2020年8月19日水曜日

ねじまがって難しがって掘り進んでをやりたいジャンル

「マンガ・ドラえもんのすごさに今さら気づく」みたいなことがある。

あのボリューム、あの小さなコマ(セリフの分量)、あの最低限の線描で、うねるような物語を毎回展開するのは、本当にすごい。

俳句のようなそぎ落としの凄さには「センス sense」という言葉がよく似合うが、マンガのような映像+構成+セリフ回しの凄さは、センスという言葉だけでは語れないように思う。努力の痕跡もそうとう見てとれるし、かといって、努力だけでは乗り越えられようがない壁もあきらかに存在する。やばみが複合的とでも言うか……。

いいなと思ったところに「部分点」をどんどん加点していって、最後に出てくる総合点が「部分点の総和よりも多い」かんじ。ゲシュタルトとしてのよさ。言語化しきれない。



で、この、「マンガ・ドラえもん」にあたるものが、世の中のさまざまなジャンルに存在するのだろうな、ということをワクワク期待しながらいろいろと経験をしていく。人間にはそういうところがある。



映画ってたぶんそういうのすごく多いだろう。



クラシック音楽なんか「あらためてすげえ」のカタマリだろうな。



ゴルフとかテニスとかもきっとそうなんだと思う。




もちろん本もだ……。








この「もちろん本もだ」を見てうーんとうなった。

そういえば児童書、絵本、「昔好きで読んでた本ってやっぱすげえんだな!」ってことは実際にある。でもぼくは最近そういう「昔読んだ本の良さを再発見する作業」を忘れていた。どんどん難しい本に向かって突き進んでいる。前は読めなかった本が読めるよろこびばかりを追い求めている。




あらためて宮部みゆきとかを全部再読したくなる。「モモ」とかも読みたい。伊坂幸太郎なんて一冊も読んだことがない。




どうして本だけはひねくれてしまうのだ? マンガのように、マンガのように、「多くの人に愛されているもの」をきちんと摂取すればいいではないか……。




などと問いかける声はとても小さい。いいんだ、読書だけは自由なのである。ぼくはなんとなくこの数年で本に対する偏屈さが強化された。これは、「自分が書く側に回った」ことと無関係ではないように思う。