2019年12月30日月曜日

病理の話(400) そういえばドイツ語はもう

病理の話っていうか医療関係者の話。

ぼくらは今や、ぜんぜんドイツ語を使わない。

こういうと、40代以上の人に驚かれることがある。

今も使ってるドイツ語って「カルテ」くらいかな。

「クランケ(患者)」とかもう言わない。この文字列、もはや、同人誌でしか見ない。医療系の同人誌を書く人は、中山祐次郎先生の「泣くな研修医」などを読んでみるといいだろう。あそこにドイツ語の専門用語はひとつも出てこなかったはずだ。

もちろん今でも、ベテランドクターと一緒に仕事するとマーゲン(胃)とかゼクチオン(解剖)などのドイツ語を使うことはある。病院にもよる……。

けれども正直、医療者の大部分はもはやドイツ語を言われても、よくわからない。医学をドイツ語で語っていたのは30年くらい前までの話だ。




……なーんて、イキっていたんだけれど。

先日、血液ガスという検査の結果をみていたときに、思わず、「ペーハー」と呼んでいる自分に気づいた。

pHのことである。ペーハーってドイツ語読みだね。

また、結核の話をするときについ「テーベー」と言ってしまうこともある。

Tuberculosis: Tb. ティービー。これをドイツ語読みするとテーベーだ。

わりとぼくはまだドイツ語にとらわれているのだった。まあ、ドイツ語を使っているというよりは、日本で昭和以前に用いられていた医学用語(※ドイツ語由来)の名残がまだぼくくらいの年代に影響を及ぼしているということなのだが。




「臓器を切るときの刃物の使い方はシュナイデンだよ。引きながら切るんだ。そのまま圧をかけてもだめだ。シュナイデンじゃないといけない。」

ぼくはかつて、ボスにこうやって習った。実は「シュナイデンだよ」のニュアンスは今でもよくわかっていない。引き切る、という意味だろうか。頭の中にはキャプテン翼のカール・ハインツ・シュナイダーしか出てこなかった。

……シュナイダーのことを知っている人もいまや少なくなった。つまりぼくはもう「古い側」なのだよな。手元には一冊だけ、独英医学辞典がある。これを捨てるとぼくはいよいよ、ドイツ語の医学用語がひとつもわからなくなってしまうのだ。

2019年12月27日金曜日

スパイスは関係性の先に

ある文庫本の巻末解説を頼まれて、引き受けた。

こんな仕事、完全に本来の職能とは異なる部分で依頼されているわけだが、今回は引き受けた。

この作家の本に解説を寄せるにあたって、ぼくが「適任」なのかどうかは正直わからない。でも、チャレンジする価値はあると思った。





むかしから、椎名誠の文庫本が一冊出るたびに、乱読していた。かたっぱしから読んでいた。さまざまなレーベルからさまざまなジャンルの文庫。それらを網羅する勢いで読んだし、実際に網羅したいと強く願っていた。けれども、彼の本はほんとにいっぱい出るのだ。ちょっと常軌を逸した量が出る。だからなかなか全部は読めなかった。

まあ、自分の裁量で本が買える年齢となった今なら、強い意志をもって椎名誠全著作リストとくびっぴきで本をそろえることもやぶさかではないのだが、ぼくが一番熱心に彼の本を読んでいたのは中学、高校のころである(あと大学と大学院)。最初はインターネットもなかった。出版社をまたいだ刊行リストなんてものをどうやって手に入れればいいのかもわからなかった。だからとにかく目についたものを買えるかぎりで買っていた。図書館でも手当たり次第借りた。結果、リストの全制覇とまでは行っていないのだが、ぎりぎりフリークになるくらいの量は読んできたと思う。とくに紀行文やエッセイの類いはほぼ読んでいる(小説は一部未読かもしれない)。

さてこれらの本の巻末にはたいてい解説がついているわけだが、椎名誠の本に付いている解説は、作家のような文筆のブロが書いている場合もあったが、なんだかキャンプに同行した素人みたいな人が書いている場合もけっこうあって、それがおもしろかった。あるときは料理人が書いていた。あるときは居酒屋の店長が。あるときは南の島の住人が。椎名誠の半分の年齢にも達しない若いライターが書いていることもあった。沢野ひとしや木村弁護士といった、椎名誠にゆかりの深い有名人はもちろんなのだが、「……誰?」という人もいっぱい解説を書いていた。ぼくはあの雰囲気が好きだったのだ。

あとから振り返ってみると、ほかの文芸、たとえばSFとかミステリには、厳然とした「これくらいのクオリティは用意せよ」という圧力みたいなものがあるものだが、こと、椎名誠の文庫の解説については、彼とのほがらかな関係がにじみ出ていれば何を書いてもOK、のように見えた。彼が愛した、あるいは、彼を愛した人間が何かを書くだけで、それは必ず椎名誠的日常や椎名誠的幻惑の世界にとって微量のスパイスとなっていた。大味が変わらないから安心していい。カレーに多少コショウをふったところでカレーはカレーなのである。それはあたかも彼が長いこと形を変えながら続けてきたキャンプの、やたらめったら具材が投入されるうまそうな鍋のようだった。ぼくは椎名誠の文庫の解説が好きだった。




で、まあ、今回、ぼくが解説を寄せる相手はもちろん椎名誠ではないのだが、あるいは、この、筆者との関係という意味では、うん、まだ一度しか会ったことはないのだけれど、いちおう好きな相手ではあるので、なんか書いてみても大丈夫かな、と思ったのは事実なのである。締め切りは1月。

2019年12月26日木曜日

病理の話(399) 数字と臨床のセンス

今日の話もしかするといままでで一番マニアックで難しいかもしれない。

でもこのブログはもうそういうことでいいやと思っている。

医療系のブログっつってもいろいろなんだ。

わかりやすいブログ。確かな一次情報を置くブログ。時事をときおり切り取ってくるブログ。問題提起型。資料型。

じゃぼくのはどこかって、たぶん、「図書館の片隅で、自分の好きな本棚をかたっぱしから読んでいく本の虫」が、食事中とか電車の中とかでちょろっと活字を摂取するためのブログ、だと思う。

だからこれでいいや。





さて今日の話ですが。

新生児とか乳児、小児の病気にもいろいろある。

たとえばウイルスや細菌がかかわる病気。

あるいは、アレルギーがかかわる病気。

そして、かなりまれではあるんだけれど、全身にふしぎな症状が多発する、原因も病態もよくわかっていない病気、というのもあるんだ。

この「かなりまれ」ってのがポイントだ。まれだから、きちんと研究されていない。かかる人がいっぱいいれば、それだけ医療側の経験値もたまっていくんだけれど、まれな病気だと、集合知がなかなか大きくならない。だから、診断するのも治療するのもけっこう難しい……。



で、ぼくはそういうむずかしい病気の本を読んでいた。そしたらびっくりする考え方が書いてあったんだ。



「この病気は、原因が不明であったが、時代がうつりかわってもずーっと人口のある一定の割合の人だけがかかる。社会の衛生環境や医療状態がうつりかわって、食べ物やアレルギーの種類などが変化しても、いっこうに、病気にかかる割合がかわらない。

だから、おそらく、単一の遺伝子に関係がある病気だろうと推察した。

そこで遺伝子を調べまくったら、ある遺伝子に原因があることが最近判明した。」



この「だから」の部分が意味不明だろうから解説をする。



実はほとんどの病気は、原因をひとつに絞れないのである。遺伝子に傷がついていれば必ずある病気になるか? ならない。生活習慣が乱れまくっていればかならずある病気にかかるか? かからない。有名なところでは、いくらタバコを吸っても肺がんにかからない人はいるし、いくら暴飲暴食を繰り返しても痛風にも糖尿病にもならない人もいるだろう。親ががんだからといって子供が必ずがんになるということもない。

つまり、原因は組み合わさるのだ。それも、2個とか3個とかじゃない。何十個も、ときには何百個も積み上がっていくのである。タバコも暴飲暴食も、確実に何かのリスクにはなるんだけど、ある病気にかかった人の原因が「とにかく絶対にタバコだけが悪かった」みたいに決めつけることはできないのである。

すると、タバコを吸えば必ず一定の確率でがんが出るとか、暴飲暴食をすれば必ず一定の確率で糖尿病になる、みたいなことも、なかなか言えなくなってしまうのだ。これが多因子が発症に関わる病気の難しいところである。


ところが、今回話題にのぼった、とあるまれな病気に関しては、社会環境や、医療の状態が時代とともにどんどん変わっても、病気にかかる割合が、0.稀パーセントのまま、変わらないのだという……。

ほかの要因が移り変わっているのに、発病割合がかわらない。

「まわりの状況にかかわらず、一定の割合で(その数字にもヒントがあったのだが)病気が出てくる」

ここから、ある単独の遺伝子のキズによるシンプルな発病メカニズムがあるに違いない、と読み切った、推理した人がいたのだ。しかもその推理を、実際の原因遺伝子の発見にまで結びつけた人がいる!!!

す、すごい!!!!!





ごめん、ぼくばかり感動しているかもしれない……。

でも単一の遺伝子異常が原因の病気ってそんなに多くないんだ。だからこれが新たに見つかるというのはすごいことなのである。治療にもつながるかもしれない。



いやいやいまどき、ゲノム医療の時代なんだから、そんな、数字がどうとか割合がどうとか言わなくても、全部の病気の遺伝子を調べればいいじゃん、って思う?

そういうわけにもいかない。

だって、遺伝子といったって無数にある。

「とりあえずどこかの遺伝子がおかしいんだろう」と、のべつまくなし遺伝子のキズを探しにいくようなことはなかなかできない。

まして、珍しい病気だからね。数を集めて研究する手段が使えないのだ。

そういう難問を解くのきっかけが「割合」、すなわち、「数字」にあった、というのが、ぼくがここまで感動している理由なのである。




……ああ、いや、もう、読者には伝わらなくてもいいよ!

ぼくは、数学的なセンスで、医療に切り込んで、未来を開いた人が、同じ人類にいるんだなってことに、ただただ感動して、それをブログに書きたかっただけなんだ! うっ……。

2019年12月25日水曜日

影絵の条件

クリスマスイブに精子が精嚢でいったんストックされる話を書いて出してるんだなーということに今さら気づいてじわじわ来ている。

カレンダーに書いてあるイベントの大半は他人事になってしまった。ただ別に冷たい目線で眺めているわけではない。「昔は自分ごとだったなあ」という、わりかし温かい目で見ている。たぶん、そういうタイプの「他人事目線」というのもある。

なんでもかんでも自分ごとにすればいいというものではない。

「他人事」もまた奥が深いと思っている。



他人をきちんと他人として見続けることで、風景の中でうごめいている有象無象に少しずつ視点が定まって、風景のピントが合ってくる。その結果、自分が太陽に対してどの位置にいるのか、自分の影がどこにどのような形で降りているのかが見えるようになる。何かに投影された自分の影の形をみながら、今、自分の肩や首がどういう方向を向いているのか、ようやくぼんやり理解する。

自分の人格をみるカガミというのはたぶん存在しない。

見えるのは影ばかりだ。

影を見るために必要なのは投影する背景、そして光。強すぎてもだめだ。




あとは目がよくないとだめかもしれない。

ぼくは伊達メガネだから目はいい。だからなんとかなると思っている。

2019年12月24日火曜日

病理の話(398) フクロの話

胆のう。

正確には「胆嚢」と書く。というかぼくは胆嚢としか書かない。けれども新聞とか雑誌では胆のうというように漢字の後半部分が開かれている。

胆嚢の「嚢」は、ふくろという意味だ。

ためしに「ふくろ」を漢字変換してみたらちゃんとこのように並んだ。

ふくろ
復路
福路
吹路
👝

最後のはポーチだが、pouchというのも袋という意味だから合っている。



体の中にはどれくらいフクロがあるか?



胃袋というのが一番有名だ。ただし、胃は入口と出口が開いている。だからフクロとしては不完全だ。一時的に食べ物を留めておくための仕組みだからこのほうがよいのだろう。

胃の入口と出口は筋肉で締められていて、食べ物が流れるタイミングでうまいこと引き締まる。変なタイミングで逆流しないように。消化する前に後ろに流れていかないように。

たとえば、胃の入口の部分を縛っている筋肉の一部は、横隔膜と連続している。腹圧を高めると横隔膜が上に押しやられ、このときに胃の入り口を強く引っ張って、ギュッと縛る。縛られていれば逆流が起こりにくい。

もし、この仕組みがなかったら、ご飯を食べて1時間以内に大声を出したり腹に力を入れたりしたら食べ物をもどしてしまうことになるだろう。なんともまあ見事なメカニズムである。




さて胃袋はともかく、他にもフクロがある。

たとえば冒頭に述べた胆嚢。形としては、サンタさんの抱えているフクロに似ている。くびれて、中身の量によってだるーんとたるんだり、パンパンに詰まったりする。

肝臓で作った胆汁(たんじゅう)を、十二指腸に流し込む前にいったん置いておく倉庫の役割をしている。入口と出口はどちらも「胆嚢管」と呼ばれる管だ。

肝臓という工場と、十二指腸乳頭部という市場の入口をつなぐ輸送路として、胆管という太めのパイプがある。この太いパイプを通って胆汁がまっすぐすすんでしまうと、つまり、「肝臓で胆汁を作った先から十二指腸に流し込んでしまうと」、実は都合がよくない。なにせ、胆汁というのは、食べ物が十二指腸を通過しているとき必要なのであって、それ以外の時間は別にそこまで大量に流れていなくてもよい。

胆汁は消化酵素の一種であるが、思った以上に機能が多く、また胆汁の「部品」もけっこう重要なものが多いので、あまりダダ漏れにはしたくないやつなのである。だから、肝臓という工場から十二指腸という出荷先にまっすぐ運ぶのではなく、途中でサンタブクロである胆嚢に一時的にためておく。倉庫を用意しておく。そして、必要なタイミングでこのフクロをぎゅっと絞り込むことで、食べ物が通過するタイミングで胆汁を集中的に投下するのだ。

いやー人体すげぇな。




ほかにもフクロがあるぞ。

まず精嚢(せいのう)。

体外からは見えない。膀胱の下、前立腺のうらについている。

精巣(キンタマ)で作った精子をそのまま尿道からダダ漏れさせたらだめだ、ということはなんとなくおわかりだろう。必要なときにぎゅっと、一気に絞り出す必要がある。

けれどもキンタマというのは精子の工場であって、倉庫ではなのだ(勘違いしている人もいるが)。だからキンタマ工場から精子を直接尿道に送り込む前に、体の外からは見えないマニアックな部分にあるフクロに精子を溜めておく。

こうやって書くと胆嚢とそっくりだよね。




まだあるぞ。膀胱。

ただし膀胱は胃と近い。入口(尿管)と、出口(尿道)を縛ってとめてあるだけのふくらみだ。尿ブクロ。




こうやってみてみると、臓器に対する漢字はきちんと狙って付けているのだなーということがわかる。

胃、膀胱: 入口と出口がある → 厳密にはフクロじゃない → 「嚢」がつかない

胆嚢、精嚢: 入口と出口が共通 → フクロだ → 「嚢」がつく




解剖学者って偉いな!

2019年12月23日月曜日

真剣と真菌の話

NHKとか朝日新聞の人とたまに同席するようになった、これからは日テレとかフジテレビとかTBSとかテレ東の人とも同席したい。

毎日とか日経とか産経とか北海道新聞の人とも同席したい。

週刊文春とか新潮とかポストとかスポニチの人とも同席したい

同席して、それぞれが仲良くしてるところをみながら、焼き鳥とか一人で食べたい。

ぼくは誰と会ってもなんかそこをあんまり続けたくないのだ。一人にしてほしい。

かわりにそこに別の医者を連れて行きたい。うぶな医者を連れていってみんなで胴上げしたい。迷惑そうな顔をスマホで連続写真におさめたい。

そしていつしかぼくよりその医者のほうがみんなと仲良くしてるところを遠目に見ながら、「ぼくじゃないほうがいいんだ。」って小石とか蹴りたい。




そういうことを考えて、そういう存在になろうとした人、今までも何億人もいたんだろうなーというのが、わかる。

そして今はツイッターという居酒屋を使えば、それに似たことがかんたんにできる。

だからもう直接会う必要性とかぜんぜん感じてない。忘年会スルー。懇親会スルー。



こういうぼくに限っては、フォロワー増やすのが一番だいじな気がしなくもない。「フォロワー数なんて重要じゃない、大事なのは質」とか言う残念な発言は無視して、「ひたすらネット上でだけ数を増やしていくタイプの人間ですよ、ぼくは。」と言い切ったほうがいいんじゃないかと思う。小石がコツンと頭に当たる。どこからかえってきたんだ。





なんてことをもうずいぶんと前に考えたんですけれどフォロワーは増やすものじゃないんですよね、

はえてくるんです。勝手に。台所の隅とかに。カビみたいなかんじで。コロニー。フローラ。ドメスト。

2019年12月20日金曜日

病理の話(397) 医書の話をします

医学書は高いので、買ってからやっぱり要らなかった、となったときのダメージがはんぱない。

なので、本屋で立ち読みすることはけっこう重要だ。

立ち読みっていうか、いっそ、買わずに図書館などで借りて済ませれば? と言われることもあるのだが、自分の専門領域の知識を一度読んだだけで記憶できる人は基本的に存在しない(今の医学知識の総量はとんでもない量である)ので、

・自分に合っていて
・自分が使うとわかっている本

については買ってしまった方がラクでよい。結局はそのほうが自分のためになる。


立ち読みにもコツが必要だ。

手元に置く以前の段階で、チェックしておきたい項目がいくつかある。

レイアウトやフォントが読みやすくて自分に合っているかどうか。

「フルカラーかどうか」はこの際あまり関係ないので注意しよう。

ただし、看護学生向けの本などで、すみずみまで色あざやかなフルカラーでなお「読みやすい」場合は、編集者やデザイナーが細やかに目を通しているということでもある。その方が信用できる、ということも確かにある。



複数の本を読み比べるときには、何かひとつ、「同じ項目」をさくいんで検索してみるといい。

たとえば病理学の教科書だったら「出血性ショック」の項目を読み比べてみるのだ。

全体を読んで雰囲気を比べるのは大変だが、あるひとつの項目を比較するならわりと簡単にできるだろう。



……みたいな、一般的にもわかりやすい「立ち読みの仕方」についてはまあいいとして、実はぼくが本を選ぶときにこんなことよりも圧倒的に頼っているやり方が別にある。

それは、「実際に学会や研究会などで話を聞いたことがある人の本を買う」ことなのだ。

完全にぼく向けの話であり万人におすすめするやり方ではないのだけれど、ぼくはとにかく、「何度か会ったことがあって、声を聞いたことがある人の本は、著者の声が聞こえてくるような気がしてすごく読みやすい」のである。

つまりは知っている人の本を買う、ということだ。



もちろんこの技が使えないタイプの教科書はいっぱいある。洋書とかだと著者に会ったことはまずない。

けれども日本人の医者が日本人の医者のために書いた本の場合、そこそこ知っている人がいる。あるひとつのジャンルで、どの教科書を買うべきか迷ったら、声がわかる人の本を買うとその後なんども参照して役立てることができる。



学会などでセミナーを聞いて「ああー、この人のいうことわかりやすいなー!」と思ったらすかさずその人の本を買うのだ。これで外したことは一度もない……。




ただおもしろいことに逆のパターンもある。

本で先に知った人の話を聞きにいったら意外とおもしろくなかった、みたいなこと。

こういうときは先に買った本が色あせてしまうから不思議だ。ある意味もろ刃の剣なのかもしれない……。




以上の内容はおそらく一度ブログに書いてるけどまた書いておく。何度か書くことが大事だからね。

2019年12月19日木曜日

伸るか反るかのはなし

年末進行一段落。

墾田永年私財法。

武士は食わねど高楊枝。

小林製薬糸ようじ。

リズムとしてはこういうかんじ。



2019年もいっぱい外で働いたけれど、内にこもって思索を深める時間もけっこうあった。

一番足りなかったのは対話の時間かもしれない。外と内の境界にあるはずの人や物、そういったものから目をそらしていた気がする。極端な1年だったと思う。

もっとも遠い人とコミュニケーションすること。もっとも近い部分とコミュニケーションすること。

ほんとうは、「適度な距離の君」とやりとりしなければうまくいかないのだろう。

孤立はしなかった。孤独でもなかった。

でもぼくはどこか弧状だったと思う。まっすぐではなかった。弓なりにしなったり、背中を反らせたり、少しずつ目的地を回避したり、砂浜になったりした。




2020年はさまざまな事情があって外での仕事を大幅に減らしている。

一番でかい理由は職場の病理医が減って仕事が増えるということ。仕事というか、解剖当番のために自宅待機する日数が増える。だからあまり出張できない。まあ今までが外に出すぎだったのだが……。

そういえば、ひとつ新しく、大きな仕事をはじめる。守秘義務が強く、いずれプロジェクトがうまくいくまではさすがのぼくでも詳しいことを書けない。たいていのことは書いてきたけれど。今回はぼくの論理だけではないから書けない。

今までどれだけ自分だけの論理で動いてきたか、みたいなことを同時に考える。べらべらなんでもしゃべって顔を出して物を書いて。ぼくはわりと自分だけの論理で動ける場を作るために、遠方と直近以外の関係をばさばさ切り落としてきたふしがある。




忘年会スルーという言葉はいかにもツイッターで流行りそうだなと思った。

ぼくも長年、人間関係をスルーしてきた部分がある。人間ではない関係がその分強まった。遠い人ほど仲が良く、自分とだけケンカをする。そろそろ対話をしておかないと、弧状で紐状であるぼくは、どことも交点を作らないまま、レールのない場所を曲がりながら進んでいく切ない999みたいになってしまうだろう。人生という名のSLというフレーズ。電車は決して交わらない。ブラックジャックの最終回がそれだった。すべて先にやられている。ぜんぶ誰かが通った後である。降り立った月面にすでに無数の足跡がある。古代遺跡の先に潜む聖櫃を開けたら中に怪盗キッドのカードが入っている。

2019年12月18日水曜日

病理の話(396) 病理医の話法

ある本を読んでいた。著者が病理医。

その文体がいかにも病理医だなあーと思った。

生命や病気のことを語る際に、

「大きいほうからミクロに向かって、順番に構造を語っていく」のである。

「ロングショットからはじめてだんだんズームアップしていく」のである。



まずは全体を俯瞰して、これから見るものがどこにあるのか、位置を確認。

肝臓だったら、右上腹部に星印を付けて、視線を誘導する。

肺に病気があるなら、肺のさらにどのあたりにあるのか。

右? 左?

右肺だとしたら、上? 中? 下?

右肺の上葉ならば、さらに、体の中枢(肺門部)に近い方? 遠い方?

じわーっとカメラをズームアップしていく。



肺の中には肺胞とよばれる小部屋が無数に詰まっている。

その中に、口からつながった気道が、気管となり、気管支となり、木の枝のように分岐して、入り込んでいく。

あたかも木のようだ。

肺胞が木の葉にあたる。気管支・細気管支・末梢細気管支……は枝にあたる。

同じ肺の細胞といっても、葉っぱと幹・枝とでは機能が異なる。

そしてもちろん形も異なる。

まずは細胞がどういう形を作っているかを判断する。そろそろ顕微鏡が必要だ。

細胞が横に手をつなぎながら作っている構造が、「部屋」なのか、それとも「何かの産生工場」なのか、はたまた「パイプ」なのか……。

ミクロの組み体操には必ず意味がある。それは機能を達成するために必要な構造だからだ。

肺の中には空気が入ってこなければいけない。だからスペースをつぶしてはだめだ。「空白」が確保されなければいけない。

そのためには細胞がぎっしりと詰まってしまってはだめだ。

手を繋ぐ方向を決める。少なくとも一方にはスペースが確保できるように。

そのような細胞の「極性」とか「軸性」みたいなものがだんだん見えてくる。

拡大を上げると見えてくる。

遠目にみて「なんとなく部屋を作ろうとしているなー」と思ったら、ぐっと拡大すれば、「その部屋を作るために必要な細胞自体のカタチ」がわかる。




そして細胞がなんらかの構造を作り上げる上で、細胞は自ら、機能にあわせたタンパク質を作っている。

タンパクそのものはもう小さすぎて、顕微鏡ですらうまくみられない。レゴで作った城をズームアップして、レゴ一個一個は見えるようになるけれど、「レゴ1個を作っているプラスチックの分子」まではどうやったって見えない。

でも見えなければ可視化すればいいのだ。特定のタンパクにくっつくような物質をふりかけて、そのタンパクがあるところだけを光らせる。

免疫染色。

これを使って、「ミクロの組成」をも目の当たりにする。どんどん細胞のことがわかっていく……。





以上の一連の、「だんだんクローズアップしていく話法」こそが、病理医の真骨頂かな、と思うことがある。まあ人それぞれだけど。ときには、「超ミクロの話からスタートするタイプの病理医」もいるからね。

この話法のメリットは、サイズごとに着眼点や話題を整理しやすいということ。

デメリットは、ひとつの話題について話すだけなのに妙に長くなるということだ。




つまりぼくがいったんしゃべると止まらないのは性格ではなくて病理医としての性質なのである。あきらめてほしい。

2019年12月17日火曜日

ぼくは専門家になろうとしている

「難しいことを簡単に説明する」という仕事は大きなニーズがある。なぜかというと世の中には難しいことが多すぎるからだ。

そしてこれはもう近代文明ができてこのかたずーっと言われてきていることだけれども、「専門家のいうことはわかりにくい」のである。

「わかりやすくしゃべってくれる専門家」がいれば、どれだけいいだろう……と、誰もが自分の専門外の話について、望んでいる。

それは病気についての情報かもしれない。育児についての情報かもしれない。税制度についての情報かもしれない。ラグビーのルールについて。最新のヒップホップ事情について。ワインの銘柄について。AIについて。

とにかく専門家の話はハードルが高くてよくわからない。なぜもっとわかりやすくしゃべれないんだろう? と、ずっと不思議だった。

……だれもが赤ちゃんから子どもを経由して思春期に振動して、だんだん大人になるにつれて何かに詳しくなっていってるわけで、今、自分が何かに詳しいとしても、生まれてからずっと詳しかったわけではないだろう。

だったら、自分がもっとよく知らなかったときから、今に到るまでをふりかえって、どうやってその知識を身につけたのか、順に追っていけば、ふつうにわかりやすくしゃべれるものではないのだろうか……?




なんてことをずーっと考えながらここまでやってきたんだけれども、たとえば病理の話というのを二日に一回書こうと思ってやってきて、今こうして振り返ると、読者として医者や研修医や医学生を想定しているわけではないのに、なんだかしょっちゅうわかりにくいことを書いている。

ぼく自身、ちっともわかりやすく書けていない。

もちろん文章力というか編集力というか国語力の問題はあるにしてもだ。

あれだけ「専門家の書くことはわかりにくい、そんなんじゃだめだ」と言い続けてきたわりに、ぼくが何かを書くときの視点が、そもそも、一般の人を向いていないことがあるなあ、と気づいた。

いつのまにか専門家のマインドになってしまった。

なぜだろう。なぜここにたどり着いたのだろう。

ぼくは今、病理というひとつのテーマについてずーっと考えていて、その考えを更新し続けていくことに強い魅力を感じている。

そんなぼくは、「今から病理に入ってこようとする人」との距離がどんどん開いている。今まで数多くの専門家たちが、そうだった(そう見えた)ように。



自分が知っていることの、一番難しくて、一番おもしろいことをしゃべりたい、という欲求は、三大欲求なみにでかい。ああそういうことだ。「みんなに向けてわかりやすくしゃべること」が社会的意義だとか使命だとするならば、「自分が言いたいことを言うこと」は欲望につながった本能みたいなもの。

本能を抑え込まないとわかりやすくは居続けられない!

くっそ、そういうことだったのか! 



なら本能くらい制御しろよ、てめぇは大脳新皮質が完備してないタイプのサルかよ。

そう思うのでまたわかりやすく書くこともあきらめずにやっていきたいと思う。しかしこの、自分が手に入れて温めているものをそのまま書き散らしたいという欲望のでかさには辟易する。こんなにわかりづらく書きたくなるものだったんだな。知らなかった。ときどき目にする「専門家なのに一般向けのエッセイ書いてる人達」がいかにバケモノかということを再認識してあらためて驚愕している。

2019年12月16日月曜日

病理の話(395) 脳神経の2つの役割

こないだから読んでいる本、『タコの心身問題』 https://www.msz.co.jp/book/detail/08757.html に書かれていて、おもしろかったこと。

ぼくらはみんな脳を持っている。

脳のはたらきと言えばなにか?

思春期真っ盛りのこじらせた大学院生とかでない限り、たいていの人は、以下のような答え方をするだろう。

「考えること!」

あるいは、こう答える人もいるかもしれない。

「情報を処理する!」

さらには、こうやって考える人もいるだろう。

「手足を動かしたりする!」

これらは全部正解である。脳は中央制御室であり、心と体のコントロールセンターだ。そして、どの答え方をしてもまったくかまわないのだが、よくよく考えると、これらの答えは意味が微妙に異なっている。

考えることと、情報を処理することは、ちょっと重なっているかもしれない。似ていると思う。

しかし、考えることと、手足を動かすことは、必ずしも同じことを言っていない。おわかりだろうか?




脳神経にはおおきくわけて2つの役割があるというのだ。ぼくは上記の本を読むまでそんなことを考えたコトがなかった、衝撃だった。

「感覚神経から得た刺激に対して、運動神経で応答するような、感覚→運動をつかさどるしくみ」

と、

「歩くときに手足や体幹や心臓などを協調させて、多くの細胞がいっせいに働けるように音頭を取るしくみ」

がある。二つ目のほうが盲点だ。




7人乗りのボートをこぐときに、すべてのこぎ手がタイミングをあわせてせーの、せーのとこぐように、複数の細胞や器官が何かひとつの目的に向けて協調する。この部分はとても大事なのだということを完全に失念していた。

感覚神経によって何かを感じ、それに応答するために運動神経で指令を出すという、体外に対して体内を反応させるメカニズムばかりイメージしていたけれども、体内のあちこちにちらばったさまざまなメカニズムを統合し、あたかもオーケストラで指揮者が指揮棒をふるように、あるいはサッカーで監督が決めた戦術にあわせてフォワードとミッドフィールダーとディフェンダーがそれぞれ動き出すように、呼吸を合わせることもまた脳なのだ。

ハァー言われてみりゃまったくその通りだ。

ネットワークにつながったセンサーを体の境界部分に配置して、外部刺激と反応し続けるだけならそれは知性ってより反射だ。

歩くときに右手と左足が同時に前に出て、体を自然にねじらせて重心のバランスをとる、みたいな複雑な運動をするのも、脳の立派な役割だ。いやー気づかなかったな。



タコの心身問題に限らず、最近読んでいる本には、脳が何をしているのかがけっこう細かく書かれていて、今まで雑に脳のことを考えてきたぼくにとっては学びが大きい。

『脳だけが旅をする』なんていうブログを書いておいてあれだけれど、ぼくは旅に出る脳のことなんてこれっぽっちもわかっていないのだ。まるで思春期を少し通り過ぎた子どもをもつ親の気分である。

2019年12月13日金曜日

脳だけが旅をする

「note感謝祭」をYouTubeで聞きながら働いていた。

https://www.youtube.com/watch?v=AB717GCv4mI&feature=youtu.be

文藝春秋や早川書房の人がnoteの企画でかなりおもしろいことをやっていてへぇーと思った。noteは今までのSNSと比べて「クリエイター率」が高いのだという。書くこと、そして読むことに対し抵抗が少ない人が多く集まっている。noteを使って新たな書き手を発掘したり(文藝春秋に素人が掲載される可能性があるなんて夢のある話だ)、逆にnoteを使って新たな読者を開拓したり、といった新しい商売の形がいろいろと提示された。


noteの優位性についてはある犬からも聞いたことがあった。これから何か文章で勝負するときにプラットフォームとして使うならnoteがいいだろうという話。そのことをそのまま、あるかなりでかいアカウントの人に伝えたら、彼はすぐにピンときたらしく、noteでエッセイをサラサラとかきはじめ、1週間もしないうちに編集者を捕まえて書籍化までたどりついてしまった。ぼくはそのときnoteの勢いを実感した。そして同時に、

「文芸は今やフローなんだな」

という気持ちを強めた。



何度も何度も読み返す、お気に入りの小説を本棚に一冊だけ……というスタイルでみんなが暮らしていては本はいつまでも売れない。出版社や書き手は、猛烈な勢いで流れ去っていくコンテンツの大河でどれだけ目立って浮き上がってくるかということを考えているし、現時点でnoteは、川面に目を向ける人が集まってくるサービスであり、大河で目を引きやすいブイを打ち込むタイプのSNSなのである。



でもなあ。医療情報はフローでは困るんだよな……ほんとは……。

「一家に一冊、家庭の医学」が、本棚の中で勝手に分厚く改訂されていく、みたいな、各人がいつでも使えるようにストックされている状態で、かつ内容を更新し続けるというのが医療情報の根幹であって、文芸のように「次から次へと魅力的なコンテンツをフローさせる」では話にならないのである。

でもなんかnoteには可能性を感じなくはないんだよなーと思ってとりあえずぼく自身はnoteを「異業種の人々との往復書簡」と「本の紹介」にだけ使っている。医療情報の中でもフローしてかまわないジャンルのものと、ストック性が高くないと使えないものとがあって、異種格闘技戦的対話で視点を増やす「文通」と、多様な書き手を紹介する「書評」についてはフローしたほうがいいんじゃないかなという判断あってのものだ。

でもこれであっているのかなあ、と、書きながら思考を練る、そのために「脳だけが旅をする」を使っているふしがある。脳だけが旅をする。

2019年12月12日木曜日

病理の話(394) 診断とはなんですか

2020年の1月16日、三省堂書店神保町本店でイベントをやる。

http://jinbocho.books-sanseido.co.jp/events/5163#Rje4jnJ.twitter_tweet_ninja_l


國松先生と対談させてもらうのだ。すごいことだ。ご縁があるだけでもありがたい。

國松先生の本はおもしろい。今回、イベントでとりあげるのは『仮病の見抜きかた』という本だが、小説仕立てで非医療者でも読めるくせに内容がゴリゴリの医学書なのだからびっくりする。どういう脳をしてたらこういうものが書けるんだ。おどろくばかりだ。版元が金原出版(医療系)。これ、医書出版社ではなく、もし講談社あたりから出ていたら、ふつうに芥川賞の候補になったのではないか? まじで。たとえば『これはペンです』も芥川賞じゃん。ベルクソンの第一縮約後の表象を芸術と呼び、表象を扱う芸術的文芸に芥川賞が与えられるのであれば、『仮病の見抜きかた』なんておもいっきり選考対象作じゃん。せめてノミネートしろよ。選考委員のアンテナ短いんじゃないか?

……くらい、熱く、のめりこんでしまう本である。おすすめ。



ほかにも『病名がなくてもできること』という医学書があってこれまた激烈におもしろい。愛読書レベル。

國松先生の本にははずれがない。Amazon著者ページを貼っておく。

https://www.amazon.co.jp/%25E5%259C%258B%25E6%259D%25BE-%25E6%25B7%25B3%25E5%2592%258C/e/B06XZKY5FW%3Fref=dbs_a_mng_rwt_scns_share




いいだけ宣伝をしたが、イベントについてはぼくがこの記事を書いている時点ではまだ申し込みが開始されていない、記事が公開された時点では申し込みははじまっている(詳細は一番うえのURLを参照)。ということで、これを皆さんが読んでいる今日、もし対談イベントが満席になっていなかったとしたら……うん、ごめんねってかんじでめちゃくちゃに謝る。國松先生が出るイベントで100名分しか席がないなんて信じられない! 少なすぎる! というのがぼくの感想だからだ。それに、開催地が医書のメッカ(神保町)だぞ。2時間で埋まるに決まってる。埋まらないとしたらそれはぼくがよっぽど医書界隈で嫌われているとか、神保町に巣くう編集者たちが結託してぼくの悪口を言っているとか、そういう独特の理由がないと理解できない。

だからここからは満席前提で話をする。つまりもう申し込もうったって遅いよってことだ。めんぼくないけどあきらめてほしい。今日の段階で申し込めるわけがないのだ! ……たぶん。




「診断とはなんですか?」

この質問に多少なりとも答えられると思って対談を受けてしまった。しかし、その後、いろんな本を読むうちに、「診断」なんていう哲学にぼくなんぞが何か偉そうなことを言えるものなのだろうか、と、はなはだ心配になってきた。今はもう膝がガクガクしている。これは比喩ではなくほんとうである。冬だからね。

診断というのは名前をつける作業である。何につけるかというと、人の苦しみに名前をつけるのだ。ただここが難しいところで、実際には、「まだ苦しんでいない人」に名前をつけることもある。高血圧とか、脂質異常症とか。あるいは、苦しみがおわったあとに名前を後付けしなければいけないこともある。名前がついていなくても苦しいものは苦しい。名前がついたからといって苦しみが癒えるとは限らない。

……でも癒えることもあるのだ。ここが難しいところである。名前をつけるだけで足並みが揃うという効果もある。医療者たちがひとつの診断名に向かって行進することができる。逆に名前がなかなかつかないと医療者たちは困ってしまうが、名前がつかなくても動けてしまうという論理も医療の世界には厳然として存在する……。

何を言っているかというと、診断というのは医療そのものではないということだ。医療の一部でしかない。しかし、確かに医療を医療として際立たせる部品でもある。たとえばぼくのように、医療の三要素である「診断」「治療」「維持」のうち、診断しかしていないタイプの特殊な医療者もいる。

とにかく「診断とはなんですか?」を語ろうと思うとぼくは「こう」なってしまう。あっちへひょこひょこ、こっちへひょこひょこ、流浪と放浪の末に思考は散逸して、自分が確かによりどころとしているベースキャンプなのだけれどもそれがどういう形をしているのか、どういうメリットがあってどういう弱点があって、どういう志向性があってどのように同期していけばいいのか、まごまご、よろよろしてしまう。

そのあたりを当代きっての「診断者」である國松先生にゴッリゴリに解説してもらってメッタクソに料理してやろうじゃないか、というイベントだ。どうだおもしろそうだろう? 難しそうで、脳が熱を持ちそうで、わくわくするだろう?


……みたいなニュアンスを感じた人によって、申し込みが開始されるとほぼ同時に満席になってしまっているはずのイベントなのだが、もしまんがいち、席が余っているということがあろうものなら……まあそんなことはないと思うのだが……このブログを読み次第、申し込んでおいたほうがいいと思う。


http://jinbocho.books-sanseido.co.jp/events/5163#Rje4jnJ.twitter_tweet_ninja_l

2019年12月11日水曜日

速報より詳報を

報道についての話。




ぼくらは情報を複数のルートから手に入れる。

それはあたかも、ぼくらの体の表面に張り巡らされた無数の感覚神経たちが、視覚、聴覚、触覚、味覚など、さまざまな刺激を複合的に脳に送り込んでくるように。

スマホから。ラジオから。テレビから。友人・知人から。電車の中で隣の人がしゃべっていた話を。街頭広告のビジョンに文字列として浮かび上がっていたものを。

交差点に立ちすくむようなぼくらは、無数の経路から入力される情報を受け止めて、世界を表象として理解する。





誰よりも早く情報を伝えるタイプの「速報」がぼくらのレセプターを歓喜させる。

一報が出た後の「意見」によって、ヘッドラインの奥に潜む意図を読みとろうとする。

「専門家のコメント」。

「解説委員」。

「知人のひとこと」が事件に色を添える。

「雑踏のつぶやき」によって世界が見違えたように変わる。

複数のスタイルの報道が組み合わさって、複雑な世界がようやく総体としてみえてくる。

ぼくらはそれをもはやどう知覚したのかわからなくなる。

けれどもなんとなく全体をぼうっと知覚する。




そういうものなんだ。

だからいろんな報道の仕方があっていい。

それを、わかった上で、あえていう。

ほかは知らない。医療系の報道に関してだけ、いう。





医療関連の報道に、「速報」はいらない。

やるなら「詳報」だけにしてほしい。

「速報」はうんざりだ。





「誰よりも早く出すこと」は、誰にとっての価値なのだ?

「一番乗り」は誰のためなのだ?

報道各社の先頭争い? 記者の功名? メディアのプライド?

そんなものはぼくたちにとって関係がない。

ぼくたち、というのは、医療者、ではない。世の人々である。医療を享受する側も、医療を提供する側も、みんなだ。

新しい治療が出現したことを世界に一刻も早くつたえれば、その情報を待ち望んでいた患者が救われる……?

そんな限定的なシーンがどれだけあるというのか。

こと、医療情報に関して、「誰よりも早く伝える理由」が見つからない。「独占スクープ」は記者のためでしかないと感じる。





もちろん、医療の報道をするのもまた人だ。

伝え続けるためにはモチベーションがいるだろう。立場がいるし、地位がいるし、おそらく名誉もプライドも必要であろう。

誰よりも早く情報を出すことで、その人の報道力が世界に認められれば、それだけ、次の情報がよく伝えられる、ということもあるだろう。

そんなことはわかっている。

でもそれは本当に大事なのか? もう一度考えて欲しい。





やさしく丁寧に、詳しく綿密に伝えること以上に、価値を作りたくなることはわかる。

でも、それは、報道側の理屈ではないか?

ほんとうにそれが最善手か?

医療を伝える仕事は医療そのものだ。

「誰よりも早く伝えること」は、報道の論理では大事なのかもしれない。わかる。

けれどもそれが医療を支えているか。

人々のためになっているのか。





医療報道にたずさわる人もまた医療者だ。

医療者は自らを守らなければいけない。自らが働きやすいように、働き続けられるように、自らをメンテナンスして、評価を集める必要がある。

けれども急がないでほしい。

詳しさが整うまで。





ぼくのこの感情が伝わらない人とは、申し訳ないが、一緒に歩きたくない。これはぼくのエゴである。エゴだから正義ではない。誰も従わなくていい。好きにすればいい。

けれどもぼくは、「医療情報を早く伝えようとする人」のことを、わりと、信用できないでいる。その感情を出力することは、誰にも止められないはずだ。たとえこの感情が、世の多くの人にとって、受け入れられないものだったとしても。

2019年12月10日火曜日

病理の話(393) 病理医が本当に足りない場所はどこか

実は最近、病理医は増えてきている。

ぼくがツイッターをはじめたのは2010年11月、病理医ヤンデルというアカウントをはじめたのは2011年4月なのだが、このころ病理専門医の数は、たしか全国で2100人程度だった。

アカウント開始当初は病理医のことを広報するアカウントを自称していたので、この数字についても何度もツイートした。だから2100という数字を、よく覚えている。

その後、『フラジャイル』の影響力のおかげで病理医の知名度はバカ上がりし、ぼくは広報アカウントを名乗ることをやめてしまった。

で、今、病理専門医がどれくらいいるかというと、なんと2500人くらいいる。

この8年間で400人も増えたのだ。たった400人、と言うことなかれ。20%以上アップしたと考えればすごいではないか。

病理専門医はもともと60歳以上の人が多い世界だ。8年間でみんな年を取った。当然退職した人たちもいっぱいいた。なのに、総数で400人増えた。増加分の大半が30代前半である。若返りにも成功しているわけだ。

病理医の世界は勧誘に成功しつつあると考えてもよいと思う。今、けっこう、人気なのだ。



ただ、現場ではまだまだ「病理医は足りない」と言われ続けている。

まず、増えた病理医の大半が都市部にいる。というか東京にいる。それ以外の地域で病理医が足りている場所は極めて限られていて、研修先として人気がある一部の病院をのぞけば、地方病院ではたとえ大学であっても十分な量の病理医がいないことも多い。

一方で、病理医がいなくても、検査センターにお願いすれば、郵送で病理診断をうけることができるので、現場ではそれほど困っていない、という話もある。

病理医は、往々にして、「いないとありがたみがわからない」タイプの仕事なので、元から病理医がいなかった場所ではニーズがあまり叫ばれない。




のんきに働いているぼくから見た個人的な感想を付け加えておこう。

今、病理医が足りないと嘆いている人がどこにいるか? 一番病理医を熱望している人はどこのだれか?

それは、臨床の医療者たち。臨床医、放射線技師、臨床検査技師など、病理医ではない人々にこそ、ぼくらは求められている

「病理医と一緒に働いた方が、自分の診療レベルはもっと上がるだろうなあ」と感じる現場の医療者たち。彼らからのニーズは非常に具体的で、強烈である。

病理学会のひとびとや、ぼくら病理医たちが、「もっと病理医が増えてぼくがヒマになればいい」と願っているのとはちょっと欲望の種類が違う。




ぼくは幸いTwitterでくだらない人間として認知されているせいか、クソリプを浴びることも多く、わけのわからないクソDMもいっぱいもらうけれど、実は、現場の臨床医療者たちから相談をうける機会もすごく多い。あまり普段こういうことは書かないようにしているけれど、多いときは1か月で20人以上から相談をうける。

その具体的な内容はこうだ。「病理医にこういうことを相談しても失礼にならないだろうか?」「遠方にいる病理医にメールを送って相談にのってもらうことは可能か?」「ぼくの論文の病理の部分を相談するとしたら誰に聞くのがいいか?」

病理医や病理研修医たちからの質問よりも、「病理医を使いたい医療者たち」からの質問のほうが圧倒的に多いのである。毎月、強いニーズに晒され続けている。




若い病理医たちがときおり悩みを語ってくれることがある。「この先病理医って食っていけるんでしょうかね」。「病理医としてどこで働いたら楽しいと思いますか」。

それに対して最近のぼくはこう答える。「病理医自身が思っている以上に、ぼくらは現場の病理ニーズに応えられていない。絶対数が少ないから、臨床の人々の疑問をとりこぼしている。病理医を名乗ってまじめに勤務して、いつでもご相談くださいという窓口をちゃんと開いておけば、必ず頼られるよ」。




もし、今、臨床の医療者たちや研究者などの「よき隣人たち」から何の声もかからないという病理医がいたら、その人はたぶん、「窓口を開けているように見えない」のだと思う。勤務先の都合、あなたの社会的なポジションなど、細かな理由はいろいろあるだろうけれど。ちょっとだけ窓を開けてみたらいい。1年もせずにあなたはそのコミュニティで引っ張りだこになる。

そして、コミュニティで引っ張りだこになる、というのが、病理医という特殊な職業のもっとも誇るべき、医療界でうらやましがられるべき特性なのである。

2019年12月9日月曜日

歩いても歩いても

脳科学の本を読んでいくと精神科の医学にぶちあたり、そこを掘り進めていったら哲学との境界がわからなくなった。

かつて、自然科学が哲学と一続きの状態でスタートし、だんだん細分化して、物理とか数学のような、一見すると哲学感の一切ない学問として特化していった、なーんていうストーリーを考えていたけれど、物理や数学を応用しながら生命科学を考え続けていたら、結局その先に待っていたのは哲学だった。ぼくなりに一周したんだなあ。

学問の世界って無限に歩き続けていられるんだけど、これって、「地球の表面積は有限だけど、球体の表面は永遠に歩いていられる」のといっしょで、実は面積的にはある程度の限りがあるのかもしれない。

そして、限りある面積の中を動き回っているからといって、同じ地点にたどり着いたらいつも同じ風景が見えるかっていうと、きっとそういうことじゃない。

たぶん、「一度たどり着いたことのある場所」というタグがついたらもうそれは前の場所でもないのだ。どこを通ってどの角度でたどり着いたかによって、見えるものはぜんぜん違う。同じ画角の中に同じ風景がおさまっていても、ぼくの脳からトップダウンされてくる情報が異なれば、見え方は変わる。




そしてきっとこの世界には地球が何億個もあるんだ。




2019年12月6日金曜日

病理の話(392) ほどよい漬物的発想で血液をつくる

人体内には血液が必要だ。全身に張り巡らせた血管の中に、機能に満ちあふれた液体を流し込んで、上水道的に栄養や酸素を行き渡らせ、下水道的に老廃物や二酸化炭素を回収している。

とんでもなく合理的なシステムだ。血液に対する依存が少々強すぎるようにも思うが。

この血液、単なる液体ではないというのは世の多くの人がとっくにご存じであろう。水を流すのとはわけが違う。





ここで突然だが漬物のはなしをする。

いまどき自分ちで漬物を漬けている人がどれだけいるのか知らないが(冷蔵庫で浅漬けくらいは作る人もいるかなあ)、漬物の作り方というか発想はいたってシンプルで、

・野菜などから水分を奪う
・ついでに塩味を加える

ことで味わいを「濃縮」し、「保存」が利くようにしている。ここで用いられている物理法則は「浸透圧と水の移動」だ。

野菜の表面に塩をふる。すると、野菜の細胞表面に「濃い塩水」が付着する(※注意:野菜も細胞からできているのだ!)。

野菜の細胞内には「塩分がほとんどない、水分」が含まれている。

野菜の細胞膜・細胞壁を境目として、外側に濃い塩水、内側にうっすーい塩水がある状態になる。

すると、浸透圧の低い方から高い方へ……。

塩気のうすい方の水が、塩気の濃い方にむかって移動するのである。細胞の中に含まれていた水分が外に出て行く。

すると野菜の細胞が水気を失ってシワッシワになる。結果的に濃縮がかかる、というわけである。




この「野菜に塩ふったら漬物になる」というのはそのまま人体にもあてはまる。変な話だが、血管の内外で浸透圧に差があると、水分が移動してしまうのだ!

たとえば毛細血管は各種の細胞と接している。このとき、細胞の中身の「塩気の濃さ」と、血管内の「塩気の濃さ」に差があれば、漬物と同じように水分が移動する。

血液がうっすーい真水に近い状態だと細胞の中にどんどん水が移動していってしまう。

逆に血液が濃いぃ塩水だと、細胞から水気がすいとられる。




もっとも血液の場合には、濃さを決めているのは「お塩」だけではない。さまざまな物質が「濃さ」に関与する。老廃物も含めてね。そして、内容物の濃さによって血管内の水分量も、ひいては人体のあちこちにある細胞内の水分量も変わる。となると、人体を漬物にしないために、あるいは水饅頭にしないために、血液の濃度を調整する臓器が絶対に必要なのだが、それがみなさんご存じの、腎臓なのであった。


2019年12月5日木曜日

書店かも

もうすぐ本がいっぱい届くのだ。ジュンク堂書店大阪本店で買った本たちが。

社会書コーナーの方のツイッターを拝見していたら、「かも書店」という企画をはじめたというので気になっていた。そして見に行った。すごいいい企画だった。一度ではとても足りない。

https://twitter.com/Dr_yandel/status/1198169370326794241

上記はぼくのツイートなのだが写真をみてほしい、というか別にツイートに飛んでもらわずとも、自分で撮った写真なのだからここに載せればいいのか。


けっこうなボリュームである。これが全部選書……。



文学、社会書、絵本、哲学、実用、科学などジャンルも幅広い。あわてて買いまくったがもちろん選書の5%も買うことはできない。

喜びよりも辛さが勝る。なんてこった。こんなにいい本がいっぱいあるのにぼくは全部読めないかもしれない。

もう出会えないかもしれない。

今買わないとあとで後悔するかもしれない。

無数のかもが飛び交った。だからかも書店なのか……(違います)(写真は許可取得済み)。




さてそんな中でもとりわけ、ぼくが今までほとんど読んできていないジャンルが、海外の作家が書いた本だ。かろうじてカレル・チャペックだけ読んだことがあるのだが、かも書店にあるチャペックの本はいずれも未読。

そもそもアガサ・クリスティの一部とコナン・ドイルの一部、そしてSFのごく一部を除くとほとんど海外の本を読んだ記憶がない。けれども子どものころの記憶を思い出せば、果てしない物語にしても、モモにしても、魔法のつえにしても、全部海外児童文学だったわけで、ぼくのルーツはそこにあるはずなのになぜ今まで手にとってこなかったのか?

自分で自分に答えを出してしまうようであれだが、たぶん最近のぼくは、本を「人で読んでいる」からだろう。作者の顔が思い浮かばない本に手を延ばす機会が減っている。誰が書いたから読む、という基準。別にそれで何もかまわないんだけど自然と日本人に寄っていってしまっていた。



かも書店の選書主である浅生鴨は海外の文学もよく読んでいると思われる。その彼の文章が好きなぼくはそろそろ海外文学を読めばいいのだ。きっとおもしろいのだから。こうやって、本屋を通じて、選書を通じて、人生が違う方に折れ曲がっていく。

2019年12月4日水曜日

病理の話(391) 虫垂の味見

たとえば、乳輪であるとか、脇毛であるとか、「それって何の役に立ってるんだよ……」っていうやつ。たぶん、ある程度の意味があって残っている。

これはもういきなりぼくの想像になるんだけれども、乳輪というのは、視力があまりよくない新生児が乳首の位置をきちんと視認するために必要だったのではないかなと思うのだ。赤ちゃんにとってバリアフリーな看板。

だったら男性には必要ないべや、と思うわけだが、人体というのはもともと女性型が基本で、Y染色体のパワーでそれを無理矢理男性に改造しているので、女性だったときの名残があちこちに残る。



脇毛とか陰毛については、毛そのものに意味があるというよりも汗腺と毛のコンビネーションに意味があるのではないか。これもどこかには書いてあるのかなと思うが、いちおうぼくの推測を書いておくと、脂分の多い汗をかく場所には毛も必要なのだと考えている。汗に含まれる油脂分で汗の出る穴が詰まってしまうと、それはニキビ(局所の感染症)になる。そこで、汗の出る穴には一緒に毛を用意しておき、毛が伸びるにつれてベルトコンベアで運ばれるように古い油脂も押し流してしまう。これ考えた人えらいな。神か。

脇とか陰部というのは、機能としてにおいを出す。元々はおそらく体調や清潔状態を伝達する上で役立っていたんじゃないかな。フェロモンみたいなものだ。そして、においって脂分なんだよね(ラーメン屋の壁が臭うのは完全にアブラだろう)。




で、そういう話をいろいろと考えていくと、虫垂にぶちあたる。小腸が大腸になるあたりでピヨッとわき道に生えている袋小路だ。なんの機能をもっているかほとんど知られていない。おまけに、一般に「モウチョウ」と呼ばれている病気の正式名称を虫垂炎というように、ここはときおり痛い病気の震源地となる。

だからモウチョウで苦しんだことがある人はたまにこう言う。

「なんで虫垂なんてものがあるんだよ。役にも立ってないくせに。」

英語でもappendix(おまけ)というくらいだ。本当に役に立っていないものだとばかり思われていた。

ただ、近年、この虫垂もまた立派にある程度の機能を果たしているのではないかと考えられるようになった。この話は何度かブログに書いているけれど、けっこう知らない人が多いのでまた書く。

虫垂の機能は、小腸から大腸に押し出されてきた食塊を「味見」することだと言われている。

シチューの味をみるときに全部飲んでしまう人はおるまい(ギャグマンガならともかく)。普通は、少しだけスプーンですくって味をみる。

それと同じように、大腸の中を流れていく食べ物の一部を虫垂がちょっとだけ拝借するのだ。そして、袋小路で検分する。小動物が巣穴に食べ物を持ち込むイメージか。

そこに何か悪いものは含まれていないか。体に対して毒性をもつものを残していないか。食べ物そのものに対して、さらに、小腸から大腸に移行する部分に住む「常在菌」たちを検分している。

虫垂には大量のリンパ球(白血球の一種)が集まってくる。ほかの腸管にくらべて、回腸の終わりの部分と虫垂にはリンパ球が多い。こいつらの機能がどうやら腸管内容物の検閲らしい、とわかって、それまで役立たずだとかおまけだとか農家の四男坊(©ブラックジャック)だとか言われていた虫垂にもけっこうな役割があるんだと言われるようになった。




味見は、慣れてくると、しなくてもよくなる。

だから虫垂をちょんととってしまったところで体調が大幅に悪くなることはない……。今のところそう考えられているし、多くの人が実際に虫垂炎などによって虫垂を手術で取ってしまう。その後めちゃくちゃに体調が悪くなったという話は聞かない。

けれどまあ虫垂は味見用のスプーンみたいなものなのだ。乳輪もそうだけど、あるものには、それなりに意味があるということである。

個人的には、手の甲、とくに指にはえた毛なんかは退化して消えて欲しいと願っているのだが……。

2019年12月3日火曜日

本嫌いと仲良くなれるかどうかという話

『断片的なものの社会学』があまりにいいのでぶっ飛んでしまった。これを書いている時点でまだ読み終わっていないが、帯に書いてあるように、早くも読み終わるのがつらい。むかし、「名作保証。」というコピーがあったが(初代MOTHERだっけ?)、そういう本である。すごい。

読み終わるのがつらい本なんてめったにない、と書こうとして止まった。そうでもないな。ぼくけっこうそういう本読んでる。最近読んだ本は当たりが多い。

こないだ、札幌にある大型の書店で面陳されていたベストセラーの中に、明確なはずれがあったのだが、ほかがいい本ばかりだったのでかえって脳内で目立っている。いまだに書名も覚えている(これは珍しい。普通はおもしろくなかった本は存在ごと忘れるのに)。

そうやって、自分に合わない本があるほうがむしろ普通だろう。でも近頃のぼくは、手に取る本がどれもこれもおもしろくて読み終わるのがつらいと毎回言っている。なんだこれは。

最近は世の中に名作しかない、ということか。

ぼくが単に今、読書がおもしろくてしょうがないだけ、つまり感動の閾値が下がっているのか。

おもしろそうな本を手に取るセンスが上がっている? うーん。

あっそうか、紹介してもらった本が多いからか。ぼくがもともと、「この人はいい本を読むなあ」と思ってフォローしている人がすすめる本なのだから、おもしろいに決まっているのだ。そうかそういうことだ。

本以外の理由で付き合いがある人に本をすすめられても当たり外れは大きい。

けれども最初から「読む本にあこがれて」ひそかにフォローしている人なのだ。その人がいいと思う本は高確率でおもしろい。

なあんだ。解決した。

これもひとつの中動態かなあ。能動的におもしろい本を選んでいると思っているのは自分だけ、みたいな感じ。




近頃はあまり教科書を読んでいない。購読している学術雑誌は読んでいるけれど、医学書のたぐいをきちんと通読する回数が減っている。職能がさびつくのはいやだ。けれども、「いい医学書」をすすめてくれる人の数があまり増えない。

だからツイッターで「いい医学書」を読んでいる人を探してフォローするようにした。たまにいる。

ほかにも「いい社会学書」とか「いい童話」とか「いい詩」とか「いい写真集」などを紹介している人もフォローするのだけれど……。

そうすると今度は、「あまり本を読まない人の意見」が入って来づらくなって、エコーチェンバー現象化するのである。まったく世の中ってのは難しいよな。どうやっても偏るようにできている。

2019年12月2日月曜日

病理の話(390) 液体と固体を生命の中で使い分けることについての雑感

これまだぜんぜん考えがまとまってないんだけど、書き始めてみる。

人体内には固体と液体と気体が混じっている。あたりまえやんけ。

でもこれ意味があると思う。




常温で固体である物質だけで大部分を作り上げれば、強固じゃん。

たとえば骨格にしても。筋肉にしても。脂肪にしても。

しっかりとそこに定着して、何かの構造をなす。

上皮細胞の中にはサイトケラチンという梁が通っている。間葉系細胞の中にもビメンチンという梁がとおっている。どっちも2倍にすると楽しいけれど今日の要点はそこではない。

細胞の中に梁がわざわざ存在するというのは、つまり、「何かを固く保つこと」で、なんらかの意味ある構造物を作り上げることが人体にとって極めて重要だ、ってことだ。




けれどそれだけじゃないんだね。人体の中には液体もある。血がそうだ。胃液や腸液もそうだ。膵液とか胆汁もそうだ。汗も出る。

これらはどうしても必要なのだ。なぜ必要なのだろう? 固体だけで人体が保てない理由はなんだ?

※ぼくがいいたいのは、「水分」の話ではなくて、「わざわざ流れて失うかもしれないもの」を人体が必要として使っているのはなぜかってことです。骨の中にも水分は含まれているよとかそういうことを言いたいわけではない(言ってもいいんだけどさ)。




まず、固体よりも液体のほうが、輸送がラクなんだね。栄養とか。酸素とか。

固体どうしが何かをやりとりするためには、基本的に、手渡ししかない。これだとスピードが遅いしエネルギーも使いすぎる。一方、液体ってのは勝手にしみこんだり拡散したり流れ出したりするから、うまくコントロールさえできれば、多くの物資をいっぺんにスピード速く運ぶことが出来る。

たぶんこの「情報のやりとり」ってのがすごい重要。

高い所から低いところへ。浸透圧の差に従って。ポンプを使っていっぺんに。蠕動(ぜんどう)を使って押し出して。

これだけでものすごい数の情報がやりとりできる。固体ではこうはいかない。

おまけに、液体に溶け込む電解質(イオン)を用いることで、電気的な力(電位)を情報として用いられるというのもでかい。筋の収縮とか。神経伝達とか。これらは液体が関与することではじめて利用できる。

生命は基本的に最初は海にいたので、発祥をさぐると、周りが液体だったところを固体で囲んで(膜で囲うことで)スタートしている。だから生命の中には液体が閉じ込められた。そして、とっくに陸に上がった今も、液体を利用して情報交換をしている。

陸に上がってからも、液体を利用した情報交換の部分はなるべくそのままにしている。こんな便利なシステムを捨てる必要がないからだろう。

ただしひとつだけ、陸に上がった後に、液体を使っていたやりとりをやめた場所がある。勘のいい人だとなんとなくおわかりかもしれない。




それは、肺だ。呼吸。ここは液体を使うのをやめて気体にした。

たしかに気体のほうがはるかに拡散速度が早い。液体を閉じ込めておかなくても気体の出入りさえ確保すればいいんだもんな。液体を用いようと思ったら穴はふさがないといけない(血管から常に血が流れ出ていたら死んじゃう)。けれども気体を用いれば穴をふさがないほうがいい。こっちのほうが便利だ。

でも気体でやりとりできるものには限りがある。まあ酸素とか二酸化炭素くらいしかうまく使えない。だからそれ以外のものが肺に入ってくる前に、ニオイで簡易的に選別できるようにはなっている。あと、イオンとか栄養を溶け込ませることも基本的にできない。




物体の三相を使い分けることで生命はなんかいろいろうまくやっている。自分を保っている。昨日までの自分を今日も保つこと(ホメオスタシス)。




あーこの話はまだまだ掘れそうだけどいったんここまでにしとく。