2020年8月18日火曜日

病理の話(444) 病理学の入口

これなーもうよくわからん……ぼくは立派なおじさんになってしまった。

自分がそもそも病理を学び始めた気持ちを失いつつある。

ああーこういうのを忘れないようにと、20年以上、ほとんどまいにち、「初心忘るべからず!」と唱えて三食昼寝をすごしてきたのに……。

「いずれぼくが病理を教える立場になったときに、これから病理を学ぼうとする人の気持ちを覚えていよう!」と心に誓ったはずだったのに……。

忘れた……。

自分が中学生くらいのときの気持ちを忘れた……。




「大学の途中から20年」じゃ、だめだった。もっとずっと気にしてなければ足りなかった。

中学生のときの生の感情をこそ、だいじに覚えておくべきだったのだ!!




最近のぼくは、生命科学の第一歩というのはおそらく中学校くらいから刻印されていくのだなと感じている。小学生、でもいいのだが、さすがにそれはちょっと強引かなーと思う。本人が自分で本を選べるようになったくらいのときに「第一歩」と言いたい、親が用意した本というのは言ってみれば「子どもが親におぶさっている状態」だ。自分の足で歩くことを尊重したい気持ちがある。

うーん残念だ、あまりよく覚えていないのだけれど、自分にとっての「病理学の一歩目」がどこだったろうかというのをむりやり思い出す。もっと精度良く覚えていたかったなあ……。




***




病理学の第一歩目は、おそらく、健康ってなんなんだ、病気ってなんなんだ、ということを「考えたくなる」ということ。

ここだろうなーと思う。もう少し生々しい欲求があったはずだけど思い出せない。言語化できない。





おそらく大半のひとびとは、「健康の定義」にあまり興味がない。

「元気なときは元気よ。不調になったら病気だろ?」

それ以上のことなんて考えないように思う。テレビでときおり「健康って結局なんなんでしょうね?」みたいな話をやっていると、そのときだけワァーと盛り上がるが、翌日には自分が健康でいることすら忘れて健康に暮らしてしまう。

ごく一部のマニアが、中学生くらいで、

「健康ってなんだろう……」

ということをモヤモヤ気にする。こういうタイプが大学で病理学を学び始めると、幼少時のモヤモヤに答えを与えられたような気になって、

「そう! 病気を定義するためには健康を定義しなければいけないよな! なるほどホメオスタシス(恒常性の維持)かァー!」

と気持ち悪いかんじで腑に落ちる。

この「腑に落ちる快感をくり返し得られること」こそが学問の中核にある。だから原体験としての「なんでだろうモヤモヤ」が弱いと勉強が続かない。ぼくはそう考えている。





さて今こうして病理医として働いていて、40も超えて、それでもなお毎日勉強しないと仕事にならないのだけれども、いい加減勉強するのも疲れたし、ほんとうは今まで蓄積した知識と経験と手癖と条件反射をもちいて、あまり考えなくてもサクサクお金が稼げるようになっていればそのほうがラクだなーとは思う。

でも勉強する。それはなぜかというと、毎日、一緒にはたらいている臨床の医療者たちが、

「これわからん、どういうことだ?」とモヤモヤした顔をして(あるいはモヤモヤした文章を書いて)ぼくに疑問を投げかけてくるからだ。

ぼくはそこに「疑問があるのか、だったら解こう、その最新の疑問を解こう、そうすれば最新の快感が得られるぞ」という報酬回路系を見て取る。

自分の原体験は忘れてしまったのだけれど、誰かのモヤモヤになんらかの「腑に落ちる感覚」を与えたいなと思うからこそ、病理学を学ぶ続ける気になるんだと思う。それくらいのごほうびがないと勉強はつらい、続かない、やっていけない。