんて簡単じゃん、ではない。実際にやってみればすぐわかる。

ミクロの世界で起こっている無数の現象が積み上がってできた、「複雑な現象を足し合わせたなれの果て」である発疹をみるというのは、たとえば、森を見てそこに住む虫や木の異常を見抜くことに似ている。情報があればあるだけ迷うのだ。振り回されるのだ。わけがわからなくなるのだ。「全部見えるからこそ悩む」という観点は、一般的な内科医にはなかなか理解されづらいかもしれない。逆にいえば、一般的な内科医が発疹を皮膚科医ほど上手に診られない理由もそこにある。「見えてるものが教科書で見たこの写真に似ているから○○病だろう」みたいな雑な推理では、「発疹を見た」ことにはならないのだ。


ぼくは内科医と皮膚科医の診断学の違いをエルキュール・ポアロとシャーロック・ホームズの違いになぞらえる。

エルキュール・ポアロは、いわゆる「安楽椅子探偵」で、イスに座ってパイプをくゆらせながら、ヘイスティングスやジャップ警部が持ってきた証拠を頭の中だけで……「灰色の脳細胞」を使って考えて事件を解決する。実際には見てないんだけど、適切な証拠集めをしてくれる仲間の情報を総合して、あたかも現場を見ているかのように真実にたどり着く。その姿はあたかも内科医のようだ。

これに対し、シャーロック・ホームズは、とにかく「めざとい」。ホームズのもとを訪れた客の身なりを見て、どのようなルートを通ってベイカー街を訪れたか、どんな職業の人物かなどを立て続けに当ててしまうが、これは「きちんと見て論理を積み重ねる」ことによるものだ。さらに、ホームズはワトソンと一緒にしょっちゅう現場に出向く。探偵といえば虫メガネ、のイメージはホームズによるものだろう。他の人が見落としてしまうような些細な、あるいは、「理屈をもって見ないとそれが異常であることに気づけない」ようなことを見つけ出して推理の足しにする。この姿は皮膚科医に似ているとぼくは考える。




さて、今日の話はこれで終わりでよいのだけれど。皮膚科医はときどき「皮膚生検」をする。その話もしておこう。

皮膚を小さくつまんできて、プレパラートにして、病理診断をする。表面から見えたものだけでなく、組織を拡大して細胞レベルまで見てみようということだ。この病理診断はとうぜん病理医が担当するのだが、じつは、皮膚科医の多くは皮膚病理にも精通していて、なんなら病理医よりも皮膚の顕微鏡像に詳しかったりする。

顕微鏡検体を採取するときに病変全体を丁寧に眺めている皮膚科医と、採ってきたモノだけを顕微鏡で眺めている病理医とでは、病変に対する思い入れが違うというか、見る際の視点みたいなものが違っている。では、皮膚生検は皮膚科医がみればよく、病理医はぜんぜんかかわらなくていいかというと、これがそうでもないのでおもしろい。

病理医には他の臓器の顕微鏡像を見まくっているという「強み」があり、外から皮膚を眺めただけでは気づきづらい、細胞レベルでしかわからない変化を皮膚科医よりも少し詳しく見極めることができるのだ。こう見えて、皮膚科の皆さんにとっても役に立つんですよ、病理って。

ポアロにもヘイスティングスが、ホームズにもワトソンがいるけれど、ポアロとホームズが手を組むくらいのことをやったほうが、医療の現場の難問は解き明かしやすい。ホームズが二人いてもそれはそれで役に立つだろうということ。それが、内科医と病理医、あるいは皮膚科医と病理医が組んで医療を行うということなのである。

2022年8月26日金曜日

イヤホンのせいじゃない

何もしていないのだがイヤホンの調子が悪い。

電源を入れるとふつうはすぐにスマホと接続するはずなのだが、一瞬、「ペアリングしています……」としゃべって、そこから「ペアリングしました!」までに5秒くらい時間がかかって、それからようやくスマホに「接続しました!」と言われる。前はこんなにもっさりしていなかった。

このワイヤレスイヤホンは、スマホ以外のPCとかiPadなどとはペアリングしていない、いわゆる一夫一婦制の登録をしている。したがって本来ならば電源をつけたら唯一の相方であるスマホと瞬時に接続すべきだし、実際今まではそうだった。

どうしたのかな、倦怠期なのかな、などと考えている。



イヤホンにはいわゆる「頭脳」的なものは搭載されていない。ネットワークとも接続していないから勝手に更新されることもない。したがって、ペアリングまでの時間が妙にかかるようになった原因はスマホにあるはずだ。

しかし、イヤホンの電源を付ける度に竹達彩奈の声で「電源オン!……接続しました!」と言ってくれていたものが、「電源オン!……ペアリングしています……ペアリング成功しました! 接続しました!」に変わってしまったことがぼくの脳に深く印象づけられており、なんだこのイヤホン調子悪いな、という気分になる。本当はたぶんスマホのせいで、イヤホンを責めるのはお門違いなのだけれど。



そういうことがある。

ぼくらは何か不都合がおこると、まず、自分と一番濃厚にやりとりをしている部分……インターフェースの部分……を「犯人」だと思ってしまう。今回の場合も、おそらく原因はスマホのアップデートによるなんらかの不具合なのだが、イヤホンから進捗が聞こえてくる以上、「なんだこのイヤホン調子悪いな」と感じてしまうのである。同様のことはあちこちで起こっていて、たとえば、感染者数が激増して病棟も外来もパンクしている状態で、医療体制が完全に崩壊している中、患者と応対した事務員が「すみません、本日こちらにはかかれません」と告げると患者が事務員に対して怒鳴る、みたいな場面をしょっちゅう目にする。その事務員は、スマホではなくイヤホン的な存在のはずだ。しかし患者はなぜかスマホ(病院)側ではなくイヤホンに対して激怒する。そもそも、医療崩壊の原因はイヤホンはおろかスマホでもなく、「ネットワーク回線」にあたる国民全員の統計学的動向に求めるべきなので、ここでは二段階の「インターフェースを諸悪の根源だと思ってしまう錯誤」が働いている。



接続が遅くなったワイヤレスイヤホンをあきらめて、有線のイヤホンに変える。スマホに挿すと「接続しました」の一言もないがとにかくすぐに音が出てくる。「あーやっぱこういうときは有線が頼りになるなー」なんてことを言う。なんのことはない、有線イヤホンだと、「スマホが悪さをしないから」不具合にならないというだけのことなのだが、結果的に、「ワイヤレスよりも有線のほうが使える場面がある」みたいな言い方になる。ユーザーからするとそれで何の問題もない、しかし、ワイヤレスイヤホンからしてみれば、自分のせいじゃなくてスマホのせいなのに……と愚痴りたくもなるだろう。たぶん、社会にも、これと似たようなことがしょっちゅう起こっている。怒るべき相手はイヤホンではないのだ、本当は。

2022年8月25日木曜日

病理の話(691) 5W1Hって偏ってるよね

5W1Hというまとめかたがある。世の中の疑問がだいたいこれらで分類できるというわけだ。ほんとうかな? まあ、大枠としてはいいんじゃないかな。

What:何が?
Where:どこ?
When:いつ?
Why:なぜ?
Which:どっち?
How:どのように?

うん、whichだけちょっと意味が違う気もする、というかwhatと同じレイヤーに入れるのはおかしいのでは? と思うんだけどまあいいや。(追記:普通はwhichじゃなくてwhoでしたね。まあいいや)

何かを詳しく説明しようと思うとき、5W1Hを意識するとわかりやすいかもしれない。


さて、病理の話である。患者からとってきた細胞をみるとき、5W1Hを意識しながら解析することができる。

<What:何の細胞があるか?>
→これが基本だよね。そこにあるのががん細胞なのか、炎症細胞なのか、マクロファージなのか、whatを重ねていくというのが「顕微鏡を見ること」のベースにあると思う。

<Where:どこに異常があるのか?>
→これもすごく大事だ。がん細胞が粘膜と呼ばれる部分にあるのか、それとも粘膜下層と呼ばれるスペースにあるのかで、その後患者がどのようになるかが変わってくる。「敵にどこまで攻め込まれているか」によって対処は変わるのである。専門用語では深達度とか進展度などと言う。なお、病気の部位にプレパラートを押し当てて、細胞をぺとぺと剥がしてくるタイプの検査だと、「where」がわかりづらくなることに注意。「what」だけはわかるが「where」がわからなくなることがあるわけだ。

<Which:どっち?>
→これはなんとなくwhatに含んでいい気がするけど、実際のベッドサイドだと、主治医から「小細胞癌ですか? 小細胞癌以外ですか?」みたいに二択の判断を求められることがけっこうある。病気が「どっち」かによって、治療が変わるからそういう聞き方になるのだろう。

<When:いつからその異常があるのか?>
→これは応用問題である。「what」や「where」は顕微鏡を見始めたばかりの研修医でもわかるが、「when」は難しい。なぜなら、プレパラートに載っている細胞たちは、言ってみればある一瞬を切り取った写真のようなもので、決して動画のように動いてくれるわけではないし、そもそも血が通っていなくてホルマリンて固定されてしまっているし、いつからそこにあるのかなんて自分からは語ってくれない。「この炎症はだいたい何日前から存在するのだろうか」は、推理問題になるのである。「what」や「where」はたんねんに見ればわかるけれど、「when」はいきなりシャーロックホームズなのだ。ある種の炎症細胞は炎症の何日目から出てくるものだ、とか、線維化があるということはある程度持続して変化が起こっているということだ、とか、抗がん剤が体に入ったタイミングから○日経っているからその分がん細胞がへたっているのだろう、とか、さまざまな情報を重ねて推理をしなければいけない。

<Why:なぜ?>
→いやーそれは哲学でしょ、と答えたくなるんだけどwhyは大事である。究極のところ、患者も主治医も、なんでこんな病気になってんだ、ということを気にするし、「元を絶つことで病気を治す」という考え方もあるからだ。で、顕微鏡で見たその1例だけで「why」を解き明かすというのは現実的ではなくて、過去に似たような症例を経験した世界中の知識人たちの解析結果をまとめて、統計処理とかをして、介入試験(○を入れたら□になった、○を入れなかったら□にならなかった、みたいな検討)を山ほどやって、ジワァ……とわかってくるというのが正直なところで、病理医はそういうジワリとわかってきた科学みたいなものに詳しければ詳しいほどいい。

<How:どのように?>
→Whyがメカニズムの最初の部分を解き明かすものだとすると、Howはメカニズムの途中のつながりを解き明かすものだ。HowのほうがWhyよりももう少し実践的にも見えるが、こちらもじつはすごく難しい。「がんがリンパ管に侵入してリンパ節に転移した」なんて当たり前のようにストーリーをつけてぼくらはしゃべるけれど、それ、本当に体の中で起こっているのか、じつはそう見えているだけではないのか、というのを解き明かすのは非常にむずかしい。統計学的なごり押しである程度解決しがちな「why」よりも、筋道がつながるまで細かい証拠を集め続ける必要がある「how」のほうが問題の奥が深い気もする。



5W1Hを意識して病理診断報告書を書ける人は強い。

「辺縁に環状の隆起を伴い、内部が面状に陥凹した病変で、陥凹部では粘膜筋板の破壊があり、癌が粘膜下層まで浸潤しています。辺縁の隆起部分では癌が粘膜の下から粘膜を押し上げるような進展をしています。癌細胞の周囲にはdesmoplastic reactionに伴う線維化が認められ、病変に厚さと硬さ、中心方向への引き連れがもたらされており……」

これらの「病理所見」のうち、どれが見たものをそのまま書いたもので、どれが「頭の中で推理したストーリー」なのかを自覚的にわけている病理医の言う事は信用できる。……それってすっげえ難しいことなんだけどな。

2022年8月24日水曜日

怒りのオニオンリング

ダジャレを作った。




タイムラインに怒りが満ちていた。だから記念に作った。


イライラする感情にいちいち理屈を付けて解釈しようとするのは人の性だ。

ほんとうは、みんな、さまざまな、複合的な原因でイライラしている。やるせない、どうにもならない、自分でコントロールできない、そういったもののために……「ために」? いや、「なんのためにかすらも、わからない」というのが正直なところだろう。

つまり本当は理屈なんてないのだ。たいていの場合。

でも、無理矢理に理屈を通そうと思えば、通ってしまうものである。本当はもっとモヤモヤした、はっきりしない理由でイライラしていたのに、「○が△で□だからイライラした!」とストーリーを作ってしまうことで、後付けで、なんだか納得してしまう。そうやって偏った怒りが増幅されていく。


ときに、イライラの原因を探さずにほうっておくこと、イライラをそのまま宙づりにしておくことのほうが、知性ではないかと思うことがある。




そうしてぼくはダジャレを作った。怒りのイカリングだ。怒りは揚げてしまえ。「イカリング いらすとや」で検索をする。


出てきた画像がこれだった。



「いらすとや」では、イカリングとオニオンリングとイカフライは全部いっしょだったのだ。ぼくは笑ってしまった。イカかオニオンかは食べてみなければわからない。食べずに宙づりにしておいても、それはそれで、味のあるイラストなのである。

2022年8月23日火曜日

病理の話(690) 珍しいというための資格

ある患者の体の中にできたカタマリを手術で採ってくる。それを病理医がナイフで「切り出し」て、臨床検査技師がプレパラートに仕立てて、ふたたび病理医が顕微鏡で見る。そうやって観察できるミクロの風景を「組織像」、あるいは「病理組織像」などと呼ぶ。

この組織像を元に病理医は病理診断をするわけだ。そして、組織像のほとんどは、「教科書に書いてある」。

病理医は大量の教科書を持っている。それは臓器ごとにまとまっていて、胃の病気なら胃の教科書、肝臓の病気なら肝臓の教科書というように、たくさん参照先がある。病理医は顕微鏡を見ながら、「この組織像ということはこの病気だな」と、絵合わせをして病気の診断を付けていく。

これは肺の小細胞癌だな、こちらは肝臓の細胆管細胞癌だな、これは皮膚の悪性黒色腫だな、こっちは乳腺の浸潤性小葉癌だな……。

全部違う教科書を使う。病気の分類を行い、それらがどれくらい体の中で広がっているかを検討する。



さて、病理医を長いことやっていると、まれに、「教科書に載っていない病気」に出会うことがある。ただし、病理医経験が4,5年目くらいまでは、「教科書に載っていない!」というのはたいていウソ、というか知識が足りないだけで、その人が十分に界隈の教科書を調べきっていないだけであることが多く、上司に「すみませんこの病気見たことないんですが……」と泣きつけば、たいてい、マニアックな教科書や論文のどこかからか該当する病気を探し出してくれる。

そのうち、病理医経験が15年くらいになると、本当の意味で教科書に載っていない病気と出会うようになる。そういうときは、胃なら胃、肺なら肺、肝臓なら肝臓の病理を専門に研究している「コンサルタント」に連絡をとる。日本病理学会という団体は、臓器ごと、病気ごとのコンサルタントと連絡をとれるシステムを格安で整備しており、日本全国どの病理医も、病理学会に2000円払えばその筋の専門家に相談できるようになっている。

専門家にプレパラートを送って見てもらう。すると、たいてい2~3週間くらいで、「非常に珍しい病気ですが、これまでに世界で20報ほど論文が出されています。」みたいな説明をもらえる。どれだけ珍しくても世界のどこかではたいてい報告がある。コンサルタントを務めている人たちは、そういう「珍しさの尺度」を相談されることに慣れている、一流の病理医ばかりだ。




肌感覚で言うと、病理医は、通常の医者が出会う患者のおよそ10~20倍くらいの数の患者と出会う。患者と会話をせず、患者から採取されてきた検体だけを相手にしている仕事だし、さまざまな科が採取する検体を一手に引き受けているのだから、病理医が経験する患者の数が多くなるのは当たり前だ。

このため、臨床医が「これは珍しい病気だ!」と感じる感覚と、病理医が「これは珍しい病気だ!」と感じる感覚にはズレがある。ふつうの医者が生涯かけて1回も出会わないような病気であっても、病理医は普通に経験する。臨床医が「めちゃくちゃ珍しい病気ですよね、これ!」と興奮していても、病理の教科書をたんねんに探すとたいてい記載がある。だから、珍しい病気に遭遇した臨床医は、教科書を借りるために病理の部屋を訪れたりもする。

病理医が「珍しい!」と思うような病気は本当に珍しい。しかし、どんなに珍しい病気であってもコンサルタントと相談しながら過去の論文を探すとたいてい報告がある。「この病気は世界ではじめて私が見つけました!」というのは99.99%、「論文の検索のしかたがヘタクソで、過去の報告を見逃しているだけ」だ。学会で「珍しい病気を見つけました!」と報告をしたはいいが、会場にいるベテランの病理医から「私はそれと同じものをこれまでに3回見たことがあるよ。論文にもしているよ」などとツッコまれて赤面する、なんていうシーンもたまに目にする。でもまあそういう恥はかいたほうがいい。病理医は「珍しさの度合い」を確認するために、ありとあらゆる手段をとるべき職業だ。珍しいものを珍しいと言えるのは、大量の症例を経験する病理医だけに許された特権のようなものであり、珍しさについてはとことんストイックになるべきなのだ。そして、珍しい珍しいと喜んで終わりにしてはいけない。その珍しい病気に苦しむ患者のために、「珍しいなりにも分類できるポイント」を探し当てて、適切な治療に結びつけてこその病理医なのだ。

2022年8月22日月曜日

守秘権利

トークイベントなどで、「医者はなぜ死を語るときに躊躇するのか」という意味の質問をされることがある。病理学や治療学を語る時には科学に従って朗々と答える医師達が、職務で経験した「死」を語る段になるととたんにキレ味が落ち、ひどく控えめになり、口をつぐむというのだ。

そりゃそうだろう、と思う。

死を語れる人というのは往々にして、死から適切な距離をとることができている人だ。家族や知人など、自分と関わりの深い人の死について考えた末に、だいたいこのあたりに立っていれば死を見つめることができると落ち着いた人だけが、その人なりに死を語る。

では、医者はどうか?

家族でも知人でもない人の死に多く直面している医者は、その経験から、普通の人よりも死について多くを語れるだろうか?

そういうものではない、と思う。



中には、「死は医療においては敗北だから、医者は死を語りたがらないのだろう」と解釈する人もいる。

一理あるかもしれない。しかしずれている。「死は医療にとっては敗北である」というのは医療を勝ち負けで考える思考であるが、ピントはずれである。医療にはわかりやすい成功(寛解)と失敗(増悪)があるように見えるからだろう、しかし、実際の医療はプロ野球のペナントレースよりも試合数が多く、移動日もなくストーブリーグもない。医者にとって医療はプロ野球選手の野球よりも日常にめりこんでいるものであり、勝ち負けで一喜一憂できるほど試合と試合の間隔がひらいていない。


たぶんそういうことではないのだ。医者が死を語ることを躊躇する理由。

おそらく、「死を語れと言われると、今まさに関わっている患者の死を語ることになってしまうから」というのが大きいのではないかと思う。

昨日外来で会った人のことを人前で語るのが下品だから口をつぐむ。

さっき病棟で見かけた人のことを題材にして語ってしまうのが許せないから言葉を濁す。



医者は「死にかけている患者」を担当している。あるいは、今そのときにたまたま死にそうな患者を担当していなくても、「かつて死にかけていた患者のこと」を心のどこかでじくじくと覚えている。

だから「死を語ってください」と言われると、「具体的なひとりの他人の死」を考えることになる。これは非医療者にはあまり経験されないことだ。

非医療者ならば、「家族の死」か、「戦争などがもたらす不特定多数の人びとの死」か、「物語の中にある死」を思い浮かべるだろう。

これらはすべて「医者でなくても語り得る死」である。

トークイベントなどで「医者として死を語れ」と言われる場面では、家族の死も、不特定多数の死も、物語の死も、「医者でなくても語れる」ので、逆にあまり要求されない。

だから医者は自然と、「この場でしゃべれる死……この場で他の人がしゃべれない死……」とサービス精神を出さざるを得ないが、受け持っている患者という「具体的なひとりの他人」の死を語ることはできない。それは下品であり許されない。



たくさんの死を通り過ぎてきた医者なら、他人の死を匿名化し、抽象化して語れる、と思っている人もいるだろう。

医者にとって、すべての死が過去になっているならば、あるいは可能かもしれない。

でも、多くの医者は、今その瞬間に、「死にかけている患者」を担当しているものだ。現在にある死は抽象化しづらい。

やはり、そこにある死そのものは語れないし、語ってはいけない。

もちろん、一流のストーリーテラーなら、具体をぼかしながらも死に肉薄した語りができるのかもしれない。医療を訓練するのをやめて、ナレーションの訓練をはじめれば、いつかは語れるようになるのだろう。それをやるかという話だ。



「守秘義務」。職務上の義務によって、患者とのできごとを守秘するということ。

医者の多くは守秘義務を守るが、より正確に言えば、「守秘権利」を行使している。家族ほど近くなく、国民ほど遠くない、絶妙に刃の切っ先が届く先にいる他者の生老病死を語ることには強いストレスがかかるから、守秘する。自らを守る。それは権利だ。医者が自分の心を守るために行使する権利なのだ。


「お医者さんはなぜ死を語るときにぼかすんだろう」


それは権利だからである。明日も外来や病棟で出会う人に、(昨日、あなたのことを思いながら死を語りました)と心の中で懺悔するタイプの悪夢を見ないための、自分の心を守るための大事な権利。かわりに、誰もが同じように距離をとろうとする家族との思い出、不特定多数の死、そして物語に描かれた死を語れば、その場の義務を通過することができる。物語がなければ医者もまた現実との関係に押しつぶされていたのではないかと思うのだ。

2022年8月19日金曜日

病理の話(689) 例外がない科学はない

細胞には「良悪」がある。

「悪性」とは放っておくと際限なく増殖して人体に悪影響を与え、最終的に人体を死に至らしめるものをいう。「がん」が有名だろう。

これに対し、「良性」は、放っておいても(命にかかわるほどの)悪さをしない、という意味だ。ぼくらの体を作っている細胞は基本的に良性であるし、たとえば、ふつうのほくろは、見た目が周りと違うので目立つが、放っておいても命にかかわることはないからこれも「良性」である。


ではこの良悪、どうやって見極めるかというと、なかなか複雑で奥が深い。

(細胞の中にある)核の性状がおかしければ、それは悪性である可能性が高いと言えるのだが、「核がおかしければ絶対に悪性だ」と言えないので難しいのである。


若い学生や研修医が顕微鏡を見ている。今回は食道の粘膜をみているようだ。びくんと体が揺れたのでどうしたのかなと思って見ていると、興奮して声をかけてくる。

「せ、せんせい、めちゃくちゃ核がへんな細胞を見つけました! 1個しかないんですけど……これだけおかしければさすがに癌ですよね? 明らかに普通の細胞の何倍も大きくて、形もぐっちゃぐちゃなんですよ!」

ほう、そこまで言うとはよっぽどだな、と思いつつ、ぼくはひそかに、内心、(がんではないアレだろうな)という気持ちで彼らの元に近寄っていく。

はたして。

正常の細胞よりも何倍も核が膨れたその細胞は……「がん細胞としても核が異常すぎる」のであった。これはウイルス感染による変化である。ヘルペスウイルスとか、サイトメガロウイルスといった、一部のウイルスに感染した細胞は、核が異常に膨れることがある。あまり知られていないが、新型コロナウイルスに感染した肺の細胞の核も異常に膨れる場合がある(ただし核に変化が出る頻度は低いので、ウイルス感染の証拠として用いることはできない)。


また、逆に、核も細胞の性状もほとんど正常の細胞とかわらないのに、挙動だけが「がん」というパターンもあり得るので病理診断は難しい。こういうときには、細胞の顔付きで判断してはだめで、細胞の挙動……具体的には「周りの構造物を破壊しているかどうか」をもって、良悪を判定しなければいけない。




で、今日はそういう「病理診断は難しい」という話をして終わってもいいのだけれど、ひとつ、「これがあれば絶対に良性と判定できる基準」があるので、それを皆さんにお教えしよう。

それは、線毛(せんもう)である。



皆さんもご存じだろうか? 気道の細胞の表面にはうっすらと毛が生えていて、タンを外に吐き出す役に立っているということを。

細胞表面に生えて、ものを運んだりする毛を線毛と言うのだが、「線毛を持ったがん細胞」というのは存在しない。科学には何事も例外があるのだけれど、線毛があるがんだけは本当に見つからない。ぜんっぜん経験されない。ある意味ふしぎである。



核がおかしければがん? → いや、核がおかしい良性の細胞もある

細胞質がおかしければがん? → いや、細胞質がおかしい良性の細胞もある

核が普通なら良性? → いや、正常の細胞と見分けが付かない核を持ったがんもある

線毛があれば良性? → はい。



こうなのである! マジで珍しいパターンだと思う。ぼくもかれこれ「病理の話」を689回も書いてきて、つまりは689回以上「病理のこと」を考えてきたが、「線毛があればがんではない」という法則にだけは例外が適用されない。ぶっちゃけ第一級の不思議である。


……と、ここまで書いて、科学というのは「例外がないなんてあり得ない」ものだと知っているので、うん、たぶん、がんばって検索すれば出てくるだろうな、と思った。

PubMedという論文検索サイトで探してみた、すると出てきた。ごくごく珍しい超例外的なパターンで、英文の症例報告が過去に数例(!)ある程度だが、たしかに「線毛を持つがん」と診断された報告が出てくる。


ああ、やっぱりなー。例外がない科学ってないんだよな。「線毛があれば99.9999999%良性である」と言っていいかなと思うんだけど、100%ではないんだ。また科学の科学っぷりを確認してしまった。


でもまあ線毛があったら普通は良性だよ。もっとも、病院の中でも病理医だけは、普通をうたがって万が一を追い求めないとだめな仕事なんだけど。

2022年8月18日木曜日

目線をずらす

ホテルの中層階から外を眺めていると、駐車場の地面がみるみる黒く変わっていくのがわかった。しばらく予報を見ていなかったので虚を突かれた。消化試合なのに雨も降ってしまうのか、と思った。

晩飯をまだ調達していない。傘を持ってきていない。体が濡れる分にはかまわないが、服が濡れると明日以降すこし面倒だ。ひとまずすぐ乾くタイプのTシャツに着替えた。スマホで探すとホテルと同じブロック内にコンビニがあるようだ。

ロビーに降りると上から見るよりもしっかり雨は降っていた。5分も歩かずにコンビニには着くだろうがしっかりびしょ濡れになるだろう、店員には妙な目で見られるかもしれない。いや、店員がぼくを見ることなどない。人は人を見なくなった。外で誰かと目が合った記憶がこの2年ほどない。隠しているのは鼻と口元なのだが、合わなくなったのは視線なのである。ときおりこうしてずれる。

果たしてローソンがあり、棚は節電のために暗く、しかもなぜか内側から激しく結露しており中がよく見えなかった。先にいた客がドアをひとつひとつ開けながらお茶のありかを探している。なんとなくそこからも目をそらしてしまう。弁当の売り場を先にあたる。部屋にレンジがついているタイプの部屋に泊まっておけばよかったな、と考える。春巻きが食いたい。すべてノイズにしてそうめんの弁当を買う。温めなくていい。ネギが入っているから野菜の心配をしなくていい。遠くで消防のサイレンが聞こえるなあと思ったら猛スピードで店の前を通り過ぎていく圧にかわった。からあげクンを買い足そうと思ったのに準備されていなかった。

手にしたエコバッグを広げながら会計をしてもらっているのに「フクロは要りますか」と聞かれたのでやはりこの店員はこちらを見ていない。ぼくもレジしか見ていないからお互いさまだ。箸ですか、フォークですかとは聞かれなかった。そうめんとパスタの区別は付くんだなと思った。仮にぼくの見た目が外人だったらフォークですかとたずねただろうか。それとも外人であることに気づかないだろうか。ドライTシャツによれたGUのパンツ、足下だけが革靴。自分に異物感を覚えるのは自分だけだ。誰も見ていない。

コンビニを出ると雨脚が強くなっていた。小走りでホテルに戻ってロビーを通り抜けてエレベーターのボタンを拳の硬い部分で押す。エレベーターを待ちながら、脳内の自分塗り絵のうち、雨に濡れた頭頂部、肩、膝、靴の上面、コンビニで物に触れた右手の指の腹の部分、そして拳が感圧紙によって色を塗られ、これらの場所をあとでよく洗わなければいけないな、と感じる。雨に濡れた部分は汚れたわけではないのだが、混線してしまっている。待てよ、雨は汚れでいいのか? 

「勝利」と書くと「いや、お前の負けだ」という言葉が、「義務」と書くと「いや、自由だ」という言葉が、「ありがとう」と書くと「いや、許さない」という言葉が、「これからがんばろう」と書くと「人のせいにするな」という言葉が返ってくる。いったい何を見ているんだろうと不思議に思っていた。いまは不思議に思わない。何も見ていない。どこも見ていない。必ず目線を少しずつずらしている。目が合わないのだ。それが普通なのだ。「いや、異常である」。

2022年8月17日水曜日

病理の話(688) 病理診断によって治療法がどれくらい変わるか

手術や検査で体の中から採ってきた臓器は、ほとんどの場合、病理医によって細かく調べられる。「ほとんどの場合」というのは、たとえばダイエット目的で腹から吸引した脂肪などは見ないこともある(らしい)からだ。


手術で採った胃、胆のう、肝臓、乳腺、肺……といった「臓器まるごと」はもちろんのこと、体の外から細い針を刺して吸引した髪の毛のような細い検体や、極小のマジックハンドのような鉗子(かんし)でつまみとった消しゴムのカスより小さいカケラであっても、病理医は顕微鏡で検索をする。


そして、「病理診断」をする。なんのために? 病理診断によって、「その後の治療」が左右されるからだ。


では「治療が左右される」とはどれくらい左右されるのだろうか?




たとえば肺にできた「できもの」を、手術をする前に検査目的で、少し摘まんで採ってきたとする。それが「腺癌」であったときと、「扁平上皮癌」であったときと、「小細胞癌」であったときと、「カルチノイド腫瘍」であったときと、「ランゲルハンス組織球症」であったときと、「大腸癌の転移」であったときと、「結核」であったときと、「子宮内膜症」であったときでは、すべて治療が異なる。その異なり方も、ちょっと違う、くらいのものではなく、ぜんぜん違う。手術を先にやるパターン、抗がん剤を先に行うパターン、その抗がん剤だって癌の種類によって全く違うし、病名によっては「無治療でしばらく様子をみる」こともありうるのだ。


さらに。

たとえば大腸にできた「できもの」が腺癌であり、手術をして腸を切除したとする。すでに一つの治療が終了しているわけだがそれでも病理診断をするのか?

するのだ。

手術で採ってきた腸の中にある癌細胞が、「固有筋層までしみ込んでいる」のか、「漿膜下層までしみ込んでいる」のか、すなわち「広がり方の違い」によって、手術のあとにどのような治療を追加するかが異なる。抗がん剤をすぐに追加するときもあれば、抗がん剤をせずに様子をみるときもあるのだ。



このように、原則的に、「病理診断」の結果によって、その後の治療方針は大きく異なる。したがって、主治医は、いったん採ってきた臓器(あるいはそのカケラ)を病理医にわたしたら、病理診断結果が出るまでは患者と次の治療についての相談をできないことも多い。


病理診断は「近未来予測ツール」である。その病気がどのような悪さを、悪徳ポテンシャルを持っていて、この先どういうふるまいをしうるかを高精度に予測するものだ。よって、病理診断の書かれた報告書を前にした主治医は患者と「未来の話」をする。

本当は、病理診断には、今ここにある細胞がどのようなものかという「現在」や、どうしてそんな病気が発生したのかという「過去」をも含んでいるのだが、すべての時間軸についていっぺんに話せるほど主治医と患者が長時間面会できないというのが今の医療の限界ではある。この先、もう少し話せるようになる時代がくるといいのだが……これもまあ、未来の話だ。

2022年8月16日火曜日

お配分ですわ

壱百満天原サロメ嬢のリズム天国動画をずっと流しながら夏休みを過ごしている。あるいはKindleの中にあるマンガを片っ端から読むなどしている。買っておいたとある人文系の本がはずれだったので、半分くらい読んだ時点であきらめて捨ててしまった。「クオリア」という言葉を雑に使う本はたいてい脳神経科学のことをまるでわかっていないので、ほかにどれだけ見どころがあろうとも読み続けるのが厳しい。でも、ま、そういう本を軽く読み流せることも、ぜいたくな時間の使い方ではある。

今の職場に勤め始めてから最も長い夏休み。JA北海道厚生連から支給されているメールは、職場のファイアウォール下でしか受信・送信ができないので、日頃仕事でこのメールを主に使っているぼくの元には一切メールが入ってこなくなった。この話をするとぎょっとされる。なぜGmailのようにいつでも連絡がつくアドレスを使わないのか、と。逆に質問してみたいものだ、なぜ休み中にメールをチェックしなければいけないのか、と。長期に不在にすると言ってもせいぜい土日から次の土日まで、長くて10日くらいのものだろう。その間の仕事は他のスタッフが代わってやってくださっているし、診断の緊急案件にかんしてはメールではなく電話である。あわててメールをしてくるのはたいてい「原稿絡み」で、10日の余裕がない仕事や問い合わせを振ってくるほうが非常識だ。ぼくは今、締め切りまで1か月を切っているような原稿がひとつもないのだから問い合わせがくることはあり得ない。


などと余裕ぶっていたら、休日2日目にさっそく電話がかかってきて、「昨日メールさせていただいたのですがお返事がなく……」とのことだったのでさっそく苦笑してしまった。とある研究会の運営についての相談であった。すみません、休日だったもので、と答えて手帳を確認してスケジュールを合わせる。電話を切る。まあしょうがない。世の中はフローチャート通りにはいかない。




昔の編集者は大変だった、という話をたまに聞く。締め切りが近づいた著者が雲隠れをするからだ。逃げた先の温泉旅館に追いかけていく編集者、そもそも逃がさないように著者の自宅のまわりに車を停めて張り込むタイプの編集者、著者が原稿を書いているとなりの部屋で、それぞれ違う原稿を取りに来ている他誌の編集者と麻雀をして待つ編集者……。書く/描くということが主に才能(努力する才能を含む)と運に依拠していたころ、書き手/描き手は今より遙かに少なく、一部の著者の「図抜け感」も今よりはるかにすさまじかった。そのような時代には、作家や漫画家が締め切りを多少さぼろうが、非常識に逃亡しようが、出版社は作り手にひれ伏してなんとかなだめすかせて原稿を取るしかなかった。でも今は違う気がする。書き手はいくらでもいる。締め切りが守れない書き手と同じくらい書ける人間を探すのにインターネット・サーフィンで5日くらいあれば事足りる。作品の質だけで作家の信用が担保される時代ではない。今、逃げるのは編集者のほうだ。著者が追いかけて、すがりつかなければいけない。それなのになぜ締め切りを破って平気でいられる?


……というのが昔からのぼくの考え方なのだけれど、これもやはりフローチャート通りにはいかないものである。とかく人間と人間の関係というものは「ひとつの理屈」にはおさまらない。育て甲斐があると感じた著者の「一般に非常識的だとされる部分」に編集者がじっくり付き合う姿をあちこちで目にしてきたし、逆に、編集者の「かたよったこだわり」によってパッと見ポンコツな作家が念入りに愛されるケースもある。


人と人との関係を一義で規定してはいけないように、個人の行動の「原理」もまたひとつには決まり得ない。ぼくが休みの間にメールを見ないことを叱責する理屈も擁護する理屈もあり、いずれも論理的に筋道を通すことができる。だから理屈は行動の理由にはならない。

ぼくが休みの間にメールに反応しなくなった理由もひとつではない。非常識、偏り、気質、偶然、関係性、そういったものが次から次へと流れ込んでくるボウルの中でマーブルカラーのクリームを混ぜていく、抵抗が強い、疲れる、ある時点で「凪」みたいにスンとなったぼくが「あーまあこれでいいかな」と気まぐれで目下の興味関心と行動を掬って絞り込む。絞り出す。この選択がぼくの仕事をどのように良くするかとか、社会のためにどのように貢献するかという打算すら、ボウルに割り入れたタマゴ1個分くらいでしかなく、そこは、配合、さじ加減、レシピ、いずれもエイヤッという感じなのである。

慎重になることも大胆になることも、中央値をさぐることも傾くことも、つまりはそういうことなのではないかという思いが最近強い。「自分なりに説明できる」時点で観察が甘い。判断材料が無限に積み重なっていく途中のどこかで「このへんで……暫定的に……」とやってしまっている。それがけっこういいせん行っている。それが脳なのだと思う。は? クオリア? 雑な命名に踊らされやがって。


壱百満天原サロメのリズム天国は途中で寝落ちして目が覚めてもまだ同じ曲をやっていた。よい夏休みである。

2022年8月15日月曜日

病理の話(687) 虫垂をいつとるか

「虫垂炎」という病気があって、いわゆる「モウチョウ」である。

昔読んだマンガ……ちびまる子ちゃんだったか……とにかく、30年くらい前には、「ちらす」という表現がすでに使われていた。「薬で病気を散らす」という意味である。

で、30年くらい前からあったのだが、最近はこの薬のキレ味がよいためか、かなりの量の虫垂炎を「切らずにおちつかせる」ことができる。



虫垂は人によって大きさや太さが微妙に異なるのだけれども、イメージとしては指の細い女性の小指くらい、と思って頂ければよい。小腸から大腸に入ると、食べ物は上行結腸と呼ばれる部分を文字通り上に向かって進んでいくのだが、下は行き止まりになっていて、この行き止まりの部分にまるで小動物の巣のようにピヨッとくっついているのが虫垂だ。一説によると、この虫垂は「腸内細菌の控えメンバーが待機するベンチ」の役割をしているそうで、げりなどで腸の環境が悪くなったあとに虫垂から元気な腸内細菌が飛び出してきて、また大腸を守ってくれるのだという。

しかし、この、重力に引っ張られる下側の行き止まりに小部屋がある状態は、弱点も有している。食物の食べかすが詰まってしまうことがあるのだ。虫垂も「ぜん動」(うねうね動いて内容物を押し出すこと)をするので、いったん詰まってもまた詰まったものを出すことはできるのだけれども、ときに「糞石」と言って、まるで石のようにカタくなってしまった食べかすが詰まってしまうことがある。

糞石までできてしまうと、なかなか詰まりは解除できない。すると、小部屋の中で、腸内細菌が異常に繁殖して炎症を起こし、虫垂の壁がぼろぼろに攻撃されてしまう。これが「虫垂炎」と呼ばれる状態だ。

虫垂炎が悪化すると、虫垂の壁が破れて、腸内細菌がお腹の中にばらまかれてしまう。すると「腹膜炎」と言って、そのまま放っておくと命にかかわるような重大な炎症につながってしまうので、虫垂の壁が破れる前に治療をしなければならないし、もし破れたら急いで手術をしてボロボロの虫垂を取り除いてしまう必要がある。



「ちらす」は、虫垂の中で増えまくった腸内細菌を倒し、炎症を抑えることだ。炎症さえひいてしまえばまた元通り……だが、忘れてはいけないものがある。「糞石」だ。


「薬で散らす」と言っても、石まで散らせるわけではない。すると次またいつ虫垂炎が再発するかわからない、ということになる。詰まりっぱなしの虫垂は放っておけばまたいつか必ず炎症を起こす。


したがって、今の医療では、虫垂炎に対して「まず薬で落ち着かせて」、「虫垂がほとんど正常に戻ってから、手術をする」というのが一般的である。これを待機的手術という。


患者が病院に来た時点で虫垂が破れていたら、基本的に待機的手術はしない。腹膜炎待ったなしだから急いで手術をする。

けれど、CTや超音波検査などで、虫垂の壁が破れていない、と判断された場合は、最近はほとんどの場合、ちらす。そして待機してから手術、である。



私が病理医として働き始めたのは15年前だ。その頃の虫垂炎は今よりも「ちらさずに手術」する割合が多かった。手術でとってきた虫垂は病理医がみる。虫垂の壁は腫れ上がり、粘膜はぼろぼろにはがれて、なんならどこかに穴が空いているのが普通だ。


しかしここ数年、「ほとんど正常の虫垂」をみる機会が増えた。いったん散らして、炎症がすべて治まってから手術をしている割合が増えたということである。そういうときぼくは、以下のような病理診断報告書を書く。


「Appendix, appendectomy. (虫垂をとりました、の意味)

ほぼ正常の虫垂ですが、一部に軽度の炎症が残存しており、粘膜下層や漿膜下層には軽度の線維化を見る部があります。虫垂炎加療後として矛盾しません。」



2022年8月12日金曜日

休み上手への道

夏休みの話。長く寝続けていると体力を奪われる。枕と首とがきちんと合ってなくて、背中がこって疲労するとか、寝返りも忘れて寝ていたために腕がしびれているとかだ。寝続けるにも体力が必要。8時間以上の睡眠を取るには訓練が要る。


職場でしか受信・送信できないタイプのメールアドレスを普段使っている。だから休みに入ると、どんなに急ぎの連絡でも一切確認できない。ぞくっとする。休みの前に各位に連絡をしておけばよいのだが、無数の連絡先すべてに告知する手段がない。ツイッターで休みますとつぶやくくらいだ。Gmailなどを使えばよい? いや、もう少し世間と隔絶されていたい。いつでも何度でも連絡がとれる人間だと思われたくない。たぶんこの「みんなから連絡がとれない状態になっている」というのが、ぼくの本質的な休暇スタイルなのだろう。


ほか、体力を失ったぼくの休暇スタイルとは。


・早い時間にビールが飲める


うん、前はこれがでかいと思っていた。しかし近頃は、ビールを飲み始めると1時間くらいで眠くなってしまう。せっかくの休日なのに早い時間から寝てしまうのはもったいない。


・日頃見られない映画やYouTubeを見る


これがあるかな。でも溜まりすぎている作品たちのどれから見ればいいのかよくわからない。あれは見られたけれどこれは見られなかった、というのがストレスになる気がする。


・温かいコーヒーやお茶を飲む


これかもしれない。普段あまり選ばない過ごし方。温かいものを準備する時間、それを前にただ飲むだけの自分でいる時間がふだんは取れない。SF協会会長で声優の池澤春菜さんや、『累』でおなじみの松浦だるまさんがお茶フリークであるというのをどこかで読んだとき、ああ、それはいいなあ、と、ぼくの中にあるもっとも打算のない部分がぼそっとつぶやいた。資格をとるまではいかないだろうけれど、ぼくは今後、温かいものを飲めたら「休みだなあ」という気持ちになるのではないかと思う。

2022年8月10日水曜日

病理の話(686) 比べさせてくれ

内視鏡医(胃カメラや大腸カメラを得意とする内科医)の出る勉強会によく出る。


どういう勉強をするかというと……基本的にこういう流れだ。



1.その日の当番に当たった内視鏡医が、おのおの、胃カメラや大腸カメラで撮影した写真を持ち寄る。

2.発表者は、写真をみんなに見せつつ、最低限の説明だけして、あとは黙る。

3.勉強会に出席しているひとたちは、写真をみながら口々に考えを述べる。

 「ここに病変がありそうだ」

 「色調の差がここにある」

 「ここで盛り上がってここでへこんでいる」

 「拡大をあげると表面の模様がこのようにおかしい」

 「だからこの病変は○○癌だ/△△病だ/じつは正常だ」

4.ある程度議論が進んだら、発表者が「では答えにうつります」と言う

5.その病気をどうやって治療したかを解説したあとに、病理医が出てきて、「病変を顕微鏡で見たらどうだったか」を解説する(=病名が決まる)

6.みんな納得する

7.あるいはみんな納得せず、「○○病だって!? じゃあなんで胃カメラであんなふうに見えたんだよ!」と炎上する(勉強会に出てくる症例だから、誰が見てもわかるような写真ではなく難しいことが多い)

8.理論で火消しする



まあこんな感じなんですわ。



で、この勉強会、ほんとうにいろいろなパターンがあるのだけれど、ぼくが出席するやつは基本的に「ぼくが病理の解説スライドを全部つくる」ことが多い。あたりまえだ。病理の説明は病理医がやるに限る。

しかし、中には「わりとゆるふわで、あまりカタいことを言わず、毎週みんなが楽に参加できることを目標とした会」もあって、そういうときは、症例を選んだ内視鏡医が、顕微鏡の写真も用意してきてくれる。ぼくの負担が減るように、という心遣いなのだ。



そして「内視鏡医が取る顕微鏡写真」は、たいてい、どこか「違う」のである。その違いをきちんと認識するとおもしろい。病理医が何を気にしていて、内視鏡医がどこに興味があるのか、それらが微妙に異なっていることがわかるからだ。


たとえば、内視鏡医が病変の顕微鏡写真をとるときには、「病気のど真ん中」を拡大して写真を撮って下さることが多い。


これは……例えていうならば……。そうだな。


えー、渋谷のスクランブル交差点の真ん中で、ヤクザの運動会をやっています。玉入れとかしている。そり込みリーゼントタトゥーくわえタバコの男達がひしめきあって、カゴに玉を投げ入れている。パッと見、「やべぇ」とわかる。周りの人たちは遠巻きに震えています。


ここで、ヤクザの中心部をクローズアップして写真をとると、「そり込み」とか「リーゼント」とか「イレズミ」などによって、それがヤクザだということはすぐわかるだろう。


……内視鏡医はそう思って、中心部を写真に撮ってくれているわけです。しかし、毎回これだと、「わからない」ことがある。


たとえばヤクザが今のような「古典ヤクザ」ではなくて、もう少し市民に擬態しているというか、振り込め詐欺とかマネーロンダリングなどの「インテリヤクザ」だとしたらどうだろう。


基本みんなスーツを着ている。多少、サングラス率が高い印象はある。しかしそのスーツがわかりやすい白スーツではない。わりと普通の、あるいは少しお高めのやつだ。


そういう人たちが玉入れをしているところを「クローズアップ」してしまうと……。

スーツ姿のおじさんたちにしか見えない。


こういうときは、コツがある。


人が集まっている中心にファインダーを向けるのではなく、へりの部分にピントを合わせるのだ。ヤクザが周りの一般人たちとどのように絡んでいるか、さらには、「周りの人たちとくらべて見た目が浮いていないか」を調べるのである。


中心だけをクローズアップしていると、「悪さ」があまりはっきりしないのだが、へりの部分では、通り過ぎる一般市民にこっそりケリを入れていたり、そこまでしなくともガンを付けていたり、あるいは、もっとふわふわした印象なのだけれど目つきが異様に鋭かったりする。

この「目つき」は、周りの一般市民と比べることではじめてわかる感じだ。そこだけ切り取られても雰囲気が伝わってこない。



話を病理解説に戻そう。内視鏡医たちは、いや、あらゆる臨床医たちは、「病理医が顕微鏡で病気を見ている」と言うと、おそらく頭の中で、「病気の中心部を拡大している」とイメージしている。しかし、病気の細胞が満ち満ちている真ん中を拡大して得られる情報は、(少なくはないが)言うほど多くないのだ。それだけで診断をするのはじつは難しい。「病気のへりの部分、あるいは正常との境界部分」を観察することで、誰が見てもわかる正常細胞との違いを比べて物を言うことができる。


あーそうだなー長々と説明してきたけど。


物の大きさを説明するときに、横にタバコの箱を置くとか、500円玉を置くとか、あるじゃない。「比較対照」を置く。あれ、客観視するためにとても大切なことなんですよね。病理医もよくやる。

2022年8月9日火曜日

ちはやふる最終回の感想をネタバレしない程度にただ書いただけの8月1日朝6時の日記

『ちはやふる』の最終回はマガポケで読んだ。8月1日の早朝、事前に既刊49巻をぜんぶ読み終え、さらに50巻に乗るはずの作品たちをマガポケに課金して読み終えて、つまりはお膳立てを完璧に整えて満を持しての最終回である。

読み終わって思わずツイートしたのは、「このネーム書くのに何年かかるんだ」という魂の叫びであった。「最終首」も今までと同じようにあくまで1首でしかないはずなのだが、とてもそうとは思えない。文字の量から想像できない情報量。それはまるで和歌のようである。

四方八方から集まって来た人びとが交差点で一瞬すれちがったところを切り取った集合写真、

あるいは老舗の文房具屋で万年筆を買い、それを目の前できれいに包装してもらったパッケージ、

すなわちここぞの一瞬に世界が完成した感覚。

そして、自分で出した例え話を早々にひっくり返して恐縮なのだけれども、「なんてきれいにたたむんだ」という言葉と同時に、「なんと美しいおひらきなのだ」という言葉も思い浮かぶ。あらゆる登場人物たちがこの先も歩いて行くのだという確信がコマの隅々にまで込められていた。



これはおそらく末次先生の無意識が為しえた技なんだろうけれど、あるいは意図していたとしたらなお、すごいな、と思ったこと:

多くのマンガの最終回で、登場人物の目線の向く先は、基本的に1箇所である。どのコマにおいても、モブは主人公を見つめ、ヒロインはヒーローを見つめ、主人公は未来を見る。

しかしちはやふるでは違った。

「みんな、そのとき周りに世界がきちんとあればこっちを向くだろうな、という方向を、思い思いに向いている」のである。

視線が誘導されきっていない。ぼくはそれが本当にすごいことだなと思った。全員が誰かのためではなく自分のために生きているということ。登場人物すべてに周囲・環境との関係が生じていなければそうはならないのである。



マガポケは講談社のアプリ/ウェブサービスであるから、本誌のデザインをそのまま掲載している(はず)。その最終回の最後のコマに、「末次先生の次回作にご期待ください」などの文字が一切入れられていないのがよかった。それはもう、とてもよかった。

2022年8月8日月曜日

病理の話(685) ご本尊が取れていませんよ

今朝も元気にマニアックな話をします。


ゴルフする人いる? ぼくはしないけど。ゴルフってあの砂場あるでしょう。砂場。バンカー。あそこにボールが入るとドボって音がして埋まるよね。


で、その、埋まったボールの周りの砂が、クレーターみたいにふきとぶじゃないですか。あれ不思議だよね。直接ボールが当たってるわけじゃないのにさ。悟空が気を発したら周りがボッって吹き飛ぶみたいなもんでしょう。


ハイスピードカメラで見ると何が起こってるかよくわかるよ。ボールが砂にめりこむ→ボールが当たった部分の砂がまわりに勢いよく押し出される→その砂によって元々あった砂が吹き飛ぶ。つまりはこれ、玉突き衝突みたいになってるわけよね。


で、ですね。


同じことはたとえば、隕石がユーラシア大陸のどこかに落ちました、というときにも起こると思うんだよ。想像したくもないけど。ツンドラの中に隕石が落ちて周りの木や土がなぎ倒されて、それこそクレーターになってしまうことが、あり得るとは思うわけよ。


そこで周りに住んでいた人たちがびっくりして、クレーターに近寄っていく。ああ、ここから土がえぐれている! と。木々がすっかりなくなってしまっている! と。

続いて想像するわけです。「何かが落ちてきたんだな!」「隕石か!」「人工衛星が墜落したのかもしれない!」


しかしこのとき、クレーターの中にはまあ、近寄らないよね。コワイもん。

そして周りだけ見ていると、いつまでたっても、「本当は中に何が起こったのか」はわからないわけじゃないですか。


本当はマッドサイエンティストが盛大に実験に失敗して大爆発を起こしていたのかもしれない。

地球外生命体が恒星間探査機によってやってきて激しく着陸したのかもしれない。そのあたりをよく探すと異形の生命(便宜上の定義)がうようよいるかもしれない。

悟空が修行してるかもしれない。



クレーターの端っこを観察することで、「外周に円形・環状に変化を及ぼすなにかが、中心のあたりにあるだろう」ということはわかるけれど、それが何かは(あたりまえだけど)わからないんですよね。


同じことが病理診断にも言えるんですね。


病気がある部分の、「まわり」にも、いろいろなことが起こるんですよ。

たとえば虫垂炎(いわゆるモウチョウ)という病気があるけど、あれは、虫垂というちっちゃな小指みてぇな臓器にばい菌がついて、炎症(バトル)が起こるんですが、その炎症って虫垂だけじゃなくて、まわりのお腹の壁にも及ぶのよね。とばっちりというか。火の粉が飛ぶという感じで。

ほかにも、たとえば、肺の中にできものができたとする。そのできもののまわりの、「クレーター部分」に、炎症が起こるときがあるわけです。

そこで医者が、「できものの正体を探ろう」と思って、マジックハンド的なもので、細胞をちょんとつまむ。

このとき、周りのクレーター部分をつまんでしまうことがあるんですよ。

すると、「中に何かがあるんだろうな」ということはわかるけど、中心にあるのがなんなのかは、わからないんですね。




いやいやクレーターのへりを調べて満足すんなよ! 真ん中にいけよ! と思うでしょ?


でもね、クレーターって地面に広がってるからいわば二次元ですけど。


肺の中のできものって、そうじゃないんですよね。クレーターというよりもそれこそ、「ドラゴンボールの孫悟空がまとう気(エネルギー)のように、病気のまわり全部になんらかのボワボワした影響が及んでいるわけだよ。


そこをマジックハンドで貫通して中のものだけとってこられるか、って話になってくる。できることはできるんだけど、状況によるでしょう。血が出るかもしれないし。



今日はなんの話かって?


病理診断は細胞を顕微鏡で見て行うんですが、そもそも、「病気そのものをきちんと現した細胞」をとってくることが難しいんだよ、っていう話ですね。


現場では実際に、このような会話がなされている。


「うーん今回の検体、”ご本尊”がうまく取れてないですね。周りしか取れてない。」


ゴルフとか隕石とか悟空の気とか言っても、現場の医者たちはピンとこないから、なんか、わかりやすい言葉がないかなって思って、とりあえず一言でそれとなく伝わる「ご本尊」という言葉を用いています。仏教さすがだよな。

2022年8月5日金曜日

あるいは油のしみ込んだ文化焚き付け

肉と魚の割合を考えながら日々をくらしていると、肉と魚の割合を考えるなんてつまんねえ日々だなという感想に多少なりともたどりつく。

べつにいいじゃねぇか、どっちだって、という投げやりな心がかならず鎌首をもたげる。

同様に、読書と運動のバランスを考えている休日、バランスから逃げ出したい気持ちが脳のどこかにかならずこびりついている。

偏りてぇー! 偏っても大丈夫だよって言われてぇー! むしろその偏りが体に悪いんだと教えてくれた人たち全員だまっててくれぇー!

的なことがある。




それにしても医者というのは気づいたら健康や予防の話ばかりしている。ツイッターで医者を多くフォローしていると、清く正しく長くおだやかに暮らそうと思ったら、大量のチェックリストを今日も明日も何度も読み込んでいかないとぜんぜん無理じゃねぇかという気分になる。もちろん医者の言い分もわからないわけではない。先に注意喚起をしておかないといけない。あとからブツブツ文句を言われても困る。しかし……ま、余計なお世話だよな、と感じることも、たまにある。

先日、「経済回そうと思って感染対策を二の次にした人たちによって、感染が激増して商売がなりたたなくなり、結果的に経済が回らなくなっている」という趣旨のツイートをしている医者がいた。これはいわゆる「だから言ったのに」というやつである。

ああ、「だから言ったのに」。

とても嫌いな言葉だ。

現在の解釈を過去に求めること自体は間違っていないし、誰もが当然やることだけれど、「過去を後悔によって意味づけること」を他人に共用/強要することは下品で下世話だなと思う。



現在とは「なるようになってしまう」ものである。目の前で展開するもろもろは、自分ではどうしようもないことが多く、選択肢のどれを選んでも偶然にのみこまれてしまって、本当は何も選べてなんていない。しかし、過去は違う。じつは過去こそ選択可能なものである。通り過ぎた過去を人間はいかようにも解釈できるからだ。あれは成功だったなと思えばそれは成功だし、あれがよくなかったなと考える心が過去を失敗にする。「だから言ったのに」は、他人の過去を勝手に後悔に寄せていくお節介だ。動かせたはずの過去を悪い方に固定するタイプの暴力なのである。



医者はときに「だから言ったのに」で患者を殴ることができる。もちろん大多数の人はそんなことをしない。しかし、ごく一部のだらしない医者がつぶやいた、可燃性の高い言の葉が風に舞い散らかされるように飛び込んで来るのがツイッターだ。タイムラインはいつも乾燥していて、カラカラにひからびた「だから言ったのに」がどこかからか吹き込んできて部屋のすみにたまり、何かの拍子に火が付いて一瞬で燃えて灰になる。

偏らないほうがいいけど人間ときには偏るものだ。

医者の言うとおりにしたいけれどときには守れないこともある。

そういったことをすべて「だから言ったのに」で片付けようとすることは短絡だ。カラッカラに乾いている。もっとしっとりすればいいのになと思う。

2022年8月4日木曜日

病理の話(684) 顕微鏡が得意な人じゃないと病理医になれませんか

キャリアに悩む研修医から、進路の相談を受けていたときの話。

「病理医って魅力ある職業だなとは思うんですけど、やっぱり顕微鏡が好きな人じゃないと、働いていて辛いですよね?」

と言われた。ほほう、と思って先をうながす。

「学生時代にちょっと使った以外に、これまで顕微鏡はほとんど見たことがないんですよ。細胞の形がどうとかも全然わからないし、レンズとかの知識もあやしいし。なにより、学生のときは、長時間レンズを覗いていると酔ってきちゃって……あんまり顕微鏡向いてないなあ、って思ったんですよね」

と続ける。



とてもよく言われる話だ。「病理医は顕微鏡で細胞を見て診断を書く仕事」なので、多くの人からすると、「顕微鏡を見て」の部分がキモで、そこに労力と時間を割くべきなのだろうと思えるのだろう。

たしかに、「顕微鏡を見て」の部分は、他の臨床医が基本的にやれない、「病理医オリジナル」の部分なので、キモではある。

しかし、たとえばぼくは、朝の6時半から夜の6時半までの12時間で、顕微鏡を見ている時間はたぶん3~4時間程度しかない。3分の1、もしくは4分の1しか顕微鏡と向き合っていない。

キモだけど労力と時間は割いてないのだ。



ぼくは病理医生活15年、医師免許をとって19年くらいのキャリアを積んでいるから、顕微鏡でプレパラートを見るときの処理速度が早くなっている。だから1日の間でちょっとしか顕微鏡を見なくてよい。……これは理由のひとつだが、ひとつでしかない。

実際には病理医の仕事は、顕微鏡の外にあるのだ。


1.臨床医が細胞を採取したタイミングで、患者にどのようなことが起こっていたのかを、臨床医と同じ知識を用いて考える。いわば「バックグラウンドを理解する」こと。

2.顕微鏡で見えた細胞の形状が、無数の文献のどの細胞と似ているかを照らし合わせる。いわば「教科書や論文と仲良くなる」こと。

3.顕微鏡で見た細胞の様子(所見)を、誰が読んでもわかりやすい日本語で書く。いわば「実況中継をする」こと。

4.顕微鏡で見た細胞の様子(所見)から、病理医として結論(診断)を導く。いわば「名付け親になる」こと。

5.臨床医が患者をみて、血液検査や、CTなどの画像検査を経て、病理診断まで行った結果、患者がどのような病態であるのかを総合的に判断するための手伝いをする。いわば「主治医の参謀である」こと。

6.病院の中の誰よりも多くの患者をみる立場で、病気の珍しさや特殊さに鋭く気づき、その内容を後世の医療者たちに伝えるべく論文を書く。いわば「病院に君臨する学者である」こと。


これらはいずれも顕微鏡というキモに錨(いかり)を下ろしつつ、実際には顕微鏡を覗かずに、教科書や論文、ときには臨床医の頭の中、患者の体の中を覗き込むことで行われる。





よく、病理と料理は語感が似ていると言われるが、「病理医といえば顕微鏡! だから顕微鏡が得意でないとだめ!」というのと、「料理人といえば包丁! だから包丁さばきがうまくないとだめ!」というのは確かに似ているなあと感じる。

包丁さばきがうまいだけで料理人になれる人はたぶんほとんどいないと思う。創作のアイディア、食材の知識、客とのコミュニケーション、そして経営の手腕など、さまざまな場面で総合的に「料理人」としての能力が試される。

それといっしょだ。顕微鏡だけが病理医の資質ではない。所見記載のアイディア、病気の知識、臨床医たちとのコミュニケーション、そして医学論文執筆の手腕。

たしかに顕微鏡というのは他の職業人があまり使わない、特異な道具である。しかし、顕微鏡に一日中向き合っている病理医というのは、一日中おさしみを切っている料理人のようなものだ。それも極めればひとつのプロにはなるだろう、でも、たいてい、ほかにもやることがある。

2022年8月3日水曜日

それはすなわち光ファイバーである

「タブロイド紙」という言葉もあまり聞かなくなった。いや、正確にはまだまだぜんぜん現役なのだけれど、タブロイド紙について言及する人が身の回りにいないのだろう。

この、「タブロイド」という言葉のまわりをたゆたう独特の「うさんくささ」は見事だなあと思う。

語源を調べると、タブロイドとは低俗とかゴシップのような意味は本来まったく持っていないので少し驚いた。「粉末の薬が当たり前だった時代に、ある会社が粉薬を小さく圧縮した錠剤(タブレット)を作り、それをタブロイドと命名した」という。一連のエピソードの中に雑誌とか写真週刊誌的な意味は一切ふくまれていない。

(参照先: https://gogen-yurai.jp/tabloid/ )

ではなぜ一部の週刊誌をタブロイドと言うかというと、それは、粉薬が錠剤になったことを「小型・持ち運びに便利」ととらえて、「タブロイド(のように小型である)」というニュアンスが加わったからなのだ。それまで存在した新聞とくらべて判型が小さく、報道内容もかんたんで写真などが加わっているものを「大手新聞」に対して「タブロイド紙」と呼んだようなのである。ははーなるほどねーという感じだ。少し前の日本人の語感であらわすなら、「ハンディ紙」や「モバイル紙」くらいの意味なのだろう。


ただ、そのような語源はともかく、かつてのわれわれは、週刊誌すべてをタブロイド紙と言うのではなく、とりわけ俗っぽい、どちらかというと闇と性と金のにおいがするものを選んでタブロイド紙と呼称していたように思う。これはひとえに、「タブロイド」という言葉のもつ「感性にうったえかける俗っぽさ」によるものかもなあ、と考えた。


ほかの人は知らないが少なくともぼくは、アンドロイドとかメトロイドなどの○○ロイドという言葉からは硬質で、銀色と深緑色が混じったようなカラーリング、もしくはひやりとした触感を感じ取る。そこに「タブ」、特に「ブ」が濁りを加える。言葉の意味は知らなくても印象として「したたか」で「憮然としていそう」で「殴っても効かなさそう」で「王道ではないのかもしれない」という感じ。

ファーストガンダムに「ジャブロー」という地名が出てくるが、あれを最初に音として聞いたときの感覚と混じる。


そして、つまりはそういう、「元の意味なんて特に知らなくても、深い由来なんてわからないままでも、語感だけでしっくりくればそれが一番ええやんけ」というノリこそがまさに「タブロイド紙」の真骨頂なのかもな、などということを考える。


今、タブロイド紙という言葉を使うのは主に45歳以上の人ばかりであろう。それより若い人にとっては語感ごと用済みになった。代わりにあるのはTwitterだ。言葉の響きが軽快で軽薄である。硬質で、薄い青と白が混じったようなカラーリング、もしくはつるりとした触感。「元の意味なんて特に知らなくても、深い由来なんてわからないままでも、語感だけでしっくりくればそれが一番ええやんけ」の部分は全く変わらない。いきいきとした低俗、それこそが、かつてタブロイド紙が世に与え続けた食物繊維的な栄養である。一切吸収されず、ただ排泄をスムースにするために取り入れなければいけない「栄養」があるのだ。

2022年8月2日火曜日

病理の話(683) 因果をさぐる難しさ

病理医が顕微鏡で細胞をみることで、わかることは山ほどある。


そこにどんな細胞がいるのか? その細胞はほかの細胞とくらべてどのように違うのか? 組織におけるタンパク質や脂質、水分などの含有割合が正常とくらべておよそどれくらい変化しているか?


こういった「何がどこにどれくらいある」の情報は、病理診断がもっとも得意とするところだ。



一方で、「何がどうなったからこうなったのか」……つまりはメカニズム、あるいは因果関係みたいなものは、一目見ただけで判断するのはとても危険である。



一例をあげよう。



大腸カメラをやって、カメラの先からマジックハンドのような鉗子(かんし)を出して、粘膜を摘まんでとってくることがある。生検という。だいたい小指の爪の切りカスくらい、あるいはその半分とか1/3くらいの小さなカケラをとってくる事が多い。

そうやってとってきた検体の表面に、細菌がついていることがある。これを見て、「ああ、ここに細菌がいるな~」と判断することは間違っていない(あたりまえである)。

しかし、その細菌が「病気を引き起こした原因」かどうかは見ただけではわからない。

大腸カメラでとってきた検体が「がん」だったとする。顕微鏡で細胞を見ればわかる。その「がん」の近くにも細菌がついているケースがある。そこで「あっ、この細菌ががんを引き起こしたのだな」とは、考えない。考えてはいけない。

そもそもがんというのは、最初に体の中に発生してから目に見えるサイズに育つまでに5年とか10年とか、一説によれば20年とかかかっているらしい。昔からそこにあって、じわじわ大きくなって、ようやく大腸カメラで見えるレベルに育ったわけだ。

今その病変をとってきて、そこにいる細菌が、10年前の「発がん」に関わっているわけがない。細菌の寿命は1年もないからだ。



つまり、「そこにいる」は「それが原因である」を示さない。顕微鏡でそこにあるからといって「それが原因だ」と言うのは不正確……というかたいていの場合大間違いである。

がんもそうだが、それ以外の病気、たとえば心臓病とか脳の病気など、命にかかわるような病気は、もともと人体が「重大な病気にかからないためのセーフティシステム」を準備している。細菌とか、化学物質とか、ひとつ、ふたつ取り込んだところで、それらのセキュリティは突破できない。例外として、物理的に体を破壊するとか、強い毒でただちに体のあちこちを溶かしてしまうといった、「セキュリティ関係無しに美術館をぜんぶぶっつぶす」みたいなことがあると突破されるが、そういうわかりやすいものはそもそも顕微鏡でみてどうこう判断するものではない(顕微鏡を使う前にはっきりわかってしまう)。


おわかりだろうか。「顕微鏡で見たらわかった! こいつが単独犯だ!」ということはない。顕微鏡で見なければわからない時点で、そいつの存在は些細なので、ほかの要因と複雑にからみあわなければ病気につながることはないのだ。


以上を踏まえた上で言うと、「顕微鏡を見てわかった、病気の原因はこれ!」と「単独犯」があるかのように書かれた記事、しゃべっている人は、医学を十分に理解していないか、もしくは、意図的に無視している。


では、顕微鏡で見てわからないというなら、「病気の原因」はどのように解明されているのか? たとえば、タバコ。あれが体に悪いというのは、誰がどのような手段で証明したのか?


それは疫学・統計学である。タバコという物質を摂取した人と摂取しなかった人をいっぱい集めて、「割合」を比べるのだ。タバコを吸っていない人10万人と、タバコを吸っている人1万人を連れてきて、それぞれある病気Aにかかった割合をみる。


タバコを吸っていなかった10万人の中に、ある病気Aの人が100人いたとする。

タバコを吸っている人1万人の中に、ある病気Aの人が80人いたとする。


あ、吸ってない人のほうが多い! じゃないのだ

非喫煙者10万人の中の100人といったら0.1パーセント。

喫煙者1万人の中の80人といったら0.8パーセント。

割合を見るのだ。あきらかにタバコを吸っている場合のほうが割合が高いだろう。

こういったデータをさまざまに集めていっぱい検証して、はじめて「タバコは体に悪いんだな」という解釈にたどりつく。



病理医がタバコによって真っ黒になった肺を見ると、「ああ、タバコ吸ってんだな」とわかる。タールなどに含まれる色素が、マクロファージに取り込まれて肺に沈着するので、何年も吸っていればすぐにわかる。

しかし、そこに何か病気があったとして、病気のまわりがタール色だったからと言って「タバコだからこの病気になったのだ」みたいな軽薄なことは、病理医は言わない。言ってはいけない。

それを決めるのは顕微鏡の所見ではないからだ。割合を検索してはじめてたどり着ける。

では、因果を探る上でまるで顕微鏡は役に立たないのかというと……ちょっとここ、難しいのだけれど、そうではない。


「割合を検索したいと思えるような現象」が起こっていることを最初に見つけ出すのは顕微鏡だったりするのだよ。「しっかり研究するためのきっかけ」的な。そのへんのニュアンス難しいんだよなー。

2022年8月1日月曜日

脳だけが過去をする

同僚がずっとため息をついているのでこちらも沈んだ気持ちになる。「何かつらいことでもあるのか」とたずねたところ、「あっ、ため息ついてましたか」と自身で気づいていなかったらしく、以降1時間くらいはおとなしくなるのだが、その後またため息が復活する。翌日もため息。週が明けてもため息。くせになっているのかもしれない。あるいはガス抜きになっているかもしれないのでそこからはもう放置することにした。今日もぼくは、何度もため息が連続で聞こえてくる環境で少し集中しづらいなあと思いながら、自分の顕微鏡やPCで細胞を見たり原稿を書いたりしている。


若い頃の自分は、どれほどため息をついて暮らしていただろうかと思い出してみる、うん、思い出せない。過去はすべて地続きのままグラデーションを形成して現在につながっているが、10年前にこうだった、という記憶の多くは8年前や6年前に「反芻した記憶」である。何度も思い出すたびに誇張や忘却によって少しずつ調整されていく記憶の中の情景は、おそらく10年前のそれとはまるで違ってしまっている。過去の自分から連綿と続く伝言ゲームは伝達ミスが続いて元の痕跡をまるで残していないのだ。というわけで、ぼくは30代のころため息をついていた記憶がないが、しかしそれは、今のぼくと地続きの限りで思い出せる部分がなんとなくため息をついていない、という極めて脆弱な思い出であって、10年前に正確にタイムマシンで戻ってみればその瞬間ぼくがため息をいっぱいついているかもしれない。そういうタイプの「無自覚」は確実にあると思う。


ところで、軽くタイムマシンという言葉を使ってしまったが、実際には過去というのは存在しないだろうなという感覚はある。脳が五感で収集した世界の情報を「時間軸モデル」にあわせて構築して仮想世界を形成することで、過去・現在・未来の概念がうまれてくるが、それは、YouTubeの再生バーを右左にぎゅいぎゅい動かすように、あたかも現在から一続きの時空がどこかに存在し、タイムマシンのような「機械」を用いることでいつかそこにアクセスできそうと錯覚させるものであるが、しかし実際には、物理現象はいつも「現在」という瞬間にのみ燃えさかっている。ひとつひとつの現象は一つ残らず、すべて漏らさず、燃え尽きてしまう。過去にとある場所に存在した原子の配列は二度と再現不可能。一度消尽したエネルギーは二度と復活しない。したがって過去は存在しない。未来も存在しない。時間が「流れている」のは脳内の仮想空間だけで、現在になにかしら流れているものなどない。時の流れという言い方は便宜上のもので、移動速度や変性速度、化学反応の速度を言い表すために単位として生じた「時刻」を目盛りとして刻んだときに見えてきたものに過ぎない。過去も未来も存在しない、より正確に言えば、過去があるのは脳内の仮想空間だけであって、現実の空間には過去はない。


ところで、コンピュータもまた人間の脳と同じように、時間という本来存在しないものを電脳空間に仮想的に顕現させるはたらきを持っている。隣人の付いたため息はとっくに四散してしまい、現在だれの耳にも肌にも届かない、つまりため息という過去は現在が通り過ぎた瞬間に霧消したのだが、ぼくの脳はまだ彼のついた重めのため息を覚えている、つまりぼくの脳内にある過去には彼のため息がまだ実存している。仮に、ぼくの脳がこれをすっかり忘却したとしても、今こうしてブログに書いて電脳空間に放流してしまうことで、コンピュータは、インターネットは、彼のため息を電脳仮想空間の過去に刻印してしまうのだ。こうしてため息は現在から切り離されても過去に固定させられる。仮想空間の過去からグラデーションを形成してつながる彼の現在にため息は存在しないが、ぼくの脳内と電脳の仮想空間にはいずれも彼のため息が過去として残存する。また隣人がひとつため息をついた、こうしてぼくの脳は過去を肥大させていく。むしろ脳の唯一の仕事は過去を作り上げることなのだろう、それはおそらく未来に向かってスリークォーターで何かを投げるために必要な、利き腕と反対側の腕の牽引なのだ。脳の仕事は時間を作ること、いや、もっと言えば、時間という幻想をやっていくこと。脳だけが過去をする。