2022年8月9日火曜日

ちはやふる最終回の感想をネタバレしない程度にただ書いただけの8月1日朝6時の日記

『ちはやふる』の最終回はマガポケで読んだ。8月1日の早朝、事前に既刊49巻をぜんぶ読み終え、さらに50巻に乗るはずの作品たちをマガポケに課金して読み終えて、つまりはお膳立てを完璧に整えて満を持しての最終回である。

読み終わって思わずツイートしたのは、「このネーム書くのに何年かかるんだ」という魂の叫びであった。「最終首」も今までと同じようにあくまで1首でしかないはずなのだが、とてもそうとは思えない。文字の量から想像できない情報量。それはまるで和歌のようである。

四方八方から集まって来た人びとが交差点で一瞬すれちがったところを切り取った集合写真、

あるいは老舗の文房具屋で万年筆を買い、それを目の前できれいに包装してもらったパッケージ、

すなわちここぞの一瞬に世界が完成した感覚。

そして、自分で出した例え話を早々にひっくり返して恐縮なのだけれども、「なんてきれいにたたむんだ」という言葉と同時に、「なんと美しいおひらきなのだ」という言葉も思い浮かぶ。あらゆる登場人物たちがこの先も歩いて行くのだという確信がコマの隅々にまで込められていた。



これはおそらく末次先生の無意識が為しえた技なんだろうけれど、あるいは意図していたとしたらなお、すごいな、と思ったこと:

多くのマンガの最終回で、登場人物の目線の向く先は、基本的に1箇所である。どのコマにおいても、モブは主人公を見つめ、ヒロインはヒーローを見つめ、主人公は未来を見る。

しかしちはやふるでは違った。

「みんな、そのとき周りに世界がきちんとあればこっちを向くだろうな、という方向を、思い思いに向いている」のである。

視線が誘導されきっていない。ぼくはそれが本当にすごいことだなと思った。全員が誰かのためではなく自分のために生きているということ。登場人物すべてに周囲・環境との関係が生じていなければそうはならないのである。



マガポケは講談社のアプリ/ウェブサービスであるから、本誌のデザインをそのまま掲載している(はず)。その最終回の最後のコマに、「末次先生の次回作にご期待ください」などの文字が一切入れられていないのがよかった。それはもう、とてもよかった。