2020年8月31日月曜日
律動のために
2020年8月28日金曜日
病理の話(448) 病理診断科ではたらく未来をイメージしてもらう
初期研修医が1か月だけうちの病理にやってきている。
将来病理医になるかもしれないし、ならないかもしれないという。
このあと、初期研修でほかの科も一通り回りながら、進路を決めていくことになるとのことだ。
病理以外に、内科系のいくつかの科、あるいは放射線科も考えているという。それぞれタイプの違う科だ。
これまでの経験上、けっこうな量の医学生や研修医が、まるで違うタイプの科どうしで進路を迷っている。
誰もが自分の適性を自分なりに想像し、各種の職業との相性を考えようとするのだけれど、実際には自分が何に向いているかなんて一生わからない。
だから進路選択の決め手となるのは、「そこで自分がはたらいている未来」をイメージできるかどうか。
この科なら楽しく充実してやっていけそうだな、と思えるかどうか。
その判断基準は無数にあるし人によって異なる。
外から見ていると、
「へえー神経内科と病理で迷うんだ。おもしろいね。まるで働き方が違うじゃん」
と思いがちだが、その人の心の中では、「自分がはたらく未来」をぼんやりと思い浮かべたときに、その2つの科にそれぞれ魅力が感じられるのだろう。
病理診断科ではたらく未来を想像してみたい、という人に向けて、いろいろなことを話す。
「医者相手の仕事であり、本をかなり必要とする仕事ですよ」
「細胞にクローズアップしつつ、人体の理(ことわり)をロングショットで俯瞰する仕事ですね」
「医者という高度な専門家から依頼を受けてうごくコンサルタント的仕事です。プロ相手にはたらくプロです」
「文章力があると楽しいかもしれないですね、推しのどこに着目して褒めちぎるか、みたいな感覚で、細胞の何を見てどう語るかという楽しみ方があります」
「個々の患者のためにはたらきながら、もう少し人数の多い集団に向けての基礎研究もできます。すなわちメラを撃ちながらイオも撃つみたいなところがあるということです」
「お金をもらうことばかり考えている人けっこういますけど、『お金をもらって使うこと』を考えると、単純におおくのお金をもらうことよりも、『お金を使うための時間をどれだけ取れるか』のほうが実は大事だと思うんですが、病理診断科はその点、ほどよいですよ」
最後のこの「お金の話」がときには重要だなーということをよく考える。SNSをはじめとする「体験談の場」ではネガティブな話題が目立つバイアス(偏り)があるため、事情あってうまくお金が稼げなかった人、自分のイメージしていた働き方と金銭との間に不満がある人の声ばかりが見つかる。そのためか、病理診断科はどちらかというと金に困る科だと思っている医学生・研修医もいる。偏見というのはいつの世にも、どこの場にもあるものだ。
事実、ぼくはさほどいい服を着ているところは見せられないし、車にしても家にしてもそうだ、飯、酒、いずれも自慢できるレベルでの金の使い方はしていない。しかし、ぼくは必要なだけのお金はもらえていると思う、これはもう自信をもって言える。ぼくが使いたいと思うタイミングで使えるくらいのお金は確保できている。努力と研鑽にみあった給料はもらえる仕事だ。
あと。おなじみの「AI医療が発達したら真っ先に病理医の仕事がなくなりますよね?」という質問にも注意しておく。ただ、AIブームが落ち着いてきたのか、最近はこの質問自体をあまり見かけなくなった。みんな飽きたのかも知れない。
それと、ぼくがAI病理診断の開発に携わっている姿を見せると、若手は一様に安心するようである。なぜならぼくがすごく楽しそうにAI開発をしているからだ。結局のところ、「楽しそうにはたらいている」ところを見せればさほど言葉は要らないのであろう。……ブログでそう書いてしまうと本末転倒なのだけれども、言語化できない部分のよさというものが、病理診断科にも確かにあるのである。
2020年8月27日木曜日
背が伸びました
インタビューなどで「新型コロナウイルスによってなにか生活が変わりましたか?」と質問されることがある。
これ、答えづらい。いや、聞きたいことはわかるし、答えだって明確だ、「変わった部分と変わらない部分がある」と事実に即して回答すればいい。しかし「その先」を想像すると、やっぱり答えづらい。
その先とは何かというと、「そんなことを聞いて、答えを書いて、それがいい記事になるのか?」ということだ。このQ&Aにぼくが答えると、紙面が陳腐になるのでは、と直感的に抵抗がある。
もちろん、インタビューができあがってみると普通に読める。さすがプロだ。時候に即した問答だし、きちんと成立している。
でも読んで2日もすると、その記事を読んだ記憶どころか、質問された記憶や自分が答えた内容ごと脳から吹き飛ぶ。
我ながら、自分の言葉が長持ちしない。心に刺さらない。つまらん。
「そうですかー」「人それぞれですよねー」以外の感情が湧いてこない。
そういうことが何度か続くと、次に同じ質問をされたときには、「少しでもおもしろく答えないと先方にわるいな」というプレッシャーがかかる。でも新型コロナウイルスによって変わったことなんておもしろく答えようがない部分が多い。だからこの質問はいつもキツいなーと思う。
「学会に行けなくなったんですけど代わりにZoom研究会が増えたんですよ」
これ、そんなにおもしろいか? 自分で答えておいてアレだけどさ……。
ところでそもそも、変化しない人間は記事にできるのか。
「変わらぬ存在」なんて書きようがないのではないか。
長年ひとつの仕事を職人のように、あるいは芸術家のように続けてきた人に対するロングインタビューを読んでいると、途中で質問者が、
「こうして30年もの間、変わらずに一つのことを続けてこられたのはなぜですか?」
などと尋ねているけれど、その前後にはたいてい、
「何がきっかけでこの世界に入られたのですか?」
という質問がセットで存在する。結局、「変わった瞬間のこと」を尋ねている。そうしないと間が持たないのではないかと思う。
「どう変わったか」にこそ反応するというのは、人間の知覚のシステムとも似ている。眼球の知覚するものは基本的に動き続けているものばかりだ。背景で動かないものはいつの間にか知覚できなくなる。いっさい動かないものはバックグラウンドとしてカットする。そうしないと処理する情報が多くなりすぎるのだろう。
インタビューにおいて問われる「きっかけ」「理由」「感想」などはいずれも、究極的には「変化」をたずねるものだ。
そしてぼくは今回の新型コロナウイルスに伴う自分の変化がいまいちおもしろく感じられない。なぜだろうか。
おそらく、まだ、渦中にいるからなのだと思う。ぼくはまだシケインを曲がっている途中なのだ。感じているものと考えていることとのズレ、見てきたものと見ているものとのギャップ、そうしたものを埋めるに足るストーリーがまだ、ぼくの手元まできちんとやってきていない。衝突に伴う生成変化を語るだけの言葉が揃っていない。
「何か変わりましたか?」にきちんと答えられるほど、変わった自分を目視できていない。
……じゃあ東日本大震災のあと自分がどう変わったかとか、病理医になってから自分がどう変わったかとか、医学部に入った後に自分がどう変わったかとか、そういうことなら答えられるかというと、うーん、もしかすると、うまく答えられないかもしれない。自分が変わったことを認識することと、ソレを言語化して誰かに伝えることとはわりと別の能力なのである。インタビューって怖いな。受けるだけで人間が変わってしまう。
2020年8月26日水曜日
病理の話(447) 胸焼けのメカニズムを説明できる医学生は少ないという話
医学部ではさまざまなことを学ぶ。
今日はざっくりと、「医学部で習うこと」を列挙してみよう。大学や時代によってだいぶ異なるのだけれど、基本的な理念はそこまで違いはない。
まず、英語や数学などの「一般的な大学の教養科目」があるのだが、いくつかは選択ではなく必修となっている。ただし他学部でも学ぶ科目についてはこの記事では省略する。個人的には、この時期にやった英語は受験勉強のレベルを上回らなかったので、あまり記憶にない。ちょろかった。でも数学、とりわけ統計学は骨のある課題が提示されてかなり大変だった。今もたぶん似たようなものだろうとは思う。
さて、医学部独自の授業、すなわち具体的に医学・生命化学に直結する勉強のほうを見ていこう。
まずは生化学と解剖学から入ることが一般的だ。
生化学を学ぶのは、人体の基本的なしくみがケミストリー(化学)によって構築されているからである。細胞が酸素を使ってどうエネルギーを作り出すのか、あるいは窒素をどのように循環させるのかみたいな話を学ぶ。
今のこの3行を読んだだけでウェーとなるだろう。医学生も同じだ。しかしここで歯を食いしばって「さわり」の部分をわかっておかないと、あとあととても苦労する。
超絶ミクロの生化学とだいたい同時期に、いちばんマクロの部分、すなわち解剖学を学ぶ。骨学(コツがく)、筋学、神経学といった「表面」にあるものの配列をおぼえながら、独特の医学用語みたいなものに対する人間のアレルギー的なにかを払拭する。
今でも覚えているのは手の筋肉だ。虫様筋、というのがある。英語ではLumbricale muscleと書いた気がする。ググるといろいろスペル違いが出てくるのだがまあいいや、言いたいことはそこではない。このランブリカルというスペルを筆記体で書くと、エルとビーとエルの部分が上にぴょんぴょんぴょんと飛び上がるさまが、あたかも虫の足のようだな、などと思いながらこの単語を覚えた。解剖学以来、二度と使うことはなかった知識なのになぜか鮮明に覚えている。
生化学と解剖学が終わるころ、あるいは終わらないうちに並行して、生理学と組織学を学ぶ。
化学物質でのやりとり(生化学)から一歩、肉体に近寄るかんじで、実際に人間のカラダのなかで起こっている正常な化学反応を学んでいくのが生理学だ。ホルモンのはたらき。神経のメカニズム。心筋のしくみ。脳。こういったところをどんどん学んでいく。生きるための理(ことわり)、生きる理。生理。
生化学から生理学へと、人間に一歩肉薄するのとおなじ時期に、解剖学から組織学へと「レンズの倍率を上げる」。解剖学というのが人体模型にイメージされるような「肉眼」での勉強であるのに対し、顕微鏡を使って細胞そのものをがんがん拡大していくのが組織学である。
こうして、ここまで、生化学・解剖学、生理学・組織学と、人体のしくみばかり学ぶ時期が続く。なかなか病気の話は出てこない。
大学の3年生前後になるとようやく「人体に起こる異常」のジャンルがあらわれる。これがいわゆる病理学だ。そしてこの時期、一気に、薬理学(薬のメカニズム)、微生物学(細菌やウイルスの話)、免疫学(細菌やウイルスなどに対抗する人体のしくみ)などを叩き込まれる。試験の難易度は高いのだが、なんだか少しずつ医者に近づいているような気になって、一部の勉強オタクは熱狂する。まだ部活に惑溺していたいチャラ男たちはこのころ大学をさぼりぎみになるが、それでも結局試験に通らなければ進級できないので、結局試験の直前(あるいは直後、再試前)には過去問をひっぱりだしてきてヒイヒイ勉強する。
このころ、地味に学ぶのが公衆衛生学だ。人体のリアルなうねうねした熱感と肉感のある学問とくらべると、公衆衛生学や疫学の人気は低い。ところがここでがんばったかどうかは、ぶっちゃけ、医者になってからの「知的能力差」として思いっきり現れてくるので油断できない。
こうして基礎からえんえんと、正常・異常を積み立てていって、4年生くらいになるとようやく「臨床医学」がはじまる。消化器内科(胃腸内科や肝臓内科、胆膵内科など)、脳神経内科、一般外科、耳鼻咽喉科、産婦人科、眼科、精神科、整形外科、地域医療、病理診断科、放射線科、麻酔科、救急科……。ひととおり学んだら1年前後の病棟実習だ。そしてすべての科に対する卒業試験が半年くらいかけて毎週のように行われ、それが終わったら国家試験の勉強をして、受かって、研修医になって、先輩の医療者たちにヒヨッコ扱いされながら生身の医療がスタートする。
で、今日いちばん言いたかったのはここからなんだけど、
これだけ勉強しても、実は、学んでいないことがいっぱいある。
たとえば、「胸焼けするのに腹ヤケしないのはなぜだろう」みたいなことは、医学部では学んでいない。
今のトリッキーな質問をもうすこし医者っぽく言い換えると、こうなる。
「逆流性食道炎(胃食道逆流症)では、粘膜にキズがついていなくても胸焼けなどの症状が出ることがあるのに、胃の出口付近にできる”びらん”が基本的に無症状なのはなぜか」
そしてこの質問に答えるためには、「痛み」をはじめとする症状のメカニズムと、それを説明する神経の配置、さらには患者の有病率や実際の臨床現場での診療センスなどがすべて備わっていないといけない。
痛覚メカニズム:生理学と病理学。
痛覚を及ぼすケミカル因子:生理学と生化学。
神経の配置:解剖学と組織学。
患者の有病率:臨床・消化器病学と、疫学。
実際の臨床現場での診療センス:臨床・消化器病学。
たとえばなしをする。医学生が6年かけて必死で学んできたのは、レゴのパーツひとつひとつだ。ときには「ガソリンスタンド」とか「消防車」みたいなものも作る練習をする。
しかし、臨床現場で遭遇する、患者であればだれもが気になる程度の簡単な質問、「胸焼けって何がやけてんの?」というのは、レゴでいうと「バットマンの悪役が住んでいる巨大なお城(まわりにジェットコースターが回っているやつ)」
https://www.amazon.co.jp/dp/B077QXDT76/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_IY0oFb1KDRMNX2020年8月25日火曜日
いさめる男はイサメン
イケメンという言葉もイクメンという言葉も微妙だなと思う。
なので並べてみた。
イカメン(イカである)
イキメン(鮮度の良い麵)
イクメン(そだてている)
イケメン(いけている)
イコメン(憩っている)
個人的にはイコメンが方言の香りがしていいと思う。
みたいな短いものを、20年ほどまえにホームページによく載せていた。今にして思うとこういう文章には先達がいっぱいいて、ぼくの目に触れるのはそういうのの中から選りすぐられた「達人」のものばかりであった。ネタツイという言葉がまだ元素の段階でしか世に存在しなかったころの話である。
あのときぼくにあったスケベ心は今もぼくの中にある。「クスッという文章を書けるのが一番いいよな」みたいな斜に構えたなにものか。中心を太く強く刺すのではなく、へりをこちょこちょとくすぐるようなユーモア、ウィット。
ところが、20年来抱えていたスケベ心は、中年という溶媒に流し込まれることですっかり溶け込んで見えなくなってしまった。中年という溶媒自体がうっすらとスケベ心の香りを発しているのだ、いまさらこんな薄味の媒質を世に出しても、もはやアイデンティティとして掲げることはできない。
思春期に自分の境界(ボーダー)をどこまで広げられるかと汗をかきながら、広い広い牧場のかたすみで柵を引っこ抜いては少し外側に立て、引っこ抜いてはカタチをゆがめていろいろやっていたあのスケベ心を、ぼくは今、牧場全体を俯瞰するドローンに乗って眺めている。牧場の外周には山が取り囲んでいて、ここは盆地になっている。ドローンの高度は低くて山の向こうはかすんでみえない。境界をちまちま動かしていた牧場の、柵の中にも外にも同じように草原が広がっていて、馬も牛も好きなようにやわらかそうな草を食んでいる。
そしてぼくは今も時々ドローンから地面にふわりと降り立って、視野を狭くして、柵の中から外をみるふりをするけれど、柵の中も外もそこそこわかってしまった今、山の向こうを見に行くのはおっくうで、ちょっと怖くもあり、まあもう少しこのへんの柵はかっこよく配置しなおしたほうが何かと見栄えがいいかななどと、ちまちま昔とおなじような柵の移動をくり返してみるのだけれど、かつてほどのヒリヒリした感覚、「自分は今、領域を広げているのだ」という快感は得られない。
ただしヒリヒリした快感はないのだが、憩う感じの快感もあるのだなと、柵にまたがってぶらぶらと足をさせながら、イコメンになっている。
2020年8月24日月曜日
病理の話(446) 病理診断のコンテンツとコンテキスト
タイトルは妙にソレっぽくしてしまった。ネットっぽい。内容はもう少しどろくさい。
病院で、医者が患者に、「これは○○ですね、△△です」と説明するシーンがある。
このとき、患者は、○○や△△について、医者と同じ理解をしているとは限らない。
基本的に、医者のほうがくわしい。ぱっと「○○ですね、△△です」と言われても、患者はどぎまぎするばかりで、そうカンタンには理解が追いつかない。
※ときに、患者の側が非常によく調べており、医者よりも部分的に詳しくなっているように見えるケースもある。しかし、実際のところ、患者は「○○に似た◎◎との違い」を区別することはできないし、「○○だけど□□です」のケースにも思いが及ばない。それはそうだ、医者はそういうことがわかるように訓練しているし、患者はそういうことがわかる必要がない。したがって「患者の方が医者より詳しい」ということは、局所的にはあり得るのだけれどもトータルではまずあり得ない。以上は蛇足。
では、患者は「○○ですね、△△です」と言われて、そこで医者に対して「わからんわからんわからん! わかるまで教えて!」とねばるかというと……。
これが、まあ、ねばらない。というかねばれない。
多少は質問する。不安だから聞いてみたい。しかし、「どう質問していいか」すらわからないので、たずねようがないのだ。
では患者はどうするか?
まあさまざまなケースがあるのだけれど、多くの人に話を聞いてみると、どうも以下のような対応をしている場合が多いようである。
「……ま、なんとなくはわかった、一部はわからんけど、医者を信頼しよう! 悪いようにはせんだろう」。
自分に起こった○○とか△△というものを全て理解して対処しようと思っても難しいのだが、その診断名や分析内容を担当してくれた医者を信頼することで、自分がぜんぶ理解しきっていなくてもいいや、というところまで心を持っていって、安心する。
となるとここで必要なのは医者の学力とか分析能力よりも、「人当たりのよさ」だったり、「また通いたくなる雰囲気」だったりするのだ。
さあ本項は病理の話。これと同じ事が病理診断にも起こっているということを書きたい。ここまでは前フリだったのである。
実は、ぼくらが「病理診断報告書」に書く病理診断の内容を、10割理解している臨床医はほとんどいない。
「○○ですね、△△です」のうち、○○もしくは△△までは理解しているというケースは多い。しかし両方とも完全に理解している医者は少ない。「まれである」と言ってもいいかもしれない。
「この細胞が作る高次構造には構造異型があり、細胞そのものにも異型があり、細胞内の核にも異型がありますね、従ってこれは高分化型管状腺癌です。」
このような説明を受けた主治医は、「癌です」の部分はきちんと理解する。また、前半部の、「異型があり」的な部分もわりとしっかり理解する。
けれども異型とはなにかと聞けばまず間違いなく答えられない。
というかそこを判別できたらそれは病理医なのである。主治医は病理医ではないのだ。
「核異型くらいわかるよ」という臨床医もいる。しかしこれは「よく調べている患者」と同じことだ。「強い核異型がある」ことはわかるかもしれない、しかし、「異型がないケースと比べてなにがどう違うか」をきちんと言語化することはできない(できたら病理医である)。
となると、主治医は病理医のいうことを完全にわからないまま診療にうつることになるが、それでいいのか?
いいのだ。ただし、病理医の側から主治医に対して、「ここまでわかってくれればあなたがたの仕事には支障がでない」と示すことが望ましい。
そしてなにより、主治医が病理医に対し、「あの病理医なら、詳しく専門的な評価の部分をまかせられる」と信頼してくれていることが絶対に必要である。
以上の「病理医と主治医」の関係性はぶっちゃけ、「医者と患者」の間柄に近い。だから病理医はしばしば「ドクターズドクター」と呼ばれるのだろう。しかしぼくは(これまで何度も書いてきたが)この言葉があまり好きではない。
病理医が対面して対応するのは主治医だ、それはいいのだが、ぼくらが本当に相手にしているのは患者(の一部)である。「主治医にとっての医者」を気取るあまり、自分たちの仕事相手として患者が見えなくなってしまうようでは本末転倒だ。病理医もやはり「ペイシェントのためのドクター」であるべきだと考えている。だからぼくは、主治医に対して医者のように振る舞っていることを自覚しながらも、ドクターズドクターという言葉を使わないようにしているのである。
2020年8月21日金曜日
間欠泉
2020年8月20日木曜日
病理の話(445) 細胞分化についてのマニアックなあれこれ
2020年8月19日水曜日
ねじまがって難しがって掘り進んでをやりたいジャンル
2020年8月18日火曜日
病理の話(444) 病理学の入口
2020年8月17日月曜日
脳だけが旅をする
2020年8月14日金曜日
病理の話(443) すねさせないための説得力を身につける
2020年8月13日木曜日
雑巾ってずいぶん雑な命名だよな
2020年8月12日水曜日
病理の話(442) 例えがハマる病気とハマらない病気
2020年8月11日火曜日
予定が立たない
2020年8月7日金曜日
病理の話(441) 病理医はフレックスかどうか
2020年8月6日木曜日
ゲラを読んでいる
2020年8月5日水曜日
病理の話(440) 病理を勉強し始めようとする人への唯一の弱めのアドバイス
2020年8月4日火曜日
葉脈を手に取って眺めるということ
https://sns-medical-expo.com/
プロの手際を目の当たりにしてほれぼれする毎日、いつも「プロとアマの差」を感じる。
さきほどふと考えた、一番大きな差は……手数。
たとえば、ぼくが素人なりに考えつくタイプの「イベント準備」で脳が繰り出す手数を、「木の枝の本数」に例えると、プロがなにがしか手配するときの数は枝の先についている葉っぱ……の葉脈の数。
段違いだ。細やかで行き届く「手の数」が。
枝までしか考えていないぼくのような人間は、「葉脈あってこそ葉っぱが生い茂る」ことに気づいて愕然とする。
無数の手数を段階を踏んでまとめるとき、強烈な俯瞰目線が必要である。
この目線はどうやって鍛えているのだろう、と考える。おそらくだが何度も何度も「葉を見ている」のだろう。
庭仕事が得意な人を遠目に眺めていると、しょっちゅう庭に出て、「葉を手にとって眺めている」ことがある。
俯瞰のためには強拡大も用いるのだ。強拡大と弱拡大を交互にくり返すようなかんじ。
ああ何かに似ているなあと思うが今日は「病理の話」ではないのでこのへんにしておく。
2020年8月3日月曜日
病理の話(439) ときにはスシ職人的オーダーメード診断を
これから非常に専門的なことを書くので、読み飛ばしながらみてほしい。あるいは「各段落の文字数」だけ見てもらえれば、今日の大意は伝わるかもしれない。
ある病気に対する病理診断を、以下のように記載することができる。
「長円形の腫大核を有する異型高円柱上皮細胞が、核の偽重層化を伴いながら比較的均質な腺管構造を形成して増殖する像を認めます。核の極性・軸性は比較的保たれています。低異型度腺腫と診断します。Surgical marginはtumor negativeです。」
しかしこの診断を、以下のように記載することもできる。
「典型的なlow grade tubular adenoma, 断端陰性。」
まるで情報量が違うではないか、と思うだろう。専門用語はともかくとして、長さが。漢字の量が。読後感が。
敬語や英語の使うタイミングなどもそれぞれ異なる。
さあ、どちらのほうがよいレポートか?
これらの病理診断を読むのはまず主治医だ。そして患者も目にする。
「場合による」。これが答えだ。
唯一解というのは存在しない。
細かく専門的でごちゃごちゃしているレポートが喜ばれるタイミングもあるし、短く断定口調のやや不親切なレポートが場に合っていることもある。
主治医の中には、患者の前でこのレポートを開いて、いっしょに文章を読みながら噛んで含めるように説明するタイプの人がいる。
また、逆に、「病理の結果は○○でしたよよかったですね」と、自分でさっと解説してしまってそれでおしまいにする人もいる。
病理医は、主治医がどちらのタイプかを「読む」。
自分に依頼を出してきた主治医が、どういう病理診断報告書を好むかを、本人の性格やこれまでの言動などから推理しつつ、ときおりは実際に会話して確かめるなどして、探る。
そして主治医がほしがっているほうのレポートを出す。
ときに、同じ主治医であっても、病理診断の依頼書に書かれているテンションに差があり、「ああ今日はいつもより詳しい説明を求めているな」と感じることがある。そういうときは電話で確認をしておく。
ちなみに、単に主治医の思う通りに書けばいいというものでもない。
たとえばある主治医が最近は病理のレポートをあまり読んでいないなと思ったら、そのときは「ちゃんとここにも人がいて、診断をしてるからな」というニュアンスを報告書の中ににじませる。「一人でやるなよ、おれもいるぜ」。
たとえばこう。
「組織学的にも管状腺腫の範疇病変です。ただし、表層における軽度のtafting、及び近年報告されている左側結腸の○○(参考文献:----)との類似性があります。拡大内視鏡所見にて□□らの指摘している所見があった場合にはご一報下さい。」
これは本項の最初に示した2つのレポートと「同じ病気」に対して書く可能性がある文章だ。まるで違う文章だし、含まれている情報量も情報の質も異なる。
この「書き分け」は、病理医の職能のひとつである。
診断情報が毎回定型文に収まるようならそれは人がやるべき仕事ではない。機械に判定させれば済む。TPOに応じてアレンジすることに人がやる仕事のおもしろさがある。
若い病理医にこのことを説明するとき、「刺身を米にのっけるだけでおスシと言い張ることはできない」という言い方をする。
職人仕事は文章にしづらいけれど、確かに「差」がある。それを、病理医を目指そうかなと思っている人には感じ取ってほしい。
もっとも、ぼくらはいつもいつも熟練のスシ職人が握るおスシばかり食べたいと思うわけではない。家でブロッコリーをさっと茹でてマヨネーズだけかけて晩飯にしたい日もあるし、コンビニのおにぎりが一番うまい夜もある、この「時と場合による」ニュアンスをわかってもらいたいなと思うのだが、例え話以外ではなかなかうまく説明ができない。