2017年10月27日金曜日

戻りガツオの旬だそうです

土佐の高知のはりまや橋は、がっかりするぞと言われたが、

ぼくは以前にここにきたとき、仕掛け時計のあれをみた。

土産屋さんの前で待てよと、思わせぶりに友が言い、

橋の手前で日差しをあびて、行き交う親子を目で送る。

時報が鳴ったら意味がわかった、店員さんがはすに見た。

ちょっと小粋な楽しい曲が、小春の陽気にしみだした。

あるいはこれは作った記憶か、いやいやぼくは覚えているぞ、

響くはよさこい節だった。息子がきょとんと聞いていた。

からくり時計が開くと見せて、ちょっと裏切る楽しいしかけ、

時計の下に踊り子が出た、右に伸びるははりまや橋だ、

左に延びるは桂浜、誰もが知ってるたてがみの龍、

しずかに響く鐘の音。拍手をするはぼくばかり。

土佐の高知のはりまや橋で、おっさん時計が鳴るを見た。




高知に来るのはこれで3度目。

台風が近い。あすには帰る。

ホテルの窓から城を見ている。

いずれまた来る、晴れた日に。

わらでたたいた、カツオを食べる。

2017年10月26日木曜日

病理の話(135) スポーツ解説者と病理医の共通点

たとえば消化器内科医が、胃カメラや大腸カメラで胃・大腸の病気を見て、診断をする。

診断は詳しければ詳しいほどいい。

 ・なにか盛り上がっているなあ
 ・なにか赤いなあ

だけではなく、

 ・ここが出っ張ってここがへこんで、表面がちょっとざらついていて、超拡大すると表面の模様がみえて、白いふちどりみたいな円弧状の曲線がいっぱい見えて、赤茶色の血管が縦横無尽に伸びる様子が見えて……

てな感じで、彼らはとことん見る。たいしたものである。




彼らは、毎日いろいろな症例を見る。症例の中には、「ズバッと病気の本質まで見えてしまうもの」もあれば、「なんだか難しくて、その場で表面から見ただけではわからないもの」もある。

わからないものをどうするか?

持ち寄ってみんなで検討したり、論文にして世界に見てもらったりする。



難しい症例を持ち寄って、みんなでああでもないこうでもないと、「読み方」を勉強したり、新しい疾患概念を考え付いたりする場を、俗に「研究会」という。

この、研究会のときに、病理医の出番がある。





たとえば胃カメラ。たとえば超音波検査。たとえばCT, MRI。

臨床医はカメラで病気を直接見たり、あるいは体にX線とか磁気とか超音波とかを当てたりして、なんとか病気の正体を探ろうとする。

その後最終的に、病気の正体に最も肉薄するのは、病理医である。

病理医は、とってきた病気を切って、じろじろ見て、さらにプレパラートまで作って、細胞レベルまで見まくる。免疫染色を使って異常なタンパク質を見破ったり、ときには遺伝子検査まで行って細胞のルーツまで見極める。

一番答えに近いものを、見ている。

ということになっている。





そういうことになっているから、「研究会」という場で、病理解説という仕事が回ってくる。

臨床医たちがさんざん胃カメラや超音波やCTで見まくった病気に対して、「病理医からはこう見えたよ」、とパワーポイントでプレゼンをすることで、その場にいる多くの医者たちが

「おおー、なるほど、そういうことかあー」

となるように、がんばる。

これが病理解説なのであるが……。




ま、なかなか、思うようにはいかない。




病理で見たものをそのまま説明しただけではだめだ。

顕微鏡を見て思ったことを言う。細胞がこうなっているぞ、と。タンパクの異常があるぞ、と。

いくらミクロの世界を正確に読み解いたとしても。

「……で、その結果、なんで俺たちが胃カメラで見たものは、赤くて飛び出しててざらざらしているように見えたわけ?」

という、マクロの世界に対する質問が、ずばずば出てくる。







病理解説はサッカーの解説に似ているような気がするのだ。

テレビでサッカーの試合を見ていると、さまざまな実況・解説者がいる。

ひとりひとりの選手の名前をひたすら呼んでいくタイプの実況。

「あぁー!」「あぶなーい!」と、見ている人を盛り上げるが、その実、なにも解説はしていない、お調子者タイプの解説。

「長友の運動量がいいですね」「大迫のポストが効いてます」と、個人のはたらきを説明するタイプ。

テレビはエンターテインメントだから、どのようなやり方であっても、場が盛り上がり、視聴者が楽しめばよいと思うわけだが。

純粋に「どっちのチームが勝ちそうか」を予想するには、どのようなスタイルの解説がよいだろうか?




選手個々人の能力(身長とか足の速さとか)を語るだけでは、足りないだろう。

それぞれの選手のはたらきを読み解き、相手チームの選手とのポジショニング、フォーメーションのバランスに着目。

どの選手がどう動くことで、どこにどのようにスペースができ、そのスペースをどちらが有効利用するか。

ボールを持っていない選手の動きが、ほかの選手を考えさせ、走らせ、結果的にチーム全体の攻撃力を上げていることもある。



そして、解説は、

「サッカーのことはそこまで詳しくない人」

にわかってもらわなければいけない。これがポイントである。




サッカーを何年もプレーし、ゲーム理論なども理解している選手を相手に説明するのは簡単だ。どの選手のどの動きが有効だったかを、専門用語で語れば用が足りる。特殊なフォーメーションの効力を短い言葉で伝えられる。

けれど、「サッカーは好きだし興味はあるが、そこまで詳しくない視聴者」に、専門的な用語を多用して説明しきれるものだろうか。たぶん、無理である。





夜のニュースなどで、スポーツコーナーがはじまると、その日に行われたサッカーのダイジェストが流れる。日本代表戦などがあった日には、少し詳しい試合の解説が行われる。

その際、プレービデオを一時停止させて、選手にマルをつけたり、画面上に矢印を書いてみたり、早送りや巻き戻しを駆使したりしながら、ときには、フォーメーションを簡単にまとめたイラストのようなものも添えて、「視聴者がきちんとサッカーを楽しめるような、なぜ勝ったか・負けたかがわかるような」解説が行われる。

病理解説は、どちらかというと、この、「夜のスポーツニュースの解説」に近い。わかっているだけではだめだ。わかってもらう必要がある。

むずかしい。奥が深い。

うまくいかないことも多い。





ぼくは、病理解説のしゃべり方を考えるとき、「テレビ」を参考にしている。

スポーツニュース。お天気の解説。

あれ、やっぱ、すげぇと思う。色の使い方とか、矢印の見せ方とかね。ぼくはテレビっ子だから、余計にそう思うのかもしれないけれど。

2017年10月25日水曜日

フォーカルフォーワン

「モニタリング」をたまに見る。帰宅が間に合わないときには、「桜井有吉・夜会」を見る。

だいたい、ゲストが、そのクールのドラマの主役だ。

はいはい、番宣番宣。

けど、まあ、これだけ若くて足が長くて顔のちっちゃいモデルさんみたいな俳優・女優ばかりが次から次へとドラマに出る時代だ。

正直、番宣でバラエティに出てきてくれないと、ドラマがはじまっても、「……誰?」となってしまう。

番宣で何度も何度もいろんなバラエティに出てくれるから、同じような顔をした若い俳優を、少しずつ覚えていけるのだ。






最近、こういう風に感じることが、なんだか多くなった気がする。

「テレビのやることにまかせておいても、ま、いっかな」

昔は、もうすこし、とがっていたんだけどなあ。






テレビのやることは商売だからさ。

テレビ局に得になることは伝えるけど、損することはぜったい伝えないよな。

事務所のひいきとかひどいんだろ?

裏で利権がさあ。






なんだかもうめんどくさくなってしまったのだ。

だって、そんなの、テレビに限った話じゃない。

ぼくのやることは商売かもしれない。

ぼくが得になることは伝える。損することはそこまで伝えない。

ひいきも利権もあるかもしれない……。

なんにも「信頼できない」時代だからこそ、なんかうまいこと、自分にハマる現象をみつけて、

「そういうとこ、ぼく、ありがてぇな」

って、部分的にでも信頼しないと、なんにもできねぇんだよなあ。





そうか、今気づいたけれど。

ぼくは、「全幅の信頼」みたいなことを言わなくなった。

どれだけ仲が良いとしても、どれだけ尊敬しているとしても、どれだけあこがれているとしても、「信頼」しているのは、その人の一部分だけでいい。一部分だけでも信頼できれば十分なのだ。

「すべて」をどうこうしようなんて、おこがましいんだよな……。




自分自身も、一部しか信頼できない、それでいいんだよと、20年くらい前の自分に伝えたい。

「わかってらあ」と言うかもしれない。だって、当時は、誰も信頼していなかった。

2017年10月24日火曜日

病理の話(134) 病理解剖の先にある会話

おおかたの予想と異なる経過をたどった患者。

きわめて診断が難しかった病気。

効くはずの薬が効かなかった腫瘍……。

その結果、医療者にとっても患者の家族にとっても、解せない死というのが、ときにある。



全力を尽くした医療者が、亡くなった患者に対してもまだ尽くせる「全力」がある。

それを病理解剖と呼ぶ。




病気の全体像を取り出すことで、なにがどのように「いつもと違ったのか」を細かく検索。

画像ではとらえきれなかった小さな変化。

新しい疾患概念。

病理解剖とは元来、「病理学の礎」であった。




現代。

画像診断や、臨床医学は、とても進歩した。今や、患者の死に臨み、医療者が「解せない」ケースは昔よりもはるかに少ない。

そのため、病理解剖の数は減っている。

そんな現代においても、なお医療者が「わからない」と感じるケースというのは、すなわち、「超難解症例」であることが多い。

だからこそ、病理解剖の結果も複雑となる。



病理医が精魂込めてレポートを書く……。

その難解なレポートだけで、「全力」と呼べるだろうか?



最後の最後に、患者の死に対して医療者が行えることは、病理解剖の先にある。

CPC。Clinico-Pathological Conference; 臨床病理検討会、という。

患者を担当した主治医。患者に関わったことのある他科の医師。放射線科、循環器科、外科、リハビリ科、腫瘍内科、緩和ケア科。あるいは医師以外の医療者……看護師、放射線技師、臨床検査技師、理学療法士。

そして、患者を直接担当してはいないが、CPCを通じて学問を修めようとする者。研修医、指導医……。

これらが一同に介する。

主治医がプレゼンテーションを行う。患者の経歴を。病院に来たきっかけ。原病における問題点。何がいつもと違ったのか。

これを受けて、病理医がプレゼンテーションを行う。双方が発表を終えたあと、ディスカッションがスタートする。




「先生ね、これ、すごく珍しい病態だと思うんですよ。少なくともぼくは、30年この世界にいて、こんな病気をはじめてみた。ね、これ、珍しいですよね」

「ええ。確かにレアケースです。ただし、私はこれと類似の症例を、今までに3回経験しています。その全てで患者は亡くなりましたが、うち1例において、亡くなる前に診断がつき、治療方針を少し変更することができました」

「えっ、先生、ぼくより若いのに、これもう4回目ってこと? なんで? 病理だから?」

「そうですね。病理だからです。コンサルテーションで関わった症例、前の施設にいたときに検査センターを通じて出会った症例、大学経由で相談をうけた症例」

「それは病理だからでしょ? 普通に臨床やってたらこんな疾患、一生に一度お目にかかるかかからないかだよね」

「そうですね。ですから先生、これは症例報告すべきだと思います」

「そうか……英語? 英語で出せそう?」

「十分な珍しさです。過去に経験した症例の主治医に問い合わせて、ケースレポートではなくケースシリーズのかたちで報告するのもいいかもしれません」

「よし、じゃあ、研修医ひとり先生のところに行かせるから、指導してやって」

「わかりました。では先生、さっきのプレゼンの、臨床情報の部分はぼくにください」

「OK、そうか……今回は死ぬ前にはわからなかったなあ」

「それなんですが。生前に出して頂いていた例の検査のうち、こちらについては陽性尤度比は高いのですが、陰性尤度比があまり高くないんですよ。今回、陰性でしたが」

「だからって、こんなめずらしい病気のことまで毎回あたまにひっかけて診療できるかなあ……」



「ちょっといいですか?」

「はい(放射線科の)先生どうぞ」

「これ、もしかしたら、画像の典型所見がこっちに出てるのかもしれません。生前は気づきませんでしたが……」

「ほんとうですか?」

「ええ、さっきの解剖での臓器写真を見ると、こっちにも病変が及んでるんですよね? これ、気づきにくいですけど……ふりかえってみれば、ここに、造影効果の異なる領域があります」

「おお……うわぁ、これはわかんないなあ……」

「ええ、まったく情報がないと難しいですね。けれど、検査前確率がもう少し高ければ、そのことが放射線科の読影医に伝わっていれば、あるいはこの所見は拾えるかもしれません」

「これ、論文化のときに、ちょっと検討してみましょう。他の例でもみられたかどうか」




「あの、ちょっといいですか」

「はい、(看護師の)○○さん、どうぞ」

「この方、いつもと違う痛み方をしていたんですが、それについては何かわかりますでしょうか」

「なるほど、病理の写真は出していたんですが、説明が足りませんでした。すみません。この方の病気は、このように、いつもよりも広く、この形式で進展をしているんです。先ほど、放射線科の読影でこちらにも影があるかもしれない、と読まれていましたね」

「これで、痛みの説明がつきますか?」

「つくと思います。ただ、このことは今回の1例だけではちょっと言い切るのは難しいですね」

「それについては私から」

「はい、(麻酔科の)○○先生」

「ペインコントロール目的でこのような例をコンサルトされたことがあります。ここまで進行してしまうと局所の制御も難しいのですが、たとえば……」





ここまで「盛り上がる」CPCというのは、そうめったにはない。

CPCに出席したことがある人であれば、一部の医者だけが盛り上がり、研修医を含めた多くの医者達が「はやく終わらないかなあ」とあくびをしている、みたいな経験もあるのではないかと思う。



ただ、「ハマれば」すごい。

ハマらせることができるのは、CPCの病理を担当する病理医……。

さらには、症例に対する「くやしさ」を各層としない主治医。自分がもう少し、何かできたのではないかと思い悩む主治医がからむCPCは、必ずハマる。

そして、ここが大事なのだが。

周りにいる、医者に限らない、医療者たちが、CPCに対して貪欲に「何かを得よう」としていると、そのCPCは異様に盛り上がる。




ぼくは今、複数の病院の、さまざまな形式のCPCに出ている。

病院や主治医によって、CPCのスタイルはさまざまだ。

会話がほとんど交わされないカンファレンスであっても、プレゼンが丁寧に作り込まれていると、あたかもひとつの「講演」を聴いているような気になり、ふるえるほど感動することもある。

逆に、院長以下、ほとんどすべてのスタッフたちが怒号を飛び交わせる、おっそろしいカンファレンスもある。





「ハマった」CPCを経験したことがある研修医は、病理医にそうそう悪い感情を抱かない。

今、病理医のことがあまり好きじゃない臨床医がいる場合、その人はたいてい、「つまらないCPC」を乗り越えなければいけなかった、悲しい過去をもっている。

2017年10月23日月曜日

だいたい短編4本くらい書きあがってます

ノーベル賞受賞を記念して、Eテレで再放送をやっていたのだという。親父が録画した番組をみせてもらった。カズオ・イシグロの白熱文学教室。たいへんおもしろかった。

アイディアが浮かんでから、それをどの舞台装置に放り込むか、を考えるのにとても時間をかけるのだという。

小説のよいところは、舞台を自由に変えることができること。

日本を舞台に書いた小説は、欧米においては「それは日本でのできごと、日本人だからこそ考える心のうごきなんだろう?」と受け止められたのだという。

しかし、日本を舞台にして書いたテーマを、舞台をイギリスに変え、登場人物を執事に変えて、「日の名残り」として世に出したら、彼の代表作と呼ばれるほど世に広まったのだ、という。

あるテーマを描くときに、舞台を自由に設定できるのが小説のすばらしいところであり、だからこそ、書くテーマが決まってからも、舞台を設定するのに長い時間をかける。




この話はぼくをめちゃくちゃ感心させたし、あまりに深く腑に落ちた。




「医療ミステリ」というジャンルがある。

医療ミステリは、たいていの場合、「単純に舞台が医療現場だというだけ」のミステリだ。

作者が医療の現場に何かテーマを見出して、そこを掘り下げよう、何か感じたことを綴ろうと思って書かれた医療ミステリなど、数えるほどもない。

医療の現場でなければ成り立たないトリック、というのはある。

しかし、医療の現場でなければ成り立たないストーリーと呼べるまで練り込まれた医療ミステリには、ほとんどお目にかかったことがない。

たとえば、人気のアニメに必ず「水着回」と「浴衣回」と「ヒロインの妹回」が設定されているかのように。

ミステリを書いているうちに、「今度は医療を舞台にしよう」「今度は電車と時刻表を舞台にしよう」みたいに、場面だけを変えて、結局おなじミステリを書いてしまう人、というのがいる。

ぼくは、そういうのが苦手だった。なぜ苦手なんだろうと思っていた。



カズオ・イシグロの顔としゃべりくちを見ている間に、すっかり、わかってしまった。

自分がなぜ、「場面だけを医療現場に設定したものがたり」があまり好きになれないのか、を。




もしもぼくが、舞台を医療現場に設定した小説を書けと言われたら。

それは、「医療現場を舞台にしなければいけない」ものなのだろうか。

小手先の技術と、むりやりひねりだしたテーマを、オファーにあわせて単に医療現場にあてはめただけのものに、なりはしないだろうか。




ぼくは父親がうまそうなコーヒーを注いでくれる横で、ずっと黙りこくってしまっていたのだ。

2017年10月20日金曜日

病理の話(133) 割り箸が入っていた袋の話

その内視鏡医は感染力が強かった。

いつも周りにいる人をある種の熱病にかけた。

探究、議論、前提をひっくり返し、常識を疑わせ、思索のもたらす報酬回路を起動させた。

「そんな些細な違いが何になるの?」という疑問の先に、新たな世界が次々と広がっていった。上質な手品を見ているような気になった。



研究会が終わって、懇親会が開かれる場合がある。

まあみんな忙しいのだ。いつもいつも、勉強した後にそのまま飲み会になるわけではない。医療者の中には、学術研究はそっちのけで終わった後の懇親会の場所選びに奔走するタイプのお調子者もいるが、何事かを成し遂げつつある人間は基本的に宴会には興味がない。しかし、彼は偉すぎた。札幌に招聘して研究会でコメントをしてもらうとき、必ず豪華な接待が供された。今の時代、研究会後の飲み会を製薬会社が手配することはない。そんなコンプライアンス違反に積極的に企業が手を染める時代はとうの昔に過ぎ去った。札幌在住の内視鏡医たちが、精一杯の矜持を発揮して、新鮮でうまい魚介を出す店を選び取り、彼を主賓に据えた。ぼくはその末席にいた。参加費はひとり1万円ということだった。高さに見合っただけの料理と酒が出る、と言われた。

ぼくはいつしか、かの内視鏡医の前に座っていた。

彼は手にした酒を次々と飲み干しながらも、切れ長の目をますます鋭く光らせて、先ほどの研究会で深めきれなかった「病理の話」を続けていた。



「先生さあ、ぼくはこないだ思ったんだけどね、あの腫瘍の真下に広がる風景ってのは、あれ、誰も、どの教科書にもまだ書いていない現象なんじゃないだろうかとね、思うんですよ」

ぼくは彼の熱意に浮かされていた。

「それでね」

彼は箸袋を手にした。箸袋の、のりで接着されている部分を丁寧にはぎとり、細長い紙を一枚作り出す。スーツの内ポケットから、製薬会社のそれではない、少しふるびたボールペンを取り出して、そこに何事か書いていく。

それは胃粘膜の構造であった。

彼は酔うと、自分が内視鏡で日々みている光景を、病理のプレパラートを思い浮かべながら、手元に即席のスケッチをこしらえつつ、ぼくに病理の論戦を挑んでくるのだった。




宴会は続く。掘りごたつのテーブル席を1つ隣に移動すれば、そこには、見知ったドクターたちが知らない医療スタッフの話やゴルフの話、料理の話、酒の話、家庭の話などで歓談する花園がある。

ぼくは箸袋の地獄にお供していた。





なんて実践的な病理学を語る人なのだろう。





「や、先生それでね、このね、ここの腺管についてなんだけど、どうもぼくはもう少し免疫染色を足す価値があるんじゃないかと思ってるんですよ。実際、どう思う?」

ぼくは答える。

「先生、それはとても斬新です」

自分が翻訳された海外文学のような語り口になっている。

「そうかい、先生に斬新だって言ってもらえると、ぼくはうれしいなあ! ぼくはね、常々、病理で見ているものも真実、内視鏡で見ているものも真実、だとしたら真実を2つの角度から見ているわけでね、そこにはきっと、何か三次元視したら見えてくる『ほんとうの、真実』があるんじゃないかと思っているんだよ!」

ぼくは翻訳された海外文学の世界に出てくるような、神の啓示を受けた人間のような過ごし方をする。





この論文はぼくが1から10まで考えたものである。

症例はぼくのものではない。いろいろな研究会でお会いした内視鏡医たちが持ち寄った症例であった。

いろいろな内視鏡医のおかげで、ひとつの仕事が結実しようとしている。ぼくは満足だった。けれど、三次元的に満足するためには、もう一翻、「役」が必要だと感じた。

考えた末に、彼にメールを出した。

ぼくが書いた論文の共著者になってもらえないだろうか、という要件だ。

「一度も直接師事したことはないけれど、いつも師匠だと思ってきた内視鏡医」に、論文に参加してもらいたいと思った。

ぼくのアイディアはすべて、彼の箸袋から生まれたものだったからだ。






彼はこともなげに答えた。

「ああーぼくなんて何もしてないんだけどなあ、うれしいですね、ありがとうございます」





ぼくは、ありがとうございます、という日本語が、こんなに迫力があるということを、今この瞬間まで知らないでいたのか、と思った。

2017年10月19日木曜日

皿の上のふわふわ

「地上の飯」(中村和恵)がとてもよかった。すごく乱暴に説明するならば、「食べることにまつわるいろいろを書いたエッセイ」なのだが、なんというか、上質だった。

「料理の四面体」を読んだ時も思ったのだが、学者が食をめぐって書く文章というのはとてもおもしろいなあと思う。

いや、学者じゃなくてもいいんだけど。よく考えるとぼくが椎名誠の本をおもしろく読むとき、旅とおなじくらい食に深入りしていたように思う。

数えてみれば、病理より料理の本を多く読んでいるかもしれない。




でもぼくは、食べ物についてはタンパクで、どこに出張したときに何を食べてどう思ったか、みたいなことをまったく覚えていない。

「山口で食べたはもしゃぶが、今まで食べた食べ物のなかで一番おいしかった」、という「自分の口をついて出た文章」は覚えているのだが。

今、はもしゃぶがどうおいしかったか、思い出せない。

「岡山で飲んだ赤磐雄町の日本酒がとてもおいしかった」、という「文章」は覚えているのだが。

ぼくは日本酒の味の違いを言い表せるだけのことばを持っていない。




「それでも町は廻っている」で亀井堂が、

「それを言葉にしていくのが小説なんだよ。突飛な事書こうとしてもだめなんだ」

というシーンがある。はじめて読んだ時、「ああ、ぼくは小説家にはなれないな」と、しっくりきてしまった。

どうおいしいか、どううれしかったか、それを言葉にできないぼく。

食レポもできないしフードエッセイも書けない。

そして、だから、そういう本を読むのがとても楽しい。




料理をことばにできないぼくは、じゃあ、病理をことばにできているのかと考える。

果たしてどれほどできているものか、と、自問する。




「ことばにできない」という歌詞は一発勝負だ。ことばにできない、と言って言葉にしてしまっているわけで。伝家の宝刀をさっさと抜いてしまった小田和正がその後書き続けたすばらしい詩の数々を見るにつけ、「なんと表していいかわからない」をクリエイティブな文脈で用いることができるのは、たった一握りの、ことばに愛された人間だけなのではないか、と考えさせられる。

ぼくは、ことばにできる、と信じて進んでいかなければやってられない方の、人間である。

2017年10月18日水曜日

病理の話(132) 診断のスピードと確度

現代の診断学は2種類にわかれる。

「1.その場で決めなければいけない診断」と、

「2.その場で決まるわけがないが、いつか決めなければいけない診断」だ。




「1.その場で決めなければいけない診断」は、まちがうと、いけないことがおこる。

具体的にどういけないことがおこるかというと、ざっくり言えば、脳に酸素や栄養が行かなくなって、患者の人生が終わる。

脳梗塞とか心筋梗塞とか肺塞栓とか、銃創とか、たいてい、これだ。

心臓が動かなくなるから死ぬ、肺で酸素をとれなくなって死ぬというのは結局のところ、脳に血液が行かなくなることが一番まずいのであって、極端な話、死にかけている人全員に瞬間的に人工心肺を接続する技術があれば、大部分の救急患者はしばらくの間生きることができる。

※中には敗血症のように、全身に菌が蔓延して、サイトカインの嵐が体中を吹き荒れるタイプのやばいやつもあるので、まあ、全部が全部「脳を生かせばOK」というわけではないんだけれど。




では、

「2.その場で決まるわけがないが、いつか決めたほうがいい診断」

とは、何か。

せき(咳)が代表である。

せきに苦しんで病院に来た患者は、たとえば喘息かもしれないし、気管支炎かもしれないし、心不全かもしれないし、逆流性食道炎かもしれない。

これを100%の確率で確定診断するというのは、実はかなり難しい。

詳細な問診(医療面接)と、ある種の検査で、あるひとつの疾患の「可能性」を100%に近づけようとするのだが、ものごとにはいろいろと例外みたいなものがあって、ま、100%の診断が出せることはほとんどない。

名医であればあるほど、決まらない。逆説的だけれど。名医とは小さな可能性も見逃さない医者だから、低確率であっても有り得る病気というのをスパスパ思い付くわけで、いつも100%の診断を出すなんて怖いことはしない。

診断が100%になるまで動き出さないわけではなく、70%くらいの確率でこれだろう、と思った時点で、アクションを起こす。

「これはぜんそくだとしたらこの薬が効くだろうし、ぜんそくじゃないとしてもこの薬を出して悪いことはあまりないな」

のように判断し、ぜんそくの薬を出す。

患者は薬を飲んだり吸ったりする。

医者は、ここで、「様子をみる」。1週間とか、2週間とかだ。

もし薬が効けば、そして、医師と患者の双方が納得すれば、診断は「ぜんそくで確定」となる。

もし薬が効かなければ、「ぜんそくの薬が効かなかった」という新たな情報を加えることで、「では少しまれな感染症か? たとえば心臓の病気? あるいは食道に胃酸が戻ってくる病気か?」と、各々の診断の選択肢が少しずつ入れ替わっていく。




「1.その場で決めなければいけない診断」をしている人の方が偉いとか、すごいとか、そういうことを言いたいわけではない。

「1.その場で決めなければいけない診断」というのは誤診率も高い。そりゃそうだ。様子を見ているうちに死んでしまうからだ。生命維持に努めつつ、診断が決まらず、結局死んでしまうというのは救急の現場では毎日のように起こっている。これは医療者が無能だというよりも、現代医療の限界なのである(もちろん多くの医療者たちがこの限界を伸ばそうと日々がんばっているけれど)。



一方、「2.その場で決まるわけがないが、いつか決めなければいけない診断」は、患者と良好な関係を気づいていないと正しい診断にたどり着けない難しさがある。

「効くか効かないかわからないけれど、とりあえずこの薬を試してみましょう」

と言われて、不安に思わない患者はいない。ベイズ推計によってなされる臨床診断学の要諦を、患者にもよくわかってもらえるだけの「会話能力」が必要なのだ。




で、病理診断はどっちにあたるかというと、これはおそらく、

「2.その場で決まるわけがないが、いつか決めなければいけない診断を、今日決めて欲しいと言われて、ばしっと決める役割」

なのである。




勘のいい方はおわかりかと思うが、この仕事、1と2の双方の専門家に、よく怒られる。

1の方には、「いいよなー病理は、死ぬか生きるかの世界じゃないんだもん」とあざけられ。

2の方には、「病理にまで出すんだから、ビシッと決めてくれよ、細胞まで見てるんだからさ、わかるだろ」とたかをくくられる。

フフ、わかるわかる。まあまかせておきたまえ。1でも2でもない診断というのを見せてあげますよ。

2017年10月17日火曜日

一瞬だけど閃光のように

中学生くらいのときにサインの練習をしたっけなあ。

あのとき考えたサインのいくつかは、今もおぼえている。

子供の考えるサインなんてものは、自分がスポーツとか芸能とかで有名になったときに、色紙にかっこよく、見栄え良く書くためのデザインだ。

だから、とにかくめちゃくちゃに書きづらい。無駄に凝っている。

シャッと縦棒書いておいて、そこから横にシュッシャッと飛び出て、ここがくるんとしてこっちとつながって……。

そういうのを考えるのが楽しかった。




ぼくはスポーツ選手にも芸能人にもならなかったけれど、幸いというか不幸にしてというか、今、毎日サインを書く生活をしている。

病理診断報告書にデジタル署名をしたあと、印刷した報告書にボールペンでさらにサインをつける。

狭いスペースにすばやく名前を書くことを数百、数千と繰り返すうち(計算したら、今の病院に来てから50000回くらい名前を書いているはずだ)、もともと「市原」と書いていたものがだんだんと省略され、「機能によって淘汰されてできあがったデザイン」。

まったくかっこよくない。スタイリッシュさがない。

けれど、中学生のときに書いていたサインよりも、はるかにサインっぽく仕上がってしまった。



当院の病理診断報告書はそろそろ完全にペーパーレスに移行するので、サインを書く機会も激減する。出張先や当院の関連病院の診断書を書くときくらいしか、サインをしなくなる。

そしたら、今のサインを捨てて、もう少しかわいいかんじの、サインの中にうさぎが浮かび上がってくるようなデザインのやつを新たに作り直してもいいかもしれない、と思う一方……。

中学生のころのように、サインを考えるだけで1日がぱあっと明るく楽しくなるような感情は戻ってこないだろうなあと、わかっている。知っている。



書店に置くポップを書きながら、そんなことをずっと考えている。

2017年10月16日月曜日

病理の話(131) カメラマンも舞台演出家も背景を気にするものだと思う

手術で採ってきた臓器を目でみて、病気(たとえばがん)のあるところを切り、切り口の写真をとる。

病気はどのようなカタチをしているか。

色調をみることで、血液が多く流れ込んでいたかどうか(燃費がわるいヤツかどうか)、硬く瘢痕のようになっていないかどうかがわかる。CTやMRIの画像を頭に思い浮かべる。

輪郭をみることで、この病気が周りにしみ込んでいるか、それとも周りを押し広げているかがわかる。がんであれば周りをぶちこわしながらしみ込んでいくだろう。顕微鏡を見なくても、けっこうわかるものなのだ。

病気の切り口を、ナイフの背の部分で少しなでてやる。

ナイフの背に、黄色くぼそぼそとした、しめった耳垢のようなカスが付着するとき、そこには「もろくてぼろぼろとした組織」があることがわかる。こういうのは「壊死(えし)」である。

壊死というのは細胞が死んだ部分だ。

がんは、自分があまりに急激に増えて大きくなるものだから、うっかり周りから栄養をとるスピードが追いつかないことがある。だから、病気のへりの部分ではすごく元気にまわりにしみ込むけれど、病気のど真ん中では「餓死」してしまっている場合がある。そういう壊死成分がどれくらい含まれているか、切り口を見て、ナイフの背でなでることで、ある程度わかる。

十分に観察を終え……。

顕微鏡標本を作る場所を決める。すべてをプレパラートにしていたらきりがない。診断に必要な部分をじっくり見極めて。


そして、病気を顕微鏡でさぐりにいく……。




トゥルルルル。

(ガチャ)「はい病理市原です」

「あっ、先生おつかれさまです。今いいですか?」

「はいどうぞ」

「ID言いますね。○○○○○○……」

「○○○○○○……XX XXさん。はい、この方ぼくが診断しましたねえ」

「ええ、その方です。病気の診断たいへんよくわかりました。どうもありがとうございます。それでですね、実はちょっと追加で、『背景』について検索していただきたいんですが……」





背景。

たとえば胃。たとえば肝臓。これらは、がんをはじめとする病気が出る際に、「がんではない部分」にも変化がある。

周りの、がんではない胃粘膜や肝細胞にも、なにがしかの異常が起こっていることがある。

あたかも、「らんぼうな校風の高校を中退して、不良になった」みたいに。

がんをとりまく「環境」を観察することで、がんが出てきた「原因」のようなものが見えてくることがある。

だから、医療者はときどき、「背景」を気にする。



この背景の評価が実に難しいのだ……。



「がん」というのは、医療者にとって、無意識のうちに「本気で取り組まねば」と気を引き締めるものである。

がん以外の病気をなめているというわけではないのだが。病気に貴賤はないのだけれど。

やはり、臓器に「がん」があるとき、医療者はそこにぐっと着目してしまう。

なんとか見定めよう、やっつけてやろうと、やっきになる。必死になる。

無意識のうちに、「背景」の観察はおざなりになる。



だから、「意識して」、背景を観察しないといけない。がんじゃないからどうでもいいや、ではなく、「がんに関係のある情報が少しでも得られないだろうか!」と、かなり気を強くもちながら、入念な観察をしなければいけない。





……なんだか当たり前のことを言っているように聞こえるだろう。

ぼくだって当たり前だと思っている。

けれど。

こないだ、ある病気の「背景」について、ある発見をした人がいた。

その発見を人づてに聞いて、ぼくは「うわああああ」と思ってしまった。

この病気、とてもよく知っている。何度も診断している。なんなら、ほかの病理医よりも、ぼくは少し詳しいかも知れない(専門のひとつとしている領域である)。

けれど、こんな「背景」、考えてもみなかった。

がんとは離れた部分に、こんな変化が出ているなんて。




盲点、とか、落とし穴、という言葉がよぎる。

人間は無意識のうちに、見たいところを選別し、見づらい領域を作ってしまっているのかもしれない。

意識して、穴をふさごうとしないと。

声出し確認をするように、細かい観察をこころがけないと。



病気とその背景を解析するという作業は前に進んでいかないのだ。ああぁー。自分で気づきたかったなあ。これ……。

2017年10月13日金曜日

からだすこやかじゃ にぶる~

「トクホのマークがついたお茶」をコンビニで売っている。

ふつうのペットボトルに比べると高い。

けっこう高い。

脂肪を代謝する力を高めてどうとか言ってる。

効きやしねぇよ、と思うけど、ま、こういうのって、気休めに「のっかった」ほうがけっきょく効くもんだよなあ、とか思って、しばらくスルーしていた。




最近、朝にペットボトルのお茶を買って職場にもちこんで、仕事中にちびちび飲みながら働いているのだが、くるくるあちこちで働いているうちにペットボトルの前を離れてしまい、結局帰宅するまでぜんぶ飲みきれない、ということが続いた。

もったいないので冷蔵庫にひやしておく。

翌朝、冷蔵庫から取り出すのを忘れる。

職場につくころに気づく。

あっお茶……。

しょうがないから買い直す。

がんばってはたらく。

今日も忙しかった。全部飲みきれなかった。

帰宅して、1/4くらい残ったお茶を冷蔵庫にしまう。




……昨日、冷蔵庫をあけたら、ちょびっとずつ中身の入ったお茶のペットボトルが4本あった。

ジャスミンジャスミンウーロン麦。

やめてくれ、と思った。

そこでピンときた。

「あのトクホのお茶……。あれ、量は少ないけど、もしかして、今のおれには、ちょうどいい量なんじゃねぇのかな?」




ためしに高いやつを買ってみた。ヘルシーになりそうな名前のやつを。

仕事が終わるころ、ちょうど飲み終わった。やったあ!

ほくほく顔で、スタッフのひとりに話してみた。このお茶ね、ちょっと高いし、量も少ないけど、この量がぼくにぴったりなんですよぉ。

スタッフは言った。

「先生、元気ですね……いろんな意味で……」





そうだろうそうだろう。

ニュアンスを超えたところに健康はあるんだぞ。

2017年10月12日木曜日

病理の話(130) 大中小と主観的評価あれこれについて

細胞の良悪(命に関わるか、そうでないか)を判断するとき、しばしば参照されるのが「細胞核の大きさ」である。

大きさ。

大きいか小さいか。

細胞核が普通よりも大きければ悪性の可能性が高い。

あるいは、ごつごつ感。

細胞核が普通よりもごつごつしていれば、がんっぽい。

実にあいまいな尺度ではないか! そんな、人によって判断が変わるような基準で、がんかがんではないか、人間の一生に関わる問題を診断するなんて。なんて主観的なんだ! 病理診断は病理医の胸先三寸で行われているッ!



みたいな話を(主にネットで)目にすることがあるんだけど、ま、心配しなくても、これに関してはそうそう問題になるケースは多くない。


実は、核の大きさとかごつごつ感とか、クロマチンの量とか核膜の不整さとか、核小体が目立つかどうか、といった尺度は、思ったよりも「アナログ」ではない。

核の大きさが「小」「中」「大」として。

「小」と「大」が多いのだ。「中」が少ない。

ごつごつ感の強さが「弱」「中」「強」として。

「弱」と「強」が多いのだ。「中」が少ない。



何を言いたいのかというと、どんな病気の病理診断においても、「あきらかな異常」がどこかにみられることが多く、「中間的で、迷う」ような所見は意外と少ないのである。



これにはおそらく理由がある。

核が大きくなり、形もごつごつになるというのは、核の中に含まれているクロマチン≒DNAの量が異常に多くなり、容れ物の中におさまりきらなくなるためだ。いわゆる増殖異常のサインである。

この「DNAの増殖異常」には、基本的に、はどめがかからない。

正常の細胞では「制御がはっきりしている」から、核の大きさは小型で均一に留まっている。

しかし、がん細胞では「制御がきかない」のだ。やたらめったらとDNAが複製されまくる。

「ほどよく1.5倍くらい増やそう」とか、「まあせいぜい2倍にしておこう」みたいな遠慮は、がんにはない。

「とにかく無制限でゴー!」となっているのが、がんだ。



「弱」「中」「強」のカテゴリーにわけるとするならば、「中」で留まっているケースは意外と少ない。異常があるならひたすら「強」として出てくる。



だからこそ、人間がプレパラートで見てもはっきりわかるくらいに、細胞のカタチとして異常を見つけることができるのだ。



毎日細胞を見ていれば、9割5分くらいの細胞は、秒単位で「いいか悪いか」を判断することができる。もちろん、残りの5分では十分に迷わなければいけない。

毎日細胞を見ていれば、「弱」と「強」の区別はなんなくつくようになる。5分の「中」ではもちろん迷うが。



……「毎日細胞を見ていれば」。

毎日細胞を見ていないとどうなるか。

弱と強の区別がつかないのである。だから、ま、素人から見ると、病理診断というのはとても主観的に見えてしまう。

まあもう主観的ってことでいいけど。

けど主観にも根拠があるよってことは知っといてほしいナって思う。





今の「ナ」が気持ち悪いと思った人、それを主観というのです。

2017年10月11日水曜日

この事ばかり気にかかる

「猫たちの色メガネ」を読んでいた。

ぼくはすぐ、読んだ本を何かにリンクさせたがる悪いクセがある。この本を読んで考えたことはアレに使えるなあ。この本みたいな風景を前にも何かの本で読んだぞ。ああ感動した、この感動はあれと同種の感情だ。これと同じジャンルの本はほかにあの人とあの人が書いていたなあ……。

「猫たちの色メガネ」を読みながら、ああ、そういう読み方ばっかりするようになったぼく、つまんねぇ男だなあ、と思ってしまった。



なんでもそうだ。一日の中で経験したことすべてに意味を求めている。

ツイッターでひとつリプライが来たなら、その経験をどこかに書き留めて、いつか別の話題でうまいこと放出しようと考えている。

日常でした何気ない会話のひとつをいつまでも大切にとっておいて、いつかブログの記事にしたらうまいこと書けちゃうんじゃないかと虎視眈々と狙っている。

なんだかつまんねぇなあ、と思ってしまった。



そこに起こった出来事に、意味はある。理由があり背景がある。積み重なった無数の選択がある。人の意志でどうにもならない、自分で選んでいるようで実は全く選択肢がない、選ばされている選択もある。

そして、ああ、なんかそういうことがただ、起こったのだなあ、と、写真1枚を撮って先に進むようなやりかたも、できるのだと思う。



インスタ慣れした世間はみなそうやって、あらゆる出来事に意味づけすることをもはやあきらめているようにも思う。

ぼくも、全ての出来事に理由を問いかけるのをやめてみたほうが、いいのではないか。




「猫たちの色メガネ」の本文中、「こ」だけは違うフォントが用いられている。

なぜだ? と問わないで、そういう本なんだなあ、と。

……生まれ変わらないと無理だな、問わずにいること。




あらゆる物事に何かをリンクさせたがるぼくは、「こ」に気づいた日の夜、ほとんど眠れずにずっと「こ」のことを考えていた。何かうまいこと書けないだろうか、と、考えながら。

2017年10月10日火曜日

病理の話(129) 絵合わせスラムダンク

見たことも無い細胞を目にする。

なんだこれは。

ふくれあがった核は輪郭がでこぼこで、核膜の厚さも一定せず、大量のクロマチンによってどす黒く染まっている。ひとつの細胞の中に複数の核があることも。悪性であることはまちがいない。いずれ人を殺す細胞である。

しかし、どんな腫瘍であるかが判然としない。

特定の方向への「分化」があるようで、ない。普通の腺癌ではない。普通の扁平上皮癌でもない。

……。これは、わからない。

わからないけれど、臨床医はもっとわからない。

患者はもっともっとわからない。

これは病理の仕事なのだ。




背景の血管が不思議に動かされている。

細胞のカタマリの中に、壊死がみられる。

細胞の配列に特徴があるか……?

免疫染色を多数行う。どれかひとつふたつ、タンパク質の発現によって、この奇妙な腫瘍の「正体」が見つからないだろうか。

特殊染色も行う。グリコーゲンの分布は。粘液の微小な産生がないか。細網線維の増加パターンは。




どうしてもわからない。

教科書をひっぱりだす。Enzinger, Ackerman, Sternberg, AFIP atlas, 外科病理学, 腫瘍鑑別診断アトラス……。

すべてのページをめくる。

数千枚の写真を、ザッピングするように目の端に映していく……。





あった。あった。これだ。

たぶんこれだ。

本文を読む。10数項目の組織所見。一致。一致。これは一致しない。一致。これはどっちともとれる。一致……。

染色体検査が必要かもしれない。

大学に依頼をする。メールを打つ。

さらに免疫染色を追加する。






ぼくはひとりのちっぽけな病理医で、所詮、病のすべてをわかるわけもない。

知らない病気だってある。

見たことのない腫瘍も出てくる。




ぼくは最高の病理医ではないかもしれない。ぼくは病に勝てないかもしれない。

けれど、医学の歴史と集合知は負けんぞ……。





ゴリの顔を思い浮かべながら診断に潜る。臨床医が笑っている。患者の笑顔まで引きずり出せばようやく勝利である。

2017年10月6日金曜日

ヒューマンといえばファイプロ

医療系のドラマとか小説の惹句に「ヒューマンドラマ!」と書いてあるとその時点でもうなんかすごくあーあって思ってしまう(けど読むけど)。

ヒューマンドラマって何だよって思うからだ。

ヒューマンじゃないドラマを考えるのは難しい。

動物奇想天外みたいに、動物を主役にしたらアニマルドラマか? 結局、アニマルたちにヒト語をしゃべらせて、擬人化した感情をアフレコして、あるいはその動物と関わる人たち、飼育員とか飼い主とかの言葉を拾い挙げるわけだし。

人工知能が主役のスペースオペラか? R2-D2だってあれもうほとんどヒトだから。しゃべり方がカタコトなだけだから。

初音ミクは「ぼく」を歌うし。

ヒューマニティを除外したドラマなんてないのだ。

いや、まあ、言葉遊びの揚げ足取りって言われるかもしれないけれど……。

ヒューマンドラマ、とうたわれた時点で、「ほっこり」「じわり」「しみじみ」、あるいは「ドロドロ」「ジタバタ」「グチャグチャ」、ひらがな系かカタカナ系かはともかく、なーんかもういいかなって気分になってしまうのだから、しょうがない。





一度原稿仕事でお世話になった編集者から、「医療をめぐる現状と対比しながら、医療にまつわるブックガイドをお願いします」という依頼が来た。

医療を題材にした本とかドラマ、あまり読んでいない。

ノンフィクションの方が読んでいるかもしれない。

ぱっとは思い付かなかった。マンガが数冊浮かんだ。

小説かあ……。昔読んだ小説で、何か、ひとにおすすめできそうな本があったかなあ。

思い出すきっかけが欲しくて、医療系のキーワードをいくつかGoogleにぶちこんでみた。

出てきたことばは「医療ミステリー」だとか「医療サスペンス」。まあそうだろうな、ありとあらゆるジャンルが、ミステリーとかサスペンスになりうる。

さらに、「ヒューマンドラマ」、「問題作」、「意欲作」。

うーん。医療である必要がないな。




悩んだ末にいくつかの本をピックアップした。これをおすすめしたら、某誌の読者は興味をもってこの本を読んでくれるだろうか、ということを気にかけながら、再読に入る。

読みながら、ああ、ぼくはどうも、「フィクションから得た感性を用いて、現実で起きている医療を語る」ということを頻繁にやっているなあ、ということに気づいた。

さらに。

ぼくが医療を語る上で根幹としている創作物のほとんどが、「必ずしも医療現場を題材にしていない」。

少し驚いた。

ときにはSF。ときには歴史小説。工学系であったり、青春小説であったり、ありとあらゆるジャンルの本から少しずつわきあがってきたインプレッションが、医療に対する目を開かせている。



結局、現実の医療も、虚構の叙事詩も、なにもかもがヒューマンドラマだからなあ。

ジャンルなんて関係なく、優れた創作物は、医療を思うときにスパイスになりうるんだ。




自分の子供にサッカーを好きになって欲しいと思った親が、キャプテン翼を読ませる。

自分の子供に東大に入って欲しいと願った親が、ドラゴン桜を読ませる。

自分の子供に医者になって欲しいと切望する親が、医療小説を読ませる。

いまどきそんな短絡的な教育もないだろうが……。ぼくは心のどこかに、「ジャンル系」を読めばそのジャンルについての思索が深まるだろう、という、根拠のない思い込みを持っていた。




なんかあれだな、医療を考えるために本を読む、ってのつまらないな。

わかんないけど本を読んでたら、医療についても思いがふくらんだ、くらいでいいんじゃないかな……。




……それじゃ原稿にならないかな?

いや、うん、原稿にしよう。ぶつぶつ、キョロキョロして、じっくり、ガッと書く。

2017年10月5日木曜日

病理の話(128) 全部署マニュアルを創業者が持っていないといけないという話

ぼくらの体はすべて、1個の受精卵が分裂してできあがったものだ。

なんというか気の遠くなるような話である。

ブルゾンちえみの言うことにゃ、体の中には60兆くらい細胞があるそうだが、その60兆がすべて1個の細胞に由来しているというのだ。

女王バチがぜんぶのハチを産んだんですよー、みたいな話を聞いて、ヒェッ……と思ったりしていたが、なんのことはない、(昔の)ぼくのほうがよっぽどがんばっていたんじゃないか。




受精卵もまた1個の細胞である。「核」がある。核にはDNAが入っている。DNAには人体の設計図……というか、人体をコードするプログラムが「すべて」入っている。

すべてだ。

受精卵の中のDNAを読み解くと、そこには、「汗をつくる細胞」になるためのプログラムも、「筋肉として伸び縮みする細胞」になるためのプログラムも、「胃酸を出す細胞」になるためのプログラムも、「目の透明な部分」をつくるためのプログラムも、ぜーんぶ入っているのである。

なんだかすごい話だ。

受精卵を新入社員に例えてみれば、その「異常さ」がわかる。

新入社員は普通、入社時にはどの部署に配属されるかわからない。営業? 人事? 経理? どこで働くことになったとしても、その部署に入ってから、先輩とか先輩が残したマニュアルとかに従って仕事を覚えていく。

けれど、受精卵は、入社の段階で、「すべての部署のマニュアル」を持っている。これはすごいことだ。

しかも、よく考えたら、「入社の段階」どころか、会社がないのだった。

受精卵はひとりで荒野に立ち、そこで分裂して同僚を増やし、会社を作り上げてしまうのだ。

ああ、だったら、「全部のマニュアル」をもって産まれてこないといけないよなあ。

聞く相手もいないわけだから。

同僚すら自分で作っていかなければいけないのだから。




……と、このたとえ話を進めていくと。

いろいろと、生体内で細胞がやりくりしている様子が、わかるようになる。




まず、受精卵の段階で、いきなり「人事」とか「営業」のプログラムをひもとく必要があるだろうか?

ない。それどころではない。まずは同僚を増やさなければいけないだろう。

つまり、「細胞はまず第一に、増殖するところからスタートする」。

そして、社員が十分にて、分業が進み、部署が完成したら。

毎回、万能の新入社員をリクルートするよりも、最初から「営業向きの人」とか「経理が得意な人」を、部署ごとに登用した方が楽だろう。

だから、部署ごとに社員を増やす。このとき、たとえば「胃」という部門で増える細胞は、最初から、「胃で働くように特化している」。「肝臓」という部門で増える細胞は、最初から、「肝臓ではたらくためのマニュアルだけを稼働させる」。

分業が進んでいるのだ。生命科学のことばでは、分業ではなく、「分化」と呼ぶ。




これらはすべて「正常の細胞」で起こっていることである。

逆に言うと、「病気の細胞」、特に「がん細胞」では、「プログラムのひもとき方」が間違っている。

今そこで増えるなよ、というところで増えるし、ちゃんと分業してくれよ、適材適所でいてくれよ、というタイミングで決まった仕事をしてくれない。

増殖異常、分化異常。




裸一貫、一代で巨大な企業をつくりあげたぼくらの受精卵は、ご苦労なことにすべてのプログラムをもって産まれてきた。同僚を増やし、代を重ねるごとに、この部門ではプログラムの何ページを使おう、こっちの部門ではプログラムの何章を使おうと、細分化して分業を重ねていくけれど、ぼくらの細胞は今この瞬間にも、核の中にすべてのプログラムを大事にしまい込んでいる。

そのプログラムを間違ってめくってしまうとき。たとえばがんが生じるわけで。

「あっ、こいつ、プログラム変な開き方してる!」

と気づくために行うのが、「顕微鏡で細胞の核を見る」ということなのである。

2017年10月4日水曜日

彼の名は玉井大翔

ひいきのチームの成績がふるわないとき。

野球でもサッカーでもラグビーでも、ああ、チームと書いたが、ゴルフでもテニスでもフィギュアスケートでもいいんだけれども。

応援している人(たち)がいまいち調子がよくないときに、球場に行って応援をしていると、心のどこかに

「今おれはボランティアをしてやっているぞ」

みたいな、よくない感情がわくことがあった。

「見てやってるんだからな」

「勝つ方を応援した方が楽しいに決まってるけど、あえて負けつつある君を応援してやろう」

「ほら、金を払って見に来たんだぞ、今日くらい勝てよな」



なんとも小汚い感情だ。

ぼくにはそういう小汚いところがあったのだ。




感情は消そうとしても消えるものではない。

だから、なぜ自分がそんな気分になり得るのか、を深く掘っていった。




見に行ってやってる。

金を払って、時間を使って、わざわざ。

プロなんだから、楽しませてくれよ。

それが仕事だろう。

なんなんだよ、こっちだって別に暇じゃないんだ。

いい気持ちにさせてくれよ。

金、もらってんだろう。

それがお前のアイデンティティなんだろう。

ほら、生きてみせろよ。

見ておいてやるから。





いつもいつもこういう気分でいたわけではない。

けれど、たまに……。まれではない、くらいの頻度で……。

「スポーツが楽しくてスポーツを見ているわけではない」という日が、今までに、何度もあったのだ。




自分の時間を他人に説明する上で「スポーツ観戦」と言えば聞こえが良いだろう、くらいの理由でスポーツを見てしまっているときがあった。

野球を見に行くぼくは人生を楽しんでいるだろう?

サッカーを語れるぼくはガリ勉タイプじゃないよな?

フィギュアスケートの採点くらいできるよ、にわかファンじゃねぇんだから。

仕事ばっかりじゃつまらんだろう、スポーツはたしなみだよ。





ふと思った。

これらの感情は、もしかするとぼくにとって、スポーツ観戦の「思春期」にあたるものなのかもしれない。

子供だった頃、大人たちは言った。

スポーツは素晴らしいと。

夢があると。

やるのも、見るのも、ほがらかだと。

それを信じて育っているうちに、大人をまねしてスポーツを楽しんでいるうちに、いつしか、「ぼくにとってのスポーツ」というものがじわじわと、アイデンティティのように、各方面にトゲを出し始めたのではないか。

誰かの価値観ではなく、自分が打ち立てた価値観の中で、ぼくにとってのスポーツがぼくの中で立ち上がるために、スポーツを過剰に神格化してみたり、逆に卑近に貶めてみたり。

いつしか、純粋にスポーツを見て楽しむことを忘れ、「スポーツを見ている自分」がどうであるかばかりを気にするようになっていた。

これは思春期というやつではなかったか。





今年の日本ハムファイターズはふるわない。

中田が三振するたびに胸がえぐられる。

斎藤佑樹がひさびさに1勝をあげたとき、さまざまな人々の人生を思った。

名前を思い出せない若き中継ぎピッチャーが、北海道のある地方都市出身で、地元から応援にやってきた高校生たちが外野スタンドの一角で横断幕をかかげる中、負け試合でがんばってアウトを重ねるシーンで涙が出そうになった。

ぼくはファイターズが勝った日のほうが機嫌がよく、負けた日は悲しく思う。

けれど、もう、「見てやってる」とか、「せっかく金をはらったのに」とは、思わなくなった。

これはぼくが成長したとか、性格が直ったとかいう問題ではないのだと思う。





ぼくはスポーツ観戦においても中年になったのだろう。

毎日、さまざまなスポーツを見て、他人の人生を思うことをしみじみと味わっている。

2017年10月3日火曜日

病理の話(127) 嫉妬と引き下ろしとプロの力

臨床家は、ときにこういうことを言う。

「ケッ、そりゃ直接病気を見られりゃ誰だってわかるよ」

病理は細胞を直接見てるんだから、病気のことがわかって当たり前だ。けれど、そもそも医術というのは、直接細胞を見たりしなくても病を言い当てるべきだし、そうしないと患者のためにならない。

内科学は、病を「言い当てる」ことを本流とする。直接答えを見に行くというのはすなわち「邪道」。



こんなかんじで、ときおり、病理はバカにされる。「お前ら直接見てんじゃん。そりゃわかるわ」。

(おおげさだ、そこまで言う医者なんかいない、と思いましたか? 残念、実際に言われた事があります。それもネットではなく、現実の話)




もしもの話をしよう。

病気、例えば胃がんとか肝臓がん、肺がんなどのがんにかかった人を「完璧に診断する」ことだけを目的として、もう何をしてもOK、いくらでも金を出してくれる、処理もぜんぶ誰かがやってくれる、患者もその家族も全てを許してくれるとなったら、究極的にはどうやって検査したらよいだろうか?

答え。人体を細かく切り刻めばよい。それこそ、短冊切りみたいに、頭のてっぺんから足の先まで。

病気の本体がどこにあるか。

病気はどのような形をしているか。

どこにどれだけ転移しているか。

全部わかるであろう。

もちろん患者は絶命するけれども。

病気の正体はすべてわかることであろう。

なんなら全ての細胞をぜんぶ遺伝子検査に回しても良い。

人体を全部薬品で溶かして全解析するというのもアリかもしれない。腸内細菌のゲノムまで混じってすごいことになるだろうが。

マンガ「もやしもん」で、樹教授も言っていた(正確には長谷川に予測されていた)。究極のところは「人体実験」ができればいろいろ解決するのだと。




でも、それはやらない。できない。当たり前である。

検査の本質とはここだ。「いかに対象を大きく破壊せずに、一部だけから全体を読み取るか」。

内科の診察で、口の中をのぞき、胸の音を聞き、腹を指で叩き、手で押し、あるいは話を聞き、病気の姿を浮き上がらせるというのはまさに検査の本質である。中を直接見ず、触らずに、言い当てる。これが「医の本道」である。




ただ、がん診療は、それでは足りない。どれだけ精度の良い「類推」であっても、最新の治療の恩恵を十分に受けようと思ったら、足りないのだ。「カタマリがある」だけではだめだ。「カタマリによって体が弱っている」だけではだめだ。カタマリがどんな細胞によって構成されており、その細胞がどのような性質をもち、体の中にミクロのレベルでどれくらい分布しているのかを、きちんと見る必要がある。

がん細胞がミクロの世界でふるまう挙動ひとつひとつが、将来像を予測するヒントになり、治療の選択にも関わる。

たかだか5 μm程度しかないリンパ管と呼ばれるパイプの中にがん細胞が1個入り込んでいるのを見つけただけで、「あっ、まずいな、転移の可能性が高くなったぞ」と警戒し、追加の治療を検討するというのが、現在行われているオーソドックスながん診療である。髪の毛の太さが100 μmくらいだ。体の外から見て触って、どうにかなるレベルではない。

だから細胞を見に行く。「しぶしぶ」細胞まで見に行く。病理医に細かく見てもらう……。




勘の良い方はお気づきだろう。

病理医は、嫉妬のような心に晒されている。

君ら、細胞見てズバズバものを言ってくれてるけどもさあ。

そりゃ俺らはそこまでわかんないけれどもさあ。

そんなの、医術じゃないじゃん。

それに、君らしかわかんない言葉で説明されてもさあ。

その5 μmのリンパ管に入ってるのががん細胞だって、もはや俺らには区別つかないんだけどさあ。

それホントのことなの? 君の胸先三寸で決まっちゃうんじゃないの?

まあ、あるかないか、見てればわかることなんだからさあ。

間違わないでくれよな。

まかせてるけどさ。

俺らにはわかんねぇんだからさあ。





ぼくは、「無理もないよな」と思う。

病理は医の本道ではないのだ。直接見てしまっているのだから。うらやましがられて、当然。

だから、もう少しだけ努力をしようと思い始めて、そろそろ10年が過ぎる。




臨床医も今や多くの武器を持つ。それはCTやMRIのような断層診断機器であったり、内視鏡(胃カメラや大腸カメラ)のような光学機器だったり、エコーのような音響工学機器であったりする。

内科医も、実は直接見ようとしている。

病理にまかせきりにせずに……。

「医の本道は類推である」と言いながら、その実、見に行くようになったし、手を出すようになった。

循環器内科医は、心臓カテーテルを入れて、直接心筋梗塞を治療しに行く。

消化管内科医は、胃カメラからナイフを出して、がんを切り取って治療してしまう。





「ケッ、そりゃ直接病気を見られりゃ誰だってわかるよ」

こう言われるのがつらいなあ、と思って、無理もないよなと思って、もう少し臨床に近づいてみようと考えていたちょうどその頃。

臨床医も、直接病気を見ようとしはじめていたのだ。




そして、臨床と病理は、ときどき、おなじものを見ている。

「ケッ、そりゃ直接病気を見られりゃ誰だってわかるよ」

から、

「同じ病気をお互いに違う角度から見ているわけですけれど、そっち、どうっすか?」

に、いつしか変わってきたように思う。




こうなってくると。

病理という役割の重要性が知れ渡ってうれしい、となる反面。

もはや病理医だけが細胞を見ているわけじゃないからな、という、「アドバンテージの消失」にも気づく。

「俺ら、さすがに細胞の核がどうとかいうオタクっぽいところはわかんねぇけどさあ、細胞がどういう形でつながってるかとか、どこで細胞が死んでるとか、それくらいなら自分で見られるから、いちいち病理医が説明してくれなくても大丈夫だよ」

くらいには、なっている。



この構造、何かに似ているように思っていた。

さきほど、気づいた。




SNSを毎日眺めていると、タイムラインには本当にたくさんのマンガや写真が流れてくる。

中には、プロの漫画家やプロの写真家かと見まがうくらいのクオリティの、「趣味創作」もいっぱい目にする。

そういうのを見て、ああ、今の時代、プロの漫画家とか写真家として食ってくのは大変だなあ……と、思っていた。

だって誰でもできるんだもんなあ、発表の場所だってこうしてSNS上にあるわけだしなあ。




先日、札幌のデパートで、羽海野チカの原画などを展示する展覧会をやっていたのだが、原画をみて本当に驚いてしまった。

うまい、とか、きれいだ、とかではなく、語りかけてくるエネルギーが段違いなのである。

ああ、これがプロの仕事なんだなあと思った。

その仕事で食おうとする人の、プロとしての「力の籠め方」に、圧倒された。




もしかして、現代医療において「病理でメシを食っていく」というのは、これと同じ構造なんじゃないか。

「プロレベルの同人作家」と同じように、「細胞をめちゃくちゃ理解している臨床医」が増えてきた今、「プロとしての漫画家」に対応するのが「病理医」なのではないか……。




原画展をゆっくり見て回っていた。会場は大盛況で、文字通り老若男女がさまざまな原画の前で足を止め、見入っていた。

ここにいる人の幾人かは、将来、漫画家になろうと思うのだろうか。

それとも、マンガが好きな、別の世界の人として暮らしていくのだろうか、と、考えていた。

2017年10月2日月曜日

夢を語るな手足を語れ

車に乗っているときにはラジオを聴く。先日、「福のラジオ」で福山雅治がこのように言っていて思わず唸ってしまった。

「最近の子って、反抗期を経ないまんま、オトナになることがあるらしいんですよ」

「イェッヒェエッヒエエッヒエエエェエ」

……まちがえた、今のは福山雅治といっしょにラジオやってる放送作家(今浪さん)のものまねでした。もういちどやります。



福「最近の子って、反抗期を経ないまんま、オトナになることがあるらしいんですよ」

今「どういうことですか?」

福「あのね、反抗期って、もともと子供の成長というか自我の確立に必要なイベントらしいのね。子供って、小さいころから親の価値観を吸収して成長していくでしょう。思春期になると、それまで疑問なく受け入れていた親の価値観に疑問を持って、それに反発して、はじめて『自分』というものができあがっていく、ということらしいのね。

けれど、最近の子供ってのは、親だけじゃなくて、いろいろな価値観に触れているじゃない。SNSとかのせいで」

今「ああ……」

福「だから、『親が価値観の全てじゃない』から、あえてアイデンティティを作る時期に親に反発しなくてもよい。親以外にも多様な価値観に触れて自分を形成していくから」

今「ああなるほど……それはすっごいわかりますねえ」




こういう感じだった(別に文字起こしとかしてませんのでだいぶ違うかもしれないけれど、内容はこうです)。

ぼくはとても納得したのだ。

今のひとたちは、親や教師の数が多いのだろう。誰かひとりの師匠という存在はレアになり、どれかひとつの絶対的な価値というものも見出しがたい。徒弟制度の発言力も落ちている。座右の銘は瞬間的にふぁぼられて忘れられていく。

昔よりも「キャリアパス話」がウケるようになっている気もする。誰かを師匠にして暮らそうと決めることが難しい現代において、自分がどうやって生きていこうかと計画することは非常に複雑である。うまいことやっている他人が、そこまでにどうやって歩んできたかをきちんと解析して、いいところだけを吸収したい。

さて、そんな時代だなあとわかった上で、ぼくのところに仕事の依頼が来ている。



「研修医を指導する役割の人間(指導医)にむけて、何かしゃべってほしい」。



うーむ。

昔と違って、「指導医」というあり方もまた変わっているんじゃないかなあ、と思う。

誰かひとりの優秀な指導医についていればいい医者になれる、という価値観、科によってはある程度アリなのかもしれないけれど、いまどきの研修医たちにはたぶん、しっくりこないんじゃないかなあ。

あるいは、全国的に名前が轟いている医者に師事して、自分もひっぱりあげてもらおう、みたいな価値観で動いている研修医もいるとは思うけれど……。

そういう研修医を弟子にとってガリガリ指導するのは、「すでに名前が轟きまくっている医者」だけがやれることであって、9割9分の「普通の指導医」は、もう研修医を弟子扱いしてやっていくことは難しいんじゃないかなあ。




指導医ができることというのは、たぶん、「仕事によって自分はいい思いをしているぞ」というところを研修医に見せること、ではないかと思う。

「あるいはこの先輩と同じポジションに付くかもしれないわけだが、少なくともこの先輩は、このポジションでこうやって働いて、いい思いをしているのだな」と、「いいね」をひとつ付けてもらう。

研修医たちが、SNSでライトに「いいね」を付けるのと同じくらいの労力で、指導医にも「いいねの目」を向けてもらう。

たかが「いいね」一つであるが、そのいいねはきっとフォローのきっかけとなり、拡散のきっかけとなる。単一の師匠にはなれないけれど、何百人も、何千人もいる「フォローしているひとたち」の一人になれば、きっと、何か伝えることができる。




「夢に手足を」という言葉があるが、指導医の語る夢は研修医には届かない。

優れた手足を持った人間が、夢を稼働させているところを見てもらい、察してもらわないとはじまらないのではないか。

そんなことを思いながらプレゼンを編んでいる。