2020年8月31日月曜日

律動のために

「ご飯を食べたあと、歯を磨くことが大切である」。こう書けば何もおかしいことはない。

しかし「職場でご飯を食べたあと、職場で歯を磨くことが大切である」とすると、とたんに頭の中にボワッと、仕事用のデスクでモニタを見ながら歯磨きをしているイメージが浮かぶ。猛烈にはたらく中年としては、つい、「なんかなー」という気持ちになってしまうものだ。

しかし、そういうイメージを乗り越えてなお、ぼくは職場で歯を磨く。朝食は家で食べているので歯磨きも家でするが、昼と夜は多くの場合職場で食べる。そしてその都度歯を磨く。

最初はちょっと気恥ずかしかった。しかしこれは絶対にやったほうがいい。若い人にも勧めたい。

職場で歯を磨くことでぼくはあきらかに健康になっている。歯がきれいになるだけではない、全身の状態が微弱に上向いているのがわかる。なぜだろうな?





何度か「一病息災」という言葉を書いてきた。

病気がまったくない人よりも、どこか病気がひとつある人のほうが、病院にかかったりセルフメンテナンスをしたりするきっかけがある分オトクだ、という意味の言葉である。

病気があるからこそ自分の体に興味を持ち、結果的に全身のあらゆるものに対する目配りができる。そうすれば、自分の体の不調にいち早く気づいたり、少し調子が悪いと早めに休んだりできるようになる。

しかしぼくは最近、自分の体を気にするきっかけが「一病」である必要すらないなと思いはじめている。その役割はきっと、「一歯磨き」に担わせてもいいのである。




歯磨きこそはもっとも身近な定期メンテである。風呂や睡眠よりも多い頻度でに行うことが可能だ。

歯磨きの最中はあまりキータッチができない。スマホをフリックしたり、ウェブサイトをスクロールしたりはできるが、それも日頃と比べるとのったりのったりである。「ながら」では十全のウェブサーフィンは難しい。しかしそれがまたいい。メリハリのきっかけになるからだ。

歯磨きというのはピットインに似ている。この間、歯をきれいにするだけではなく、オーバーヒートしかかった脳をクールダウンさせる。とにかくいつまでもだらだら働き続けて結果的に効率が低下しているときなど、歯磨きを一度挟むことで目に見えて復活して能率も回復する。個人的には15時間以上働こうと思ったら5時間おきに歯を磨いた方が多くの仕事ができるように思う。兵士がマシンガンをリロードするように淡々と確実に。プロスイマーの息継ぎがかろやかに、リズミカルに、間違いなく行われるようにきちんと定期的に。

歯磨きというのはのんびりサボってやるものではない。はたらくために行うのだ。





という話を知人にしていたところ、「途中からなんか雰囲気が変わったな」と言われた。彼はおそらく、「職場で歯を磨くという牧歌的なこと」「いまやデスクで歯も磨けるというゆるい仕事環境」についてぼくが語ると思っていたのだろう。

そういう人たちはよく、「仕事中にツイッターできるなんていいですね」などという。何もわかっていない。仕事中にツイッターするレベルで脳をはたらかせていないあなたがたの方がのんびりゆったりしている。なぜそのことに気づかないのだろうかと不思議に思う。海女さんが息継ぎしないで真珠をとったら初日に死ぬだろう。浅瀬でしおひがり程度の人には息継ぎの必要は感じられない。歯磨きも、ツイッターも、生きるための技術である。どうもこのテンションがわかっていない人は、ツイッターもあまりやらないし、きっと歯だって磨いていなくて、たまに虫歯に苦しんでいたりするのだ。

2020年8月28日金曜日

病理の話(448) 病理診断科ではたらく未来をイメージしてもらう

初期研修医が1か月だけうちの病理にやってきている。

将来病理医になるかもしれないし、ならないかもしれないという。

このあと、初期研修でほかの科も一通り回りながら、進路を決めていくことになるとのことだ。


病理以外に、内科系のいくつかの科、あるいは放射線科も考えているという。それぞれタイプの違う科だ。

これまでの経験上、けっこうな量の医学生や研修医が、まるで違うタイプの科どうしで進路を迷っている。


誰もが自分の適性を自分なりに想像し、各種の職業との相性を考えようとするのだけれど、実際には自分が何に向いているかなんて一生わからない。

だから進路選択の決め手となるのは、「そこで自分がはたらいている未来」をイメージできるかどうか。

この科なら楽しく充実してやっていけそうだな、と思えるかどうか。

その判断基準は無数にあるし人によって異なる。


外から見ていると、

「へえー神経内科と病理で迷うんだ。おもしろいね。まるで働き方が違うじゃん」

と思いがちだが、その人の心の中では、「自分がはたらく未来」をぼんやりと思い浮かべたときに、その2つの科にそれぞれ魅力が感じられるのだろう。




病理診断科ではたらく未来を想像してみたい、という人に向けて、いろいろなことを話す。


「医者相手の仕事であり、本をかなり必要とする仕事ですよ」


「細胞にクローズアップしつつ、人体の理(ことわり)をロングショットで俯瞰する仕事ですね」


「医者という高度な専門家から依頼を受けてうごくコンサルタント的仕事です。プロ相手にはたらくプロです」


「文章力があると楽しいかもしれないですね、推しのどこに着目して褒めちぎるか、みたいな感覚で、細胞の何を見てどう語るかという楽しみ方があります」


「個々の患者のためにはたらきながら、もう少し人数の多い集団に向けての基礎研究もできます。すなわちメラを撃ちながらイオも撃つみたいなところがあるということです」


「お金をもらうことばかり考えている人けっこういますけど、『お金をもらって使うこと』を考えると、単純におおくのお金をもらうことよりも、『お金を使うための時間をどれだけ取れるか』のほうが実は大事だと思うんですが、病理診断科はその点、ほどよいですよ」


最後のこの「お金の話」がときには重要だなーということをよく考える。SNSをはじめとする「体験談の場」ではネガティブな話題が目立つバイアス(偏り)があるため、事情あってうまくお金が稼げなかった人、自分のイメージしていた働き方と金銭との間に不満がある人の声ばかりが見つかる。そのためか、病理診断科はどちらかというと金に困る科だと思っている医学生・研修医もいる。偏見というのはいつの世にも、どこの場にもあるものだ。


事実、ぼくはさほどいい服を着ているところは見せられないし、車にしても家にしてもそうだ、飯、酒、いずれも自慢できるレベルでの金の使い方はしていない。しかし、ぼくは必要なだけのお金はもらえていると思う、これはもう自信をもって言える。ぼくが使いたいと思うタイミングで使えるくらいのお金は確保できている。努力と研鑽にみあった給料はもらえる仕事だ。



あと。おなじみの「AI医療が発達したら真っ先に病理医の仕事がなくなりますよね?」という質問にも注意しておく。ただ、AIブームが落ち着いてきたのか、最近はこの質問自体をあまり見かけなくなった。みんな飽きたのかも知れない。

それと、ぼくがAI病理診断の開発に携わっている姿を見せると、若手は一様に安心するようである。なぜならぼくがすごく楽しそうにAI開発をしているからだ。結局のところ、「楽しそうにはたらいている」ところを見せればさほど言葉は要らないのであろう。……ブログでそう書いてしまうと本末転倒なのだけれども、言語化できない部分のよさというものが、病理診断科にも確かにあるのである。

2020年8月27日木曜日

背が伸びました

 インタビューなどで「新型コロナウイルスによってなにか生活が変わりましたか?」と質問されることがある。


これ、答えづらい。いや、聞きたいことはわかるし、答えだって明確だ、「変わった部分と変わらない部分がある」と事実に即して回答すればいい。しかし「その先」を想像すると、やっぱり答えづらい。


その先とは何かというと、「そんなことを聞いて、答えを書いて、それがいい記事になるのか?」ということだ。このQ&Aにぼくが答えると、紙面が陳腐になるのでは、と直感的に抵抗がある。


もちろん、インタビューができあがってみると普通に読める。さすがプロだ。時候に即した問答だし、きちんと成立している。


でも読んで2日もすると、その記事を読んだ記憶どころか、質問された記憶や自分が答えた内容ごと脳から吹き飛ぶ。


我ながら、自分の言葉が長持ちしない。心に刺さらない。つまらん。


「そうですかー」「人それぞれですよねー」以外の感情が湧いてこない。


そういうことが何度か続くと、次に同じ質問をされたときには、「少しでもおもしろく答えないと先方にわるいな」というプレッシャーがかかる。でも新型コロナウイルスによって変わったことなんておもしろく答えようがない部分が多い。だからこの質問はいつもキツいなーと思う。


「学会に行けなくなったんですけど代わりにZoom研究会が増えたんですよ」


これ、そんなにおもしろいか? 自分で答えておいてアレだけどさ……。





ところでそもそも、変化しない人間は記事にできるのか。


「変わらぬ存在」なんて書きようがないのではないか。


長年ひとつの仕事を職人のように、あるいは芸術家のように続けてきた人に対するロングインタビューを読んでいると、途中で質問者が、


「こうして30年もの間、変わらずに一つのことを続けてこられたのはなぜですか?」


などと尋ねているけれど、その前後にはたいてい、


「何がきっかけでこの世界に入られたのですか?」


という質問がセットで存在する。結局、「変わった瞬間のこと」を尋ねている。そうしないと間が持たないのではないかと思う。




「どう変わったか」にこそ反応するというのは、人間の知覚のシステムとも似ている。眼球の知覚するものは基本的に動き続けているものばかりだ。背景で動かないものはいつの間にか知覚できなくなる。いっさい動かないものはバックグラウンドとしてカットする。そうしないと処理する情報が多くなりすぎるのだろう。


インタビューにおいて問われる「きっかけ」「理由」「感想」などはいずれも、究極的には「変化」をたずねるものだ。


そしてぼくは今回の新型コロナウイルスに伴う自分の変化がいまいちおもしろく感じられない。なぜだろうか。


おそらく、まだ、渦中にいるからなのだと思う。ぼくはまだシケインを曲がっている途中なのだ。感じているものと考えていることとのズレ、見てきたものと見ているものとのギャップ、そうしたものを埋めるに足るストーリーがまだ、ぼくの手元まできちんとやってきていない。衝突に伴う生成変化を語るだけの言葉が揃っていない。


「何か変わりましたか?」にきちんと答えられるほど、変わった自分を目視できていない。




……じゃあ東日本大震災のあと自分がどう変わったかとか、病理医になってから自分がどう変わったかとか、医学部に入った後に自分がどう変わったかとか、そういうことなら答えられるかというと、うーん、もしかすると、うまく答えられないかもしれない。自分が変わったことを認識することと、ソレを言語化して誰かに伝えることとはわりと別の能力なのである。インタビューって怖いな。受けるだけで人間が変わってしまう。

2020年8月26日水曜日

病理の話(447) 胸焼けのメカニズムを説明できる医学生は少ないという話

医学部ではさまざまなことを学ぶ。


今日はざっくりと、「医学部で習うこと」を列挙してみよう。大学や時代によってだいぶ異なるのだけれど、基本的な理念はそこまで違いはない。

まず、英語や数学などの「一般的な大学の教養科目」があるのだが、いくつかは選択ではなく必修となっている。ただし他学部でも学ぶ科目についてはこの記事では省略する。個人的には、この時期にやった英語は受験勉強のレベルを上回らなかったので、あまり記憶にない。ちょろかった。でも数学、とりわけ統計学は骨のある課題が提示されてかなり大変だった。今もたぶん似たようなものだろうとは思う。


さて、医学部独自の授業、すなわち具体的に医学・生命化学に直結する勉強のほうを見ていこう。


まずは生化学と解剖学から入ることが一般的だ。


生化学を学ぶのは、人体の基本的なしくみがケミストリー(化学)によって構築されているからである。細胞が酸素を使ってどうエネルギーを作り出すのか、あるいは窒素をどのように循環させるのかみたいな話を学ぶ。


今のこの3行を読んだだけでウェーとなるだろう。医学生も同じだ。しかしここで歯を食いしばって「さわり」の部分をわかっておかないと、あとあととても苦労する。


超絶ミクロの生化学とだいたい同時期に、いちばんマクロの部分、すなわち解剖学を学ぶ。骨学(コツがく)、筋学、神経学といった「表面」にあるものの配列をおぼえながら、独特の医学用語みたいなものに対する人間のアレルギー的なにかを払拭する。

今でも覚えているのは手の筋肉だ。虫様筋、というのがある。英語ではLumbricale muscleと書いた気がする。ググるといろいろスペル違いが出てくるのだがまあいいや、言いたいことはそこではない。このランブリカルというスペルを筆記体で書くと、エルとビーとエルの部分が上にぴょんぴょんぴょんと飛び上がるさまが、あたかも虫の足のようだな、などと思いながらこの単語を覚えた。解剖学以来、二度と使うことはなかった知識なのになぜか鮮明に覚えている。


生化学と解剖学が終わるころ、あるいは終わらないうちに並行して、生理学と組織学を学ぶ。

化学物質でのやりとり(生化学)から一歩、肉体に近寄るかんじで、実際に人間のカラダのなかで起こっている正常な化学反応を学んでいくのが生理学だ。ホルモンのはたらき。神経のメカニズム。心筋のしくみ。脳。こういったところをどんどん学んでいく。生きるための理(ことわり)、生きる理。生理。

生化学から生理学へと、人間に一歩肉薄するのとおなじ時期に、解剖学から組織学へと「レンズの倍率を上げる」。解剖学というのが人体模型にイメージされるような「肉眼」での勉強であるのに対し、顕微鏡を使って細胞そのものをがんがん拡大していくのが組織学である。


こうして、ここまで、生化学・解剖学、生理学・組織学と、人体のしくみばかり学ぶ時期が続く。なかなか病気の話は出てこない。


大学の3年生前後になるとようやく「人体に起こる異常」のジャンルがあらわれる。これがいわゆる病理学だ。そしてこの時期、一気に、薬理学(薬のメカニズム)、微生物学(細菌やウイルスの話)、免疫学(細菌やウイルスなどに対抗する人体のしくみ)などを叩き込まれる。試験の難易度は高いのだが、なんだか少しずつ医者に近づいているような気になって、一部の勉強オタクは熱狂する。まだ部活に惑溺していたいチャラ男たちはこのころ大学をさぼりぎみになるが、それでも結局試験に通らなければ進級できないので、結局試験の直前(あるいは直後、再試前)には過去問をひっぱりだしてきてヒイヒイ勉強する。


このころ、地味に学ぶのが公衆衛生学だ。人体のリアルなうねうねした熱感と肉感のある学問とくらべると、公衆衛生学や疫学の人気は低い。ところがここでがんばったかどうかは、ぶっちゃけ、医者になってからの「知的能力差」として思いっきり現れてくるので油断できない。


こうして基礎からえんえんと、正常・異常を積み立てていって、4年生くらいになるとようやく「臨床医学」がはじまる。消化器内科(胃腸内科や肝臓内科、胆膵内科など)、脳神経内科、一般外科、耳鼻咽喉科、産婦人科、眼科、精神科、整形外科、地域医療、病理診断科、放射線科、麻酔科、救急科……。ひととおり学んだら1年前後の病棟実習だ。そしてすべての科に対する卒業試験が半年くらいかけて毎週のように行われ、それが終わったら国家試験の勉強をして、受かって、研修医になって、先輩の医療者たちにヒヨッコ扱いされながら生身の医療がスタートする。




で、今日いちばん言いたかったのはここからなんだけど、


これだけ勉強しても、実は、学んでいないことがいっぱいある。

たとえば、「胸焼けするのに腹ヤケしないのはなぜだろう」みたいなことは、医学部では学んでいない。



今のトリッキーな質問をもうすこし医者っぽく言い換えると、こうなる。


「逆流性食道炎(胃食道逆流症)では、粘膜にキズがついていなくても胸焼けなどの症状が出ることがあるのに、胃の出口付近にできる”びらん”が基本的に無症状なのはなぜか」


そしてこの質問に答えるためには、「痛み」をはじめとする症状のメカニズムと、それを説明する神経の配置、さらには患者の有病率や実際の臨床現場での診療センスなどがすべて備わっていないといけない。


痛覚メカニズム:生理学と病理学。

痛覚を及ぼすケミカル因子:生理学と生化学。

神経の配置:解剖学と組織学。

患者の有病率:臨床・消化器病学と、疫学。

実際の臨床現場での診療センス:臨床・消化器病学。


たとえばなしをする。医学生が6年かけて必死で学んできたのは、レゴのパーツひとつひとつだ。ときには「ガソリンスタンド」とか「消防車」みたいなものも作る練習をする。

しかし、臨床現場で遭遇する、患者であればだれもが気になる程度の簡単な質問、「胸焼けって何がやけてんの?」というのは、レゴでいうと「バットマンの悪役が住んでいる巨大なお城(まわりにジェットコースターが回っているやつ)」

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なみに無数のパーツから成り立っている。

これに答えるにはそうとう大変なのだ。胃と食道胃接合部とでは神経分布が違うということ、ケミカルメディエーターの関与の差、逆流を鋭敏に知覚することの合目的な意味をひととおり説明できて、かつ、実際にそれぞれの組織像を見たことがあるという経験、さらにはこれらをデザインよく組み立てる「解説力」までが必要となる……。



んだけどだいたいみんなレゴが好きなのでなんかつい作り始めちゃうんだと思う。若い医者はいいやつばかりだ。年を取るとこのあどけなさがなくなっていく場合がある。年を取ってもなおレゴを作っているタイプの医者は貴重なのでやさしくしてあげてほしい。



※おまけですが上のレゴは、先日くりいむしちゅーの上田が息子さんと一緒に作っていたとテレビで言っててすげぇなーと思ったのでいつかリンク貼ろうと思ってました。

2020年8月25日火曜日

いさめる男はイサメン

 イケメンという言葉もイクメンという言葉も微妙だなと思う。


なので並べてみた。


イカメン(イカである)

イキメン(鮮度の良い麵)

イクメン(そだてている)

イケメン(いけている)

イコメン(憩っている)


個人的にはイコメンが方言の香りがしていいと思う。





みたいな短いものを、20年ほどまえにホームページによく載せていた。今にして思うとこういう文章には先達がいっぱいいて、ぼくの目に触れるのはそういうのの中から選りすぐられた「達人」のものばかりであった。ネタツイという言葉がまだ元素の段階でしか世に存在しなかったころの話である。


あのときぼくにあったスケベ心は今もぼくの中にある。「クスッという文章を書けるのが一番いいよな」みたいな斜に構えたなにものか。中心を太く強く刺すのではなく、へりをこちょこちょとくすぐるようなユーモア、ウィット。


ところが、20年来抱えていたスケベ心は、中年という溶媒に流し込まれることですっかり溶け込んで見えなくなってしまった。中年という溶媒自体がうっすらとスケベ心の香りを発しているのだ、いまさらこんな薄味の媒質を世に出しても、もはやアイデンティティとして掲げることはできない。




思春期に自分の境界(ボーダー)をどこまで広げられるかと汗をかきながら、広い広い牧場のかたすみで柵を引っこ抜いては少し外側に立て、引っこ抜いてはカタチをゆがめていろいろやっていたあのスケベ心を、ぼくは今、牧場全体を俯瞰するドローンに乗って眺めている。牧場の外周には山が取り囲んでいて、ここは盆地になっている。ドローンの高度は低くて山の向こうはかすんでみえない。境界をちまちま動かしていた牧場の、柵の中にも外にも同じように草原が広がっていて、馬も牛も好きなようにやわらかそうな草を食んでいる。


そしてぼくは今も時々ドローンから地面にふわりと降り立って、視野を狭くして、柵の中から外をみるふりをするけれど、柵の中も外もそこそこわかってしまった今、山の向こうを見に行くのはおっくうで、ちょっと怖くもあり、まあもう少しこのへんの柵はかっこよく配置しなおしたほうが何かと見栄えがいいかななどと、ちまちま昔とおなじような柵の移動をくり返してみるのだけれど、かつてほどのヒリヒリした感覚、「自分は今、領域を広げているのだ」という快感は得られない。


ただしヒリヒリした快感はないのだが、憩う感じの快感もあるのだなと、柵にまたがってぶらぶらと足をさせながら、イコメンになっている。

2020年8月24日月曜日

病理の話(446) 病理診断のコンテンツとコンテキスト

タイトルは妙にソレっぽくしてしまった。ネットっぽい。内容はもう少しどろくさい。



病院で、医者が患者に、「これは○○ですね、△△です」と説明するシーンがある。

このとき、患者は、○○や△△について、医者と同じ理解をしているとは限らない。


基本的に、医者のほうがくわしい。ぱっと「○○ですね、△△です」と言われても、患者はどぎまぎするばかりで、そうカンタンには理解が追いつかない。


※ときに、患者の側が非常によく調べており、医者よりも部分的に詳しくなっているように見えるケースもある。しかし、実際のところ、患者は「○○に似た◎◎との違い」を区別することはできないし、「○○だけど□□です」のケースにも思いが及ばない。それはそうだ、医者はそういうことがわかるように訓練しているし、患者はそういうことがわかる必要がない。したがって「患者の方が医者より詳しい」ということは、局所的にはあり得るのだけれどもトータルではまずあり得ない。以上は蛇足。


では、患者は「○○ですね、△△です」と言われて、そこで医者に対して「わからんわからんわからん! わかるまで教えて!」とねばるかというと……。


これが、まあ、ねばらない。というかねばれない。


多少は質問する。不安だから聞いてみたい。しかし、「どう質問していいか」すらわからないので、たずねようがないのだ。


では患者はどうするか?


まあさまざまなケースがあるのだけれど、多くの人に話を聞いてみると、どうも以下のような対応をしている場合が多いようである。


「……ま、なんとなくはわかった、一部はわからんけど、医者を信頼しよう! 悪いようにはせんだろう」。


自分に起こった○○とか△△というものを全て理解して対処しようと思っても難しいのだが、その診断名や分析内容を担当してくれた医者を信頼することで、自分がぜんぶ理解しきっていなくてもいいや、というところまで心を持っていって、安心する。


となるとここで必要なのは医者の学力とか分析能力よりも、「人当たりのよさ」だったり、「また通いたくなる雰囲気」だったりするのだ。




さあ本項は病理の話。これと同じ事が病理診断にも起こっているということを書きたい。ここまでは前フリだったのである。




実は、ぼくらが「病理診断報告書」に書く病理診断の内容を、10割理解している臨床医はほとんどいない。


「○○ですね、△△です」のうち、○○もしくは△△までは理解しているというケースは多い。しかし両方とも完全に理解している医者は少ない。「まれである」と言ってもいいかもしれない。


「この細胞が作る高次構造には構造異型があり、細胞そのものにも異型があり、細胞内の核にも異型がありますね、従ってこれは高分化型管状腺癌です。」


このような説明を受けた主治医は、「癌です」の部分はきちんと理解する。また、前半部の、「異型があり」的な部分もわりとしっかり理解する。


けれども異型とはなにかと聞けばまず間違いなく答えられない


というかそこを判別できたらそれは病理医なのである。主治医は病理医ではないのだ。


「核異型くらいわかるよ」という臨床医もいる。しかしこれは「よく調べている患者」と同じことだ。「強い核異型がある」ことはわかるかもしれない、しかし、「異型がないケースと比べてなにがどう違うか」をきちんと言語化することはできない(できたら病理医である)。



となると、主治医は病理医のいうことを完全にわからないまま診療にうつることになるが、それでいいのか?



いいのだ。ただし、病理医の側から主治医に対して、「ここまでわかってくれればあなたがたの仕事には支障がでない」と示すことが望ましい。


そしてなにより、主治医が病理医に対し、「あの病理医なら、詳しく専門的な評価の部分をまかせられる」と信頼してくれていることが絶対に必要である。




以上の「病理医と主治医」の関係性はぶっちゃけ、「医者と患者」の間柄に近い。だから病理医はしばしば「ドクターズドクター」と呼ばれるのだろう。しかしぼくは(これまで何度も書いてきたが)この言葉があまり好きではない。


病理医が対面して対応するのは主治医だ、それはいいのだが、ぼくらが本当に相手にしているのは患者(の一部)である。「主治医にとっての医者」を気取るあまり、自分たちの仕事相手として患者が見えなくなってしまうようでは本末転倒だ。病理医もやはり「ペイシェントのためのドクター」であるべきだと考えている。だからぼくは、主治医に対して医者のように振る舞っていることを自覚しながらも、ドクターズドクターという言葉を使わないようにしているのである。

2020年8月21日金曜日

間欠泉

このブログ書いてるの、実は8月6日である。11日からの週を夏休みにしようと思って、2週間分を書きためた。

平日毎日更新しているけれど、リアルタイムでの毎日更新にこだわっているわけではない。24時間という地球のスパンはべんりだが、このブログに関しては、2,3日に一度くらい時間があるときをみはからって数日分をまとめて書いてしまうことのほうが多い。地球とか月はそっちで勝手に回っててもらうとして、ぼくはのんびりゆっくり「人間周期」で書けるときに書いていく。結果的にそれで2年以上続けて性に合っている、ぼくの体内時計はだいたい3日くらいのゆるい周期で回っているのだろうなと思う。

書きためOKのだるだるなブログだけれど、さすがに4月から6月の間はあらかじめ計画してブログを休んだ。そしてこの間、代わりにいろんなものを書いた。一番書いたのは医書ビブリオバトル関連のメールだろうか。ほかにSNS医療のカタチTVのための文章も書いたしnoteもあれこれ試行錯誤した。

もともと本職が無限に字を書くタイプだし(たぶん文字数だけなら昔の新聞記者なみに書いている)、論文や病理解説も延々とキーボードとの戦いになる(4月から6月には論文4本に関わったし新たに研究会を4つ立ち上げてさまざまにやりとりをした)。加えてブログ系の文章となるとこれはもう「すきま」に書くしかないのだが、4月からはSNS医療のカタチTVの準備が佳境に入ることもありさすがに「好きでやっているすきまのブログ」は無理だろうと思った。実際ツイートすらほとんどできなかった。休んで正解であった。

……けど7月に入って予定より早くブログを再開できた。これは皮肉なことに新型コロナウイルスのせいである。

感染症禍でぼくの出張がぜんぶZoomに置き換わり、研究会もウェブカンファレンスに移行した。結局仕事減ってないじゃん、ていうかむしろ増えたじゃんと泣いていたのだが、1週間のスパンで見ているとあきらかに週末に余裕が出ていたのだ。おそらく、「仕事と仕事のあいまの移動時間」がゼロになったためであろう。札幌在住のぼくはこれまで人生の数%を移動時間に費やしていた。デスクにいるままで遠方の人とZoomで研究会ができることはどこでもドアの実現であった。

平日はほんとうに夜中までえんえんとデスクにいる。書いても書いても、語っても語っても終わらない。うんざりする。しかし週末はぽかんと空く。野菜を愛でたりYouTubeを見たりできる。この時間に本を読んでブログを書けるなとわかった。そこで予定より早く再開した。SNS医療のカタチTVの準備もぼくの手を離れつつあった(プロがいっぱい手伝ってくれている)。

ただいうほど本は読めていない。量としてはいいが質的に「ぐっとくる本に巡り会う回数」が減っている。これまでは毎週、出張があるたびに本を数冊持っていって移動中にむさぼり読んでいたのだが、これがなくなったため、油断をしていると本を読まないままに1週間くらい経ってしまう。

思えばこれまで、「移動中は無駄な時間だから、せめて本でも読むか」というモチベーションに引っ張られて多くの名著に出会ってきた。フライトの最中に読んであまりに感動してそのまま読み終われず、到着後の新千歳空港のロビーでプラス1時間半ねばって最後まで読む、みたいなことがぼくの読書幅を確実に広げていた。今はそれがない。めくるめく本との出会いが失われていくのはたまらない、というわけでタイムスケジュールを睨んで新たに本を読む適切なタイミングを探っている。

人間の周期というものは脆弱で、環境、意識、こころ、さまざまな部分によってゴリゴリ変化する。ぼくは自分が3日周期の男だと思っていたが、いつまでこのまま続くものかはわからない。思えばどちらかというと何かに突き動かされるのは周期的というよりも断続的、あるいは間欠的である。このあたり、言葉のニュアンスの違いに気を付けながら自分を探っていかないといけないなあと思う。

2020年8月20日木曜日

病理の話(445) 細胞分化についてのマニアックなあれこれ

最近わりと初学者向けのことばかり書いてきた、これはたぶん、初期研修医が当院病理にやってきているからだろう。どうしても頭が「基礎からじっくりとモード」にならざるを得ない。

しかしここはブログだから本来ぼくが好きなようにやっていい場所だ。

だから今日はもう誰もついてこられない感じの話をする。そういうのが好きだという変態もたまにいるがぼくは変態のことは好きではないので、変態も置いていきたい。





細胞をドラクエに例えると、スライム、スライムベス、スライムつむり、バブルスライムみたいに「どれもスライムだけど微妙に形が違う」というイメージ。場所によって細胞には異なる役割が与えられており、その役割を果たすために独自の形状を示し、独自のアイテムをもち、独自の行動をとる。適材適所。スライムナイトが居る場所では、スライムナイトの剣が役に立つシチュエーションが存在するし(だから剣を持っているのだ)、ホイミスライムはさまようよろいにホイミをかけるために一緒に行動する(自分しかいないシチュエーションでホイミしか使えるわざがなければ攻撃手段がない)。

この、「アイテム」や「魔法」、すなわち「細胞がもつ装備品や特製」を病理医は見抜く。そして分類をする。




アイテムその1: 粘液。

ある種の細胞は、ねばねばの液体すなわち「粘液」を作って吐き出す。ねばねばにはいろいろと役割がある。粘性をもちいて何かを保持するとか、保護するとか、酸性度を調節するとか。グリスを塗るイメージ。細胞はかしこいね。

細胞が「粘液をつくるタイプだ」とわかったらそれで分類は一歩前進である。「腺上皮」という大分類の、「粘液上皮」であると確定できる。「スライム」という属の「バブルスライム的なかたち(なんかポコポコ生んでる)」まで決めることができる、ということです。

ただし気を付けて欲しいことがある。細胞がきちんと仕事として粘液を作り出している場合、自分の中に抱え込んでいては仕事にならない。粘液は放出するためにある! だからその細胞内部をいくら眺めていてもなかなか粘液は見えてこない。細胞と細胞がおりなす大きな構造物(細胞をレゴブロックに例えれば、お城)の部屋の中、あるいは通路の中などに、粘液が吐き出されていることを見て、「このそばにある細胞が作ったんだろうな」と推察する。

ところが、実際に、「細胞の中に粘液が閉じ込められている」というのを観察することもある。この場合、病理医は以下のように考える。

「こいつ、粘液を吐き出さなきゃいけないのにため込んでいやがる。何かが狂ってるんだ

何かというのは遺伝子でありタンパク質を意図している。細胞がおかしいことになっている証拠を、病理医は粘液の分布を見ることで一つ手に入れる。スライムナイトの剣がスライムに突き刺さっていたら(笑ったあとに)あわれむだろう、それは何かおかしいことが起こっている。

で、この「おかしいことが起こっている」というのを存分に発揮して、病理医は「がん」を見抜く。がん細胞というのは一番簡単に説明するならば「おかしいことになった細胞」なのである。



アイテムその2.細胞間橋。

細胞と細胞は徒党を組む必要がある場合が多い。手を繋ぎ、スクラムを組み、高次構造を作り上げる。組み体操的なイメージ。スライム8体が重なってキングスライム。上皮と呼ばれるタイプの細胞はほとんど間違いなく手を繋ぐ。ッカァー若いのに手なんかつなぎやがって!

これに対し、単独行動でなんとかできるタイプの細胞は基本的に血液の中を泳ぎ回っていたり、間質とよばれる(もじどおり)細胞と細胞の間をするする動き回っていたりする。代表的なのは白血球とか赤血球とか線維芽細胞といったやつらだ。

さて手を繋ぐだけで事が足りる程度の細胞は非常に多い。先に説明した腺上皮(粘液ほかをつくるタイプ)の細胞はキャッキャウフフと手を繋ぐ。たのしそう。

ところがこの「キャッキャウフフ」くらいだと仕事にならないケースもある。たとえばそれは皮膚だ。皮膚の細胞がキャッキャウフフ手繋ぎ程度でつながっていたら、ちょっとひっかいただけで皮膚はべろんとめくれてしまうし、おふろに入ったらものの数分で体に水がしみこんでくることだろう。すなわち「壁となってシャットアウト」するためには手繋ぎでは足りない。だからもうものすごい勢いでガッチリガチガチ結合する。

このガッチリガチガチは基本的には電子顕微鏡を使わないと見えないくらい小さい手を使うのだけれど、病理医が使うような光学顕微鏡でもときおりガッチリの痕跡が見えることがある。細胞と細胞のあいだに、納豆の糸よりもほそ~い糸状の構造物がチラチラ見えることがある。これを細胞間橋(さいぼうかんきょう。さいぼうあいだばしではない)と呼ぶ。

粘液があったら腺上皮だった。では細胞間橋があると? 扁平上皮という。



アイテムその3.神経内分泌顆粒。

「ああぁー厨二病くせぇ名前~」と思うか、「かっこええなあ、病理学最高」と思うかは、もう資質としか言えない。ちなみにぼくは前者であるがプロの病理医でもある。

神経内分泌顆粒というのは細胞がもつアイテムで、そうだなあ、イメージとしては「魔法の素子」みたいなものだ。マジック・エレメントである。妖精ゲットによって回復したい。個人的には温泉でMPが回復するのはわかるがHPは無理だと思う。話がずれたが遠隔に作用を及ぼすためのアイテムだと思えばそう間違っていない。

これを持っていると、その細胞は神経内分泌方向に分化しているということがわかるのだが(もはや専門用語を解説する気持ちがなくなっている)、実はこの顆粒、病理医が光学顕微鏡でただ観察しても直接みつけることはほぼできない。小さすぎるから? というか色素がうまく染め分けてくれないのだ。

そこで、免疫染色という技法を使ってこいつをハイライトする。ただ、実は、免疫染色を使わなくても、「神経内分泌顆粒がある細胞にみられがちな他の特徴」を見極めることで、間接的に「こいつ魔法撃ちそうだな」ということがわかる。

もう誰もついてこなくていいと思っているので例え話のオンパレードでいこう。魔法使いが魔法を撃つことはわかる。しかしMPを直接可視化することはできない。ではどうするか? 魔法使いはどんな服を着ているかを考えればいい。「ローブ」を着ていそうだろう。「とんがりぼうし」をかぶっているような気がする。「杖」を持っていることも多そうだ。「ロゼット」や「パリセイディング」、「ソルトアンドペッパーライククロマチン」などもよく知られている。ご存じでしょう?

今なにげなく読み飛ばした人がいたら恐縮だが、最後の3つは組織学用語である。なんだよこれ知らねえよ、とムスッとしなくても大丈夫、どうせ病理医以外は誰も知らない、普通の医者もまず知らない、それくらいのマニアックな専門用語。しかしやっていることは、杖を探して「こいつMPもってて魔法撃ちそうじゃね?」と予測しているというだけの話なのだ。

まあ、実際には、rosetteやpalisadingというのは細胞の衣服(ローブやとんがりぼうしや杖)というより細胞の配列を意味する言葉なのだけれど、そこは今日はどうでもいい(こういう注釈を入れておかないと本職の病理医が間違い探しのように指摘してくる。病理医は間違い探しが大好きだ。正解探しも好きである。ウォーリーを探せも得意である。ビョウリーを探せ、のネタで滑ったことがある病理医を何人か知っている)。





このように細胞のもっているアイテムを探すことで、その細胞が本来どういう機能を果たしているのか、あるいはその機能になんらかのエラーが起こっているのではないかと推測していくことができる。かつ、推測してやったぜって喜んでよかったよかったってご飯たべてお風呂入ってあったかい布団で眠るだけではなく、細胞分化をきちんと見極めることは治療において効果があるのだ。たとえばがん細胞が腺上皮の方向に分化している場合と、扁平上皮の方向に分化している場合と、神経内分泌方向に分化している場合では、効きやすい抗がん剤の種類が異なる(すごくざっくりとした解説)。

われらはべつにマニアックに喜んでいるだけではなくて普通に診断や治療のためにこれらをやっているのだ。温泉に入ってもHPはどうかな、みたいなことを言っているのも、別にぼくが言いたくて言っているわけじゃなくて、解説の必要性あってのことである。どうでもいいけど白魔導師と黒魔導師をそうりょとまほうつかいって名付けた堀井雄二って天才だよね。あ、でも元ネタはウィザードリィかなあ。

2020年8月19日水曜日

ねじまがって難しがって掘り進んでをやりたいジャンル

「マンガ・ドラえもんのすごさに今さら気づく」みたいなことがある。

あのボリューム、あの小さなコマ(セリフの分量)、あの最低限の線描で、うねるような物語を毎回展開するのは、本当にすごい。

俳句のようなそぎ落としの凄さには「センス sense」という言葉がよく似合うが、マンガのような映像+構成+セリフ回しの凄さは、センスという言葉だけでは語れないように思う。努力の痕跡もそうとう見てとれるし、かといって、努力だけでは乗り越えられようがない壁もあきらかに存在する。やばみが複合的とでも言うか……。

いいなと思ったところに「部分点」をどんどん加点していって、最後に出てくる総合点が「部分点の総和よりも多い」かんじ。ゲシュタルトとしてのよさ。言語化しきれない。



で、この、「マンガ・ドラえもん」にあたるものが、世の中のさまざまなジャンルに存在するのだろうな、ということをワクワク期待しながらいろいろと経験をしていく。人間にはそういうところがある。



映画ってたぶんそういうのすごく多いだろう。



クラシック音楽なんか「あらためてすげえ」のカタマリだろうな。



ゴルフとかテニスとかもきっとそうなんだと思う。




もちろん本もだ……。








この「もちろん本もだ」を見てうーんとうなった。

そういえば児童書、絵本、「昔好きで読んでた本ってやっぱすげえんだな!」ってことは実際にある。でもぼくは最近そういう「昔読んだ本の良さを再発見する作業」を忘れていた。どんどん難しい本に向かって突き進んでいる。前は読めなかった本が読めるよろこびばかりを追い求めている。




あらためて宮部みゆきとかを全部再読したくなる。「モモ」とかも読みたい。伊坂幸太郎なんて一冊も読んだことがない。




どうして本だけはひねくれてしまうのだ? マンガのように、マンガのように、「多くの人に愛されているもの」をきちんと摂取すればいいではないか……。




などと問いかける声はとても小さい。いいんだ、読書だけは自由なのである。ぼくはなんとなくこの数年で本に対する偏屈さが強化された。これは、「自分が書く側に回った」ことと無関係ではないように思う。

2020年8月18日火曜日

病理の話(444) 病理学の入口

これなーもうよくわからん……ぼくは立派なおじさんになってしまった。

自分がそもそも病理を学び始めた気持ちを失いつつある。

ああーこういうのを忘れないようにと、20年以上、ほとんどまいにち、「初心忘るべからず!」と唱えて三食昼寝をすごしてきたのに……。

「いずれぼくが病理を教える立場になったときに、これから病理を学ぼうとする人の気持ちを覚えていよう!」と心に誓ったはずだったのに……。

忘れた……。

自分が中学生くらいのときの気持ちを忘れた……。




「大学の途中から20年」じゃ、だめだった。もっとずっと気にしてなければ足りなかった。

中学生のときの生の感情をこそ、だいじに覚えておくべきだったのだ!!




最近のぼくは、生命科学の第一歩というのはおそらく中学校くらいから刻印されていくのだなと感じている。小学生、でもいいのだが、さすがにそれはちょっと強引かなーと思う。本人が自分で本を選べるようになったくらいのときに「第一歩」と言いたい、親が用意した本というのは言ってみれば「子どもが親におぶさっている状態」だ。自分の足で歩くことを尊重したい気持ちがある。

うーん残念だ、あまりよく覚えていないのだけれど、自分にとっての「病理学の一歩目」がどこだったろうかというのをむりやり思い出す。もっと精度良く覚えていたかったなあ……。




***




病理学の第一歩目は、おそらく、健康ってなんなんだ、病気ってなんなんだ、ということを「考えたくなる」ということ。

ここだろうなーと思う。もう少し生々しい欲求があったはずだけど思い出せない。言語化できない。





おそらく大半のひとびとは、「健康の定義」にあまり興味がない。

「元気なときは元気よ。不調になったら病気だろ?」

それ以上のことなんて考えないように思う。テレビでときおり「健康って結局なんなんでしょうね?」みたいな話をやっていると、そのときだけワァーと盛り上がるが、翌日には自分が健康でいることすら忘れて健康に暮らしてしまう。

ごく一部のマニアが、中学生くらいで、

「健康ってなんだろう……」

ということをモヤモヤ気にする。こういうタイプが大学で病理学を学び始めると、幼少時のモヤモヤに答えを与えられたような気になって、

「そう! 病気を定義するためには健康を定義しなければいけないよな! なるほどホメオスタシス(恒常性の維持)かァー!」

と気持ち悪いかんじで腑に落ちる。

この「腑に落ちる快感をくり返し得られること」こそが学問の中核にある。だから原体験としての「なんでだろうモヤモヤ」が弱いと勉強が続かない。ぼくはそう考えている。





さて今こうして病理医として働いていて、40も超えて、それでもなお毎日勉強しないと仕事にならないのだけれども、いい加減勉強するのも疲れたし、ほんとうは今まで蓄積した知識と経験と手癖と条件反射をもちいて、あまり考えなくてもサクサクお金が稼げるようになっていればそのほうがラクだなーとは思う。

でも勉強する。それはなぜかというと、毎日、一緒にはたらいている臨床の医療者たちが、

「これわからん、どういうことだ?」とモヤモヤした顔をして(あるいはモヤモヤした文章を書いて)ぼくに疑問を投げかけてくるからだ。

ぼくはそこに「疑問があるのか、だったら解こう、その最新の疑問を解こう、そうすれば最新の快感が得られるぞ」という報酬回路系を見て取る。

自分の原体験は忘れてしまったのだけれど、誰かのモヤモヤになんらかの「腑に落ちる感覚」を与えたいなと思うからこそ、病理学を学ぶ続ける気になるんだと思う。それくらいのごほうびがないと勉強はつらい、続かない、やっていけない。

2020年8月17日月曜日

脳だけが旅をする

行けなかった旅行先のことを思う。

旅先でおいしいご飯を食べたいならば、Googleで検索するよりも、インスタグラムで検索するといいんだよと言われて、試してみた。

とりあえず #沖縄 #ソーキソバ 。

あるいは #讃岐うどん 。

そして #五島列島 #うどん 。

……遠方の麵類ばかりになってしまったが別にフラジャイルの影響ではないぞ(たぶん)。




すでにグルメにたどり着いた人たちの「映え」が大量に表示された。感動がある。うわあすごいな。世の中にはこんなにうまそうなものがあるのか!

ひとつひとつの写真を拡大することもない。その画像にどれだけほかに情報があるのかと見ることもない。ただ、検索結果をロールしていく。

うまそうだ。しあわせそうだ。うまそうだ。しあわせそうだ。




実際にどのようなルートでどういう店にいつ行って何を注文すればこれらのうまそうな食べ物を実際うまいうまいと食うことができるのかはわからない。もちろん、写真をアップロードした人のところを見に行って、もっと文章を探したり追加で検索したりすればいいのだろう、それはまあわかっている、しかし、ぼくは思った。

「役に立つ前の情報も、脳を喜ばせる役には立つのだなあ」ということ。




ぼくはこうしてインスタグラムを見直したのだ。これはらくだ。ググるより簡単にしあわせのおすそわけが手に入る。実際にそのしあわせにたどり着くにあたり、どのような旅路をとればよいのかは、いっさいわからなかったのだけれど。

2020年8月14日金曜日

病理の話(443) すねさせないための説得力を身につける

まだ記憶にあたらしいところだが、先日、イソジンでうがいをするとコロナに効くんじゃないか、みたいなうわさがインターネットをとびかった。

このとき、多くの医師が、さまざまな学術論文を根拠に、「それはどうかと思う」という科学的態度を表明した。

科学的態度というのは検証をする姿勢のことである。

「いいね」や「おかしいね」をきっちり確認していくことを科学的態度と呼ぶ。

このとき、「いいね」や「おかしいね」は二択クイズではなく、ポイント制だということを覚えておいてほしい。

Aという論文が、イソジンが何かに効くらしいと言っている……ならば「いいね側に1ポイント!」

この「……」よりあとを省略してしまうと、それは科学とは呼ばない。

Aという論文が出る以前に、「イソジンではコロナの予防やできなさそうだね、よくないね」側のポイントがけっこう積み上がっている。なお、論文1つで1ポイントとは限らない。論文の質が高いと一気に20ポイントとか100ポイントとか入る。

ポイントの蓄積を無視すると、話がおかしくなる。

いいね側に1ポイントが加算されたからといって、「だから正しい!」とか「だからやる価値がある!」みたいに判断をすることを、非科学的な態度であるという。




もっとも、非科学的イコール悪ではないということにも気を付けなければいけない。

人間は自分の行動基準を科学だけでは測っていない。「そこにベットしてぇなー」という、主観を無視するのは、らんぼうだ。

科学という「検証に関する態度」で、誰かの行動を正しいとか間違っているとかまっこうから殴ってしまうと、殴られた方はたいてい、

すねてしまう。

このことはもう少しちゃんとかんがえておいたほうがいい。人間をすねさせることにはあまりメリットがない。






イソジンがコロナにある意味効くんじゃねぇの、的な言動に対して、多くの医者が直感的に反応し、「それはない」「それはない」と言い続けていた。

するとある人はこう反論した。

「でも、別の科学者はこうやって論文にしたんですよ」

「前にも○○大学の人がイソジンはいいって言ってたんですよ」

この人たちの言っていることは間違ってはいない。ただしそれは「いいねポイントが1つ加算された」だけの話である。よくないねポイントのほうがまだまだぜんぜん多いので、「科学的態度」をそこそこ理解している医者たちは、多数のよくないねポイントを抱えて、嬉々として殴りかかる。

でもそれではすねてしまうのだ。

「えっだってあっちの学者はいいって言ってたもん!」

これではこじれる。ポイント制だという説明をする間もない。




「すねる」ということがあるということを、科学をがんばる側はきちんと理解している必要がある。





今日のブログは「病理の話」だ。ここまで病理に関係のある話が出てこないようにも見えるが、ぼくは至っておおまじめに、今日の話を病理診断あるあるとして書いている。





たとえばある内視鏡医(胃カメラや大腸カメラを使う医者)が、胃の中をカメラでみて、病気らしきものをそこに見つけたとする。

カメラは今やハイビジョンだ。画質がいい。おまけに光学処理も加えることができる。ハイテク(死語)である。

内視鏡医はカメラの画面を見てすかさず、「あっこれは、がんだな!」と信じる。なにせハイテクだから見えちゃうのだ。

そして念のため、病変部から細胞を採取して、病理医に渡す。




ところが病理医が顕微鏡を見たところ、そこにはがん細胞はみられず、かわりにがんとは異なる別の病気がうつっていた。

病理医は、病理診断書にこのように書く。

「がんじゃねぇわ。○○○○○○○○だわ」

Aではなく、B。

いいねではなく、よくないね。

実は、このときの「書き方」にはコツがあると思っている。端的に結論をいうと、

「内視鏡医を病理で殴ってはいけない」




遠くからカメラでのぞき見たものと、手に取って顕微鏡でガッチリ拡大したものでは、情報の精度が異なるから、やはり病理医のいうことのほうが「真実」に近い……。そう考えてしまう医者は多い。

でも科学的態度というのはそうではないのだ。

「いいねポイント」と「よくないねポイント」を、それぞれためて、比較して、どちらがより妥当であるかを、両方の側面からきっちりと詰めていく姿勢こそが大事、とぼくは冒頭に書いた。イソジンほど単純ではないが、病理診断もいっしょである。




なぜ臨床医の目からみてこれはがんだったのか? なぜ内視鏡医はこれをがんだと思ったのか?

なぜ病理医が細胞をみるとこれはがんではないのか?

両方の意見を戦わせることを前提とした病理診断書を書かなければ、内視鏡医は……


すねてしまうのである。


これはマジである。





「陥凹を来した理由は~~。褪色調を示した理由は~~。従って本病変はがんをモノマネしていましたが、実際にはがん細胞ではなく、別の○○による変化だったと考えられます」

ここまで伝える準備がほしい。診断書に直接書かずとも、内視鏡医が「えっ、がんじゃないの!?」と思ったときに、いつでも電話や対面で相談できる関係にはしておくべきだ。

それをやることをせず、「いや細胞ががんじゃないって言ってるんだからがんじゃないんですよ。」と言い張ってしまうことは、科学的な検証態度を跳び越えた、ちょっぴり非科学的な態度なのである。

そういうことをわかってはたらいたほうがおもしろいと思う。主観だけど。

2020年8月13日木曜日

雑巾ってずいぶん雑な命名だよな

「ぼくになにかできることはないだろうか」と考えることはいいことだ。

「ぼくになにかできることはないかと思って、」と言いながらなされた行動は、他人から見るとたいていピントがずれているものだ。

この両者のニュアンスが微妙に違うということに自覚的でありたいと思う。





「自分にできることをする」と心がけることはいいことだ。

「自分にできることをしただけです」と言いながらなされた行動は、他人から見るとけっこう過剰だったり不足だったりするものだ。

この両者のニュアンスもまた異なる。しょっちゅう自戒している。




心がけと行動との間にある、細かな調整作業みたいなものを、無視してしまうと雑になる。自分のやることが雑にならないように、なるべく目配りをしたい。途中をすっ飛ばしていきなり行動してしまう人たちが10000人くらいいると、だいたい世の中にとっては迷惑なことになる。

ただし、その10000人の中に2,3人くらい、「思い切って行動したおかげで非常にいい結果を出す人間」というのが、宝くじの当たりみたいな感じでうずもれている。その2,3人はあとから自分の行動を振り返って、

「雑念をふりはらって一直線に動いたらうまくいった!」

と考える。

途中のもろもろを無視してしまうと雑になるのだが、途中のもろもろを考えること自体を「雑」念と考える人もいる。日本語というのはおもしろいなーと思う。




そういえば今のぼくは雑念ばかりの人間だ。雑用が苦ではない。雑多な目配りを欠かさない。雑にならないために、雑にならないために、と雑念を抱え込んでいる。

2020年8月12日水曜日

病理の話(442) 例えがハマる病気とハマらない病気

病気にもいろんな種類がある。

これを分類して解析するのは「病理学」の大事なやくわりのひとつである。

ただ、まっすぐ人体という超絶複雑系のことを無理して学ばずとも……。

たとえばお手元にあるパソコンとかスマホのような「精密機器」が、どういう理由によって壊れるかを考えれば、それでけっこう人体のことが遠回しにわかってきたりもする。



まずそのスマホ、おっことしてぶつけたら、いろいろ壊れるだろうというのは想像しやすい。

打ち所が悪いと電源が入らなくなるし、仮にデータが大丈夫でも画面が割れればそれだけで使いづらい。

似たようなことは人間にも起こる、これがすなわち「外傷」だ。

外傷の場合、外からみてひびが入ったり欠けたりしている部分を補強すればいいとは限らないことに気を付けよう。内部でどういう損傷が起こっているかを考えないと、そのスマホ、結局つかいものにならない。

「お酒を飲んで転んで頭を打った人」には頭部CTを撮影することが多い。本人が大丈夫だと言っていても、中でバッテリー液がもれて……じゃなかった血液がもれていたらあとで大変なことになる。



次に、スマホは長年使っているとだんだん充電の持ちがわるくなるものだ。スマホの買い換えのきっかけって、「新機種が出た」とか「スペックが物足りなくなった」だけじゃなくて、「いいかげん古いし充電も持たねぇ」みたいな理由がけっこうでかいと思う。

電池だけではなく、人体にも経年劣化は生じてくる。腰痛とか膝の痛みがそうだし、高血圧を長年放置しておくことであらわれる動脈硬化なんてのも、一種の経年劣化現象と考えられる。

年を取ったらあちこちガタがくるのはしょうがないよね、とあきらめることもまた人の知恵だなと思ったりするわけだが、それはそれとして、スマホでもPCでも人体でも、大事に使えば長持ちするものである。経年劣化というのはパーツごとに先延ばしにできる。電池もそうだし、カバーの傷とかもそうだ。血圧が高くなりすぎないように塩分を控えて適度に運動をするというのは、人体の中にあるすばらしいパイプ=血管の経年劣化を防ぐことに役立つ。





スマホやPCにはコンピュータウイルスというやっかいな敵がいる。外部のネットワークと接続しないと使い物にならないこれらの機器は、外部からやってくる敵をはねかえすために、ウイルス対策ソフトなどを入れて防御をするわけだが、たまにそれらの裏をかいたウイルスが侵入してくる。

人体にもそういうことは起こる。ただここから、機械と人体とが明確に異なるポイントが存在するので、「コンピュータウイルスと人間に感染するウイルスって似てるよね」とは、実はあまり言えない。

そもそも、人体がウイルスに感染したときに出てくるさまざまな症状、だるさや発熱、痛み、鼻水、下痢などの症状の多くは、ウイルスそのものではなく、ウイルスを排除しようとがんばる人体側の「防御システム」によってもたらされる。

コンピュータウイルスを排除するウイルスバスター的システムが稼働しすぎてPCやスマホそのものを壊してしまうことはあまりない(というか、ウイルスバスターのせいでPCが壊れたら発売元にクレームが嵐のように入るだろう)。

つまり、「ウイルス」という同じような名前を持っているくせに、PCやスマホのかかるウイルスと人体のかかるウイルスは「あまり似ていない」のだ。この逆転現象はおもしろいなと思う。落っことして破損することや、経年劣化みたいなところは、人体も機械もさほどメカニズムがかわらないのに。




あと、「がん」。こればかりは、機械にはなかなか該当する故障が存在しない。





ウイルスと、がん。そうかそうか、これらは世間でも誤解をまねきやすい病態(あるいは病原体)だけれど、機械だとうまく例えがハマらないのだな。なぜ適切な理解が進みづらいのか、少しわかったような気がする。

2020年8月11日火曜日

予定が立たない

これが公開されるのは8月11日(火)だと思うのだが書いているのは1週間くらい前だ。

しかしこの、来週のことがもはや予想できない。

いろいろと予定があるのだけれど、刻々と周囲の状況が移り変わるので、完全に決まっていたつもりの予定もそれなりの頻度でひっくり返ってしまう。

たとえばこれを書いている日の○日前には、直前まで「Webでやる予定だった研究会」が延期になってしまった。

さすがにWebのイベントまでなくなるとは思っていなかったのでぼうぜんとした。理由は、Zoomのアカウントをもって課金していたホストのはたらく場所に感染症禍がふりかかり、ホスト役だった人も「濃厚接触者ではないのだが濃厚接触者にそこそこ近いところにいたかもしれないと誰かに言われてしまった」という理由でなんだかよくわからないままに(自粛×自粛)×自粛みたいなことになってしまったのである。

Web会議を自粛で中止するなんてことがあるのかよ……まあそこにも山のような事情があるのでこれ以上は言わないけれどぼくはさすがにがっくり来てしまった。



しょうがないので空いた時間を使って、最近趣味で育てているプランターの野菜の(品種はナイショ)葉っぱを選定した。成長点を摘心するかどうか悩んだあげく、複数育てているうちの1つだけ摘心してみた。ちょっと早いかな。まあいいか。

植物と向き合っている時間がいちばん凪。

ぼくがもし新しいウイルスに感染してもこいつらの世話だけはやめなくて済むだろう。

ここにおそらくココロの平穏ポイントがあるのだ。




予定を立てるのは人類だけである。……と断定するのはよくない、「鳥の渡り」だって予定の行動だと言われたら反論できない。

けどやっぱり、「しばしば狂ったり押しつけられたりしながら予定にやきもきする」のは人類だけであろう。

そういうのにやられそうになったら人類から遠ざかればいいのである。たとえば植物とか、粘菌とか、レゴとか、そういったものに関わるようにすればよい。

彼らは予定がどうとか言う概念があてはまらないので助かる。そういえば先日、水をやりわすれた植物が1つ枯れてしまった。予定通りの水やりをしないからそうなる。

2020年8月7日金曜日

病理の話(441) 病理医はフレックスかどうか

「病理医はプレパラート相手の仕事だから、働く時間がわりと自由でいいよね」っていう評価を、病理医以外から聞くのはともかく、当の病理医からも聞くことがある。


たとえば、「早く帰って子どもを保育園にお迎えに行けるのが病理医のいいところです(笑)」と、医学生向けの病理医勧誘イベントでたからかに宣言している若い病理医(男性)と友達なのだが、彼に話を聞いてへぇーと思ったこと。


彼は保育園に子どもを迎えに行って、晩飯を作りながらパートナーの帰宅を待ち、子どもと一緒に風呂に入って、夜8時には一緒に寝る。そして、それでは仕事が終わらないし、自分のための勉強時間も取れないので、朝3時に起きて論文を書き、5時には出勤して前日分の仕事を終え、夕方4時まで働いてフレックス帰宅するのだそうだ。

そのような暮らしをかれこれ3年ちょっと続けている彼が、「病理医って時間に縛られないからワークライフバランスが保てていいですよね」と言っている。

いやいやいや。

量としてのバランスは保たれてるけど、配置はめちゃくちゃじゃん?

聞きながら笑ってしまった。本人は充実しているようなので、もとより、文句のつけようがないのだが。




ぼくの場合、朝7時半から夕方7時くらいまでは、臨床医からの問い合わせが多い時間帯だ。この時間にデスクにいないと仕事がどんどん積み上がってしまう。だから勤務時間はほかの医者と変わらない。そこを変えてはクライアントに対応できない。

目の前のプレパラートを見て考えて書くだけで仕事が終わるならば、たしかにこの仕事、フレックスで働けるかもしれない。検査センターでバイトするならフレックスか。

けれども実際には、プレパラートを見て考える前に臨床医と話し、プレパラートを見て考えて書いた後に臨床医と話す、ここに病理診断医として常勤する意味と醍醐味と滋味がある。

「プレパラート前」と「プレパラート後」には少なくとも他の医者と同じ時間帯で出勤していないと。

「プレパラート中」だけフレックスにするというのはけっこう難しいぞ。




この話をはじめるとあっという間にうなずいて頭蓋骨をがくがく振動させてロッキンオンみたいになっていくのはたいていフリーランスで働いているライターだとか、フリーの美容師、芸能人、YouTuberといった、いわゆる「ふつうではない仕事」についている人たちだ。

たぶん彼らも、「好きな時間に美容院行けていいな」とか、「自分のタイミングで家に帰れて好きなテレビ見られていいな」とか、「混んでないタイミングでディズニーランド行けるじゃん、いいな」とか言われているのだろう。

わかってないなーと反論するのは10年目くらいまでだ。その後は淡々と、「へえ、みなさんは大変ですね」とニコニコする道を選ぶ。




ぼくらはほとんど、「人の間」ではたらく。ごくごく一部の、「社会が自分に完全に合わせてくれるケース」を除いて。

それは超一流の芸術家だったり音楽家だったり。「こいつは本当に好きにやらせておくことですばらしい仕事が出てくる」と、世の中に完全に思われているごく一部の大天才だけが、文字通りの「フレックス」で働くことが可能、かもしれない。

でも大多数の人はそうではない。

人は自分ひとりで働くわけではない。誰かといっしょに何かをしなければいけない時間があり、そのために「世間と同じ時間帯に何かを揃えておかなければいけない」。





……一応断っておくけれど、芸術家や音楽家の仕事がラクそうだと思ったことも、ない。

みんな大変なんだ。

そんな中で、「まわりよりラクだと思わないとやっていけない」というストーリーに身を委ねた一部の人が、

「病理医はワークライフバランスが保てていい仕事ですよ」

という筋書きを、「意図的に」語っている。ぼくはそれを笑って聞いている。





蛇足。

病理学会では昔、「ワークライフバランス」という言葉をリクルートの中心に置いていた時期がある。

実はその時期は、病理医を目指す若手の数はさほど増えなかった。興味を持つ人の数は増えたのだが、最終的に病理専門医試験まで通過する人間の数を押し上げる結果にはつながらなかった(増加率がそれ以前と変わらなかった)。

むしろ、病理医には「激務だがやりがいがある」「戦いの末に得られる栄冠がある」みたいなノリがあるのだということが知られてからのほうが、バイタリティのある医学生たちは病理医を目指すようになったと思う。事実、この5年くらいは病理を専攻する人の数が急増中である。

この逆転は興味深いなーといつも思っている。

マンガ『フラジャイル」の中には、「病理医はフレックスで、ワークライフバランスを保てる」と説明するシーンが一切出てこない。これも象徴的だなーと感じている。

2020年8月6日木曜日

ゲラを読んでいる

他人の書いた本や他人の編んだ本に対する「書評」を頼まれる機会がある。

書評というのは、思ったことを早めに言葉にする仕事だ。いつもは心の中で自分のためだけにもてあそんでいればいい、読後感の中でもいちばん生々しい部分を、急いで商業的な言葉にして多くの人の目に触れさせ、それによって本を買ってもらおうとする試み。




書評を頼まれてから本を読むときは読書のスタイルがいつもと少し変わる。普段やっているような、ポテトチップを無心で口に運び続けるように文字を脳に運んでいくドクショは、なかなかできない。

(このような文章を書くと、「ポテトチップス」が正しいのだろうか、と気になってしまう。ブログ以外では。)

書評を頼まれてから本を読むときは「この文章をとっかかりにしてあとで感想を膨らませることになるのかな」などという浮気心のようなものが、本とぼくとの間にただよう。

これはいいとも悪いとも言える。ぼくは普段、読み終わった本の印象的なフレーズなどをほぼ覚えない。あれだけ読んだ沢木耕太郎の深夜特急ですらそうだ。こないだまで「あのnice breezeがいいんだよね」とか言っていたけど、先日読み直したら「breeze is nice.」と書いてあってぶっ飛んでしまった。印象に残ったフレーズが間違ってるのうける。フレーズに興味がないのかもしれない。『麦ふみクーツェ』があんなに好きだったのに、何を書いてあったかひとつも覚えていない。不思議だ。「この世には不思議なことなどひとつもないのだよ、関口君」。今検索したら「何もないのだよ」だった。ごめん。




ときどき付箋などを貼ってみたりもする。

付箋の枚数が増えると本の縁辺が森のようになるばかりで、結局見返すことはない。付箋をうまく活用できない。「今自分は仕事で本を読んでいます」という宣言をマーキングしているかのように見える。まあ嫌いではない。写真を撮っておく。付箋まみれの本はフルメイクを決めた女優さんのようだ。誇り高い。写真を撮った後にぜんぶ剥がす。本棚に挿すのに邪魔だからだ。結局なんのために貼ったのかよくわからない。



そうやって浮気心とメイクをごりごりに施しながら力のある本を読んでいくうち、次第に、文章の中に没入していく。

序盤は付箋が多かった本も、中盤から終盤にかけてはまったく何も貼られなくなっていく。

読み終わって我に帰ってノドを鳴らす。

「しまった後半ぜんぜんチェックしてない……」






「早めに言葉にできなかった感情」の中に、本を読む醍醐味がある。

書評にはその部分はなかなか出せない。というか、これから本を読みたいと思っている人にとって、「ぼくが必死で言語化した感情のコアの部分」を、読書前に見せられるのはあまり気持ちのいいものではないだろう、という妙な開き直りもある。ぼくは書評では商業の気分になりきるべきだと思っている。書評に多く語られすぎた本は不幸であろう。書評にダマされて買ってみた、読んでみた、書評よりもはるかにおもしろかった! なんだあの書評家、もっとうまい書き方があるだろうに……と思われるのが一番いいのではないかと思う。





本が出る前に書評を頼まれることがある。まだ製本されていないので、PDFや印刷物でゲラを送られる。それを読む。けっこう苦労する。

読み終わって書評まで書くとPDFもゲラも捨ててしまい、本の発売日を待って、買いに行って、手に取る。

ああ、この装丁、この紙質、この重量を感じながら読んだら、どれだけ幸せだったろうか……。

ここでいったん、書評など引き受けなければよかった……と軽く後悔することもある。

1か月くらい前に読み終えて感想まで書いたはずの本。

購入後にわりとすぐ読み始める。

そして、「書評用の読書」ではたどり着けなかった、自分の生の感情とはじめて出会う。ぼくはこの瞬間がけっこう好きである。結局のところ、書評を頼まれるというのはとてもありがたいことだ。なんだかんだ言いながら、本と多角的に向かい合うお膳立てをしてもらっているようなものだ。

2020年8月5日水曜日

病理の話(440) 病理を勉強し始めようとする人への唯一の弱めのアドバイス

ほとんど顕微鏡も見たことがないという初期研修医が、病理にやってきた。期間は1か月。将来は病理医になりたいのだという。

将来病理医になりたいと決めている医者が、医師免許をとった直後の初期研修の2年間でどれだけ病理の勉強をするべきか?

さまざまな意見があるが、ぶっちゃけどうでもいいというのが今のぼくの立ち位置だ。

全く病理の勉強をしなくてもいいとすら思っている。どうせ後期研修医になれば病理に専心できる。さいしょの2年のスタートダッシュで差を付ければその後大きく変わる、というわけでもない。なにせぼくらは40年以上勉強し続ける職業だ。2年なんてその後の人生から考えれば「誤差」である。初期研修の2年間でそこまで病理に本気にならなくてもいいとすら言える。

すなわち、「若いときの2年間」は、本人が充実するように組んでもらうのがいい。メンタルにやさしければいい。「どっちでもいい」。

初期研修期間を「病理以外」の勉強をする最後のチャンスだととらえて、他科での研修に全フリする人は多い。放射線科を回ったり、外科で濃厚に研修したり、消化器内科にどっぷり浸かったり、ときには地域診療に身を捧げたり。そういう人生、「楽しくていい」と思う。楽しいだけではなく、他科の医者の目をもって病理医をはじめると、モチベーションが上がるタイプの医者はけっこういる。クライアントの気持ちを知っておくということだ。

逆に、本人が一刻も早く少しでも多く病理の勉強をしたいというならば、初期研修のうちから3か月でも6か月でも病理にいればいい。

たとえば、初期研修をする施設で引きつづき後期研修をする予定ならば、初期研修のうちから病理にいることで、他科のドクターから「初期研修から病理にいた熱心なヤツだね!」と早く覚えてもらえる可能性が高い。これって働き方としては上手だと思う。



まあどっちでもいいのだ。



そして最近。

おそるおそる、初期研修医に付け加えて説明することがある。病理にどれだけ時間を捧げるかよりももう少しだけ、ぼくが大切だと思っている話。

「本は読まないよりは読んだ方がいい」ということだ。

ま、あまり無理強いはしない。

本を読むよりも顕微鏡や臓器の肉眼像に直接ぶちあたって肌で覚えるタイプの病理医もいるので、とにかく本を読まなければ病理医にはなれない、とまでは思わない。




けどなあ……本が読めない人と、本を使いこなしている人、どちらが病理医として幅広く活躍しているかというとなあ……。




ぼくは初期研修医が病理にくると、研修内容をゆるめにして、ここぞという推薦図書を数冊渡して、「このあたりまでは読んでおくといいかもしれない……無理はしなくていいですよ」と言うようにしている。おずおず。おっかなびっくり。

今回、うちに来ている初期研修医は、そこそこ本を読むようだ。よかった。まじで安心している。「最低限の本」というのがあるのだ。ぼくらは文章を扱う仕事なので、全く本に興味がないと言われるとちょっとだけ困ってしまう。

2020年8月4日火曜日

葉脈を手に取って眺めるということ

SNS医療のカタチTVというでかいイベントを、多数のプロの手を借りて開催する。8月23日(日)が本番だ。

https://sns-medical-expo.com/

プロの手際を目の当たりにしてほれぼれする毎日、いつも「プロとアマの差」を感じる。



さきほどふと考えた、一番大きな差は……手数。



たとえば、ぼくが素人なりに考えつくタイプの「イベント準備」で脳が繰り出す手数を、「木の枝の本数」に例えると、プロがなにがしか手配するときの数は枝の先についている葉っぱ……の葉脈の数。

段違いだ。細やかで行き届く「手の数」が。

枝までしか考えていないぼくのような人間は、「葉脈あってこそ葉っぱが生い茂る」ことに気づいて愕然とする。



無数の手数を段階を踏んでまとめるとき、強烈な俯瞰目線が必要である。

この目線はどうやって鍛えているのだろう、と考える。おそらくだが何度も何度も「葉を見ている」のだろう。

庭仕事が得意な人を遠目に眺めていると、しょっちゅう庭に出て、「葉を手にとって眺めている」ことがある。

俯瞰のためには強拡大も用いるのだ。強拡大と弱拡大を交互にくり返すようなかんじ。



ああ何かに似ているなあと思うが今日は「病理の話」ではないのでこのへんにしておく。

2020年8月3日月曜日

病理の話(439) ときにはスシ職人的オーダーメード診断を

今日はちょっと小話に近い。



これから非常に専門的なことを書くので、読み飛ばしながらみてほしい。あるいは「各段落の文字数」だけ見てもらえれば、今日の大意は伝わるかもしれない。



ある病気に対する病理診断を、以下のように記載することができる。

「長円形の腫大核を有する異型高円柱上皮細胞が、核の偽重層化を伴いながら比較的均質な腺管構造を形成して増殖する像を認めます。核の極性・軸性は比較的保たれています。低異型度腺腫と診断します。Surgical marginはtumor negativeです。」



しかしこの診断を、以下のように記載することもできる。

「典型的なlow grade tubular adenoma, 断端陰性。」






まるで情報量が違うではないか、と思うだろう。専門用語はともかくとして、長さが。漢字の量が。読後感が。

敬語や英語の使うタイミングなどもそれぞれ異なる。

さあ、どちらのほうがよいレポートか?

これらの病理診断を読むのはまず主治医だ。そして患者も目にする。





「場合による」。これが答えだ。

唯一解というのは存在しない。

細かく専門的でごちゃごちゃしているレポートが喜ばれるタイミングもあるし、短く断定口調のやや不親切なレポートが場に合っていることもある。




主治医の中には、患者の前でこのレポートを開いて、いっしょに文章を読みながら噛んで含めるように説明するタイプの人がいる。

また、逆に、「病理の結果は○○でしたよよかったですね」と、自分でさっと解説してしまってそれでおしまいにする人もいる。

病理医は、主治医がどちらのタイプかを「読む」。

自分に依頼を出してきた主治医が、どういう病理診断報告書を好むかを、本人の性格やこれまでの言動などから推理しつつ、ときおりは実際に会話して確かめるなどして、探る。

そして主治医がほしがっているほうのレポートを出す。

ときに、同じ主治医であっても、病理診断の依頼書に書かれているテンションに差があり、「ああ今日はいつもより詳しい説明を求めているな」と感じることがある。そういうときは電話で確認をしておく。




ちなみに、単に主治医の思う通りに書けばいいというものでもない。

たとえばある主治医が最近は病理のレポートをあまり読んでいないなと思ったら、そのときは「ちゃんとここにも人がいて、診断をしてるからな」というニュアンスを報告書の中ににじませる。「一人でやるなよ、おれもいるぜ」。

たとえばこう。

「組織学的にも管状腺腫の範疇病変です。ただし、表層における軽度のtafting、及び近年報告されている左側結腸の○○(参考文献:----)との類似性があります。拡大内視鏡所見にて□□らの指摘している所見があった場合にはご一報下さい。」



これは本項の最初に示した2つのレポートと「同じ病気」に対して書く可能性がある文章だ。まるで違う文章だし、含まれている情報量も情報の質も異なる。

この「書き分け」は、病理医の職能のひとつである。



診断情報が毎回定型文に収まるようならそれは人がやるべき仕事ではない。機械に判定させれば済む。TPOに応じてアレンジすることに人がやる仕事のおもしろさがある。

若い病理医にこのことを説明するとき、「刺身を米にのっけるだけでおスシと言い張ることはできない」という言い方をする。

職人仕事は文章にしづらいけれど、確かに「差」がある。それを、病理医を目指そうかなと思っている人には感じ取ってほしい。




もっとも、ぼくらはいつもいつも熟練のスシ職人が握るおスシばかり食べたいと思うわけではない。家でブロッコリーをさっと茹でてマヨネーズだけかけて晩飯にしたい日もあるし、コンビニのおにぎりが一番うまい夜もある、この「時と場合による」ニュアンスをわかってもらいたいなと思うのだが、例え話以外ではなかなかうまく説明ができない。